2020年12月29日

小菅と菅

 藤沢周平(1927〜1997)の小説をはじめて読んだのは25年ほど前だと思う。記憶はあまり定かではないが、週刊誌の記者をしていたころ、藤沢ファンの記者仲間が作品の魅力を熱っぽく語る姿にほだされてのことだった気がする。バブル経済が弾けたあと不況が長く続き、どちらかといえば地味なこの作家に静かな人気が出はじめていたころだ。
 最初に読んだのは、『蝉しぐれ』だった。かれの多くの作品に登場する北国の小藩「海坂(うなさか)藩」(庄内藩をモデルとした架空の藩)を舞台とした青春小説で、その清冽な文体や爽やかな読後感とともに牧文四郎という主人公の名はいまも記憶に残っている。
 わたしはそれまで時代小説をほとんど読まなかったが、気に入ってその後も短編集などを含め何冊か読んだのだった。だが、いつの間にか史実に材をとった歴史小説の方を耽読する癖がついてしまい、ある時期からすっかりご無沙汰してしまっていた。世の藤沢周平ファンからすればお恥ずかしいほどの読者にとどまっていたのである。
 しかし最近、齢とともに閑(ひま)がふえ、老後の愉しみに残しておいた−ということにしておく−山本周五郎や藤沢周平をふたたび読みはじめたのだが、じつは藤沢周平という作家は、まったく個人的な理由から、わたしにとってかなり以前から気になる存在だったのだ。
 もうお気づきの方もいるだろう、わたしたちは名前が同じなのだ。「なんだそんなことか」といわれそうだが、本人にとっては案外大事なことで、読者でなくても淡いシンパシーは感じていたのだ。わたしの名は本名で、藤沢周平のそれはむろんペンネームだが、それでもありふれた名前ではないため同胞意識を勝手に抱いていた。
 藤沢周平の本名は小菅留治という。「こすげ とめじ」と読む。かなり田舎臭い名前だが、山形県庄内地方の米農家の次男と聞けばうなずけよう。戦後作家で農家出身というのはかなり珍しいのではないかと思うが、その出自は目立つことが嫌いで物静かなかれの性格や端正な佇まいだけでなく作品の中にも深く投影されており、主に江戸時代を舞台にした作品群に尋常ならざるリアリティを与えている。奇をてらわぬ平明で美しい文体と鮮やかな自然描写、世渡り下手だが一本筋の通った人物設定など、その傍証は挙げればきりがない。
 評論家の川本三郎は、『藤沢周平のすべて』(文春文庫)の中でこう述べている。
<庄内平野の農家に生まれ育った藤沢周平は太陽と共に起き、野良で「働いている」農民たちの暮らしを身近に見ていた。その健康さを愛し、自らも好んで田圃に入った。
 随筆『半生の記』のなかでこんなことを書いている。「私は師範生のころも、休暇で家に帰れば時どき田圃に降りたし、教師になってからも農繁期には兄夫婦を手伝って稲を刈った。それは私自身田圃に出て働くことが嫌いでなかったせいでもあるが、より厳密に言えば、長男である兄に対する敬意の気持ちからそうするのだった。兄夫婦が田圃で汗を流しているときに、学生だからと畳にひっくり返って本を読んでいることは出来ない。それがむかしの農家をささえていたモラルだった」。
 皆んなが汗を流しているときに、自分ひとりが、「本」の世界にいることは許されない。藤沢周平の文学の核にあるのは、まぎれもなくこの「むかしの農家をささえていたモラル」である。>
 多くのプロ作家や評論家からも高い評価を得る藤沢周平だが、その作品群を評したものの中でも、東京生まれの川本ならではともいえるこの視点は出色である。
 ちなみにペンネームの由来だが、「藤沢」は結婚のわずか4年後にがんで早世した最初の妻の故郷(山形の一地名)であり、「周」はかれが可愛がっていた妻の甥っ子の名である。生後8ヵ月の娘を残して28歳の若さで世を去らざるを得なかった妻の無念が、かれのその後の人生に大きな暗い影となって残ったことがそのペンネームからも窺い知れる。
 藤沢周平こと小菅留治は、21歳で山形師範学校を卒業して念願だった地元中学校の先生になる。しかしその2年後に肺結核が発見され、地元の病院に入院。そして主治医の勧めで東京・東村山のサナトリウムに移り、死の淵を覗きながら30歳までそこで過ごした。その間に片肺と肋骨5本を切除し、命はとりとめたが教師への復職はかなわず、東京で業界紙記者の職を得て、藤沢出身の女性を妻に迎える。その妻が早世したことは先に述べた通りだ。
 かれが小説を書くようになったのは、文章を書くことが好きだったことはあるが、こういった暗い過去や負い目から逃れるただひとつの手段だったからだ。直木賞を獲ってプロ作家となってからも、永いあいだ深い鬱屈の中にいたことをのちに吐露している。
 さて、小菅留治が山形県東田川郡黄金(こがね)村(現鶴岡市)に生まれてから21年後の昭和23年、留治が山形師範学校に通っていたころだが、直線距離でわずか70キロほど北にある秋田県雄勝郡秋ノ宮村(現湯沢市)に菅義偉(よしひで)が生まれた。戦後のベビーブーマー、いわゆる団塊世代だ。
 小菅(こすげ)と菅(すが)―。似た苗字だが、もちろんふたりはまったくの無関係である。ただ最近、自宅にあった『藤沢周平のすべて』を読みかえしていたとき、「むかしの農家をささえていたモラル」という言葉に感慨をおぼえながら、いっぽうで何かいやなものが頭にひっかかる感じがしたのだ。そのとき脳裏に浮かんだのが、菅義偉だった。
 数々のスキャンダルや新型ウイルス対策の失敗でほとんど死に体だった安倍晋三が持病を理由に首相の座を投げだし、本来はその座に就くはずのない人物が形だけの自民党総裁選を経て禅譲された。“棚ぼた”で首相の座を射止めたその人物、菅義偉が総裁選後の挨拶そして総理就任記者会見で、「秋田の農家の長男として生まれた」という決めゼリフを吐いたときにわたしが感じた違和感と不快感を思い出したのだ。
 菅にとって「秋田の農家の生まれ」はいわば最大の“売り”で、ことあるごとにそのセリフを吐いてきた。内なる権力欲をこの決めゼリフと貧弱な言語能力で覆いかくし、嘘のない質実な人柄だと思わせる効果を狙っているわけだが、じつは菅の父は「秋ノ宮いちご」のブランド化を成功させ町会議員を4期務めた地元では知られた人物で、ふたりの姉は大学に行ったが長男の義偉は高校卒業後、農家を継ぎたくないのと父との確執から田舎を飛び出した、あまり出来のよくない凡庸な青年だった。一時、東京・板橋の段ボール箱製造会社で働いていたが、けっきょくは大学進学を目指し、国立に落ちて法政大学に入学する。アルバイトをしながらではあるが、いわゆる苦学はしていない。
 臆面もなく自己アピールするのが政治家のつねとはいえ、世襲議員や高学歴の官僚出身ではなく東北の農家出身で苦学して大学を卒業した苦労人、という世間受けする人物像を演出し、それを“売り”にするあざとさと抜け目なさ。あまつさえ日本学術会議の推薦した学者6人を政権に楯突く徒として−とは口が裂けても言わないだろうが−恬然として拒否する異常なほどの専横ぶりは、いったいどこから来るのかと思っていたときに読んだのが川本三郎の一文だったのだ。
 菅は官房長官として安倍前首相の影となって隠然と権力を揮(ふる)ってきた。政策に異を唱える官僚は左遷させて忖度官僚ばかりを重用し、かれらを使ってモリ・カケ・サクラという3点セットのスキャンダルを公文書の隠蔽や改ざんまでさせて逃げ切りを図り、NHKなどのメディア、さらには学術界にまでも圧力をかけ忖度させようとする強権ぶり。こんな専横を許せば、保身と栄達にのみひた奔(はし)る卑劣漢が社会の中枢を占めるようになり不正や腐敗が常態化するのは理の当然だが、もっと恐ろしいのは、いつしか国民がそのことを大して悪いこととも思わなくなることだ。
 戦後、機械化により農家の労働は楽になった。しかしそれと軌を一にするように農民の心(精神)も農村も大きく変貌し、「むかしの農家をささえていたモラル」は急速に消え失せていった。図らずもその来歴を白日の下にしたのが、東北の農家出身を“売り”にするベビーブーマー首相・菅義偉の登場である。そして「農家をささえていたモラル」とはつまるところ「日本人をささえていたモラル」そのものだと思い至ったとき、わたしはいまの日本社会の情けない淪落ぶりも納得できたのだった。
 しかしあまり悲観しすぎないでおこう。藤沢周平の作品を読めばいつでも懐かしい日本の美しい原風景や凛としたひとびとに出逢えるという事実に変わりはない。その悦びを奪いさることは、いかな権力者でもできないのだから。(文中敬称略)

Text by Shuhei Matsuoka
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posted by ノブレスオブリージュ at 14:50| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする