そのうちの一巻に「文政十年六月十六日」と表書きされたものがあり、香宗我部氏に仕え豊後国戸次川にて忠死したという松岡六太由義兼からはじまっていて、それ以前の記述はない。文政十年は西暦1827年で、坂本龍馬が生まれる9年前だ。
香宗我部氏は戦国時代の土佐七雄のひとつで、現在の香南市あたりを本拠とする豪族だった。戦国末期に長宗我部元親の弟を養子に迎え、以降は長宗我部氏の一族となる。秀吉の命により九州平定に向かった長宗我部元親率いる四国連合軍が天正十四年十二月十二日(1587年1月20日)に九州豊後国(現大分県)に上陸し、迎え撃つ島津軍に敗れた戸次川の合戦でわが先祖は戦死したようだ。ちなみにこの戦いで元親は生き残ったが愛息信親が壮絶な討死を遂げ長宗我部軍ら豊臣勢は潰走、森鴎外は叙事詩『長宗我部信親』でこの悲劇を流麗に謳いあげ、司馬遼太郎も『夏草の賦』で作品のクライマックスに描いている。
ところでこの系図には「松岡家先祖」と題された200字ほどの前書きがあり、六太夫義兼以前の記録がない理由が述べられている。松岡文次右衛門義重(享保三年=1718年に54歳で没)から聞いた話として<寶永四丁亥冬十月四日大地振浪入屋…>とあり、1707年10月28日(旧暦で宝永四年十月四日)に発生した地震の津波により系図書や土佐藩から領地を給わった際の書類など大半が流され、残った箱の文書も文字が消失してしまったと書かれている。冬とあるのは意外だが、当時の10月末はすでに冬の感覚だったのだろう。
さてわたしが当家系図を最初に見たときから気になっていたのがこの地震のくだりだ。
これは宝永地震として知られ、2011年の東日本大震災を起こした東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)が発生するまで、推定可能な範囲では日本史上最大の被害をもたらした大地震だった。推定マグニチュードは8.6だが、実際は2011年の地震に匹敵する規模だったのではないかともいわれる。
宝永地震は遠州灘から四国沖を震源として発生し、南海トラフから西南日本に沈み込むィリピン海プレートと西南日本の陸プレート(ユーラシアプレート)との境界を大きくずらした巨大地震で、ちょうど2011年の東北地方太平洋沖地震の“西日本版”といえる。死者は西日本太平洋側を中心に約5千人とされ、当時の人口から考えると相当な数だ。さらには地震の49日後に富士山が噴火して関東に降灰被害をもたらし、富士山の一部を歪(いびつ)にしている宝永火口を形成したことは巨大地震による地殻変動の凄まじさを物語る。
またこの地震による死者のほとんどは津波によるもので、とりわけ土佐において沿岸部の村々が流されたという記録が多く残っており、野市か赤岡近辺に住んでいたと思われるわが先祖松岡義重の一家もこの津波に襲われて家財が流されたものと推察できる。地殻変動も凄まじく室戸岬が1メートル以上隆起し、高知平野が広範囲に沈降して浦戸湾が大きく拡がったといわれる。
さて問題はここからだ。
室戸岬の西方約5kmに、野中兼山の命で荒磯を掘削してつくった室津港がある。江戸期には参勤交代や商都大坂との行き来に使用された重要な港で、戦後は遠洋マグロ漁の基地として大いに栄えた現役の漁港だ。
この港の「港番役」を土佐藩から任じられていた久保野家に、1700年代以降の港の水深や海底隆起に関する記述が書かれた80点の古文書(2021年に高知城歴史博物館へ寄贈)が遺されており、それを昭和5年(1930年)4月に調査に訪れた地震学者・今村明恒博士が当主の久保野繁馬から見せられたことが、いま世情を混乱させている南海トラフ地震発生確率のきっかけとなった。
今村は「予は貴重な史料に接し、恰も大発見をなした様な思い…」とのちに記すほど興奮し、この古文書に記録された宝永地震とその147年後に起きた安政南海地震における海底隆起の数値をすぐに論文で紹介する。そしてこの古い今村論文をもとに島崎邦彦東大名誉教授が「時間予測モデル」(規模が大きな地震のあとは次の地震までの時間が長くなり、小さな地震のあとは短くなる)という理論を考案し、南海トラフ地震発生確率を導き出す根拠としたのだ。ちなみに今村明恒は大正12年の関東大震災を事前に警告したことで時代の寵児となった旧東京帝大の有名な学者で、島崎ら東大系学者の師匠筋にあたる。
政府は完全ノーマークだった1995年の阪神・淡路大震災で「地震予知」の無力を悟り、「発生確率」と「活断層調査」に方向転換する。その結果、2001年に初めて南海トラフ地震の発生確率を「今後30年以内に40%程度」と発表したのだが、これは当時の地震調査委員会(以下調査委)の長期評価部会長であった島崎が考案した「時間予測モデル」で出した最初のものだった。
ところが2011年に未曽有の東日本大震災が発生、衝撃を受けた調査委は2013年に「60〜70%」と発生確率(及び想定津波高さ)を大幅に引き上げ、今年(2025年)1月にはこれを「70〜80%程度」に更新した。だが驚いたことにその舌の根も乾かぬ9月にまた変更し、「60%〜90%程度以上」と他の地震の計算法による「20〜50%」を併記すると発表したのだ。「発生確率は2種類あるので好きな方を選んでください」というわけで、もう絶句するしかない迷走ぶりだ。
さらには現在の調査委の長期評価部会長である佐竹健治東大名誉教授が「科学的に正直な数字を出せた」と平然とのたまわったことに、わたしは唖然とした。これまでの数字はすべて科学的に不正直だったと白状したようなものでまさに語るに落ちたわけだが、予算獲得と国民の危機意識を煽るために高い発生確率を出す必要があり、その根拠にするために「時間予測モデル」が発案されたのではないか、とすら邪推したくなる。調査委の中にもこのモデル採用に批判的な学者も複数いたらしいが、当時はこれを覆すだけの論拠がなく予算獲得優先派に抑え込まれた経緯があるといわれている。
確率を2種類併記する理由として調査委委員長の平田直東大名誉教授は「過去の地盤隆起データの誤差や予測の不確実性を考慮した」と述べている。ここにある過去の地盤隆起データこそが室津港に関する久保野家文書のことで、実は2024年、日本自然災害学会の学会誌『自然災害科学』にこの文書に関する論文が発表されたことが決定打となった。
論文の著者は従来から調査委発表の発生確率に疑義を呈していた橋本学京大名誉教授・東京電機大特任教授(他2名)で、2021年に来高して高知城歴史博物館が所蔵する久保野家文書を仔細に検討した結果、この古文書を紹介しただけの今村論文を基にした計算法は南海トラフ地震発生確率に使えるほどの正確なものではないと断定したのである。
その理由として橋本は、宝永地震前後の測深データは庄屋(役人)の記録の写しで測定時期も測定方法も不明なこと、開港以来毎年のように大勢の人員を擁して浚渫工事を行っており測深データそのものが不正確なことなど多くの重大な問題点を指摘し、この文書は貴重な史料だが地震発生確率を算出するに足るデータにはならないと結論付けている。
さらに驚くべきは、「時間予測モデル」の発案者である島崎が原本の久保野家文書すら見ておらず、今村論文だけで計算法を考案したことを東京新聞の記者に告白していることだ。この一事だけでも、いかに政府発表が科学と程遠いかがわかるだろう。
ただ橋本論文が出たとはいえ調査委がこれまでの発表を引っ込めるはずもなく、やむなく2種類の数字を出すという馬鹿げた、いや「科学的に正直な」折衷案となったわけだ。
宝永地震の147年後の1854年に安政東海地震(推定マグニチュード8.4)、その30時間後に同規模の安政南海地震が発生しているが、この2つ合わせても死者数は宝永地震の半分ほどで被害も比較的小さかった。また安政地震の92年後(1946年)に発生した昭和南海地震(マグニチュード8.0)はさらに規模も被害も小さかったため、十分にエネルギーが解放されておらず海溝部にひずみが大きく溜まっている可能性はある。最悪の場合、次の地震は東北地方太平洋沖地震クラスつまり宝永地震の再来を覚悟する必要はあるが、確かなのは海溝型地震が90年〜150年周期で発生することと昭和南海地震から80年経ったということだけで、次に起こる地震の予測について現在の科学はほぼ無力なのである。
”当たるも八卦当たらぬも八卦”に等しい非科学的で無意味な地震発生確率もそうだが、兵庫のあとの東北、熊本、能登と大きな被害を出した近年のすべての大地震に一言の警告すら出せなかった地震調査委が国民をいかにミスリードしてきたかは明白だ。
”地震村(ムラ)”を牛耳る御用学者らの無責任さに、わたしは腹が立って仕方がない。(敬称略)
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
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