2021年03月25日

卑に非(あら)ず

 10年ほど前、事務所として借りていたマンションから実家の一角にある亡父の書庫に引っ越すことを思い立ち、不要なガラクタ類を処分してデスク、パソコン、ソファなどを設(しつら)えて現在に至るまで使用している。父のかなりの量の蔵書(岳父とわたし自身のものも含まれるが)に日々囲まれているわけだ。
 わたしの父は知る人ぞ知る変り者だったが、残された本を見ていると人格形成の過程がなんとなくわかる気がして面白く、何より本コラムのような原稿を書くうえでそれらの蔵書がどれだけ役に立っているか知れない。いまでは入手できない本も少なくないからだ。
 地声がおおきく喜怒哀楽の激しい典型的な“高知のおんちゃん”であった本好きの父が鬼籍に入ったのはいまから16年前である。葬儀の前夜、喪主であった当時48歳のわたしは参列者を前にどのような挨拶をしようかとあれこれ思いあぐねていた。そう長くはしゃべれないので、ごく簡潔に父の人となりを表現できる言葉はないものか。
 そしてふと浮かんだのが、「粗(そ)にして野(や)だが卑(ひ)ではない」というフレーズだった。まさにぴったりだと思ったのだ。
 これは『粗にして野だが卑ではない−石田禮助の生涯−』(城山三郎著、文芸春秋)からの引用で、戦前に三井物産で華々しい業績をあげて代表取締役社長にまで栄進し、戦後77歳で第5代国鉄総裁に就任して経営合理化と機構改革に取り組んだ石田禮助が国会で大勢の国会議員たちを前に言った言葉である。
 父の葬儀の日は激しい雨であった。出棺を前にしてわたしは、雨の中をわざわざ足を運んでくださった参列者へのお礼と父の一生を簡単に述べたあと、次のように続けた。
 「父は社会的な地位や名誉にも、お金にもまったく縁のない男でした。しかし、何者からも自由であり、また思うがまま生きた男でした。幸せな一生だったと思います。そして父の人となりを考えたとき、ある言葉が頭に浮かんできます。それは、<粗にして野だが卑ではない>という言葉です」
 しゃべり言葉でこれを言うと相手に意味がわかりにくいので、「粗」「野」「卑」の漢字を想起してもらう説明を加え、石田禮助のことを添えて話したことだった。はたして参列者にきちんと伝わったかどうか心もとなかったが、あとで家内から「理解できたよ」と言われ、すこし安心したことを思い出す。
 さて、「粗にして野だが卑ではない」という痛快な言葉を吐いた石田禮助(1886〜1978)とはいかなる人物であったか。
 戦後の米軍占領下、昭和24年に設立された日本国有鉄道(国鉄)は当初から問題山積で誰が総裁になっても経営困難と思われていた。初代総裁の下山定則は謎の轢死体となり、第2代の加賀山之雄は桜木町事故の責任をとらされて辞任、第4代の十河(そごう)信二は三河島事故があり、また新幹線予算問題で2期目の任期を全うできず辞職に追い込まれている。当時の国鉄は事故も多く労働争議も苛烈を極めていたのだ。
 時の総理、池田勇人は次の総裁にはなんとしても民間から財界人を起用して経営合理化に取り組みたいと考え、経団連会長・石坂泰三に人選を依頼した。池田のライバルだった佐藤栄作の国鉄への影響力を殺(そ)ぐ意図もあったようだ。
 だがそもそも石坂自身が初代総裁就任を現役の身だからと断り、小林一三なども「何ひとつ権限のない仕事をやらせる気か」と撥(は)ねつけ、けっきょく運輸次官だった下山が総裁になった経緯もあるほどで、石坂は次の総裁人選にあたり松下幸之助や王子製紙の中島慶次などからも断られ、困り果てて最後にダメ元で親友の石田禮助を頼ったのである。石田は当時、十河からたのまれ国鉄の監査委員長をしており内情に詳しいこともあった。
 だが、石田が「乃公(だいこう)出でずんば」とばかりこれをすんなり受けたことに当の石坂が逆に驚いた。どう考えても、功成り名を遂げた財界人なら誰もがやりたがらない晩節を汚しかねない大仕事なのだ。おまけに77歳という高齢である。
 石田は高橋圭三との対談で言っている。
 「あれら(断った財界人ら)は一国一城の主で、安定してらぁ。(笑)こんなところにノコノコ入ってくるのは、ちょっと狂い気味だね。(笑)またそういうのをひっぱってきたって、わかりゃせんわ」
 アメリカを中心に海外生活28年、辣腕の商社マンとして商売に徹した半生を過ごしたかれにとって、晩年には金儲けとは無縁のパブリック・サービスに奉仕したいという思いが強かった。総裁就任についても「パスポート・フォア・ヘブン(天国への旅券)だ」と言い、総裁報酬は年1本のブランデーのみとして金銭を受けとらなかった。いやそれどころか、池田総理から勲一等叙勲の申し入れがあったときも、「おれはマンキー(山猿)だよ。マンキーが勲章下げた姿見られるか。見られやせんよ、キミ」と一笑に付して辞退している。「役人ごときに人物評価され、おまけに順位をつけられるいわれはない」と叙勲を辞退する人物もいるにはいるが、このあっけらかんは見事のひと言だ。
 昭和38年、第5代国鉄総裁就任にあたり、石田は慣例によって国会で挨拶をすることになった。国鉄は国が100%の株式を持つ国有公社なので、国会は株主総会のようなものだ。
 ところが、まっすぐ背を伸ばした長身の石田はそこで開口一番、「諸君!」とやって、ふだん周りから「先生」と呼ばれる代議士たちを面食らわせた。そして「わたしは嘘は絶対につきませんが、知らぬことは知らぬと言うから、どうかご勘弁を」と述べたあと、「生来、粗にして野だが卑ではないつもり。丁寧な言葉を使おうと思っても、生まれつきでできない。無理に使うと、マンキーが裃(かみしも)を着たような、おかしなことになる。無礼なことがあれば、よろしくお許し願いたい」とまったく異例の、というより痛快無比な挨拶をし、そしてとどめに「国鉄が今日のような状態になったのは、諸君たちにも責任がある」と言い放ったのだ。議場はざわつき、代議士たちから怒りの声が上がったのは云うまでもない。「なんだ、この無礼な爺さんは!」というわけだ。
 就任後の石田はまさに矍鑠(かくしゃく)として6年間にわたり国鉄改革に力を尽くし、社内に企業精神を植えつけて引退した。引退後は一農園主として国府津(こうづ)(神奈川県)に隠棲、92歳の天寿を全うした。最後の言葉は、「今年の稲はどうだ」だった。葬儀は国府津の自宅で行われ、参列者もすくなくきわめて簡素であったという。
 石田は生前、「葬式なぞは簡素にするものだ」と言い、自分の葬儀についても口酸っぱく妻に言い含めていた。曰く「死亡通知を出す必要はない」「物産や国鉄が社葬にしようと言ってくるかも知れぬが、おれは現職ではない。彼等の費用をつかうなんて、もってのほか。葬式は家族だけで営め」「香典や花輪は一切断われ」「戒名はなくてもいい。天国で戒名がないからといって差別されることもないだろう」「葬式が終わった後、内々で済ませましたとの通知だけ出せ」等々。これを妻は忠実に守った。
 この遺言は、95歳で世を去った石田よりすこし先輩の「電力の鬼」松永安左エ門を思い起こさせる。「官吏は人間のクズである」と公言して憚らなかった自由主義者で、一貫して野にあり、いまの民営9電力体制を創り上げた男だ。この爺さんの遺言状もすごい。
 <何度も申し置く通り、死後一切の葬儀・法要はうずくの出るほど嫌いに是れあり。墓碑一切、法要一切が不要。線香類も嫌い。死んで勲章位階(もとより誰もくれまいが友人の政治家が勘違いで尽力する不心得、かたく禁物)これはヘドが出る程嫌いに候。財産はセガレおよび遺族に一切くれてはいかぬ。彼らがダラクするだけです。…>
 松永も石田に負けず劣らず、「粗にして野だが卑ではない」男であったが、明治生まれの傑物はやはりケタが違う。それを思えば、いまの政財官界でふんぞり返る連中がいかに小者で、そして何よりいかに卑なることか。
 ところで、父の書庫を事務所にすべく蔵書を整理したところ、石田の著書『いいたいほうだい』(日本経済新聞社)、さらに城山三郎の『粗にして野だが卑ではない』も発見した。そうか父も読んでいたかと感慨深いものがあったが、息子が自分の葬儀でそれを引用するとは想像もしなかったろう。
 いまにしてみれば石田禮助の名言をわが父の葬儀で使ったのはいささか“子の欲目”であったが、父を知る参列者にはそれなりに納得してもらえたはずである。そして何より、「かく云うおぬしはどうか」と自問自戒する機縁になったことに意味はあったと思っている。

 Text by Shuhei Matsuoka
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2020年12月29日

小菅と菅

 藤沢周平(1927〜1997)の小説をはじめて読んだのは25年ほど前だと思う。記憶はあまり定かではないが、週刊誌の記者をしていたころ、藤沢ファンの記者仲間が作品の魅力を熱っぽく語る姿にほだされてのことだった気がする。バブル経済が弾けたあと不況が長く続き、どちらかといえば地味なこの作家に静かな人気が出はじめていたころだ。
 最初に読んだのは、『蝉しぐれ』だった。かれの多くの作品に登場する北国の小藩「海坂(うなさか)藩」(庄内藩をモデルとした架空の藩)を舞台とした青春小説で、その清冽な文体や爽やかな読後感とともに牧文四郎という主人公の名はいまも記憶に残っている。
 わたしはそれまで時代小説をほとんど読まなかったが、気に入ってその後も短編集などを含め何冊か読んだのだった。だが、いつの間にか史実に材をとった歴史小説の方を耽読する癖がついてしまい、ある時期からすっかりご無沙汰してしまっていた。世の藤沢周平ファンからすればお恥ずかしいほどの読者にとどまっていたのである。
 しかし最近、齢とともに閑(ひま)がふえ、老後の愉しみに残しておいた−ということにしておく−山本周五郎や藤沢周平をふたたび読みはじめたのだが、じつは藤沢周平という作家は、まったく個人的な理由から、わたしにとってかなり以前から気になる存在だったのだ。
 もうお気づきの方もいるだろう、わたしたちは名前が同じなのだ。「なんだそんなことか」といわれそうだが、本人にとっては案外大事なことで、読者でなくても淡いシンパシーは感じていたのだ。わたしの名は本名で、藤沢周平のそれはむろんペンネームだが、それでもありふれた名前ではないため同胞意識を勝手に抱いていた。
 藤沢周平の本名は小菅留治という。「こすげ とめじ」と読む。かなり田舎臭い名前だが、山形県庄内地方の米農家の次男と聞けばうなずけよう。戦後作家で農家出身というのはかなり珍しいのではないかと思うが、その出自は目立つことが嫌いで物静かなかれの性格や端正な佇まいだけでなく作品の中にも深く投影されており、主に江戸時代を舞台にした作品群に尋常ならざるリアリティを与えている。奇をてらわぬ平明で美しい文体と鮮やかな自然描写、世渡り下手だが一本筋の通った人物設定など、その傍証は挙げればきりがない。
 評論家の川本三郎は、『藤沢周平のすべて』(文春文庫)の中でこう述べている。
<庄内平野の農家に生まれ育った藤沢周平は太陽と共に起き、野良で「働いている」農民たちの暮らしを身近に見ていた。その健康さを愛し、自らも好んで田圃に入った。
 随筆『半生の記』のなかでこんなことを書いている。「私は師範生のころも、休暇で家に帰れば時どき田圃に降りたし、教師になってからも農繁期には兄夫婦を手伝って稲を刈った。それは私自身田圃に出て働くことが嫌いでなかったせいでもあるが、より厳密に言えば、長男である兄に対する敬意の気持ちからそうするのだった。兄夫婦が田圃で汗を流しているときに、学生だからと畳にひっくり返って本を読んでいることは出来ない。それがむかしの農家をささえていたモラルだった」。
 皆んなが汗を流しているときに、自分ひとりが、「本」の世界にいることは許されない。藤沢周平の文学の核にあるのは、まぎれもなくこの「むかしの農家をささえていたモラル」である。>
 多くのプロ作家や評論家からも高い評価を得る藤沢周平だが、その作品群を評したものの中でも、東京生まれの川本ならではともいえるこの視点は出色である。
 ちなみにペンネームの由来だが、「藤沢」は結婚のわずか4年後にがんで早世した最初の妻の故郷(山形の一地名)であり、「周」はかれが可愛がっていた妻の甥っ子の名である。生後8ヵ月の娘を残して28歳の若さで世を去らざるを得なかった妻の無念が、かれのその後の人生に大きな暗い影となって残ったことがそのペンネームからも窺い知れる。
 藤沢周平こと小菅留治は、21歳で山形師範学校を卒業して念願だった地元中学校の先生になる。しかしその2年後に肺結核が発見され、地元の病院に入院。そして主治医の勧めで東京・東村山のサナトリウムに移り、死の淵を覗きながら30歳までそこで過ごした。その間に片肺と肋骨5本を切除し、命はとりとめたが教師への復職はかなわず、東京で業界紙記者の職を得て、藤沢出身の女性を妻に迎える。その妻が早世したことは先に述べた通りだ。
 かれが小説を書くようになったのは、文章を書くことが好きだったことはあるが、こういった暗い過去や負い目から逃れるただひとつの手段だったからだ。直木賞を獲ってプロ作家となってからも、永いあいだ深い鬱屈の中にいたことをのちに吐露している。
 さて、小菅留治が山形県東田川郡黄金(こがね)村(現鶴岡市)に生まれてから21年後の昭和23年、留治が山形師範学校に通っていたころだが、直線距離でわずか70キロほど北にある秋田県雄勝郡秋ノ宮村(現湯沢市)に菅義偉(よしひで)が生まれた。戦後のベビーブーマー、いわゆる団塊世代だ。
 小菅(こすげ)と菅(すが)―。似た苗字だが、もちろんふたりはまったくの無関係である。ただ最近、自宅にあった『藤沢周平のすべて』を読みかえしていたとき、「むかしの農家をささえていたモラル」という言葉に感慨をおぼえながら、いっぽうで何かいやなものが頭にひっかかる感じがしたのだ。そのとき脳裏に浮かんだのが、菅義偉だった。
 数々のスキャンダルや新型ウイルス対策の失敗でほとんど死に体だった安倍晋三が持病を理由に首相の座を投げだし、本来はその座に就くはずのない人物が形だけの自民党総裁選を経て禅譲された。“棚ぼた”で首相の座を射止めたその人物、菅義偉が総裁選後の挨拶そして総理就任記者会見で、「秋田の農家の長男として生まれた」という決めゼリフを吐いたときにわたしが感じた違和感と不快感を思い出したのだ。
 菅にとって「秋田の農家の生まれ」はいわば最大の“売り”で、ことあるごとにそのセリフを吐いてきた。内なる権力欲をこの決めゼリフと貧弱な言語能力で覆いかくし、嘘のない質実な人柄だと思わせる効果を狙っているわけだが、じつは菅の父は「秋ノ宮いちご」のブランド化を成功させ町会議員を4期務めた地元では知られた人物で、ふたりの姉は大学に行ったが長男の義偉は高校卒業後、農家を継ぎたくないのと父との確執から田舎を飛び出した、あまり出来のよくない凡庸な青年だった。一時、東京・板橋の段ボール箱製造会社で働いていたが、けっきょくは大学進学を目指し、国立に落ちて法政大学に入学する。アルバイトをしながらではあるが、いわゆる苦学はしていない。
 臆面もなく自己アピールするのが政治家のつねとはいえ、世襲議員や高学歴の官僚出身ではなく東北の農家出身で苦学して大学を卒業した苦労人、という世間受けする人物像を演出し、それを“売り”にするあざとさと抜け目なさ。あまつさえ日本学術会議の推薦した学者6人を政権に楯突く徒として−とは口が裂けても言わないだろうが−恬然として拒否する異常なほどの専横ぶりは、いったいどこから来るのかと思っていたときに読んだのが川本三郎の一文だったのだ。
 菅は官房長官として安倍前首相の影となって隠然と権力を揮(ふる)ってきた。政策に異を唱える官僚は左遷させて忖度官僚ばかりを重用し、かれらを使ってモリ・カケ・サクラという3点セットのスキャンダルを公文書の隠蔽や改ざんまでさせて逃げ切りを図り、NHKなどのメディア、さらには学術界にまでも圧力をかけ忖度させようとする強権ぶり。こんな専横を許せば、保身と栄達にのみひた奔(はし)る卑劣漢が社会の中枢を占めるようになり不正や腐敗が常態化するのは理の当然だが、もっと恐ろしいのは、いつしか国民がそのことを大して悪いこととも思わなくなることだ。
 戦後、機械化により農家の労働は楽になった。しかしそれと軌を一にするように農民の心(精神)も農村も大きく変貌し、「むかしの農家をささえていたモラル」は急速に消え失せていった。図らずもその来歴を白日の下にしたのが、東北の農家出身を“売り”にするベビーブーマー首相・菅義偉の登場である。そして「農家をささえていたモラル」とはつまるところ「日本人をささえていたモラル」そのものだと思い至ったとき、わたしはいまの日本社会の情けない淪落ぶりも納得できたのだった。
 しかしあまり悲観しすぎないでおこう。藤沢周平の作品を読めばいつでも懐かしい日本の美しい原風景や凛としたひとびとに出逢えるという事実に変わりはない。その悦びを奪いさることは、いかな権力者でもできないのだから。(文中敬称略)

Text by Shuhei Matsuoka
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2020年09月29日

災害と微笑

 毎年毎年、よくもまあこれほどの自然災害が起こるものだとあきれる。
 大規模な豪雨災害だけみても九州南部の球磨川流域を中心に全国各地が被災した今年の7月豪雨、昨年の台風19号による東日本豪雨、一昨年の西日本豪雨と続けざまに甚大な被害を出し、被災地域もいまや日本全土に広がりつつある。
 情報過剰社会にどっぷり浸かっているためか、わたしたちの脳は次の情報(刺激)を求めるのに忙しく、繰り返される災害の記憶どころかほんの数週間前のこともすっかり忘れてしまうほどだが、いまやこの国のどこに住もうと、明日はわが身であることを常に自覚して生活しなければいけないことだけは忘れてならないだろう。
 それにしても、気象庁がこのような災害時に「異常気象」「想定を超える大雨」などという言葉をいまだに使っているのは、どうにも解せぬ。かつての異常気象はとっくに常態化し、雨量も大幅に増えているのは誰の目にも明らかなのにいっこうに改める気配もない。この呑気さは事なかれ主義と前例主義のくびきから逃れられない日本の役所に胚胎する非科学性からくるものだろうが、情けないやら腹立たしいやら。
 地球温暖化による気候変動がすでに日本国土の大半を温帯から亜熱帯に不可逆的に移行させていることは、気温上昇や雨量増加、台風の大型化のみならず動植物の分布変化からも明らかで、そのスピードは今後さらに激化する可能性が高い。そのことを国民に科学的エビデンスを示してきちんと警告すべきではないかと、わたしなどは切実におもう。桜の開花予想や天気の予報・警報を出すだけの組織に5千人もの職員は不要である。
 ところで、もともと日本は世界にも類を見ない「災害大国」である。温暖多雨の東アジアモンスーン地帯にあるため南北に長い日本列島がそのまま台風の通り道になっており、4つのプレートが交差する最悪の位置にあるため大地震が頻発する。さらには列島中を無数の活断層が走り、活火山もいたるところに存在する。またいずれの川も短く急流で、上流に大雨が降るとたちまち増水して暴れ川に変貌し、中・下流域を洪水が襲ってくる。このような世界にも冠たる悪条件の上に、地球温暖化による自然の狂暴化がさらに追い打ちをかけているのがいまの日本の姿なのだ。
 そして古(いにしえ)より頻繁に災害に見舞われてきたため、日本人の中には、地球上の他の国や地域にはほとんど見られない独特のエートス(精神)が存在するようになったと考えられる。
 たとえば突然の災害に見舞われたとき、われわれ日本人がじつに特異な表情を見せることに皆さんはお気づきだろうか。これは外国人がよく指摘することでもあるが、地震や洪水のような不幸な災害に遭ったとき、テレビなどで被災者が見せる表情に注意してほしい。苦悩と絶望の中にありながらも、わずかながら微笑を浮かべる場合があることに気づくだろう。諦めや自嘲の表情とともに、ごく自然に表出する微笑。これはいったい何なのか。
 海外においてはまず例外なく、被災者は怒りと絶望の表情で、激しい怨嗟の言葉が口をついて出るか泣き叫ぶだろうし、食料などを求めて市民が暴徒化する場合も少なくない。そんな外国人にとって、日本人の物静かな挙動や表情は理解できないものだろう。それにこんな悲惨な状況下で、こともあろうに微笑を見せるなんて−。
 『逝きし世の面影』(平凡社、第12回和辻哲郎文化賞受賞)という浩瀚(こうかん)な一冊がある。九州・熊本に住む在野の歴史家・渡辺京二氏の代表作で、幕末から明治初期に来日した外国人によって書かれた膨大な日記や手紙、エッセーなどをくまなく渉猟し、異邦人が見た当時の日本の姿から、現代の日本人が喪ったものの意味と価値を再評価する労作だが、そこに、災難に見舞われたときの日本人の不思議な態度に驚いたという記述がいくつも出てくる。一例を引いてみよう。
 明治9年、東京医学校(東大医学部前身)で教鞭をとっていたドイツ人医師のベルツが大火事(約1万戸焼失)に遭遇したときの記録だ。
 「日本人とは驚嘆すべき国民である!今日午後、火災があってから三十六時間たつかたたぬかに、はや現場では、せいぜい板小屋と称すべき程度のものではあるが、千戸以上の家屋が、まるで地から生えたように立ち並んでいる。…女や男や子供たちが三々五々小さい火を囲んですわり、タバコをふかしたりしゃべったりしている。かれらの顔には悲しみの跡形もない。まるで何事もなかったかのように、冗談をいったり笑ったりしている幾多の人々をみた。かき口説く女、寝床をほしがる子供、はっきりと災難に打ちひしがれている男などは、どこにも見当たらない。」
 まったく信じられない、というふうである。
 渡辺は、「この時代の日本人は死や災難を、今日のわれわれからすれば怪しからぬと見えるほど平然と受けとめ、それを茶化すことさえできる人びとだった」と結論し、その後の急速な西洋化によってこの固有の特質は相当に変化してしまったとみる。わたしもその意見に大いに賛同するが、その特質の残滓がいまの日本人の中に残っていなくもないとわたしには思えるのだ。それが、被災時に見せる不思議な表情と微笑である。
 微笑というものは、うれしさの表出だけではない。慈愛と寛容のそれでもある。「モナ・リザ」や赤児に乳を与える母親の表情を想い浮かべればよい。さらには、古より天災に苦しめられてきた日本人ならではの、人智のおよばぬ自然の猛威や運命に抗わぬ諦念と再生・再建への静かな覚悟の表出でもあるに違いない。
 ところで、災害はたしかに悲劇ではあるが、被災期間は一般にごく短いのが普通だ。地震や火事、洪水も台風もそう長く続くことはない。だからこそ、われらが先祖のごとく何事もなかったかのように平然と、笑顔すら見せながらあっという間に再建することが可能だったのだ。
 しかし、いつまで続くか見当もつかぬ災害、それもこのたびのコロナウイルス禍のような姿の見えない災厄に対しては日本人でもそう簡単ではない。無症状者が感染源にもなり、感染した人とそうでない人の区別がつきにくいという厄介さが恐怖と猜疑を煽り、ひとびとの心を次第に蝕んでいく。歪んだ正義感を振りかざして他人を攻撃する“自粛警察”などはその象徴だ。
 このことは、大正12年の関東大震災の直後に起こった陰惨な事件を想起させる。朝鮮人が放火したり井戸に毒を投げ入れているといったデマが流れ、恐怖のあまり罪もない大勢の朝鮮人を無差別に虐殺したのは東京、神奈川、千葉、埼玉などの一般住民によって組織された自警団だった。これは中世ヨーロッパの魔女狩りを彷彿させる、狂気と暗黒の史実である。
 と同時に、わたしの脳裏にはもうひとつの風景が浮かぶ。結核菌が肺や脊髄を腐らせ、体のあちこちに空いた穴から膿となって出る恐ろしい脊椎カリエスに冒されていた正岡子規とかれの友人や後輩たちの姿だ。子規は明治29年から35年に死去するまで東京・根岸で病床にあったが、当時の結核は特効薬がなくひとたび罹れば高い確率で死亡する「死の病」で、空気感染することも知られていた。だが、子規の家にはかれを慕う多くのひとびとが平然と集まり、談笑したり句会を開いていたのである。
 わたしが云いたいのは、明治から大正にかけて急速に近代化、軍事大国化する中で、そしてとりわけ日露戦争(明治37〜38年)を境に、日本社会と日本人がおおきく変貌していったのではないかということだ。「日露戦争以降、日本人は民族的に痴呆化した」(『坂の上の雲』第二巻のあとがき)と断じたのは司馬遼太郎だが、西洋列強と肩を並べる一等国へと朝野を挙げて駆け上がろうとする狂騒の陰で、日本人は民族として誇るべき固有の何ものかを急速に喪っていったのだろう。
 最後に『逝きし世の面影』をもう一度引いてみよう。同じ明治9年の東京大火の翌朝、銀座で焼け出された住民たちを見たアメリカ人女性の記録だ。
 「この人たちが快活なのを見ると救われる思いだった。笑ったり、しゃべったり、冗談を言ったり、タバコを吸ったり、食べたり飲んだり、お互いに助け合ったりして、大きな一つの家族のようだった。家や家庭から追い出されながら、それを茶化そうと努め、助け合っているのだ。涙に暮れている者は一人も見なかった。」
 現下のウイルス禍が人類にとって深刻な災害であることは間違いない。しかしわたしたち日本人は紛れもなく−まことに不肖ではあるが−西洋人が心底驚嘆したかつての日本人の子孫なのだ。焦らず騒がず、微笑すら浮かべて、立派に乗り切ってやろうではないか。

Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html

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2020年06月25日

コロナとグレタ

 過日、わが家の庭に咲き誇るハナミズキを眺めながら、突如降ってわいた稀にみる奇妙な現象の意味を考えていた。
 あまりに微小で単純な構造ゆえに生物の仲間にすら入れてもらえず、自分で移動することすらもできない、まったく取るに足らぬモノ(非生物)に恐れ慄(おのの)く地球上の覇者のなんとか弱く哀れなことか。この世のすべてのものは、わが家のハナミズキのようにまるで日常とかわらず美しく平然としているのに、人間だけが突如として狂ったようにあわてふためく姿は、当の人間にとっては悲劇であっても、どこか滑稽で寓話的である。それも、何者かに唆(そそのか)されたわけでも、脅されたわけでもなく、善良な市民自らがこのウイルスを知らぬ間に身の内に棲まわせ、せっせとそれを運び、わずか数ヵ月で地球全体に拡散させたのだから驚異的といえばこれほど驚異的なこともない。
 フランスの哲学者パスカルの有名な言葉を思い出す。
 「人間は一茎の葦にすぎない。自然のうちでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である。かれをおしつぶすには、全宇宙が武装するにおよばない。ひと吹きの蒸気、ひとしずくの水が、かれを殺すのに十分である。」(『パンセ』)
 人間は、自然のうちでもっとも弱い存在であることを、科学の発達と自らの傲慢さが忘れさせたのかもしれない。さすればあるいは、近年の異常な気候変動や激甚化する自然災害同様、繁栄をきわめ増長した人類に対する母なる地球からの警告、いや天の怒りなのであろうか。あるいは、地球環境を回復不能なまでに破壊し続ける邪悪きわまりない人類に対して天が差し向けた災厄なのだろうか。
 そしてこの原稿を書きながらも、わたしをあざ笑うかのように楽しげに樹々をわたる小鳥たちの啼(な)き声が、「少しは身に染みたか!」という天の声に聴こえてくるのだ。
 ところで、4月放送のETV特集「緊急対談 パンデミックが変える世界〜海外の知性が語る展望〜」で経済学者・思想家のジャック・アタリ氏は、協力は競争よりも価値があり、利他主義こそがコロナ後の世界に必要だとして、こう述べている。
 「利他主義は合理的利己主義にほかなりません。自らが感染の脅威にさらされないためには他人の感染を確実に防ぐ必要があります。利他的であることは、ひいては自分の利益となるのです。また、他の国々か感染していないことも自国の利益になります。たとえば日本の場合も世界の国々が栄えていれば、市場が拡大し、長期的にみると国益につながりますよね。…今回の危機は乗り越えられると思います。ただし、長期的にみるとこのままでは勝利は望めません。経済を全く新しい方向に設定しなおす必要があるのです。戦時中の経済では自動車から、爆弾や戦闘機へ企業は生産を切り替えなければなりません。今回も同じように移行すべきです。ただし、爆弾や武器を生産するのではありません。医療機器、病院、住宅、健康、水、良質な食糧などの生産を長期的に行うのです。多くの産業で大規模な転換が求められます」
 アタリ氏は、いまのコロナ禍を市場崩壊と民主主義崩壊の危機としながらも、ひとびとの連帯による「利他主義」と長期的視点に立った「ポジティブ・エコノミー」、そして「共感のサービス」により次世代のことを考える社会に転換できるとし、のちにコロナ禍がきっかけとなって人類が進化したと云えるようにしなければならないという。
 もちろん、世界はまだまだ大恐慌の不安を抱えているし、ハンガリーやイスラエルのように、緊急事態を利用して『1984』(ジョージ・オーウェル著)さながらの監視独裁化に向かおうとする国家が次々と現れる可能性も否定できない。また多くの発展途上国ではこれから深刻な経済的・社会的問題が噴出して、かなりの期間、手に負えない情況が続くに違いない。こういった重大な問題が本当に解決されるのかは誰もわからない。連帯どころか、国も人もますますミーイズムと疑心暗鬼に陥り、世界はバラバラになるという最悪のシナリオすら考えられる。アタリ氏はやや楽観的すぎるのかもしれない。
 もし人類がこのパンデミックを契機に進化できなければ、地球温暖化による絶望の日を待つまでもなく、わが世の春を謳歌してきた現代文明は確実に危機、いや終焉を迎えることになるだろう。いまこの瞬間にも抗生物質への耐性を獲得した細菌類や未知のウイリスはわたしたちのすぐそばで生まれており、そのことを前提とした社会構造に転換していかねば、今後次々と襲来する見えざる恐怖に人類は到底耐えられないからだ。
 そもそも中国・武漢とその周辺だけの地域的な疫病で終息せず未曾有のパンデミックに至ったのも、突然変異で人間を宿主とすることに成功した切れ者のウイルスが宿主とともに移動したことが原因であって、ひとえにヒト・モノ・カネが激しく動くグローバル社会を創りだしたわれわれ自身のせいなのだ。どころか、もともと自然界の奥深くでさまざまな野生動物と共生してきたウイルス群−コロナ(新型、SARS、MARS)、エイズ、エボラ、インフルエンザなどはみなそうだ−を、経済活動と乱開発により自然を蹂躙して引っ張り出してきてしまったのだから、二重の意味で自業自得なのである。
 そう考えれば、武漢ウイルス研究所から漏れ出たものか否かはさておき、このたびのコロナ禍は、比喩でもなんでもなく、人間に対する天(地球)の怒りであり自然界からの挑戦状と考えるのが妥当だろう。
 ところで、2019年暮れに初めてWHOにより新たな感染症として確認されたことから正式にCOVID-19と命名されたこのたびのコロナ禍と、同年9月に行われた国連における気候行動サミットでの出来事は無関係ではないとわたしには思えてならない。
 「大絶滅を前にしているのに、あなたたちが話しているのは、お金と経済発展がいつまでも続くというお伽噺ばかり。よくもそんなことを!」と怒りに肩を震わせながら各国代表に言い放った当時16歳のスウェーデンの少女グレタ・トゥーンベリさんの姿に衝撃を受けなかった人はいないと思うが、人類を救うために天が差し向けたとしか思えない、少女の姿をした非凡者の出現と、このたびのコロナ禍が同じ2019年に起こったことは単なる偶然ではないのではないか。
 つまり、天(地球あるいは自然)は「善」と「悪」の象徴としてグレタと新型ウイルスを同時にこの世に送り込み、人類を試しているのではないかということだ。果たしてわれわれはそのことに気づき経済・社会システムを大転換できるのか。SDGs(持続可能な開発目標)という高邁な行動指針がすでに国連で発動され一部の覚醒した企業や市民は動きはじめており、「環境」「社会」「ガバナンス」の3要素を企業選別の条件として中長期的視点で投資するESG投資が急激に伸びている(世界の運用資産の4分の1以上を占める)のは一縷の光明だが、影響力の大きいアメリカ、ロシア、中国といった大国や多くの発展途上国政府は環境問題にまるで後ろ向きで、環境破壊と温暖化は深刻度を増すばかりなのだ。
 新型コロナとグレタが同時にわれわれの前に出現した意味を解せず、相も変わらず持続不可能な経済・社会システムを信奉して自滅へとひた走るのか、あるいは未来に向け大きく舵を切れるのか、その瀬戸際にわれわれ人類は立っているのかもしれない。
 物理学者・寺田寅彦は昭和7年の随筆『からすうりの花と蛾』で述べている。
 「われわれが存在の光栄を有する二十世紀の前半は、事によると、あらゆる時代のうちで人間がいちばん思い上がってわれわれの主人であり父母であるところの天然というものをばかにしているつもりで、ほんとうは最も多く天然にばかにされている時代かもしれないと思われる。…天然の玄関をちらとのぞいただけで、もうことごとく天然を征服した気持ちになっているようである。」
 この碩学の一言は21世紀の現在でもまったく色褪せておらず、それどころかますます人間にその傾きが強くなっているのは間違いないだろう。その何よりの証拠が、この百年の激しい環境破壊と急激な地球温暖化、そしてこのたびの未曾有のパンデミックなのだ。
 奇跡の少女グレタの言葉を通して傷ついた地球の声をしっかりと聴き、コロナショックによって競争と経済発展一辺倒の人類の内なる狂気を一日も早く鎮め、アタリ氏の云うごとく利他の精神によるまったく新しい社会・経済・政治体制を本気でつくり上げるしか人類に選択肢は残されていないのだろう。そしてそれを可能ならしめるのは、環境破壊に加担してこなかったグレタのような世界中の若者世代だ。彼らに期待しようではないか。

Text by Shuhei Matsuoka
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2020年03月26日

いまこそ、渋沢栄一

 わたしの知人に、澁澤倉庫という一部上場会社の役員を務めている人がいる。かれによると、倉庫準大手の同社は渋沢栄一(1840〜1931)が創業した企業で、三菱、三井、住友などの旧財閥が現在でも多くのグループ企業を有する巨大な存在であるのに比して、渋沢直系の企業は同社一社しか存在していないのだという。この話を聞き、生涯に500余りの会社を創業し、日本に資本主義を根付かせた巨人でありながら「財なき財閥」と云われた渋沢栄一らしいなと得心したことだった。
 ことほど左様に渋沢の名が残るものが少ないこともあってか、江戸から昭和まで生きた実業家・渋沢栄一とはどのような人物かを識る人もいまは少ないようだ。が、昨年唐突にお札変更が発表され、福沢諭吉のあとを襲って次の1万円札(2024年から流通)の肖像画に採用されることが発表されるやにわかに注目を集めはじめ、来年のNHK大河ドラマの主人公にも決まり、かれの生地、埼玉県深谷市は渋沢ブームをあて込んで早くも観光客誘致に躍起だという。
 それはさておき、経営学の第一人者で「マネジメントの父」「経営の神様」と称されたピーター・ドラッカーが渋沢をことのほか評価していたことはよく知られている。かれはその代表的な著書『マネジメント』(ダイヤモンド社)の序文でこう述べている。
 「率直にいって私は、経営の『社会的責任』について論じた歴史的人物の中で、かの偉大な明治を築いた偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出るものを知らない。彼は世界のだれよりも早く、経営の本質は『責任』にほかならないということを見抜いていたのである。」
 ドラッカーは日本美術も好きでよく来日したが、もうひとつの目的は日本経済、なかんずく渋沢栄一を調べるためだったと云われている。
 かれはまた『断絶の時代』(同)において、岩崎弥太郎と渋沢栄一は日本以外ではほとんど知られていないが、このふたりの業績はロスチャイルド、モルガン、クルップ、ロックフェラーの業績よりはるかにめざましいものだったとして、次のように述べている。
 「岩崎は三菱財閥をつくった。三菱は、現在にいたるまで日本最大の工業集団であり、世界的に見ても、最も大きく、最も成功した産業集団の一つなのである。渋沢は一九世紀から二〇世紀にかけて九〇年も生きていたが、その間に六〇〇をこえる産業会社をつくりあげた。この二人だけで、日本の工業、運輸関係企業のおよそ三分の二をつくりあげたのである。たった二人の人間が、一国の経済にこれほど大きな影響を与えた例はどこにも見あたらない。」
 そして日本は岩崎流で急速な資本蓄積を行い、渋沢流で史上に類のないほど急速な人的資本の形成と文盲率の低下を実現したとし、「岩崎は巨大で非常に収益力のある会社を残したが、渋沢の遺産は東京にある有名は一橋大学である」と結論している。ちなみに一橋大学の前身、東京高等商業学校とその前身である商法講習所(日本初のビジネススクール)の主導的な運営者は渋沢であった。
 ドラッカーはこのようにまったくタイプの違うふたりを共に評価しているが、渋沢と岩崎の確執は本コラムでも何度か触れたように、かれらはいわば宿命のライバルであった。岩崎の社長独裁の独占主義と、広く一般から株主を募って事業を行う渋沢の合本主義(株式会社)では水と油であったからだ。三菱は三代目の岩崎久弥(弥太郎の長男)が経営の近代化を図ったが、弥太郎の時代は会社とは名ばかりで岩崎家を富ませるための大なる装置に過ぎなかった。その点にドラッカーは若干、目をつぶっているようだ。
 ところで、「近代日本の創業者」と云える人物は誰かと問われれば、わたしは迷うことなく、日本人のエートスを根底から変えた福沢諭吉と日本の社会構造を根底から変えた渋沢栄一を挙げる。この「両沢」が1万円札の顔を引き継ぐとは実に奇遇ともいえるが、それにもまして、実業家として渋沢が初めてお札の顔になることの意義は小さくない。実業家をお札の顔にすると、その人物の創業した企業グループを贔屓することになりかねぬが、渋沢の場合はささやかに澁澤倉庫一社があるだけで、かれはいわば産業界全体の創業者、「日本資本主義の父」と云える存在であったことから選ばれたと考えられる。かてて加えて、明治維新直後の混乱期に大蔵省に仕官(明治元年〜6年)していた渋沢自身が「円」発行と通貨政策を軌道に乗せたのだから、これほど相応しい人物もいない。
 ところで6歳年長の福沢諭吉は渋沢をどう見ていたのだろうか。福沢は岩崎弥太郎と親しく慶應義塾は三菱への人材供給機関となっていたことから、岩崎の宿敵であった渋沢には好感を持ってなかっただろうと思われがちだが、さすがに福沢はそのような偏狭な人物ではない。
 明治26年6月11日付け『時事新報』の「一覚宿昔青雲夢」と題した社説で福沢は、官尊民卑の風潮の中、官職を辞して一心に実業の発展に取り組んだ渋沢を高く評価し、「飽くまでも其初志を貫て遂に今日の地位を占め、天下一人として日本の実業社会に渋沢栄一あるを知らざるものなきに至らしめたるこそ栄誉なれ」と絶賛している。
 幕臣の福沢は維新後あっさり平民になり、明治政府への出仕を拒んで果断に私立の道を進んだ。そして世に「福沢山脈」と云われるほどの多くの人材を明治社会に送り出した。「門閥制度は親の敵(かたき)でござる」(『福翁自伝』)とまで忌み嫌った封建制度から日本を脱却させ、封建精神から日本人を脱却させるべく「独立自尊」を説いてひとびとの蒙(もう)を啓(ひら)いた福沢と、公利公益のためには民間で産業を興すしかない、という渋沢の断固とした生き方は大いに通ずるところがあった。共に幕末、西洋に渡りつぶさに先進社会を実見してきたという共通点もあるが、何より、出世といえば官途を意味した時代に悠然とこれに逆らった「両沢」こそ、「公」のために「私」を貫いた稀代の二大傑物であったのだ。
 豊前中津藩の下級武士の出であった福沢は封建制度を憎み、深谷の農民(藍玉を手広く商う豪農だった)の出であった渋沢は若い頃から士農工商の身分制度と官尊民卑に腸(はらわた)が煮えくり返る思いをしてきた。つまり、封建社会への憤怒が「両沢」の社会変革へのエネルギーとなり、西洋以外で唯一、近代社会をアジアの一隅で誕生せしめる原動力になったのである。
 また福沢の信念が「独立自尊」なら、渋沢は「義利合一」である。「義」とは武士道的な倫理観、「利」は利益のことである。それをかれは「論語と算盤(そろばん)」と分かりやすく言い換えて、このふたつは相反する概念ではなく、合一して初めて欧米にも後れをとらぬ産業社会を建設できると考えた。この信念こそが、商業や商売人を見下す官尊民卑の根強い社会風潮を打ち崩す渋沢渾身の鉄槌であった。経営には利益追求のみならず厳しい倫理感が必要であるというこの渋沢の経営理念に、ドラッカーは「経営の社会的責任」という現代的イシューを見出し、その先駆性に驚きと尊崇の念を抱いたのだ。最近は日本でもCSR(企業の社会的責任)、コーポレートガバナンス、コンプライアンスなどとやたら喧(かまびす)しいが、そんなことは渋沢栄一が150年も前に当然のこととして実践していたのである。
 渋沢は巨万の富を築くチャンスがいくらでもありながら産業界のプロデューサー、オーガナイザーに徹した。戦後、財閥解体に着手したGHQが渋沢家を調べてその財産があまりに少ないのに驚いたといわれるが、明治維新後に銀行、鉄道、海運、保険、紡績、製紙などあらゆる分野に日本初の株式会社を次々と創業したものの、第一国立銀行(現みずほ銀行)など一部の例外を除き、事業が軌道に乗れば経営から身を引いた。その清廉さは、かれが設立した株式取引所に関する次の一文(口述自叙伝『青淵回顧録』)でも明瞭だ。
 「株式取引所の制度は重要な経済機関の一として其の必要を認めて居ったので、自ら率先して其の設立を主張し、その設立に尽力したのであるが、私は主義として投機事業を好まず、絶対に投機並びに之れに類似するものには一切手を染めぬ決心なので、設立後には全然関係を絶ち株主たる事さへも之れを避けたのである。」(鹿島茂『渋沢栄一』より引用)
 いま世界を覆う貧富差の異常な拡大や地球環境破壊などは、強欲なグローバル企業経営者や金融資本家たちがひたすら私利を貪る現代資本主義の悪弊にほかならず、かといってこれに代わる持続可能な経済システムも見出だせない情況である。そんな危機的ないまこそ、世界の経済人は渋沢栄一の経営理念と精神を“襟を正して”学ぶべきだろう。

Text by Shuhei Matsuoka
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2019年12月26日

緒方貞子の仕事

 現在、この地球上に難民と呼ばれるひとびとがどのくらいいるのかご存知だろうか。100万人?300万人?いやいや、正解はなんと7千万人超。実に人類の100人に1人は家や国を追われた難民であるという途方もない現実を、皆さんは実感できるだろうか。
 近年の主な難民発生地はシリア(内戦)、アフガニスタン(紛争)、ミャンマー(少数民族差別)、南スーダン(紛争)、ソマリア(紛争)、ベネズエラ(経済危機)などだが、極東の島国に呑気に暮らす極度にドメスティックなわれわれ日本人にとって紛争や難民問題はどこまでも対岸の火事なのだ。
 たしかにスポーツ、学問、芸術などの分野で国際的に活躍する日本人は近年少しずつ増えてきているが、『武士道』の著者で国際連盟事務次長だった新渡戸稲造や外務省の命令に背いて6千人のユダヤ人を救った外交官・杉原千畝などのほんのわずかな例外を除き、世界から尊敬される真の国際人となるとまったく心許ない限りで、それは浜の真砂に小さなダイヤモンドを探すようなものなのだ。
 そんな日本にあって、最高級の国際人として世界から惜しまぬ称賛と尊敬を受けた巨人、まさに光り輝くダイヤモンドともいえる人物が、奇しくも「天皇即位礼正殿の儀」(今年10月22日)の日に92歳で亡くなった。日本人として、そして女性として初めて国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のトップを長く務めた緒方貞子さん(以下敬称略)である。
 貞子の家系は、これ以上はないというほどのきらびやかさだ。
 曽祖父は5.15事件で暗殺された首相・犬養毅、祖父は外交官で犬養内閣外相だった吉澤健吉、父・中村豊一も外交官で元フィンランド特命全権公使、夫・緒方四十郎(元日銀理事)は朝日新聞社副社長や自由党総裁を務めた緒方竹虎の三男である。犬養毅の孫で作家・評論家として名をはせ先駆的に難民支援活動を行った犬養道子は、貞子の母恒子の従姉(いとこ)にあたる。さらに貞子は聖心女子大出身であったことから美智子上皇后の先輩にあたり、ふたりは親交があった。
 東京に生まれた貞子は父の転勤で幼少期をアメリカ、中国、香港などで過ごし、帰国後に聖心女子大学を卒業。その後、アメリカのジョージタウン大学およびカリフォルニア大学バークレー校大学院で政治学博士号を取得して研究者への途を歩み始め、国際基督教大学(ICU)准教授、上智大学教授を歴任することになる。このICU時代に市川房枝から国連総会日本代表団に入ってほしいと要請され参加したのが国連での仕事の嚆矢(こうし)となり、1975年には女性国連公使第一号に選ばれるのである。
 公使を退いたあと、日本政府カンボジア難民現地調査団長として最初の難民支援活動を始め、90年には国連人権委員会の特使としてミャンマーの調査を行うなど、大学で教鞭をとるかたわら国連の仕事も担っていた。そんな矢先の90年10月、当時の国連難民高等弁務官が本国ノルウェーの外相就任のためわずか1年足らずで辞任したのだ。国連の重要ポストに人材を送りたい日本政府はさっそく国際経験豊かで英語力も抜群の貞子に後任候補の話を持ちかけた。ただこのポストは歴代、欧州の男性政治家がほぼ占有してきたため、女性で政治家でもない貞子はあまり可能性を感じてなかったようだ。それに、すでに60歳を超えてもいた。
 国際的には無名だった貞子が16人の候補の中から見事選任されたのは、「狡猾さや政治的野心がなく、率直に意見を言う」ところが高く評価されたことと、当時のデクエヤル国連事務総長のつよい推挙があったからだといわれる。そして1991年2月、スイス・ジュネーブのUNHCRに第8代高等弁務官として赴任、貞子は63歳になっていた。当初は前任者の残りの任期3年間だけを務めるつもりだったが、結果的に3期10年の長きにわたることになり、その間に彼女は「5フィート(150センチ)の巨人」と呼ばれるほどの国際的な知名度と称賛を得るようになる。
 東西冷戦の終結により各地で地域紛争や民族対立が激化してきた時期の就任だったため、それまでの難民支援活動の方法や規定では解決できない状況が次々と起こり、貞子はそれらに直面し難しい判断を迫られる日々が続くようになる。その代表的な一例が、凄惨なボスニア紛争の真只中、1992年から行った前例のないサラエボ救援活動だった。
 1991年にユーゴスラビア連邦の解体が始まり、92年にボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴから独立。ボスニアはセルビア系、クロアチア系、イスラム系住民が混在して暮らしていたが、独立をきっかけに民族対立が激化し、「民族浄化」の名のもとに激しい殺戮を繰り返す内戦状態になっていた。セルビア人勢力は圧倒的な軍事力で首都サラエボを包囲し、飢えに苦しむイスラム系住民ら40万人が銃弾に怯えながら籠城状態で生活していたのだ。
 従来、戦闘状態の中に入って活動できるのは赤十字国際委員会(ICRC)で、UNHCRはできないことになっていた。そのため内戦中のボスニアではICRCが活動していたが、現地の代表が銃撃を受けて亡くなったことで撤退してしまったのだ。しかしサラエボで孤立する大勢の市民を見捨てることはできないと貞子は判断し、救援活動をUNHCRが担うことを決断、食料や医薬品の空輸を開始する。この空輸作戦が始まった5日後、サラエボ空港に防弾チョッキを着た小柄な日本人女性の姿があり、それをCNNなどが報じたことで世界は初めて緒方貞子を知ることとなる。その後、フランスやカナダなど各国軍が輸送機を提供し、大空輸作戦は3年間にわたって継続された。この活動は、「国際社会はサラエボを見捨てない」という人道支援の国際的なシンボルになったのである。
 貞子の著書『私の仕事』(草思社)に1993年から94年にかけての日記が掲載されているが、すさまじい行動力で世界中を飛び回り、各国要人と交渉し、難民キャンプを巡っていることがよく分かる。「現場主義」を貫く彼女とはいえ、「アフガニスタンのカブール日帰り」や「久々に飛行機に乗らない一日」などの記述にはあきれてしまう。
 また銃撃や爆撃による職員殉職の報せを受けることもあるし、貞子自身も現地で車を降りた10分後に運転手が銃撃され重傷を負うという危機一髪の経験をしている。貞子は同書で「UNHCRの五千人の職員たちは、いわば私の戦友だ」と述べているが、これはたんなる比喩ではない。
 そんな彼女にはささやかな自慢があった。それは、ルワンダの難民キャンプにもうひとりのオガタサダコがいることだ。貞子が現地を訪れた時に生まれた子どもに母親が名付けたのだが、UNHCRがキャンプを整備し学校を建てて支援してきたことを心から喜んでもらえている証しだ。貞子は日本の文化勲章ほか世界中から数えきれぬほどの賞をもらっているが、オガタサダコの存在は彼女の一番の誇りであり、勲章なのだ。
 ところで貞子は「日本のマザー・テレサ」と称賛されながら、なぜかノーベル平和賞は受賞していない。UNHCRが過去に2度受賞していることから、屋上屋を架すことになるとの判断だったかもしれないが、残念というほかない。また2001年4月、小泉首相から初の女性外相就任をつよく要望され決まりかけていた矢先、貞子にライバル心を燃やす田中真紀子が強引に首相にねじ込み外相ポストを奪ってしまったことがあった。しかし勲一等瑞宝章を「仕事を終えた人が浴する栄誉でしょ」とあっさり辞退し、首相候補に挙がったときも「冗談じゃありません。餅は餅屋です」とさらりとかわすほどの貞子にとっては大した問題ではなかったろう。
 貞子はその後、国連事務総長への立候補も断り、人間の安全保障委員会共同議長やJICA理事長などを歴任して生涯にわたり人道支援と国際協力の途を歩み続けることになる。
 緒方貞子死去の報せに世界中から悼む声が寄せられたが、アフガニスタンのカルザイ前大統領は「日本人の気高さや善良さ、寛大さを代表する素晴らしい人物だった。アフガン人は彼女の愛情を覚えている」と称え、日本語で「ありがとうございます」と述べたという。日本人と日本女性のイメージを大きく変えた彼女の卓越した仕事ぶりと見事な人生が、この短い言葉に凝縮されている。
 2001年の貞子退任時に職員数5千人だったUNHCRも、現在では1万2千人という巨大組織になっている。この組織がこれだけ繁盛するということは、とりもなおさず難民が爆発的に増えている証左にほかならず、第二第三の緒方貞子を世界は必要としているということなのだ。そのためにも、国連は「緒方貞子賞」を早期に創設すべきだろう。
 
Text by Shuhei Matsuoka
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2019年10月01日

ゼロサムの陥穽

 テレビでもお馴染みの日本語学者、金田一秀穂さんがある月刊誌に連載しているコラムを読んで一驚した。
 金田一さんが自宅近くの住宅街を車で移動中、白杖を突いた女性が通りかかった。そこでかれは車を止め、窓から「どうぞ」と言って道を譲った。すると女性はふっと振り返り、「金田一先生ですか?」。たまたまの通りすがりで、知人でもない。彼女はただの一言「どうぞ」でかれの声を正確に判別したのだ。金田一さんはラジオ番組にも出ているようで、それを聴いて声を知っていたのだろうとかれは推測する。
 もうひとつ、金田一さんが盲学校を見学したときの、ある先生の話が衝撃的だ。その人が2年ぶりに卒業生に会ったら、「先生、おんなじ服着てますね」と言われたというのだ。もちろん見えているわけではなく、洗濯してなかったからでもない。生地の持つそれぞれの匂いを覚えていたのだ。そして「それでなくちゃ生きていけませんよ」とかれは言ったという。
 五感の中でも、もっとも重要な視覚をうしなった彼らのなかにある、われわれには想像もつかぬ深く広い世界の存在に金田一さんは思いをはせる。
 この神秘的ともいえる彼らの能力に感動を覚えながら、わたしはひとりの知人のことを想い起こしていた。かれはわたしと同じ63歳、愛媛との県境近い急峻な山々に囲まれた吾川郡吾川村(現・仁淀川町)で生まれ育った人だ。
 ちょっと信じがたいことだが、かれが小学校3年のとき、はじめて家に電気が通ったという。明治や大正の世ではない、東京オリンピックの翌年である昭和40年のことだ。それまで家族5人はランプと蝋燭(ろうそく)で生活していたのである。電気が来てないのだから、家にはもちろんテレビも冷蔵庫も洗濯機もなかった。昭和40年ごろにはこれらの電化製品は日本のどの家にもあった、とわたしは勝手に思いこんでいたが、ちがったのだ。
 かれとの付き合いは20年近くになるが、最近、われわれとはどことなくちがうことに気づいた。肉体が強靭なだけでなく、五感の鋭さが並大抵ではないのだ。高知市内の会社役員でいまでも勤務しているが、嗅覚が鋭敏すぎてオフィスに入るなり花瓶にさされた花の匂いで気分が悪くなることすらあるというし、50才頃から老眼が進みはじめたわたしをあざ笑うかのようにスマホの芥子つぶのような文字も平然と読む。かれの奥さんは、普通の人は怖くて歩けないような闇夜の中を夫がどんどん歩いていくのに驚くという。
 「小さい頃から暗闇に慣れているので、風に揺れる木々の音やせせらぎの音、草や木や花の匂いで周囲の気配を感じて、わずかな月明かりでもあれば十分に歩けます。たぶん普通の人にはない感覚が染みついているんでしょう。そうでないと生きていけないですから」
 戦後の急激な都市化の中に生まれ育ったわれわれ現代人が、現代文明と引き換えに動物としての能力を急速に劣化させてしまったことは、かれの存在を見ていれば確信できる。かれはたまたま現代文明の恩恵をほとんど受けない山間部の僻村に生まれ育ったために、鋭い五感の残滓をわずかに残しており、そのことを通して人類の退化(進化ではない!)の来歴をわれわれに教えてくれているのだ。
 昔の漁師は海鳥、海流、風向きなどで魚の存在を感じ、嵐の危険を避けるすべを知っていたろうし、農民の中には風、気温、湿気、太陽や月の姿で雨や台風の接近を予知できる能力を備えた人がいたはずだ。生きてゆくために必要な能力を獲得していたはずだ。
 さて芋づる式で恐縮だが、これに類するちょっと忘れがたい話が中野孝次氏の『生き方の美学』(文春新書)に出てくるので紹介する。「名人」というタイトルがつけられた章にあるエピソードだ。ちなみに氏は『清貧の思想』『ブリューゲルへの旅』『ハラスのいた日々』など多くの著書や翻訳書で知られるドイツ文学者・作家で、15年前に亡くなっている。
 中野さんが14、5歳のころ、栃木県益子の親類の家に遊びにいったときのこと、9歳年上の従兄が「鯉つかみの名人を見せてやる」というので小貝川に早朝、連れていかれた。霜が降りていておそろしく寒い朝だったという。
 そこに、山の中で一人で樵(きこり)をしている30才ぐらいの大男がやってきた。口がきけないことをバカにされて人間嫌いになったという。かれが何を言っているのか中野少年にはわからなかったが、従兄とは話が通じているようで、ふたりで何かもごもごと話していたと思ったら、男はぱっと着物を脱いで褌一丁の素っ裸になった。中野さんはその贅肉のまったくない引き締まった筋肉に覆われた肉体の見事さに度肝を抜かれたという。その男は、二つ三つの準備運動のようなことをしたあと、薄氷が張る川に波一つたてずに静かに入っていった。そして中程まで出ると、すっと淵に沈み、それきり出てこない。不安になって従兄の方を見ると、かれは小声で「黙って見てろ」と言う。
 そして一文はこう続く。

 おそろしく長い時間―と私には感じられた―がたってから、ふいに青味を帯びた水の中に白いものが浮んできて、このときも波一つ立てずにAが姿を現わした。彼は両手で抱くように大きな鯉をとらえていた。
―おお。
 わたしはふるえるような感動を覚え、思わず叫んだ。まったくそれは神業というしかないようなみごとさで、男がふだん愚鈍だなどといわれていることなどどこかへすっとび、その天才に空恐ろしささえ感じたほどだった。なんという業か、Aは素手で大鯉をとらえてきたのだ。

 この強烈な経験が中野氏に与えた影響は計り知れなかった。人間には、どんな人にも必ず、他の人にはできぬ天賦の才があるということを、かれは頭ではなく肌で知ったのだ。 
 そして一文をこう結ぶ。
 「(こういう名人の業を見ることの方が)学校の成績のいい秀才の話をきくより、はるかに大きな感激と感動をわたしに与えたのである。(中略)人間を学校の成績などでランクづけする制度がいかにバカげたものかを痛感するのである。」
 ちなみに中野氏は、腕のいい大工の棟梁であった父の期待に反して東大に進学し、学問の途に進んだことに疚(やま)しい感情がずっとあったという。そんな氏ならでは、この鯉つかみ名人の姿は生涯忘れえぬものとなったのだろう。
 われわれはいつの時代も目新しい技術と利便性に心奪われ、昔の人間や社会を遅れたものとしてバカにし、自らの輝かしい進歩と進化を疑わない。だがその自惚れの先にはおおきな陥穽がきっと待ち受けている。科学技術はたしかに日進月歩で進化しているが、それを生み出し使う人間自体は、退化こそすれ断じて進化なぞしていないのだ。
 考えてもみてほしい。
 われわれ人類は、宇宙空間にぽっかりと浮かぶこのちいさな青い地球の上でしか生きられない。ということは、この限定された場所で行われるすべての事柄はゼロサムということになる。増えたり減ったりしないのだ。日本で車を1台生産したら、オーストラリアの鉱山の鉄鋼石が1台分減るだけで、地球レベルでの総量は何も変化しない。
 言い換えれば、人類がその輝かしい科学技術で社会を進歩・発展させるということは同時に別の何かをうしなうことであり、奸智(かんち)に長けた誰かが取りすぎれば地球上の別の誰かが割を食うということに他ならないのだ。それがセロサムということだ。生物としての人間レベルでいえば、文明社会の発展の代償の一つが五感などの基礎能力の劣化ということになるだろうが、逆にいえば、人間は動物的退化の代償として現代文明を手に入れたということになるのかもしれない。
 冒頭の視覚障害者は視力をうしなうというおおきな不幸と引き換えに、健常者にはありえない鋭い嗅覚や聴覚を身につけたのだし、鯉つかみ名人もうまく喋れないことをバカにされて人嫌いになったことと引き換えにその技を身につけたのだ。これと同様に、何かを獲得することは一方で何かをうしなうことなのだという真理を、自惚れのつよいヒトの脳はたぶん理解しようとしないのだろう。
 虫けら一匹、石ころ一つ創り出すことのできぬ人間が、退化というハンディを負ってまで獲得した科学技術とその精華である現代文明をもって、不遜にも神の領域ともいえる地球と自然界をわがものと錯誤した結果が人口爆発と貧富格差の異常な拡大であり、地球環境の絶望的な劣化であることを識(し)ったとき、いかな呑気者でもその代償の巨(おおき)さに戦慄することになる。

 Text by Shuhei Matsuoka
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2019年06月25日

巨人・湛山が叱る

 安倍晋三首相はモリ・カケ問題などかずかずの重大なスキャンダルに加え、何人もの閣僚、副大臣、事務次官級が次々と辞任する失態を続けてもなお平然と政権の座にある。それも自民党の総裁任期を自ら引き延ばしてまで権力に恋々とし、その陰で着々と改憲への地歩を固めつつあるようにみえる。
 かれに政治的信念らしきものがあるとすれば、その出処(でどころ)が祖父岸信介にあるのは自他ともに認めるところだろう。岸は、東京帝大を出て商工省に入省後、満州に派遣されて社会主義的な統制経済の推進を目論む「革新官僚」として頭角を現しはじめ、1939年に帰国してのち商工次官に昇進、米英相手の戦争に向け国家総動員体制を敷く中心人物となってゆく。そして41年には商工大臣として東条英機内閣に入閣し、アメリカへ宣戦布告するのである。太平洋戦争を仕掛けた張本人の一人で、東条同様に死刑に処されてしかるべきA級戦犯の岸がなぜ巣鴨プリズンから釈放されてのち総理大臣にまで栄進できたのかは、以前に本稿でもふれた通り、児玉誉士夫らと共にCIAのエージェントとなり、アメリカの意向に沿った国政運営の見返りにCIAから政治資金などの支援を得ていたことによる。
 この岸とのちに総理の座をかけて闘うことになるのが、石橋湛山(たんざん)(1884〜1973)である。
 湛山は大正時代から敗戦直前まで『東洋経済新報社』の主幹兼代表取締役として健筆をふるい、軍部に睨まれながらも一貫して自由主義と非武装・非侵略を訴え続けた硬骨のエコノミスト・ジャーナリストであった。海外に領土をひろげ最後発の帝国主義国家を目指しつつあった日本政府と軍部に対し、かれは「小日本主義」という見事な理論で対抗し続けたのだ。
 湛山は大正十年に発表した社説「大日本主義の幻想」で、日清・日露および第1次世界大戦で得た台湾・朝鮮・樺太の領土と満州における権益のすべてを捨て去るべきと主張する。経済的にメリットがないばかりか、その領土・権益のために戦争の危険が増すという持論を丁寧かつ論理的に述べて、さらにこう云う。
 「米国にせよ、他の国にせよ、もし我が国を侵略するとせば、どこを取ろうとするのかと。思うにこれに対して何人も、彼らが我が日本の本土を奪いに来ると答えはしまい。日本の本土の如きは、ただ遣るというても、誰も貰(もら)い手はないであろう。さればもし米国なり、あるいはその他の国なりが、我が国を侵略する虞(おそ)れがあるとすれば、それはけだし我が海外領土に対してであろう。否、これらの土地さえも、実は、余り問題にはならぬのであって、戦争勃発の危険の最も多いのは、むしろ支那またはシベリヤである。(中略)論者は、これらの土地を我が領土とし、もしくは我が勢力範囲として置くことが、国防上必要だというが、実はこれらの土地をかくして置き、もしくはかくせんとすればこそ、国防の必要が起るのである。それらは軍備を必要とする原因であって、軍備の必要から起った結果ではない。
 しかるに世人は、この原因と結果とを取り違えておる。謂(おも)えらく、台湾・支那・朝鮮・シベリヤ・樺太は、我が国防の垣であると。安(いずくん)ぞ知らん、その垣こそ最も危険な燃え草であるのである。」(『石橋湛山評論集』岩波文庫)
 アジアの領土・権益を放棄し、かれらをむしろ友として通商立国を目指せとの湛山の主張は、敗戦とその後の日本を見れば非の打ちどころない卓論であったことがわかる。だが当時のかれはまさに孤軍奮闘、政府や軍部は云うに及ばず、知識人も国民もこの「小日本主義」を軽んじた。朝日・毎日などの大手新聞が軍に迎合し国民を煽動してゆく怒涛のような流れの中で、湛山はしかしこれに独り抗(あらが)い堂々と立ち向かったのだ。
 その意味で、岸と湛山の生き様はまさに好対照であった。一方は領土拡大の大日本主義を先導して日本を破綻に導いた官僚出身の政治家、一方は在野のエコノミスト出身で筋金入りの平和主義、小日本主義の政治家。このふたりは昭和31年12月に本邦初の公選による政権与党総裁選を争うことになり、決選投票によってわずか7票差で湛山が本命の岸を大逆転して自民党第2代総裁に選ばれ、72歳にして第55代内閣総理大臣となる。これは時代が生んだ一種の奇跡のような出来事だった。
 この直後、ジャーナリストの大宅壮一は「自民党の総裁公選で石橋湛山が選ばれたことは、日本の民主政治史上、画期的な出来事である。これで、日本の民主政治はやっと軌道にのったともいえる」とし、「それにしても、官僚的、あるいは政党的、ご都合主義、権力主義ではなく、ハッキリとした政策をもった総裁を迎えることができたことは喜ばしい。これだけの見識と実行力を持った者は、そうざらにいるものではない」(『昭和怪物伝』角川文庫)と手放しで歓迎。経済評論家の小汀(おばま)利得(としえ)にいたっては、石橋総理が実現したことの意義は大きいとして「岸君みたいな人間が出ますと、日本全体が堕落して、これは救うべからざることになる。大体、彼が東条内閣の閣僚として、愚かにも宣戦布告などという馬鹿なことに署名して、実際は一度亡国に導いたのですから、もう一度本物の亡国にするおそれがある」(『名峰湛山』)一二三書房)と痛烈である。
 ところが総裁選の遺恨から組閣は難航し、その中で湛山はひとつのミスを犯す。多数派を牛耳る政敵の岸を副総理格の外務大臣として入閣させてしまったのだ。国会運営上やむなしとの判断からだが、閣僚名簿を見た昭和天皇は岸の名を指差し、「自分はこの名簿に対して只一つ尋ねたいことかある。かれは先般の戦争において責任がある。その重大さは東条以上であると自分は思う」と述べたといわれる。湛山は冷や汗をかきつつ百方辞を尽くして了解をもとめたというが、昭和天皇がいかに岸を嫌っていたかが分かるエピソードだ。
 それはさておき、石橋内閣への期待は燎原の火のごとく広がり、朝野に“野人宰相”湛山ブームが沸き起こった。
 しかし、好事魔多しとはよく云ったもの。首相になってわずか1か月後、湛山は過労による急性肺炎に軽い脳梗塞を併発し、自宅の風呂場で倒れたのだ。関係者も国民も回復後の復帰を望んだが、昭和5年11月に東京駅で凶弾に倒れ、その後に復帰したものの回復せず総辞職した浜口雄幸首相に対し「遭難後にいさぎよく辞表を奉呈すべきだった」と厳しく難じたいきさつもあり、「私は新内閣の首相としてもっとも重要なる予算審議に一日も出席できないことがあきらかになりました以上は、首相として進退を決すべきだと考えました。私の政治的良心に従います」との文書を公表して辞任する。在任わずか65日、まさに言行一致の権化のような湛山らしい身の処し方だった。
 そして何より惜しまれるのは、石橋内閣総辞職の結果、湛山とは思想信条が正反対の岸を首相にせざるを得なかったことだ。湛山にとってはむろん本意ではなかったが、多数派を握る岸を序列第2位で入閣させたツケが回ってきたのである。
 この首相交代劇が、その後の官主導政治と日米軍事同盟強化への途を決定する大きな転換点となってしまった。
 現在のスキャンダルまみれの安倍政権が強硬に目指す憲法改正(岸の宿願であった)などの諸政策、言論統制、なりふり構わぬ対米追従の姿などを見るにつけ、危険な先祖返りの臭いを感じるのはわたしだけではあるまい。厚顔にもアベノミクスなぞと自らの名を冠した経済政策にしてもそうだ。たとえば民間企業に対し社員の給与を引き上げるよう要請するなど統制経済そのものだが、まさにかれの敬慕する祖父岸信介の亡霊が跋扈(ばっこ)している体である。
 経済学者の野口悠紀雄氏は『戦後経済史』(東洋経済新報社)で、岸が目指したのは日本型社会主義経済の建設であったとし、阪急電鉄創始者の小林一三商工大臣が商工次官だった岸を「アカ」と呼んで批判したことを挙げ、こう述べている。
 「自由主義者小林一三が、革新官僚であった岸を『アカ』と批判したことを思い出してください。1940年体制(米英との戦争に向け確立した国家総動員体制)そのものの評価は別として、岸を『アカ』と評したこと自体は、まっとうなものです。もし小林がいま生きていたとしたら、安倍を『アカ』と批判したことでしょう。」
 政府介入型の経済政策を進める安倍政権は1940年体制の復活そのものであると批判する野口氏に倣(なら)うまでもなく、もしいま小林一三以上の自由主義者で稀代の硬骨漢・石橋湛山あれば、岸の孫安倍晋三に火のような叱責を容赦なく浴びせることだろう。
 
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2019年03月25日

病翁(へいおう)の精神

 2001年5月に行った小泉純一郎首相の最初の所信表明演説が当時話題になったことを記憶している方も多いとおもう。首相は演説を次のように締めくくったものだ。
 「明治初期、きびしい窮乏の中にあった長岡藩に救援のための米百俵が届けられました。当座をしのぐ為に使ったのでは数日でなくなってしまいます。しかし、当時の指導者は、百俵を将来の千俵、万俵として生かすため、明日の人づくりのための学校設立資金に使いました。その結果、設立された国漢学校は、後に多くの人材を育て上げることとなったのです。今の痛みに耐えて、明日を良くしようという『米百俵の精神』こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか」
 故事を都合よく引用して我田引水するあたりはどこかいまの安倍氏に通ずる気もするが、それはさておき、米百俵とは作家の山本有三が明治維新直後の越後長岡での故事を掘り起こし、それを戯曲『米百俵』として太平洋戦争最中の昭和17年に執筆、翌年に発表したものである。長岡藩は戊辰の役に巻き込まれて朝敵となり、熾烈な長岡戦争に敗北して長岡城は落城、藩士とその家族は辛酸を嘗めることになる。このいきさつは長岡藩のリーダー、河井継之助を主人公に据えた『峠』(司馬遼太郎著)などで世に知られるが、山本有三は『米百俵』の「はしがき」で次のように述べている。
 「長岡といへば、すぐ河井継之(つぐの)助(すけ)を聯(れん)想(そう)するくらゐ、継之助の名は、広く天下に響いてをります。長岡の町を焼け野が原としてしまった人は、これほど世にもてはやされてをるのに、焼け野が原の上に立って、『人物をつくれ。』と説いた人の名は、ほとんど全く伝へられてをりません。目立たない事に力をつくした人といふものは、とかく世間から顧みられないものです。」
 山本のいう、目立たないことに力をつくした人こそ、敗戦後の惨憺たる長岡藩にあって、戦病死した河井亡きあとの藩建て直しを任された一人、河井の終生のライバルでもあった小林虎三郎(1828〜1877、のち病翁と改名)である。
 ここで少々余談だが、長岡戦争に幕末史上もっとも評判のわるい土佐人が登場する。北越平定の命をうけ、一軍を率いて長岡に向かった軍監は土佐藩士・岩村精一郎(のち高俊、岩村三兄弟の三男)で、まだ数え24歳の若造だった。いかに新政府軍が急造の軍隊で人材払底していたかがわかるが、このことが悲劇を生む。長岡藩家老の河井継之助が戦争回避の「中立」嘆願書(虎三郎起草の説あり)を携えて小千谷の新政府軍本陣に近い慈眼寺で岩村との会談に臨んだが、岩村はこれを頭ごなしに斥け、嘆願書を受け取ることもせずわずか半時間ほどで追い返してしまったのだ。世に云う「小千谷談判」である。この決裂により戦争の口火が切られ、両軍多くの血が流れ町は焦土と化すことになる。のちに長州の品川弥次郎は「会談に岩村のような小僧を出さずに、黒田清隆か山県有朋を河井と会わせたら戦争せずに済んだかもしれぬ」とほぞを噛んだが時すでに遅しである。
 余談はさておき、長岡の小林虎三郎は長州の吉田寅次郎(松陰)と同時期に佐久間象山門下に入り、親しく交友をもった。両藩がのちに敵同士となるとはこのころ思いもしなかったろうが、同じ20代前半のふたりは互いを畏敬し、共にその才を認められ「象門の二虎」と称されるほどになっていた。ちなみに江戸木挽町の象山塾には二虎のほか河井継之助、勝海舟、坂本龍馬、津田真道、橋本左内、加藤弘之などがまさに綺羅(きら)星のごとく名を連ねており、当時の佐久間象山の声望の高さがうかがえる。
 松陰はのちに密航(下田踏海)を企てペリー艦隊に乗りこもうとした罪で幽閉中、象山宛てに書いた文章の冒頭で虎三郎のことに触れている。
 「わたし(松陰)が象山先生に初めて見(まみ)えたとき、虎三郎が紹介の労をとってくれた。虎三郎はかお一面に天然痘の痕のアバタがあり、わたしと同類。年齢もまた同じくらいで、その名もたまたま虎三郎(通称虎(とら))と寅次郎(通称寅(とら))で同じだった。ただ違いがあるとするなら、虎三郎は才能があふれるようにあり、わたしはまことに才乏しいことだったろう。その結果、虎三郎は象山先生との関わりで罪をこうむり、わたしのほうはその罪(下田踏海)によって先生を累わせたのだった」(現代語訳は松本健一著『われに万古の心あり』による)
 ふたりの仲の良さと松陰の無類の優しさが伝わる文章だが、ふたりとも当時猖獗(しょうけつ)をきわめていた天然痘の後遺症により顔中アバタで、虎三郎はさらに幼時の事故で左眼が失明し白濁していたというから、稀にみる哀れな異相の青年であったろう。しかしかれは若くしてすでに輝くような才覚を現していたのだ。
 象山が遺した有名な言葉がある。
 「虎三郎の学識、寅次郎の胆略というものは、当今、得がたい材である。ただし、事を天下になすものは吉田子なるべく、わが子の教育を頼むべきは小林子だけである」
 虎三郎は象山同様に謹慎の身となるが、のちに河井と共に長岡藩で重要な位置を占めることとなる。実務家で辣腕政治家の河井と、若いころから病弱で学者肌の虎三郎はしばしば意見が食い違い、戊辰戦争でも主戦派、非戦派として対立する。が、けっきょく戦争に敗れて河井は戦病死、長岡藩は7万4千石から2万4千石まで削られ、藩士とその家族はまさに食うや食わずの凄惨な戦後を迎えることとなった。
 この戦後の長岡再建を任されたのが虎三郎だった。虎三郎は病をおして文武総督に就き、つづいて大参事という重職を担うことになる。そんな中、明治3年の5月初め、長岡の窮状を見かねた三根山藩(長岡支藩)から百俵の米が見舞いとして贈られてきたのだ。まさに干天の慈雨である。ところが、虎三郎がこの米を藩士らには配給せず、売って学校をつくると言い出したことで藩内は紛糾する。
 山本有三の『米百俵』は、いきり立ったわかい藩士らが「小林を出せ!」と虎三郎の寓居(虎三郎の家は戦火で焼失)に押しかけ、いまにも斬りかかろうとするかれらを虎三郎が端然として説き伏せる姿が主題となっている。そして、虎三郎にこう言わせている。
 「もとより、食うことは大事なことだ。食わなければ、人間、生きてはゆけない。けれども、自分の食うことばかりを考えていたのでは、長岡はいつになっても立ちなおらない。貴公らが本当に食えるようにはならないのだ。だからおれは、この百俵の米をもとにして、学校を立てたいのだ」
 この米を皆で食ったところで一人わずか4、5合にしかならない。それを食い終わって何が残るか。それよりこれを売って長岡の将来のために人材を育てようではないかというのが虎三郎の決意だった。虎三郎の思想は「富強の本(もと)ただ人民の知識を開く外なし」で、まずは小学校の創設からはじめるべきと考えていた。そして「小学は貴賤賢愚の別なく皆入るべき所」として、平民の子の入学も許可することにした。
 米百俵はこうして国漢学校(小学校)、兵学校、医学校、洋学校の建設と書籍購入費などに充てられ、国漢学校はのちに明治政府の学制に組み入れられて阪之上小学校、長岡中学などに分岐してゆく。ちなみに日本初の小学校は明治2年5月、天皇が東京に移ったことによる危機感から京都に開校しているが、焦土と化し貧窮のどん底にあった長岡に明治3年6月、早くも小学校ができたという事実は特筆に値しよう。
 小林虎三郎は当代群を抜く英才でありながら、病のために数冊の著書を残しただけで越後長岡に埋もれた。しかしかれの崇高な精神は引き継がれ国漢学校や長岡中学からは大勢の人物を輩出する。長岡藩士の家に生まれた連合艦隊司令長官・海軍大将の山本五十六もその一人で、かれは揮毫を頼まれるとかならず「常在戦場」と書いたそうだが、これは長岡藩の藩風をあらわす一言で、もちろん虎三郎の座右の銘でもあった。現在でも選挙の近い国会議員などがこの言葉をよく口にするが、たいていその面相が軽薄であるのはなぜであろうか。
 さて最後に小林虎三郎と土佐の関係をすこし。
 明治4年7月、数え44歳の虎三郎は名を「病(へい)翁(おう)」と改名する。わかいころから胸疾患やリューマチ、肝臓疾患もあったらしく終生病苦にさいなまれて納得のいく仕事ができなかったことを自嘲しての改名であったが、この直後、弟の雄七郎が高知の海南学校の教授として招聘されたのを機に、妻子のない気軽さもあって療養を兼ね同行している。わずか1年ほどの滞在ではあったが、かつての仇敵土佐の地はかれの隻眼(せきがん)にはたしてどう映ったであろうか。

Text by Shuhei Matsuoka
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2018年12月21日

「裸のサル」とがん

 ほぼ半世紀前の1967年に世界中でベストセラーとなった『裸のサル』の著者で知られる動物学者のデズモンド・モリス博士は、これに続く著書『人間動物園』(新潮選書1970年刊)で非常にショッキングなことを述べている。
 自然環境にある野生動物には、わが身やわが子を傷つける行為、自慰行為、胃潰瘍、太りすぎ、同性愛、自殺などは見られないという。いうまでもなくこれらの行為はわれわれ人間のあいだではすべてが見られるものだが、驚くことに、檻に入れられた野生動物、つまり動物園の檻の中の野生動物たちも、まったく人間同様にこれらの行為のすべてを演じて見せるというのだ。
 わが子を虐待死させるといった信じがたい事件が日常化し、同性愛や自殺が蔓延する社会に暮らすわれわれにとって、なにか幽霊の正体を見たような気分になる指摘だ。
 モリス博士はいう。
 「現代の人間という動物は、今では種に自然な条件のもとで生きているのではない。人間という動物は、動物捕獲人によってではなく、自らの輝かしい大脳の働きによって罠に掛り、自らを巨大で不安定な動物園のなかに閉じ込め、その圧力のもとで挫折する不断の危機にさらされている。その重圧も大変なものだが、しかし受ける便宜も大きい。動物園の世界は、巨大な親のようにその住人を守ってくれる。食物、飲物、住い、衛生および医学的配慮があたえられ、生存の基本的な問題は可能な限り解決されている」
 現代人は、「利便性」「合理性」「経済性」などを求めておそろしく病的な環境をつくりだしてその檻の中に自ら入り、日々さまざまな異常行動をとっているということになる。われわれは自分が一匹の哀れな哺乳動物「裸のサル」であることに気づかぬまま、万物の霊長なぞとおごり高ぶり、デジタル技術、IT、AIといった先端科学などにうつつをぬかして悦に入っているのである。動物行動学の世界的碩学は半世紀前にそれに気づき、警鐘を鳴らしていたのだ。
 さて、ここで話はすこし外(そ)れる。
 数十年前まではその名を口にすることすら憚(はばから)れた病に、がんがある。なぜか近年はやたら身近な存在になり、「2人に1人ががんになる時代」なぞと“明るく”喧伝されてさまざまながん保険が発売され、がん治療薬「オプジーボ」でノーベル医学生理学賞受賞の本庶佑博士が世界の注目を浴びたことも記憶に新しいところだ。
 がん細胞は、人間に37兆個あるとされる細胞のごく一部に突然変異が起きて生まれる。すべての人間の体内で毎日およそ5000個のがん細胞が生まれ、それを免疫細胞が撃退しているためにいわゆるがん化しないで生きていられるのだという。ということはつまり、人は常にがん細胞とともにあるということである。「腹も身のうち」という言葉があるが、同様に「がんも身のうち」といっていいのである。もし人が150年も生きれば全員ががんになっているといわれるし、大往生した高齢者を解剖すると、あちこちにがんが見つかるらしいが、これはいわば当然のことなのだ。
 がん(本稿では小児がん、若年性がんを除く)になるというのは、80歳以上まで平均寿命が伸びてしまった人間の宿命であり、この複雑怪奇な生成メカニズムをもつ病を撲滅することなぞできるとは到底思えないし、そう断言する専門家もすくなくない。人は年をとれば誰でも老化して体のあちこちの機能や免疫力が衰え、その結果さまざまな種類の病に罹(かか)り、そして死ぬ。その病のひとつががんであり、ただそれだけのことなのだ。
 つまりこの病はなにも特殊なものではなく、いわば自然の摂理といっていいものだろう。がんが見つかれば当たり前のように患部をごっそり切除し、抗がん剤という強烈な薬物を投与するのががん治療の主流だが、それがいかに愚かな行為であることか。
 人を死に至らしめる本物のがんは、検査で発見可能な1センチ程度になるずっと以前にがん細胞の一部が血液やリンパ液に乗ってしずかに体内を移動し、すでに転移(一部の例外を除き、非転移性のがんは人を死に至らしめることはないとされる)している。そしていずれあちこちで大きく成長する。それを次々に切ったりすれば患者はますます体力や抵抗力をうしない弱ってゆくだけで、これはがんを増殖させるために体をエサとして与えているようなものなのだ。
 「手術は成功しました、しかし患者はほどなくして感染症で亡くなりました」という事態が日々繰りかえされていることはご存知の通りだが、手術の成功で外科医は責任を問われずに済み、患者の家族からは感謝すらされる。しかし当の患者は切り刻まれてやせ細り、抗がん剤の副作用で苦しみぬいた挙句、一足飛びに死に追いやられる。医師はこれを“治療”と呼ぶのだが、その実情は誰がどう見ても“拷問”である。
 日本のがん治療の問題を追及し続け、その勇気ある啓蒙活動で菊池寛賞を受賞している近藤誠医師はいう。
 「がんが恐ろしいのではない。『がん治療』が恐ろしいのです。世間には『がんは放っておくとみるみる大きくなり、全身に転移して、ひどい痛みにうめきながら死に至る』という強い思い込みがあります。だから『がん』と言われると『早く切らねば』とあせり、余命宣告に震え上がって、『命が延びるなら、なんでもやります!』と、医者に命を預けてしまう。医者の思うツボです」(『「余命3カ月」のウソ』ベスト新書)
 手術が仕事の外科医にとってがん手術件数が減るのは困るし、手術をどしどしやらないと若い外科医のトレーニングもできない。それに何よりも外科手術、抗がん剤投与、放射線照射などのがん治療は医療機関や製薬会社といった医療業界全体を支える巨大ビジネスでまさにドル箱でもある。これは想像だが、医師の本音は「わかっちゃいるけどやめられない」ではないだろうか。しかし、がん宣告で恐怖のどん底に突き落とされ、藁(わら)にもすがる思いで高額の治療費を払い、挙句にそのカネで拷問を受けてがんと一緒にあの世に送られる患者はたまったものではない。
 そう考えれば、これを医師個人の倫理観や人間性、知識や経験の問題だけに帰するのはどうも無理がありそうだ。むしろ現代医療の構造そのものにメスを入れないと、根本的解決にはなりそうにない。人の物を盗むことを「犯罪」と定義して罰する法律を整備しないかぎり、泥棒も犯罪者ではないのだ。
 がんは、細菌やウィルスなどによる普通の病気ではない。いや病気どころか、ある年齢に達し、死が近づいた人を、木が枯れるように自然死させてくれる、神が与えてくれた大切な宝なのかもしれない。一般的ながんは、末期がんの場合でも死までの猶予期間がある。手術や抗がん剤投与などをしなければ意識もしっかりとしてほぼ普通の生活をすることができるので、その間に行きたいところに行き、会っておきたい人に会い、家族と最期の時を過ごすことができる。これは3大死因のうち、心臓病や脳卒中にはないメリットだ。
 この大切ながんを現代医療は撲滅すると躍起になっているが、冗談ではない。もし何かの間違いでがんが治るようになれば、人がなかなか死ねなくなって老人はさらに増え続け、平均寿命は伸び続け、どの国も財政破綻をきたして社会は崩壊するだろう。世界中が死ねないヨボヨボの老人だらけになる姿を想像してほしい。それこそ地獄絵図だ。
 ところでモリス博士は半世紀前にヒトを「裸のサル」と喝破したが、その後の研究でもチンパンジーとヒトのDNAはわずか1%しか違わないことが判っている。ところが不思議なことに、チンパンジーはがんにならないらしいのだ。普通のサルが「裸のサル」に進化する過程で、がんを「身のうち」に棲まわせるようになったのだろうが、神はいったいそこに何を企図したのだろうか。
 さて、今日も全国あちこちで外科医という名の「裸のサル」が、がん患者という別の「裸のサル」にメスを入れ、ほどなくして彼らは死体となって病院の裏口から運び出されてゆく。そしてまことに皮肉なことだが、大脳が異常に発達した「裸のサル」が嬉々として夢中になる先端科学とやらを駆使した現代医療の姿がこれなのだ。
 われわれ人間動物園に棲む「裸のサル」の異常行動は、この檻(現代社会)の中にいるかぎり異常とは認識されにくい。たまたまその異常性に気づき、檻はいやだと逃げ出したいと思っても、もう昔の自然な環境にもどることはできないのだ。だとしたら、とどのつまり、いくところまで往くしかないということだろうか。

Text by Shuhei Matsuoka
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