2013年08月21日

”法王”と呼ばれた男

 三菱財閥を興した土佐人・岩崎弥太郎の名はだれもが知っているが、岩崎の右腕として三菱の基礎を築き、のちに第3代日銀総裁として辣腕をふるい“日銀の法王”と呼ばれた川田小一郎(1836〜1896)を知るひとは案外にすくないようだ。
 明治末期に北海道にわたって新種のジャガイモ「男爵イモ」(川田男爵から名づけられた)を広めた息子の川田龍吉の方がむしろ知られているのかもしれないが、父小一郎の人物は息子とは比べものにならぬ巨(おお)きさである。
 川田小一郎は、坂本龍馬がうまれた翌年、天保7年(1836年)8月に土佐郡旭村(現高知市旭町)に郷士川田恆之丞(つねのじょう)の二男として生を享けた。藩政時代の小一郎についてはあまり記録も残っておらず無名だったが、明治維新の動乱がかれの名を世に出すことになる。
 慶應4年1月、小笠原唯八を隊長とする土佐藩兵が官軍として伊予松山征伐に赴き、川田小一郎率いる一隊が別子銅山を接収した。このとき住友の大番頭だった広瀬宰平が川田の下を訪れ、「銅山は住友の私有財産であり、生産銅を幕府に献上してきただけです。住友家は勤皇の志篤く、わたくしに従来通り銅山をお任せくだされば、生産量を大幅に増やして国家にお尽くしいたします」と必死に懇願するのである。川田は広瀬の熱意に感じ入り、ふたりで大阪へ赴いて太政官に家行継続を申し入れ、住友へこれを返す許可を得ることができたのだった。
 住友財閥のその後の隆盛はひとえに川田のこの決断にあったといって過言ではなく、住友家と広瀬はその後もながく川田を大恩人として敬い、別子産銅で寿像を建立して顕彰した。また川田がのちに三菱で鉱山経営に才を発揮する素地は、この広瀬との邂逅によってうまれたといってよい。
 そしてこの2年後、明治3年暮れに川田小一郎はある男と運命的に出遭う。岩崎弥太郎である。
 小一郎より2歳年長の弥太郎はこの年の10月に小参事にまで出世し、土佐藩大坂藩邸の代表者となっていた。そして小一郎が藩命により大坂藩邸勤めになったことではじめて弥太郎と出遭ったのだ。
 才にとみ豪放磊落(らいらく)を絵にかいたような二人はまたたくまにうち解け、明治4年の廃藩置県で土佐藩が消滅するや弥太郎は「俺は海運会社をやる、一緒にやらないか」と川田を誘う。そして土佐藩時代から引き継いだ海運商社「九十九(つくも)商会」を「三川(みつかわ)商会」(川田小一郎、石川七財、中川亀之助の三川を合わせて命名)という名の私企業として明治5年にあらたに発足させ、明治6年に正式に弥太郎が代表となって三菱商会と改名する。このときが、現三菱グループの創業といえるだろう。
 川田の三菱での活躍ぶりは凄まじく、石川七財とともに弥太郎の右腕として事業の拡大に奔走する。海運業にくわえ、紀州炭鉱、吉岡銅山、高島炭鉱といった鉱山の経営を成功に導いたことで大財閥への道をひらき、最大の懸案だった三菱汽船と共同運輸との合併(日本郵船会社となる)にも心血を注いだ。総帥の岩崎弥太郎が臨終の際、「事業のことは委細川田氏に聴け」と言い遺したことでも、川田の存在がいかにおおきかったかが分ろう。
 明治18年、岩崎弥太郎は胃がんを患い、52歳で死去。弟の弥之助が三菱の総帥となるや、小一郎は50歳で自らの地位を荘田平五郎にゆずり、金十万円をもらってあっさりと三菱から身を退く。その後は楽隠居の身となり、土佐に帰って遊んだりしていたが、明治22年に初代大蔵大臣の松方正義から請われて第3代日本銀行総裁に就任する。金融にあかるいわけではなかったが、三菱時代の辣腕と盛名を買われての抜擢だった。そして29年11月に死去するまで7年間にわたり君臨し、“日銀の法王”と呼ばれ畏れられた。
 川田小一郎の日銀時代のエピソードは枚挙にいとまがない。
 総裁でありながら株主総会以外には日銀に出勤せず、重役や局長を毎日私邸に呼びつけて指示を出していたという逸話は有名だが、部下のみならず大蔵大臣すら呼びつけたというからそのワンマンぶりは凄まじい。
 福沢諭吉の婿養子で電力界で名を馳せた福沢桃介はこんな逸話を紹介している。
 明治20年、初代首相の伊藤博文は憲法草案をつくるため、子分の伊東巳代(みよ)治(じ)、金子堅太郎、井上毅(こわし)を連れて夏島(神奈川県)の料亭「東屋」にこもって準備作業をしていた。そこに一日、川田が伊藤を訪ねてきた。このとき川田は興にのって、伊東巳代治の体重が16貫あるかないかで伊藤と賭けをやった。実際に計ってみたところ、はたして川田の勝ちとなり、伊藤は平身低頭で謝ったという。ほんの遊びだろうが、一財界人の川田が総理大臣(それも初代!)と五分のつき合いをしていたことを物語るエピソードである。福沢桃介は「渋沢(栄一)、大倉(喜八郎)などでも伊藤、山県に対しては米搗(こめつき)バッタも同様で、全く頭が上がらなかった。然るに独り川田に至っては、幇間然たる挙動など微塵も無く、伊藤、山県と同格のつき合いをやり…」「明治二十九十一月、六十一歳を一期として死ぬるまで、威張って威張って、威張り通した傑物」(『財界人物我観』)と評している。
 しかし川田小一郎は、ただ威張るだけの漢(おとこ)ではなかった。
 かれの真骨頂は、藩閥や門閥などには目もくれずに人物を見抜き登用する点にあった。川田は芸者遊びも人後におちなかったが、自らを“男道楽”と称したほどで、朝野を問わず英才を探しだしては要職に就けて日銀の基盤を強固にしていったのだ。
 その好例が、ペルー銀山事件で尾羽打ち枯らしていた高橋是清(当時39歳)を拾い上げたことだろう。
 日本政府がペルーの廃坑銀山を掴まされた詐欺事件で、特許局長を辞してペルーに渡った高橋は私財を投げ打って文無しになったばかりか、世間からペテン師扱いされ落魄していた。当時、大蔵次官だった田尻稲次郎が「高橋のようなヤマ師を日銀に入れたのはけしからん」と放言したことを聞きつけた川田が怒り、夜中の1時に田尻の家に乗り込んで「拙者、見るところがあって高橋を採用した。監督官たる貴公がこれに異議あるとなれば、拙者も総裁を辞める」とねじ込み、陳謝させて一札を入れさせたエピソードは有名だ。
 高橋是清―。のちに日銀総裁、大蔵大臣、総理大臣にまで栄達する逸材は、名伯楽・川田小一郎あってのものだった。炯眼で剛腹な川田は、初対面の高橋にいきなり山陽鉄道の社長のポストを薦めてかれをあわてさせた。中上川(なかみがわ)彦次郎が三井へ移ったのでその後釜にすえようとしたのだが、当時の山陽鉄道といえばいまのJR西日本にも匹敵する大会社だ。高橋はしかしこれを分不相応として断り、ペルー銀山事件で名を落とした身、丁稚奉公からやらせてほしいと頼むのである。
 川田はますます高橋にほれこみ、当時建築中だった日銀本店ビルの建築所事務主任(日銀正社員でなく嘱託)で雇う。月給百円の安サラリーマンである。川田小一郎総裁の下には、安田財閥総帥の安田善次郎が建築担当重役として座り、技術部長(設計者)が建築家の辰野金吾、その下に高橋是清が配属されたわけだから、のちの世からみればなんとも贅沢な布陣である。
 余談だが、“日本近代建築の父”とも称され、東京駅などの設計でも知られる建築家辰野金吾は、生地の佐賀唐津で高橋の英語の教え子だった。先生が、教え子の下に就いたのだから辰野はさぞやりにくかったろうが、高橋はまるで意に介さず辰野を上司として立て、工事を無事完成に導いた。高橋是清の、非凡さをうかがわせる挿話のひとつだ。
 さて川田小一郎だが、日銀総裁として日清戦争時代の財政処理、戦費調達に貢献し、その功により男爵に叙せられる。これはかつての主家・岩崎家の授爵よりも早い。また明治23年には帝国議会開設と同時に貴族院議員に勅選され、明治29年11月7日、一代の傑物川田小一郎は日銀総裁現職のまま61歳でこの世を去る。
 近代日本に資本主義を根づかせた、“日本の創業者(ファウンダー)”のひとりだった。
       Text by Shuhei Matsuoka
       単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
posted by ノブレスオブリージュ at 14:03| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする