2016年03月18日

「岩崎邸」物語

 森鴎外の小説『雁』に、「岩崎の邸」として三菱の創業者、岩崎弥太郎の邸宅が出てくる。舞台は、明治13年の東京である。語り手の“僕”は東京大学の医学生らしいので、鴎外自身のことであろう。こんなくだりがある。
 「その頃から無縁坂の南側は岩崎(いわさき)の邸(やしき)であったが、まだ今のような巍巍(ぎぎ)たる土塀(どべい)で囲ってはなかった。きたない石垣(いしがき)が築いてあって、苔蒸(こけむ)した石と石との間から歯朶(しだ)や杉菜(すぎな)が覗(のぞ)いていた。あの石垣の上あたりは平地だか、それとも小山のようにでもなっているか、岩崎の邸の中に這入って見たことのない僕は、今でも知らないが、兎(と)に角(かく)当時は石垣の上の所に、雑木(ぞうき)が生(は)えたい程生えて、育ちたい程育っているのが、往来から根まで見えていて、その根に茂っている草もめったに苅(か)られることがなかった。」
 明治13年といえば、西南戦争で莫大な財を成し、飛ぶ鳥を落とす勢いの岩崎弥太郎が旧舞鶴藩主牧野家から不忍の池に程近い広大な屋敷を買い取って2年後のことである。
 本郷台地の東端に位置し、房総半島や富士山をも遠望できるこの邸宅はもともと越後高田藩主榊原(さかきばら)家の江戸屋敷であったが、明治維新のどさくさのなか明治4年に西郷隆盛の側近、桐野利秋の邸となった。桐野は幕末までは中村半次郎を名乗り、示現流(じげんりゅう)の達人で“人斬り半次郎”と恐れられた薩摩の壮漢である。桐野のような無学(文字が読めなかった)で小身の男がこのような豪壮な藩邸をわがものにしていたことでも明治維新がいかにどんでん返しの革命であったかがわかるが、明治6年の政変で薩摩に帰国した西郷と行動を共にするため桐野はこれを牧野弼(すけ)成(しげ)に売りはらった。しかし舞鶴知事となった牧野は東京に住むことなくこの屋敷はそのまま放置され、広大な庭園を有する邸宅を探していた岩崎弥太郎がこれを買い取ったのである。
 この小説のころは、弥太郎が大坂西長堀の土佐藩大坂藩邸で九十九(つくも)商会(三菱商会の前身)を創業してわずか9年、東京日本橋に本拠を移して6年しか経っていないが、三菱(当時の社名は三菱蒸気船会社)はすでに社員数2千人を超える日本最大規模の会社となっていた。日々忙しく飛び回って社員らに檄を飛ばし、毎夜のように政府高官らを料亭で接待して「大臣・参議が三菱の岩崎か」といわれるほどに権勢を誇った弥太郎のこと、多忙を極めていたのかこの屋敷には転居せず一家はまだ駿河台の旧邸に住んでいた。
 つまり、医学生“僕”こと18歳の森林太郎(鴎外)は無人の邸の鬱蒼とした雑木林と、あたり一帯を睥睨(へいげい)するごとき苔むした高い石垣を横に見遣りながら無縁坂を上り下りしていたことになる。わたしははじめて『雁』を読んだとき、「きたない石垣」などのやや下卑た言葉は成り上がった豪商に対する鴎外の心象を表していると感じたが、邸宅は桐野が住んだあとながく放置されたままだったのだからごく自然な描写でもあったのだ。
 弥太郎一家は邸宅を購入して4年後の明治15年8月、母屋を改築してやっとこの地に転居する。多忙の合間を縫っての念願の新居への引っ越し、弥太郎も家族もさぞ嬉しかったろう。だが、残念なことにこのわずか2年半後の明治18年2月、弥太郎は胃がんのため50歳で急死するのである。
 日本の海運の覇を争い、三井と渋沢栄一が手を組んだ共同運輸会社を敵に回してのまさに死闘の真最中のできごとだった。この弥太郎の死去をきっかけに、井上馨、西郷従道などが仲裁に入り、両社は翌年ついに合併に合意。新たに日本郵船会社が設立され、明治のビジネス界を騒然とさせた大激闘はやっとここに終焉を迎えることになる。
 さて、一代の巨商・岩崎弥太郎の葬儀とはどのようなものであったか。
 当時の新聞報道などによれば、2月13日の午後1時過ぎに下谷(したや)茅(かや)町(ちょう)(現在の地名は台東区池之端)の本邸を出棺、長蛇の葬列は湯島切通しの坂を上り、本郷通りを経て午後3時20分に駒込の染井墓地に至った。騎馬兵、警視庁の巡査数十名、東京鎮台の一中隊が先頭に立ち、さらに騎馬に先導された馬車で祭官らが続き、岩崎家親戚一同、三菱幹部、佐々木高行、福岡孝(たか)弟(ちか)、谷干城、土方久元らの土佐出身者を含めた政府顕官数百名、銀行などの会社重役、朝廷からの使者、英米公使などの西洋人、愛顧を受けた芸人や力士などを含め5千人余が列した。喪主の長男岩崎久弥は一般の会葬者を5万人と想定し、広大な岩崎邸だけでは手狭とみて隣接する湯島天神境内や近隣一帯の割烹店などを借りて休憩所に充て、6万人分の西洋料理、日本料理、各種菓子などを用意、葬儀のあと立食形式で貴賤を問わず全会葬者に饗応されたというから、一民間人の葬儀としてはまさに空前絶後だった。
 この東京中の語り草になるほどの大葬儀のあと、三菱は弥太郎の弟弥之助が引き継ぎ、その9年後の明治27年に弥太郎の長男久弥が三代目を襲った。
 岩崎久弥は慶応元年生まれ、慶応義塾を卒業後に渡米し、明治24年にペンシルベニア大学を卒業して帰国した俊秀である。29歳の若さで三菱総帥のポストを譲り受け、三菱グループの近代化と事業再編のため三菱合資会社を新たに設立して社長となった。
 久弥はまず、本社の丸の内移転を決行する。日本に招聘された最初の建築家で鹿鳴館やニコライ堂の設計で知られる英国人ジョサイア・コンドルを建築顧問に迎え、丸の内に日本初のオフィスビル「三菱1号館」(現在は復元されて美術館になっている)を建設して本社とした。さらに2号館、3号館とつぎとぎに建て、荒地だった丸の内を一大オフィス街(「一丁倫(ロン)敦(ドン)」と呼ばれた)へと変貌させてゆく。
 そして次に久弥は父弥太郎がわずか2年半しか暮らせなかった邸宅の大改築に着手する。まず近隣の土地を買い足して敷地を倍ほどに広げ、明治29年にはコンドルに白亜の木造洋館と撞球(ビリヤード)場を設計させて日本の選りすぐりの職人により建築、さらに20棟もの書院造りの豪壮な和館(総建坪550坪)を名工・大河喜十郎に依頼して増築し、岩崎家と50人におよぶ使用人たちの生活の場とした。敷地内には屋敷群と庭園のほか茶室、テニス場、馬場と厩舎、使用人住宅、表門には巡査の詰所まであり、総敷地面積は1万5千坪にのぼったというから、これはひとつの“町”といえる巨(おお)大(き)さであったろう。
 その久弥も大正5年、51歳で三菱総帥の座を岩崎小弥太(弥太郎の弟弥之助の長男)に譲り、小岩井牧場などの農牧事業や文化事業のみに専念してこの邸で悠々自適の晩年を迎えようとしていた。大正12年の関東大震災の際に邸宅全体を開放して5千人のひとびとを災禍から救ったことなどは、このころの岩崎家と久弥の人物をよく伝える挿話である。
 ところが、昭和20年の敗戦が岩崎家を、そしてこの豪壮な岩崎邸をも奈落に突き落とすことになる。軍需産業の中核を担った三菱は戦犯扱いとなり岩崎家は財産のほとんどをGHQに没収されたばかりか、米国陸軍情報部のキャノン機関が稀少な洋館を持つ岩崎邸を本部として接収、10人の若い将校たちが邸全体を占拠したのである。岩崎一家は“折半住居者”として和館の一角に住まうことを命じられた。
 「夜中に庭をかけまわる女の嬌声―私どもはそのたびに耳をおおいました。兵隊たちはピストルの練習に空いた罐詰の罐をならべて、一日中、パンパンと打ちつづけます。それ弾丸(だま)が『折半住居者』のわれわれの方まで飛んできて、窓ガラスの割れることもあり、ピストル音がきこえだすとビクビクしていました」「『七十年も住んだこの家、不義者一人出さなかったこの家を、女郎屋にしてしまった』と、ただひとこと、父がくやし涙を出したことがありました」
 これは、久弥の長女としてこの豪邸に生まれ、外交官沢田兼三に嫁し、敗戦後にエリザベス・サンダース・ホームを創設して多くの混血孤児を育てた沢田美喜の自伝『黒い肌と白い心‐サンダース・ホームへの道』にあるくだりだが、土佐の気風と岩崎家代々の家風を誇りとした齢(よわい)八十を数える当主久弥の鬱勃(うつぼつ)たる憤怒が胸を搏(う)つ。
 この邸宅はその後、昭和27年に財産税で物納され、現在は東京都所有となり「旧岩崎邸庭園」として一般公開されている。敷地は当時の3分の1、和館もほとんどが取り壊されて3棟を残すのみとなっているが、重文指定の壮麗な洋館、和館、巨木に囲まれた広遠な芝園は往時をしのばせるに足る存在感である。
 土佐の微禄の下級武士から一代で大三菱を興した岩崎弥太郎、その長男久弥の一族の栄華と落魄の歴史が、ここにはたしかに息づいている。
Text by Shuhei Matsuoka
  単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html

posted by ノブレスオブリージュ at 17:23| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする