2019年03月25日

病翁(へいおう)の精神

 2001年5月に行った小泉純一郎首相の最初の所信表明演説が当時話題になったことを記憶している方も多いとおもう。首相は演説を次のように締めくくったものだ。
 「明治初期、きびしい窮乏の中にあった長岡藩に救援のための米百俵が届けられました。当座をしのぐ為に使ったのでは数日でなくなってしまいます。しかし、当時の指導者は、百俵を将来の千俵、万俵として生かすため、明日の人づくりのための学校設立資金に使いました。その結果、設立された国漢学校は、後に多くの人材を育て上げることとなったのです。今の痛みに耐えて、明日を良くしようという『米百俵の精神』こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか」
 故事を都合よく引用して我田引水するあたりはどこかいまの安倍氏に通ずる気もするが、それはさておき、米百俵とは作家の山本有三が明治維新直後の越後長岡での故事を掘り起こし、それを戯曲『米百俵』として太平洋戦争最中の昭和17年に執筆、翌年に発表したものである。長岡藩は戊辰の役に巻き込まれて朝敵となり、熾烈な長岡戦争に敗北して長岡城は落城、藩士とその家族は辛酸を嘗めることになる。このいきさつは長岡藩のリーダー、河井継之助を主人公に据えた『峠』(司馬遼太郎著)などで世に知られるが、山本有三は『米百俵』の「はしがき」で次のように述べている。
 「長岡といへば、すぐ河井継之(つぐの)助(すけ)を聯(れん)想(そう)するくらゐ、継之助の名は、広く天下に響いてをります。長岡の町を焼け野が原としてしまった人は、これほど世にもてはやされてをるのに、焼け野が原の上に立って、『人物をつくれ。』と説いた人の名は、ほとんど全く伝へられてをりません。目立たない事に力をつくした人といふものは、とかく世間から顧みられないものです。」
 山本のいう、目立たないことに力をつくした人こそ、敗戦後の惨憺たる長岡藩にあって、戦病死した河井亡きあとの藩建て直しを任された一人、河井の終生のライバルでもあった小林虎三郎(1828〜1877、のち病翁と改名)である。
 ここで少々余談だが、長岡戦争に幕末史上もっとも評判のわるい土佐人が登場する。北越平定の命をうけ、一軍を率いて長岡に向かった軍監は土佐藩士・岩村精一郎(のち高俊、岩村三兄弟の三男)で、まだ数え24歳の若造だった。いかに新政府軍が急造の軍隊で人材払底していたかがわかるが、このことが悲劇を生む。長岡藩家老の河井継之助が戦争回避の「中立」嘆願書(虎三郎起草の説あり)を携えて小千谷の新政府軍本陣に近い慈眼寺で岩村との会談に臨んだが、岩村はこれを頭ごなしに斥け、嘆願書を受け取ることもせずわずか半時間ほどで追い返してしまったのだ。世に云う「小千谷談判」である。この決裂により戦争の口火が切られ、両軍多くの血が流れ町は焦土と化すことになる。のちに長州の品川弥次郎は「会談に岩村のような小僧を出さずに、黒田清隆か山県有朋を河井と会わせたら戦争せずに済んだかもしれぬ」とほぞを噛んだが時すでに遅しである。
 余談はさておき、長岡の小林虎三郎は長州の吉田寅次郎(松陰)と同時期に佐久間象山門下に入り、親しく交友をもった。両藩がのちに敵同士となるとはこのころ思いもしなかったろうが、同じ20代前半のふたりは互いを畏敬し、共にその才を認められ「象門の二虎」と称されるほどになっていた。ちなみに江戸木挽町の象山塾には二虎のほか河井継之助、勝海舟、坂本龍馬、津田真道、橋本左内、加藤弘之などがまさに綺羅(きら)星のごとく名を連ねており、当時の佐久間象山の声望の高さがうかがえる。
 松陰はのちに密航(下田踏海)を企てペリー艦隊に乗りこもうとした罪で幽閉中、象山宛てに書いた文章の冒頭で虎三郎のことに触れている。
 「わたし(松陰)が象山先生に初めて見(まみ)えたとき、虎三郎が紹介の労をとってくれた。虎三郎はかお一面に天然痘の痕のアバタがあり、わたしと同類。年齢もまた同じくらいで、その名もたまたま虎三郎(通称虎(とら))と寅次郎(通称寅(とら))で同じだった。ただ違いがあるとするなら、虎三郎は才能があふれるようにあり、わたしはまことに才乏しいことだったろう。その結果、虎三郎は象山先生との関わりで罪をこうむり、わたしのほうはその罪(下田踏海)によって先生を累わせたのだった」(現代語訳は松本健一著『われに万古の心あり』による)
 ふたりの仲の良さと松陰の無類の優しさが伝わる文章だが、ふたりとも当時猖獗(しょうけつ)をきわめていた天然痘の後遺症により顔中アバタで、虎三郎はさらに幼時の事故で左眼が失明し白濁していたというから、稀にみる哀れな異相の青年であったろう。しかしかれは若くしてすでに輝くような才覚を現していたのだ。
 象山が遺した有名な言葉がある。
 「虎三郎の学識、寅次郎の胆略というものは、当今、得がたい材である。ただし、事を天下になすものは吉田子なるべく、わが子の教育を頼むべきは小林子だけである」
 虎三郎は象山同様に謹慎の身となるが、のちに河井と共に長岡藩で重要な位置を占めることとなる。実務家で辣腕政治家の河井と、若いころから病弱で学者肌の虎三郎はしばしば意見が食い違い、戊辰戦争でも主戦派、非戦派として対立する。が、けっきょく戦争に敗れて河井は戦病死、長岡藩は7万4千石から2万4千石まで削られ、藩士とその家族はまさに食うや食わずの凄惨な戦後を迎えることとなった。
 この戦後の長岡再建を任されたのが虎三郎だった。虎三郎は病をおして文武総督に就き、つづいて大参事という重職を担うことになる。そんな中、明治3年の5月初め、長岡の窮状を見かねた三根山藩(長岡支藩)から百俵の米が見舞いとして贈られてきたのだ。まさに干天の慈雨である。ところが、虎三郎がこの米を藩士らには配給せず、売って学校をつくると言い出したことで藩内は紛糾する。
 山本有三の『米百俵』は、いきり立ったわかい藩士らが「小林を出せ!」と虎三郎の寓居(虎三郎の家は戦火で焼失)に押しかけ、いまにも斬りかかろうとするかれらを虎三郎が端然として説き伏せる姿が主題となっている。そして、虎三郎にこう言わせている。
 「もとより、食うことは大事なことだ。食わなければ、人間、生きてはゆけない。けれども、自分の食うことばかりを考えていたのでは、長岡はいつになっても立ちなおらない。貴公らが本当に食えるようにはならないのだ。だからおれは、この百俵の米をもとにして、学校を立てたいのだ」
 この米を皆で食ったところで一人わずか4、5合にしかならない。それを食い終わって何が残るか。それよりこれを売って長岡の将来のために人材を育てようではないかというのが虎三郎の決意だった。虎三郎の思想は「富強の本(もと)ただ人民の知識を開く外なし」で、まずは小学校の創設からはじめるべきと考えていた。そして「小学は貴賤賢愚の別なく皆入るべき所」として、平民の子の入学も許可することにした。
 米百俵はこうして国漢学校(小学校)、兵学校、医学校、洋学校の建設と書籍購入費などに充てられ、国漢学校はのちに明治政府の学制に組み入れられて阪之上小学校、長岡中学などに分岐してゆく。ちなみに日本初の小学校は明治2年5月、天皇が東京に移ったことによる危機感から京都に開校しているが、焦土と化し貧窮のどん底にあった長岡に明治3年6月、早くも小学校ができたという事実は特筆に値しよう。
 小林虎三郎は当代群を抜く英才でありながら、病のために数冊の著書を残しただけで越後長岡に埋もれた。しかしかれの崇高な精神は引き継がれ国漢学校や長岡中学からは大勢の人物を輩出する。長岡藩士の家に生まれた連合艦隊司令長官・海軍大将の山本五十六もその一人で、かれは揮毫を頼まれるとかならず「常在戦場」と書いたそうだが、これは長岡藩の藩風をあらわす一言で、もちろん虎三郎の座右の銘でもあった。現在でも選挙の近い国会議員などがこの言葉をよく口にするが、たいていその面相が軽薄であるのはなぜであろうか。
 さて最後に小林虎三郎と土佐の関係をすこし。
 明治4年7月、数え44歳の虎三郎は名を「病(へい)翁(おう)」と改名する。わかいころから胸疾患やリューマチ、肝臓疾患もあったらしく終生病苦にさいなまれて納得のいく仕事ができなかったことを自嘲しての改名であったが、この直後、弟の雄七郎が高知の海南学校の教授として招聘されたのを機に、妻子のない気軽さもあって療養を兼ね同行している。わずか1年ほどの滞在ではあったが、かつての仇敵土佐の地はかれの隻眼(せきがん)にはたしてどう映ったであろうか。

Text by Shuhei Matsuoka
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2018年12月21日

「裸のサル」とがん

 ほぼ半世紀前の1967年に世界中でベストセラーとなった『裸のサル』の著者で知られる動物学者のデズモンド・モリス博士は、これに続く著書『人間動物園』(新潮選書1970年刊)で非常にショッキングなことを述べている。
 自然環境にある野生動物には、わが身やわが子を傷つける行為、自慰行為、胃潰瘍、太りすぎ、同性愛、自殺などは見られないという。いうまでもなくこれらの行為はわれわれ人間のあいだではすべてが見られるものだが、驚くことに、檻に入れられた野生動物、つまり動物園の檻の中の野生動物たちも、まったく人間同様にこれらの行為のすべてを演じて見せるというのだ。
 わが子を虐待死させるといった信じがたい事件が日常化し、同性愛や自殺が蔓延する社会に暮らすわれわれにとって、なにか幽霊の正体を見たような気分になる指摘だ。
 モリス博士はいう。
 「現代の人間という動物は、今では種に自然な条件のもとで生きているのではない。人間という動物は、動物捕獲人によってではなく、自らの輝かしい大脳の働きによって罠に掛り、自らを巨大で不安定な動物園のなかに閉じ込め、その圧力のもとで挫折する不断の危機にさらされている。その重圧も大変なものだが、しかし受ける便宜も大きい。動物園の世界は、巨大な親のようにその住人を守ってくれる。食物、飲物、住い、衛生および医学的配慮があたえられ、生存の基本的な問題は可能な限り解決されている」
 現代人は、「利便性」「合理性」「経済性」などを求めておそろしく病的な環境をつくりだしてその檻の中に自ら入り、日々さまざまな異常行動をとっているということになる。われわれは自分が一匹の哀れな哺乳動物「裸のサル」であることに気づかぬまま、万物の霊長なぞとおごり高ぶり、デジタル技術、IT、AIといった先端科学などにうつつをぬかして悦に入っているのである。動物行動学の世界的碩学は半世紀前にそれに気づき、警鐘を鳴らしていたのだ。
 さて、ここで話はすこし外(そ)れる。
 数十年前まではその名を口にすることすら憚(はばから)れた病に、がんがある。なぜか近年はやたら身近な存在になり、「2人に1人ががんになる時代」なぞと“明るく”喧伝されてさまざまながん保険が発売され、がん治療薬「オプジーボ」でノーベル医学生理学賞受賞の本庶佑博士が世界の注目を浴びたことも記憶に新しいところだ。
 がん細胞は、人間に37兆個あるとされる細胞のごく一部に突然変異が起きて生まれる。すべての人間の体内で毎日およそ5000個のがん細胞が生まれ、それを免疫細胞が撃退しているためにいわゆるがん化しないで生きていられるのだという。ということはつまり、人は常にがん細胞とともにあるということである。「腹も身のうち」という言葉があるが、同様に「がんも身のうち」といっていいのである。もし人が150年も生きれば全員ががんになっているといわれるし、大往生した高齢者を解剖すると、あちこちにがんが見つかるらしいが、これはいわば当然のことなのだ。
 がん(本稿では小児がん、若年性がんを除く)になるというのは、80歳以上まで平均寿命が伸びてしまった人間の宿命であり、この複雑怪奇な生成メカニズムをもつ病を撲滅することなぞできるとは到底思えないし、そう断言する専門家もすくなくない。人は年をとれば誰でも老化して体のあちこちの機能や免疫力が衰え、その結果さまざまな種類の病に罹(かか)り、そして死ぬ。その病のひとつががんであり、ただそれだけのことなのだ。
 つまりこの病はなにも特殊なものではなく、いわば自然の摂理といっていいものだろう。がんが見つかれば当たり前のように患部をごっそり切除し、抗がん剤という強烈な薬物を投与するのががん治療の主流だが、それがいかに愚かな行為であることか。
 人を死に至らしめる本物のがんは、検査で発見可能な1センチ程度になるずっと以前にがん細胞の一部が血液やリンパ液に乗ってしずかに体内を移動し、すでに転移(一部の例外を除き、非転移性のがんは人を死に至らしめることはないとされる)している。そしていずれあちこちで大きく成長する。それを次々に切ったりすれば患者はますます体力や抵抗力をうしない弱ってゆくだけで、これはがんを増殖させるために体をエサとして与えているようなものなのだ。
 「手術は成功しました、しかし患者はほどなくして感染症で亡くなりました」という事態が日々繰りかえされていることはご存知の通りだが、手術の成功で外科医は責任を問われずに済み、患者の家族からは感謝すらされる。しかし当の患者は切り刻まれてやせ細り、抗がん剤の副作用で苦しみぬいた挙句、一足飛びに死に追いやられる。医師はこれを“治療”と呼ぶのだが、その実情は誰がどう見ても“拷問”である。
 日本のがん治療の問題を追及し続け、その勇気ある啓蒙活動で菊池寛賞を受賞している近藤誠医師はいう。
 「がんが恐ろしいのではない。『がん治療』が恐ろしいのです。世間には『がんは放っておくとみるみる大きくなり、全身に転移して、ひどい痛みにうめきながら死に至る』という強い思い込みがあります。だから『がん』と言われると『早く切らねば』とあせり、余命宣告に震え上がって、『命が延びるなら、なんでもやります!』と、医者に命を預けてしまう。医者の思うツボです」(『「余命3カ月」のウソ』ベスト新書)
 手術が仕事の外科医にとってがん手術件数が減るのは困るし、手術をどしどしやらないと若い外科医のトレーニングもできない。それに何よりも外科手術、抗がん剤投与、放射線照射などのがん治療は医療機関や製薬会社といった医療業界全体を支える巨大ビジネスでまさにドル箱でもある。これは想像だが、医師の本音は「わかっちゃいるけどやめられない」ではないだろうか。しかし、がん宣告で恐怖のどん底に突き落とされ、藁(わら)にもすがる思いで高額の治療費を払い、挙句にそのカネで拷問を受けてがんと一緒にあの世に送られる患者はたまったものではない。
 そう考えれば、これを医師個人の倫理観や人間性、知識や経験の問題だけに帰するのはどうも無理がありそうだ。むしろ現代医療の構造そのものにメスを入れないと、根本的解決にはなりそうにない。人の物を盗むことを「犯罪」と定義して罰する法律を整備しないかぎり、泥棒も犯罪者ではないのだ。
 がんは、細菌やウィルスなどによる普通の病気ではない。いや病気どころか、ある年齢に達し、死が近づいた人を、木が枯れるように自然死させてくれる、神が与えてくれた大切な宝なのかもしれない。一般的ながんは、末期がんの場合でも死までの猶予期間がある。手術や抗がん剤投与などをしなければ意識もしっかりとしてほぼ普通の生活をすることができるので、その間に行きたいところに行き、会っておきたい人に会い、家族と最期の時を過ごすことができる。これは3大死因のうち、心臓病や脳卒中にはないメリットだ。
 この大切ながんを現代医療は撲滅すると躍起になっているが、冗談ではない。もし何かの間違いでがんが治るようになれば、人がなかなか死ねなくなって老人はさらに増え続け、平均寿命は伸び続け、どの国も財政破綻をきたして社会は崩壊するだろう。世界中が死ねないヨボヨボの老人だらけになる姿を想像してほしい。それこそ地獄絵図だ。
 ところでモリス博士は半世紀前にヒトを「裸のサル」と喝破したが、その後の研究でもチンパンジーとヒトのDNAはわずか1%しか違わないことが判っている。ところが不思議なことに、チンパンジーはがんにならないらしいのだ。普通のサルが「裸のサル」に進化する過程で、がんを「身のうち」に棲まわせるようになったのだろうが、神はいったいそこに何を企図したのだろうか。
 さて、今日も全国あちこちで外科医という名の「裸のサル」が、がん患者という別の「裸のサル」にメスを入れ、ほどなくして彼らは死体となって病院の裏口から運び出されてゆく。そしてまことに皮肉なことだが、大脳が異常に発達した「裸のサル」が嬉々として夢中になる先端科学とやらを駆使した現代医療の姿がこれなのだ。
 われわれ人間動物園に棲む「裸のサル」の異常行動は、この檻(現代社会)の中にいるかぎり異常とは認識されにくい。たまたまその異常性に気づき、檻はいやだと逃げ出したいと思っても、もう昔の自然な環境にもどることはできないのだ。だとしたら、とどのつまり、いくところまで往くしかないということだろうか。

Text by Shuhei Matsuoka
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2018年09月09日

適塾青春グラフィティ

 おおきな時代の転換期には、次々に湧きあがる真夏の雲のようにすぐれた人物がいっせいに出てくるものらしい。これは洋の東西を問わぬ不文律でもあろうが、わが国では幕末から明治にかけての動乱期がやはりその代表例だろうか。
 わたし自身この時代が好きで本連載でもしばしばふれてきたが、それにひき比べ、とつい口をつく長嘆息を禁じ得ない。わずか150年ほどのちの現代日本の体たらくは、いったいなんであろうか。毎日のように報じられる政財官学界のとりわけ要路にある者どもの、悪事をはたらきながら恬として恥じることなくシラを切り通すあまりに卑なる姿。そしてそれを見て見ぬふりで容認してしまう社会。魚は頭から腐るというが、腐臭はすでに日本社会全体に拡散(ひろ)がりつつあり、情況は相当に深刻というほかない。
 と、ただ彼我の差を嘆いてばかりも詮ないので、せめてすこし時代をさがのぼって、われらが先達のあざやかな人生にふれて気分を晴らそう。冒頭の話にもどる。
 日本近代の黎明期にあって巨(おお)きな足跡をのこした人物に、幕末を代表する蘭方医で適塾の創始者である緒方(おがた)洪(こう)庵(あん)(1810〜1863)がいる。適塾は洪庵の号である適々斎から命名された大坂の蘭学塾で、当時猖獗(しょうけつ)をきわめていた天然痘やコレラの治療に先駆的な業績を上げたことで知られる。そして何より、この一私塾から福沢諭吉、大村益次郎、橋本左内、大鳥圭介、長与(ながよ)専斎(せんさい)、箕作(みつくり)秋(しゅう)坪(へい)、佐野常民(つねたみ)ら近代日本の建設者となる俊秀を綺羅(きら)星のごとく輩出した奇跡はまさに驚嘆の一言である。
 また珍しいことに当時の蘭学塾としては唯一、その遺構が修復されて中央区北浜に現存しており、福沢諭吉の『福翁自伝』などに活写された当時の洪庵と塾生らの姿を彷彿させてくれる。うなぎの寝床のような、間口が狭く奥行きのある比較的大きな2階建て町家で、1階に洪庵一家の住まいと教室、2階に塾生が寝起きする大部屋や女中部屋、そして「ヅーフ部屋」と呼ばれる3畳ほどの小部屋があった。ヅーフとは、長崎・出島のオランダ商館長だったヘンドリック・ドゥーフが編纂した蘭和辞典『ヅーフ・ハルマ』の略称で、約3000ページに5万語を収録していた非常に貴重な大部の書物(7〜10巻で1セット)のこと。この写本1セットが端然と3畳間に鎮座してあり、このため塾生らは競ってこの小部屋を訪れ、いつも順番待ちで夜通し灯りが点いていたという。
 さて、自伝文学の傑作『福翁自伝』(岩波文庫)は適塾時代のエピソード満載で、悪戯(いたずら)好きの諭吉らしいこんな逸話も紹介している。いわく「遊女の贋手紙」―。
 「江戸から来ている手塚という書生があって、この男はある徳川家の藩医の子であるから、親の拝領した葵の紋付を着て、頭は塾中流行の半髪で太刀作(たちづくり)の刀を挟してるという風だから、如何(いか)にも見栄(みえ)があって立派な男であるが、如何(どう)も身持ちが善(よ)くない。ソコデ私がある日、手塚に向かって『君が本当に勉強すれば僕は毎日でも講釈をして聞かせるから、何はさておき北の新地に行くことは止しなさい』と言ったら…」と続くのだが、手塚は諭吉の言に従い、廓通いをやめる約束をし、これをやぶったら坊主頭にされても文句なしという証文を書く。すると手塚が真面目になり本当に勉強しだしたから諭吉は面白くない。そこで仲間と謀り、巧妙な遊女からの贋手紙を手塚に渡すのだ。これにまんまと引っかかり廓に行ってしまった手塚は諭吉に捕まって髪を切られそうになるが、けっきょく坊主は勘弁してやる代わり鶏肉と酒を奢(おご)らせたという笑い話。じつはこの手塚こそ、漫画家・手塚治虫の曽祖父、手塚良庵なのである。
 可笑(おか)しいのは、当の手塚治虫自身、このエピソードの人物が自分の曽祖父であることを晩年になるまで知らなかったことだ。川崎市の深瀬泰旦という小児科医が医学史を調べるうち、江戸末期に創設された神田お玉ヶ池種痘所(東大医学部発祥地)の設立拠金者名簿の中に手塚良斎(良庵の義弟)、良庵(のち良仙に改名)の名を見出し、また適塾の門人姓名録に手塚良庵の名をみとめ、そのほかさまざまな史料から良斎、良庵の関する論文を『日本医史学雑誌』に発表した。これを手塚治虫が偶然に見て、はじめて自身のファミリーヒストリーを知ったという次第。深瀬氏も、この手塚良庵があの高名な漫画家、手塚治虫の曽祖父であることなぞつゆ知らず論文を発表したのだった。
 昭和56年3月、52歳の手塚は深瀬氏を訪ね、互いにその奇縁にひたりつつ、論文をもとに手塚良庵を主人公にした長編作品を『ビッグコミック』に連載する旨を伝えた。これが晩年の最高傑作となる『陽だまりの樹』である。作中には、上の話もふくめ『福翁自伝』の中の有名なエピソードがふんだんに登場し、作品にリアリティを与えている。
 ところで適塾といえば、地元大阪住まいだった司馬遼太郎が大村益次郎(村田蔵六)を主人公にした小説『花神』の冒頭でエッセイ風にかなりくわしく書いている。サービス精神旺盛な司馬のことだから手塚治虫のエピソードを知っていたらきっとそれにふれたろうが、この作品は昭和44年から46年にかけ新聞連載されたもので、手塚自身がまだ知らぬ話を司馬が書ける由もなかった。
 適塾は幕末随一の蘭学塾として世に知られ、その盛名に惹かれて全国から若者が集まった。寄宿する塾生にはわずかに畳一枚のスペースが与えられ、そこに机・夜具などのすべてを収めての窮屈な生活。勉強の競争は激しく、成績が最上の者は洪庵から塾頭の地位を与えられた(大村益次郎、福沢諭吉、長与専斎らは塾頭)。また成績が良ければ日当たりのよい畳に行けるが、悪いと日当たりわるく人の往来はげしい一隅へ移動させられ、こうなると夜中に踏み起こされてろくに眠れない。福沢は、「この上に為(し)ようはないというほど」勉強したと回想しているが、寝る間も惜しむ異常なほどの知識欲の一方で若さゆえの悪ふざけや飲酒、喧嘩も日常茶飯事、出自や身分を問わぬ自由主義とバンカラが塾風となっていた。大部屋の大黒柱にいまも残る無数の刀痕はその証しだ。
 こうした粗暴ながら前途有為な若者らを洪庵は愛し、学問を授けるだけでなく人の道をおしえ、また自ら範をもって示した。たとえば適塾では、「扶(ふ)氏(し)医戒之(いかいの)略(りゃく)」という医師としての戒め十二ヵ条が明文化され塾則のようになっていた。これはベルリン大学教授フーフェランドの著書『医学必携』(蘭語版)にある「医師の義務」を洪庵自らが見事な日本語に抄訳したもので、医の道を志す者ならずとも、読めば誰しもが感動するはずである。紙幅が許さぬので最初の二ヵ条だけ紹介しよう。

一、医の世に生活するは人の為のみ、をのれがためにあらずといふことを其業の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧みず、唯おのれをすてゝ人を救はんことを希ふべし。人の生命を保全し、人の疾病を復治し、人の患苦を寛解するの外他事あるものにあらず。
一、病者に対しては唯病者を視るべし。貴賤貧富を顧みることなかれ。長者一握の黄金を以て貧士双眼の感涙に比するに、其心に得るところ如何ぞや。深く之を思ふべし。

 洪庵は巣立ってゆく塾生に「扶氏医戒之略」を手ずからしたためて授け、さらには「事に臨んで賎丈夫となるなかれ」という寸言も贈ったという。賎丈夫とは、“卑しい男”という意味である。洪庵がなにを大事にし、いかなる人生を生きたかがこのことでわかろう。
 ちなみに適塾の門人姓名録には、わが土佐からも14名が記録されている。萩原三圭(慮庵)は戊辰戦争の只中に青木周蔵とドイツのベルリン大学医学部に留学した最初の日本人で森鴎外らの先輩にあたり、のち東大教授、京都府立医大の初代校長、宮中侍医となった。立田春江はのちの小野義真で、岩崎弥太郎の右腕(相談役)として三菱の中枢で活躍、三菱二代目の岩崎弥之助、日本の鉄道の父・井上勝と共に小岩井農場を創設したことでも知られる(「小」は小野のこと)。また、入塾したものの幕末動乱のなかで奔走家となり天誅組の変、禁門の変に参戦、海援隊士となり戊辰戦争にも転戦して奇跡的に生き残り、維新後に政府要職や各県知事などを務めた石田英吉(伊吹敬良)などもいる。
 近代日本の礎となった緒方洪庵とこれら若者たちの青春を想うとき、わたしはいつも心に一条の光が射すようなあかるい気分になる。そして、われ先に己が名利を貪(むさぼ)って恥じることのない現代の賎丈夫どもや現代社会の醜状を、ほんのいっときだけ忘れることができるのである。  
 
 Text by Shuhei Matsuoka
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2018年06月05日

クールジャパン考

 NHKBSの『cool japan〜発掘!かっこいいニッポン〜』をたまに観る。
 日本の工芸品、デザイン、ライフスタイル、工業製品などさまざまな分野のアイテムを取り上げてその魅力を日本在住の若い外国人たちが英語でディスカッションする番組で、われわれ日本人には当たり前で特に気にも留めていないようなものに外国人が驚きとかっこよさ(cool)を感じるというカルチャーギャップが番組の魅力となっている。2006年4月の放送開始からすでに12年以上続き、いまでは世界150ヵ国の国と地域で放送されているというから堂々たる人気番組である。
  “クールジャパン”という言葉が流行語になって久しいが、これは19世紀中葉から末期にかけて欧州を席巻した“ジャポニズム”(浮世絵や陶磁器などの美術工芸品を中心にした一大日本ブーム)の再来ともいえ、開国した極東の小国・日本が世界に発見されたと同様に、インターネットの急速な拡がりによって世界が現代日本の真の姿を発見しつつある現象といえるだろう。
 考えてもみてほしい。戦後の日本といえばフジヤマ、ゲイシャで、高度成長期以降はテレビや車の一大輸出国となってエコノミックアニマルなどと称されたが、日本は長いあいだその程度の理解しかされていなかった。その後、SONYのウォークマンやアニメ、漫画などのポップカルチャーで知られるようになったものの、ごく最近まで世界は、たとえば本当の「和食」がどのようなものかすら知らなかったのだ。
 しかしその一方で、こういったステレオタイプ化された日本観をうち崩して、あたらしい日本の姿をこつこつと世界に浸透させている例も少なくない。
 そのひとつが「無印良品」だ。
 「無印良品(MUJI)」は、西武百貨店を中核とするセゾングループの総帥・堤清二(作家・辻井喬)とデザイナーの田中一光の発案から1980年に西友のプライベートブランドとして誕生、“no brand goods”の直訳で命名された。最初はわずか40品目で出発したが、バブル崩壊の年となった1990年には(株)良品計画として独立させ、現在では衣料品、家具、家庭用品、家電、食品など約7000品目もの商品を製造販売、店舗数は国内が454店舗で、海外は26ヵ国に474店舗とすでに国内を上回っているのである。いまやMUJIは、SONYやTOYOTAのような日本を代表するブランドとして海外で知られる存在になっているのだ。
 そもそもなぜMUJIは世界のひとびとに受け容れられたのか。
 開発コンセプトについて堤は、「消費者が主人公で、自分の好きなように生活空間を整えるというのが大前提にあった」として、こう述べている。
 「あの商品群のデザインの仕方も、江戸の長屋の暮らし方が発想のなかにあります。昔、人々は自然と一緒に呼吸することで主人公になっていた。蒸してくれば障子を開けて、そよ風を入れた。…(中略)…ところがいまの都市生活では、高層ビルの住まいに風鈴をかけても、ビル風に煽(あお)られたりクーラーで閉め切ったり。そよ風が吹いてきてチリチリンと鳴る情緒を得られませんから。都市生活者は自分の生活空間をなるべく淡彩、彩りをなくして、そこで自分の心のなかに彩りをもって生活空間を賑(にぎ)やかにする。そういうふうにしないと、生活のなかの主人公になった満足感を味わえない。かつて自然と一緒に呼吸していた日本人の感覚が時代とともに変化して、生まれ変わったという感じが『無印良品』にはあると、僕は思っているのです」(『うるわしき戦後日本』PHP新書)
 江戸期から現代に至る日本文化の淵源は室町時代の東山文化にもとめられる。MUJIはまさに自然なかたちでその東山文化の流れをくむ製品群として発案され、それゆえ日本人にとっては内なる琴線に触れるような快適感があり、外国人には京都東山の銀閣寺に代表される、華美を排した控えめな意匠の日本美をオーガニックで淡彩でシンプルな製品群が具備していると感ずるのだろう。
 ついでにいえば、「無印良品」が1980年に生まれたことはじつに示唆的だ。
 この年、日本の車生産台数が1千万台を突破し、アメリカを抜いて世界一になった。海外への輸出台数が国内販売台数を初めて上回ったのもこの年だ。洪水のごとき日本製品の輸出ラッシュがまさにピークに達しつつあったころで、当然の如く日本脅威論が澎湃(ほうはい)としておこり、85年には対日貿易赤字に苦しむアメリカの発意で急激な「円高ドル安」誘導が行われる(プラザ合意)。このころ堤たちは、受け容れられる確証もないままノンブランドの生活雑貨を開発して細々と売りはじめていたわけだ。
 じつは堤はエルメス、アルマーニ、イブ・サンローランといった欧州の高級ブランドを最初に日本に輸入し成功を収めたパイオニアとして知られる。だがかれの中で次第に、どこか満足しきれない気分が横溢しはじめ、消費者自らが主人公になれる日本的な製品とあたらしいライフスタイルを開発・提案してみたいと思うようになる。
 そしてついにバブルが崩壊。エコロジーが世の関心事になりはじめたことも相まって、長い不況期のはじまりと軌を一にするようにMUJIは成長してゆくのである。過剰で放埓(ほうらつ)で浪費の日本が崩壊し、熱狂から醒(さ)めて少しは落ち着きを取り戻しつつあった日本人と柔らかに並走してきた結果でもあろう。そしてもともとは日本の都市生活者をターゲットとしたデザインと商品群が、背後に日本文化を感じさせるクールな(かっこいい)存在として次第に世界にも受け容れられるようになったのだ。
 このMUJIの成功がおしえるのは、一過性に陥りがちなブームに頼るのではなく、地道にビジネスコンセプトを練りあげてひとびとの賛同を得てゆく手法の真っ当さである。そして“クールジャパン”とは、そのような試行錯誤の結果として生まれる日本らしい商品やデザインを外国人が評価してくれる現象を指すもので、日本人自身が図々しくも「かっこいい日本」などと看板に掲げるべきでないのは云うまでもないことだ。
 ところがあろうことか、これを日本政府が大々的に看板に掲げて「日本を世界に売り込め!」とやりだしたから話がややこしくなった。
 “クールジャパン”という言葉が世に拡がりはじめる発端は、2003年にダグラス・マッグレイというアメリカ人ジャーナリストが『中央公論』に発表した「Japan’s Gross National Cool」という論文とされる。ジャパン・ソサエティーの助成を受けて3ヵ月間東京に滞在して書いたもので、ポケモンやハローキティーを挙げ、「今の日本は、経済大国だった1980年代よりも、はるかに大きい文化的勢力を持っている」と褒(ほ)めちぎったことで、「失われた20年」の只中にあり自信を喪いかけていた日本政府が飛びついたのだ。
 2010年に経済産業省内に「クールジャパン室」が開設されたのを嚆矢(こうし)とし、その後は安倍首相の肝入りで各省庁が競って予算組み(という“ばら撒き”)をはじめる。ところが予想通りというべきか、いずれのプロジェクトもほとんど成果は出ていない。その代表例が2013年に鳴り物入りで設立された(株)海外需要開拓支援機構(通称「クールジャパン機構」)という官民ファンド(出資金約700億円の8割超は財政投融資)で、昨年11月6日の日経新聞は「クールジャパン過半未達」「戦略なき膨張、規律欠く官民」と野放図な実態を明らかにし、投資先である「トーキョーオタクモード(ポップカルチャー発信)」「アニメコンソーシアムジャパン(アニメ海外配信)」「ワクワク・ジャパン(日本のテレビ番組輸出)」などのほとんどが赤字続きと報じた。今年に入ってからも“官製クールジャパン”批判はあとを絶たない状況だ。
 さらに危惧されるのは、これらがたんなる税金の無駄使いで済まぬこと。政府が頭を突っ込んでかき回したことで、宮崎アニメやMUJIに代表されるような、また日本酒、日本茶、工芸品、和食といった世界に類をみない日本らしい優れた商品をこつこつと拡げ、海外で評価を得てきたひとびとや企業の努力をも無に帰してしまいかねないことだ。堤は「無印良品」について「これはメーカーやブランドを取り去った、体制批判商品なんだ」と言っていたようだが、体制そのものが頭を突っ込む姿に天国のかれも呆れかえっていることだろう。
 政官によってボロ雑巾のように使い尽くされてしまった“クールジャパン”。おかげでこの言葉もまもなく死語になろうが、せめてNHKの番組は長く続けてもらいたいと希うばかりである。

Text by Shuhei Matsuoka
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2018年02月28日

明治150年の危うさ

 今年は元号が明治になって150周年とのことで、政府のお偉いさん方はすこしはしゃいでいる。特に安倍首相はそうで、年頭の記者会見では本人の生地、山口県(長州)が生んだ先覚者・吉田松陰の「草莽崛起(そうもうくっき)」などの言葉を持ち出して、やたら自慢気に明治維新を称揚したことだった。
 尊王攘夷を旗印に徳川政権を倒して明治維新を成し遂げたのは薩長土肥を中心とした西国連合軍だが、大いに権勢を誇った薩閥が明治10年の西南戦争(西郷隆盛らの死)と翌年の大久保利通暗殺で勢力半減され、弱小の土佐と佐賀(肥前)も廟堂を追われて明治14年の政変を境に明治政府はほぼ完全な長閥政権となる。だからその末裔を自任する安倍氏が明治150周年ではしゃぐのはわからぬではない。
 しかし、長閥が壟断(ろうだん)した明治政府は日清戦争、日露戦争、そしてかれらの後輩らが日中戦争、ついには太平洋戦争を起こして国内外に膨大な犠牲者を生み、この国をカタストロフィーへと導いたことを忘れてはならない。そして何より、安倍首相の祖父岸信介がその太平洋戦争開戦時、東条英機内閣の商工大臣という重要閣僚であった事実はまことに示唆的で重要な意味をもつ。
 岸信介はA級戦犯として巣鴨拘置所に3年間拘留されたが、サンフランシスコ講和条約発効とともに無罪放免となり、その後、総理大臣にまで栄進する。かれがなぜ死刑にもならず戦後ものうのうと、それも国家のトップにまでなれたのかにはさまざまな憶測がされたが、児玉誉士夫らと共にCIAのエージェントになることと引き換えであったことがアメリカ側証言から最近明らかになっている(ティム・ワイナー著『CIA秘録』に詳しい)。岸は自らの無罪放免とその後の政界復帰、さらにはCIAの工作資金で自民党総裁、総理大臣への道筋をつけてもらう代わりに、アメリカの意向に沿った国家運営と情報提供を行い、いわば日本を売っていたのである。そのいかがわしさを敏感に感じとった当時の若者たちの怒りが60年安保闘争の本質であり、その岸を尊敬し、岸の意思を継いで任期中に改憲を行い、日米安保をさらに強化して自衛隊をアメリカ軍と共に戦争のできる軍隊にしようというのが、外孫の安倍晋三首相というわけだ。
 さて、その安倍首相は1月22日の施政方針演説の冒頭でも、明治150年をネタに次のように意気揚々と述べている。
 「150年前、明治という時代が始まったその瞬間を、山川健次郎は、政府軍と戦う白虎隊の一員として迎えました。しかし明治政府は、国の未来のために、彼の能力を生かし、活躍のチャンスを開きました」
 これは戊辰戦争で朝敵とされて永きにわたり塗炭の苦しみをなめ、挙句に未曾有の原発事故に遭った福島(会津)への見え透いた同情を装い、長州が主導した明治政府の偉大さを印象づける巧みな言い回しとなっている。確かに山川健次郎は後に東京帝国大学総長などを歴任することになるが、これはかれが会津藩家老職の若き軍事総督、山川大蔵(のち浩)の弟で抜きんでた秀才であったことによる例外中の例外にすぎず、ほとんどの会津人は活躍のチャンスどころか屈辱の生涯を送らざるをえなかったのである。
 薩長土を中心とした西軍による会津への想像を超える陰惨な仕打ちとその後の会津人らの悲劇は、ほぼ百年の間、歴史の闇に葬られたままだった。これが世に出るきっかけとなったのは、1971年に『ある明治人の記録−会津人柴五郎の遺書−』(石光真人編著、中公新書)という本が出版されたことによる。この小さな一冊をはじめて読んだときの衝撃はいまだわたしの脳裏に残っているが、“偉大なる明治”の驚愕の裏面史を知れば、明治150周年とはしゃぐ安倍首相の顔がさらに愚かしく腹立たしく見えてくるだろう。
 これは、会津藩の上級武士の五男として安政6年(1859)に会津若松に生まれた柴五郎(のち陸軍大将、明治33年の北清事変でその沈着な行動により世界から賞賛を得た)が、死を間近にして自らの青少年期の記憶を克明につづった貴重な記録である。冒頭に「血涙の辞」とし、「いくたびか筆とれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過して齢(よわい)すでに八十(やそ)路(じ)を越えたり」としたためているが、かれの悲痛な思いはこの「血涙」という一語に凝縮されていよう。
 五郎10歳のときに会津若松城が落城、直前にかれは親類に預けられて難を逃れたが、祖母、母、姉妹の女性たちはすべて自邸で自害し、生き残った者らは俘虜として東京の収容所に移送される。12歳となった五郎はほどなくして土佐藩士・毛利恭助の学僕として預けられることになり、毛利の屋敷に出向くため身支度を整えていたとき、兄太一郎が五郎に袴を着せながら、「土佐藩は会津にとりて旧敵なり、若松城攻囲軍の参謀に土佐の板垣退助ありと聞けり。断じて恥ずかしきことなすべからず」と、帯に小刀を忍ばせたという。
 だが行ってみると、実際は学僕どころか下僕に過ぎず、惨めな扱いを受けることとなる。ある日、五郎は宴席に呼ばれ、芸妓が多数はべる満座の席で、酔って床柱にもたれた毛利から「この小僧は会津武士の子でな、母も姉妹も戦争のため自害して果てたるよ」と言われたことを生涯忘れなかった。「こみ上ぐる涙を呑んで引きさがりたること忘れず。肉親の犠牲を宴会の座興にせること、胸中煮えたぎる思いなりき」と五郎は記している。
 そんな東京での生活も束の間、明治3年5月に柴家ら会津人家族2800戸は下北半島北端の火山灰に覆われた不毛の地、斗(と)南(なみ)藩(現在は原発施設の密集地であるむつ市)に移封され、極寒の地で乞食同然の辛酸をなめることとなる。当地での生活がいかに悲惨だったか、次の一例を挙げれば事足りよう。食べ物が無くなり、家族で犬の死肉を食らう場面がある。五郎少年が口に含んだまま吐き気をもよおすと、父はこう語気荒く怒ったという。
 「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪(そそ)ぐまでは戦場なるぞ」
 五郎はその後、山川大蔵や野田豁通(ひろみち)(青森県大参事、熊本藩士)の世話になる幸運に恵まれ、賊軍の出でも出世の可能性が残されていた職業軍人への道を歩むこととなるが、この遺書は明治11年ごろの陸軍士官学校時代で終わっている。どうあっても明治10年の西郷の死と翌年の大久保暗殺にふれてから記述を了(お)えたかったのだろう。
 「この両雄維新のさいに相謀りて武装蜂起を主張し『天下の耳目を惹(ひ)かざれば大事成らず』として会津を血祭りにあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すこと能わず、結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり」
 洋の東西を問わず「歴史」とは勝者の記録であるとはいえ、これらの出来事が会津人の家々で薩長へのルサンチマン(怨恨)として断片的に語り継がれてはきても、この一書を俟(ま)つまで百年ものあいだ社会的に封殺されてきたという事実は何を意味するのか。“坂の上の雲”を仰ぎ見て近代国家建設に邁進した“偉大なる明治”の裏側におぞましい差別構造が横たわっていたことが、この一事で容易に察しがつくだろう。
 わが土佐も薩長に次ぐ勢力として戊辰戦争に参戦、土佐藩兵は会津戦や二本松戦で大いに戦果を上げ、その功により明治維新以降、板垣退助を筆頭に柴五郎少年の主人となった毛利恭助ら多くの顕官を輩出する。いまでもある年齢以上の福島県人にとって、山口、鹿児島に次いで「高知」は不快な県名のようだが、これは当然のことだろう。
 150年も経っているのにそんな昔のことを、という声も聴こえそうだが、柴五郎が亡くなってわずか11年後にわたし(62歳)が生まれていることを思えば、昔話と一蹴することはできない。いまでも高齢の福島県人が「あの戦争」というとき、それは太平洋戦争ではなく戊辰戦争だというが、これはけっして笑い話なぞではないのだ。
 さても、祖父岸信介を無邪気に敬慕する戦争を知らない長州出のお坊ちゃん総理は、明治150年を機に“偉大なる明治”に倣(なら)って志士気取りで「強い日本を取り戻す」という。ああ、なんとおそろしいことよ。

   Text by Shuhei Matsuoka
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2017年12月25日

土光さんが哭いている

 横浜に本コラムのファンだという女性読者がいて、しばしば温かくも鋭い感想をメールで寄せてくれる。こういう熱心な読者は、迂遠で手ぬるい駄文を戒めるウォッチドッグの役割を果たしてくれるし、思わぬ指摘にインスパイアされることもあって筆者にはとてもありがたい存在だ。
 いつの号だったか、“世界でいちばん貧しい大統領”として有名になった元ウルグアイ大統領のホセ・ムヒカのことを書いたおり、彼女からの一文に「経団連の土光氏を思い出す質素な暮しぶり」とあり、思いがけず懐かしい名に虚をつかれたことだった。土光敏夫(1896〜1988)の存在を、わたし自身がすっかり忘れていたことに気づかされたのだ。
 家でメザシを食べる姿をNHKが放送してから世間では“メザシの土光さん”で有名になったが、この人がたんなる質素倹約家でないのはいまさら云うまでもないだろう。岡山県の農家に生まれ、東京高等工業学校(現東京工業大学)卒業後、東京石川島造船所(のち石川島播磨重工業、現IHI)に入社、一貫してタービン技術者の道をあゆむ。のちに同社社長を経て、経営危機にあった東芝を再建、その後経団連会長など財界トップの座を長く務め、なんと84歳で鈴木善幸首相から請われ第二次臨時行政調査会、臨時行政改革推進審議会の会長として「増税なき財政再建」に命を懸けた高名な人物が、玄関戸を開けるにもコツがいるという築半世紀を超える木造平屋の陋屋に住み、よれよれの浴衣姿でメザシを食っている姿が世間を驚かせないわけがない。
 いや、その程度で驚いてはいけない。「暮らしは低く、思いは高く」「個人は質素に、社会は豊かに」を信条とする土光は石川島社長時代、背広は着古しの一着しかなく革靴も底を何度も張り直して履いていた。ところが東芝社長となって無理やり背広4着を新調させられ、「こんな出費は生まれてはじめてだ」と憮然としていたという。また大会社の社長でありながら一家の生活費が月わずか10万円程度だったのは、母登美がたったひとりで横浜市に創設した私立学校・橘学苑の運営に給料のほとんどを充てていたから。大統領報酬のほとんどを寄付して月千ドルで生活していたホセ・ムヒカとまるで示し合わせたような粗衣粗食のシンプルライフなのだ。
 土光はいまから30年近くも前に91歳で亡くなったが、わたしのかつての印象は質素倹約の“メザシの土光さん”、武骨な経団連会長、“ミスター行革”と通り一遍のもので、世代も離れているせいか特段の興味もなかった。が、その後、かれの名をいろんな本で目にするようになり、10年ほど前に亡父の蔵書にあった『私の履歴書』(日本経済新聞社)を読んだことから本格的に心酔するようになった。
 そしてあろうことか、土光さんのように立派になりたいと氏の座右の銘「日日新、又日新」(日日に新たなり、また日に新たなり)を小さな紙きれに書いて自宅洗面所の前にセロテープで貼ったものである。ところが、その後だんだんと老眼がすすんでちいさな文字は見えなくなり、いつのまにかその紙きれの存在すら完全に忘れてしまっていたことに、冒頭の女性読者の一文で気づいた次第。まさに凡夫の浅はかさ、歳を重ねても一向に立派になれない理由が図らずも判明したのである。
 ちなみにこの言葉、中国古典『大学』にある中国・商時代の湯王のもので、正確には「苟(まことに)日新、日日新、又日新」である。『私の履歴書』の劈頭に土光はこの言葉をあげ、「『今日なら今日という日は、天地開闢(かいびゃく)以来はじめて訪れた日である。それも貧乏人にも王様にも、みな平等にやってくる。そんな大事な一日だから、もっとも有意義に過ごさなければならない。そのためには、今日の行いは昨日より新しくよくなり、明日の行いは今日よりもさらに新しくよくなるよう修養に心がけるべきである』という意味。湯王は、これを顔を洗う盤に彫り付け、毎朝、自誡(じかい)したという。私もこれを銘として毎朝、『きょうを精一杯生きよう』と誓うのだが、凡人の浅ましさ、結果としてはうまくいかない日の方が多い」と謙遜している。
 著名人の自伝はあまた存在するが、わたしはこの『私の履歴書』は近年の白眉ではないかとおもう。まず、「はじめに」からしてふるっている。本を出すことになったいきさつを簡単に述べたあと、こう結んでいるのだ。
 「ただ、読者のみなさまに一つお願いがある。本書の中にある、行革の部分については読んでいただきたいが、私の個人的な経歴については、時間のムダであるから、なるべく読み飛ばしていただければ幸甚である。」
 過去を語るなぞまったく意味はないと自叙伝を頑なに拒んできた土光だから多少の照れがあるにしろ、これは著名人の韜晦(とうかい)趣味ではなく質朴で武骨な明治人らしさと見るべきだろう。
 さて、実業家・土光敏夫の名が最初に世に知れたのは、やはり東芝社長時代だろうか。東京オリンピックの年(昭和39年)に石川島播磨重工業社長の座を退いた69歳の土光は、経営危機にあった東芝の再建を石坂泰三(東芝会長)から頼まれる。石川島時代に関係の深かったブラジルに農地を買って余生を送ることを本気で考えていたかれには青天の霹靂だったが、尊敬する石坂から「オレより10歳も若いやつが隠居とは何事だ」と説得され、断り切れなかったのだ。
 石川島播磨重工業の3倍もある大企業の東芝は次世代エレクトロニクス化の波に乗れず新分野への取り組みが遅れて苦境に喘いでいた。社長に就任した土光はいきなり、「一般社員は、これまでより三倍頭を使え、重役は十倍働く、私はそれ以上に働く」と発破をかけ社内に衝撃を与える。初出社の日、石川島時代と同じく朝7時ごろ出社したら、守衛が「どなたでしょうか」と訊く。「今度ここの社長をやることになった土光という者です」と挨拶したものだから守衛は飛び上がったという、いかにも土光らしい逸話もある。
 まずは、深刻な大企業病を治すため機構の簡素化、冗費の削減、責任体制の明確化を徹底的に行うことにした。重役と一般社員の間の風通しがわるいと見た土光は、「社長が雲の上の人であってはいかん」と、朝7時半から1時間、話をしに来る社員のために社長室を開けた。最初はみな遠慮していたが、半年もたつと1時間では足りなくなったという。さらには全国に30以上もある支社・営業所・工場をすべて見てまわった。本社での仕事の合間をぬって夜行で出かけ、夜行で帰るトンボ返り。今まで一度も社長が来たことはなかったという工場もあり、皆から「オヤジ、オヤジ」と歓迎された。
 「会社の組織図は社長をいちばん上に、次に役員、部長、課長と下に書いてあるが、これはいけない。会社は本来、太陽系みたいなもので、太陽を中心にいろんな惑星が自転しながら軌道を描いて回っているべきだ。仕事上では社長も社員も同格である」が持論で、これらすべての指針を率先垂範で示した。
 また公私の峻別ぶりも見事だった。三女立子さんの結婚式が会社の勤務時間中に行われることになり、土光はやむなくそっと会社を抜け出して30分だけ式場にいてすぐに会社に戻ってきたという。たとえ社長であれ、仕事中に私事―といっても花嫁の父だが―での外出はうしろめたいことだった。
 作家・城山三郎が「一瞬一瞬にすべてを賭ける、という生き方の迫力。それが80年も積り積ると、極上の特別天然記念物でも見る思いがする」と評したのは有名だが、わたしには、早朝ひとり「日日新、又日新」と修行僧のごとく自らに言いきかせるかれの姿が目にうかぶ。
 しかし悲しいかな、かつて日本人の中に奇跡のように存在したこの清冽な精神も、世代が替わるうちにすっかり風化してしまったようだ。
 土光はあるときリーダーの条件を問われ、「総理・総裁にしろ、社長にしろ、リーダーに要求されるのは“無私の人”であること」としたうえで、「トップに立つ人物は、自分からトップになるべきではなく、最もトップになりたくないと思っている人がなるべき」と応じているが、まるで正反対のわが国首相ら政界リーダーたち、そして不正会計で信用を失墜させた後輩の東芝トップらの姿を見たら、はたしてどんな顔をするだろうか。
 わたしには、天国の土光さんの慟哭が聴こえてくるのだが…。
  
Text by Shuhei Matsuoka
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2017年09月06日

「子規庵」雑考

 一昨年の夏に上京した際、思い立って「子規庵」にでかけた。
 「子規庵」は正岡子規(1867〜1902)とその母八重、妹律が明治27年から住んだ東京・根岸の家を昭和25年に復元したものである。当時の地名は「上根岸鶯横町」で、鬱蒼と木々が生い茂り、通りも薄暗く家々もまばらで森閑としていたという。まさにうぐいすの鳴き声が聴こえる長閑(のどか)な場所だったのだ。
 現在はというと、最寄り駅はその名もJR鶯谷駅。せっかくの雅名を受け継ぎながら、都内でも指折りの下卑た猥雑な一帯になっている。電車を降りて地図をたよりに歩くと、すぐにラヴホテル街に入ってしまった。間違えたかと地図を何度も確認するが、そうなっているのだから仕方がない。
 怪しげで金ぴかな異空間である真昼間のホテル街を抜けると、忽然としてふるい平屋のちいさな民家が現れる。家のブロック塀に「東京都指定史跡 子規庵」とある。地図は間違いではなかったのだ。
 それにしても根岸という江戸の風情をのこす地名と駅周辺のとびきり下品で無秩序な珍開発の落差にはあきれるが、考えようによっては、この姿こそがエネルギッシュに自己増殖し続けるモンスター都市・東京ならではの一相貌といえなくもない。善し悪しはさておき、この無頓着さ、無神経さこそがまさに、“ずばり東京”なのである。
 土曜の昼下がりだったが、「子規庵」のお客さんはわたしのほか3人。子規の故郷である伊予松山からはるばる来たという中年の夫婦と、文学座の女性ひとり。文学座で子規を主人公に芝居をやる計画があり、取材にきていたのだ(2017年2月に文学座創立80周年記念『食いしん坊万歳!〜正岡子規青春狂詩曲〜』が上演された)。
 説明係のボランティアの男性がひとり居て、子規の病床のあった6畳間の前にわれわれを坐らせて子規と「子規庵」のことを説明してくれる。説明はとても分かりやすくありがたいのだが、反面、じっと独りで子規の病床のあった部屋を眺めていたいという気持ちもあった。あの、半身を少しだけあげてこちらを向いた本人お気に入りの写真。身動きできぬまま激痛に耐えていた子規だが、ふとその写真の子規の方に向かい、話しかけてみたい思いにかられる。
 もし子規の病床に向かい、具合はどうですか、と問えば、こちらをちらりと見て、「どうもこうもない、見てのとおりぞな」と伊予弁でニコリとしそうだが、結核菌が脊椎を腐らせる怖ろしい脊椎カリエスの病魔に魅入られた子規は、想像を絶する地獄のなかにあった。腰などあちこちに空けられた大きな穴から膿がでて苦しむその姿に接したら、実際は気軽に声もかけられないだろう。妹の律が毎朝、膿止めのガーゼを取り替えるのだが、そのときの激痛はすさまじく、あたりかまわず子規は泣き叫ぶ。その声は閑(しずか)な鶯横町に響きわたり、近所の子どもたちは気味悪がってこの家を避けて通ったという。
 「子規庵」の座敷にじっといると、かれの号泣、叫び声、膿の臭いまでしてきそうだ。
 松山市教育委員会が青少年向けに著した好著『伝記 正岡子規』(昭和54年刊)に子規の病床を見舞った古島一雄の残した一文が掲載されている。古島は日本新聞社の記者で子規とともに日清戦争に従軍した同僚である。
 「彼の病床を訪ねたものは、彼が生きているのかと疑うであろう。八年間も日光を受けたことのない青白い顔と痩せにやせた細く長い手とは、まず人をギョッとさせる。生きた木乃伊(ミイラ)があるとすると彼はそれである。ほんとうのミイラはそれほどにも感じないが、このミイラの腰の辺は七か所の大きな穴があいて腐った骨は膿となって常に流れ出ているのである。腰の骨盤は減って、ほとんど無くなっている。脊髄はぐちゃぐちゃにこわれている。そして片一っぽうの肺がなくなり片っ方は七分通り腐っている。頭の毛は抜けている。三十六枚の歯はことごとく黒くなって欠けている。どうしてこれで生きておれるのであろう。ああ、天はなぜにどこまで彼をいじめるのであるか。」
 ジャーナリストの冷徹な筆致は、子規の絶望的な病状を容赦なく描出する。
 だがこんな極限状態にありながら、子規は異常な意志力で俳句、短歌、随筆、評論などを書きまくったのである。横臥したまま書き綴った子規晩年―といっても三十代半ばだが―の『仰臥漫録』『病床六尺』『墨汁一滴』などはその鮮やかな精華で、生きながら腐ってゆく自らの姿をもモチーフにするというリアリズム文学の極致であり、極度の悲惨の中にも巧まざる滑稽とユーモアがあり、読む者はいつのまにか粛然とさせられ、「子規は偉いなぁ」とつぶやくのだ。これらの著作は、近代日本が世界に誇れる文学的偉業といっても言い過ぎではないだろう。
 口語と文語のはげしい乖離や文体の不統一などで未だ国民言語となっていなかった日本語の革新を自らの使命として命を燃やした子規―。現代日本語のまさに黎明期、正岡子規(とその畏友夏目漱石)は、われわれがいま不自由なく使っている日本語の建設者であり、生みの親でもあったのだ。
 鼻をつく異臭と死臭たちこめる座敷の万年床に横臥するのは、肉体をもったひとりの人間というよりは、一個の強靭な意思が生きながら腐ってゆく肉体を纏(まと)った怖ろしくも崇高な姿であった。そして不思議なことに、この救いようのない重病人の家には大勢の人が集まり、その多くが文芸や学問の世界に名を残すことになる俊英たちだった。虚飾をなによりきらい、本質を見抜く明晰と一途さの裏側におおきな温かさを宿していた子規をひとびとは敬愛し、子規もまた生涯の恩人陸羯(くがかつ)南(なん)や夏目漱石、秋山真之などの友人、同郷の後輩や門下生らをこころから愛した。正岡子規とは、そういう人だった。
 この一点だけでも子規の偉さがわかるが、下の忘れがたい逸話を識(し)ったとき、わたしは子規という人の不思議な魅力と稀有な人間力の本源をしっかりとこの目で見たような気がしたものだ。
 伊予松山の後輩、寒川鼠骨が新聞社への就職のことで子規に相談に行った。子規のいる日本新聞社は朝日新聞社にくらべて給料がかなり安い。両社に内定していた鼠骨は迷っていた。すると子規は鼠骨の心情を見透かしたように、「それやア日本サ」と、やや急き込んだ調子で言い放った。
 「人間は最も少ない報酬で最も多く働くほどエライ人ぞな。一の報酬で十の働きをする人は百の報酬で百の働きをする人よりエライのぞな。収入の多寡は人の尊卑でない事くらゐ分つとろがな。
人は友を撰ばんといかん。『日本』には正しくて學門の出来た人が多い、他の新聞社には碌な人間は居ないぞな。アシでも他へ行けば七十や八十圓は呉れるのだが三十圓で『日本』に居る方がいゝと思つてな。
 まあ辛抱おしや。今の内に本をお讀みや。繁華畢竟読書難といふぢやないか。本を讀むのに左程金はいらんものぞな」(寒川鼠骨『子規居士との座談』)
 「子規庵」の前庭にはたくさんの草花が無造作に植えられており、写真で見る実際の子規旧宅をよく再現している。訪れたのがさいわい夏だったため軒先にはへちまもぶら下がっていた。子規の命日を「糸瓜忌(へちまき)」というのはよく知られおり、へちまはいわば子規と「子規庵」のシンボルなのである。
 明治35年9月18日の朝、衰弱しきった子規は痰が詰まり、ごほごほと咳をしながら、律に持たせた画板を無言のまま引き寄せた。律が子規の使い慣れた細長い筆に墨をたっぷり含ませて渡すと、子規は鶴のように痩せた手で受けとって画板の上の紙にやっとのことで辞世の3句を書き、そして力尽きて筆を投げすてた。

 糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
 痰一斗糸瓜の水も間に合はず
 おととひのへちまの水も取らざりき

 翌19日の午前1時、子規正岡常則(つねのり)(通称升(のぼる))はこの家でこときれた。35歳になったばかりだった。
 長いながい看病の果て、母八重は「のぼ(升)さん、サアもう一ぺん痛いというておみ」と、ぽたぽたと涙を落としたという。
 
  Text by Shuhei Matsuoka
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2017年05月15日

天然の無常 〜寅彦と漱石〜

 仕事柄、そして趣味としても本はよく読むが、読書がいつのまにか惰性にながれて集中できないことがよくある。そんなとき、読みさしの本をほったらかして寺田寅彦(1878〜1935)の本を引っ張り出す。かれの随筆は、豊かな教養を背景にした科学的視座に上質の諧謔と洒脱を兼ねそなえており、いつ読んでも味わい深く知的快感に浸ることができるからだ。
 寺田寅彦といえば、やはり夏目漱石との関係があまりにも有名である。
 高知県立尋常中学を卒業後、熊本の第五高等学校に入学した寅彦は、五校の英語教授だった夏目金之助(漱石)と運命的な邂逅をする。漱石から英語と俳句を学ぶなかで漱石の深い教養と人間的魅力にふれ、漱石を心底畏敬し、人生の師として親密な関係をもち続けることになる。このことが寅彦をして、世界的物理学者でありながら文学者としての類まれな素質をも開花せしめるおおきなきっかけになったことは疑う余地がない。
 漱石は五校時代に文部省から英国留学を命ぜられ、3年後の明治36年1月に帰国。そのまま東京に居を構え、第一高等学校、東京帝大の英文科講師としての生活をはじめる。そして帰国からちょうど2年後の明治38年1月、正岡子規の弟子である高浜虚子のすすめで『ホトトギス』に『吾輩は猫である』を発表、この一作により漱石は一躍著名人となり、漱石を慕う大勢の弟子たちが夏目家(通称「漱石山房」)に集うようになる。文豪夏目漱石の誕生である。
 ただ、東京帝大の学生として東京住まいをはじめていた寅彦だけは、俄(にわ)か弟子たちとは明らかに一線を画していた。漱石が無名の英語教師だったころから、多いときは月に何度も家を訪れていたのはただひとり寅彦だけだったし、弟子たちが毎週木曜日に決めて(「木曜会」)漱石山房に集まるようになってからも、寅彦だけは別の日に漱石に会いに行っていた。ふたりの関係は、それほどに特別なものだったのだ。
 少壮の物理学者となった寅彦が『団(どん)栗(ぐり)』などの秀逸な文芸作品を『ホトトギス』に発表しはじめると、漱石はその才に驚愕し、「学問、芸術のいかなる方向に進んで行っても、寺田は将来必ず一流になるだろう」と評したというから、さすがに炯眼である。『猫』の水島寒月、『三四郎』の主人公三四郎や科学者・野々宮宗八も寅彦がモデル化されていることはつとに知られたところで、出不精の漱石は家にやってくる寅彦との会話から小説のヒントや重要なプロットを得ることも多かった。
 そして寅彦のほうは、漱石から俳句だけではなく、「自然の美しさを自分自身の目で発見すること、人間の心の中の真なるものと偽なるものを見分け、真なるものを愛し偽なるものを憎むべきことも教えられた」(『夏目漱石先生の追憶』)、つまり人生のすべてを教わったといっても過言ではないだろう。
 さて、物理学者・池内了氏ほか各界の寅彦ファンが現代に寺田寅彦の偉業を伝える重要な役割を果たしているが、とりわけ6年前の東日本大震災を機に寅彦にふたたび光が当たってきたことは、寅彦ファンのひとりとしてわが意を得たりの感がある。
 寅彦の著作から地震・津波などに材をとった随筆を集め再編集した『天災と日本人』(角川ソフィア文庫)と『天災と国防』(講談社学術文庫)が平成23年に立て続けに出版され、平成26年には寅彦の弟子の物理学者・中谷宇吉郎(「雪は天からの手紙」の言葉で知られる北大教授)の『寺田寅彦の追想』(昭和22年刊)が文庫化され『寺田寅彦−わが師の追想−』(講談社学術文庫)として出版された。出版界にいま、ちいさな寅彦ブームが起こっているのだ。
 寅彦の随筆は、岩波文庫版の『寺田寅彦随筆集』(第1巻〜第5巻)に主要なものは収録されているので皆さんも一読されればとおもうが、上に挙げた“天災”を冠した2冊は吉村冬彦などの筆名で書いた文芸作品ではなく、地球物理学者ならではの卓抜な科学評論集となっていて、阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震など未曽有の災害に見舞われた日本人にはまさに必読書である。
 たとえば『天災と日本人』にある『日本人の自然観』と題する随筆には次のような、はっとさせられる箇所が多い。
 「西欧科学を輸入した現代日本人は西洋と日本とで自然の環境に著しい相違のあることを無視し、したがって伝来の相地の学を蔑視して建てるべからざるところに人工を建設した。そうして克服しえたつもりの自然の厳父の揮(ふる)った鞭(むち)のひと打ちで、その建設物が実に意気地もなく潰滅(かいめつ)する、それを眼前に見ながら自己の錯誤を悟らないでいる、といったような場合が近ごろ頻繁に起こるように思われる」
 これは寅彦最晩年の昭和十年に『東洋思潮』に掲載された文章だが、まったく現代社会そのままであることに驚く。そしていっぽうで、「日本人を日本人にしたのはじつは学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よく続けられて来たこの災難教育であったかもしれない」(『災害雑考』)などと大真面目に云う。
 日本が世界にも稀な多様で美しい自然に恵まれている反面、自然災害の頻発地であるがために、自然の猛威にさからうのではなく、ある種の諦観を深奥に据えて自然を受容しつつ生きるという、いわば「天然の無常」が日本人をして賢い民族たらしめたと寅彦は考えるのだ。
 「思うに仏教の根底(こんてい)にある無常観が日本人のおのずからな自然観と相調和するところのあるのもその一つの因子ではないかと思うのである。鴨長明(かものちょうめい)の方丈記を引用するまでもなく地震や風水の災禍の頻繁でしかもまったく予測し難い国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓(ごぞう)六腑(ろっぷ)に浸(し)み渡っているからである」(『日本人の自然観』)「おそらく日本の自然は西洋流の分析的科学の生まれるためにはあまりに多彩であまりに無常であったかもしれないのである」(同)
 宗教学者の山折哲雄氏は『天災と日本人』の巻末解説で、哲学者・和辻哲郎(漱石門下のひとり)の著書『風土』と比較して「日本の風土を考察するとき、和辻哲郎がその台風的契機を重視して『慈悲の道徳』に着目したのにたいし、寺田寅彦がそこから地震的契機をとりだして『天然の無常』という認識に到達していたことの対照性に、私は無類の知的好奇心を覚えるのである」と結んでいるが、じつはこの寅彦の「天然の無常」観にこそ、わたしは漱石の影響をみるのである。
 たとえば画家・津田青楓にあてた漱石の手紙の一節。
 「世の中にすきな人は段々なくなります。そうして天と地と草と木とが美しく見えて来ます。私はそれをたよりに生きています」
 これが漱石晩年の境地「則天去私」(私を去り身を天然にゆだねる)のエッセンスであり、寅彦にもそのまま引き継がれたと考えていいだろう。寅彦には、長女を産んで間もなく、あっけなくも21歳で世を去った妻夏子への哀惜があり、漱石もまた無二の親友正岡子規の死に追い打ちをかけるように五女雛子を生後1年半で喪う。ふたりには死があまりにも身近にあり、自らの運命を受容せざるをえない無常観とふかい悲しみを共有していたのである。そして、漱石が寅彦に手ほどきした俳句こそは、まさに「天然の無常」を基底にした日本固有の芸術であったのだ。
 じつは寅彦は、漱石が知らぬ者なき文豪となってゆくことを、内心では喜んではいなかったようだ。漱石を客観視するには身近すぎ、思慕しすぎていたのである。
 「先生が俳句がうまかろうが、まずかろうが、英文学に通じていようがいまいが、そんなことはどうでもよかった。況(いわ)んや先生が大文豪になろうがなるまいが、そんなことは問題にも何もならなかった。むしろ先生がいつまでも名もないただの学校の先生であってくれたほうがよかったではないかというような気がするくらいである」(『夏目漱石先生の追憶』)
 土佐が生んだ広大無辺の知の巨人、寺田寅彦―。
 馬鹿のひとつ覚えのごとく「龍馬、龍馬」と騒ぐのではなく、われわれ土佐人は寺田寅彦をこそ誇るべきであり、その寅彦を見出し、寅彦の人間と才を愛し、寅彦を斯界最高峰の知性へと導いた夏目漱石にも、おおいに感謝すべきなのである。

 先生と話して居れば小春哉 (牛(ニュー)頓(トン))  ※牛頓は寅彦の筆名のひとつ
 
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2017年02月03日

「選択の自由」の顛末

 昨年末だったか、テレビの報道番組で訳知り顔のコメンテーターが何気なく喋った内容があまりに衝撃的で、素っ頓狂な声をあげてしまった。
 かれはたしか、こう言ったのだ。
 「マイクロソフト創業者のビル・ゲイツ氏の総資産は、株や為替の動きで毎日1千億円ほど上下し、変動が大きいときはそれが5千億円に達する」
 この天文学的な数字が一個人の資産の、それもたった1日の変動額というのだから、世界一の金持ちというのはまことに気の毒としか云いようがない。よくそんな状態で精神に異常をきたさず日々暮らしていけるものだとおもうが、このテレビ番組から1ヵ月ほどして流れたさらなる驚愕ニュースは、もはや余人の想像をはるかに超えていた。
 フランス通信社AFPの報じたところによると、貧困撲滅に取り組む国際NGO「Oxfam」が次のような内容の報告書を出したという。
 「いま世界人口のうち所得の低い半分に相当する36億人の総資産と、世界でもっとも裕福な富豪8人の資産額は同額である」
 この8人とは、米誌「フォーブス」の世界長者番付上位のアメリカ人6人、スペイン人1人、メキシコ人1人で、この中にはマイクロソフト共同創業者のビル・ゲイツ、SNS最大手フェイスブック共同創業者のマーク・ザッカーバーグ、ネット通販最大手アマゾン・ドットコム創業者のジェフ・ベゾスが含まれているという。
 この国際NGOは、「格差が『社会を分断する脅威』となるレベルにまで拡大している」と警鐘を鳴らしているが、いま地球上の富の偏在は、「格差」なぞという呑気(のんき)な流行り言葉で表せるような、そんな生易しいレベルにはもうないと断じてよさそうだ。
 わたしはこのニュースを見て、シリアやイラクやウクライナなどの凄惨な紛争、難民問題、ISの隆盛と世界中で頻発するテロ、トランプ米大統領の登場、英国のEU離脱、欧米各国の右傾化、ヘイトスピーチの蔓延など地球上で人類が直面しているすべての深刻な社会問題や国際問題がこの異常なほどの富の偏在に起因し、その結果、社会の分断どころではなく、すでにわれわれ人類は第3次世界大戦に突入しているのではないかという暗い直感すら覚えたほどだ。
 そして同時に、わたしの脳裏にある人物の姿が浮かんだ。足尾銅山の鉱毒問題ですべてを擲(なげう)って住民とともに闘った政治家・田中正造を彷彿させるような、顔一面に白鬚をたくわえた老経済学者―。2014年9月に86歳で亡くなった、宇沢弘文氏である。
 氏は戦後日本を代表する経済学者で、アメリカや日本を中心に猖獗(しょうけつ)をきわめる市場原理主義という誤った経済システムが地球環境をおおきく破壊し、富の偏在をとめどなく拡散させることに警鐘を鳴らし続け、「社会的共通資本」を基軸概念とする、人間を中心に据えた新しい経済学の構築を目指し、またその必要性を世に問い続けた人物だ。
 社会的共通資本とは、大気・水・森林・河川・海洋・土壌などの「自然環境」、道路・交通機関・上下水道などの「社会的インフラストラクチャー」、教育・医療・福祉・行政などの「制度資本」という3要素からなる概念で、これらは貧富、人種、地域にかかわらずすべての人が公正・公平に享受できなければならない基本的な要件であるとした上で、優勝劣敗の市場原理をこれらの分野に野放図に導入してはならないとする。社会的共通資本は万人の共有物「コモンズ(Commons)」なのだという考えなのだ。
 わたしなどはきわめて健康的で常識的な理念だとおもうが、しかし1980年頃から世界を席巻してきた「新自由主義(Neoliberalism)」―その本質は徹底的な市場化と規制緩和により人間社会のすべてを儲け(売買)の対象とする “市場原理主義”なのだが―という巨大な妖怪の前で、この宇沢経済学は青息吐息である。
 1980年、アメリカの経済学者でノーベル経済学賞受賞者であるミルトン・フリードマンと妻ローズの共著『選択の自由(FREE TO CHOOSE)―自立社会への挑戦―』(邦訳は日本経済新聞社版)が出版された。経済成長を阻む環境保護運動や消費者運動を批判し、公共セクターの徹底した民営化、聖域なき規制緩和・自由市場化などを説くこの野心的な1冊は世界各国で翻訳され、フリードマンを教祖とする市場原理主義は世界中に輸出されてその信者を生み出してゆく。
 バブル崩壊後の不況に喘ぐ属国・日本はとりわけ格好のターゲットとなり、アメリカの強い意向に従って規制緩和や自由市場化が強力にすすめられることになるが、その最たる例が、ブッシュ政権からの意向を受けた小泉・竹中改革であった。このときから日本は郵政民営化、三位一体改革にとどまらず教育、福祉、医療など最重要な社会共通資本にまで容赦のない市場原理を導入し、いわば商品化してしまったのである。
 たとえば小泉政権時代、新自由主義を信奉する竹中平蔵氏の発案であろう、教育事業の一環として子どもたちに株で儲ける楽しみを教えようと小学校で株式投資の授業をはじめたことが大々的に報じられたが、日本における教育の商品化は、アメリカから直輸入されたこのようなおぞましい洗脳政策とともに進行していったのである。
 ついでに教育関連でいえば、宇沢氏はシカゴ大学経済学部の教授時代、同僚であったフリードマン教授の次のような発言を直接聞いたという。
 「黒人問題は経済的貧困の問題だ。黒人の子どもたちは、ティーンエイジャーのとき遊ぶか勉強するかという選択を迫られて、遊ぶことを自らの意思で合理的に選択した。だから上の学校に行けないし、技能も低い。報酬も少ないし、不況になれば最初にクビになる。それは黒人の子どもがちゃんと計算して遊ぶことを合理的に選択した結果なのだから、経済学者としてとやかく言うことはできない」
 そのとき、ある黒人の大学院生が立ち上がってこう言った。
 「フリードマン教授、私に両親を選ぶ自由などあったでしょうか?」
 これは宇沢氏と経済評論家・内橋克人氏の対談『始まっている未来―新しい経済学は可能か―』(岩波書店、2009年刊)に出てくる挿話だが、このフリードマンと学生のやりとりにこそ、すべてが象徴されていよう。
 もちろん教育ばかりではない。地球温暖化防止策と称してCO2排出権という奇怪な金融商品をつくり出し、市場で売買するという暴挙が世界中で平然と行われているのはご存知のとおり。人類すべての共有財産であるはずの地球環境すらも商品化し、投機の対象とする金融資本家らの抜け目なさと奸智にはあきれるばかりである。
 だがいっぽうで、資本主義社会においては優秀な人がそれだけ儲けるのは当たり前で、それが社会に活力を生み出すのだ、という声も聴こえてきそうだ。これは市場原理主義者たちが金科玉条とする理屈だが、しかしこの異常な富の偏在を見れば、そんな一般論で片付けられる話でないことは明らかだろう。宗主国が植民地を一方的に収奪する帝国主義の構造さながら、法的な歯止めを持たない弱者収奪の仕組みを制度的につくり出す理念こそが新自由主義であり、市場原理主義だということだ。人間の欲望を是とする資本主義社会において、もし社会制度に適正な規制や倫理的規範を設けなければどうなるか、その明瞭な結果が超富豪8人と36億人のニュースなのである。
 「選択の自由」という美名の下、いつのまにか身のまわりのすべてが市場化・商品化され、儲けの対象となり、ほんの一握りの強者による徹底した弱者収奪が合法的に、それもグローバルに行われる―。そんな非人間的で残酷な社会を、われわれは本当に望んだのか。
 余談だが、『始まっている未来』には若い研究者時代の竹中平蔵氏(現在は人材派遣会社パソナグループ取締役会長で安倍政権ブレーン)の驚くべきエピソードも出てくる。すでに著名な学者だった宇沢氏に読んでもらいたいと、竹中氏から自著が送られてきた。ところがその内容は竹中氏ともう一人の研究者とが共同研究を行っていたもので、それを竹中氏は自分だけの研究成果として勝手に本にして送ってきたことが分かったのだ。そのことを宇沢氏は本書で明かし、この剽窃(ひょうせつ)行為は研究者としてはもちろんのこと、人間としてもっとも恥ずべき行為であると切り捨てている。
 むべなるかな、である。
Text by Shuhei Matsuoka
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2016年12月13日

「私立」とはなにか 〜諭吉と鴎外〜

 関西の名門私立大学を出、卒業後に同大学の職員となって学友会などの仕事を続けた知人がいる。かれの愛校心の旺盛さは並大抵ではなく、それはかれの個性であり微笑ましくもある反面、長いことその愛校心を奇異に感じていた。ところが最近、その理由がすこしわかってきた。どうもわたし自身が国立大学出であることと関係しているようなのだ。
 そもそも、私立大学にはすべからく創立者がおり、“建学の精神”が存在する。これは当たり前のことである。ある人が崇高な志をたて、資金をあつめ、勇を鼓して学校をつくる。創立者のつよい思いが独自の校風をつくり、学生や卒業生にもゆきわたる。愛校心を涵養する要素がもともと存在するわけだ。
 いっぽう国立大学に創立者はいないし、その学校ならではの“建学の精神”なぞない。国が国家予算をつかって計画的につくった大学なのだから、これまた当たり前のことである。授業料は優遇されるが、国立大学に「学問の自由」や「大学の自治」が本当に存在するのかすら疑わしいほどだ(安倍政権の強権的で愚かしい国立大学改革を見よ)。
 つまり、私立にくらべ国立(官立)にはそもそも学生や卒業生たちに愛校心の芽生える要素がきわめて希薄で、わたしに愛校心がうすいのは至極当然のことなのだ。そして、くだんの知人の愛校心がすこしうらやましく思えてきた次第。
 そこで、あらためて「私立」というものを考えてみたい。
 私立、とはつまり政府(お上)から独立したもの、ということである。象徴的な例として、ふたりの人物を想起しよう。慶應義塾を興し、維新後は一貫して「私立」を貫き、それを矜持(きょうじ)として生きた啓蒙思想家の福沢諭吉と、軍医で文学者だった森鴎外である。
 福沢諭吉は天保5年(1834年)に豊前国(現大分県)中津藩の下級士族・福沢百助の次男として大坂堂島の同藩蔵屋敷で生まれた。その28年後の文久2年(1862年)、石見国(現島根県)津和野に藩医・森静男の長男として森林太郎(鴎外)は生まれている。
 31歳で幕臣(外国奉行翻訳方)に召し抱えられた福沢は明治維新までに3度洋行して世界を識(し)り、35歳で世界史上まれにみる維新回天に直面する。そしてその衝撃をエネルギーとして慶應義塾でおおぜいの若者に文明のなんたるかを教え、膨大な書物や評論を書いて国民の蒙を啓(ひら)き、日本という国をあり得べき姿に導くことを使命として倦(う)むことなく邁進した、まさに「一身にして二生を経た」人生であった。
 福沢の口癖は、云わずと知れた「独立自尊」である。「一身の独立なくして一国の独立なし」との名言も遺したが、この「独立」こそが日本を一人前の国家たらしめる必須条件であり、福沢の考える「私立」のバックボーンでもあった。
 また福沢は、学問というものは本来、官許のものではなく「私立」であるべきと説き、学者のほとんどが新政府に入って禄を食(は)む姿を難じている。『学問のすゝめ』において福沢は、「今の世の学者、この国の独立を助け成さんとするに当たって、政府の範囲に入り官に在って事をなすと、その範囲を脱して私立するとの利害得失を述べ、本論は私立に左袒(さたん)したるものなり」とし、「無芸無能、僥倖(ぎょうこう)に由(よ)って官途に就き、慢(みだり)に給料を貪って奢侈の資(もと)となし、戯(たわむ)れに天下の事を談ずる者は我輩の友に非ず」とまで云う。
 『学問のすゝめ』とは、福沢が渾身の力で書いた「私立のすゝめ」でもあったのだ。
 福沢の死の翌年(明治35年)に生まれた小林秀雄は福沢の『痩(やせ)我慢(がまん)の説』を引き、「『私立』は『痩我慢』である」(『考えるヒント』文春文庫)と喝破している。これは幕府の重臣でありながら維新後に恬然として新政府の顕官となった勝海舟と榎本武揚の出処進退を福沢が激しく難じた有名な一文だが、「私立」するとは痩せ我慢を通すことにほかならぬことを小林は福沢から学んだともいえる。東京帝大出ながらその後は作家・評論家として「私立」を貫いた小林が福沢につよいシンパシーをもったのも頷けよう。
 では一方の森鴎外はどうか。
 鴎外は郷党の期待を一身にうけて明治10年、東京大学の創立と同時にわずか15歳で医学部に入学し、19歳で卒業した俊秀である。卒業後は軍医としてドイツに官費留学し、のち軍医の最高位である陸軍軍医総監にまで上り詰める。また、類まれな文才にも恵まれ、知らぬ者なき文豪ともなった。
 この鴎外の人生を俯瞰して際立つのは、長州閥との濃厚な関係である。
 津和野は長州に隣接する4万3千石の小藩で、長州のいわば属国であった。鴎外は長州閥が牛耳る陸軍に職をもとめ、敬慕した乃木希典(長州藩支藩の長府藩士)の明治天皇への殉死に衝撃を受けて切腹や殉死に材をとった歴史小説を書きはじめ、さらには歌会などを通じて長閥のトップ山縣有朋ときわめて親密な仲となる。小藩出身ながら出世できたのは山縣あってのことだともいわれる。このように長閥とのふかい関係を背景に国家権力の中枢に入り、軍医として栄達の途を歩みながら、いっぽうで文学者という「私」の部分を持ちつづけ、夥(おびただ)しい数の文学作品や翻訳作品を残したのである。
 高級官吏と文学者という「公」と「私」を一身のうちに抱えた人生は、「一身にして二生を経た」福沢とはまたちがった困難な途であった。山縣が主導したフレームアップとされる大逆事件(幸徳事件)とその後の言論弾圧に対し批判的な作品を書くなど、鴎外はふたつの立場に引き裂かれることにもなる。かれが次のように遺言したことは、それを象徴していよう。
 「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死ノ別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス森林太郎トシテ死セントス 墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラズ 書ハ中村不折ニ委託シ宮内省陸軍ノ栄典は絶対ニ取リヤメヲ請ウ」
 臨終に際し、官僚として栄達をもとめた自らの人生、さらには文学者・森鴎外からもきっぱりと決別し、ただの石見人森林太郎として死ぬことを選んだのだ。日本近代史にのこる、まことに痛切な遺書といわざるをえない。
 福沢諭吉と森鴎外は、親子ほども齢がちがうこともあり、直(じか)に接したことはないかもしれない。だが、福沢の弟子の細菌学者・北里柴三郎(のちに慶應義塾大学医学部を創設)が鴎外ら東京帝大グループと脚気の原因や伝染病研究所設立の件で暗闘を繰り広げてきたこと、北里が第1回ノーベル生理学・医学賞を受賞できなかった背景に鴎外ら東大閥の妨害があったとされることからも、生前の福沢は鴎外に好印象をもってなかったろう。
 しかし鴎外のほうはそうでもなかった。
 『福翁自伝』で福沢が、文章は勇気をもって自由自在に書くべきだが、論難した相手を前にして堂々と言えないようなことは書いてはならない、それは無責任の毒筆だと断じている箇所に鴎外が「感心した」と云ったことが、慶應塾長であった小泉信三のエッセイ(『ペンと剣』ダイヤモンド社)に出てくるし、福沢が亡くなってのち明治43年に鴎外は慶應義塾大学文学科顧問に迎えられ、「三田文学」創刊に携わって自ら編集委員になり、これにいくつかの作品を掲載している。鴎外は文学者として、福沢の「私立」を貫く生きざま、潔さにある種の憧憬の念を抱いていたと思われる。
 ところで、近代日本に名を成したこのふたりの生き方を考えるとき、明治維新を福沢が35歳で迎え、鴎外はわずか6歳だったことを見逃してはならないだろう。
 人生半ばの働き盛りで大転換期を迎えた福沢は自らの出処進退をはっきりとここで決める必要があり、幾度となく政府から請われながら決然として「私立」の途を選んだ。もちろん位階勲等も拒んだ。が、鴎外は日本がすでに近代国家の体を整えつつあったころに東京大学(慶應義塾に対抗して明治政府が設立)を卒業し、長閥のツテを頼りに官途に就いて出世を目指すコースに衒(てら)いもなく乗ったように見える。
 しかし文学者でもあった鴎外に、「私立」しなかったことへの負い目はなかったか。かれの遺言や福沢へのある種の憧憬は、それを暗示しているようにわたしには思える。
 「私立」とは畢竟(ひっきょう)、痩せ我慢することであり、その矜持であり、一身独立の方途である。これは現代の私立大学や企業の経営にも、もちろん通ずることであろう。
Text by Shuhei Matsuoka
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