2016年06月27日

ムヒカの箴言

 アメリカ大統領選もいよいよ大詰めだが、本稿ではすこし視点を変えて、現職のオバマ大統領に注目したい。
 任期満了が近づき政治的影響力が落ちた首相や大統領を、“レームダック(lame duck)”と称することがある。足のわるい鴨、つまり「死に体」という意味だ。欧米政界の俗語で、2期目もいよいよ終章に入ったオバマ大統領は昨年あたりからそう揶揄されている。
 だが、レームダックは、じつは悪いことばかりではない。次の選挙がないので、もともとやりたかったことをかなり自由に、そして大胆にやることができるからだ。
 アメリカ人にとって、1年半前には想像もできなかった2つの出来事が立て続けに起こった。昨年7月20日、バラク・オバマはアメリカの現職大統領としては88年ぶりにキューバの首都ハバナに降り立ち、54年ぶりに両国は国交を回復した。そして今年5月27日には、現職大統領としてはじめて被爆地・広島を訪問したのである。
 キューバは、米ソ核戦争寸前までいったキューバ危機以来のいわくつきの国、アメリカの喉もとに突きつけられた匕首(あいくち)に譬(たと)えられる社会主義国だ。そして広島はアメリカが人類史上はじめて実戦で原爆を投下し、20万人もの無辜(むこ)の民を殺戮して壊滅させた都市。ともに歴代の大統領が目をそむけつづけてきた場所である。永きにわたり喉の奥に刺さったこのふたつの厄介なトゲを、オバマは任期中に取り去ったのである。これは、初のアフリカ系でなおかつ左派系大統領であるオバマにしかできなかった快挙だろう。
 さて、話は北米から南米にとぶ。
 日本のほぼ真裏にウルグアイという人口300万人の国がある。ブラジル、アルゼンチンという大国に挟まれた、牧畜を主産業とする小国である。サッカーの古豪としても知られ、FCバルセロナのウルグアイ人選手スアレスはメッシ、ネイマールに並ぶスーパースターだ。
 じつはこの南米の小国に、もうひとりのスーパースターがいるのをご存じだろうか。昨年まで同国大統領だった、ホセ・ムヒカ(81歳)である。
 2012年のリオデジャネイロでの国連会議で、過剰消費社会とグローバリズムへ警鐘を鳴らす名演説を行って「世界でもっとも貧しい大統領」として世界中で有名になり、今年4月には夫婦で初来日して日本でも話題になった。
 首都モンテビデオ郊外の貧しい家庭に生まれたムヒカは10代から政治活動をはじめ、1960年代初期に当時の独裁政権に反抗する極左武装組織トゥパマロスに加わる。ゲリラ活動による投獄は都合4回、2度は脱獄したもののリーダー格として活動中に6発の銃弾を浴びて再投獄され、奇跡的に命は取りとめたが最後の投獄は13年間に及んだ。激しい拷問にくわえ、換気口もトイレもない蛸壺のような狭い独房に10年間にもわたり投獄され生死の境をさまよったのである。そして、ウルグアイにもついに民主化の流れが及び、1985年に釈放となってのち1994年に下院議員に当選、2010年にはなんと第40代大統領(〜2015年)に就任するのである。
 まことに過酷で数奇な人生だが、かれが世界中で有名になった理由はそれだけでない。
 大統領公邸ではなく郊外の古い平屋に上院議員の奥さん、事故で前足一本を失った小型犬、猫、ニワトリと一緒に暮らし、月給の9割を慈善事業に寄付してわずか月千ドルでの生活。資産といえばトラクター1台と1987年製のフォルクスワーゲン1台だけで、いつもはワーゲンを自分で運転するが、やむをえず公用車に乗る時もけっして運転手にドアを開け閉めさせない。そして後部座席ではなくかならず助手席に乗るのは、襲撃されたとき運転手だけを犠牲にしたくないためだ。外遊しても一切その費用を請求せず、飛行機だって大統領専用機ではなく一般機のエコノミークラスに乗る。そしていかなる公式の場でもノーネクタイにジャケット、ローマ教皇の前であれ国連での演説であれそうだ。
 しかし、ムヒカをたんなる質素な変わり者の爺さんと見誤ってはいけない。
 かれのすごさ、すばらしさは、東西の歴史や哲学から学んだふかい教養と実行力、卓越した人間力にある。ホセ・ムヒカは決して聖人ではない。腹を立てれば毒づくし、したたかさももっている。国民の貧富の差をなくすことを最大の目標とするが、いっぽうでプラグマティズムを貫く筋金入りの老練な政治家なのである。2013年にはミハエル・ゴルバチョフの推薦で、2014年にはさらに多くの政治家や学者が推薦してノーベル平和賞にノミネートされたことでも、かれの人物レベルが分かろう(「受賞した場合には辞退する」と発言していたため受賞しなかった)。
 そのムヒカが初来日した重要な目的のひとつは、被爆地・広島を訪問することだった。人類が犯したもっとも愚劣な罪とその歴史に直接ふれたかったのだ。そして、かれが広島を訪れた翌月、現職のアメリカ大統領がはじめて被爆地・広島の地を踏んだのである。
 一見、まったくの偶然に見える。が、これはじつに示唆的な出来事なのである。
 2012年の初め、この二人は南米コロンビアで開かれたサミットではじめて顔を合わせ、晩さん会でたまたま隣同士になり長時間話す機会を得た。このとき、二人は互いにとても好い印象を持った。ムヒカはのちにこう述べている。
 「オバマは、アメリカの他の政治家と比べると急進左派だ。だから、言ってやったよ。『アフガニスタンから撤退しなさい』とね。オバマは笑っていた。…(中略)…現在のアメリカの置かれた状況を考えると、オバマは最高の大統領だ」(『悪役―世界でいちばん貧しい大統領の本音』汐文社)
 このあと、オバマが「自分の任期中にアフガニスタンから完全撤退する」と宣言したことは周知のとおりだ(残念ながら現地事情の悪化から昨年10月に任期中の撤退断念を発表)。
 2014年5月にムヒカはホワイトハウスの大統領執務室にも足を踏み入れている。元極左ゲリラで米政府のブラックリストにも載る南米の指導者がこの部屋に入るのは前代未聞のことだったが、このとき二人の間で語られたことはさらに前代未聞だった。アメリカとキューバの国交回復の可能性を模索する内容だったのだ。
 ムヒカは若いころキューバを訪れてチェ・ゲバラやフィデル・カストロに会い、キューバ革命の輝かしい成功をお手本にウルグアイでも社会主義革命を起こそうとしたのだ。そんなムヒカにオバマは、「あなたのご友人に、和解を模索するチャンスだとお伝えください」と、キューバとの仲介役を頼んだのである。まさに歴史が動いた瞬間だった。
 その後の二人は、しばしば直通電話で話をするほどの仲よしである。オバマはムヒカを人生の先輩として、そして艱難(かんなん)を乗り越える強靭な精神力と人類の未来に警鐘を鳴らす叡智にふかい尊崇の念を抱き、いっぽうのムヒカは、アメリカ史上初めてのアフリカ系大統領で人権派でもあるオバマにつよいシンパシーと期待を抱きつづけてきたのだ。
 ムヒカの広島訪問は今年の4月10日、東京外国語大学での講演やテレビ出演などのための初来日で実現した。「絶対に行かねばならない」と言いつづけた広島は、かれにとって特別な場所だったのだ。一方このころ、伊勢志摩サミットで来日するオバマの広島訪問が取り沙汰されていたが、国内世論への配慮から実現が危ぶまれていた。ところがムヒカが広島を訪れたちょうど1か月後の5月10日、ホワイトハウスはオバマの広島訪問を正式発表する。そして5月27日、オバマは現職のアメリカ大統領としてはじめて広島の地に立ち、あの歴史的な演説を行うのである。
 わたしが何を言いたいかわかっていただけるだろうか。ムヒカが心を揺さぶられた広島、その広島にアメリカ大統領が行かないという判断をムヒカが是とするはずはない。それも、信頼している友人のオバマである。
 「アメリカ大統領として広島へ行ける最後のチャンスなんだよ!」
 ムヒカが、そう進言しないほうが不自然だろう。
 ウルグアイには日本からの移民も多かった。日本人の勤勉さや質実さを子どものころから知るムヒカは、もともと大の親日家である。しかしかれは、明治維新や戦後の輝かしい技術立国ぶりに敬意を表しつつも、「日本人は魂をうしなった」と手厳しい。
 「西洋に勝るほどの発展を遂げたが、西洋の悪いところを真似しすぎてしまった。経済成長に躍起になり、かつての良さを見失っているように見える。いくらモノがあっても、モノは幸せにはしてくれない。日本人はいま幸せなんだろうか?」
 この言を虚心に聴く耳すら、日本人はうしなっていないだろうか。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
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2016年06月22日

奇しき縁にて候

 昭和33年、大阪市西区西長堀に11階建の高層アパートが建った。通称 “西長堀のマンモスアパート”。日本住宅公団が建てた都市型高層住宅の第1号で、当時としては珍しかった洋風便器やタイル張りのバスルームを完備、297戸というその規模も家賃も破格なら、入居者も有名女優やプロ野球のスター選手もいるという華やかさだった。
 昭和34年12月、このマンモスアパートにはやや不似合いなわかい夫婦が10階に引っ越してきた。産経新聞社出版局勤務の福田定一と妻みどりである。再婚の福田は36歳で妻のみどりは30歳、ふたりはこの年の1月に結婚したばかりの新婚カップルだった。
 一介の若い新聞記者が住めるような家賃ではないが、妻も産経新聞記者でダブル・インカムでもあり、くわえて福田には特殊な事情もあった。この3年前にペンネームを持ち、二足のわらじを履いた作家として頭角を現しつつあったのだ。
 ―司馬遼太郎である。
 ことのき司馬はすでに『ペルシャの幻術師』で第8回講談倶楽部賞を受賞し、中外日報で『梟のいる都城』(のち『梟の城』に改題)の連載を了(お)えたばかりだった。そしてマンモスアパートに入居した翌年の昭和35年に『梟の城』で第42回直木賞を受賞、翌36年3月には産経新聞社を退社するのである。ときに司馬遼太郎、38歳。
 ちょうどそのころのことである。産経新聞の後輩で渡辺司郎という高知生まれの男がマンモスアパートに司馬を訪ねてくる。司馬はこのときのことを、高知市での講演(昭和60年8月8日)ですこしユーモラスに語っている。
 「血液型はO型でした。こまごましたことが表現できない、しかしそれでいて神経こまやかな、典型的な土佐人でした。彼が遊びに来て言いました。
 『これは仕事で言っているのではなくて、自分の国の土佐には坂本竜馬という男がいる。竜馬を書いてくれ』
 べつにそのときにはその気がなかったのです。すぐほかの話に移り、その話は消えました。ところが翌日から一週間ほどですが、おかしなことが続きました。ほかの小説を書くために本を読んだり、資料を読んでいると、必ず坂本竜馬が出てくるのです」(週刊朝日増刊『司馬遼太郎が語る日本』)
 司馬がいう“ほかの小説”とは、ほどなくして連載をはじめる『新選組血風録』と『燃えよ剣』のことで、幕末関連の史料を読み漁って新選組に集中していた時期である。渡辺が帰ったあと、坂本竜馬とやらにはあまり興味がわかないと司馬が何気なく妻にいったところ、意外にもみどり夫人は「わたしは竜馬、ええとおもうわ」と応えたという。司馬の才に惚れ、司馬作品の第一の読者でもあった夫人のこの一言もあり、司馬は次第に知られざる坂本竜馬に引きこまれてゆく。
 竜馬を調べるうちに、「この男はひょっとしたら最高の素材ではないか」と司馬をして大興奮せしめたのは、姉乙女にあてた手紙の数々に垣間見える無類のチャーミングさ、型破りな発想と人間力、そして維新回天の大立役者の一人、勝海舟がことのほか評価していたことであったろう。
 勝が晩年に口述筆記させた『氷川清話』は第一級史料で司馬もむさぼり読んだはずだが、とりわけ次のようなくだりにはするどく感応したにちがいない(講談社学術文庫版より)。
 「坂本が薩摩からかへつて来て言ふには、成程西郷という奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だらうといつたが、坂本もなかゝ鑑識のある奴だヨ」
 「土州では、坂本と岩崎弥太郎、熊本では横井(小楠)と元田(永孚)だろう。
坂本龍馬。彼(あ)れは、おれを殺しに来た奴だが、なかゝ人物さ。その時おれは笑つて受けたが、沈着(オチツ)いてな、なんとなく冒(おか)しがたい威権があつて、よい男だつたよ」
 その結果、作家・半藤一利がいう「竜馬をみつけたのは司馬さんの大スクープ」ということになる。
 39歳の司馬は昭和37年6月21日、まさに満を持して産経新聞夕刊に『竜馬がゆく』(〜昭和41年5月19日)の連載をはじめる。司馬はすでに同年5月から「小説中央公論」で『新選組血風録』(〜昭和38年12月)を、11月19日からは「週刊文春」で新選組副長の土方歳三を主人公にした『燃えよ剣』(〜昭和39年3月9日)の連載を開始するので、1年半ほどの間、竜馬と新選組という真逆の立場から、幕末を舞台にした長編小説3本を同時連載していたことになる。
 司馬遼太郎は一本の青春小説−とあえて云おう―の傑作によって、それまで無名に近かった「坂本龍馬」という、土佐藩を脱藩した一介の無位無官の浪人、おまけに33歳のわかさで死んだ男を日本最大のヒーロー「坂本竜馬」に仕立てあげた。もし司馬がこの男に興味をもたなかったならば、土佐藩郷士・坂本家の次男坊は桂浜の銅像でのみ知られる幕末の志士のひとりに過ぎず、よしんば誰かがその後にかれを見つけて小説などにしたとしても、いまわれわれが知る坂本竜馬には到底なりえてなかったろう。
 ところで、マンモスアパートのことである。
 司馬の後輩の土佐人、渡辺司郎がこのアパートに司馬を訪ねてからほどなくして、司馬は不思議なことに気づく。このマンモスアパートが、偶然にも土佐藩大坂藩邸の跡地に建てられていたことである。作家・司馬遼太郎になったばかりの福田定一は、「おそらく竜馬も来たことがある土佐藩大坂藩邸の上に乗っかって住んでいる」ことに気づいたとき、ただならぬ奇縁を感じたはずだ。
 幕末、この土佐藩大坂藩邸のトップ(小参事)に上り詰めたのが、勝が竜馬と並び称した傑物、岩崎弥太郎である。弥太郎は廃藩置県で土佐藩が消滅するや、大坂藩邸の藩船を譲り受け、この藩邸敷地内で海運会社を興す。これがのちの三菱である。
 弥太郎は竜馬とはソリが合わなかったが、「世界の海援隊をやる」という言葉に刺激を受け、竜馬亡きあと、自らがこの地で海運会社を興すわけである。その場所に歴史作家になったばかりの司馬は偶然にも住んでいて、その竜馬を書きはじめるのだから奇縁というほかあるまい。
 司馬がマンモスアパートに住んだころは長堀川もまだ埋めたてられておらず、玄関前には鰹座(かつおざ)橋があり、近くにはかつて白髪(しらが)橋という橋も架かっていた。この二橋の奇妙な名は、土佐藩が名産の鰹節と白髪山で産する杉・檜を藩船ではるばる土佐から運び込み、藩営の土佐商会を介して大量に売りさばいていた名残りで、川が埋め立てられて長堀通りとなったいまでもそのまま交差点名として残っている。
 また、この旧土佐藩邸跡の一角に、土佐藩の社(やしろ)だった土佐稲荷神社も現存している。古色蒼然としてすこし寂れた風情だが、三菱創業の地であることからいまは三菱グループの守護神となっており、境内は岩崎家や三菱系企業からの寄進物で溢れている。司馬は当時、この神社に保管されていた弥太郎の日記の存在を知り、貸してほしいと訪れたこともあったという。
 『竜馬がゆく』の連載をはじめた翌月、司馬は短いエッセー「上方(かみがた)住まい」にこう述べている。
 「私はいま、かつて土佐藩の大坂屋敷のあった場所に住んでいる。すでにその敷地には十一階だての鉄筋アパートが建っており、その十階にすんでいるのだが、いまなお、アパートの前の橋は、鰹座(かつおざ)橋(ばし)であり、横には、藩邸の守護神であった土佐(とさ)ノ稲荷(いなり)という神社が現存している。
 竜馬の取材のために高知から大阪のすまいへもどってくるときなど、ふと、私の主人公もまた、高知とこの大阪鰹座橋を往復したであろうことをおもって、こどもっぽい感慨をもつことがある」(『司馬遼太郎が考えたこと(2)』新潮文庫) 
 大阪に行く機会があれば土佐稲荷神社を訪れ、目の前のマンモスアパート(現・UR西長堀団地)を眺めつつ、『竜馬がゆく』誕生の奇縁に身をひたすのも一興ですぞ。
   Text by Shuhei Matsuoka
   単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
posted by ノブレスオブリージュ at 09:46| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする