2020年06月25日

コロナとグレタ

 過日、わが家の庭に咲き誇るハナミズキを眺めながら、突如降ってわいた稀にみる奇妙な現象の意味を考えていた。
 あまりに微小で単純な構造ゆえに生物の仲間にすら入れてもらえず、自分で移動することすらもできない、まったく取るに足らぬモノ(非生物)に恐れ慄(おのの)く地球上の覇者のなんとか弱く哀れなことか。この世のすべてのものは、わが家のハナミズキのようにまるで日常とかわらず美しく平然としているのに、人間だけが突如として狂ったようにあわてふためく姿は、当の人間にとっては悲劇であっても、どこか滑稽で寓話的である。それも、何者かに唆(そそのか)されたわけでも、脅されたわけでもなく、善良な市民自らがこのウイルスを知らぬ間に身の内に棲まわせ、せっせとそれを運び、わずか数ヵ月で地球全体に拡散させたのだから驚異的といえばこれほど驚異的なこともない。
 フランスの哲学者パスカルの有名な言葉を思い出す。
 「人間は一茎の葦にすぎない。自然のうちでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である。かれをおしつぶすには、全宇宙が武装するにおよばない。ひと吹きの蒸気、ひとしずくの水が、かれを殺すのに十分である。」(『パンセ』)
 人間は、自然のうちでもっとも弱い存在であることを、科学の発達と自らの傲慢さが忘れさせたのかもしれない。さすればあるいは、近年の異常な気候変動や激甚化する自然災害同様、繁栄をきわめ増長した人類に対する母なる地球からの警告、いや天の怒りなのであろうか。あるいは、地球環境を回復不能なまでに破壊し続ける邪悪きわまりない人類に対して天が差し向けた災厄なのだろうか。
 そしてこの原稿を書きながらも、わたしをあざ笑うかのように楽しげに樹々をわたる小鳥たちの啼(な)き声が、「少しは身に染みたか!」という天の声に聴こえてくるのだ。
 ところで、4月放送のETV特集「緊急対談 パンデミックが変える世界〜海外の知性が語る展望〜」で経済学者・思想家のジャック・アタリ氏は、協力は競争よりも価値があり、利他主義こそがコロナ後の世界に必要だとして、こう述べている。
 「利他主義は合理的利己主義にほかなりません。自らが感染の脅威にさらされないためには他人の感染を確実に防ぐ必要があります。利他的であることは、ひいては自分の利益となるのです。また、他の国々か感染していないことも自国の利益になります。たとえば日本の場合も世界の国々が栄えていれば、市場が拡大し、長期的にみると国益につながりますよね。…今回の危機は乗り越えられると思います。ただし、長期的にみるとこのままでは勝利は望めません。経済を全く新しい方向に設定しなおす必要があるのです。戦時中の経済では自動車から、爆弾や戦闘機へ企業は生産を切り替えなければなりません。今回も同じように移行すべきです。ただし、爆弾や武器を生産するのではありません。医療機器、病院、住宅、健康、水、良質な食糧などの生産を長期的に行うのです。多くの産業で大規模な転換が求められます」
 アタリ氏は、いまのコロナ禍を市場崩壊と民主主義崩壊の危機としながらも、ひとびとの連帯による「利他主義」と長期的視点に立った「ポジティブ・エコノミー」、そして「共感のサービス」により次世代のことを考える社会に転換できるとし、のちにコロナ禍がきっかけとなって人類が進化したと云えるようにしなければならないという。
 もちろん、世界はまだまだ大恐慌の不安を抱えているし、ハンガリーやイスラエルのように、緊急事態を利用して『1984』(ジョージ・オーウェル著)さながらの監視独裁化に向かおうとする国家が次々と現れる可能性も否定できない。また多くの発展途上国ではこれから深刻な経済的・社会的問題が噴出して、かなりの期間、手に負えない情況が続くに違いない。こういった重大な問題が本当に解決されるのかは誰もわからない。連帯どころか、国も人もますますミーイズムと疑心暗鬼に陥り、世界はバラバラになるという最悪のシナリオすら考えられる。アタリ氏はやや楽観的すぎるのかもしれない。
 もし人類がこのパンデミックを契機に進化できなければ、地球温暖化による絶望の日を待つまでもなく、わが世の春を謳歌してきた現代文明は確実に危機、いや終焉を迎えることになるだろう。いまこの瞬間にも抗生物質への耐性を獲得した細菌類や未知のウイリスはわたしたちのすぐそばで生まれており、そのことを前提とした社会構造に転換していかねば、今後次々と襲来する見えざる恐怖に人類は到底耐えられないからだ。
 そもそも中国・武漢とその周辺だけの地域的な疫病で終息せず未曾有のパンデミックに至ったのも、突然変異で人間を宿主とすることに成功した切れ者のウイルスが宿主とともに移動したことが原因であって、ひとえにヒト・モノ・カネが激しく動くグローバル社会を創りだしたわれわれ自身のせいなのだ。どころか、もともと自然界の奥深くでさまざまな野生動物と共生してきたウイルス群−コロナ(新型、SARS、MARS)、エイズ、エボラ、インフルエンザなどはみなそうだ−を、経済活動と乱開発により自然を蹂躙して引っ張り出してきてしまったのだから、二重の意味で自業自得なのである。
 そう考えれば、武漢ウイルス研究所から漏れ出たものか否かはさておき、このたびのコロナ禍は、比喩でもなんでもなく、人間に対する天(地球)の怒りであり自然界からの挑戦状と考えるのが妥当だろう。
 ところで、2019年暮れに初めてWHOにより新たな感染症として確認されたことから正式にCOVID-19と命名されたこのたびのコロナ禍と、同年9月に行われた国連における気候行動サミットでの出来事は無関係ではないとわたしには思えてならない。
 「大絶滅を前にしているのに、あなたたちが話しているのは、お金と経済発展がいつまでも続くというお伽噺ばかり。よくもそんなことを!」と怒りに肩を震わせながら各国代表に言い放った当時16歳のスウェーデンの少女グレタ・トゥーンベリさんの姿に衝撃を受けなかった人はいないと思うが、人類を救うために天が差し向けたとしか思えない、少女の姿をした非凡者の出現と、このたびのコロナ禍が同じ2019年に起こったことは単なる偶然ではないのではないか。
 つまり、天(地球あるいは自然)は「善」と「悪」の象徴としてグレタと新型ウイルスを同時にこの世に送り込み、人類を試しているのではないかということだ。果たしてわれわれはそのことに気づき経済・社会システムを大転換できるのか。SDGs(持続可能な開発目標)という高邁な行動指針がすでに国連で発動され一部の覚醒した企業や市民は動きはじめており、「環境」「社会」「ガバナンス」の3要素を企業選別の条件として中長期的視点で投資するESG投資が急激に伸びている(世界の運用資産の4分の1以上を占める)のは一縷の光明だが、影響力の大きいアメリカ、ロシア、中国といった大国や多くの発展途上国政府は環境問題にまるで後ろ向きで、環境破壊と温暖化は深刻度を増すばかりなのだ。
 新型コロナとグレタが同時にわれわれの前に出現した意味を解せず、相も変わらず持続不可能な経済・社会システムを信奉して自滅へとひた走るのか、あるいは未来に向け大きく舵を切れるのか、その瀬戸際にわれわれ人類は立っているのかもしれない。
 物理学者・寺田寅彦は昭和7年の随筆『からすうりの花と蛾』で述べている。
 「われわれが存在の光栄を有する二十世紀の前半は、事によると、あらゆる時代のうちで人間がいちばん思い上がってわれわれの主人であり父母であるところの天然というものをばかにしているつもりで、ほんとうは最も多く天然にばかにされている時代かもしれないと思われる。…天然の玄関をちらとのぞいただけで、もうことごとく天然を征服した気持ちになっているようである。」
 この碩学の一言は21世紀の現在でもまったく色褪せておらず、それどころかますます人間にその傾きが強くなっているのは間違いないだろう。その何よりの証拠が、この百年の激しい環境破壊と急激な地球温暖化、そしてこのたびの未曾有のパンデミックなのだ。
 奇跡の少女グレタの言葉を通して傷ついた地球の声をしっかりと聴き、コロナショックによって競争と経済発展一辺倒の人類の内なる狂気を一日も早く鎮め、アタリ氏の云うごとく利他の精神によるまったく新しい社会・経済・政治体制を本気でつくり上げるしか人類に選択肢は残されていないのだろう。そしてそれを可能ならしめるのは、環境破壊に加担してこなかったグレタのような世界中の若者世代だ。彼らに期待しようではないか。

Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
posted by ノブレスオブリージュ at 09:10| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする