2013年07月13日

土佐人として

 正直にいうと、わたしは高知という土地があまり好きではない。 
 いや、これは正確ではないかもしれない。高知にうまれ育ったわたしにとって、両親を好きか嫌いかで表せないのと同様に、この地はいわば体の一部のようなものであり、そうであるがゆえに、人がだれしも自己愛と自己嫌悪を併せもつように高知にもそのような感情をもっているという意味においてである。
 わたしは、高校卒業と同時にこの地を離れ、京都、大阪、東京、そして海外にも暮らし、40代に帰郷した。いわゆるUターンだが、ふるさとに帰ったものの、わたしには高知県人に戻ったという感覚はなく、十数年経ったいまでもエトランゼの気分でいる。つまり、生まれ育った高知に完全に同化してはいないということだ。
 ところが、ある言葉の前では、わたしの感情はすこし昂ぶる。自分自身が溶解し、この地に同化してしまうような感覚を味わうことになるのだ。
 それは、「土佐」という一言である。
 この旧(ふる)い呼称はいうまでもなく明治維新をもって正式(行政的)には消え、「高知県」に変更されたわけだが、あらゆる分野で現実には存在し、使われている。藩政時代の呼称をこれほど頻繁かつ堂々と使っている県は他にはないだろう。
 そこで劈頭(へきとう)の一文だが、これを「わたしは土佐という土地が好きである」と言い換えてみることはできる。これならばしっくりくるし、わたしもエトランゼではなくなるのだ。峻険な四国山脈と太平洋に挟まれ、くわえて一国一藩による均質性がつくりあげた独特な気質と風土性が「土佐」という言葉に濃厚にのこっているためだろうか。
 さてこのたび、わたしは『風聞異説』というタイトルの本を上梓した。本誌『季刊高知』に長年連載している同名のエッセーを中心に、わたし自身のブログに書いた評論などをくわえてまとめたもので、42編の物語が収録されている。
 もともと連載を頼まれたとき、季刊誌なのであまり時事的な内容は入れられないとおもい、幕末から明治、大正期ごろまでの「近代」に材を取ることにした。土佐人がおおいに活躍した時期であり、知られざる傑物や立派な人物を多く輩出しているのでなんとか続けられると判断したからだ。そして、見開き2ページという紙幅ではあるが、たんなる身辺瑣事ではなく、リーダブルな(読むに値する)ひとつの物語に仕上げることを自らに課した。それが果たして成功しているかどうかは読者の判断に委ねるしかないが、それなりに時間と労力を費やし、力を入れて書いてきたつもりでいる。
 そう、もうひとつ付け加えておかねばならない。この連載をはじめたとき、考えたことがあった。それは、少々不遜かもしれぬが、土佐人である読者の皆さんに、海のような凛呼たる誇りと真夏の雲のようなあかるい希望を持ってもらいたいということだった。
 明治新政府が東京を首都に決めて統一国家建設を目指したとき、西洋列強から容易に侵されぬ強固な国家像を漠然とだが描き、その実現のために選択した方法が東京を核とした「中央集権システム」だった。これは近代国家建設の初期には効率的で効果的な手法であったが、それが戦後日本にまでそのまま引き継がれ、さらに極端な姿となって現在の社会、文化、さらにはひとびとの精神にまで幣をおよぼす結果をまねいた。なんでもかんでも東京から発信され、地方は価値観まで押しつけられ、いわれなき劣等感にさいなまれる。そんなバカなことがあってなるものか。そう、わたしは考えたのだ。
 そして、ふたたび劈頭の一文に戻ろう。
 わたしは、高知が本当に好きなのか?そう自らに問うた。そして「東京」に対応する「高知」は、べつに好きではない。東京に対していない、そのくびきからフリーな「土佐」を好きなのだ、そう感じたのだ。そしてその土佐に、誇りを持とうではないかとおもったのだ。そのひとつの手段、きっかけとして、わたしはこの連載「風聞異説」をはじめた。拙著『風聞異説』をお読みいただければ、土佐と土佐人にたいする既成の概念が揺らぎ、心の中で何かが変化するものと、多少なりの自負はしている。(「季刊高知49号」<単行本『風聞異説』発売記念エッセー>)
      Text by Shuhei Matsuoka
posted by ノブレスオブリージュ at 14:52| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする