2013年05月16日

タカクラ・テルの仕事

 先日、高知市内の書店で『日本の名著』(中公新書)という本を購入した。
 1962年に初版が発行され、このちょうど50年後に当たる2012年10月に出た改版である。本としては旧(ふる)いので昔買って自宅のどこかにある可能性もなくはないが、パラパラとめくってみてあまりにおもしろそうだったのだ。
 そして帰宅して読んでみれば案に違(たが)わず、枕頭においては毎夜の愉しみとなったのだが、哲学者・梅原猛氏の簡にして要をえた解説が帯に添えられているのでこれを引けば中身は察してもらえるだろう。
 「この著書は京都学派のリーダーの桑原武夫氏が、明冶以来現代までの日本の名著五十冊を選び、私を含めて氏の最も信頼する学者十五人に論評させたものである。そこには全盛期の京都学派の広く深い知識と批判精神がキラキラ光っている。名著を論じた名著というべきであろうか」
 福沢諭吉『学問のすゝめ』から丸山眞男『日本政治思想史研究』まで、日本の近現代を代表する名著(小説を除く)50冊がならぶ。執筆陣の豪華さ、そして選択眼と諭評の鋭さではちょっと類がないほどで、多少なりとも知的好奇心をお持ちの方はぜひ手元においてほしい一冊だが、そのことはさておき、この本に紹介されている50冊の著者の中に、3人の土佐人がえらばれている。中江兆民『三酔人経綸問答』、幸徳秋水『廿世紀之怪物帝国主義』、そしてタカクラ・テル『新文学入門』である。
 前記ふたりとその名高い論文についてはだれしもが納得するであろう。が、タカクラ・テルとはいったい何者なのか。この『日本の名著』で多田道太郎が論じるタカクラの『新文学入門』を読んでわたしは少なからずショックをうけ、タカクラ・テルなる人物におおいに惹かれるようになった。次の一文は『新文学入門』(1952年、理論社)からの引用である。
 
 文学の作品わ、書くのわ、作家だが、けっきょくは、全読者大衆・全民族が作るものだ。だから、大衆  化ということが、文学のこんぽんのもんだいで、これおはなれて、文学のもんだいお取りあげれば、かな  らず、本質から、それてしまう。
 これまで、文学のもんだいわ、おもに、作品と作家お中心にして、取りあげられた。これわ、さか立ち  した文学論で、文学論わ、すべて読者のもんだいから、出発しなければならないものだと、わたしわ、二  十年ほど前から考えるよーになった。

 断るまでもないが、これはわたしの写し間違いでも変換ミスでもない。こんな不思議な文章にわたしはついぞお目にかかったことはなく、読者諸氏もそれは同感ではないか。さらにタカクラは、日露戦争後にプチブル層が大きくふくれあがり、かれらが夏目漱石という「文壇外」の作家を呼び寄せたとしてこう述べる。
 「ソーセキの人物が、教師であるか、学生であるか、あるいわ、卒業生であるか」ということは「彼の作品が、おもに、そーいう新興プチブル層のあいだで、読まれたという事実お、何より雄弁に、語っている」
 まったくするどい指摘というほかないが、なによりも、この一冊を近代の名著50冊にいれた碩学・桑原武夫の慧眼にはいまさらながら感服である。

 タカクラ・テルは本名を高倉輝豊という。1891年(明治24年)に高知県高岡郡口(くち)神川(ごうのかわ)にうまれ、その後、幡多郡七郷村(ななさとむら)浮(うき)鞭(ぶち)(現大方町)に一家は移り住んだ。中学は愛媛の宇和島中学へ、そして京都の第三高等学校、京都帝国大学文学部へとすすみロシア文学、言語学などをまなんだ。その後も国語国字問題を研究し、独自の日本語文体をも開発した。カタカナの筆名や先にあげた一風変わった文章にその特徴はみてとれるだろう。
 テルは卒業後学究の途をえらび、京大で嘱託職員として勤務していたが、やがて文筆の才に目覚め、劇作家・小説家になる決意をする。そしてロシア革命や河上肇の影響もあり、次第に社会の下層で抑圧されつづける無産階級の農民や労働者とともに闘う文学者・活動家となってゆく。インテリ文学青年が社会運動に投じる姿は明治末期から昭和にかけての日本のひとつの風景でもあったが、テルは凡百のインテリ青年には及びもつかぬ過酷な道を自らえらんで歩みはじめるのだ。
 大正10年、哲学者の土田杏村が、労働をしながら学べる民衆のための学校「信濃自由大学」を創設するやこれに共感し、長野県沓掛星野温泉に移り住み土田と活動をともにするようになる。そしてこの信州時代に、精力的に小説を書きはじめる。テル自身の言葉を借りよう。
 
 わたしは、三つの系統的な長編の創作計画を立てていた。『高瀬川』、『百姓の唄』、『狼』がそれ   で、『高瀬川』では、わたしが京都で実際に見た、勤労(生産)から完全に浮きあがった階層(いわゆる  「上流階級」)のくさりはてた生活を、『百姓の唄』では、農村にはいって初めて知った、当時の農民の  じつにひどい生活と、その出身の女工の、たたかう方法を知らない所からくる、この上なくみじめな悲劇  を、『狼』では、実際に階級闘争をやっている労働者・農民の新しいひどい苦しさと、しかし、そこに初  めてさしている新しい希望を、それぞれ具体的に描こうと企てた。(『狼』あとがきより)
 
 わたしが百万語を弄するより、これを読めばテルの志したものがわかろう。
 しかし長野での充実した日々はながくは続かなかった。『狼』を書いた翌年の1932年(昭和8年)に、「2・4事件」(教員赤化事件)と呼ばれる思想弾圧事件が起こり、テルは検挙され、家族は東京に移送される。そしてはげしい拷問をうけながらも1年半におよぶ獄中生活を耐えぬき、保釈後に自身の代表作ともいえる『大原幽学』『ハコネ用水の話』(のち『箱根用水』と改題)を書き上げるのだ。
 しかしその後も当局の弾圧ははげしさを増し、テルは思想犯として生涯4度も投獄されることになるが、かれにとって忘れようにも忘れえぬできごとが敗戦の前年に起こる。昭和19年に八王子での農業指導を赤化運動だと疑われ投獄されたテルは警視庁正門から脱走し、哲学者三木清宅にかくまわれたことで三木は検挙され獄死するのである。テルはこのことを生涯悔やみ、心にふかい傷を負ったといわれる。
 敗戦後、テルは正式に共産党に入党し、長野県から立候補して衆議院議員、ついで昭和25年に参議院議員に当選するが、翌日にマッカーサー書簡によるレッドパージで議員追放となる。そして翌年、かれはついに日本を捨て中国・ソ連へ亡命、8年間の亡命生活をおくることになるのだ。ちなみに亡命の年に名作『箱根用水』と冒頭で紹介した独創的な『新文学入門』が理論社から発行されたが、保守的な文壇からは当然のように黙殺された。
 昭和34年(1959年)4月、68歳のテルは長い亡命生活にやっとピリオドを打ち、プラハから帰国。その後はさいわいにして長命し、昭和61年に94歳でその壮絶な生涯をとじた。大方町浮鞭には横書きで「タカクラ」とだけ書かれた墓があり、その下にテルはやすらかに眠っている。かれは生前、色紙をたのまれると、好んでこう書いたという。
 <あらしは つよい木を つくる>
 まことにタカクラ・テルらしい、凛呼たる一言だ。

 それにしても、土佐の辺境に生を享けた輝(テ)豊(ル)少年はなぜにタカクラ・テルとなりしか。
 テルの父輝房は僻村や離島をめぐる篤実な医師で、わかいころ自由民権運動の洗礼をうけ、貧乏人からは薬代をとらなかったという理想主義者だった。学費がつづかず高知医学校を中退し、正式な医師ではなかったため一家の生活は苦しく、テルの母も養蚕や馬車引きをして働いた。タカクラ・テルとは、近代化の影に捨ておかれ、あるいはその犠牲となっていった明治期の貧しい民衆社会がうみだした、一個の高貴で強靭なる魂だったのだ。
 選者に特別な意図があったわけではないだろうが、『日本の名著』にえらばれた土佐人3人の著者名をあらためてならべてみると、はっきりとした一筋の思想的潮流がみえてくる。
 自由民権運動の理論的指導者で日本に民主主義思想の種を蒔いた先覚者中江兆民、兆民の弟子として社会改革の緒についた矢先に「大逆事件」で刑死した社会主義者幸徳秋水、そして4度の投獄と非道な弾圧にも屈せず文学者・社会運動家として独創的な仕事を遺したタカクラ・テル。やはりここには、桑原武夫の巧緻な仕掛けが隠されているとみるべきなのか。
 『日本の名著』の初版発行から半世紀、いまやイデオロギーの時代は幕を閉じ、ひとびとは暖衣飽食をむさぼり、あたりまえのような顔で自由を謳歌する。しかし、身命を賭して真に民主的な社会の建設を志した郷土の先人らの血のにじむような営為を、すくなくともわれわれ土佐人は忘れるべきではないだろう。
       Text by Shuhei Matsuoka
posted by ノブレスオブリージュ at 19:39| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする