2015年03月15日

3つの遺書

 高知のような辺境の県に住んでいると、大都市生活では見えにくい日本の構造的欠陥を目の当たりにして、うんざりすることがすくなくない。地域社会がシンプルだからこそでもあるのだが、擦(す)れっからしのわたしでも驚嘆のあまり言葉をうしなうほどである。
 たとえば、檮原町出身の友人が言うには、檮原にはいま小中学校が1校あるきりだが、かれが子どものころ、なんと小学校だけで9校もあったらしい。ちょっと信じがたい数字なので檮原町役場に確認してみたところ、41年前の昭和49年3月まではたしかに9校ありました、という。町の人口はこの間、およそ半分に減っている。この国の異常なほど急激な経済成長と工業化が農山漁村の若者を吸いあげ、土石流さながら都会へ押し流していった様子がはっきりと見てとれる。
 かつて土佐のチベットと揶揄された檮原だが、いまや立派な道路が整備されて便利になった、しかしふるさとは休耕田や耕作放棄地が広がる一方で、商店も学校もなくなり、うしなったものはおおきいとかれは嘆息する。司馬遼太郎が絶賛した見事な千枚田や雲の上のホテル、温泉、プール、龍馬脱藩の道なども整備され、環境分野でもけっこう頑張っている優等生の檮原町にしてそうなのだ。
 さて、ここで話はすこし外(そ)れる。
 過日、戦後の世相を調べる必要があり大手新聞社発行の浩瀚(こうかん)なムック本『戦後50年』をなにげなく開いたところ、たまたま出てきたのが1968年(昭和43年)のページだった。47年前といえばわたしは小学6年生、当時の新聞記事やニュース写真を懐かしい思いで眺めていると、隅っこに奇妙なタイトルが目にとまった。
 おわびの入水自殺−。
 この年の1月28日、奈良県大和郡山市の通称「下池」で、44歳の母親と73歳の祖母が腰ひもで体をしばり合って入水自殺したという記事だった。長男の工員(19)がこつこつ貯めた金で買ったばかりの小型乗用車を運転中、過ってバイクと衝突、バイクの2人が即死、後ろからきた被害者の弟が失明する事故を起こし、補償問題がこじれた挙句に工員の母と祖母が自殺したのである。そして、つぎのような遺書がのこされていた。
 「大切な息子さんの命を奪い、ほんとうに申し訳ございませんでした。なにひとつさせていただけず、ただ、口ですみません、すみませんといってばかりですからみなさまのお心もおさまらぬことと思います。鬼や畜生とも思われましたでしょう。でも私にはもうどうにもできません。卑きょうとは思いますが、死んでおわびをいたします。私ぐらいが死んでなにになるかとおしかりのことと思いますが、私のせめてもの気持ちです…」
 このちいさな事件の記憶はないが、わたしはこれを読んで感慨にふけっていた。明治や大正の世ではない、ほんの47年前、息子の罪を詫びるために母と祖母が極寒のなか腰ひもで結び合って入水自殺したのである。
 断言してもいいが、このような人たちはいまの日本には存在しない。この半世紀のあいだに、日本人に何がおこったのだろうか。
 ため息混じりに見開きページ全体を眺めていると、右下に見覚えのあるマラソンランナーの姿を見つけた。東京オリンピックの銅メダリスト、円谷幸吉だった。円谷が自殺したのも、この年の1月9日だったのだ。記事にはあの有名な遺書が掲載されていた。
 「父上様、母上様、3日とろろ美味しうございました。干し柿、もちも美味しうございました。敏雄兄、姉上様、おすし美味しうございました。勝美兄、姉上様、ブドウ酒、リンゴ美味しうございました。巌兄、姉上様、しそめし、南ばんづけ美味しうございました。喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。幸造兄、姉上様、往復車に便乗さして戴き有難うございました。モンゴいか美味しうございました。正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。…(中略)…父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れきってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が休まる事なく、御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。幸吉は父母様の側で暮らしとうございました」
 わたしは息をするのも忘れてこれを読み了(お)え、そして、はっとした。この遺書も、わずか47年前のものなのである。
 わたしは、なにかに背中を押されるように、あわててほかの記事を目で追った。昭和43年は東京・府中での3億円事件、東大安田講堂闘争など大事件が多発した戦後史を代表するような一年であったことに改めて驚いたが、ひとつ気になる事件の記事と写真が目に入った。この年の2月、金嬉老事件が起こっていたのである。
 在日朝鮮人の金嬉老は静岡で暴力団員2人をライフル銃で射殺し、寸又峡の旅館に13人の人質をとって立てこもり警察に自ら通報、そして在日朝鮮人に対する警察の暴言と殺害した暴力団員がいかに悪道非道を働いていたかを公表してほしい、その後はダイナマイトで自殺する、と要求した。けっきょく人質はすべて開放したが、4日後に金は記者に扮した警官に取り押さえられた。犯行は一見凶悪だが、金嬉老に世間の同情も寄せられた心にのこる事件で、子どもだったわたしにも微(かす)かな記憶はある。
 公判の最終陳述で、金はこう述べたという。
 「日本の戦争に協力し、それにかり出され、それに協力してその傷跡を背負って、いまなお日本の社会のなかで安定した職業もなく生活の保証もなく、日本のなかでギリギリに生きている、そういう同胞たちのことを深く深く考えてやっていただきたい」
 ムック本には金嬉老が立てこもった部屋の壁の写真も掲載されていた。ライフル銃が立てかけられたその壁に、金は大きな字で遺書を書いていたのだ。
 「罪もない此の家に 大変な迷惑を掛けた事を心から申訳なく思います 此の責任は自分の死によって詫びます お母さん 不幸を許してください」
 わたしは偶然にも47年前に書かれた3つの遺書にふれ、このころの世相に懐かしさを感じつつも、つよい喪失感をおぼえたのだった。そして、この年がちょうど明治百年にあたることにも気がついた。日本が西欧列強からの圧力を受け、維新革命がおこり、封建国家から近代国家へ一歩を踏み出したのが1868年。ちょうど百年を経たこのころの日本には、卑しさのない、真っ当な精神(こころ)をもった日本人(金も当然そのひとりだ)がまだおおぜい存在していたのである。
 ほんの数十年前、日本中の農山漁村には相当おおくの人びとが住み、小中学校もたくさんあった。どの村やまちにもなにがしかの商店街があり、八百屋や魚屋や雑貨屋があって人びとの暮らしを支え、地域コミュニティがしっかりと形成されていた。だからこそ、人様に迷惑をかけない、いわゆる恥の文化が存在していたし、貧しくはあったが人のこころに健康な精神が宿っていたのである。しかしこれらは、いつの間にか雲散霧消してしまった。
 どうやら、ここ数十年のあいだに日本全土を蹂躙した経済至上主義−俗な言葉でいえば拝金主義−というブルドーザーが、たいせつなものどもを根こそぎ持ち去ってしまったような気がする。われわれはまったく無自覚のうちにどこか驕慢になり、節度をうしない、もともと具(そな)わっていた質実さを著しく毀損してしまったようだ。むろん、グローバル経済という怪物が地球上をわがもの顔に跋扈(ばっこ)するいま、これは多かれ少なかれどの国にも見られる現象でもあろう。が、日本ほど矯激で、常軌を逸した例は稀有のはずだ。
 この国の津々浦々で、檮原のようなうつくしいまちや村が知らぬ間に痩せ細り、その多くが消えつつある。そのことと、この半世紀のあいだにおこったただならぬ日本人の変容は完全に軌を一にしているように思える。
 47年前の3つの遺書が、ことの重大さをしずかに語りかけている。
      Text by Shuhei Matsuoka
      単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html

posted by ノブレスオブリージュ at 09:15| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする