2020年09月29日

災害と微笑

 毎年毎年、よくもまあこれほどの自然災害が起こるものだとあきれる。
 大規模な豪雨災害だけみても九州南部の球磨川流域を中心に全国各地が被災した今年の7月豪雨、昨年の台風19号による東日本豪雨、一昨年の西日本豪雨と続けざまに甚大な被害を出し、被災地域もいまや日本全土に広がりつつある。
 情報過剰社会にどっぷり浸かっているためか、わたしたちの脳は次の情報(刺激)を求めるのに忙しく、繰り返される災害の記憶どころかほんの数週間前のこともすっかり忘れてしまうほどだが、いまやこの国のどこに住もうと、明日はわが身であることを常に自覚して生活しなければいけないことだけは忘れてならないだろう。
 それにしても、気象庁がこのような災害時に「異常気象」「想定を超える大雨」などという言葉をいまだに使っているのは、どうにも解せぬ。かつての異常気象はとっくに常態化し、雨量も大幅に増えているのは誰の目にも明らかなのにいっこうに改める気配もない。この呑気さは事なかれ主義と前例主義のくびきから逃れられない日本の役所に胚胎する非科学性からくるものだろうが、情けないやら腹立たしいやら。
 地球温暖化による気候変動がすでに日本国土の大半を温帯から亜熱帯に不可逆的に移行させていることは、気温上昇や雨量増加、台風の大型化のみならず動植物の分布変化からも明らかで、そのスピードは今後さらに激化する可能性が高い。そのことを国民に科学的エビデンスを示してきちんと警告すべきではないかと、わたしなどは切実におもう。桜の開花予想や天気の予報・警報を出すだけの組織に5千人もの職員は不要である。
 ところで、もともと日本は世界にも類を見ない「災害大国」である。温暖多雨の東アジアモンスーン地帯にあるため南北に長い日本列島がそのまま台風の通り道になっており、4つのプレートが交差する最悪の位置にあるため大地震が頻発する。さらには列島中を無数の活断層が走り、活火山もいたるところに存在する。またいずれの川も短く急流で、上流に大雨が降るとたちまち増水して暴れ川に変貌し、中・下流域を洪水が襲ってくる。このような世界にも冠たる悪条件の上に、地球温暖化による自然の狂暴化がさらに追い打ちをかけているのがいまの日本の姿なのだ。
 そして古(いにしえ)より頻繁に災害に見舞われてきたため、日本人の中には、地球上の他の国や地域にはほとんど見られない独特のエートス(精神)が存在するようになったと考えられる。
 たとえば突然の災害に見舞われたとき、われわれ日本人がじつに特異な表情を見せることに皆さんはお気づきだろうか。これは外国人がよく指摘することでもあるが、地震や洪水のような不幸な災害に遭ったとき、テレビなどで被災者が見せる表情に注意してほしい。苦悩と絶望の中にありながらも、わずかながら微笑を浮かべる場合があることに気づくだろう。諦めや自嘲の表情とともに、ごく自然に表出する微笑。これはいったい何なのか。
 海外においてはまず例外なく、被災者は怒りと絶望の表情で、激しい怨嗟の言葉が口をついて出るか泣き叫ぶだろうし、食料などを求めて市民が暴徒化する場合も少なくない。そんな外国人にとって、日本人の物静かな挙動や表情は理解できないものだろう。それにこんな悲惨な状況下で、こともあろうに微笑を見せるなんて−。
 『逝きし世の面影』(平凡社、第12回和辻哲郎文化賞受賞)という浩瀚(こうかん)な一冊がある。九州・熊本に住む在野の歴史家・渡辺京二氏の代表作で、幕末から明治初期に来日した外国人によって書かれた膨大な日記や手紙、エッセーなどをくまなく渉猟し、異邦人が見た当時の日本の姿から、現代の日本人が喪ったものの意味と価値を再評価する労作だが、そこに、災難に見舞われたときの日本人の不思議な態度に驚いたという記述がいくつも出てくる。一例を引いてみよう。
 明治9年、東京医学校(東大医学部前身)で教鞭をとっていたドイツ人医師のベルツが大火事(約1万戸焼失)に遭遇したときの記録だ。
 「日本人とは驚嘆すべき国民である!今日午後、火災があってから三十六時間たつかたたぬかに、はや現場では、せいぜい板小屋と称すべき程度のものではあるが、千戸以上の家屋が、まるで地から生えたように立ち並んでいる。…女や男や子供たちが三々五々小さい火を囲んですわり、タバコをふかしたりしゃべったりしている。かれらの顔には悲しみの跡形もない。まるで何事もなかったかのように、冗談をいったり笑ったりしている幾多の人々をみた。かき口説く女、寝床をほしがる子供、はっきりと災難に打ちひしがれている男などは、どこにも見当たらない。」
 まったく信じられない、というふうである。
 渡辺は、「この時代の日本人は死や災難を、今日のわれわれからすれば怪しからぬと見えるほど平然と受けとめ、それを茶化すことさえできる人びとだった」と結論し、その後の急速な西洋化によってこの固有の特質は相当に変化してしまったとみる。わたしもその意見に大いに賛同するが、その特質の残滓がいまの日本人の中に残っていなくもないとわたしには思えるのだ。それが、被災時に見せる不思議な表情と微笑である。
 微笑というものは、うれしさの表出だけではない。慈愛と寛容のそれでもある。「モナ・リザ」や赤子に乳を与える母親の表情を想い浮かべればよい。さらには、古より天災に苦しめられてきた日本人ならではの、人智のおよばぬ自然の猛威や運命に抗わぬ諦念と再生・再建への静かな覚悟の表出でもあるに違いない。
 ところで、災害はたしかに悲劇ではあるが、被災期間は一般にごく短いのが普通だ。地震や火事、洪水も台風もそう長く続くことはない。だからこそ、われらが先祖のごとく何事もなかったかのように平然と、笑顔すら見せながらあっという間に再建することが可能だったのだ。
 しかし、いつまで続くか見当もつかぬ災害、それもこのたびのコロナウイルス禍のような姿の見えない災厄に対しては日本人でもそう簡単ではない。無症状者が感染源にもなり、感染した人とそうでない人の区別がつきにくいという厄介さが恐怖と猜疑を煽り、ひとびとの心を次第に蝕んでいく。歪んだ正義感を振りかざして他人を攻撃する“自粛警察”などはその象徴だ。
 このことは、大正12年の関東大震災の直後に起こった陰惨な事件を想起させる。朝鮮人が放火したり井戸に毒を投げ入れているといったデマが流れ、恐怖のあまり罪もない大勢の朝鮮人を無差別に虐殺したのは東京、神奈川、千葉、埼玉などの一般住民によって組織された自警団だった。これは中世ヨーロッパの魔女狩りを彷彿させる、狂気と暗黒の史実である。
 と同時に、わたしの脳裏にはもうひとつの風景が浮かぶ。結核菌が肺や脊髄を腐らせ、体のあちこちに空いた穴から膿となって出る恐ろしい脊椎カリエスに冒されていた正岡子規とかれの友人や後輩たちの姿だ。子規は明治29年から35年に死去するまで東京・根岸で病床にあったが、当時の結核は特効薬がなくひとたび罹れば高い確率で死亡する「死の病」で、空気感染することも知られていた。だが、子規の家にはかれを慕う多くのひとびとが平然と集まり、談笑したり句会を開いていたのである。
 わたしが云いたいのは、明治から大正にかけて急速に近代化、軍事大国化する中で、そしてとりわけ日露戦争(明治37〜38年)を境に、日本社会と日本人がおおきく変貌していったのではないかということだ。「日露戦争以降、日本人は民族的に痴呆化した」(『坂の上の雲』第二巻のあとがき)と断じたのは司馬遼太郎だが、西洋列強と肩を並べる一等国へと朝野を挙げて駆け上がろうとする狂騒の陰で、日本人は民族として誇るべき固有の何ものかを急速に喪っていったのだろう。
 最後に『逝きし世の面影』をもう一度引いてみよう。同じ明治9年の東京大火の翌朝、銀座で焼け出された住民たちを見たアメリカ人女性の記録だ。
 「この人たちが快活なのを見ると救われる思いだった。笑ったり、しゃべったり、冗談を言ったり、タバコを吸ったり、食べたり飲んだり、お互いに助け合ったりして、大きな一つの家族のようだった。家や家庭から追い出されながら、それを茶化そうと努め、助け合っているのだ。涙に暮れている者は一人も見なかった。」
 現下のウイルス禍が人類にとって深刻な災害であることは間違いない。しかしわたしたち日本人は紛れもなく−まことに不肖ではあるが−西洋人が心底驚嘆したかつての日本人の子孫なのだ。焦らず騒がず、微笑すら浮かべて、立派に乗り切ってやろうではないか。

Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html

posted by ノブレスオブリージュ at 10:15| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする