2012年03月09日

”今白隠”玄峰老師の真実

 太平洋戦争末期、もはや絶望的な状況になりつつあるこの戦争のゆく末に政府首脳はすべからく、頭を悩ませていた。このまま突きすすめば、日本という国はまちがいなく滅ぶ。しかし「本土決戦」「聖戦完遂」の大合唱のなか、戦争を止めよとか、降伏すべきと公言するものは朝野に皆無だった。ただひとり、禅僧・山本玄峰老師を除いては―。
 小磯国昭内閣のあとをうけて、天皇より総理大臣の内示をうけていた海軍大将・鈴木貫太郎は三島・龍沢寺に使いをやり、臨済宗僧侶・山本玄峰に会いたい旨を伝えた。そして昭和20年3月25日、赤坂の旧乃木邸の向かいにあった内田眼科病院の内田博士の邸宅でふたりは密かに会った。これは、玄峰老師の弟子で秘書でもあった田中清玄の自伝(『田中清玄自伝』文芸春秋・1993年刊)ではじめて世に出た事実である。
 このとき、鈴木はこう言った。
 「実は今、私は陛下から大任を命ぜられようとしています。しかし、私は政治は嫌いです。『武人、政治に関与すべからず』という明治陛下の御勅語を金科玉条としてきた者としては、その信念に反することにもなり、どうしたら良いものか、非常に悩んでおります」
 すると老師は次のように応えた。
 「あなたは日常の政治家ではないし、総理になる人でもない。総理になる者は、世の中の悪いことも、いいこともよく知っていて、いいことに尽すことのできる人です。あなたは純粋すぎる。しかし、今はそういう人こそが必要だ。名誉も地位もいらん、国になりきった人が必要だ。あなたは二・二六で、一度はあの世に行っている方だ。だから生死は乗り越えていらっしゃる。お引き受けなさい。ただし戦争を止めさせるためですよ」
 この瞬間から、鈴木貫太郎の戦終工作がはじまった。もっといえば、この瞬間に、尽きかけていた日本の命運は首の皮一枚でつながったのである。
 8月14日の最後の御前会議、鈴木首相は日本の無条件降伏を主旨としたポツダム宣言受諾の是非を6名の大臣らに諮り、結果は賛否3対3となる。最後は天皇陛下の聖断を仰ぐ形に、鈴木はもっていったのだ。そして天皇は、即座に受諾を宣する。鈴木(と天皇)の終戦工作は、ここに見事に完結したのである。
 その後も、玄峰老師は鈴木首相を通して天皇にさまざまな示唆をあたえる。天皇の肉声による終戦の詔勅「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び…」は玄峰老師の授けた言葉であり、戦後の幣原喜重郎首相に「象徴天皇制」の案を授けたのも老師だったといわれる。
 戦時下、老師の下には米内光政(海相)、吉田茂(首相)、安倍能成(学習院院長)、岡田啓介(首相)、岩波茂雄(岩波書店社長)など軍に反対の立場をとる人物が大勢出入りしたが、老師が自らもとめて会ったのは鈴木貫太郎ひとりだったという。ついでにいえば、東條英機(首相)が人を介して面会を求めてきたときは、「お会いしても無駄じゃろう。東條さんは、日本の大黒柱じゃ、アジアの大船じゃと、我慢や我見にとらわれたままわしに会っても、とてもわしの言うことは分からんじゃろう」と断っている。
 山本玄峰は、和歌山県の湯の峰という山奥の温泉郷の温泉宿「芳野屋」の子として慶應2年(1866年)に生まれた。理由はさだかではないが、生れ落ちるとすぐに捨てられ、仮死状態のところを地元の素封家、岡本善蔵・とみえ夫妻が拾い、育てたといわれている。芳野屋で生まれた子ということで、岡本芳吉と名付けられた。
 芳吉は体がよわく、4歳ごろまで歩くこともできず、どこに行くにも母がおんぶした。しかし次第に感のするどさ、敏捷さをそなえる少年に育ち、厳父・善蔵は芳吉の性質を慮って妻帯をすすめ、19歳の若さで結婚させた。ところが、このころに芳吉は原因不明の眼病に罹り、ついにはほとんど失明寸前まで悪化する。わかい芳吉は絶望し、投身自殺を図ろうと華厳の滝、足尾銅山、越後にまで放浪したこともあった。
 それでも苦しみは消えず、芳吉は四国霊場巡拝の旅を思い立つ。来る日も来る日も、ただひたすら四国八十八ヵ所を巡る孤独な旅。のどかなお遍路さんではない、死に場所をもとめての苦行である。その7度目の遍路の途上、ついに三十三番札所、土佐・長浜の雪渓寺門前で力尽き、行き倒れてしまう。明治22年、芳吉24歳のときである。
 臨済宗妙心寺派・雪渓寺(高知市長浜)は長宗我部元親の菩提寺でもある名刹で、かつてこの寺の住職だった天室は土佐南学の祖、その門から野中兼山、谷時中など錚々たる人物を輩出した。しかし明治維新になると廃仏毀釈の嵐がふき荒れ、土佐はとくに狂信的で寺には石が投げ入れられ、仏像は焼かれ川に捨てられた。ほとんどの寺は廃寺となり、子どもは僧侶に石を投げつけたという。そのとき、身を粉にして雪渓寺を復興させたのが、山本太玄和尚だった。
 太玄和尚は行き倒れた青年芳吉に出家をすすめた。「私は盲目にひとしく、文字も知りません」という芳吉に、「心の眼は一度開けばつぶれることはない。死んだつもりになれば、本当の坊さんになれる」と諭し、仏門に入れる。その後、芳吉は修行ぶりを見込まれて山本太玄の養子となり、山本玄峰として太玄のあとを継ぎ雪渓寺の住職となるのである。玄峰は晩年、生涯17回にも及んだといわれる四国霊場巡拝について、こう述べている。
 「寒中の寒さは何とかなる。わしは寒中に四国霊場参りを7回も8回も裸足でやった。寒中の氷の中、雪の中を歩くのはどうにかやっていける。歩くほど温もってくるし、つらいとも思わん。しかし、暑いときに砂利が道などに敷き込んであるところを歩くと、全身にこたえる」(『玄峰老師』高木蒼梧編)
 雪渓寺に拾われてから二十年後、玄峰は43歳で雪渓寺を太岳和尚に譲り、全国の名だたる禅僧の下でふたたび修行に励む日々を送るようになる。そして50歳で、山岡鉄舟が3年間参禅した白隠ゆかりの龍沢寺(静岡県三島市)を復興させて住職となる。
 自らに想像を絶する苦行を課す玄峰老師のこと、寺での修行のきびしさは尋常ではなく、性根の座った雲水でもしばしば逃げ出すほどだった。また読経の声は太玄和尚に認められただけあって全堂を震わすほどで、老師の「馬鹿者ッ!」の一喝で卒倒して気をうしなった僧侶がいたというから凄まじい。
 しかし一方で、“今白隠”といわれた春風駘蕩たる人柄にふれるため、全国からひきもきらず人があつまった。老師は常々、「わしの部屋は乗り合い舟じゃ。村の婆さんもくれば乞食もくる。大臣もくれば共産党もくる。皆同じ乗り合い舟のお客様じゃ」といい、相手がだれであれ、まったく分け隔てをしなかった。修行者には無類の厳しさで望んだが、深奥には大海のようなやさしさを宿していた。
 また、酒をこよなく愛し、そしてなによりカネや権威に恬淡としていた。宗教界も俗世間とかわりなくカネと名誉の世界、その意味でも最高のポストとされる妙心寺派管長になってほしいと京都本山の人たちが龍沢寺に押しかけてきたときも、玄峰老師は「迷惑だ」と取り合わなかった(結局は断りきれず1年間だけ引き受けることになる)。
 昭和35年(1961年)暮れ、95歳の老師に最期のときがおとずれようとしていた。
 11月末に発病、死をさとった老師は東京・谷中の全生庵(山岡鉄舟菩提寺)で断食をはじめた。病床での断食3日目、弟子の田中清玄が「生きてください」と話しかけると、いきなり病人ともおもえぬ力で殴りつけ、「禅坊主の死に方を見せてやる!」と怒声を浴びせたという。しかし断食は大晦日で止め、正月がくると、お気に入りだった伊豆竹倉温泉の伯日荘へ行き、そこを死に場所と決めた。
 そしてこの半年後の6月5日、玄峰老師は一杯の葡萄酒をうまそうに飲みほすと、「旅に出る。着物を用意しろ」と短く言って、天に召された。96年の見事な生涯であった。
    Text by Shuhei Matsuoka
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2012年02月07日

龍馬像秘話

 高知市桂浜の龍頭岬にそびえたつ坂本龍馬像は、高知の観光名所のいわば横綱である。像の高さは5.3m、台座をふくめれば13.5mあり、和装に革靴の龍馬が懐手をして遠く太平洋をのぞむ雄大な姿は印象的だ。
 製作者は日本近代彫刻の父といわれる高村光雲の愛弟子で、銅像では第一人者といわれた高知出身の本山白雲である。除幕式はいまから84年前、昭和3年(1928年)5月27日に行われた。
 白雲の作品は、じつはほとんど残っていない。太平洋戦争中、国家総動員法により金属供出が義務づけられ、庶民の鍋釜はもちろんのこと、全国の寺の梵鐘、学校の二宮尊徳像、戦国武将や明治の元勲の銅像などはことごとく撤去、没収された。東京・万世橋にあった軍神第一号の広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像ですらも例外ではなかった。白雲の作品は伊藤博文や板垣退助など明治の元勲たちが多く、ほとんどすべてが溶かされて銅塊となってしまったのである。高知城に立つ白雲作の板垣像も、戦後再建されたものだ。
 しかし桂浜の龍馬像と室戸岬の中岡慎太郎像(昭和10年建立)は生き残った。上野の西郷隆盛像同様、奇跡的に供出をまぬがれた例外中の例外なのだ。海援隊長の龍馬が「海軍の創始者」、陸援隊長の慎太郎が「陸軍の創始者」とみなされたことがその理由とされる。
 ちなみに上野の西郷像の方は原型木彫を白雲の師、高村光雲が製作した。銅像建立の発起人は西郷の友人・吉井友実で、高知に縁のふかい歌人・吉井勇の祖父である。明治31年、ときの総理大臣・山県有朋ほか西郷従道、勝海舟、谷干城、山本権兵衛、大山巌、樺山資紀、東郷平八郎ら8百余名が参列し、盛大に除幕式が執りおこなわれた。西郷は日本初の陸軍大将でもあり、昭和の軍部もさすがにこの銅像を鋳つぶすことはできなかった。
 余談だが、昭和19年、空襲が激しさを増すなか、白雲は破壊された明治の元勲たちの原型を一体一体、自ら素手で叩き割ってしまったという。そのそばで妻はしずかに合掌していたと、白雲の娘がのちに述懐している。全身全霊を傾けた作品群を、家族の目のまえで叩き割っていく芸術家の無念はいかばかりであったろうか。
 さて、龍馬像である。名だたる彫刻家・本山白雲に銅像製作を依頼してきたのは、なんと若干21歳の早稲田の学生だった。高知県南国市生まれ、名を入交好保(よしやす)(1903〜1996)という。巨大な龍馬像の建立は、一学生のいわば退屈しのぎからはじまったプロジェクトだったのだ。
 坂本龍馬は昭和40年代に『竜馬がゆく』(司馬遼太郎著)で一躍有名になるが、それまでの知名度はひくく歴史教科書にも出てこなかった。とくに明治期は、一部の元志士以外にはほとんど知られていなかったという。その名がはじめて世に出たのは、明治37(1904)年のことである。日露戦争前夜、ロシアとの海戦の行方に気をもむ皇后陛下の夢枕に白装束の武士が立ち、「心配はいりません。私が日本海軍をお守りします」と語ったという“事件”がきっかけだった。ときの宮内大臣・田中光(みつ)顕(あき)が「白装束は土佐海援隊の制服。それは間違いなく坂本龍馬です。このような人物ではなかったですか」と龍馬の写真を皇后に見せたところ、「たしかにこの武士でした」と認めたというのだ。この話が雑誌や新聞に出て、ちょっとした龍馬ブームがおこった。
 土佐人の田中光顕は佐川の下級士族のうまれで、わかいころ脱藩して長州にわたり、高杉晋作の腰巾着になった。高杉の病没後、中岡慎太郎に仕えて土佐陸援隊の副隊長として国事に奔走、京都・近江屋で坂本と中岡が暗殺された直後、谷干城らとともに真っ先に駆けつけ、まだ息のあった中岡の聞きとりをおこなったことで知られる。司馬遼太郎にいわせると「典型的な二流志士」なのだが、たまたま長命し(97歳まで生きた)、おかげで伯爵にまで栄進した。運のいいおとこだった。
 一方、明治36年うまれの入交好保は子どものころ、皇后の夢枕に立ったといわれる龍馬の話を親から聞いていたという。そして長じてのち、真山青果の戯曲『坂本龍馬』の上演を見て、知られざる郷土の傑物に心酔するようになった。そこで、どうせ気楽な学生身分、退屈しのぎに一丁、日本一おおきな龍馬像でもつくってやろうじゃないかと思い立ったのだ。土佐人らしい盛大な“稚気”である。さっそくかれは高知の同級生3人に呼びかけ、龍馬像プロジェクトが動きはじめる。
 しかし資金も信用もない学生だけでは募金活動もままならない。そこでかれらは、だれもが納得する看板として三菱・岩崎家に白羽の矢を立てた。龍馬と岩崎弥太郎の関係を考えれば真っ先に寄付金を出してくれるはずだ。だがその目論みは、ものの見事に外れる。東京の岩崎家の門を叩いたが、剣もホロロに門前払いをくわされたのだ。
 好保はしかし、あきらめない。今度は高知財界のリーダー格、野村茂久馬に会いに行き、説得して「坂本龍馬先生銅像建設会」の会長を引きうけてもらう。四国の交通王といわれた野村は当時、中央にも名の知れた大物だった。そして次に、人を介して土佐派の重鎮、田中光顕に会いにいくことにした。田中は畏敬する龍馬の死を間近に見、日露戦争に乗じて龍馬の名を世に知らしめた天下の伯爵だ。これ以上ない大看板になる。
 大正15年10月3日、好保青年は静岡県蒲原(かんばら)に隠棲していた86歳の田中を訪ねた。好保が銅像建設のあらましを説明すると、田中は次のようにいったという。
 「そうか、それは妙じゃのう。日本一の銅像を桂浜に建ててくれるか。青年だけの力でのう。坂本もなんぼか嬉しかろうのう。活動写真も作るか。そりゃ見たいのう」(入交好保著『忘れ得ぬ人びと』)
 活動写真というのは、好保自らが書いた脚本を有名俳優の阪東妻三郎に見せ、阪妻主演で龍馬の映画を製作する了解を取りつけていたことを指す(後に完成し上映される)。
 好保は田中邸に一泊しておおいに歓待され、銅像建立の後ろ盾となる確約を得て意気揚々と帰高する。野村茂久馬だけでなく田中光顕といった大物を担ぎ出した好保らの行動力にひとびとは驚き、さらには秩父宮殿下から2百円の御下賜金があったことで、募金活動そのものを不許可にした県(行政)も掌(てのひら)を返して協力を申し出てきた。はたして募金は順調に増え、2万5千円(現在の5千万円程度)の建設資金は難なく集まった。
 おもしろいのは、好保らの活躍ぶりを聞きおよんだ岩崎男爵家から突然、5千円の寄付申し出があったことだ。好保はすぐさま東京におもむき、「ありがたいですが、すでに資金は集まったので辞退いたします。そのお金はいずれ高知県のためにお役立てください。それまでお預けしておきます」と言い放ったという。快男児入交好保、渾身の意趣返しだった。
 そして昭和3年5月、本山白雲作の「坂本龍馬像」はついに完成した。巨像ははるばる東京から鉄道と船で運ばれ、同年5月27日(海軍記念日)に無事、除幕式を迎えることができた。帝国海軍は軍艦を土佐湾に派遣して祝砲を撃ち、陸軍もラッパを吹いて捧げ銃で祝した。総理大臣ほか各大臣から祝辞がとどき、それは盛大なものとなった。
 銅像の後見人ともいえる88歳の田中光顕も老体をおして高知に足をはこび参列、切々と祝辞をよむ老志士の目は感涙であふれたという。維新前夜に無念の死をとげた龍馬にひきくらべ、子分格の自分が長命して栄達したことへの贖罪の涙でもあったろう。
 入交好保はその後、労働運動や社会運動に投じ、昭和12年からは10年間にわたり満州で事業家として奔走する。戦後は高知にかえり、昭和27年には社会党から衆議院選挙に出馬するも吉田茂、林譲治らに敗北。その後は事業家として、また「考える村」(安芸郡芸西村)の創設者として社会改革への情熱を燃やし、平成8年に93歳で世を去った。
 龍馬に似て、土佐にあだたぬ(収まりきれない)漢(おとこ)であった。
                 (了)
         Text by Shuhei Matsuoka
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2011年11月14日

天与の漂流者

 日本の「近代」は、嘉永6年(1853年)のペリー来航にはじまるとされる。
 かれの率いる4隻の黒船の出現とともに、この極東のちいさな島国は、自らの意図せざる「近代」へと一気に踏み出していったのである。
 そしてここにもう一人、日本に「近代」をもたらした重要な日本人がいることをわれわれは忘れてはならない。マシュー・ペリーの母国、アメリカで日本人初のホームステイをして当地で教育を受け、英語はもちろんだが航海術、造船術、物理学などさまざまな高度な知識を身につけ、偶然にもペリー来航の前年という絶好のタイミングに帰国した男。
“ジョン万次郎”こと、中浜万次郎(1827〜1898)である。
 土佐中ノ浜(現土佐清水市)の貧しい漁師の家にうまれた万次郎は、14歳のとき宇佐の港を出て出漁中に黒潮に流され太平洋上を漂流していたが、運よく5名がアメリカの捕鯨船に助けられ、そのまま船員となり鯨を追って世界中を回ることになる。そして年少で聡明だった万次郎をことのほか気に入った船長は、彼ひとりをアメリカ本土に連れかえり、親切にも立派な教育をうけさせてくれるのである。そして11年を経て万次郎は故国に帰着するのだが、当時の日本はいうまでもなく厳重な鎖国政策をとっており、打首(うちくび)でもおかしくない身である。だが取り調べを受けるなかで、ときの英邁な権力者や学者、時代の先端を疾駆する俊才たちが万次郎の知識、能力、センスにただならぬものを感じ、たちまちかれはひっぱりだこになってゆく。
 万次郎に会って多大な影響をうけたひとびとは数知れず、有名どころだけでも、老中阿部正弘、勘定奉行川路聖謨(としあきら)、薩摩の島津斉(なり)彬(あきら)、土佐の山内容堂、佐賀の鍋島閑叟(かんそう)、江川太郎左衛門、勝海舟、佐久間象山、坂本龍馬、福沢諭吉、吉田東洋、後藤象二郎、中村敬宇、榎本武揚(たけあき)、大鳥圭介、箕作麟(みつくりりん)祥(しょう)、大山巌と数えあげればきりがない。かれらは万次郎の話をむさぼるように聞き、スポンジが水を吸うように「西洋」を吸収していったのである。そしてペリー来航は、まさにこの最中におこった出来事だった。
 かれがただの漂流者でなかったことは、このような当代一級の人物たちと対等にわたり合い、アメリカからもちかえった西洋文明を過不足なく解説する才覚によくあらわれている。幕府のもとめに応じ、造船術や航海術を教え、最新のアメリカ航海学書の翻訳をして日本海軍の礎を築いたのも、じつは万次郎なのである。そしてきわめて異例のことだが、漁師生まれというひくい身分にもかかわらず、万次郎はなんと直参旗本に抜擢され、苗字・帯刀をゆるされて正式に中浜万次郎を名乗るよう命ぜられるのである。
 かれがもし土佐の漁師のまま生活をしていたなら、このような能力はもちろん開花しようもなく、それよりなにより日本の近代はまったくちがった経過をたどった可能性すらある。それほどに万次郎の存在は一種奇跡的なものであり、かれは日本にとって天与の漂流者となったのである。
 評論家の大宅壮一は、かれ一流の表現で万次郎の一件をこう述べている。
 「(万次郎のように漂流民が大きな才能を発揮するというのは)これを発揮した個人のものというよりは、彼の属している民族そのものがもっている潜在的能力が、偶然の機会に露呈したものといえよう。たとえていうと、それは製品の“抜き取り検査”のようなものだ」(『炎は流れる2』文芸春秋新社)
 つまり大宅は、このころの日本は世界的にみてもその潜在能力がきわめて高く、アトランダムな“抜き取り検査”でえらばれた万次郎がその証だというわけだ。
 マクロ的にみれば、たしかに大宅のいうとおりにちがいない。しかし、ミクロ的にみれば、偶然にも漁民・万次郎という素材がことのほか秀でていたこともまた論を俟(ま)たないであろう。かれはアメリカの学校を首席で卒業するという秀才に育ち、その才智をもって新興国・アメリカのライフスタイルや社会制度などを正確に日本に紹介したのである。かれは英語をたくみにあやつるだけでなく、いわば稀代の知識人になっていたということになるだろう。これは、だれかれのなせるわざではない。
 たとえばのちに維新回天の立役者のひとりとなる勝麟太郎(海舟)は、万次郎から「かの国では高い身分、位に就いた者は、いよいよ賢く考え、振る舞いはいよいよ高尚になります。この点、日本とは天と地のちがいがありましょう」と聞き、膝をうった。万延元年(1860年)に二人は咸臨丸に乗り太平洋をわたることになるが、帰国後に勝は江戸城に呼ばれ、居並ぶ幕閣から「アメリカとはいかなる国か」と問われる。そのとき勝はじろりとかれらを見わたし、万次郎から聞いたそのままを披瀝して場を白けさせた。目の前に雁首をならべる無能の幕閣らを、勝は思い切り皮肉ったのだ。
 万次郎の孫・中浜明が著した『中浜万次郎の生涯』(冨山房)によれば、勝の弟子である坂本龍馬も、勝に紹介されて江戸で万次郎に会っている。それまでにも龍馬は、土佐で万次郎の聞き取りをおこなった河田小龍からアメリカ事情を間接的に聞いてはいたが、直接万次郎の謦咳に接し、この衝撃はのちの「船中八策」に結実する。
 ついでに咸臨丸がらみでいうと、万次郎、勝とともに咸臨丸でアメリカに渡った福沢諭吉も、万次郎にはおおいに啓発され、世話にもなっている。憧れのウェブスターの辞書を手に入れるのが夢だった諭吉は、万次郎にともなわれてサンフランシスコの本屋でこれを買いもとめて日本に持ちかえった。のちに日本近代を代表する思想家となる福沢の若く鋭敏な感性に、7つ年上の万次郎の存在はおおきく影響をおよぼしたのだった。
 前出の大宅はまた、万次郎の存在にこんな興味深い視座もあたえている。
 「のちに土佐の藩論ともなった『合議政体論』をはじめ、明治初期の日本を風靡した自由民権思想は、万次郎のもたらしたアメリカ式デモクラシーとつながっている。つまり、漂流者万次郎が、アメリカからもってかえったデモクラシーの一粒のたねが、まず土佐でまかれ、それが日本的民主主義として成長し、明治二十二年の憲法発布、二十三年の国会召集となって、いちおう実を結んだということになる。さらに進んで、明治四十三年に『大逆事件』をおこした幸徳秋水にまでこれが尾をひいていると見られないこともない」(同)
 これにすこし補足をくわえれば、もともと土佐は山内家家臣の上士と旧長宗我部家臣の郷士(下士)との身分差別が異常にはげしく、郷士階級の身分制度への憎悪と平等社会への憧憬は地下マグマのように鬱積(うっせき)していた。そこに、万次郎がアメリカ式の自由・平等思想をもちこんだことで、たちまちこれに引火して自由民権運動が勃発したということになろう。そう考えれば、なぜこのムーヴメントが土佐にうまれ、中江兆民、馬場辰猪、植木枝盛、幸徳秋水らの民権思想家が澎湃(ほうはい)として世にでたのかも、理解しやすい。
 さて、幕末から明治維新にかけてまさに八面六臂の活躍をした万次郎だが、明治に入ってからは東京帝国大学の前身である開成学校の教授に四十代で任命されたのが、いわば最後の栄進で、その後はほとんど要職にもつかず寂しい晩年をすごすことになる。もともと名や利をもとめぬ質朴な性質であったこともあるが、明治になると海外渡航者もふえてかれの希少価値は次第にうすれ、その役割を徐々に終えてゆく。
 気がつけば巨大な時代の波に翻弄され、もとめに応ずるままに日本国中あちこちに赴いては西洋文明やアメリカ式民主主義を紹介し、通弁(通訳)をし、英語本の翻訳をし、航海術や造船術をおしえ、混迷する日本にたしかな道筋を示しつづけたジョン万次郎。天がこの男をえらび、“近代への羅針盤”として激動期の日本社会へ差しむけたのだとすれば、天の見立てはじつに的確だったということになるだろう。
      Text by Shuhei Matsuoka
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2011年09月28日

厄介な事実

 イデオロギーや思想はもともと、人びとをして酩酊せしめるアルコール様物質を内包している、とはよくいわれることである。おそらくはその物質の作用により、あるいはそれに引火してファナティズムの渦がおこり、革命や戦争が企図され、おおきな蛮勇がうみだされて実行されることになる。そして時代が突如としてうごき、歴史の転換点を形成することになる。
 いっぽう、サイエンスやテクノロジーは、イデオロギーや思想とは対極にある。すくなくとも、世間ではそう思われている。イデオロギーや思想などの恣意的であいまいな―構想した本人はそうはおもってないにしろ―ものを排したあとの更地に論理と冷厳さで組み上げたものが、20世紀以降のサイエンスでありテクノロジーであろう。だからこそ、安んじて信ずるに足るものと人びとは思いこんできた。
 しかし、どうやらこれは完全な錯誤であったようだ。
 まもなくヒロシマに落とす予定の原子爆弾「リトル・ボーイ」を前に、屈託のない笑顔をみせるアメリカ人科学者たちの姿を写真でみたとき、わたしは確信をおぼえた。イデオロギーや思想とおなじように、科学もひとを無条件に陶酔させるアルコール系の物質をもっているのではないか。写真のかれらは決して悪魔ではない、ふつうの善良なアメリカ人なのだ。アメリカが科学の粋をあつめてつくりだしたこの原子爆弾により、まもなく大勢の無辜の民が一瞬のうちに消滅することをかれらは識っている。それでいて、あの屈託のなさだ。米政府の「この犠牲は、よりおおきな犠牲を未然に防ぐためのものだ」という巧みな喧伝文句をかれらが信じていたにしろ、あの無邪気な笑顔をわれわれは納得してみることはできない。
 そしてフクシマは、わたしのこの確信をさらに強固にした。
 「原子力の平和利用」という、それはそれは美しく真あらたしい言葉が第2次大戦後の、いやヒロシマ、ナガサキ後の世界中の科学者を夢中にさせた。開発者のアメリカは、植民地にひとしい属国の日本をゲンパツ産業の有力なマーケットとし、うつくしい言葉でコーティングしておおいに夢をかきたて、GEなどのアメリカの重電メーカーは技術輸出により莫大な利益を得ていった。人類史上、もっともおぞましく下劣な兵器であるゲンバクを落としたアメリカは、その被害者の日本がゲンパツの有力な市場になりうることを発見するや、あろうことかこの小さな島国の、それも頻繁に地震や津波が襲う災害大国の日本をゲンパツ大国にすることにしたのだ。当時の自民党政権はその企図に乗り、政・財・官癒着構造のなかで、膨大な税金がゲンパツ産業に投入され、闇から闇に消えていった。
 あたらしいエネルギーを人類にもたらす夢のテクノロジー…。人類のために役立つのがサイエンスでありテクノロジーであろう。だからこそ、一部の覚醒した市民や活動家をのぞき、ほとんどの人びとは一片の疑念ももたず、科学者たちは原子力発電所づくりに熱中していった。戦後の数十年間、地球上の人類は、そのような一種ファナティックな共同幻想のなかにあったのだった。そしてほどなくして酩酊状態から醒め、解ってきたことは、とんでもなく厄介なところに人類は足を踏み入れてしまった、という事実だった。
 原子力は、たしかに他の発電方法にない利点をもっていた。しかしそれとは比べようもないほどのおおきく根源的な欠陥が判明してしまった。ここから生み出される放射能を、人間は絶対にコントロールできない、という怖ろしいほどシンプルで冷厳な事実だ。ところが、恣意性やあいまいさを嫌うはずの冷厳な科学者たちがなぜか(政治家、電力会社、ゼネコンといった受益者たちは言わずもがなだが)、その「厄介な事実」を正視しようとはしなくなった。そしてひたすらテクノロジーの陥穽に自らを導き、結果、逃げ場のない島国・日本の国民全体を巨大な危険のなかに投入してしまったのである。
 科学者たちは、言わでものことだが、もともとは悪意のない、善良な市民だ。しかし、「リトル・ボーイ」の前の無邪気なアメリカ人科学者同様に、このまま進めばどうなるのかという、だいじな想像力を欠いていた。もちろん、きわめてまれに、その想像力を持ちあわせ、ゆえに傍流に追いやられた不遇な、しかしきわだって誠実な科学者はいた。だが圧倒的多数は、そうではない。ということは、この問題の本源はゲンパツ科学者に帰する、とするのは少々酷なことなのではないか、とさえ思えてくる。つまり、サイエンスやテクノロジーそのものにあらかじめ神がビルトインした何者かに帰すべきものではないのか。ひとをファナティック(狂信的)にし、厄介な事実から目をそむけるよう作用する何者か―。
 ラ・ロシェフコーはかつてこんなことを言った。
 太陽と死は、長くは見つめていられない―
 ここにもうひとつ、「厄介な事実」をくわえるべきなのだろうか。
  Text by Shuhei Matsuoka
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2011年07月25日

クラーク先生と土佐ボーイズ

 すぐれた教育者は、ときとして奇跡のような成果をうむことがある。
 たとえば幕末日本の吉田松陰、緒方洪庵などは、その好例であろう。長州萩城下の松陰の私塾「松下村塾」は高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎などを、大坂の蘭方医・緒方洪庵の私塾「適塾(適々斎塾)」は福沢諭吉、大村益次郎、橋本左内、大鳥圭介、箕作秋坪、長与専斎などを輩出した。
 ちいさな私塾が、ほんの短いあいだにこれほど大量のキラ星のような人材をうみだした不思議にわれわれ現代人はただただ感嘆するばかりだが、明治のはじめに北辺の未開地、北海道でおこったできごとも、紛れもなくそのひとつにちがいない。
 明治9年8月、蝦夷から北海道と改称されたばかりの北の大地に、東京帝国大学よりも1年先んじて日本初の4年制の大学(カレッジ)が生まれた。北海道開拓使がおおきな期待をよせて設立したエリート校、札幌農学校(現北海道大学)である。
 僻遠の地であることにくわえ、政府機関である開拓使のトップが薩閥の実力者・黒田清隆(陸軍中将参議開拓長官、のち総理大臣)であったことも手伝い、当時の北海道は一種独立国の雰囲気があった。そのためか、この学校はすべてが異例づくめだった。学生は授業料ほか住居や食事などいっさいの費用が不要なばかりか、夏服、冬服、靴も支給され、散歩料の名目で週10銭の小遣いまで支給された。また学内には縫製師、靴師、パン焼き職人、コックなどが一緒に暮らし、先生と学生の日常生活のすべてをサポートした。卒業後5年間は開拓使で働くことが義務付けられていたとはいえ、当時としては破格の待遇といっていいだろう。また教授はすべて米国人で授業は英語で行われ、ついていけない者は容赦なく落第、退学させられた。
 この初代学長として招聘(しょうへい)されたのが、南北戦争歴戦の勇者で科学者でもあったマサチューセッツ州立農学校校長のウィリアム・S・クラーク(当時50歳)である。
 クラーク博士の名は、「青年よ、大志を抱け(Boys ,be ambitious!)」であまりに有名だが、この小規模のあたらしい農学校から平和主義者で思想家の内村鑑三、名著『武士道』などの著者で国際連盟事務次長となった国際人・新渡戸稲造、日本の近代土木工学の基礎を築いた広井勇、世界的植物学者の宮部金吾らおおくの傑出した人材を輩出したことは何にもまして驚嘆の一言である。
 ただ意外なことに、クラークの任期は第1期のわずか8ヶ月間でしかなく、かれの謦咳(けいがい)に接したのは1期生の16名だけだった(2期生の内村や新渡戸はクラークに遇(あ)っていない)。つまりかれはわずか8ヶ月で、まだサムライ気分の抜けない粗削りな青年たちをジェントルマンに変貌させ、未開の原野に見事な伝統校をつくりあげたのである。
 札幌に着任したクラークはまず、日本の学校にやたら細かな規則があることを知り、そのいっさいを廃止することを黒田に認めさせた。そのかわり、ただひとつの言葉を掲げた。”Be gentleman!” (紳士たれ)である。クラークには、規則や取締りで有為な人間をつくることなぞできないという確信があったからだが、なにより生徒たちが驚いた。かれらは16、7歳でジェントルマンとして扱われることに感激し、天地に恥じない行いをしなければと、自らを律するようになる。そしてクラーク自身も禁酒を宣言し、本国から送らせていた酒の壜をすべてたたき割ってドブに棄て自ら範を示したというから、教育者としての覚悟と気魄は並大抵ではない。
 クラークはまた道徳教育にキリスト教の教えを説くことも黒田に認めさせた。当時の日本では耶蘇(やそ)教は異教とされ、官立学校では禁止されていた。黒田も耶蘇教嫌いで通っていたが、キリスト教による道徳教育が認められないなら帰国すると半ば脅され、しぶしぶ例外を認めることになる。クラークは1期生16名全員の聖書を用意し、その一冊一冊に丁寧に生徒の姓名を記入して手渡したのだった。
 この1期生の中に、クラークが“土佐ボーイズ”と呼んで愛した3人の土佐人がいた。
 ひとりは安芸出身の黒岩四方之(よもの)進(しん)、「万朝報」の創業者で小説家・ジャーナリストとして知られる黒岩周六(涙(るい)香(こう))の実兄である。いまひとりは内田瀞(きよし)、日清戦争の豊島沖会戦で勇名をとどろかせた戦艦千代田艦長・内田正敏の実弟で、ふたりとも東京開成学校(のち東京帝大)に在学中の身、順当にすすめば「東京帝国大学第1期卒業生」として栄達を約束された俊秀だった。そして田内捨六、かれもエリート校・東京英語学校(のち大学予備門)に在学中で、ともに東京での難関試験にパスして北海道に渡ったのである。
 この土佐ボーイズの中でもとくにクラークが目をかけたのが、長身で剛毅な黒岩四方之進だった。黒岩はこんなほほえましい逸話をのこしている。
 全員で残雪の手稲山登山を行ったときのこと、クラークがたまたま高い樹上に珍しい地衣類を発見したが、手がとどかない。そこで一番背の高い黒岩を呼び、自らは雪の上に四つんばいになり、背に乗って採れと命じた。黒岩が靴を脱ごうとすると、「靴のまま!」と一喝。三尺下がって師の影をふまず、という時代である。さすがに黒岩も躊躇したが、結局は命令にしたがい採取する(のち新種であることが分かり“クラークコケ”と命名)。土足で先生の背に上がった黒岩はそれ以降、身も世もなくクラーク先生に心酔してゆく。
 任期が終わりに近づいたころ、クラークは「イエスを信ずる者の誓約」という一文をしたため、入信を決心した者はこれに署名するようもとめたことがあった。が、みな逡巡して顔を見合わせるばかりだ。このとき、真っ先に署名したのが黒岩だった。それからは黒岩に続けとばかり、つぎつぎと全員が署名していったという。クラークの帰国後に入学してきた内村鑑三ら2期生にクラークの精神を注ぎこみ、クリスチャン・ジェントルマンへといざなったのも黒岩ら1期生だった。
 札幌農学校一の秀才といわれた内村鑑三は卒業後、米国留学を経て黒岩四方之進の勧めで弟の黒岩周六(涙(るい)香(こう))の主催する新聞「万朝報」に入社する。そのころの「万朝報」は権力者のスキャンダルを暴いて騎虎(きこ)の勢いであったが、“まむしの周六”と揶揄(やゆ)されるほどの醜聞報道ぶりを心配した兄の四方之進は、教養があり筆のたつ内村に頼んで入社してもらったのだ。その効果は絶大で、内村の入社で社風はがらりと変わり、土佐人の幸徳秋水らをくわえた精鋭執筆陣により同紙は日本の言論界をリードする存在となる。
 内村と終生の友情をもった四方之進はその後、クラークの弟子としてその教えを厳格にまもり、日高国新冠の御料牧場長を経てのち十勝国直別の原野を開墾して牧場主となり、生涯を北海道開拓にささげた。俗世の栄達をもとめず、北辺の地で質実な一牧場主として68歳で天に召された四方之進を内村は「世に知られざる、聖人たることを自覚しなかった聖人」と評したが、まさにその言葉どおり、かれは周りの人びとから“直別の聖人”と慕われ敬愛された。土佐ボーイズの残りふたりもまた北海道に残り、田内は早世したが内田は北海道農政に多大な貢献をした先覚指導者としてその名を刻んでいる。
 さて一方のクラーク先生である。明治10年4月16日、札幌での短い任期を了えたクラークは黒岩ら1期生一人ひとりと握手をかわし、馬上から“Boys, be ambitious like this old man”(諸君ら、大志を抱けよ。この老体のごとく)と言い残して北海道をあとにした。帰国後は校長職を辞し、事業経営などに力を尽したがうまくいかず、失意のなか59歳で死去する。その死の間際、かれはしずかにこう語ったという。
 「自分の生涯を振り返って、自慢できることはなにもない。ただひとつ満足に思うのは、日本の青年たちとともにあった札幌での8ヶ月間である」
            Text by Shuhei Matsuoka
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2011年05月17日

気骨の明治人、大江卓

 明治維新により、この極東のちいさな国は助走期間もろくにないまま、背中をドンと押されるようにして世界の舞台にころがり出た。そして生まれてまもない新政府を壟断(ろうだん)した薩長閥は、世の革命政権の多くがそうであるように旧習の一切を悪弊とみなし、強引な富国強兵策と西洋化をおしすすめた。
 それは西洋列強による仮借ない蚕食(さんしょく)から身をまもることが至上命令であったからだが、明治政府が廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)のごときかずかずの愚(ぐ)を冒し、おおきな社会矛盾を温存したままだったにしろ、独立をまもり三等国からのしあがるという国家目標を健気(けなげ)にもやりきったところにある種の華はあった。そして明治人には、たしかに歴(れき)とした気高さがあった。
 たとえば「人権(Human Rights)」などというきわめて近代的な概念は、そもそも徳川の世には存在しなかった。むろん、徳川以前になかったのはいうまでもない。ところが、明治人のおどろくべきところは、きのうチョン髷(まげ)を切ったような人たちが「人権」というものをすぐに学びとり、それをまがりなりにも社会に根づかせるという離れわざをやってのけたことだ。このような国が、ほかにあっただろうか。
 この明治人の気高さを象徴する国際事件が、明治のはじめにおこる。
 岩倉具視、大久保利通、木戸孝允など政府首脳の大半が遣欧使節団として日本を留守にしていた明治5年6月5日の朝、すでに首都東京の玄関口として殷賑(いんしん)をきわめつつあった横浜港に妙な船が入ってきた。これが、よちよち歩きの皇国日本に降りかかった最初の厄介な国際事件の発端となる。
 この船は日本と国交がない南米ペルーの貨物船だった。マカオからペルーに向かう途中、時化(しけ)に遭(あ)って故障し、修理のためやむなく横浜港に入ってきたのだった。船長はリカルド・エレイラといった。エレイラの出した書類によると、「マリア・ルス号」350トン、乗員21人、船客231人とあった。
 それだけなら問題はなかった。ところが、投錨3日後の深夜、湾内に停泊中の英国軍艦に一人の辮髪(べんぱつ)の清国人が泳ぎつき、助けをもとめてきたのだ。男は木慶と名乗り、ペルー船から脱走したという。あれは奴隷船で、自分たちは騙されて船倉に押し込められ、虐待され、水や食事もろくに与えられず、そのために逃げたというのだ。
 英国船から連絡をうけた神奈川県が船長のエレイラを呼び説明をもとめたところ、木慶が大げさに言っているだけで、そのような事実はないという。それを信じたのか厄介ごとを避けたのか、担当役人はあっさりと二人を船に帰してしまう。
 哀れなのは船に連れ戻された木慶だった。命のつぎに大事な辮髪を切られてはげしい拷問をうけ、泣き叫ぶ声は英国船まで聞こえた。これは奴隷船にちがいないと判断した英国代理公使ワトソンは外務卿副島(そえじま)種(たね)臣(おみ)に面会し、「貴国の領海内であのような残酷なことをお許しになるのか。きちんと調査すべきではないのか」と迫ったのだ。
 副島は閣議にかけたが、司法卿江藤新平と神奈川県令(知事)陸奥宗光は「ペルーと清国の問題であり、日本は関与すべきでない」という姿勢を崩さない。副島はしかし、日本の毅然とした姿勢を国際社会に示すいい機会だと判断し、「国交のないペルー船であっても、我が国領海内のことは我が国の法で裁くべき」として太政大臣三条実(さね)美(とみ)から本件の全権委任を取りつけて江藤を押し切り、外務マターとして日本側が裁く決断をする。そして、この難しい仕事の責任者として、ある人物に白羽の矢を立てる。土佐出身の若き神奈川県権令(ごんれい)(副知事)、大江卓(たく)(1847〜1921)である。
 大江は明治4年に政府が出した画期的な太政官令「賎民(被差別民)解放令」を実現させた張本人で、筋金入りのヒューマニストとしてすでに政府内で知られており、外交知識もあるということで適任とされたのだ。若干25歳の大江は、火中の栗をひろうような厄介な大仕事を、わが意を得たりとばかりに引き受け、自ら本件の裁判長を申し出る。
 大江卓は土佐といっても辺境の地、幡多郡柏島(現大月町)のうまれである。宿毛の士族の出だが、土佐藩の重臣、伊賀家の家来つまり陪臣にあたるので、藩士より身分のひくい軽輩だ。血気盛んなかれは二十歳のころ土佐陸援隊に入って奔走家となり、倒幕運動に加わる。このころに陸奥宗光、岩崎弥太郎、板垣退助らと知り合い、維新後には陸奥にその才を買われて若干24歳で神奈川県権令になっていた。若い土佐人にしては大抜擢である。そしてこの翌年に、マリア・ルス号事件の裁判長としてその任にあたることになる。
 スペイン語の通訳が日本にいないため、裁判は英語で行われることになった。太平洋上で漂流中にアメリカ船に助けられ、帰化して最初の日系アメリカ人となった“アメリカ彦蔵”ことジョセフ・ヒコが長崎のグラバーの下にいることを聞きつけた大江は、かれをつれてきて通訳とした。
 英国人弁護士ディッケンズを擁したエレイラ側はしかし強硬で巧みだった。なんと、日本の公娼制度を調べ、人身売買が常態化しているのはまさに奴隷制度そのものであり、そのような国がなぜ国交もない当方をさばく権利があるのか、と衝(つ)いてきたのだ。これには日本側は一言もなかった。ちなみに大江はこの裁判後すぐに人身売買及び公娼制度廃止を申し出、司法卿の江藤がこれを認めてこの年の十二月に太政官令を出している。日本が近代国家へ一歩一歩すすむたしかな、そして健康な足音がきこえるようだ。
 さて裁判である。大江側もアメリカ人弁護士デビッドソンを顧問として国際法とにらめっこの日々がつづいた。大江という男は、人の道に反する行為が目のまえで行われ、それを看過できるほど冷徹にできていない。薩長土肥の奔走家たちの多くが出世や栄達をもとめ猟官運動に余念のないとき、かれは世俗の名利にまるで興味を示さず、社会正義に自らのすべてをかける叛骨漢である。無私が兵児(へこ)帯を締めて歩いているような西郷隆盛などは例外としても、大江のなかに透徹した近代的ヒューマニズムが宿っていたことを思えば、かれは明治という時代に光輝をもたらした一個の“宝石”であったといっていい。
 結局、独、仏、伊、蘭の干渉をうけつつも大江は見事に清国側を勝利に導き、清国人すべてを助けて本国に送り返すことに成功する。かれらは涙を流して大江に感謝し、横浜中華街の在日清国人らも喝采を惜しまなかった。清国政府も神奈川県に「頌(しょう)徳(とく)の大旆(たいはい)」(横浜古文書館蔵)を贈り、大江に最大級の感謝の意をあらわしたのだった。外交というものの真髄が薄っぺらな国益論や建前論であってはならないことを、いみじくも副島や大江という傑出した明治人が身をもってわれわれに教えているようだ。
 さてその後の大江だが、決して順風満帆とはいかなかった。官を去って自由民権運動に投じ、明治10年の立志社を中心とした土佐挙兵計画に参画したかどで禁固10年の刑を受ける。そして岩手県の監獄に7年間収容され、その間に妻子とも引き離され、子は大江の理解者だった福沢諭吉が引き取り育てた。その後、第1回衆議院議員選挙に岩手県から出て当選。だが次の選挙で落選し、実業界に出て東京株式取引所初代理事長などを務めたのち銀行や鉱山の経営に関わったが、晩年は剃髪(ていはつ)して僧籍に入り、部落開放運動に生涯をささげた。社会正義の実現におおきな情熱をもったあまりに一途な漢(おとこ)、しかしどこか風のようなさわやかさと気骨を香らせる土佐人であった。
 現在の横浜市中区に大江の名を冠した「大江橋」(明治5年架設)がある。日本初の鉄道敷設(新橋―横浜間)にあわせて真新しい横浜駅ができたとき、駅から市街中心部に至る玄関口に架けられたのが「大江橋」だった。この橋に大江は、日本ではじめてガス灯をともした。近代日本の黎明(れいめい)を照らし出した、最初のハイカラな灯だった。
         Text by Shuhei Matsuoka
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2011年04月17日

ゲンパツ学者を叱る

 東日本大震災の惨禍が、世界中を震撼させている。
 とびきり美しい自然に恵まれたこの小さな日本列島に古より棲むわれわれ日本人が、その自然のもうひとつの貌である凶暴で無慈悲な脅威に日々さらされて生きていることを、このたびほど実感したことはなかった。そして未曾有の大津波による痛ましい東北地方の姿がリアルタイムに全世界に流れたことで、地球上の人類全体がほぼ同時に自然の計り知れぬ力に戦慄するという稀有な出来事ともなった。
 そしてさらに不幸なことに、不気味な災禍が日本人自身の手によって惹き起こされてしまった。官民一体となって邁進してきた自慢の原子力発電所が、産みの親である人間の手に負えぬモンスターと化して暴れだしたおぞましい姿。それは核実験の結果うみ出された怪獣ゴジラさながらだが、この形容はゴジラには失礼というものだろう。かれは空想上のモンスターだが、ゲンパツは現実のそれなのだ。
 地震と津波により暴れだしたゲンパツから大量の放射能がばら撒かれたとき、日本の、いや人類の“科学万能主義”が音をたてて崩れ去った瞬間にわれわれ現代人は立ち会ったのである。そのことを、われわれははっきりとここで自覚せねばならない。
 さて、ここまで書いても、わたしはふかく嘆息せざるをえない。本当に、人間というのは、よほど馬鹿などうぶつだ。いや、それは多少の語弊があろう。ゲンパツをつくり続けてきた連中―世間的にはエリートなのだろうが―はよほど馬鹿な人種だ、というべきか。普通のひとなら直感的にわかることが、どういう思考回路になっているのか、彼らにはまるでわからないようだ。親子ほども国力・軍事力がちがうアメリカに無謀な戦争をしかけ、とっくに敗北しているのにまだ戦争をやめようとしない帝国軍人の信じがたい頑迷と狂気に、それは酷似している。そう考えるだけで、じつに不気味でうすら寒くなる。
 巨大地震と大津波が古来よりほぼ定期的に襲来してきた東北の太平洋側、それも海岸沿いに、あろうことか人類史上もっとも―他のものとは桁違いの―危険な施設を建設して平然と運転してきたという事実に、われわれ市民はあらためて慄然とする。
 いうまでもないことだが、ゲンパツ関係者の責任は途方もなくおもい。そして、責任を問われるべきは日本政府(自民党、民主党の政治家と官僚たち)や東京電力だけではないのだ。火力発電所の3倍もの建設費がかかるゲンパツは、巨大な利権構造を母体として生み出されたものである。ゲンパツを造れば造るほど巨大なカネが動き、暴利をかせぐ連中が大勢いる。よくいわれる政・財・官癒着構造のもっとも典型的な分野がゲンパツなのである。政治家、官僚、電力会社、大手ゼネコン、大手重電メーカー、原子力学者、みなゲンパツ村で恩恵を受けてきた仲間だ。ここには、電力会社から広告費を得てゲンパツの安全性を無批判にたれ流してきた大手マスコミも連座すべきだろう。
 責任の軽重を正確に計ることができる計測機がこの世にあったら、とわたしは夢想する。もしそれがあれば、もっともおもい責任ありと判定されるのは、ひょっとしたらゲンパツ学者ではないかとわたしはおもうのだ。
 毎日あちこちのテレビ番組にゲンパツ学者が出て事故についてコメントしている様子は、一種のジョークにしてもたちがわるい。なんとなれば、かれらはみな日本の原子力工学をリードし、ゲンパツ推進の旗振り役だった連中だからだ。それが、事故がおこったらまるで他人事のように、しらとして評論を加えているのだからあきれる。虫唾がはしるというのは、このことだ。かれらの口から、「想定外だった」という弁解にもならない弁解はきいても、科学者として責任を感じるという言葉を金輪際きくことはない。
 学者、科学者とはどうあるべきものか。なにを前提に、その職分を成り立たせるべきなのか。たかだか電気をつくるために、1億3千万の国民のすべてを人質にとらねばならない科学技術とは、いったい何なのか。叡智を具備しない科学は、ただの暴力にすぎないのだ。ゲンパツの兄弟分、ゲンバクをみれば多言は要すまい。
 土佐が生んだ世界的な地球物理学者、寺田寅彦博士は、地震などの自然災害についてつぶさに研究していたことでも知られる。博士が言ったとされる「天災は忘れたころにやって来る」という言葉は誰でもが知っていよう。
 その博士が、「昭和8年3月3日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端から薙ぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪ひ去った」という書き出しではじまる一文『津浪と人間』を書いたのは、同年5月のことである。かれはもちろん科学者だが、この一文で科学万能主義にきびしく警告を発しているのである。以下に抜粋するが、参考までにいうと、このときすでにアインシュタインは核爆弾や核融合、つまりゲンパツの基礎理論となった一般相対性理論を発表している。

・・併し困ったことには「自然」は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまはず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にも全く同じやうに行はれるのである。科学の方則とは畢竟「自然の記憶の覚え書き」である。自然程傳統に忠実なものはないのである。
 それだからこそ、二十世紀の文明という空虚な名をたのんで、安政の昔の経験を馬鹿にした東京は大正十二年の地震で焼払われたのである。 ―中略―
 二千年の歴史によって代表された経験的基礎を無視して他所から借り集めた風土に合わぬ材料で建てた仮小屋のような新しい哲学などは、よくよく吟味しないと甚だ危いものである。それにも拘らず、うかうかとさういふものに頼よって脚下の安全なものを棄てようとする、それと同じ心理が、正しく地震や津浪の災害を招致する、というよりは寧ろ、地震や津浪から災害を製造する原動力になるのである。

 世のゲンパツ学者はかれらの大先輩、寺田博士のこの一文を一度でも読んだことがあるか。
 大地震や大津波は、その規模や強さに多少のばらつきがあるものの、来ることがわかっているものである。周期が数十年とか数百年と長いだけで、毎年秋ぐちに九州や四国に襲来する台風と同じ自然の営みなのだ。下手をすればこの国に人間が住めなくなるほどの大リスクをはらみながらそれをあえて計画に盛り込まず、ただひたすら虚妄の安全神話をつくりだして自他もろともに騙し、旗ふり役を担ったゲンパツ学者たちは、到底科学者の名には値しないだろう。どころか、立派な「犯罪者」ではないのかとわたしはおもう。
 太平洋戦争に触れたついでにいうと、広島と長崎へのゲンバク投下とソ連参戦によって絶望的な状況となった昭和20年8月14日、最後の御前会議で無条件降伏受諾が決まった。その会議に出席していた陸軍大臣阿南(あなみ)惟幾(これちか)は翌朝、割腹自殺を遂げる。おおくの同胞を死に追いやり、無条件降伏というおおきな屈辱を天皇と皇国に負わせた責任を、彼なりにとったのだ。戦争邁進に重要な位置を占めながらその責任をのがれ、戦後ものうのうと高い地位に就き、恬として恥じることのなかった連中からみれば立派というほかない。最後の陸軍大臣となってしまった阿南の遺言「一死以って大罪を謝し奉る」は、悲痛である。
 阿南のまねをしろとはいわない。しかし、贖罪の気持ちがすこしでもあるなら、いまからでもおそくはない、ゲンパツ学者諸君は、人間の手にあまるモンスターから手を引くよう政府に言ってきかせなさい。それが科学者としての倫理観であり、叡智だ。日本がゲンパツから撤退すれば自分の学者としての人生がすべて無意味になると考えるなら、それははなはだしい見当違いだ。むしろあなたたちが誤りに気づき、日本が愚かな方向に往くのを見事止めたとき、子や孫に少しは胸を張れる科学者にはじめてなれるのだ。
 寺田博士のいう「地震や津浪から災害を製造する原動力」になる前に引き返さなければ、あなたたちはそれこそ末代までも恥辱にまみれることになるだろう。
            Text by Shuhei Matsuoka
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2011年02月14日

兆民居士に倣う

 誰しもある年齢に達すると、命のデッドラインについてすこしは考えるようになる。
 いつなんどきがんのような悪性疾患が見つかるかもしれない。そのとき、自分ははたしてあたふたとせずそれを受容できるだろうか。もし余命を告知されたら、どのように身を処すればいいのだろうか。そんなことが頭をよぎったとき、土佐が生んだ稀代の思想家、兆民中江篤介(1847〜1901)がひとつの範を与えてくれるかもしれない。
 わたしの書棚に、中江兆民(篤介)の最晩年の著書『一年有半』『続一年有半』(博文館版)がある。ともに明治34年刊の大ベストセラーである。110年のときを経てコーヒー色に変色した『一年有半』の冒頭に、兆民は書名の由来をのべている。
 20世紀となった明治33年(1900年、54歳)の末ころから咽頭部に痛みがあり、吐血。食事も摂りづらくなり、翌34年4月に医者に診せたところ咽頭がんだと診断される。しかし兆民先生、あわてず喧(さわ)がず、余命は?と問い、堀内という名の若い医師はしばし沈思してのち「一年半」と告げる。現在でこそがん告知は珍しくないが、この時代に自らの余命を知ろうとする兆民はやはり凡庸ではない。兆民はこの余命一年半をもって書名とし、さらに泰然と次のように書く(ルビは岩波文庫版による)。
 「一年半、諸君は短促(たんそく)なりと日(い)はん、余は極(きわめ)て悠久(ゆうきゅう)なりと日(い)ふ、若(も)し短(たん)と日(い)はんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり、夫(そ)れ生(せい)時(じ)限り有(あ)りて死後限りなし、限り有るを以て限り無きに比(ひ)す短には非(あら)ざる也(なり)、始より無き也、若し為(な)す有りて且(か)つ楽(たのし)むに於(お)ては、一年半是(こ)れ優(ゆう)に利用するに足らずや、嗚呼(ああ)所謂(いわゆる)一年半も無也、五十年百年も無也、即ち我儕(わがせい)は是れ、虚無(きょむ)海上一(かいじょういち)虚(きょ)舟(しゅう)」
 一年半は決して短い時間でない。それが短いというなら、五十年でも、百年でも短い。人生とは、そのようなものだ。われわれは、虚無の海にうかぶ一艘のカラ船だ、と兆民は達観する。そして、残りの命を焼尽するごとく猛烈な勢いで執筆をつづけるのである。 
 『一年有半』は、ひとことでいえば、兆民畢生の評論である。ときの明治政府、日本国のあり方に対する痛罵あり、骨太の国家論あり、文化論あり、人物月旦(げったん)あり、好きな義太夫、講談、落語といった芸事も評する。はたまた土佐名物の松魚(かつお)、楊(やま)梅(もも)を挙げて故郷自慢もする。おもしろいのは、「余近代において非凡人を精選して、三十一人を得たり」とするくだりだ。あくまで兆民の物差しではあるが、とても興味ぶかい。以下、本文そのままに記すと、「藤田東湖、猫八、紅勘、阪本龍馬、柳橋(後に柳櫻)、竹本春太夫、橋本佐内、豊澤團平、大久保利通、杵屋六翁、北里柴三郎、桃川如燕、陣幕久五郎、梅ヶ谷藤太郎、勝安房、圓朝、伯圓、西郷隆盛、和楓、林中、岩崎彌太郎、福澤、越路太夫、大隈太夫、市川團洲、村瀬秀甫、九女八、星亨、大村益次郎、雨宮尊次郎、古川市兵衛、然り而して伊藤、山縣、板垣、大隈は與からず、而して其他擾々たる者、曰く彼等哉、彼等哉、人名辞書の四半頁をも汚すに足らず」
 藤田東湖は著名な水戸の思想家。橋本左内は松平春嶽に愛された俊英、安政の大獄で刑死した。龍馬は兆民が長崎留学の際に接していたく敬慕し、「中江のニイさん煙艸(たばこ)を買ふて来とうせ」と土佐弁丸だしてたのまれるのを無上の悦(よろこ)びとした。大久保は人物としても大いに評価したが、兆民にはフランス留学を直訴して認めてもらった大恩もある。兆民はまた勝海舟(安房(あわ))とも親交があり、その人物を高く評価した。維新を成し遂げ、最後は西南の役で自刃した西郷に兆民がつよいシンパシーをもったのは、勝の影響もあろう。福沢諭吉を、苗字だけの呼び捨てで入れるのもおもしろい。兆民は諭吉を苦手としたようだが、明治を代表する啓蒙思想家の一方の雄が間違いなく福沢諭吉であることを最後に認めたのだろう。ちなみに、諭吉は『一年有半』を兆民が書き始める直前の明治34年2月に死去、奇(く)しくも明治思想界の両雄は20世紀の夜明けとともに世を去った。さらに民権派政治家の星(ほし)亨(とおる)(この年6月暗殺)、稀代の軍略家大村益次郎、そして実業界から岩崎、雨宮、古川の名を挙げるが、弥太郎に対しては複雑な思いもある。長崎留学時代、兆民は江戸遊学の船賃を上司の弥太郎に請求して断られ、二度とこの男とは付きあわぬと啖呵(たんか)を切っている。その後も民権派の急先鋒として兆民は激しく政商・三菱批判をしたが、世に冠たる一大財閥を築いた力量は認めたということか。さらに、猫八や紅勘など見慣れる名は大道芸人、力士、講談師、棋士、落語家などである。氏素性もしれない芸人を西郷や大久保と同列に並べることにまるで頓着しない。そして伊藤、山県、板垣、大隈といった現役政治家は埒外とし、その他は全部合わせても四半頁程度だと切り捨てる。まことに痛快である。
 この草稿が完成した明治34年8月4日、愛弟子の幸徳伝次郎(秋水)を呼びよせ、蒲団の下からそれを取りだして出版を依頼する。そのとき兆民は莞(かん)爾(じ)(にっこり)として、己の余命いくばくもなく、後の世にこの一文を遺したい旨を秋水に告げたという。そして9月2日に東京博文館から刊行され、これが大ベストセラーとなる。
 このころすでに兆民の病はすすみ、体は鶴のように痩せ、激痛がおそい、気管切開手術でしゃべることもできず筆談である。一年半の猶予は、もはや残りすくなくなった。しかし兆民は、さらに続編を書くと言いだす。秋水は、その体ではとても無理だと止めるが、「書かなくても苦しさは同じだ。書かねばこの世に用はない」と聞かない。
 このあたりで、賢明な読者はある人物を想起するのではないか。そう、正岡子規である。兆民より20歳年少の子規もちょうど同じころ東京・根岸でおもい病の床にあり、凄絶な闘病生活をおくっていた。『坂の上の雲』(司馬遼太郎著)ではこんなふうだ。

 このころ、自由民権思想家の中江兆民ががんになり、医師から寿命はあと一年半と宣告され、病床で『一年有半』といういわば生死の感懐をかいて出版し、評判になっていた。子規はそれをひとに買いにやらせて読み、読みおわった。
 「あしにくらべたら、なんぞな」
 と、まわりのひとがはっとするほどの微笑をうかべて、書物を枕頭におとした。

 実際に、子規は若くして長い病の床に就いている自分とくらべ、「居士(兆民)をして二、三年も病気の境涯にあらしめたならば今少しは楽しみの境涯にはひる事が出来たかも知らぬ」(『病床六尺』岩波文庫)と兆民の死後に記している。その子規も、兆民居士を追うように翌明治35年9月に夭折する。
 さて秋水は、かくなるうえは兆民の生前に刊行しなければと決意をかため、兆民が9月13日に『続・・』を書きはじめてからは、草稿ができたそばから自宅に運ばせて清書し、博文館に持ちこむという連携作業がすすんだようだ。そしてついに10月15日に刊行。なんと書きはじめてからわずか1ヶ月で書店に並んだのである。
 この『続・・』は前書とは趣がまるでちがい、純粋な哲学書でかなり難解である。まったくもって、死をむかえつつある病人の筆ではない。手元に参考とすべき東西の書物も一冊もなく(糊口をしのぐため売却)、完全に一個の頭脳だけで書き上げた兆民独創の哲学書である。兆民はこれを自ら「ナカエニスム」(中江哲学)と呼ぶ。この難解な『続・・』ですらベストセラーになったのだから、当時いかに兆民人気が高かったかがわかるだろう。
 そして明治34年も暮れの12月13日、近代日本に民主主義思想の種を撒いた中江兆民は、東京・小石川の自宅でしずかに息をひきとった。55歳だった。遺言により遺体は東京帝国大学医科大学病院で解剖され、17日に青山会葬場で告別式が執りおこなわれた。会葬者は一千余名におよび、弔辞はかつての盟友、板垣退助が読んだ。
              Text by Shuhei Matsuoka
            
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2010年12月02日

司馬遼太郎記念館のこと

 司馬遼太郎記念館(東大阪市下小阪)には前々から行ってみたいとおもっていた。
 過日、生駒にすむ知人宅に寄せてもらうことになり、ついでに沿線にある記念館をたずねることにした。
 近鉄奈良線の河内小阪駅から徒歩で10分ほどらしい。
 駅に着いて、まわりを見渡すと、商店街アーケードの入口の高いところに大きく「司馬遼太郎記念館」と書かれてあるのが目に入った。街のいちばんの目玉なのだ。この商店街を抜けていけば、きっと行きつくのだろう。
 さっそく、そちらに向かって歩く。まあ見事なほどに寂れた商店街だ。いわゆるシャッター通りの寂れぶりにくわえ、河内という地域の猥雑さもそのまま残っていて、まったく文化のぶの字もないような一帯、まさに場末なのだ。買い手もなさそうなサンダル、めがね、帽子。そんなものをこの時代に平然と店先に並べておく横着ぶり。このやる気のなさはどうだ。土曜日の午後だが、歩くひともまばらで、笑顔や嬌声はまるでない。いろんな店は並んでいるのだが、ひとの気配がほとんどしないのだ。
 そんな死んだようなアーケードを抜けると、ちょっとした公園があり、司馬が小学校6年生向けに書いた一文「二十一世紀に生きる君たちへ」の石碑が建っている。そしてここから急に狭い路地になる。両側にちいさなふるい木造家屋がひしめいている。
 ふと気づいたのだが、この小さな路だけが、きれいな真新しいレンガで舗装されているのだ。ほかの路はありふれた古いアスファルトだが、ここだけは違う。目だっているのだ。記念館までの表示はなくても、そのきれいな路を歩けば、自然と記念館にたどりつくようになっているのだ。記念館ができて、あわてて市が路をきれいにしたのだろう。よそから記念館に来るひとにたいして、この貧相な街並みではあまりにも恥ずかしい。路ぐらい整備したらどうか、といった議論がなされたに違いない。
 それにしても、とおもう。なぜ司馬遼太郎は、この地に住みつづけたのだろう。
 大阪でも、文化のぶの字もないような河内に。大阪うまれではある。だが、よりによってこんなところに住まなくてもいい。大作家だから金銭的にも恵まれているのだ。
 旅の慰みに持参した司馬の『十六の話』(中公文庫)の中の「大阪の原形」に、こうある。

 私は、大阪にうまれた。
 以降、64年もこの街に住んでいる。
「よほど大阪が好きなんですね」
 とよくいわれるが、そうでもない。人間というのは、病的な自己愛のもちぬしでないかぎり、鏡の中の自分の顔や、テープに再現された自分の声を、冷静に見たり聴いたりすることができないはずである。つねに多量の、もしくは微量な嫌悪感がつきまとう。私の大阪への感情もそれに似ている。
この感情を拡大すれば、私がすでにこの街に自己同化してしまっていることになるだろう。そういう感情があるために大阪が好きか、と問われれば、返事にこまるのである。私は自己に対して嫌悪感からまぬがれたことが一度もないため、
「きらいです」
 と、一応は答えざるをえない。ただし人間は、自己を真底きらいなままで、三日も生きていけない。私はすでに半世紀以上もこの街に住んでしまっている。街そのものが自分の皮膚のようになっていて、植物にたとえれば他の土壌への移植が利かないぐらいになっている。

 複雑な心境なのだ。
 また司馬は次のように、自虐的にこの街を揶揄することも多かった。
「私が住んでいるのは、なんでこんな所に住んでいるんだと言われそうな、本当の大阪の、いわば場末です。戦前の場末には東京の月島でも深川でもちょっとした秩序があったのですが、私の所には秩序も何もない。樹木すらろくにない」
 以下は勝手な想像だが、かれが生涯にわたり大阪を離れなかったのは、大阪という土地柄がすきなのではなく、本人も言うように大阪が皮膚のように同化してしまったことと、なによりも日本の文化と歴史の精華ともいえる奈良と京都がそばにあり、いつでも気軽に行けることにおおきな魅力を感じていたからではないか。くわえて、関西には梅棹忠夫や陳舜臣など離れがたい畏友も多かったし、河内には司馬を世に出した恩師の今東光もいた。そんなこんなで西長堀のアパートからこの河内(当時は中小阪)に引っ越してきたが、本が増えすぎてすぐ近所の現在の下小阪に引越し、そうこうしているうちに、どこかいいところへという気も失せて、つまりだんだんと面倒くさくなり、結果的に終の棲みかとなってしまったのではないだろうか。
 かれはやはりこの街を愛したのだ、きっと。デザインも垢抜けず格好もよくないが、なぜかリラックスできる着古したジャケットのように。
 そんなことをつらつら考えるうちに、記念館にたどりついた。
 地域のボランティアの方々が世話係りで活躍している。
 向かって右手に門(入口)があり、旧司馬邸の庭を左に抜けていく。鬱蒼とした雑木林。クス、シイ、クヌギ、ヤマモモ、ツツジ、シラカシなどが自然の森のように生えている。そして、ふるい木造二階建ての司馬の住んだ家が、そのまま遺されている。けっして豪奢ではない。こどもを持たなかった司馬夫婦だが、ふたり住まいにしてはおおきな屋敷だ。どんどん増える本を入れていったら、家まで大きくなったのではないか。犬走りにはふるぼけた焼きもののようなものが置かれてある。
 家の中には入れないが、庭から窓越しに書斎が見えるようになっている。司馬は『街道をゆく―濃尾参州記』を執筆中に亡くなったそうで、そのときのままにしてあるという。写真ではみたことがあったが、実際にみる書斎も、じつに簡素でとても好もしい風情だ。司馬遼太郎という昭和を代表する大作家の、日常とか内面をすこし覗いてみたような気になれる。
 机や椅子や調度品も、ごくごく普通の庶民的なたたずまいである。手前の三畳ほどのサンルームにはひとり掛けのソファがあり、そこで資料を読んだり庭を眺めたりしたようだ。たまには音楽でも聴いたのか、安っぽいラジカセなどもおいてある。耳と舌にはまるで自信がなかったかれだったが、好きな音楽はあったのだろうか。あるいは落語のカセットテープでも聴いたのか。
 旧邸を過ぎると、現代的な記念館があらわれる。予想したよりもちいさな建築で、外観はわるくない。設計はあの安藤忠雄で、かれらしく、コンクリート打放しだ。住宅街なので低層にしてあるのは好もしい。
 例の、写真でよくみる、本を壁一面にならべたコーナーへ行ってみた。なるほど巨きな書架だ。高さは11メートルあるという。圧倒的な本の数。それにしても、これでは本を手にとって見る方法がない。場所が高すぎるのだ。はて―。そばにいたボランティアの説明係のひとに、どうやって本を手に取ることができるのですか?と訊いてみた。すると、意外な答えがかえってきた。
 これら2万冊もの本は、司馬の6万冊におよぶ蔵書の一部とまったく同じ本を新たに購入し、並べたというのだ。つまり、これらの本は単なる飾りで、司馬の蔵書そのものでもなく、手にしたり読んだりするものでもないのだという。これにはあきれた。いったいこんな本の扱い方があるだろうか。苦労して、お金をかけて同じ本をもういちど買い集めてたんなる飾りとして並べた。ばかげているにも、ほどがある。
 もちろんこれは建築家・安藤忠雄のアイデアだろうが、安藤というひとは、本というものの存在意味と価値がまったくわかっていないようだ。これが、司馬遼太郎という無類の本好きにして、膨大な作品を書いた作家の記念館なのである。
 こんな想像をしてみた。
 司馬遼太郎という国民的作家は、遺した作品も膨大だが、6万冊ともいわれる蔵書は、個人のそれとしては類をみない量だ。圧倒的だ。となれば、司馬遼太郎記念館を設計するにあたってのキーワードは、「本」であろう。では、どうすれば建築で「本」を表現できるか。そう、日本を代表する建築家の安藤忠雄は考えた。おそらくみどり夫人は、夫が死んだときのまま家を遺したいとおもった。もちろん書斎も、そして玄関といわず廊下といわずびっしりと並んだ蔵書もすべてそのままにしておきたいと望んだのではないか。ではどうするか。そうだ、司馬の蔵書と同じ本をできるだけ買いあつめて、レプリカとして巨大な棚に並べてはどうか。さぞや壮観だろう!
 しかし、わからないのは、あのような記念館を、夫人がほんとうに望んだかどうかである。夫の司馬遼太郎ほど本を愛した人はいないはずなのに、手にとってみることができないような本を、それも夫の蔵書ではなく、そっくり同じものを新たに買いあつめて並べた巨きな棚をたんなる飾りとして設える。かなうものなら、司馬遼太郎自身に司馬遼太郎記念館のアイデアをみせて、その感想を訊いてみたかった。安藤さん、このおおきな本棚はいけません、そんなに無理しなくてもいい。ちょっとシニカルな笑顔で、そうつぶやきそうな気がする。
 わたしはコンクリートの記念館を出て、雑木林をあるいてもういちどふるい木造の旧司馬邸の書斎の前にたたずんだ。灯りの点いた、だれもいない部屋がみえるだけだ。だがここだけは、何度でもみたいとおもった。
   Text by Shuhei Matsuoka
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2010年11月15日

”雷翁”仙石貢という生き方

 高知県は、土佐と呼称された中・近世から、人や物の輸送を海運にたよってきた。北側にそびえる急峻な山々が他国への陸上輸送を阻んできたためだが、結果的に一大海運国となっていたのである。江戸時代、土佐藩は130艘もの藩船をもち、参勤交代には浦戸や甲浦から45艘の大船団をしたてて大坂へ渡ったという。龍馬や弥太郎が海に活躍の場をもとめた背景にも、この土佐特有の地政学的、風土的特徴があった。
 そして近代。文明開化の明治をむかえた日本にさまざまな文物が西洋から一気になだれ込んだ。そのなかでも、人々をとりわけ夢中にさせたのが蒸気機関車と鉄道技術だった。船は天候に左右されるが、いつなんどきでも大量に人や物を運搬できる鉄道には破格の利点がある。明治5年(1872年)には早くも新橋―横浜間を日本初の汽車が走り、この建設を担った長州出身の井上勝はのちに日本の鉄道の父、と呼ばれるようになる。このときから運輸の主役は、海運から鉄道に移っていったのである。
 その後、日清・日露戦争への対応など軍事的な要請もあり日本国中に鉄道敷設がすすんだが、大都市間や大陸にちかい地域が優先され、辺境にあり急峻な地形の高知はもっともあとまわしにされた。土佐山田―須崎間が開通したのは大正14年(1925年)、昭和10年(1935年)にやっと悲願の土讃線全面開通となる。新橋−横浜間の開通からなんと63年もの歳月がながれたことになるが、この極端な遅れがその後の高知県の凋落を決定づけた。
 ところで大正3年(1914年)に政府がおもい腰をあげて土佐山田―須崎間の建設を決めたとき、鉄道行政のトップ、鉄道院総裁は高知出身の仙石(せんごく)貢(みつぐ)という人物だった。“我田引鉄”(政治力で地元に鉄道を引くこと)をきらった硬骨漢の仙石が職権で地元高知に鉄道敷設を決めたとは考えにくいが、なんらかの好影響はあったろうと想像できる。今回は、この仙石貢という知られざる傑物に焦点をあてる。
 仙石貢は、ペリー来航の4年後、1857年に土佐藩士族の家にうまれた。15歳で高知藩病院附属吸江学校に入学して英語をまなび、その後、東京帝国大学理学部土木工学科に入学した。東京では、子どものころからの親友だった豊川良平(岩崎弥太郎の従兄弟でのち三菱財閥の幹部、貴族院議員)の紹介で後藤象二郎の世話になり、そこで同郷の豊川と大石正巳、さらに山本達雄、犬養毅らのちの三菱系政治家らと親交をふかめる。東京帝国大学の卒業式に洗いざらしの浴衣で出席し、学校側が問題視すると、「天にも地にも此(こ)れ一枚しかない」と譲らなかったというから、若いころからすでに堂々たる奇人ぶりである。
 卒業後、貢は東京府土木掛、工部省鉄道局勤務となり、鉄道にふかく関わるようになる。
 その工部省時代に有名な逸話をのこしている。鉄道技術者として甲武鉄道(現・中央本線)の建設にあたっていた貢は、中野―立川間の線路敷設に悩んでいた。青梅街道や甲州街道沿いに敷設したいが、住民のつよい反対があって無理な状況になっていた。しかし反対運動のないところを通しても利用客はすくない。考えに考えたあげく、貢はいきなり定規をもって地図上の中野と立川に当ててサッと一直線の赤線を引き、「これでいく」と決めてしまったのだ。現在の中野−立川間約25kmが直線になっているのはそのためで、痛快といえば痛快な逸話だ。
 日本鉄道(現・東北本線)建設でも貢は伝説をのこしている。栗橋から宇都宮までの工事を担当したが、毎朝5時に起きて床のなかで朝食をすませると、洗顔もせずに靴を座敷で履(は)いて現場に向かう。昼食は付近の畑から野菜をもぎとって食べ、一日中歩きまわって親方たちを叱咤激励して月が出るまで作業をやめなかった。測量中に邪魔になる民家などがあると、無断で壁に穴をぶち空けたというから度外れている。
 こういった数々の奇行や伝説も、貢の鉄道にかける情熱の巨(おお)きさのなせるわざ、技術者としては群を抜いていたのだ。
 その後、貢は運輸局長までのぼり詰めるが、このころ鉄道界の大御所として君臨していた鉄道長官、井上勝との間でひと悶着おこしている。若手官僚たちの中には井上の独善的な考え方に不満をもつ者が多く、鉄道の将来のために井上を引退させるべしとなった。しかし大御所にむかって直(じか)に意見できる者はいない。井上に引きたてられて運輸局長にまでなった貢だったが、ことは日本の将来を左右する。そこで貢はひとり、堂々と井上長官と渡りあい、引導を渡してしまうのである。貢にはこのように徹頭徹尾、合理的で筋を通す一徹さがあったが、私心はなく情に厚かった。かれは退官して浪人になった井上をしばしば訪ね、なにかと相談にのったという。
 貢はその後、明治29年に官界を去り、豊川の勧めで三菱系の筑豊鉄道社長、そして九州鉄道社長となり企業経営者として辣腕をふるう。このときの仕事を高く評価された貢は南満州鉄道(満鉄)設立委員や政党・戊申倶楽部設立に参加するなど政界とのつながりを次第にふかめ、大正3年にはついに鉄道院総裁となる。この直後、高知初の鉄道敷設(土佐山田‐須崎間)が認可されるのである。
 一躍鉄道界に名をはせた貢はその後、衆議院議員として加藤高明内閣と第1次若槻礼次郎内閣の鉄道大臣を歴任、周囲から「雷大臣」「雷翁」と畏(おそ)れられた。筋の通らぬこと、理屈にあわぬことを極端にきらい、相手が誰であれ怒声を浴びせることもあったからだ。
 晩年の雷翁らしいエピソードがある。
 昭和4年に貢は同じ高知出身の浜口雄幸首相から請(こ)われて満鉄総裁に就任し、昭和6年6月までつとめたが、退任直前に初代満鉄総裁、後藤新平の銅像を大連に建立することになり、除幕式が行われることになった。東京から新平の長男一蔵、孫の鶴見和子(のち社会学者)・俊輔(のち哲学者)などもやってきて「大和ホテル」に投宿していた。
 除幕式では当然ながら満鉄総裁の貢が祝辞を読まなければならない。が、後輩の十河信二(のち国鉄総裁)に「俺はいやだ」といって譲らないのだ。
 「祝辞というものは褒(ほ)めなければならない。ところで後藤新平になにか褒めるところがあるか。わしは悪いことはどっさり知っておるが、よいことは少しも知らない。お前がよいことを知っているというなら、お前が読め」
 十河はそんな仙石貢をこう回想している。
 「気性のはげしい人でしたから、自ら許した人には徹底的に応援し、情誼(じょうぎ)もつくしましたが、反対に信用しないとなったら、どんなことでも許しませんでした。妥協などということは、およそ大嫌いであったでしょう。昔の士(さむらい)にはこういう型の人物がいました」
 蛇蝎(だかつ)のごとく嫌った後藤新平とは逆に、親身になって支援したのが浜口雄幸だった。
 明治3年生まれの浜口は貢より13歳若い。貢は浜口の兄と同級で親しく、東京帝大の学生時代に浜口は兄につれられ貢の家をよく訪れていたという。そのころから貢は浜口をことのほか可愛がり、物心両面で政治家・浜口雄幸を支えつづけた。無私で一徹な浜口に自分と似たところを見たのかもしれない。政界引退後、首相となった浜口からのたっての要望で満鉄総裁を引きうけたとき、就任の理由を訊(き)かれた貢は「首相の浜口は、目の中に入れても痛くない」と妙な言い方をして記者たちを煙にまいた。
 その浜口が昭和5年(1930年)11月14日、東京駅で銃撃され瀕死の重傷をうける。一旦は政務にもどった浜口だったが、銃撃の後遺症から翌年に死去。8月26日に日比谷公園で葬儀が執(と)り行われたが、貢はすでにおもい病に罹(かか)り参列できなかった。そしてこのわずか2ヵ月後、日本の鉄道を育てあげた一代の傑物仙石貢は、浜口のあとを追うようにその波乱の生涯をとじた。74歳だった。
           Text by Shuhei Matsuoka
posted by ノブレスオブリージュ at 16:26| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする