この間、さいわいにも核爆弾が戦争で使用されることは一度もなかったが、朝鮮戦争、キューバ危機、ベトナム戦争などを想起すればこれはまことに奇跡的なことであった。
1950年にアメリカの核爆弾の備蓄はすでに300発あり、この年にはじまった朝鮮戦争でマッカーサーは中国大陸へ数十発を投下するようトルーマン大統領に強く要望していたし、1962年のキューバ危機ではケネディ大統領が空軍に核爆弾搭載を命じて米ソは一触即発となりフルシチョフは家族をモスクワから避難させマクナマラ国防長官は自分の命も今日までと観念したと回想している。またベトナム戦争でもニクソン大統領は核爆弾を搭載したB52を沖縄に配備させ北ベトナムへ投下する寸前までいっていたのである。
そしていまやプーチンがウクライナへの核兵器使用をほのめかすという極度に危険な状態となってしまったが、そんななかで昨年、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞したことは一縷の光明であった。
この日本被団協という組織には、広島・長崎に落とされた原爆による被爆者はもちろんだが、終戦の翌年からアメリカがはじめたマーシャル諸島ビキニ環礁での原水爆実験(1946〜1958年の間に67回行われた)による被爆者が含まれていることも忘れてはならない。
米ソ冷戦が激化して両国は競って強力な核爆弾の開発を行うようになり、アメリカも原爆より格段に威力のある水爆の実験を本格化させる。そこで起こったのが世界を震撼させ、日本被団協誕生の契機ともなった「第五福竜丸事件」である。
1954年3月1日、広島型原爆の約1000倍という途方もない威力の「ブラボー」と名付けられた水爆がビキニ環礁で爆発した。閃光、そして轟音とともにサンゴ礁の島に直径1.6キロ、深さ66メートルの大穴が空き、膨大な量の粉々になったサンゴと海水が巨大なキノコ雲に舞い上げられた。
マグロ船の第五福竜丸は爆心地から約160キロも東方にあったが、閃光と巨大なキノコ雲、そして7、8分後にやってきた爆音と船を揺らす大波に船員たちは震え上がった。そして白い灰が目も口も開けていられぬほどに4時間以上も間断なく船に降り注いだが、船員らはこの灰の恐ろしさを知らなかったのだ。
静岡県焼津に帰港後、船員らがさまざまな重篤な病状を呈したことで大騒ぎとなる。「邦人漁夫ビキニ原爆実験に遭遇、23名に原子病、水爆か」と読売新聞は報じ、このニュースにより核爆発から遠く離れた場所でも放射能で汚染されるという恐怖が世界中を駆け巡る。
そしてのちにこの船以外に延べ992隻を超える日本の漁船が被爆したことが判明するが、とりわけ高知県幡多郡下9校の高校生と教諭らによる丹念な聞き取り調査と資料発掘によって室戸漁港を基地とする多くのマグロ漁船と室戸水産高校練習船が被爆し放射能症の犠牲者を出していたこと、さらにその存在を日米両政府がひた隠しにしてきた経緯までも暴き出したことは特筆すべきことだった。またかれらはマーシャル諸島にまで足を運び、人体実験さながら島に置き去りにされ被爆してがん、甲状腺異常、死産、先天性障害児の出産などの放射能障害に苦しむ島民らの筆舌に尽くしがたい悲惨な姿をも白日の下にしたのである。
水爆実験による被爆者の実態解明の端緒となったこの貴重な調査レポートは1988年に『ビキニの海は忘れない』(世界文化社)として出版され、NHKや民放各局、朝日新聞「天声人語」などでも絶賛されて全国でおおきな話題となった。
この第五福竜丸事件はまた日本被団協発足の契機となっただけでなく、ある高名な人物をして世界的な反核運動を創設せしめるきっかけともなった。イギリスの名家の出で20世紀最高の知性といっていい人物、ノーベル文学賞受賞の哲学者・数学者バートランド・ラッセル卿である。かれは第一次世界大戦中、激烈な反戦論・平和論のため投獄された経験もある筋金入りの平和主義者であった。
米ソが原水爆開発競争を止めなければ人類は滅ぶと直感したラッセルは、ノーベル賞受賞の世界的な理論物理学者アルベルト・アインシュタイン(1879〜1955)に連絡、さらに日本人初のノーベル賞学者である湯川秀樹など世界トップレベルの科学者11名の署名を得て、第五福竜丸事件の翌年(1955年)7月にロンドンで原子力戦争の絶対反対を宣言(「ラッセル=アインシュタイン宣言」)、のちの「パグウォッシュ会議」へとつながってゆく。アインシュタインはラッセルの依頼で署名した2日後に死去し、これはかれの遺言ともなった。
ところで、ひとつの都市を一発で消し去るほどの威力をもつ原子爆弾の開発をアメリカが決めたのは広島・長崎への投下のちょうど6年前、1939年8月のことである。これはルーズベルト大統領に届いた1通の手紙がきっかけだった。
差出人は、故国ドイツを離れアメリカのプリンストン高等研究所教授となっていたアインシュタインだった。ナチスが原爆を開発している可能性があり、もし完成すれば世界はナチスに征服されてしまう、これを止めるにはアメリカがいち早く開発するしかないという内容で、ナチスから逃れ渡米していた物理学者らが世界的著名人のアインシュタインに依頼したのだ。生来目立つことが嫌いで平和主義者のかれは本意ではなかったろうが、自身もユダヤ人でナチスから迫害されていたし、1905年に発表した特殊相対性理論が原爆の基礎理論となるため、大統領への進言は自分の責務だと感じたようだ。
ルーズベルトは即座に原子爆弾の研究開発を命じ、極秘裏に米英の科学者・技術者を総動員して3年後の1942年には巨費を投じてニューメキシコ州ロス・アラモスに研究所を建設、本格的な開発・製造を開始する。有名なマンハッタン計画である。所長はドイツからのユダヤ移民2世である理論物理学者ロバート・オッペンハイマーであった。
このあたりの経緯は昨年3月に日本公開された映画『オッペンハイマー』(米アカデミー賞主要7部門受賞)に描かれたので観た人も多かったろう。原爆投下が戦争を終結させたという印象は崩さず、その惨禍などもほとんど描かれなかったのはアメリカ映画の限界だったが、作品としては観応えがあった。とりわけ本編最後でオッペンハイマーが先輩学者のアインシュタインに「われわれは世界を破壊してしまった」とつぶやき、核ミサイルが飛び交う世界終末の映像で終わるラストシーンはいかにも暗示的だった。
実際にアインシュタインは広島に原爆が投下されたニュースを聞いたとき悲し気に首を振り、のちに「もしドイツが原子爆弾の製造に成功しないということを知っていたら、私は原子爆弾に関して何もしなかったろう」と語ったといわれる。
さて日本にとって最大の不運は、ルーズベルトが原爆の使用法について側近らに何も語らぬまま1945年4月に急死したことである。かれは降伏寸前の日本の都市に無警告で投下するという暴挙には出なかったはずだが、急死したため副大統領のトルーマンが大統領の座に就き、就任の日にはじめてスティムソン陸軍長官から超極秘プロジェクト「マンハッタン計画」の説明を受け驚愕する。
驚異的な破壊力をもつ原子爆弾が完成すれば、ミズーリの田舎町の雑貨屋の倅で運だけで大統領になった男と軽侮されるのを恐れていた二流政治家ハリー・トルーマンにとって、これは最高の切り札となる。大統領就任の翌月にはドイツが降伏し、かれは側近のジェームズ・バーンズ国務長官と図り日本をターゲットに周到な計画を実行に移してゆく。
東京など主要大都市は空襲でほぼ焼き尽くされ、沖縄戦も終わりかけて日本が講和を求めつつあることをトルーマンは熟知していたが、原爆投下で世界にその威力を見せつけるまで日本を降伏させないこと、そして破壊力を正確に知るため無傷の中規模都市(新潟、広島、小倉、長崎)のうち2都市を選び、ソ連の対日参戦前(英米首脳は2月のヤルタ会談でソ連参戦を了承)に投下して獲物(日本)の分け前を取りに来るスターリンに先制することがかれらの極秘プランだった。このことは現代史家・鳥居民の労作『原爆を投下するまで日本を降伏させるな』(草思社)などでほぼ明らかになっている。
今年で原爆投下から80年、ラッセル=アインシュタイン宣言から70年となる。1991年のソ連崩壊と冷戦終結で核使用リスクは一時低減したが、ウクライナ戦争や北朝鮮の核保有などでいまや最悪レベルに達している。1945年にアインシュタインやオッペンハイマーらによって創刊された米誌『ブレティン・オブ・アトミック・サイエンティスツ(原子力科学者会報)』は今年1月、「終末時計」が世界の終わり(午前零時)まで残り時間「89秒」と過去最短になったと発表した。人類滅亡の危機は、依然わたしたちの目の前にある。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
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