2012年11月30日

馬場辰猪の「気品」

 日本の近・現代を考えるうえで、明治10年と11年はひとつのおおきな転機、いわば分水嶺といってよい。
 明治10年はいうまでもなく西南戦争の勃発であり、維新最大の功労者・西郷隆盛は薩摩の城山に自刃し、鎌倉幕府開闢(かいびゃく)いらい700年の歴史をもつサムライがこの世から消え、事実上の維新革命は終焉する。そしてこの戦争の最中に木戸孝允が病没し、翌11年5月14日には石川県士族の島田一郎らによって、ときの最高権力者・大久保利通が暗殺される。こうして革命第1世代がわずか1年ちょっとのあいだにすべてこの世を去り、これを境に伊藤博文、井上馨、山県有朋、黒田清隆、大隈重信といった第2世代が実権を握っていく。この時期こそ、「“腕力の時代”から、“弁舌の時代”への転換点」(歴史家・萩原延壽)だったのである。
 このような時代のおおきな転換期に、土佐出身の民権家・馬場辰猪(1850〜1888)は2度目の英国留学から帰国した。明治11年5月11日のことである。
 馬場は、明治3年に土佐藩が最初に派遣した海外留学生(眞邉戒作、國澤新九郎、深尾貝作、松井正水、馬場辰猪の五名)のひとりとしてアメリカ経由でロンドンに渡り、明治7年暮れに一時帰国したが再渡英して都合7年間にも及ぶ英国生活を送った。そして、奇しくも、明治新政府の首領であった大久保が暗殺される3日前に帰国したのである。
 馬場辰猪は、群をぬく英語力と最先端の法学・政治学の知識を獲得した、近代国家建設を担う逸材のひとりと目されていた。くわえて紅顔の美青年であり、卓越した弁舌と俊才を兼ね備えていたのだから、天が二物も三物もを与えた類まれな人物だったといえよう。しかし帰国した馬場は、いっさい官職を得ようとはしなかった−立身出世とは「官途に就く」こととほぼ同義語だった時代であることを心にとめおかれたい−。どころか、自由民権運動が全国で沸騰した時期の理論派リーダーとなり、政府批判の先頭に立ったのだ。かれは『天賦人権論』ほかの著作や多くの論文をものし、その活躍のあざやかさは、まさに一頭地をぬくものとなった。
 ところが晩年(といっても30代後半だが)、自由民権運動の牙城であったはずの自由党、そしてその領袖・板垣退助の政治家としてのお粗末さに絶望し脱党、アメリカに活躍の場をもとめて政治亡命―日本人初の政治亡命者だろう―する。そして38歳のわかさで貧困と病のためやせ衰え、フィラデルフィアで客死するのである。ゆたかな才に恵まれながら、あまりに孤独な、文字どおり非業の死だった。
 
 馬場辰猪は、土佐藩士の家庭にうまれ、藩校・文武館を経て、慶應2年に17才で慶應義塾に入塾する。
 福沢諭吉の興した慶應義塾と土佐との関係は浅くない。わけても三菱を興した土佐人・岩崎弥太郎と福沢とは互いの才覚と志を認め合う仲で、のちに姻戚関係をむすんだほどだ。政商の親玉のような弥太郎と啓蒙思想家の諭吉という組み合わせは意外ともとれるが、徒手空拳で一時代を築いた強烈な個性と叛骨心に相通ずるものを互いが感じていたのである。そして三菱は慶應義塾の経営が厳しい時期に経済的援助を行い、慶應義塾は三菱への人材供給機関の役割を果たしていった。それゆえ、明治期はとくに慶應義塾には優秀な土佐人がおおく入塾した。そのひとりが、馬場辰猪だった。
 ちなみに、岩崎弥太郎は長女の春路を嫁がせようとしたほど馬場を買っていたし―春路はけっきょく加藤高明の妻となり、加藤は三菱財閥をバックに総理大臣まで上りつめる―、フィラデルフィアで馬場が病死したとき、ペンシルベニア大学病院に駆けつけた数人の日本人のうちひとりが同大学に留学中だった岩崎久弥(弥太郎の長男)であったことも因縁めいている。
 馬場は福沢の興した慶應義塾の、芝新銭座時代の最初期の秀才だった。福沢は馬場の8回忌(明治29年11月2日、谷中墓地)での追弔辞―犬養毅が代読―の中でこう回想している。
 
 今を去ること凡そ三十年、馬場辰猪君が土佐より出て我慶応義塾に入学せしときは年十七歳、眉目秀英の紅 顔の美少年なりしが、此少年唯顔色の美なるのみに非ず、其天賦の気品如何にも高潔にして心身洗うが如く 一点の曇りを留めず、加うるに文思の緻密なるものありて同窓の先輩に親愛敬重せられた。
           ・・・(中略)・・・
 君は天下の人才にして其期する所も亦大なりと雖も、吾々が特に君に重きを置て忘るゝこと能はざる所のも のは、其気風品格の高尚なるに在り。学者万巻の書を読み百物の理を講ずるも、平生一片の気品なき者は遂 に賤丈夫たるを免れず。君の如きは西洋文明の知識に兼て其精神の真面目を得たる者と云う可し。
 
 いかに福沢が馬場を愛惜したかは、追弔辞とはいえ、この手放しの賛辞でもよくわかる。福沢は馬場の英才のみならず、かれの高尚なる「気品」をことのほか評価していたのだ。
 じつは福沢はこのころ、講演などでしきりに「気品」という言葉を口にしていた。明治も半ばをすぎると慶應義塾も盛名をえて大所帯になったが、反面、学生たちの中に芽生えつつある精神のマンネリズムを福沢は感じはじめていた。そしてそのことへの戒めとして、「気品」という言葉を使うようになっていた。愛弟子であった馬場の「気品」が福沢の意識にはっきりとあったことは、疑う余地のないところだろう。
 たとえば明治29年11月1日、つまり馬場の8回忌の前日、63歳の福沢は芝の紅葉館で慶應出身者を前にこんな演説をおこなっている。

 我党の士に於て特に重んずる所は人生の気品に在り。抑(そもそ)も気品とは英語にあるカラクトルの意味に して、人の気品の如何は尋常一様の徳論の喋々する善悪邪正など云う簡単なる標準を以て律る可からず。況 (いわん)んや法律の如きに於ておや。固より其制裁の及ぶ可き限りに非ず。恰も孟子の云ひし浩然の気に等 しく、之を説明すること甚だ難しと雖も、人にして苟も其気風品格の高尚なるものあるに非ざれば、才智技 倆の如何に拘はらず、君子として世に立つ可らざるの事実は、社会一般の首肯する所なり。

 福沢はこの演説の1年後、大阪の慶応義塾同窓会でも「我が党の士に於て重んずるところは、人生の気品にあり」と述べ、翌31年に出版した『福翁自伝』も、「私の生涯の中(うち)に出来(でか)してみたいと思うところは、全国男女の気品を次第々々に高尚に導いて真実文明の名に恥ずかしくないようにすること」という一文で締めくくっているほどだ。
 ところで、福沢のいう「気品」とはそもそも何なのだろうか。
 福沢自身も「之を説明すること甚だ難し」と云っているが、「立国は私(わたくし)なり、公に非(あら)ざるなり」という有名な書き出しではじまる福沢の『瘠我慢の説』がひとつのヒントになるとわたしは思っている。福沢はこの論文を明治24年11月27日に脱稿したが、10年近くも篋中(きょうちゅう)に秘め、明治34年元旦の時事新報紙上ではじめて公表した。徳川幕府の重臣でありながら恬として恥じることなく明治新政府の顕官となった勝海舟と榎本武揚の出所進退をはげしく批判した一文で、しかるべき地位にある人物ならば、瘠我慢をしてでも筋を通さなければいけないという福沢の思想背景を明瞭にしめしたものだ。
 福沢がこの『瘠我慢の説』を脱稿した明治24年11月のちょうど3年前に、愛弟子の馬場辰猪はアメリカで客死している。馬場は、ある意味では福沢以上に福沢精神を体現した人物であり、生涯にわたり野(や)にあって、一貫した政府批判者としてそのみじかい生を閉じた。この馬場の思想信条をまげぬ狷介で凛乎(りんこ)たる生き方に、福沢は勝や榎本にない「ノブレス・オブリージュ(身分のある者の果たすべき重責)」をみたのではないか、つまり瘠我慢とはノブレス・オブリージュであり、それが福沢のいう「気品」というものだったのではないだろうか。

 さて、明治29年11月2日の谷中墓地―。
 フィラデルフィアの馬場の墓を模した西洋風の墓石の前にはおよそ140人が集まった。弟の馬場胡蝶(文学者・翻訳家)ら家族、そして福沢諭吉、小幡篤次郎、田口卯吉、中上川彦次郎、大石正巳、犬養毅ら慶應、三菱系の人士に交じって、同郷の盟友・中江兆民の姿もそこにあった。土佐藩留学生として馬場にすこし遅れて欧州にわたりフランスにまなんだ兆民中江篤介も、三歳年少の馬場を心から敬愛し、その才と「気品」を愛惜したひとりだった。
       Text by Shuhei Matsuoka
posted by ノブレスオブリージュ at 14:08| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする