2014年09月14日

或る革命家の笑顔

 日本における最初の写真(銀板写真)は嘉永元年(1848)にオランダから長崎に渡来し、当地の御用商人・上野俊之丞が日本人としてはじめて写真術を導入した。息子の上野彦馬は日本初の写真店「上野撮影局」を長崎で開業したパイオニアとして知られ、このスタジオでブーツを履いた立ち姿の坂本龍馬(龍馬像のモデル)や散切り頭の高杉晋作、木戸孝允など多くの志士たちが撮影された。
 はげしく時代が動く慶応年間には長崎、大坂、京都、江戸、横浜、箱館といった大都市に写真屋が次々と開業し、明日の命の保証もない侍らが己の姿をこの世に遺そうとこぞって写場へ足を運ぶようになる。幕末は、まさに一大写真ブームの時代でもあった。
 その幕末写真のなかに、一度見たら忘れられない印象的な一枚がある。土佐脱藩浪士、中岡慎太郎の笑顔の写真である。
 さながら休憩中の時代劇俳優かと見紛う現代風なワンショットだが、撮影は京都の祇園に店を構えていた大坂屋与兵衛こと堀与兵衛の写場、撮影日は慶応2年11月24日であることもわかっている。龍馬とともに暗殺される1年ほど前のことだ。帯刀せず脇差だけの正座した秀麗の志士が、片手を顎から頬に当て、白い歯を見せてにっこり微笑んでいる。中岡の右手に坐る人物は何かで削られて判別できないが、これは写場専属モデル(お茶屋の芸妓や女中のアルバイト)で、慎太郎の恋人"おらん"ではない。慎太郎の膝には女性モデルの袖の一部が掛かっているので妙な艶っぽさも漂う。
 じつはこの写真の原版が、奇遇にもNHK『龍馬伝』が放映されていた2010年7月に富山市で見つかった。これを保管していた人物は龍馬の付き人だった峰吉の子孫で、峰吉の死後、妻キンは富山に移り住み、彼女の遺品として代々受け継がれてきたという。最初から右側の女性は削られていたらしいが、当時の湿板写真は薬品を塗ったガラス板(原版)の上に画像を焼き付けているので、その気になれば脇差などで簡単に削れる。
 峰吉は慎太郎と龍馬が暗殺された日にも一緒に近江屋に居たが、龍馬が「軍鶏(しゃも)を食いたい」と言いだし、峰吉が買いに出かけている間に事件は起こった。慎太郎は斬られる前にこの写真原版を峰吉に預けていたことになる。
 龍馬は恋人のお龍とふたりで平然と京の街なかを歩いたほどの“現代人”だが、一方で「われわれ脱藩の者は女性と一緒に写真を撮ってはならぬ」ということもいい、そのような写真が後世に残ることを嫌った。龍馬が磊落(らいらく)の反面に細心さを併せもっていたことがよくわかるが、慎太郎が写真の女性を削ったのは龍馬の忠告を受けたからではないかと、幕末史に詳しい作家宮地佐一郎は中岡慎太郎生誕150年記念講演で述べている。
 いずれにしろ、当時の写真技術では露出時間が数十秒から短くて十数秒といわれ、その間は微動だにできない。したがってどの写真も人物は不自然に緊張した仏頂面に写っており、笑顔の写真がないのはそのためである。なぜ中岡だけが仏頂面ではなく、こぼれるような自然な笑顔で写っているのか、そもそもなぜそれが可能だったのかは分からないが、これこそが日本初の笑顔写真だといわれるゆえんである。そして後世のわれわれが中岡慎太郎という非業に斃れた俊英の素顔を垣間見ることのできる、まことに貴重な一枚でもある。
 
 さて、その中岡慎太郎という人物である。
 中岡の最大の功績は、なんといっても薩長双方から信望をあつめ、ついに両藩の連合を実現させ、一気に討幕への道筋をつけたことである。こう言うと、いやそれは坂本龍馬ではないかという声が聴こえそうだが、じつはそうではない。
 脱藩して長州で活動していた中岡が長州軍の隊長として戦った禁門の変(長州軍は会薩連合軍に破れ京都から敗走)の数ヵ月後の元治元年(1864)11月、薩長両藩が和解し手を結ばねば維新革命はできないという着想をすでに語っている文章が残っている。京での戦(いくさ)のあと石川清之助(当時の変名)こと中岡慎太郎は命からがら長州へ逃げ帰り、そこから仇敵同士である薩長の連合、そして長州派の三条実美と薩摩派の岩倉具視という両実力公家の提携に奔走するのである。そしてその仕上げの時期に薩摩に顔のきく先輩格の龍馬を押したて、肝心の薩長連合締結の場には中岡(このとき九州太宰府に居た)ではなく龍馬が立ち会って朱の裏書をすることになる。そのため後世、龍馬ひとりが薩長連合の立役者のようになり、小説や演劇の主人公としてもて囃され大英雄になってしまった。
 しかし、中岡同様に土佐藩を脱藩した長州派で、慎太郎と龍馬の双方を知悉する田中光顕(中岡亡きあとの陸援隊長)の伝記『伯爵田中青山』には、はっきりとこうある。
 「思ふに坂本と中岡とは車の両輪の如く、長短相補ふて終(つい)に能(よ)く薩長連合の大仕事を仕遂(と)げたが、若(も)し活動の実質より言へば中岡の功遥(はる)かに坂本の上にある事は史家の認むる處(ところ)であるけれども中岡は君子だけに其(そ)の表面の役者としては坂本を推(おし)立てたものである」
 名利をもとめぬ慎太郎が龍馬に功を譲ったために、のちの世に龍馬の影に隠れるようになってしまったのは歴史の皮肉である。
 そしてもうひとつ見逃せない点がある。武力討幕でしか維新回天はありえないことを確信していた中岡は、佐幕派の勢力が依然強く日和見姿勢を崩さない土佐藩を説くため、慶応元年暮れに「時勢論」という有名な論文を書いている。
 この中で中岡は世の傑物として薩藩の西郷隆盛、長藩の桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞を挙げ、薩英戦争と馬関戦争というふたつの攘夷戦争によって両藩は大勢を一新して強力な国づくりを成しており、天下を獲るのは必ず薩長であると述べている。
 「吾思ふに天下近日の内に二藩の命に従ふこと鏡に掛けて見るが如し。…今日の敵国外患、他日より見候へば天下の名灸(めいきゅう)と相成り候へば、実に天下の大功之に過ぎ申さずと存奉り候」(平尾道雄著『中岡慎太郎』白竜社版より)
 近いうちに薩長二藩の天下が来る、その姿が鏡に見えるようだといい、武力による西洋列強からの圧力も後の世から見れば最良のお灸だったとわかるだろう、というのだがらすごい。高杉や久坂との交流から時代の趨勢をこの時期すでに読みきり、後世の眼で見通している若干27歳、おそろしいほどの炯(けい)眼(がん)である。
 そしてこの中岡の卓説はついに板垣退助を動かし、土佐藩の舵を一気に討幕へと切らせる。板垣隊は鳥羽伏見の戦いの2日目になんとか間に合い、土佐はのちに薩長に次ぐ地位を築くことができたのである。慎太郎の才と功をよく識(し)る板垣が「もし慎太郎が生きておれば大久保利通や木戸孝允と肩を並べる明治新政府の指導者になっていたであろう」と最大級の評価を惜しまなかったのも頷けよう。
 一方、龍馬は後藤象二郎と結んで大政奉還を実現させたが、武力討幕には難色を示していた。その龍馬の甘さに、先の見える中岡は切歯扼腕していた。暗殺当夜もそのことで激論となり、迂闊にもしのび寄る刺客に気づかず、剣の達人ふたりがあっさり斬殺されたとみる歴史家もある。中岡絶命の報を受けた岩倉具視は、「自分は片腕をもがれた」と声をあげて哭(な)いたといわれる。
 
 さて、中岡慎太郎を語るうえで忘れてならぬのが、安芸郡北川郷という山間部の農民出身である点だ。中岡家は名望家の大庄屋として苗字帯刀をゆるされていた農民郷士で、慎太郎は北川郷柏木の生家から田野の郡校まで7、8キロの山道を毎日歩いて通い、このころ田野に剣術指南で出張していた武市瑞山に遇(あ)って感化された。そしてのちに武市を慕って高知城下へ出、文武両道の鮮やかな秀才に育ってゆく。高知城下の裕福な商人郷士の出で、学問はないが近代的合理性の萌芽が生まれながらに具(そな)わっていた龍馬とは対照的である。
 慎太郎は庄屋の跡取りでありながら故郷(くに)を棄て国事に奔走した。が、いつも北川郷の農作物の出来を気にかけ、そのような内容の手紙を家族にあて書いていた。柚(ゆず)を植えることを農民らに奨励し、北川郷を日本屈指の柚産地にしたのもかれの功績だと伝えられる。
 眼光するどく人を説いて時代を動かしていった剛毅の反面に、あのさわやかな笑顔に見られる質実さとやさしさを宿した稀有の革命家であった。
    Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html

posted by ノブレスオブリージュ at 08:55| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする