2024年03月26日

死もまた社会奉仕

 ここ1年半ほどは、政界の腐敗が次々と暴かれるスキャンダルのオンパレードだ。これほどまでに自民党は腐り切っていたかとあきれるばかりだが、それにしても民主国家とは言い難いこの日本でよくぞこれらが表に出たものだと近ごろは思うようになった。
 自民党との永年の癒着を背景に多くの被害者を生んだ旧統一教会事件とほぼ同時期に表に出たのが五輪汚職だ。世論の反対を押し切ってコロナ下に強行された東京五輪は、数えあげればきりがないほどのトラブル続きでまさに呪われた五輪だったが、挙句に電通などが絡む大胆かつ悪辣な贈収賄事件にまで発展して世間を唖然とさせた。これにつづいて噴出した自民党派閥の裏金事件はさらに超ド級の政界スキャンダルとなり、戦後日本を牛耳ってきた自民党の見るも無残な腐敗ぶりと政治家たちの唾棄すべき卑劣さをいやというほど見せつけられた、日本政治史にも残る出来事となった。
 そしていまさらにして思うのは、これらの事件がすべて安倍晋三というたった一人の政治家との深いかかわりによって起きたという事実の重大さだ。これほど特異な事例は明治以降の政治史にもほとんど類がないのではないか。
 森友・加計・桜の疑惑から逃げ切るためコロナ対策失敗による支持率低下を機に総理の座を突然投げ出し、自民党最大派閥「安倍派」の領袖として隠然とした力を持ち続けていたこの人物が、もしいまでも存命だったらどうなっていたか。ここ1年半の間に噴き出した重大な政治スキャンダルの数々は強権的な力によって押さえ込まれ、疑惑のまま闇に埋もれてしまったのではないか。
 そう考えたとき、戦後62歳で政界入りして総理大臣まで務めたジャーナリスト出身の石橋湛山(いしばしたんざん)の名言「死もまた社会奉仕」が、頭をよぎるのだ。これは明治維新の元勲山県有朋(やまがたありとも)の死去(大正11年)に際して湛山が『東洋経済新報』に書いた評論のタイトルである。山県は80歳を過ぎてもなお政界に睨みをきかせ、隠然として君臨していた。
 湛山はこう述べる。
 <維新の元勲のかくて次第に去り行くは、寂しくも感ぜられる。しかし先日大隈侯逝去の場合にも述べたが如く世の中は新陳代謝だ。急激にはあらず、しかも絶えざる、停滞せざる新陳代謝があって、初めて社会は健全な発達をする。人は適当の時期に去り行くのも、また一の意義ある社会奉仕でなければならぬ。…一人の者が、久しきにわたって絶大の権力を占むれば、弊害が起る。>
 これを書いた湛山はすでに東洋経済新報社の取締役ではあったが弱冠38歳。83歳の元勲山県有朋の死をもって社会奉仕と言い放つ言論人石橋湛山の肚(はら)のすわりようには驚嘆するほかない。
 山県有朋と安倍晋三ではあまりに格がちがい、同等に論じられないのは云うまでもないが、共に長州出身で、権力志向が異常につよく、国家権力により国民を監視して反対者は封殺すべきとの信念を持った専制的リーダーであったことなど共通点が多いのも事実だ。安倍が山県をとりわけ畏敬していたのはよく知られるが、数百人の社会主義者らを証拠不十分のまま一斉検挙し、土佐中村(現四万十市)出身の幸徳秋水を筆頭に12名を処刑した明治44年の大弾圧事件(大逆事件)は、当時の元老山県のつよい意向によるフレームアップだったといわれている。
 旧統一教会により家庭崩壊の憂き目にあったひとりの不幸な男による元首相暗殺という未曽有の出来事が、旧統一教会問題だけでなく五輪汚職と自民党裏金事件という空前の大醜聞を暴き出し、それが国民を目覚めさせついに政権交代ということになれば、まさに湛山流にいう「安倍晋三の死もまた社会奉仕」ということになるだろう。
 さて、一方で忘れてはならないことがある。安倍一強時代からの失政により日本は課題山積でじつのところ相当な危険水域にあり、国会もマスコミも政治スキャンダルに右顧左眄(うこさべん)して時間を空費している場合ではないのだ。地球温暖化対策、防災対策、教育・少子化対策は待ったなしだが、より喫緊の課題が、脆弱の極にある食料とエネルギーの安全保障、そして国防政策である。
 一昨年暮れに岸田文雄首相が突如発表した防衛予算倍増にはだれしもがあきれたことだった。日本はこれまで憲法を盾に防衛費GDP比1%を守ってきたが、いきなりNATO諸国並みに2%まで増やすというわけだ。戦時下でもないのに防衛予算を一挙に倍増する国なぞ見たことがないが、野党が弱いため何をしても自民党政権は盤石というおごりがこの狂気じみた行動に出させたのだろう。
 むろんこれは岸田の独自政策ではない。第2次安倍政権のころからすでにアメリカから武器の大量購入を要望され、2020年には戦闘機F35を147機も“爆買い”する約束をしてトランプ大統領を大いに喜ばせたが、そんな安倍でさえ国内世論と中国の反発が予想される極端な防衛予算増には踏み込めなかったのだ。ところが鈍感力が服を着て歩いているような岸田が、おそらくはバイデン大統領から凄惨なウクライナ戦争を例に、台湾有事で困るのは日本だよ、なぞと説得されるや舞い上がってあっさりと飲んでしまったのだ。
 これにはそれなりの根拠がある。バイデン本人が昨年6月20日、カリフォルニア州での支持者集会で「日本は長期間、軍事費を増やしてこなかった。私は日本の指導者に広島(G7サミット)を含め3回会い、彼(岸田首相)を説得した。彼も何か違うことをしなければならないと確信した。そして日本は指数関数的に軍事費を増やした」と自慢げに内情を喋ってしまったからだ。
 この発言に大慌(あわ)てしたのが岸田だった。これではアメリカから要求されて防衛費倍増を決めたことがバレて立場をうしなう。すぐに外交ルートを通じて発言訂正を申し入れ、1週間後にアメリカ政府は「彼は私の説得を必要としなかった。彼はすでに決めていた」と、とってつけたような短い大統領コメントを出したことだった。
日本の首相の名前さえ記憶していない高齢のバイデンがうっかり本当のことを喋ってしまったのは明らかで、まさに“語るに落ちた”わけだ。
 さてここで、湛山の遺言ともなった論評にふれないわけにはいかない。
 2年前のロシアによるウクライナ侵攻とよく似た事件が東西冷戦時代に起こる。チェコスロバキアのドプチェク政権が進める自由化政策(「プラハの春」と呼ばれた)に危機感をもったソ連が1968年(昭和43年)8月、同国に軍事侵攻した事件だ。
 戦車に蹂躙される首都プラハの様子を見て怖くなったか、あるいは絶好のタイミングと判断してか当時の首相佐藤栄作(安倍晋三の大叔父)が「日本の自衛力は足りないと思う」と軍拡へ踏み込みはじめたのだ。これに対して84歳の湛山が『東洋経済新報』に「日本防衛論」を発表して反駁(はんばく)する。
「なるほど、チェコの自衛力が不足だったから、あのような苦難に陥ったというのは事実である。しかしそうかといって、日本もまた自衛力を強化しなければならぬというのは、戦前の軍備拡張論と同じ危険な考え方だ」とし、明治維新や第2世界次大戦、泥沼化しつつあったベトナム戦争を例に論評を加え、「わが国の独立と安全を守るために、軍備の拡張という国力を消耗するような考えでいったら、国防を全うすることができないばかりでなく、国を滅ぼす。したがって、そういう考え方をもった政治家に政治を託するわけにはいかない」と厳しく論難したのだ。
 憲法を解釈変更で次々と骨抜きにし、挙句には防衛予算倍増にくわえ敵基地攻撃能力を明記した安保関連3文書を閣議決定だけで採択して戦争への道をひらいた愚昧なる政権リーダーらを見て、泉下の湛山はなんと言うだろうか。
 東大・鈴木宣弘(のぶひろ)教授の『世界で最初に飢えるのは日本』(講談社+α新書)によると、日本の食料自給率はカロリーベースで37%だが、ほぼすべてを輸入に頼る野菜の種、家畜のエサ、肥料などを考慮した「真の自給率」は10%にも満たないという。戦前の日本の食料自給率は86%、大抵のEU諸国はいまでも穀物自給率100%超だ。いくら軍拡しようが、海外からの食料を止められたら日本は戦争どころかあっという間に飢餓に陥る、世界でもっとも食料安全保障の脆弱な国なのである。
 安全保障が国民の命を守ることであるなら、いま何を優先すべきかは小学生でもわかること。「食料は武器より安い武器」というアメリカの狡猾な対日戦略にズルズルと呑み込まれていつのまにか完全な食料輸入国に転落し、おまけに防衛予算倍増を飲まされ際限なく武器を買わされて自ら戦争に近づきつつあるのが日本の現実なのである。
 比類なき自由主義者で真の愛国者であった湛山の思想が、いまほど必要とされるときはない。(敬称略)

 Text by Shuhei Matsuoka
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2023年12月26日

巨人熊楠に訊け

 高知城のそばにかつて、丸ノ内緑地と名付けられたちょっとした森があった。追手門の南側、新しい高知城歴史博物館とお堀を隔てた一帯である。この鬱蒼とした森が最近、すっかり消えてしまったのだ。昭和51年に貴重な都市緑地として開設され、半世紀近くを経てやっと樹々も大きくなり一人前の森になりかけたばかりであったが、そのほとんどが伐採され遊歩道と芝生の寒々とした広場になってしまった。
 管理者である高知市のホームページには、高知城の天守が見えるように景観整備、中心市街地にあるオープンスペースとして賑わいの創出、防災機能確保などを目的とし、総工費3億2千万円でリニューアルしたとある。そもそも少し離れれば丸ノ内緑地の向こうに天守は見えたし、火災時に延焼を防ぐのは大きな樹々の生い茂る森であることは常識で、それを潰してまでなぜ広場が必要なのかまったく理解に苦しむが、このあきれた計画に高知市民から反対運動が起こったという話は聞かない。
 規模もその来歴もまったく異なるが、都市緑地の重要性とエコロジーの意義がまったく理解されていないという点で、消えた丸ノ内緑地と東京の明治神宮外苑再開発計画とは明らかに通底している。神宮外苑のシンボルである樹齢百年を超える壮麗なイチョウ並木とその向こうにひろがる鬱蒼とした森を見れば、だれしもが東京の懐の深さを感じるはずだ。都心部には明治神宮内外苑のほか皇居(江戸城跡)、新宿御苑、代々木公園、上野恩賜公園、旧藩主邸宅跡の庭園など広い緑地が点在し、一人当たりの緑地面積は大阪市の倍以上である。これらの都市緑地は貴重な文化遺産であるだけでなく防災上もきわめて重要で、大気・水・河川などと同様に市民が平等に恩恵を受けるべき社会的共通資本である。行政や所有者が好き勝手にどうにかできるものではない。
 神宮外苑の再開発計画は、三井不動産などが事業主体となり、宗教法人明治神宮が大部分を所有する神宮外苑内にある神宮球場や秩父宮ラグビー場など老朽化したスポーツ施設を建て替え、高級マンション、ホテル、オフィスなどが入る超高層ビル2棟と高層ビル1棟を新築する総事業費3490億円という大プロジェクトだ。それがなぜ問題視されるのかといえば、明治天皇・皇后を祀る明治神宮内外苑の創建にあたり都民からの献木や寄付によって創り上げた鬱蒼と生い茂る巨木群がごっそり伐採されるからであり、神宮外苑とは不釣り合いな超高層ビルの存在や工事自体によってイチョウ並木に悪影響が出る可能性がきわめて高いからだ。計画では移植・植樹により緑地は5%増えるというが、破壊された生態系は元には戻らないし、そもそも樹齢百年を超える743本(三井不動産の発表)もの神木を伐り倒すことに一片の罪悪感すら感じないのかと、わたしなどは不思議でならない。
 たださいわいにもこの暴挙に異を唱える人々が出はじめ―そこがわが丸ノ内緑地と違うところだが―音楽家の故坂本龍一を嚆矢として村上春樹などの作家、桑田佳祐などのミュージシャンら著名人がこぞって計画反対を表明、今年9月にはユネスコの諮問機関イコモス(国際記念物遺跡会議)が計画撤回をもとめる緊急要請「ヘリテージ・アラート」を発出するに至った。これにより事業者側もさすがに強引には進められないと判断してか伐採は延期されたが、計画自体を撤回する気はさらさらないようだ。
 丸ノ内緑地の伐採も明治神宮外苑再開発計画も、土地の有効活用や経済効率優先といった浅はかで近視眼的な発想から全国の貴重な鎮守の森などを濫伐してきた所業の延長線上にあるのは論を俟(ま)たないだろう。SDGsなぞと口では言いながら、実態は昔と何ら変わらない。
 さてここで日本人初のエコロジスト南方(みなかた)熊楠(くまぐす)(1867〜1941)を想起したい。
 慶應3年に紀州和歌山に生まれ、大学予備門(のちの東京帝国大学)を中退してのち英米を中心に14年間もの学問修行を経て和歌山に戻り、田辺に居を構えて『ネイチャー』など英文科学誌に論文を次々と発表、世界に向け発信し続けた在野の学者・思想家である。
 熊楠の研究分野は広大無辺で博物学、民俗学、植物学、人類学、宗教学とまさに森羅万象にわたり、並外れた語学力(二十数ヵ国語を自在に操った)で東西の万巻の書を読破し、驚異的な記憶力と集中力で論文や長文書簡を国内外の雑誌や学者宛に書きまくった博覧強記のまさに巨人であった。熊楠と親交のあった民俗学者柳田國男の次の一文は、熊楠の底知れぬ天才の一端をよく表していよう。
 <…ところが我が南方先生ばかりは、どこの隅を尋ねて見ても、これだけが世間並みというものが、ちょっと捜し出せそうにも無いのである。七十何年の一生の殆ど全部が、普通の人の為し得ないことのみを以て構成せられて居る。私などはこれを日本人の可能性の極限かとも思い、又時としては更にそれよりもなお一つ向こうかと思うことさえある。>(『ささやかなる昔』筑摩叢書)
 風貌魁偉で奇行の数々でも知られる熊楠であったが、しかしたんなる変り者の学者ではなく、実に信念の人でもあった。それを象徴するのが明治39年(1906年)に発令された「神社合祀令(ごうしれい)」への、それこそ命がけの抗議運動である。
 中央集権国家を目指す明治政府が、神道の国教化政策の一環として一町村一社を原則とし、その他の小社・小祠を壊して他の神社へ併合させるとした政策で、これにより廃社と決まった神社や祠を取り巻く神木群、いわゆる鎮守の森が破壊されていった。「南方の生涯のハイライトは神社合祀反対運動である」とする社会学者鶴見和子の『南方熊楠―地球志向の比較学―』(講談社学術文庫)によると、1911年までの5年間に全国で約8万社が合併または廃社され、とりわけ三重と和歌山が顕著で三重では6.8分の1、和歌山は4.7分の1にまで減少したという。樹木払下げのカネ目当てに地方役人と業者が結託し、濫伐に拍車がかかったことが決定的となった。
 これに怒ったのが熊楠だった。熊楠は1909年から地元紙に神社合祀反対の意見を発表しはじめ、翌年には神社合祀推進者の県吏に面会を求め講習会場に乱入、家宅侵入罪で逮捕され18日間拘留される。1911年には柳田國男が熊楠の神社合祀反対意見書を「南方二書」として印刷し関係各所に配布、1912年には『日本及日本人』に2万8千字におよぶ「神社合併反対意見」を連載するなど、抗議運動に生活のすべてをかけるようになる。フンドシ一丁で大楠の前に立ちはだかるなど荒れ狂う熊楠を見て、神社の宮司の娘である妻松枝が子どもを置いて実家に帰ると泣きわめいたとき、出刃包丁をもった熊楠が馬乗りになり、お前がそのようにふらふらしては困ると諭したエピソードもあるほどで、まさに命がけの抗議運動だったのだ。
 こうした熊楠の人生をかけた不退転の抵抗のすえ、ついに1918年(大正7年)、国会で神社合祀令の廃止が決まり、実に11年間におよぶかれの闘いは終わる。2004年に「紀伊山地の霊場と参拝道」が世界遺産に登録されたが、これなどまさに熊野の森を救った熊楠のお蔭なのである。
 熊楠は、自然を破壊することはその土地の生態系のみならず人間社会の破壊につながることを必死で説き続けた世界でも先駆的なエコロジストであった。実際に1911年(明治44年)の柳田への書簡で、田辺湾に浮かぶ神島(かしま)について「昨今各国競うて研究発表する植物棲態学ecologyを、熊野で見るべき非常の好模範島なるに…」と述べ、かれの思想の根幹に明治末期においてすでに生態系エコロジーの発想があったことを示している。
 さらには因果応報というべきか、この書簡にある熊楠の愛した神島が、晩年のかれに奇跡のような僥倖をもたらすことになる。熊楠の神社合祀反対運動により辛うじて自然が守られた象徴的なこの島に1929年(昭和4年)、南紀行幸の昭和天皇を62歳の熊楠が迎え、粘菌標本を献呈して35分間進講するという栄誉が与えられたのだ。この一椿事は、原生生物の研究者であった昭和天皇の政府への皮肉な意趣返しともとれ、また献呈された粘菌標本110種が桐の箱ではなくキャラメルの箱に入れられていたことを天皇が面白がって、「あれでいいではないか」と嬉しそうに側近に語ったという逸話も残っている。
 天皇はのちに、<雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ>と詠み、在野の巨人熊楠を哀惜している。
 いまの日本人は、はたして熊楠や昭和天皇ほどに自然への畏敬の念をもっているか、エコロジーの真意を理解しているのか。消えた丸ノ内緑地や神宮外苑の再開発計画を見るにつけ、わたしは暗澹たる思いになる。森林破壊に命がけの抵抗をした先駆的エコロジスト南方熊楠の射るような鋭い眼光は、われわれ現代人にこそ向けられているのだ。(敬称略)

 Text by Shuhei Matsuoka
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2023年09月25日

美と幸福の神さま

 京都の河井ェ次郎記念館と河井家の日常を淡々と描いた、「すべてのものが幸福にしかなれない處」というタイトルのNHKBS番組が先日放送され、たまたま観ていて十数年前のささやかな悔恨の記憶がよみがえった。
 東京南青山に住む妹に会いに行くため地下鉄表参道駅からの道すがら骨董通りを歩いていたとき、ビルの1階にある間口の狭い小体(こてい)な骨董店をガラスドア越しに何気なく覗いたところ、ある作品に目が吸いよせられた。店は閉まっていたが、ふしぎな曲線を帯びた6号ほどの額が入口近くにかかっており、見覚えのある特徴的な文字(おそらく木版)でなにやら片言隻語が書かれていたのが見えたのだ。はたしてそれは、予想したとおり河井ェ次郎(1890〜1966)の作だった。ほう、こんなところに河井ェ次郎、とわたしはうれしくなった。
 値段ははっきりとは憶えていないが、10〜15万円ほどではなかったか。これはまったく手の出ない金額ではないと思いつつ、ガラスドア越しにしばし見入っていたが、いかんせん店は閉まっている。わたしは後ろ髪をひかれる思いで立ち去り、迂闊にも何が書かれていたのかすら記憶せず、そしていつのまにかそのこと自体をすっかり忘れてしまったのだった。このチャンスを逃したことをその後、しばしば後悔することになる。
 京都五条坂に、陶芸家河井ェ次郎の記念館はある。ェ次郎自らが設計した住居兼仕事場が陶器、木彫、家具などの作品群とともに保存されており、だれでも入館できる。敷地内には登り窯もある。外観は看板がなければ普通の京町屋にしか見えないが、中はもうまさに別世界、別宇宙。だれしもがブッタマゲ、自身に巣喰う“常識”がいかに貧相なものかを思い知らされることになる。河井ェ次郎が紛うことなき天才であったことが、どんな鈍感な人にもわかるはずだ。ちなみにェ次郎は俗世の褒章などにまるで興味がなく、人間国宝、文化勲章を辞退している。
 ェ次郎を導いた民藝運動の創始者柳(やなぎ)宗悦(むねよし)による東京駒場の日本民藝館の圧倒的な建築と展示物、倉敷の大原美術館内にある工芸・東洋館もすばらしい展示物にあふれ、ともに大好きな施設だが、生活と美と神秘が混然となったこの河井ェ次郎記念館はちょっと別格だ。
 さてこの不世出の天才と、のちに日本を代表する“知の巨人”と称されるようになる民族学・比較文明学の泰斗、梅(うめ)棹(さお)忠夫(1920〜2010)とのふしぎな出遭いはわたしにはたまらなく愉快なエピソードだ。昭和30年代、梅棹はたびたび河井邸に遊びにいったという。
 <わたしはべつにェ次郎大先生にお目にかかるために河井邸をおとずれたのではない。そのころのわたしは、陶器のことも民芸のこともわからぬ一介の青年生物学徒であって、ェ次郎大先生が引見してくださるわけもなく、お話をうかがったところでネコに小判であった。じつは御曹子の博次君が京都一中以来の親友で、その博次君をたずねて河井邸にゆくようになったのだった。
 ところがふしぎなことに、いつのまにか老先生はわたしをつかまえて談論風発ということになり、このネコにもすこし小判がわかるようになった。博次の解説と指導で、この世界のことが、すくなくとも感覚的には身ぢかのものに感じられるようになっていたのである。河井邸の訪問は、たのしかった。
 河井邸は、ふしぎな造形にみちた家であった。どの部屋にも、脳天にナタをぶちこむような強烈な形態のものがごろごろしていた。わたしは、巨大な手の指が天空をさしてつったっていたのをわすれない。それは、ある不気味さをさえはらんだ存在であったが、おどろくべき質量感、生命感をもって、座敷にすわっていた。いまからおもえば、あれが「手」の連作だったのだ。>(『美意識と神さま』中央公論社)
 この一文は、ェ次郎没後10周年を記念して神戸で開催された河井ェ次郎「木の仕事展」に併せて出版されたェ次郎木彫作品集に梅棹が寄稿した「アニミズム的神像作家−河井ェ次郎」からの抜粋である。
 わかい梅棹も、見る者を絶句させずにはおかぬあの巨大な手の木彫などにただならぬものを感じたクチだったのだ。どこか飄然としたェ次郎翁が梅棹青年とニコニコと親しく話しこんでいる微笑ましくもすこし滑稽な姿を想像するだけで、わたしはなぜか幸せな気持ちでいっぱいになる。ェ次郎もこの聡明な青年におおきな将来性を見出したのだろう。
 のちに梅棹忠夫は戦後京都学派のリーダー格となり23巻におよぶ膨大な著作集や多くのエッセーなどを遺すことになる。とりわけ『文明の生態史観』(1957年)と『知的生産の技術』(1969年)はあまりにも有名で、現在でも版を重ねる大ベストセラーだ。
 梅棹には豊かな教養・知識や卓越した文章力だけでなく、たぐいまれな行動力(研究者として文字通り世界中を踏破している)を背景にした際立った独創性と科学的論理性があり、鋭く時代を読んで未来を見通す洞察力があった。そして世の中につよいインパクトを与えつづける稀代のアジテーターでもあった。
 一方で、学者に限らず権威をふりかざす輩(やから)を軽侮・忌避し、独創性のない言説やニセモノに容赦はなかった。世の凡百の学者・インテリから恐れられたのも、むべなるかなといえる。それはたとえば戦後知識人の代表格とされた丸山眞男ですら例外ではなかった。
 丸山が京大に講演に来たとき、若手研究者だった梅棹は途中で席を立ってしまった。そのときのことを弟子筋にあたる文化人類学者の小山修三に訊かれ、こう回想している。
 <ああ。「こんなあほらしいもん、ただのマルクスの亜流やないか」って。そのときも桑原さん、「ああいうことやっちゃいかん。あれは、東京で偉いんやぞ」って。(笑)実はあとでわたしは丸山眞男と親しくなった。ものすごく陽気でいい人物だった。おもしろい人やったね。でも、話はつまらん(笑)。あんなものは、理論的にただマルクスを日本に適用しただけのことで、何の独創性もない。>(『梅棹忠夫 語る』日経プレミアシリーズ)
 京大人文研で梅棹の先輩格であった碩学の桑原武夫をして「ぼくは秀才やけど、梅棹君は天才や」と言わしめたほどの大学者であったのだ。
 さて河井ェ次郎である。
 河井ェ次郎の作品にはどこにも無意味な装飾や理屈っぽさ、奇を衒(てら)った繊弱なデザインはない。
 陶器はどれも造形そのものが魅惑的で、独特の色合いの中に浮きあがる大胆な文様がどしりとした質感を与えている。無機物であるはずの陶器に生命の存在すら感じられ、手にとって撫でてみたいという誘惑にかられるのだ。一方で晩年におおく製作した木彫には無邪気なまでの無目的性とプリミティブなおおらかさがあり、梅棹はそこにアニミズムを見たわけだ。これはいったい何なのか?とだれしもが目を見開いて凝視する圧倒的な存在感に、わたしも人類の原初的な−より具体的には縄文的な−美を感じたことだった。
 宗教哲学者の柳宗悦は昭和の初め、貴族的な工藝品ではない名もなき工人たちによる民衆的工藝品に「用の美」を見出して民藝品と名づけ、いわゆる民藝運動を創始した。その運動には柳の思想に共鳴した河井ェ次郎や濱田庄司などおおくの異才が集ったが、板画家の棟方志功もそのひとりだった。大地から躍り出た神々をそのまま版木に刻みつけたような躍動感と生命力に満ちた棟方の作品にも、ェ次郎のそれに相通じる日本古来のプリミティブで縄文的な美があきらかに存在する。
 河井ェ次郎や棟方志功の前では、岡本太郎なぞはただの子供だましに過ぎず、天才の名をほしいままにするあのパブロ・ピカソですら色あせて見えるほどだ。
 ところで、河井ェ次郎は陶器や木彫だけでなく折々に魅力的な言葉を遺しており、記念館にもェ次郎作の額縁に入れられて展示されている。わたしが東京の骨董通りで買いそびれたのもそのひとつだったのだろうか。最後にかれの言葉のいくつかを紹介しよう。
 暮らしが仕事 仕事が暮らし
 新しい自分が見たいのだ―仕事をする
 此世は自分をさがしに来たところ、此世は自分を見に来たところ
 美はすべての人を愛している
 美はすべての人に愛されたがっている
 美はすべての人のものになりたがっている
 神話のくに出雲安来に生をうけ、京都で生涯にわたり「美」の本質を探究しつづけた河井ェ次郎―。一工人としてひたすら自らと向き合い、そこから生み落とされた作品群で見る者すべてを幸せな気持ちにさせる。なんと豊穣で、見事な人生であったことか。

 Text by Shuhei Matsuoka
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2023年06月27日

税金で飯を食うということ

 先日、『生きるLIVING』という新作のイギリス映画を観て、いろいろな想いが頭をめぐっている。
 この映画は黒澤明監督の『生きる』(1952年封切)をリメイクしたもので、ノーベル賞作家カズオ・イシグロの脚本と知り映画館に足を運んでみたのだが、期待をこえる出来映えにうなってしまった。
 黒澤の『生きる』はストーリーもさることながら主役の志村喬の怪演で成り立っていたからかれの役が嵌(はま)らなければ映画にならないが、イギリスの国民的俳優ビル・ナイの志村とはまたちがった、もの静かで哀しみを内に秘めたふかい演技力によってこの映画はたんなる名作のリメイクではない、もうひとつの観るに値する秀作に仕上がっていた。
 イシグロは若いころ黒澤の『生きる』につよい感銘を受けたらしく、本作でも原作を十分に尊重し、舞台こそロンドン、東京と異なるが両作とも第2次大戦後の役所での出来事を主題にしており、がんで余命半年と告げられた定年間近の市民課長が、死んでいるも同然だった空虚な役人人生にハタと気づき最後に生きる意味を見出すというストーリーや主な登場人物などもほぼ忠実になぞられている。雪の降る公園でブランコを漕ぎながら主人公が歌を口ずさむ有名なエピローグも、もちろん再現される。
 ただあえて云えば、この両作にはひとつだけ大きな相違点がある。原作には痛烈な役人批判、役所批判がこれでもかとばかり込められているが、リメイク版は役所の“事なかれ主義”はもちろん描いてあるものの原作のエゲツなさは抑えられ上品に仕上げてあるところだ。お国柄の違いもあろうが、幼時に渡英したイシグロならでは、イギリス社会への遠慮と紳士の国への憧憬がそうさせたのではないかとわたしは勝手な想像をしている。
 実は原作の『生きる』は上映時間が本作より約40分もながい。その40分に黒澤、橋本忍、小國英雄という脚本スタッフの役人社会へのつよい義憤と侮蔑を込めた感があり、もっとも重要となるラストの場面にそれは如実にあらわれる。リメイク版では主人公の葬儀後に列車の中で市民課職員らが粛然とした面持ちで会話を交わすシーンとなっているが、原作では役所のトップから各部署の小役人まで大勢が出席する主人公の通夜の席となっており、ここで黒澤はいささか辟易(へきえき)するほどの執拗さで役人と役所の実態を皮肉たっぷりに描いている。当時役人が観たらかなり不快な気分になったのではないかと思えるほどだ。
 いずれにしろ役所も時代とともに多少は変化し、また直接市民と接する市役所のような自治体もあれば霞が関の官僚組織もありひと括りにはできないが、役所幹部や議員にひたすら阿諛(あゆ)し、決して余計なこと(市民・国民のためになること)はせず、出世最優先で責任回避を旨とする役人の因循姑息な習性は共通しており、それは戦後すぐであれ現在であれ大差はない。かれらの中に市民や国民のために仕事をすべき公務員であるという自覚は、ほんの一部の例外を除き、まず見受けられないのが普通だ。
 大蔵省理財局長といういわば役人の中の役人であったキャリア官僚の佐川某が、国民からの税金で飯を食っている国家公務員でありながら国会で嘘の答弁を繰り返して己が地位と安倍政権を守ろうとした姿がまさにそれを象徴しており、佐川の命令で公文書改ざんを余儀なくされその罪悪感から自ら命を絶った近畿財務局のノンキャリア職員赤木俊夫氏がそのほんの一部の例外に当たる。どちらが公務員として、人間としてのあるべき姿かは云うまでもあるまい。
 そもそも役人になるとはどういうことで、税金で飯を食うとはどういうことなのか。そんなことを『生きるLIVING』 と原作とをあらためて比べながら考えるうち、ふと頭に浮かんだのが、昭和を代表する歴史学者羽仁五郎の著書『教育の論理−文部省廃止論−』(ダイヤモンド社)である。この中で羽仁が前島密(ひそか)の言ったとされる<誓って兄弟の血はすすらない。税金で飯を食おうとは思わない>という言葉を引いていたのを思い出したのだ。
 旧幕臣の前島は明治維新のとき、通信の自由の実現のため日本にも近代的な郵便制度をつくる必要があると主張して認められ、その責任者となっていまでいう郵政大臣となり今日の郵便制度をつくった男だが、それが成ったときこの言葉とともに職を辞し、民間に戻ったのだ。羽仁は「この前島の一言は、国際的にみても、第一級の名言であろう」と最大級の賛辞を惜しまず、続けて「かれは公務員になることが目的ではなくて、郵便制度を日本に創立するということが目的だった。その郵便制度をつくるには、国家の事業としてするよりほかなく、そのために公務員になる必要があったから公務員になったのであり、その必要が解決されたのだから、つづけて公務員として生活する、ということはかれには考えられなかった。」と述べている。
 前島の業績は郵便制度の創設だけでなく、駅制改革、陸・海運の振興、教育の振興、鉄道計画の立案など多岐にわたる。首都東京を実現したのもかれの功績で、慶應4年に新政府の首都をどこにするかで時の最高権力者大久保利通の唱える大坂遷都論に傾きかけたとき、江戸遷都論を大久保に献言して京都から江戸(東京)への遷都を決断させた。また明治15年に大隈重信が東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立したとき、土佐・宿毛出身の小野梓とともに大隈を支え、小野が早世したあとも校長として早稲田大学の基礎をつくっている。大隈が前島を「日本文明の一大恩人」と称えたのも頷ける見事な生き様だ。
 この前島と好対照をなすのが、土佐人田中光顕(みつあき)である。
 佐川の深尾家(土佐藩家老)家臣という下級武士の家に生まれた田中は脱藩して長州に赴き、高杉晋作の腰巾着になる。高杉亡きあとは同じく長州系の中岡慎太郎に従って土佐陸援隊に入り戊辰戦争にも出征するが、おおくの有為な志士が非命に斃(たお)れるなか生き残り、「典型的な二流志士」(司馬遼太郎)ながら政府要職を歴任して最後は伯爵宮内大臣に栄達、95歳まで生きた強運の男だ。前島より8歳年少で明治維新のころは25歳という若さだったが、27歳ですでに兵庫県知事の地位にあった長閥の出世頭伊藤俊輔(博文)から県官吏の職を与えられ、その後は伊藤が中央政府の要職に就いて栄進するとともに田中も政府役人として出世してゆく。
 ところが生まれは争えないということか、田中は宮内大臣時代にとんでもないスキャンダルを起こしている。大宅壮一著『炎は流れる』(文芸春秋)によると、明治41年、韓国とのあいだに「第二協約」が結ばれて日本の支配権が確立した記念に、皇太子嘉仁(よしひと)親王の韓国行啓となった。このときの随行者は皇室関係者のほか総理大臣公爵桂太郎、陸軍大将侯爵野津道貫(みちつら)、海軍大将伯爵東郷平八郎、そして宮内大臣伯爵田中光顕といった錚々たる顔ぶれだった。
 そして大宅はこう続ける。
 「この随行者のなかで、たいへんな物議をかもしたのは田中光顕である。彼は韓国滞在中、花柳界で話題になるような遊びをしたばかりでなく、京城(ソウル)の骨董屋と人夫数十名をひきつれて、高麗時代の古都開城にのりこみ、国宝の一つにかぞえられていた蠟石の塔をもち出して、東京の自邸に送った。
 あとでこれを知った博文は、烈火のように怒り、長文の詰問電報をうってきた。そこで光顕は、この塔を韓国王から宮内省へ献上するという形をとろうとしたが、韓国側が同意しなくて、この事件はけっきょくウヤムヤとなった。」
 田中のこの暴挙がワシントンポスト紙などで大きく報じられ、韓国統監であった伊藤博文は顔をつぶされた形となったのだ。なおこの国宝は敬天寺十層石塔というのが正式名称で、大正7年に米英ジャーナリストらの尽力で韓国に返還されている。
 田中は文化財の収集にことのほか熱心で、佐川町の青山(せいざん)文庫のほか東京・多摩市の旧多摩聖蹟記念館、宮内庁などにそれらは保管されている。おそらくは身にそぐわぬ高い地位が尊大と驕慢を生み、権力を背景にした奇矯なほど際限ない収集癖につながったのだろうが、前島密の<誓って兄弟の血はすすらない。税金で飯を食おうとは思わない>という覚悟と清廉さに比べるべくもない。
 といって誤解されても困るが、わたしはなにも役人なぞになるなと云いたいわけではない。そうではなく、役人や議員のような公職に就くなら、せめて「税金で飯を食う」ということの重大な意味を骨の髄に叩き込んで一時たりとも忘れてくれるなということだ。
 人生の最後に役人として本来すべき仕事をし遂げて幸せそうに死んでいった、『生きるLIVING』とその原作におけるわが市民課長は、きっとそこに気づいたのだろう。

 Text by Shuhei Matsuoka
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2023年03月25日

アメリカ様

 嘉永6年(1853年)6月3日、アメリカ合衆国フィルモア大統領の親書を携えたマシュー・ペリー提督が率いる黒船艦隊が、江戸湾口の浦賀沖に突如として現れた。排水量2450トンの巨大な蒸気戦艦サスケハナ号を旗艦とし、同じく蒸気戦艦のミシシッピー号(1692トン)、帆船の戦艦プリマス号(989トン)とサラトガ号(882トン)の4隻で、巨大砲は合計で63門を備えていた。当時の日本では大型船でもせいぜいが千石船の100トンクラス、“たった四杯の上喜撰”で蜂の巣をつついたごとき大騒ぎになったのも頷ける。
 しかし、突如といっても実のところ幕府は長崎出島のオランダ商館長から、ペリー率いる使節艦隊の日本派遣が前年の米議会で決まったことを報らされていたし、10年前には大国の清が手もなくイギリスの軍門に下った(アヘン戦争)ことから西洋列強の軍事力が並々ならぬことも知ってはいた。が、かといって大した手も打たず、そのときはそのときで国是である鎖国を理由に拒否すればよいと漫然と座視していたのだ。ところが実際にことが起こってみると、黒船艦隊の大迫力とアメリカ側の戦闘辞さずの強硬姿勢に度肝を抜かれる。
 ペリーは、親書への回答を受け取るため翌年に再び来航すると告げ(実際に翌年1月に9隻の大艦隊で再来航)9日後にいったん江戸湾を去ったが、太平の眠りをむさぼっていた江戸の武士たちは大慌てにあわてた。もう不要だろうと質入れしたり売り払っていた甲冑、刀剣、馬具などを買い戻しに走る有様で、武具は高騰して江戸の武具屋や古道具屋はにわか景気に大儲け、「武具馬具屋アメリカ様とそッと云い」という戯(ざ)れ句が流行ったというから嗤(わら)わせる。
 その戯れ句からタイトルをとった一書が、反骨のジャーナリスト宮武外骨(1867〜1955)の『アメリカ様』だ。敗戦の翌年、奇しくも東京裁判の開廷日である昭和21年(1946年)5月3日に刊行された。慶應3年生まれの外骨はこのとき80歳。
同書の冒頭にこうある。
 <日本軍閥の全滅、官僚の没落、財閥の屛息(へいそく)、やがて民主的平和政府となる前提、誠に我々国民一同の大々的幸福、これ全く敗戦の結果、この無血革命、痛快の新時代を寄与してくれたアメリカ様のお蔭である。…これに加え、我国開闢以来、初めて言論の自由、何という仕合せ、何という幸福であろう。皆これ勝って下さったアメリカ様、日本を負けさせて下さったアメリカ様のお蔭として感謝せねばならぬ。>(ちくま学芸文庫版)
 人びとを戦争に駆り立てた軍・政治家・官僚・財閥などを断罪しつつ、自由を奪われつづけた自身の人生を思い起こし、真に平和を取り戻した喜びに溢れている。が、その一方で新たな主人となった敵国アメリカにおもねる奴隷根性の日本人の姿を、アメリカに「様」をつけて諧謔を利かせ、自身を「半米人」と称して自虐的に皮肉る。
 生涯にわたり権力を揶揄・批判する新聞、雑誌、書籍を発行し続け、入獄4回、罰金・発禁29回という空前の筆禍史を持つ外骨は、同書でも日米両政府から記事削除などの処分を受けている。ジャーナリズムの凋落著しい現代日本からは想像もできぬ硬骨漢だ。
 さてペリーの強圧的な砲艦外交により不平等な日米和親条約締結を余儀なくされた日本は後世にいう幕末期に一気に突入、尊王攘夷を旗印にした新政府軍により徳川幕府は倒され近代国家への一歩を踏み出すことになるが、ペリー来航から3世代ほど経った92年後の1945年、軍拡と攘夷戦争にあけくれ自己肥大化した日本はついにそのアメリカに無謀な戦争をしかけて惨憺たる敗戦を迎えることとなる。
 厚木飛行場に降り立った連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは日本を武装解除して占領下におき、二度と戦争をしない民主国家にすべく財閥解体や平和憲法制定などを断行、敗戦の6年後に日本はサンフランシスコ平和条約でやっと名目上の独立国となる。しかし実質は沖縄・奄美群島と小笠原諸島を差し出す日米安保条約を同時に締結して属国となったに過ぎず、政府首脳の「アメリカ様」におもねる習性と奴隷根性はこのときから宿痾(しゅくあ)のごとく身についたのである。
 これをもっとも象徴する政治家が岸信介だ。A級戦犯でありながらアメリカ様の「お役に立つ」ことを条件に罪を免れ政界復帰した岸は1957年、保守2政党の合同で55年に結党された自由民主党の第3代総裁そして第56第総理大臣となる。アメリカ一辺倒を否定する徹底した平和主義者の前総理石橋湛山が病で倒れて就任わずか65日で辞任し、アメリカ様の”一の子分”岸信介が権力を握ったこのとき、その後の日本の姿がほぼ決まったといっていい。
 ひとつのエピソードを紹介しよう。
 太平洋戦争で日本の本土爆撃の任務を負った米軍司令官カーティス・ルメイは、いかに効率的に木造の家を焼き尽くして日本人を大量殺戮するかに執念を燃やし、ユタ砂漠で日本家屋群を再現した施設をつくり実験を繰り返して油脂に水素を添加した焼夷弾(ナパーム弾)を開発する。そして1945年3月の東京大空襲で一晩に8万人を焼き殺したのを皮切りに全国の都市を無差別爆撃し、締めに2発の原爆を投下して日本を文字どおり焦土化する。
 その張本人のルメイが1964年に来日したとき、こともあろうに岸の実弟で自民党総裁の佐藤栄作を総理大臣にいただく日本政府はかれに勲一等旭日大綬章を贈ったのだ。日本の航空自衛隊の育成に貢献したことがその理由とされるが、ウクライナ人をもっとも多く殺したロシアの司令官にウクライナ政府が勲章を贈るようなもので、ヘドが出るような奴隷根性である。冷血と残忍さで知られるルメイはのちにベトナム戦争で、「お前らを石器時代に戻してやる!」とナパーム弾の雨を降らしたことでも知られる。
 さて現在の日本はどうか。
 来日する外国の元首はすべて羽田空港から入国するが、ひとりアメリカ大統領だけは横田基地に大統領専用機で勝手に降り立ち、そこから車で堂々と日本の道路を日本の警察に守らせて走り皇居や首相官邸などにやってくる。その姿はマッカーサーによる占領時代となんら変わらないが、これに日本政府も政治家もだれも文句を言わない。ついでながら、日本は在日米軍駐留経費として、アメリカ様に直接差し出す“思いやり予算”を含め年間8000億円超という巨額の税金をつぎ込んでいる。
 さらには“核の傘”という幻想にすがり、核兵器廃絶の先頭に立つべき唯一の被爆国でありながら、その原爆を落とした当事者の宗主国アメリカ様に気をつかい、一昨年に国連で正式に発効した核兵器禁止条約を批准しないばかりかオブザーバー参加すらもしないみっともなさ。最近、フランスの著名な歴史人口学者のエマニュエル・トッドが共同通信のインタビューで「日本の一番の問題は、米国を父親のように見て、従って、独立していないこと」と喝破していたが、外国からは日本は主権国家とは見られていない。
 どんな悲惨な災害も戦争も3世代過ぎれば民族の記憶からは消えてしまうというのがわたしの持論だが、ほぼ3世代前の1945年の敗戦でやっと平和が来たと喜んだ宮武外骨も、戦争を知らない戦後世代の自民党リーダー安倍晋三(岸の孫)、菅義偉、岸田文雄とつづくあからさまな対米従属政権がついには集団的自衛権行使と敵基地攻撃能力により世界に冠たる平和憲法―アメリカ様からいただいたものだが―を実質的に放棄し、軍事予算倍増(による武器購入)というアメリカ様への貢ぎ物を決めたと知ったらどんな顔をするだろうか。
 ペリー来航を事前に報らされながら漫然と座視した江戸幕府、アメリカの軍事力の強大さを知りながら無謀な太平洋戦争に突入した帝国日本。根拠のない希望的観測と責任逃れしか頭にないわが国権力者のこれは本性であり、現在もそれはまったく変わりない。かつての勢いを失ったアメリカは核大国のロシアや中国と直接に干戈(かんか)を交えることは絶対になく、もし中台間に紛争が発生すれば近接する日本はアメリカ様から“核の傘”の見返りに都合よく手先となるよう仕向けられるだろう。最前線の自衛隊員諸君だけでなく、軍事基地が集中する沖縄などは間違いなくターゲットとなり近隣住民の多くが犠牲になる。こちらが父親と思ってすがっても、宗主国のアメリカ様は日本をたんなる属国としか見ていないのだからこれは当然の帰結だ。
 食糧自給率37%、エネルギー自給率12%というひ弱な国が、なにを血迷ったか平和憲法をかなぐり捨て世界第3位の軍事大国になるという。有権者であるわたしたち国民も、そろそろ目を醒(さ)まして投票行動で「ノー」を表明すべき時ではないのか。そのうちチコちゃんに「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と叱られるぜよ。

 Text by Shuhei Matsuoka
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2022年12月26日

史実は警告する

 記録文学や歴史小説の分野におおきな足跡を残した作家吉村昭(1927〜2006)が著した一冊に『関東大震災』(文芸春秋、1973年刊)がある。大正12年に関東南部で発生した大地震とそれに伴う災害の実相を克明に調べて完成させたドキュメントだが、わたしはかつて、次々と描出される凄惨な光景や極限状態の人間の狂気、そして行間から腐臭さえ漂ってきそうな生々しさに気分すら悪くなって途中で読むのをやめてしまった経験がある。
 一度に10万人超が死亡するという日本史上最悪の被害をもたらした関東大震災から2023年でちょうど百年を迎える。それを知った時、わたしの中でこの百年をたんなる年表的な区切りで済ましていいものかという問題意識が湧き、最近になって同書を再び書棚から取り出して今度は一気に読了した。そして改めて、この恐ろしい内容こそがまさにいまのわれわれが知っておくべき歴史的事実だと確信するに至った。
 1923年(大正12年)の残暑厳しい9月1日の午前11時58分32秒、関東南部を突然の激しい揺れが襲った。震源は神奈川県西部から相模湾北部、深さ約25キロ、マグニチュード7.9と推定されている。フィリピン海プレートが相模湾の相模トラフに滑り込むことで起こる海溝型地震だが、内陸部が震源に含まれたため直下型地震の性質も併せ持っていた。震源域は神奈川県西部から房総半島南部にまで及び、大都市横浜を含む神奈川県一帯が最大震度7の激震に見舞われた。
 全死者数は10万5385人(『関東大震災』では20万人余となっているが、のちの研究で修正された)、東京市(現在の東京23区)で6万8660人、横浜市で2万6623人が亡くなった。この震災の特徴はなんといっても同時多発的に発生した火災とその規模の巨きさで、東京市のなんと43.5%が焼き払われ48万戸のうち30万1千戸が焼失、横浜市でも10万戸のうち6万2千戸が焼失した。焼死が死者全体の9割を占め、次いで川や池での溺死(水を求めて殺到した)、建物の下敷きになった圧死の順となっている。
 わけても悲惨をきわめたのが、東京市本所区横網町(現墨田区)にあった2万坪強という広大な陸軍被服廠跡(軍服製造工場の跡地)での大惨事だ。建物のないだだっ広い空き地は避難場所に最適と思われ人びとが押し寄せた。その数およそ4万人。ほとんど立錐の余地のない混雑ぶりだったが、最初はみな呑気に昼飯を食べたり遠くの火災を眺めたり、なかには囲碁に興じる者もいた。しかしいつの間にか周囲は火の海となり、午後4時ごろ物凄い火炎とともにゴーという轟音と旋風が起こりはじめ、ついに避難者の運び込んだ大八車の荷物や衣類に飛火して劫火となって襲いかかった。
 ここからの阿鼻叫喚の図が生き残った者の証言をもとに淡々とした筆致で委曲を尽くして描かれる。その惨状はわれわれの想像をはるかに超えるが、なにより火災が引き起こす旋風の凄まじさだ。ある女性は、目の前で老婆を背負ったまま男が空中に飛び上がり、荷を積んだ馬車が馬もろとも回転しながら舞い上がるのを目撃しているし、焼けトタンが物凄い勢いで飛んできて、乾いたような音がした瞬間、隣にいた友人の頭部が失われていたとの証言もある。旋風で吹き上げられ、隣接する安田邸(安田財閥創始者の安田善次郎邸)の高さ2メートルもある塀を超え庭園に落下して助かった者もいたが、被災後調査にあたった寺田寅彦は、広遠な安田邸庭園の樹木が凄まじい火炎と旋風でほとんど根こそぎにされ、残った木には焼けトタンが手拭いでも絞ってたたきつけたようにからみつき、自転車もひっかかっていたと報告している。被服廠跡で死体の下にもぐりこむなどして辛うじて生き残った者はわずか2千人、全体の95%に当たる3万8千人が数時間のうちに焼死したのである。
 東京市での悲劇は、避難者の持ち出した荷物や家財によると著者の吉村は断定する。道路という道路は荷物を積んだ大八車と避難民で埋まり、それらに飛火して次の住宅街へと延焼しただけでなく逃げ惑う人びとと燃えさかる瓦礫が消防、警察、軍隊の消火・救援作業を不能にしたからだ。江戸時代、火事の恐ろしさを熟知していた幕府は消火の妨げになるため火災時の荷物搬出を禁止し、破った者には罰を与えるとするお触れを出していた。しかしこの歴史的教訓は生かされず、消火能力も格段に高いはずの大正末期に未曽有の惨劇を招いてしまったのだ。
 寺田博士は昭和8年、「津浪と人間」と題するエッセーにこう記している。
 <「自然」は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にもまったく同じように行われるのである。科学の方則とは畢竟「自然の記憶の覚え書き」である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである。
 それだからこそ、二十世紀の文明という空虚な名をたのんで、安政の昔の経験を馬鹿にした東京は大正十二年の地震で焼き払われたのである。>
 また吉村は阪神・淡路大震災後の講演で、大地震の際は可燃性のリュックなどを持たず手ぶらで逃げること、ガソリンが入った自動車は発火源になるから絶対に自動車で道に出てはいけない、道路は道路として確保しなければいけないと口をきわめて警告している。
 人智の及ばぬ大震災はまた、人間を狂気に奔らせる。当時まだラジオはなく、電話も電話局や電話線が焼失して使用不能となり、頼みの新聞もすべての新聞社が火災などで機能不全となって情報は完全に途絶した。その極度の不安の中で起こったのが、流言の洪水だった。それは富士山が噴火したなどさまざまだったが、朝鮮人の暴徒が襲ってくるという流言はとりわけ人びとを恐怖に陥れた。当時の朝鮮は日本の植民地で、搾取され貧困に喘ぐ人びとが海を渡り日本の土木現場などで下働きをしていた。そのため日本人の中にある種の後ろ暗さがあり、それが根も葉もない流言を生み出したと吉村は結論している。
 朝鮮人が井戸に毒を入れている、集団で日本人を襲っている、放火しているといった流言が横浜市から東京方面に瞬く間に拡がり、「朝鮮人約3千人がすでに多摩川を渡って洗足や中延付近に来襲して住民と闘争している」などとおそろしく具体的な流言となって2日後には避難民の口を介して関東全域に拡がった。地震の5日目から一部の新聞が流通しはじめたが、流言をもとに書かれた記事が火に油を注いだ。そして恐怖に怯える住民らによって各地に自警団が組織され、その数は東京府、東京市だけで1145にも上った。かれらは朝鮮人を見つけては日本刀、匕首、金棒、竹槍、猟銃などの凶器を手に襲いかかり、朝鮮人を保護していた警察署すら襲撃する有様で、実に6千人余の罪もない朝鮮人が虐殺されたとの記録もある(正確な数は未だ不明)。
 この忌まわしい凶事がわずか百年前の出来事であることに誰しも戦慄するだろう。ただの流言蜚語によって普通の日本人がかくも残虐な暴徒と化した事実はあまりに重い。
 ところで、この関東大震災をかなり正確に的中させた地震学者がいた。東京帝国大学地震学教室の助教授だった今村明恒である。今村は震災の18年前、明治38年に雑誌「太陽」に発表した論文で「過去の江戸に起った大地震は平均百年に一回の割合で発生しており、最後の安政の大地震からすでに五十年が過ぎていることを考えると、今後五十年以内に大地震に襲われることは必至と覚悟すべき」とし、大火災によって死者は10万から20万人に達すると予測した。
 ところが今村の上司で地震学教室主任教授であった世界的権威の大森房吉は、東京が大地震に見舞われるのは数百年に一度で今村の説はまったく何の根拠もない浮説だと批判し、「現在の東京は道路もひろく消防器機も改良されているから、江戸時代の大地震のような大災害を受けることはない」と一蹴した。しかし結果的に今村説が的中し、大森は世間から厳しい非難を浴びることになる。
 現在では海溝型地震は80年〜150年の周期で繰り返されることが判っており、南海トラフだと大雑把ながら今後30年以内の発生確率70〜80%と公表されている。だが歴史的に首都圏は海溝型と内陸直下型の大地震が頻発してきた日本屈指の地震地帯で、直下型は発生時期・規模ともまったく予測不能である。おまけに人口は大正時代とは桁違いで日本の中枢機能が極度に集中する。地震の強さ・規模によっては想像を絶する事態が招来することになろう。
 この百年で地震発生後の震源の特定やメカニズム解析などは長足の進歩を遂げたが、これから起こる地震については相変わらず過去の統計が頼りで今村の時代と大差はない。私事だが、首都圏にはわたしの家族や親戚もいるし友人知人も多い。実に気がかりである。

Text by Shuhei Matsuoka
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2022年09月25日

さらば反知性主義

 久しぶりに痛快な本に出会った。気鋭の政治学者・白井聡(1977年生まれ、京都精華大准教授)の渾身の一冊、『長期腐敗体制』(角川新書)である。
 同書は朝日カルチャーセンターでの連続講座「戦後史のなかの安倍・菅政権」(2021年3月〜6月)の講義録を全面的に改稿・加筆したもので、小難しい論文とちがって読みやすいこと甚だしく、帯にはデカデカと「なぜ、いつも頭(トップ)から腐るのか!?」の文字も踊る。装丁に一種キワモノっぽさがあるものの、著者は30代半ばで「石橋湛山賞」「角川財団学芸賞」を受賞するなど早くから頭角を現した本格派の思想史家・政治学者である。
 『長期腐敗体制』は2012年に発足した第2次安倍政権から菅、岸田政権へと連綿としてつづくこの10年間を不正・無能・腐敗という悪徳の3拍子が揃った戦後最悪の「2012年体制」(命名は政治学者・中野晃一)と位置づけ、その実相を見事な筆さばきで腑分けしてみせる。もちろんこの体制の基礎構造はすべて安倍晋三政権時のいわゆる「安倍一強体制」によって堅固に構築され、菅・岸田はそれを引き継いだにすぎない。
 「モリ・カケ・桜」など重大な醜聞(スキャンダル)の数々で露呈した行政府の劣化と不正・腐敗の本質、経済政策「アベノミクス」の失敗とその原因、外交・安全保障政策の矛盾と問題点などを俎上にあげ、日本社会がいまや抜き差しならぬ事態に陥った最大の原因が「2012年体制」にあり、野党の体たらく以上にこの体制を「だらしなく肯定」してしまった市民の無知と無気力にその淵源をもとめるのも納得的だ。
 ところで同書は安倍元首相が凶弾に斃(たお)れるちょうど1か月前の6月10日に発行されたもので、筆者は次のような「あとがき」を書いて筆を擱(お)いているが、そこにドキリとする一言が出てくる。
 <本書はこの10年近くの日本政治の低迷、というよりも転落を概括的に論じました。もちろん、その政治の中心には、自民党が鎮座しています。いま円安が止めどもなく進んでいますが、日銀に打つ手はありません。いよいよアベノミクスというマヤカシのツケを払わせられるときがきたのです。
 言うまでもなく、問題は経済だけではありません。この10年のうちの7年以上にわたって継続した安倍晋三政権は、内政も外政もただひたすら出鱈目(でたらめ)をやっただけでした。結果、日本の統治は崩壊しました。その罪は万死に値します。…>
 そしてまさかの凶事、筆者は背筋が凍る思いだったろう。が、それはさておき紙幅に限りある新書版のためか同書にもすこし物足らぬところがある。この「2012年体制」が露骨な「反知性主義」を内包し、これが日本社会を衰退せしめる大きな要因になっている点に踏み込んでいないことだ。ここでいう反知性主義とは、権力者などが社会から学問や知性を排除するよう志向することで、普通に考えればとんでもないことだが、古今東西を問わず世の為政者はしばしばこの手を使ってきた。社会から知性を奪い批判眼を摘み取れば国を意のままに統治できるからだが、現代においても残念ながらこれは日常の光景となっている。
 たとえば教育学者の佐藤学(東大名誉教授)は、学問を攻撃するクーデタは世界のトレンドになりつつあるとして、ウクライナ戦争で耳目を集めるトルコのエルドアン大統領は2016年のクーデタ鎮圧を逆手に取って新たなクーデタを企て、1年間で15大学を閉鎖、5300人の大学教員と1200人の事務職員を解雇、899人の大学関係者を逮捕して現在の独裁政権を打ち立てた。ロシアのプーチン大統領は2013年以降、ロシア科学アカデミーに権力介入してメディアと学者を粛清して独裁者となった。ハンガリーのオルバン首相も欧州の「学問の自由」の拠点、中央欧州大学(CEU)を存続の危機に追い込み独裁者となった、と述べている(『学問の自由が危ない』晶文社)。反知性主義は、学問と言論(メディア)の封殺からその姿を現しはじめる。
 では「2012年体制」の反知性主義とはいかなるものか。
 前代未聞の出来事が2020年10月、菅義偉政権のときに起こる。「日本学術会議」が新会員に推薦した学者のうち人文・社会科学系の6名を、首相が明確な理由なしに任命拒否した事件である(現岸田政権も任命拒否のまま放置)。この専制的な政権はNHKなどのメディアだけでなく学問分野にまで手を伸ばしはじめたかと世間を震撼させ、「学問の自由」の侵害として1000を超える学協会が一斉に抗議声明を出し、内閣支持率も急落した。
 ここで注意すべきは、すでに安倍政権の2016年ごろから「事前調整」と称して官邸官僚が任命人事に干渉しはじめていたという事実だ。きっかけは2015年、集団的自衛権行使を容認する安保関連法案の審議中に参考意見を求められたすべての憲法学者がこれを「違憲」としたことにはじまる。安倍官邸はこのころから人文・社会科学系の学者を目の敵にするようになり、1949年に科学者の戦争加担への反省から生まれた日本学術会議が2017年に改めて「軍事目的のための科学研究を行わない」との声明を出し、民生技術の軍事利用に前のめりな政権に冷水を浴びせたことが決定的となった。
 公金で運営する組織には政策に異を唱える資格はないと考える安倍政権の官房長官だった菅は、首相になるや「誰がボスかおしえてやる」とばかりに意に添わぬ発言や論文を発表してきた6人を任命拒否し、 “獅子身中の虫”である日本学術会議を無力化していずれは政府機関から放逐することを目論んだのである。
 前出の佐藤は「身震いするほどの驚愕の事件である。政権トップがアカデミー会員の任命を拒否することは、ファシズム国家か全体主義国家の独裁者しか起こさないことである。日本の政治はそこまでおちぶれてしまったのか」(前掲書)と危機感を募らせ、さらに憲法第23条に保障される「学問の自由」の本質は政治権力からの学問の自由と独立性にあり、このいわば「学問の独立」に掣肘(せいちゅう)が加えられたのだと断ずる。菅の一挙は日本学術会議法違反であるばかりか明らかな憲法違反であり、図らずも「2012年体制」の反知性主義を曝け出す象徴的な事件となったのだ。
 ところで、「学問の独立」という言葉で思い出す人物がいる。明治期の前半に活躍した土佐・宿毛出身の政治思想家・小野梓(1852〜1886)である。
 大隈重信が早稲田大学建学の”父”、小野は同じく“母”と称され、学内にある「小野梓記念館」や優れた学術・芸術業績に与えられる「小野梓記念賞」などの存在でその名が知られる。特筆すべきは、小野が”知”と”立憲”を日本に根付かせようと奮闘した日本近代の建設者のひとりであり、大隈重信の腹心として薩長藩閥政権打倒とイギリス型政党内閣制樹立(小野は3年間の英米留学で法律を学んだ)を掲げ、立憲改進党結党や東京専門学校(のちの早稲田大学)の開校・運営に尽力、33年10ヵ月という短い生涯を駆け抜けた俊秀であったことだ。
 小野にとって分水嶺となったのが「明治14年の政変」である。伊藤博文ら薩長勢力は大隈重信、福沢諭吉、岩崎弥太郎の3者連合が政権転覆を企てているという陰謀説をフレームアップし、筆頭参議の大隈以下慶應・三菱系の官僚らすべてを政府から追放する。このとき会計検査院一等書記官だった小野も連袂(れんべい)して辞職する。政変の背後に明治憲法制定に係る対立や世情を騒然とさせていた「開拓使官有物払下げ事件」(開拓使長官の黒田清隆が北海道官有物を薩摩閥の政商五代友厚らにただ同然で払下げようとして発覚)、また全国で激しさを増す民権運動の騒擾(そうじょう)もあり政情不安を案じた天皇も了承せざるを得なかったのだ。
 ちなみにこの政変、驚くなかれ現在にまで悪影響を及ぼしている。クーデタ成功で薩長藩閥政権は盤石化し、これにより最後発の帝国主義国家となった日本は日清・日露・日中戦争、とどめに太平洋戦争を起こして完全に破滅するが、あろうことか戦後も岸、佐藤、安倍と長閥政権はつづき、「2012年体制」として現代社会にまでその弊を瀰漫(びまん)させているのだ。
 さて翌明治15年10月21日、早稲田にあった大隈の別荘の敷地内に新築された東京専門学校で開校式が開催された。この式典で小野は新入生80人を前に、日本ではじめて「学問の独立」という言葉をたかだかと掲げた。明治35年に早稲田大学と改称されてからも大隈は早世した小野の意志を継ぎ、学問の政治権力からの独立をことあるごとに唱え、現在でも「学問の独立」は早稲田を象徴する言葉となっている。
 実は『長期腐敗体制』の著者白井聡は早稲田大学政経学部出身、実父の白井克彦は第15代早稲田大学総長である。稲門の白井聡こそは、「学問の独立」を脅かし社会を衆愚化させるおぞましい反知性主義を排斥する一大勢力になってくれることだろう。(敬称略)

 Text by Shuhei Matsuoka
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2022年06月25日

不屈と憎悪

 毎日のようにメディアに流れるウクライナ戦争の惨状を見るにつけ、やるかたない悲憤と鬱々たる気分に苛まれる。
 地球上に4千以上の民族が存在し、196の国々がすべからく国境と固有の国土を有しているかぎり戦争や紛争の種は尽きないのかもしれないが、高度に情報化され殺傷能力のきわめて高い兵器で武装した国々が大勢を占める現代社会では容易に一線を越えぬよういくつかの国際協定や条約が存在し、とりわけ核兵器・生物化学兵器の使用や民間人攻撃の禁止などは過去の悲惨な戦争の反省から生まれた必須の人道的ルールとなっている。
 しかしそれらはけっきょくただの紳士協定にすぎなかったことをウクライナ戦争が曝け出した。目を背けたくなる非道なジェノサイド(大量虐殺)や原発への攻撃を平然と行い、核兵器使用をもちらつかせるロシアを前に国連の無力ぶりをイヤというほど見せつけられているわたしたちは、まったく終わりの見えない不安と苛立ちの中にいる。
 ただ怪我の功名といえば不謹慎かもしれないが、黒海に面したウクライナという東ヨーロッパに位置する農業大国の文化や美しい街並みや人びとの暮らしぶりをわれわれはあらためて知ることになった。そしてなによりロシア帝国からの度重なる侵略の歴史を持つゆえにこそやっと獲得した「自由」と「独立」をウクライナ人が手放すはずはなく、ロシアの大軍に対して一歩も退かぬかれらの尋常ならざる不屈が世界を瞠目させ感動すら与えていることは一条の光明と云ってもいいだろう―おおきな犠牲とひき換えのあまりに痛々しいものではあることは云うまでもないが―。
 ところで、ウクライナ戦争勃発と同時に、北大西洋条約機構(NATO)の存在がにわかにクローズアップされてきた。ウクライナが非加盟国であるためNATO軍が直接的に軍事介入できないことを見透かしてロシアは侵攻し、その結果多くの民間人などの犠牲を出しながら膠着状態となっているわけだが、あらためてヨーロッパ地図を眺めてみると面白いことがわかる。
 1949年に12か国で創設された軍事同盟NATOの加盟国はいまや30か国におよぶが、西側ヨーロッパにも非加盟国はわずかながら存在する。ロシアの侵攻を見て急きょ加盟申請したスウェーデンとフィンランドがこれまで非加盟だったのは隣接するロシアを刺激したくなかったからで、内陸の小国スイスとオーストリアは永世中立国であるほうがむしろ安全と考えて加入していない。ところが、まさに北大西洋上に浮かぶもっとも加盟国にふさわしい位置にある島国アイルランドが非加盟なのである。ヨーロッパの西の端にあり、対岸のアメリカ、カナダ、そしてイギリス、フランスなどの枢要なNATO諸国に囲まれていながら一国だけがポツンと非加盟なのはなぜか。
 17世紀、クロムウェルに率いられた清教徒(ピューリタン)を名乗るイングランドのプロテスタント(新教徒)たちが海を隔てたカトリック国のアイルランドを侵略し大殺戮を行って支配した。このアイルランドの苦悩と屈辱の歴史、そして不屈のウクライナ人にどこか相通ずるアイルランド人気質の存在が背景にあり、憎きイギリスが加盟する軍事同盟なぞに入るわけがないというのがかれらの本音なのだ。アイルランドはケルト民族でカトリック、イングランドはアングロサクソン(ゲルマン民族)でプロテスタントと、もともと民族・言語も習俗も、そして宗派も違う。そのイングランドの侵略と支配が生んだ憎悪は、強烈な反英感情のかたちで現代においても牢固として生きているのである。
 『街道をゆく』(司馬遼太郎著)の中でもとりわけ強い印象をうける「愛蘭土紀行」で司馬は「客観的には百敗の民である。が、主観的には不敗だとおもっている」と、アイルランド人の屈折した心と不屈の気質をあざやかに表現し、さらにこう述べている。
 <アイルランド人は、組織感覚がなく(中世的である)、統治される性格ではなく(古代的である)、大きな組織のなかの部品で甘んじるというところがすくなく(近代的ではない)、さらには部品であることが崇高な義務だというところがうすい。それらは概してイギリス人が所有しているとされるものなのである。…ともかくも、アイリッシュ海という小さな海をへだててならんでいる二つの島ほど、人間群の光景として相異なるところもすくない。>
 ところで最近、つまりロシアのウクライナ侵攻後だが、たまたま『ベルファスト』という映画を観た。今年のアカデミー賞主要6部門にノミネートされた秀作との評判にくわえ、このタイトルに惹かれて観に行ったのだ。
 予備知識はほとんどなく、北アイルランドの首府ベルファストが舞台のいわゆる北アイルランド紛争を主題にしたすこし暗い社会派映画かもしれないと思って観に行ったのだが、その予断はさいわいにも裏切られた。たしかに紛争が勃発したころのベルファストを舞台にしてはいるが、主題は紛争そのものではなく、そこに暮らす或る一家のささやかな日常とかれらの住む街への愛情を込めて描かれた上質のヒューマンドラマであった。
 ちなみに北アイルランドはアイルランド島北部の一角に飛び地のように存在するイギリス(英国)領である。イギリスは普通UKと表記されるが正式名称はthe United Kingdom of Great Britain & Northern Irelandで、グレイトブリテン(ブリテン島)のイングランド、ウェールズ、スコットランドの3か国、それに北アイルランドを含めた4つの非独立国で構成された連邦国家であり、アイリッシュ海を隔てた北アイルランドの存在、そしてイングランドの侵略に屈して18世紀に併呑されたスコットランドが2014年に独立を目指して国民投票を実施したことでもわかるように、日本に似た島国ながらイギリスは日本のような単純で均質な国家ではない。
 アイルランドはイギリスとの血みどろの独立戦争の結果、1921年にイングランドからの植民者の子孫(プロテスタント)が過半を占める北部6州が北アイルランドとして英国領に残り、ほかの地域は英連邦内の自治領「アイルランド自由国」として実質的独立を獲得、1949年にやっと正式な独立国となった。しかしその後も北アイルランドではアイルランドへの帰属を求めるカトリック系と親英派のプロテスタント系が激しく争ってIRA(アイルランド共和軍)によるテロなどが頻発し、1998年の和平合意(ベルファスト合意)まで約3600人もの死者を出した。これがいわゆる「北アイルランド紛争」だ。
 さて映画『ベルファスト』だが、監督・製作は著名な俳優でもあるケネス・ブラナー。ベルファスト出身のかれの思い出深い少年時代を描いた自伝的な作品で、1969年8月にプロテスタントの暴徒がカトリックの住民を攻撃しはじめた事件を発端に人びとが分断されてゆく姿とベルファストでの日常がバディという名の9歳の少年の目を通してモノクロで描かれる。監督が「私が愛した場所、愛した人たちの物語だ」と述べているように、突然の紛争に揺れる労働者一家の苦悩と質素で微笑ましい生活ぶりが、役者たちの名演技(バディと祖父母役が出色)とユーモアとノスタルジーあふれる映像・音楽で再現されている。
 映画の結末は差し控えるが、ああやっぱりアイルランド人だな、という家族の姿がそこにあった。アイルランドといえばアイリッシュウイスキー、パブ、ギネスビール、文学、アイロニー(皮肉)とユーモア、そしてなによりも移民、それがヒントだ。
 話をウクライナに戻そう。
 人類におおきな惨禍をもたらした第2次世界大戦を契機として、永く続いた帝国主義の時代は終焉を迎えた。他国を武力で支配しても経済的に採算が合わないばかりか、戦争や紛争の火種と憎悪しか生まないことが証明されたのだ。大英帝国によるアイルランド支配も何世代にもわたる根深い憎しみと厄介な鬼っ子(北アイルランド)を産み遺しただけだし、大日本帝国による朝鮮・中国の侵略と支配もまったく同様だ。
 汚職と謀略と嘘と暴力で大統領にのし上がった独裁者プーチンはいまや公然とその本性を露わにし、愚かにもロシアをふたたび弱肉強食の帝国主義へ回帰させる道を選んだようだ。ウクライナを“ロシア化する”という言葉に典型的な帝国主義のやり口が見えるではないか。だが現代社会がそんな時代錯誤の暴挙を許すはずもなく、なによりもウクライナ人の不屈の前にその目論見は頓挫することになろう。また世界からの制裁がもたらす経済破綻によってロシア国民をも道連れにするかもしれない。まことに行く末は神のみぞ知る、である。
 願わくば、ウクライナがアイルランドのように国が二分される悲劇を生まず、21世紀最大の戦争犯罪人ウラジミール・プーチンがその末路を迎える日が近からんことをー。

  Text by Shuhei Matsuoka
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2022年03月25日

『流離譚』の光景

 現代小説を主に書いてきた作家などが晩年になって歴史分野に足を踏み入れることは珍しくない。
 古くは森鴎外晩年の『阿部一族』『興津弥五右衛門の遺書』などの一連の歴史小説や島崎藤村の『夜明け前』、戦後も安部公房『榎本武揚』、大岡昇平『天誅組』『堺港攘夷始末』(未完で遺作)、松本清張も相当な数の歴史作品を残し『両像・森鴎外』が遺作となった。また戦後を代表する文芸評論家の小林秀雄は晩年に『本居宣長』を著し、ジャーナリストの大宅壮一も還暦を過ぎてのち明治天皇崩御から幕末までを逆にたどるユニークな歴史大作『炎は流れる』をものしてこれが遺作となった。
 こういった例は挙げればきりがないが、考えてみれば職業的物書きでなくても、ふつうの勤め人などがある年齢に達すると「オレはいったい何者で、どこからきたのか」という観念に囚われ、自身の家系に興味を持ちはじめ歴史小説などを好んで読むようになる傾きがあり、そんな例はわたしの身近にも少なくない。
 むかしから歴史を学ぶことは士族など支配階級の重要な教養の一部であり、近代以降にもその風習はある程度引き継がれているのかもしれぬが、作家を名乗る者ならなおさら、自国の歴史もロクに識らないようではいくらなんでも情けない。きっとそんな心情も手伝って壮年期から歴史に興味をもつようになるのだろうが、ただ上に挙げた後世に遺るような作品群は、作家たちの深奥にある何らかの必然性から生まれたものと断言していいだろう。鴎外が、敬慕してやまなかった乃木希典の殉死を機に歴史小説を書きはじめたことはあまりに有名だ。
 その意味で、高知出身の作家安岡章太郎(1920〜2013)が晩年に完成させた歴史小説『流離譚』はまさにその代表例と云っていいかもしれない。ただこの作品はほかと比べてもまことに特筆すべき点がある。分厚い上下本で1600枚の大作であることもさることながら、幕末から明治にかけての激動の日本近代史が天性の作家との運命的な出遭いによって紡ぎ出された、いわば書かれるべくして書かれた稀有な作品となっていることだ。
 「私の親戚に一軒だけ東北弁の家がある。」という印象的な書き出してはじまるこの作品は、香美郡山北村(現香南市香我美町山北)で明治維新まで永く郷士として暮らしてきた安岡一族(本家、お上、お下、お西と呼ばれる血族4家族があり章太郎はお下の出)を核に据えた物語だが、作品化が可能になったのは家系図や相当量の古い書簡などが保存されていたことにくわえ、お西の惣領だった安岡文助の31年間(天保5年〜慶応元年)にわたる日記が新たに発見され、その報が東京の安岡章太郎の下に届いたことによる。これを見た安岡は、いよいよその時がきたかと覚悟を決め、膨大な史料との格闘がはじまるのである。
 それというのも、文助が坂本龍馬の長兄権平や寺田寅彦の祖父宇賀市郎平(文助の親戚でもある)らと親しく、さらに息子3人がすべて武市瑞山(半平太)を党首とする土佐勤王党に入党し、土佐藩の参政吉田東洋を暗殺した刺客のひとり次男嘉助は脱藩後に吉村寅太郎が率いる天誅組の一員として大和で戦ってのち捕縛され京都の六角獄舎で刑死、長男覚之助は板垣退助を総督とする土佐藩迅衝隊の小軍監として戊辰戦争の会津戦で討死、また三男道之助は戊辰戦争で生き残り維新後に自由民権運動に投じて立志社で板垣退助や片岡健吉らと活動するという日本近代の真っ只中を駆け抜けた奔走家だったことが、手紙や日記などからかなり詳(つまび)らかになったからだ。
 むろん安岡自身も一族の歴史、わけても死後に維新の功臣として顕彰され一門の誇りとなった覚之助や嘉助については父親や親類から漏れ聞き多少なりの興味はあったろうし、土佐を舞台にした作品も多い旧知の司馬遼太郎などから「そりゃ作家たるもの、それを書かん手はないで安岡さん」などと冗談半分でせっつかれていたのではないかとわたしは勝手な想像をしているが、親類宅から文助の日記がたまたま見つかったことで、いよいよ骨の折れる仕事に本気で取り組む気になった。50代半ばという作家としての円熟期だったことも本人をして決断させるに十分だったろう。
 『流離譚』はもともと文芸誌『新潮』に昭和51年3月号から56年4月号まで、56歳から61歳の5年間にわたり掲載されたものを同年12月に単行本化したものだが、翌年にはさっそく文芸春秋社から司馬との対談企画が持ち込まれ、昭和57年の『オール讀物』6月号でふたりは対談(司馬の対談集『八人との対話』に転載)する。
 その冒頭、司馬は「『流離譚』はいい小説でした。ああいうのは、何十年に一作というようなものですね。」といきなりベタ褒め。安岡は「おそれいります……。なんかテレくさいもんですなあ。(笑)」という具合だ。先生に褒められて恥ずかしそうにしている生徒みたいだが、安岡より3歳年少とはいえ相手は歴史小説の大家なのだからどうも仕方がない。プロはやはりプロから認められることが一番のご褒美で、対談自体もふたりの息が合ってとても面白い内容である。
 対談の最後、安岡は岩崎弥太郎が捕吏として嘉助を大坂まで追った因縁を述べたあと「実はうちに、安岡文助っていう安岡嘉助の親父宛に、<弥太郎>って書いたぼろぼろの手紙が一つありましてね…あまりにぼろぼろで判読できない。」と言うと、司馬が岩崎や後藤象二郎の話をし、「とにかく土佐というのは諸国とはちがっていろんな人間が詰まっているという感じでまだまだ論じることができるんだけれど、『流離譚』のおかげで我々はだいたい”土佐”を卒業できたということは言えるようですね。」と対談を結んでいる。
 もうひとり、『流離譚』をことのほか評価した人物がいる。小林秀雄だ。
 亡くなる前年、79歳だった小林の最後の評論となったのが『新潮』(昭和57年新年号)に掲載された「『流離譚』を読む」である。
 <矛盾撞着する資料の過剰…、それが歴史資料といふもの本来の厄介な姿である事は、上巻の書き出しから、下巻の末尾に到るまで、手に入る限りの歴史資料を集め、歴史事実の吟味に、少しも手を休めなかつた作者には、無論、よく解つてゐたであらう。苦しいほどよく解つてゐた筈だと、私は言ひたい。資料との、争ひと言つていゝやうな緊張した対話を、紙上で、あからさまに続けて行く作者の意識が、おのづからこの長編を貫く強いリズムを形成し、それが読者の心を捕へるのを感ずるからである。こゝら辺りに、この作家が開拓した、歴史小説の新手法があると見てもよいのではないか。>(単行本上巻の帯に掲載)
 ふつう歴史作家は多くの史料を読み込んで事実の断片を頭に入れ、それを自家薬籠中のものとして物語を構築し作品化するものだが、『流離譚』の作者はそれをせず、あえて自家史料を表に出して読み解き、不明箇所があれば筆者の真意を探り、多くの既存史料と比較し、可能な限り正確さを期するといった作者自身の姿を”あからさまに”読者の前に披瀝して、なおかつ練達の作家ならではこれらを見事に再構成し作品にしているのである。そのことを小林は云っているわけだ。ちなみに小林は安岡が『新潮』に同作品を連載中の昭和53年に『本居宣長』で『流離譚』と同じ日本文学大賞を受賞しており、ふたりはどこかしら因縁めいてもいる。
 すこし余談だが、村上春樹がもっとも影響を受けた日本の戦後作家として安岡章太郎を挙げているのも面白い。ふたりの文体や作品内容にまったく共通点がなさそうなので意外な印象を受けるが、安岡の初期の短編の数々を読んで文章のうまさに驚嘆したという。そういえば『海辺のカフカ』という表題はもしかしたら、安岡が作家としての地位を確立した『海辺の光景』(芸術選奨、野間文芸賞受賞)へのオマージュではないかと想像させる。これは安岡自身とおもわれる主人公が高知の海辺に建つ精神病院で母親を看取る姿を描いた私小説風の作品で、最初に講談社の文芸誌『群像』に掲載され単行本化されたものだが、村上のデビュー作「風の歌を聴け」(群像新人文学賞受賞)が同じく『群像』に掲載されたのが昭和54年6月、ちょうどそのときライバル文芸誌の『新潮』で安岡が「流離譚」を連載中だったのだから、偶然とはいえこれも奇縁である。
 山北の田園地帯には安岡章太郎の先祖が約200年前から暮らしたお下の家が現存しており、国の重要文化財に指定され保存されている。練塀に囲まれた2500uにもおよぶ広々とした敷地に主屋のほか蔵などが並ぶ立派な郷士屋敷は7年半にわたる改修工事を2019年に了(お)え、昨年6月には前庭に『流離譚』の文学碑も建った。歴史の風韻に包まれた静謐な佇まいが印象的な、『流離譚』の故郷である。

 Text by Shuhei Matsuoka
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2021年12月27日

絶滅を選ぶのか

 映画「ジュラシックパーク」に出てきそうな恐竜が突如、国連本部に現れて英語で演説するニュース映像に驚いた人も多かったろう。UNDP(国連開発計画)が「Don’t Choose Extinction(絶滅を選ぶな)」キャンペーンの一環として製作した2分半の短編映画で、イギリス・グラスゴーで10月31日から開催されたCOP26(国連気候変動枠組み条約第26回締約国会議)を前に世界に向けSNSで流したものだ。
 ティラノザウルスらしき大型恐竜がノシノシと壇上に上がり、太い指でグイとマイクを引き寄せ、鼻息とともに咳払いを一発かましてからこんな演説をはじめる。
 「皆、よく聞いてほしい。これは明らかなことだが、絶滅に向かうということは悪いことだ。しかし君たち人間は、自分自身の手で自らを絶滅させるつもりなのだろうか。それは過去7千万年のあいだに私が聞いた出来事の中で最も馬鹿げたことだ。われわれの絶滅には少なくとも小惑星の直撃があった。では君たちの言い訳は何なんだ?(中略)化石燃料への莫大な公的助成金などは愚かなことだ。絶滅を選んではいけない!手遅れになる前に種を救え!今こそ言い訳をやめて、変わりはじめる時だ」
 演説が終わると人々は立ち上がって拍手喝采となり、最後に「It’s now or never(今やるか、やらないか)」のテロップが流れる。
 実際、COP26というぐらいだから、地球温暖化への危機感から国際会議が最初に開かれて早や26年目ということになる。しかし世界のエネルギー起源の温室効果ガス排出量は1990年の231億トンから、2019年には376億トンとこの30年間に約63%も増えているのだから、絶滅経験者の恐竜があきれてアドバイスしたくなったのも頷ける。
 そのCOP26の最終日、議長国イギリスは成果文書の中にパリ協定で合意した産業革命前からの気温上昇を1.5℃に抑える決意は盛り込んだが、肝心の石炭火力は「段階的廃止」ではなく「段階的削減」と後退。また各国が表明した温室効果ガス排出実質ゼロの期限もたんなる努力目標に過ぎず順守される見込みは薄いうえ、仮に完遂されても1.5℃への抑制はできないことがわかっているのだから、そもそもが自己欺瞞的な仮説と経済成長への妄執で覆われたバブルの中で行われる国際会議なのだ。おまけに会議の往復に4万人もが航空機などを使って膨大な量の二酸化炭素を余計に排出しているジレンマ!
 そんな迂遠な議論に終始する会議を予想しての恐竜の演説だったわけだが、それでも所詮はコンピュータグラフィックスの恐竜、各国の参加者もフムフムと感心しながら観たにちがいない。しかし、小柄なスウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリがグラスゴーでCOP26をこうこき下ろした演説からは目を背けた(あるいは見て見ぬふりをした)のではあるまいか。
 「COP26が失敗なのは秘密でもなんでもない。いまの状況をつくり出した同じ方法で危機を解決できないのは明らかだ。その事実を理解しはじめている人は次第に増えている。何が権力者たちを目覚めさせるのかを多くの人々自問している。でも彼ら権力者は気づいている。自分たちが何をしているのかを明確に知っている」「COPはもはや気候変動対策会議ではない。いまや北半球のグリーンウォッシュ(見せかけのだけの環境対策=環境を意味する「グリーン」と偽装や見せかけを意味する「ホワイトウォッシュ」からつくった造語)の祭典だ。2週間続けられるいつものくだらないおざなりの演説のオンパレード。最も影響を受ける地域の最も影響を受ける人々の声は聞かれない。未来世代の声はグリーンウォッシュと、空虚な言葉と約束の中に溺れている」「しかし事実は嘘をつかない。私たちは王様が裸であることを知っている。パリ協定の目標を達成するためには、人間のコントロールを超えて不可逆的なチェーンリアクションが始まるリスクを最小限に抑えなければならない。そのためには、世界がまだ見たことのないような抜本的な温室効果ガス排出量の削減がすぐに必要だ」
 グレタはまた、近年さかんに喧伝される「カーボン・オフセット」についても「シェルとBP、スタンダードチャータード銀行はグラスゴーでカーボン・オフセットの規模を拡大し、汚染者に汚染を続けさせるためのフリーパスを与えようとしている」「オフセットは人権侵害のリスクがあり、すでに弱い立場にあるコミュニティを傷つけてしまう。オフセットはしばしば偽善であり、COP26ではそれが渦巻いている」と鋭く衝く。これは、企業などが削減できない分を植林・再生エネルギー事業などへの投資や他の国・地域で削減された排出量をクレジットという形で購入して埋め合わせできるという仕組みのことで、日本を含めた先進国ではすでに行われており、排出権取引市場も存在する。
 実際に環境保護団体「グローバル・ウィットネス」によると、COP26にどの国よりも代表を多く送り込んだのは化石燃料産業(503人)であり、かれらは石油・ガス産業のロビー活動を請け負った人々で、中でも最大級の103人を送り込んだのはシェル、BPなど石油メジャーの業界団体である国際排出量取引協会(IETA)だったと公表している。表向きはともかく、かれらが参加した本当の目的はいかに供給量を減らさず現状維持させ利益を確保するかなのだ。
 さて、さらに問題はわが日本である。
 岸田首相は意気揚々とCOP26で演説をしたが、残念ながら昨年に続く2年連続の「化石賞」受賞と相成った。これはCAN(気候変動ネットワーク)が地球温暖化対策に後ろ向きな国に贈る不名誉な賞で、脱石炭がCOP26の優先目標なのに首相が石炭火力発電を2030年以降も続ける意思を示したことをその理由とした。「石炭火力のゼロエミッション化を進める」との言説もその非現実性を軽く見抜かれた格好で、日本政府の無責任さと危機意識の無さを白日の下にする結果となった。ちなみにドイツの環境シンクタンク「ジャーマンウオッチ」などの研究チームは11月11日、世界の61の国・地域の中で日本の温暖化対策レベルは中国(37位)より下の45位だったと発表している。
 日本の温室効果ガス排出量は中国、アメリカ、インド、ロシアに次ぐ堂々の世界第5位である。資源のない小国がカネにあかせて化石燃料を海外から大量に買い漁り、それをせっせと燃やしてこれだけ地球環境を劣化させているのだ。しかし政府も企業も温暖化対策に後ろ向きで、せいぜいがスーパーのレジ袋やプラスチック・ストローをやめるとか、遊び半分のSDGsキャンペーンなどのママゴトレベル。そんな状況を日本人自身が大して問題とも思ってないことは、先の衆議院選挙でまったく争点にならなかったことでもわかる。また政府は温室効果ガス排出量を2030年度までに13年度比で46%削減すると大見得を切ったが、これは当時の “ポエム”小泉進次郎環境大臣がTVインタビューでのたまわった「おぼろげながら頭に浮かんできた」数字をそのまま出したまでで、誰も達成できるなんて思っていない。日本はまさに「化石賞」に相応しい、世界に冠たる恥ずべきグリーンウォッシュ大国なのである。
 ところで、COP26を糾弾するグレタの姿を見ながら、わたしはもうひとりの女性のことを思いおこしていた。『沈黙の春(Silent Spring)』の著者、レイチェル・カーソンだ。
 1907年にアメリカの工業都市ピッツバーグ近郊の篤農家の娘として生まれたレイチェルは長じて生物学者となり、文筆家としても名を馳せるようになる。そんな彼女のもとに1958年、友人から一通の手紙が届く。役所が殺虫剤DDTを空中散布した後に、彼女の庭にやってきたコマツグミが次々と死んでしまった、という内容だった。レイチェルはこの手紙をきっかけに4年に及ぶ歳月をかけ、のちに「歴史を変えることができた数少ない本の1冊」と称されることになる名著『沈黙の春』を著す。途中でがんに冒され余命いくばくもない中、膨大な資料に埋もれつつ執念で書き上げたものだった。
 同書はたちまちベストセラーとなったが保守系政治家や化学企業関係者からの心ない批判にも晒され、出版の2年後に彼女は亡くなる。この一冊はしかし人々に環境問題への意識を芽生えさせ、世界中で農薬使用を制限する法律制定を促してゆく。一女性科学者がたったひとりで巨大権力に立ち向かい、社会をおおきく変えたのだ。
 グレタも、最初は15歳の時のたったひとりの座り込みストライキだった。それがいまでは世界の若者たちを糾合し、いっこうに本気にならない地球温暖化の元凶である先進国やその指導者、企業トップらに圧力をかけ続ける。若者らを突き動かしているのは、自分たちの未来をお前らに潰されてたまるか、という至極まっとうな怒りなのだ。
 それにしても、『沈黙の春』からグレタに至るわずか50〜60年の間の地球環境劣化のスケールとスピードの凄まじさはどうだろう。科学がそう遠くない将来の人類絶滅をも予測するほどになったということは、わずか18歳のグレタの使命がレイチェルのそれをはるかに凌ぐ緊急性と重要性を帯びたことになろう。
 地球はおそらく全宇宙でたったひとつ、奇跡的なバランスによって生物が生息するに至った天体だ。しかしひとたび温暖化のチェーンリアクション(連鎖反応)がはじまればそのバランスが崩れ、もはや人間の手には負えなくなる。われわれの責任はとてつもなく重い。

 Text by Shuhei Matsuoka
 単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
posted by ノブレスオブリージュ at 09:08| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする