2013年10月09日

中内功と金子直吉

 土佐国矢井賀村(現中土佐町)の郷士の倅で、明治の世になってのち、青雲の志を立て商都大阪に渡ったひとりの男がいた。
 名を中内栄といった。
 栄は大阪医学校を出て家庭をもち、その後、一家をあげて新興都市の神戸に出、眼科医として働くようになる。当時はトラホームが流行していて、眼科医はひっぱりだこだった。
 栄の息子秀雄も父親の影響からか医療の世界に興味をもち、大阪薬学専門学校を卒業して薬剤師となる。そして大正5年、神戸を拠点に三井・三菱と肩を並べるほどの大企業グループに躍進していた鈴木商店に就職し、グループ会社の石鹸工場に勤務するようになった。薬学の知識が活かせる仕事だったからだが、鈴木商店の経営トップ・金子直吉が土佐の出で、社員に土佐人が多かったことも理由のひとつだったろう。だがその後、石鹸工場が業績不振となり退社、秀雄は大阪にもどり西成区で小さな薬局を開く。
 この頃、大正11年8月2日、両親の猛反対を押し切って結婚した秀雄に、待望の長男が生まれた。異郷の地で辛苦のすえ一家を興した祖父の栄が、「功(いさお)」と名付けた。「力」という字の上に突き出た部分を下に押し込め「刀」として、力が抜けないようにしたという。のちに日本最大の巨大流通企業グループとなるダイエーの創業者、中内功の誕生である。
 大正15年、功が4歳のとき一家はふたたび神戸に出、父秀雄は「サカエ薬局」を開いた。屋号は祖父の名からとった。功のあとに男の子3人が次々と生まれて家族も6人に増え、1階に店舗と台所、2階に3畳と5畳の和室だけという三角地に建つ小さな家で、貧しさに耐えながら一家は肩を寄せ合うようにして暮らしはじめた。
 功は幼少期、青少年期を神戸のこの家で過ごし、昭和18年に20歳で徴兵される。満州からフィリピンへ転戦、凄絶な飢餓戦線を生き抜いて復員した功は戦後、神戸三宮で薬の闇商売をはじめ、大阪に出て薬問屋「サカエ薬品」を出店。そして昭和32年、小売こそ天職と定め、薬品を中心に化粧品や日用雑貨も売る「主婦の店ダイエー」を千林に出店する。大阪の「大」と祖父の「栄」からその名をとったというこの30坪の店から、ダイエーの奇跡的な快進撃がはじまることになる。
 その後、功はスーパーマーケットを日本で初めてチェーン展開し、数十年で売上高3兆円超、社員数6万人を擁する日本最大の流通グループに成長させ、まさに立志伝中の人物となってゆく。しかしバブル崩壊後、1990年代に入ると無理な拡大路線と多角化がたたり経営不振が顕在化、2001年には実質的破綻が明らかとなり、300社を超える巨大企業グループを一代で築き上げた中内功はついにダイエーグループから追われることになる。
 その中内が、ダイエー破綻が現実味を帯びはじめた2000年1月に日経新聞「私の履歴書」に連載をはじめ、世間を驚かせたことがあった。カリスマといわれ、かれに関する幾多の本や記事が書かれ、しかし自ら筆を執ることのなかった伝説的経営者の渾身の自伝はおおくの読者を獲得し、日経新聞を裏から読む人が増えたといわれたほどだ。同年12月には連載は『流通革命は終わらない−私の履歴書』(日本経済新聞社)として出版された。
 著書の冒頭で中内はこう述べている。
 「生まれは大阪、育ちは神戸だ。祖父の代までは土佐に住んでいたので、土佐の血が流れているのかもしれない。戌(いぬ)年生まれで土佐とくれば、闘争心おう盛な『闘犬=中内』と連想されそうだが、それより海から受けた影響の方がずっと大きい。…(中略)…祖父から受け継いだ土佐特有の海洋性の明るさに、自由で開放的な港町神戸で一層磨きがかかり、元気の源となっている」
 じつはわたしは、連載をはじめたこの時期の中内の脳裏には、5歳の時(昭和2年)に倒産した地元神戸の鈴木商店と金子直吉が存在したのではないかと思っている。
 土佐の吾川郡吾川村(現仁淀川町)に生まれた金子直吉は、新興都市神戸の一介の砂糖商だった鈴木商店を大番頭として日本最大規模の巨大企業グループ(総合商社)へと発展させた。同社は明治末期から大正期、「スエズ運河を通る船の一割はスズキの船」といわれるほどの隆盛をきわめたが、金子ワンマン体制と急激な拡大路線などがあだとなり、昭和恐慌で倒産。のちの神戸製鋼所、日商岩井、石川島播磨重工業、帝人、サッポロビールなど錚々たる企業群の母体となった鈴木商店はあっけなく消滅してしまう。土佐の血が流れる中内の父も一時鈴木商店に雇われていた。そしてその息子、功がつくり上げた巨大流通企業ダイエーは中内が日経新聞に自伝を連載しはじめたころ2兆数千億円という天文学的な負債をかかえ、すでに破綻の危機に瀕していたのである。
 じつは中内自身は阪急グループの創始者小林一三を畏敬しており、そう公言して憚らなかった。阪急電鉄、阪急百貨店、宝塚歌劇団、東宝をつくり上げた大物実業家・小林一三の事業理念を中内は学び、踏襲しようともした。しかしこのふたりは、経営者としてはまるでタイプが違った。山梨の豪商の家に生まれた慶応出のスマートな合理主義者に、中内にある異常なほどの野心や闘争心、果てもない飢餓感はなかった。むしろ中内には、三井・三菱なにするものぞと、大いなる野望と闘争心で日本制覇を目論んだ土佐出身の金子に相通ずるところがあった。
 その中内が、自伝の最後に、慟哭のごとき悲痛な一言を書き遺している。
 「四十年間、楽しいことは何もなかった。これからもそう感じることはない。私の戦争はまだ終わっていない。野火が、心の中で燃え続け、心を焦がす」
 戦友のほとんどを失った地獄のフィリピン戦線から幽鬼のごとく蘇った男は、まるで別人となって戦後の産業界に突如として現れた。存在感のうすい地味で目立たぬ生真面目な青年を、戦争が一匹の鬼に変貌させたのだった。その鬼は、餓鬼道の修羅のなかを脇目もふらず疾駆していった。そして敗軍の老将となっても、戦いをやめようとはしなかった。
 『カリスマ−中内功とダイエーの「戦後」』(佐野眞一著、日経BP社)の中に、中内のうちにある信じがたいほどの“餓鬼”の実相を、あるダイエー幹部が語る場面がある。
 「あれほど、物欲が強い人はいません。ホテルに泊まると、備品のタオルや洗面用具をあらいざらいもち帰る。飛行機に乗るとコーヒーをかきまわす小さなマドラーまで忘れずもっていく。一度“あなたも今や日本を代表する企業の大社長なんですから、そんなみっともないことはやめたらどうですか”と、やんわりたしなめたことがありました。けれど、“いや、このクセだけはなおらないんだ”といって、とりあってくれませんでした」
 身中に巣食うおぞましいほどの強欲と得体の知れぬ狂気に、中内自身も手を焼いていたのかもしれない。
 中内功は、『流通革命は終わらない−私の履歴書』を出して5年後、平成17年(2005年)に83歳で死去した。私財を投じて創設した神戸の流通科学大学に行った帰りに立ち寄った病院で倒れ、意識は戻らぬままだった。田園調布の自宅も芦屋の別宅も差押えとなっていたため、亡骸(なきがら)は大阪市此花区の中内家一族が眠る正蓮寺にそのまま移送され、近親者だけで密葬を済ませた。産業再生機構入りし再建中だったダイエーは、ファウンダー(創業者)中内功の社葬を行わなかった。
 金子と中内には、あまりにも共通点がおおい。土佐人の金子も、自身に流れる土佐の血を誇りにした中内も、ともに新開地神戸で事業を興し、憑かれたように事業拡大に狂奔し、日本制覇どころか世界制覇を目指した。そしてともに天才的事業家で超ワンマン、強烈なカリスマ性があった。死ぬ思いで育て上げた巨大企業グループはしかし最後に破綻し、ともに孤独で惨めな最期をむかえた。
 金子直吉の死去から60年後、中内功はカリスマでも鬼でもない一介の老翁となり、しずかにこの世を去った。
     Text by Shuhei Matsuoka
    単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
posted by ノブレスオブリージュ at 11:39| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする