2014年03月11日

吉田茂の「勘」

 昭和のワンマン宰相、とは手垢まみれの野暮な表現でいやだが、吉田茂(1878-1967)という政治家を語るうえの枕としては便利な言葉ではある。
 土佐・宿毛出の自由党土佐派のリーダー竹内綱は、東京の芸者(氏素性は不明)に産ませた五男を友人の実業家・吉田健三に養嗣子としてやった。これがのちの吉田茂だが、東京うまれの神奈川育ちであるかれは生涯にわたり、土佐という土地にほとんど興味をもたなかった。衆議院選挙に立候補するにあたり、神奈川か高知のいずれを選挙区にするが得策か考えていたとき、親戚筋にあたる林譲治から「神奈川だったら冠婚葬祭全部いかなくてはならないけれど、高知なら遠いからそんなことをしないですむ」と言われ、父綱と兄竹内明太郎の地盤だった高知全県区から立候補したに過ぎない。
 もともと外交官で政治家になる気なぞなかった茂にとって選挙は嫌でしかたがない。演説も苦手、自己宣伝は大嫌いという男なのだ。三女和子(現副総理兼財務大臣・麻生太郎の母親)の手記『父 吉田茂』(光文社)には、「東京は神田の生まれでほんとうの江戸っ子だと威張っていたのが突然高知から立つことになり『滑稽だよね、にわか高知県人になっちゃうんだから』と自分で笑っていた」とある。選挙のため不承不承で高知に来たときも、壇上でただ「吉田茂です」とだけしか言わないような珍種の政治家でもあった。高知に立派な銅像まで建っていることを、天国の本人ははたしてどう思っていることか。
 ところで吉田茂の一般的なイメージは、外交官出身、元老牧野伸顕(大久保利通の次男)の女婿、敗戦直後の占領下日本の総理大臣、サンフランシスコ講和条約締結、バカヤロー解散、ワンマン、葉巻と白足袋、傲岸不遜…。和製チャーチルとも称されたが、講和条約締結以降は大衆からもマスコミからも受けがよくなく、7年間にわたった首相在任最後の支持率は20%程度に下がり、あっさり引退して大磯に隠棲した。
 しかし吉田は引退してのちに評価が上がりはじめ、そして不思議なことに、亡くなってからさらに大衆人気が高まった。有史以来はじめて他国に占領された敗戦国日本の舵取りを担うという仕事の過酷さと困難さがひとびとに理解されはじめ、同時に、大衆に媚びず、絶対権力者として君臨したマッカーサーと堂々と対峙し、強靭な精神力で祖国を復興させた功績、先見性、そして深い教養にひとびとが気づいたからだ。
 たとえば吉田が引退後に著した回顧録『回想十年』(全4巻、新潮社)や最晩年の著書『激動の百年史』(白川書院)などを読めば、かれの教養が並みの政治家では及びもつかぬレベルにあることがわかる。とりわけわたしは『激動の百年史』を評価したいが、この名著の序文にちょっとおもしろい一文が記されている。
 「…また、日本は太平洋戦争という大失敗も犯したが、全体としては激しい国際政治の荒波のなかを巧みに舵をとってきた。しかし、それは日本人のすぐれた『勘』のたまものなのである。とくに明治の指導者たちはすぐれた『勘』をもっていた。だから私は事あるごとに『勘』の必要性を説いてきたのである」
 わたしはかつてこの一文を読み、不思議な感覚にとらわれた。「勘」という意外な言葉−。「勘に頼る」「ヤマ勘」という言い方があるように、ふつうは根拠のない当てずっぽうという意味に使われるからだが、どうやらかれのいう「勘」はすこし趣が異なる。経験、知識、歴史観などに裏打ちされたするどい感性、英語のsenseという意味のようである。つまり、すぐれた「勘」とは、good senseということになる。
 あらためて吉田茂関連の本を調べると、かれがいかに「勘」を大事にしたかが窺える。吉田の随筆集『大磯随想』には「外交と勘」という一章をもうけているし、前出の『父 吉田茂』には「『マッカーサーというのはたいへんにカンのいい男だ。頭もいいし、カンもいい』というのは、いつも父がいっていたことです。昔から、「カンのわるいやつだ」というのは、父の最大級のけなし言葉でした」とある。白洲次郎を通して知り合い、吉田に可愛がられた作家・今日出海の『吉田茂』(講談社)には「強い個性と勘で押しまくって来た吉田を…」「私は吉田を勘の鋭い人だと屡々言った」「元帥は吉田の明治人的骨っぽさと直情と勘を信頼したのであろう」等々、きりがないほど出てくる。そういえば同書に、大磯で吉田と会った小林秀雄が “吉田は天才”と言った話が出てくるが、小林の卓越した批評眼が吉田の類まれな「勘」をしてそう評せしめたとすれば、なかなかおもしろい挿話である。
 さてここで、吉田のするどい「勘」が奏功した水際立った一例を引いてみよう。
 終戦後の東西冷戦激化のなか、日本の処遇をめぐって、ソ連など共産圏を含めた全面講和か連合国との単独講和かで国内外の世論が二分して前に進まぬ状況が続いていた。これを打開するため、昭和25年4月、吉田は子飼いの池田勇人蔵相を訪米させ、密かに単独講和への道を探った。GHQには「経済・財政事情の見学」と嘘の報告をしてワシントンとの直接交渉に打って出たのだ。苦痛と忍従を余儀なくされたオキュパイド・ジャパンから一日も早く脱し、独立国とならねば日本の生きていく道はない。これは吉田の信念だった。そして、天も吉田に味方した。池田訪米の2ヶ月半後、金日成率いる北朝鮮軍が韓国に突如として侵攻、朝鮮戦争が勃発したのだ。これにより反共の砦として日本をはやく独立させるべきとの機運がアメリカ(及び連合国)側にもうまれ、昭和26年9月7日、ついに敗戦国日本に比較的寛大なサンフランシスコ講和条約の締結にこぎつける。
 その後、この華やかな政治的成果をピークとして次第に大衆もマスコミも長期政権に飽きはじめ、造船疑獄などの汚職事件も起こり、さまざまな非難を一身に受けて吉田は退陣するが、日本人が飢えと貧困から脱して誇りを取り戻し、世界中が瞠目した奇跡的な経済復興を遂げることができたことをおもえば、吉田ドクトリンがまちがっていなかったことは明白だろう。国を想う明治人の気概と、大衆から理解されずとも頑固一徹に邁進する勇気なくして、廃墟と化した祖国を復興に導くことは不可能だった。そして、史上前例のない国難のなかで吉田が頼りにしたのは、外交官として培った国際感覚と歴史観、そして自らの「勘」だったのである。
 吉田茂は、実父竹内綱の出身地・土佐には、残念ながら縁遠かった。しかし、そんなことは当たり前のことだし、どうでもよいことである。吉田の筋をまげぬ一徹さや世評に左右されぬ凛然たる姿に、本人が意識せずとも、実父から受け継いだイゴッソーの血をわれわれはみることができるからだ。
 そして養父母の存在も忘れてはならない。養父吉田健三は越前福井藩士の出で、幕末にイギリスの軍艦で同国に密航して2年間にわたり彼の地で西洋の知識を得、維新後はジャーディン・マセソン商会の横浜支店長として辣腕をふるい、のちに独立して数々の事業を成功させ財をなした俊才である。40歳で早世したが、いまの金額で数十億円に相当するともいわれる遺産を受け継いだのが、わずか10歳の茂だった。いったい何に使ったのか壮年期までに遺産のほとんどを蕩尽したらしいが、さいわい茂が養父から受け継いだものはカネだけではなかった。また、養母の士(こと)子は『言志四録』で知られる幕末の儒学者佐藤一斎の孫娘で、この聡明な養母からもおおくのことを学んだ。
 吉田茂は、いまとまれば、不世出の政治家であったことがわかる。戦後の政治家で、かれに並ぶ者は皆無である。昭和53年に日本橋三越本店で「生誕百年記念 吉田茂展」が開催され全国から大勢の客を集めたが、そのような政治家が昭和の時代に存在したことすら不思議な気がするほどだ。
 では、吉田茂は凡百の政治家とどこがちがうのか?
 そりゃ君、「勘」だよ。天国で吉田はニヤリとして、そううそぶくにちがいない。ただ惜しむらくは、吉田の美質を見事なほど受け継がなかった孫麻生太郎の「勘」がわるいこと。これはまあ、お祖父ちゃんのせいでもあるまいが。
        Text by Shuhei Matsuoka
        単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html

posted by ノブレスオブリージュ at 13:31| Comment(2) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする