2015年12月25日

町並み考

 昔日の佇まいをしっかりと残した町並みを見かけることは、日本では本当に稀である。
 かつて暮らした場所を訪ねて、ほんの数十年でまるで別の町かと見紛うほどに変貌していて愕然とした経験をもつ人もすくなくないだろう。なぜ日本人はこれほど変化を好み、すぐにリセットしたがるのだろうか。
 この国の美術品や工芸品のレベルはきわめて高く、技の伝統を重んじる点でも世界屈指だろうが、歴史を刻んだ町並みや建物にはなぜかあまり頓着しない。すぐに壊して新しくすることになんの痛痒も感じぬどころか、そのほうが活気があるとでも思い込んでいる風である。
 最近の例でいえば、やっと歴史らしきものができつつあった東京の国立競技場やホテル・オークラをあっさりと、それも大金をかけて建て替える神経は、わたしにはどうも解(げ)せぬ。機能や耐震性で時代に適(あ)わなくなったなら、その部分に知恵をしぼって改修すべきで、そのノウハウこそが持続可能な社会へ転換するための新たな技術力やデザイン力となる。百年を経たものを壊すのは一瞬だが、百年を経た歴史的、文化的価値をもう一度つくり直そうとすれば、やはりまた百年かかるという単純な事実に日本人はなぜ恐怖しないのか。もし京都の木造建築群の多くがありふれた現代建築に建て替えられたら、京都は世界中から激しい非難と痛罵を浴びることになろう。それが正常な神経というものだ。
 だがいっぽうで、次々と壊して新たにつくればその分だけ経済活動は旺盛になり景気がよくなると歓迎するひとびとがいるのも事実だ。が、これほど短絡的でバカげた発想はない。それで得るものと喪うものの比較をしてみるがいい。無駄な開発が一時的に経済指標を押し上げても、すこし長い目で見れば、限りある資源を濫費するばかりか歴史・文化を毀損し、自然環境をも破壊する行為であることは論を俟(ま)たないし、そういった愚挙の果てが足下の日本のありさまではないか。
 残念ながらこの点において、日本人はヨーロッパのひとびとの足元にも及ばぬと断じていいだろう。
 とはいえ、そんな日本にもほんのわずかだが、いい風情の町は残っている。たとえば岡山県の倉敷はそのひとつだ。
 いい、といっても天領として栄えた江戸時代の蔵屋敷がのこる美観地区(「重要伝統的建造物群保存地区」指定)のことだが、戦前に国際連盟からリットン調査団が来日して偶々(たまたま)おとずれた大原美術館とその収蔵品に驚嘆し、水島工業地帯に隣接する格好の爆撃対象ながらこれを灰燼に帰すのは惜しいと爆撃しなかったために残った町並みとされる。
 まだ日本に美術館なぞなかった昭和のはじめ、私財を投じて国内外の一級の美術品を買い集め、日本人に本物を観せたいと壮麗な大原美術館を建築した倉敷の実業家・大原孫三郎の着想と執念、そしてその意志を継いでこれを発展させた息子總一郎の教養と見識に負うことはいうまでもないが、もしリットン卿が本当に大原美術館の価値を正確に報告し、そのためにこの町が爆撃を免れたのだとすれば、かれの炯(けい)眼(がん)にも謝すべきだろう。
 この倉敷ほどではないが、ささやかながらわが高知にもいい町並みが残っている。
 室戸市吉良川町と安芸市の土居廓中である。前者は平成9年10月、後者は平成24年7月に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。安芸市の土居廓中は山内家家老の五藤家が治めた武家の町、室戸市の吉良川町は明治期から昭和中期まで土佐備長炭の産地として栄え、これで財を成した古い商家が並ぶ町である。
 安芸市の土居廓中は、山口県の萩市を思い起こさせる風情がある。
 萩は、いうまでもなく明治維新を先導した長州藩の本拠地であった。吉田松陰、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋らはすべてこの小さな城下町とその近郊に生まれ、松門(しょうもん)(松下村塾派)はのちに天下を獲る。だが、土塀と夏みかんの樹々が印象的な鄙びた武家屋敷群と藩政時代の町並み(武家屋敷群は全国初の「重要伝統的建造物群保存地区」、今年は世界産業遺産にも選定された)のほぼそのままをわれわれが見ることができるのは、維新前に藩庁が瀬戸内側の山口に移り、明治以降も日本海側の萩は捨ておかれ、開発から取り残されたからなのだ。
 土居廓中もまた同様である。安芸市は県都高知市から東へ約40kmと離れており、産業らしきものもない。藩政時代、山内家家老であった五藤氏の小さな城(土居)があり、そのまわりに家臣団の家々が並んでいたのだが、ここも不便な田舎町だったことがさいわいして開発から取り残された。萩ほどではないが、およそ40棟のふるい武家屋敷がまとまって残っており、狭い街路とその両側に自然石の縁石をつかった側溝、土用竹の生垣、安芸川の河原石や古瓦を赤土で固めた練り塀などが往時をしのばせる。
 いっぽうの吉良川町は土居廓中とはまるでちがう町並みである。
 もともと室戸一帯は良材のウバメガシが豊富に自生する土地柄で、明治期に紀州から来た遍路が備長炭の技術を吉良川のひとびとに伝えたとされる。大正年間に入ると土佐備長炭は上方で大評判をとり、これを扱う商家や廻船問屋が軒を連ねるほどにこの町は栄えたのだ。家々は財を成した商家らしく白い土佐漆喰壁に水切り瓦という贅を尽くしたつくりで、倉敷同様に立派な蔵も多い。
 吉良川の町並み(保存指定建造物は160棟)がいまに残った理由も、辺境の地であるため先の戦争で爆撃も受けず、さいわい大火にも見舞われず、戦後も開発から取り残されたからである。燃料が炭から石油やガスへと代わったため戦後はすっかり寂れたが、どしっとした漆喰壁の建築群が辛うじて残ったのだ。
 このうちの一軒に、とりわけ広い敷地に何棟かの屋敷と蔵、そしてよく手入れされた中庭をもつ「蔵空間茶館」という名の瀟洒なカフェ兼遍路宿がある。これを営む感じのよいご夫婦は、父祖から受け継いだこの建築と町並みを愛し、改修して次代に引き継ぐことを自らに課してさまざまなアイデアでこれを実現しつつある。蔵屋敷の落ちついた風情とご夫婦のセンスに惚れこみ、一度宿泊した県外客が二度、三度と訪ねてくるというから驚く。また最近はこの地で土佐備長炭製造を業とする若者がふたたび増え、生産量で紀州備長炭を抜いて日本一になったと聞く。かつての隆盛は望むべくもないが、高級炭として東京の料亭などへのネット販売が好調のようで、あかるい兆しも出てきている。
 さて、京都にふれたついでにいうと、京都が京都たりえている理由について、京都に生まれ育った日本を代表する“知の巨人”梅棹忠夫(1920〜2010)がかつておもしろいことを述べている(『京都の精神』角川文庫)。
 京都は保守的な都市であると思われがちだが、永年、革新政権が君臨していた。革新のシンボルだった蜷川虎三の府知事時代は7期28年も続いたのだ。これは、京都市民が、開発を推し進める政権与党(自民党)に異を唱える革新に行政権力をゆだねることで、京都のミニ東京化を拒んだ結果だという。戦火から免れたこともあるが、日本全国がミニ東京化していくなかで、京都が固有の町並みを残し得た理由はそこにあるというのだ。そして梅棹はこう結論づけている。
 「ことばの通常の意味での革新と保守は、京都においては逆転していたのである」
 千年の都を守ってきた京都市民の端倪(たんげい)すべからざる知性としかいいようがないが、反面で、あの京都ですら市民がつよい意志をもたねば、世界中のひとびとを魅了してやまない町並みもあっけなく消失する危険にさらされていることを暗示している。京都も萩も倉敷も、開発好きでリセット好きの日本人が住むまちであることにちがいはないからだ。
 そう考えると、けっきょくのところ昔日の佇まいを残す町並みや歴史を刻んだ建築をまもれるのは、そこに住まうひとびとや建物オーナー、自治体行政マンらの勁(つよ)い意思と知性であるという、シンプルなところに行きつく。
 土佐人も、負けてはいられない。
    Text by Shuhei Matsuoka
  単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html

posted by ノブレスオブリージュ at 09:57| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする