2017年05月15日

天然の無常 〜寅彦と漱石〜

 仕事柄、そして趣味としても本はよく読むが、読書がいつのまにか惰性にながれて集中できないことがよくある。そんなとき、読みさしの本をほったらかして寺田寅彦(1878〜1935)の本を引っ張り出す。かれの随筆は、豊かな教養を背景にした科学的視座に上質の諧謔と洒脱を兼ねそなえており、いつ読んでも味わい深く知的快感に浸ることができるからだ。
 寺田寅彦といえば、やはり夏目漱石との関係があまりにも有名である。
 高知県立尋常中学を卒業後、熊本の第五高等学校に入学した寅彦は、五校の英語教授だった夏目金之助(漱石)と運命的な邂逅をする。漱石から英語と俳句を学ぶなかで漱石の深い教養と人間的魅力にふれ、漱石を心底畏敬し、人生の師として親密な関係をもち続けることになる。このことが寅彦をして、世界的物理学者でありながら文学者としての類まれな素質をも開花せしめるおおきなきっかけになったことは疑う余地がない。
 漱石は五校時代に文部省から英国留学を命ぜられ、3年後の明治36年1月に帰国。そのまま東京に居を構え、第一高等学校、東京帝大の英文科講師としての生活をはじめる。そして帰国からちょうど2年後の明治38年1月、正岡子規の弟子である高浜虚子のすすめで『ホトトギス』に『吾輩は猫である』を発表、この一作により漱石は一躍著名人となり、漱石を慕う大勢の弟子たちが夏目家(通称「漱石山房」)に集うようになる。文豪夏目漱石の誕生である。
 ただ、東京帝大の学生として東京住まいをはじめていた寅彦だけは、俄(にわ)か弟子たちとは明らかに一線を画していた。漱石が無名の英語教師だったころから、多いときは月に何度も家を訪れていたのはただひとり寅彦だけだったし、弟子たちが毎週木曜日に決めて(「木曜会」)漱石山房に集まるようになってからも、寅彦だけは別の日に漱石に会いに行っていた。ふたりの関係は、それほどに特別なものだったのだ。
 少壮の物理学者となった寅彦が『団(どん)栗(ぐり)』などの秀逸な文芸作品を『ホトトギス』に発表しはじめると、漱石はその才に驚愕し、「学問、芸術のいかなる方向に進んで行っても、寺田は将来必ず一流になるだろう」と評したというから、さすがに炯眼である。『猫』の水島寒月、『三四郎』の主人公三四郎や科学者・野々宮宗八も寅彦がモデル化されていることはつとに知られたところで、出不精の漱石は家にやってくる寅彦との会話から小説のヒントや重要なプロットを得ることも多かった。
 そして寅彦のほうは、漱石から俳句だけではなく、「自然の美しさを自分自身の目で発見すること、人間の心の中の真なるものと偽なるものを見分け、真なるものを愛し偽なるものを憎むべきことも教えられた」(『夏目漱石先生の追憶』)、つまり人生のすべてを教わったといっても過言ではないだろう。
 さて、物理学者・池内了氏ほか各界の寅彦ファンが現代に寺田寅彦の偉業を伝える重要な役割を果たしているが、とりわけ6年前の東日本大震災を機に寅彦にふたたび光が当たってきたことは、寅彦ファンのひとりとしてわが意を得たりの感がある。
 寅彦の著作から地震・津波などに材をとった随筆を集め再編集した『天災と日本人』(角川ソフィア文庫)と『天災と国防』(講談社学術文庫)が平成23年に立て続けに出版され、平成26年には寅彦の弟子の物理学者・中谷宇吉郎(「雪は天からの手紙」の言葉で知られる北大教授)の『寺田寅彦の追想』(昭和22年刊)が文庫化され『寺田寅彦−わが師の追想−』(講談社学術文庫)として出版された。出版界にいま、ちいさな寅彦ブームが起こっているのだ。
 寅彦の随筆は、岩波文庫版の『寺田寅彦随筆集』(第1巻〜第5巻)に主要なものは収録されているので皆さんも一読されればとおもうが、上に挙げた“天災”を冠した2冊は吉村冬彦などの筆名で書いた文芸作品ではなく、地球物理学者ならではの卓抜な科学評論集となっていて、阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震など未曽有の災害に見舞われた日本人にはまさに必読書である。
 たとえば『天災と日本人』にある『日本人の自然観』と題する随筆には次のような、はっとさせられる箇所が多い。
 「西欧科学を輸入した現代日本人は西洋と日本とで自然の環境に著しい相違のあることを無視し、したがって伝来の相地の学を蔑視して建てるべからざるところに人工を建設した。そうして克服しえたつもりの自然の厳父の揮(ふる)った鞭(むち)のひと打ちで、その建設物が実に意気地もなく潰滅(かいめつ)する、それを眼前に見ながら自己の錯誤を悟らないでいる、といったような場合が近ごろ頻繁に起こるように思われる」
 これは寅彦最晩年の昭和十年に『東洋思潮』に掲載された文章だが、まったく現代社会そのままであることに驚く。そしていっぽうで、「日本人を日本人にしたのはじつは学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よく続けられて来たこの災難教育であったかもしれない」(『災害雑考』)などと大真面目に云う。
 日本が世界にも稀な多様で美しい自然に恵まれている反面、自然災害の頻発地であるがために、自然の猛威にさからうのではなく、ある種の諦観を深奥に据えて自然を受容しつつ生きるという、いわば「天然の無常」が日本人をして賢い民族たらしめたと寅彦は考えるのだ。
 「思うに仏教の根底(こんてい)にある無常観が日本人のおのずからな自然観と相調和するところのあるのもその一つの因子ではないかと思うのである。鴨長明(かものちょうめい)の方丈記を引用するまでもなく地震や風水の災禍の頻繁でしかもまったく予測し難い国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓(ごぞう)六腑(ろっぷ)に浸(し)み渡っているからである」(『日本人の自然観』)「おそらく日本の自然は西洋流の分析的科学の生まれるためにはあまりに多彩であまりに無常であったかもしれないのである」(同)
 宗教学者の山折哲雄氏は『天災と日本人』の巻末解説で、哲学者・和辻哲郎(漱石門下のひとり)の著書『風土』と比較して「日本の風土を考察するとき、和辻哲郎がその台風的契機を重視して『慈悲の道徳』に着目したのにたいし、寺田寅彦がそこから地震的契機をとりだして『天然の無常』という認識に到達していたことの対照性に、私は無類の知的好奇心を覚えるのである」と結んでいるが、じつはこの寅彦の「天然の無常」観にこそ、わたしは漱石の影響をみるのである。
 たとえば画家・津田青楓にあてた漱石の手紙の一節。
 「世の中にすきな人は段々なくなります。そうして天と地と草と木とが美しく見えて来ます。私はそれをたよりに生きています」
 これが漱石晩年の境地「則天去私」(私を去り身を天然にゆだねる)のエッセンスであり、寅彦にもそのまま引き継がれたと考えていいだろう。寅彦には、長女を産んで間もなく、あっけなくも21歳で世を去った妻夏子への哀惜があり、漱石もまた無二の親友正岡子規の死に追い打ちをかけるように五女雛子を生後1年半で喪う。ふたりには死があまりにも身近にあり、自らの運命を受容せざるをえない無常観とふかい悲しみを共有していたのである。そして、漱石が寅彦に手ほどきした俳句こそは、まさに「天然の無常」を基底にした日本固有の芸術であったのだ。
 じつは寅彦は、漱石が知らぬ者なき文豪となってゆくことを、内心では喜んではいなかったようだ。漱石を客観視するには身近すぎ、思慕しすぎていたのである。
 「先生が俳句がうまかろうが、まずかろうが、英文学に通じていようがいまいが、そんなことはどうでもよかった。況(いわ)んや先生が大文豪になろうがなるまいが、そんなことは問題にも何もならなかった。むしろ先生がいつまでも名もないただの学校の先生であってくれたほうがよかったではないかというような気がするくらいである」(『夏目漱石先生の追憶』)
 土佐が生んだ広大無辺の知の巨人、寺田寅彦―。
 馬鹿のひとつ覚えのごとく「龍馬、龍馬」と騒ぐのではなく、われわれ土佐人は寺田寅彦をこそ誇るべきであり、その寅彦を見出し、寅彦の人間と才を愛し、寅彦を斯界最高峰の知性へと導いた夏目漱石にも、おおいに感謝すべきなのである。

 先生と話して居れば小春哉 (牛(ニュー)頓(トン))  ※牛頓は寅彦の筆名のひとつ
 
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html                   
posted by ノブレスオブリージュ at 13:14| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする