2015年09月19日

遍路考

 数年前から四国八十八ヶ所巡拝をはじめた大阪の知人(土佐市生まれ)が、来年6月の65歳の誕生日に結願するという。病をえたことが巡拝のきっかけだったようだが、一度に歩き通すわけではないにしろなかなかの健脚だ。先だって高知市内の札所巡拝のおりに再会したが、本人はいたって元気、病も毒気をぬかれて退散したにちがいない。
 四国八十八ヵ所巡りはいまでこそ観光資源として脚光を浴び、かれのようなごくふつうの人びとが国内だけなく海外からもやってきて巡拝を行うようになったが、お遍路には一昔前まではかなり暗いイメージがつきまとっていた。わたしの世代だと、子ども心に暗くおそろしい記憶とともにある。
 ある日の昼下がり、家の門前で突然、鈴の音と念仏を唱える声が聴こえはじめる。もうそれだけで子どもは戦慄するが、家の誰かが気づき、「あら、お遍路さんじゃ」と言いながらそそくさと小銭やら米を包み、それを手渡す役を子どもにさせたりする。早く渡さなければ念仏は永遠に終わりそうにない気配なので大人たちは小走りでことを済ませようとするが、子どもは大人たちのそのような非日常の立ち振る舞いや表情、どこか呪術的な異界の気配にそこはかとない恐怖をおぼえるのだ。
 お遍路さんは菅笠の奥でかるく会釈してお布施を受けとると、念仏もほどほどに次の家のほうに向かい、家の者たちも、なにごともなかったようにやりかけの家事に戻る。「死」の使いがなんの前ぶれもなく突如やってきて、頼みもしないのに玄関先で唱える念仏の気味わるさ、そして汗や埃で薄汚れた白装束のうえにのった菅笠の奥の顔が見えない怖さ。平穏な日常が一瞬静止し、彼岸と此岸の境目に白装束がふいに立ちあらわれ、ほんの数分ののち鈴の音とともに何処(いずこ)かへ去ってゆく一幕の白日夢だった。
 今年で四国霊場開創1200年というからその歴史はふるいが、「御百度を踏む」などの言葉もあるように、ひたすら無心に歩く行為そのものが祈りに通ずると信じられたことから、開祖である弘法大師空海を慕う仏徒らの修行道となった。そして江戸期になると一般民衆の間にも流行(ひろが)り、お伊勢参り、金比羅参り、善光寺参り、西国三十三ヵ所巡礼などとならぶ有名な巡拝ルートのひとつになっていた。
 むろん、ふつうの庶民が全行程360余里(約1,450km)もある巡礼の旅に出るには、それぞれに云うにいわれぬ事情があったろう。不治の病に冒された者、不具の身に生まれた者、心の苦しみをかかえた者、故郷を追われた者、そして罪人も紛れ込んでいた。霊場巡りを生涯の生業(なりわい)とした乞食遍路も少なくなかったようだ。江戸初期には「『へんろ』『かんじん』『せぎょう(施行)』『へんど(辺土)』『ぜんもん(禅門)』など、仏徒とは名ばかりの、おびただしい零落者のむれとなり、あてどなく山野をさまようようになっていったのである」と『日本残酷物語 第一部−貧しき人々のむれ−』(平凡社)にある。これは全国的な乞食遍路の流行を指しているのだが、辺土(辺境)の地、四国の霊場巡りは、江戸期を経て明治期の廃仏毀釈という愚挙をかいくぐって生き延びた八十八寺(札所)の歴代住職ら関係者の努力によってそっくり現在にまで遺った貴重な姿なのである。
 四国霊場巡りという長途の旅程はつまるところ、仏徒の托鉢修行の場であり祈りと信仰のみちであると同時に、零落の世捨人が物乞いしつつかろうじて生きてゆける救済システムであり、あるいはどこかで行き倒れて死ぬための黄泉(よみ)のみちでもあった。いつ野垂れ死んでもお大師さま(弘法大師)のもとに行けるよう死装束を纏(まと)うのはその証しである。そういえば、松本清張の『砂の器』には子連れのハンセン病患者が遍路となって流浪する姿が描かれていたし、失明を苦にして紀州から四国巡礼の旅に出、長浜・雪渓寺門前で行き倒れたわかいころの山本玄峰老師の話を本コラムに書いたこともある。
 しかし一方で、遍路と地元民との交流がさまざまな文物を流通させ地域に根づかせた歴史があったことを忘れてはならない。四国霊場巡拝にはもともと呪術的、宗教的で「死」を想起させる暗いイメージがある反面、四国固有のゆたかな「遍路文化」とも呼べるものがあったのだ。これらのことは史料としてはほとんど存在していないが、地域にはさまざまな言い伝えとして遺っている。
 高知平野の村々では近年までヘンドマイ(遍路米)、ヘンドボウズ(遍路坊主)、ヘンドシンリキ(遍路神力)と呼ばれる稲が栽培されていた。遍路に出た土佐人が、他国の路傍にある実りのよい稲穂を見つけるとそっと二三本を抜き取って頭陀袋にいれて持ち帰ったものが種もみとして広がったものだという。逆に、土佐に来た他国の遍路が田植えの方法などの農業技術を伝えたという話も数多い。漁業技術を遍路が伝えたという例もあり、たとえば紀州からやってきた岡田八太という遍路が安芸の浜でカモメが群れ飛ぶ姿を見てよい漁場だとみてここに住み着き、八太網漁としていまにその名を残している。幡多地方に残る三角式大敷網漁法も江戸期に長門(現山口県)からきた遍路が伝えた漁法だといわれる。
 そのほか、医療技術ではお遍路灸、お大師灸、お遍路鍼などの名が残っており、行き倒れた他国の遍路がお礼にそれらの技術を残してくれたという言い伝えが県内いたるところに残っている。また産業分野では稲生の石灰がよく知られる。江戸後期に下田村稲生(現南国市稲生)で行き倒れた阿波の徳右衛門という遍路が、介抱してくれたお礼に築窯法と製造法を地元に伝え、この技術のおかげで石灰生産は明治以降、土佐の主要産業となってゆく。徳右衛門はその後いったん阿波に帰国したが、石灰製法を他国に漏らした罪に問われるのを恐れてふたたび土佐へ舞い戻り、羽根浦(現室戸市羽根)に住み着いたようだ。
 これらは高知の民俗学者・坂本正夫氏(元高知県立歴史民俗資料館長)が『土佐と南海道』(吉川弘文館)のなかに採録している興味深い例だが、伊野に伝わる手漉き和紙の伝承は、悲劇的な遍路の物語として伝説化している。江戸初期、伊予国宇和郡(現愛媛県宇和島市)生まれの新之丞(しんのじょう)は四国巡礼の途上、土佐郡成山村(現伊野町)で行き倒れた。これを助けたのが、伊野成山に落ちのびていた長宗我部元親の妹、養(よう)甫(ほ)尼(に)である。新之丞は恩返しにと手漉き製紙法をおしえ、養甫尼と安芸三郎左衛門家友(安芸国虎の次男)らはその秘法をもとに土佐七色紙の製造に成功、伊野がのちに一大製紙産地となる礎を築いた。ところが、新之丞が郷里へ旅立つ日、製紙法が他国へ漏れることを恐れた家友は成山村仏ヶ峠でかれを待ち伏せて斬殺するのである。
 これらの言い伝えは遍路文化のほんの一部を垣間見せるだけだが、それでもこのいくつかの例から察するに、他国からやってくる遍路たちは決して厄介者なぞではなく、しばしば知識や技能の伝達者となり、地元民にとって貴重な情報源であったこともうかがえる。そして氏素性もしらぬ流浪者と地元民はいわばゆるやかに共存し、お互いが助け合ってすらいたことがわかる。行き倒れて亡くなった遍路は手あつく葬られ、さいわいに生き残り恩をうけた遍路は身につけた技能や知恵を返礼としてその土地に残し、あるいはそのまま居着いた遍路も少なくなかった。そういったことどもすべてを包含したものが遍路文化なのであり、表舞台にあらわれることのない口伝の民衆史でもある。
 現代に生きるわたしたち四国人のことばや習俗には、はるか千年むかしから行き交った遍路たちの所産が否応なしに染み込んでいるのだろう。
 四国霊場巡りは今年4月に日本文化遺産に認定されたこともあり、ますます人気が出そうだ。季節のよい時期に四国の山や海、木々や草花を眺めながら歩く巡礼の旅は心身をリフレッシュしてくれようし、悲壮感のない現代風の気軽なお遍路さんも、おおいに結構だとおもう(観光バスでやってくる団体遍路は醜悪だが…)。しかし、望郷のおもいを胸に野垂れ死んだ数知れぬ遍路たちの無念、一椀のめしに命をすくわれた乞食遍路の頬をつたう涙、不具の子を連れての巡礼途上ついに路傍に果てた親子遍路の虚(うつ)ろな瞳にもすこしぐらいは想いをはせてみよう。いまでは舗装されてしまった遍路みちの下には、社会からもれ落ちたおおぜいの棄民たちの声なき声、人生が累々として横たわっているのだから。
        Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html

posted by ノブレスオブリージュ at 08:34| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする