10年ほど前、事務所として借りていたマンションから実家の一角にある亡父の書庫に引っ越すことを思い立ち、不要なガラクタ類を処分してデスク、パソコン、ソファなどを設(しつら)えて現在に至るまで使用している。父のかなりの量の蔵書(岳父とわたし自身のものも含まれるが)に日々囲まれているわけだ。
わたしの父は知る人ぞ知る変り者だったが、残された本を見ていると人格形成の過程がなんとなくわかる気がして面白く、何より本コラムのような原稿を書くうえでそれらの蔵書がどれだけ役に立っているか知れない。いまでは入手できない本も少なくないからだ。
地声がおおきく喜怒哀楽の激しい典型的な“高知のおんちゃん”であった本好きの父が鬼籍に入ったのはいまから16年前である。葬儀の前夜、喪主であった当時48歳のわたしは参列者を前にどのような挨拶をしようかとあれこれ思いあぐねていた。そう長くはしゃべれないので、ごく簡潔に父の人となりを表現できる言葉はないものか。
そしてふと浮かんだのが、「粗(そ)にして野(や)だが卑(ひ)ではない」というフレーズだった。まさにぴったりだと思ったのだ。
これは『粗にして野だが卑ではない−石田禮助の生涯−』(城山三郎著、文芸春秋)からの引用で、戦前に三井物産で華々しい業績をあげて代表取締役社長にまで栄進し、戦後77歳で第5代国鉄総裁に就任して経営合理化と機構改革に取り組んだ石田禮助が国会で大勢の国会議員たちを前に言った言葉である。
父の葬儀の日は激しい雨であった。出棺を前にしてわたしは、雨の中をわざわざ足を運んでくださった参列者へのお礼と父の一生を簡単に述べたあと、次のように続けた。
「父は社会的な地位や名誉にも、お金にもまったく縁のない男でした。しかし、何者からも自由であり、また思うがまま生きた男でした。幸せな一生だったと思います。そして父の人となりを考えたとき、ある言葉が頭に浮かんできます。それは、<粗にして野だが卑ではない>という言葉です」
しゃべり言葉でこれを言うと相手に意味がわかりにくいので、「粗」「野」「卑」の漢字を想起してもらう説明を加え、石田禮助のことを添えて話したことだった。はたして参列者にきちんと伝わったかどうか心もとなかったが、あとで家内から「理解できたよ」と言われ、すこし安心したことを思い出す。
さて、「粗にして野だが卑ではない」という痛快な言葉を吐いた石田禮助(1886〜1978)とはいかなる人物であったか。
戦後の米軍占領下、昭和24年に設立された日本国有鉄道(国鉄)は当初から問題山積で誰が総裁になっても経営困難と思われていた。初代総裁の下山定則は謎の轢死体となり、第2代の加賀山之雄は桜木町事故の責任をとらされて辞任、第4代の十河(そごう)信二は三河島事故があり、また新幹線予算問題で2期目の任期を全うできず辞職に追い込まれている。当時の国鉄は事故も多く労働争議も苛烈を極めていたのだ。
時の総理、池田勇人は次の総裁にはなんとしても民間から財界人を起用して経営合理化に取り組みたいと考え、経団連会長・石坂泰三に人選を依頼した。池田のライバルだった佐藤栄作の国鉄への影響力を殺(そ)ぐ意図もあったようだ。
だがそもそも石坂自身が初代総裁就任を現役の身だからと断り、小林一三なども「何ひとつ権限のない仕事をやらせる気か」と撥(は)ねつけ、けっきょく運輸次官だった下山が総裁になった経緯もあるほどで、石坂は次の総裁人選にあたり松下幸之助や王子製紙の中島慶次などからも断られ、困り果てて最後にダメ元で親友の石田禮助を頼ったのである。石田は当時、十河からたのまれ国鉄の監査委員長をしており内情に詳しいこともあった。
だが、石田が「乃公(だいこう)出でずんば」とばかりこれをすんなり受けたことに当の石坂が逆に驚いた。どう考えても、功成り名を遂げた財界人なら誰もがやりたがらない晩節を汚しかねない大仕事なのだ。おまけに77歳という高齢である。
石田は高橋圭三との対談で言っている。
「あれら(断った財界人ら)は一国一城の主で、安定してらぁ。(笑)こんなところにノコノコ入ってくるのは、ちょっと狂い気味だね。(笑)またそういうのをひっぱってきたって、わかりゃせんわ」
アメリカを中心に海外生活28年、辣腕の商社マンとして商売に徹した半生を過ごしたかれにとって、晩年には金儲けとは無縁のパブリック・サービスに奉仕したいという思いが強かった。総裁就任についても「パスポート・フォア・ヘブン(天国への旅券)だ」と言い、総裁報酬は年1本のブランデーのみとして金銭を受けとらなかった。いやそれどころか、池田総理から勲一等叙勲の申し入れがあったときも、「おれはマンキー(山猿)だよ。マンキーが勲章下げた姿見られるか。見られやせんよ、キミ」と一笑に付して辞退している。「役人ごときに人物評価され、おまけに順位をつけられるいわれはない」と叙勲を辞退する人物もいるにはいるが、このあっけらかんは見事のひと言だ。
昭和38年、第5代国鉄総裁就任にあたり、石田は慣例によって国会で挨拶をすることになった。国鉄は国が100%の株式を持つ国有公社なので、国会は株主総会のようなものだ。
ところが、まっすぐ背を伸ばした長身の石田はそこで開口一番、「諸君!」とやって、ふだん周りから「先生」と呼ばれる代議士たちを面食らわせた。そして「わたしは嘘は絶対につきませんが、知らぬことは知らぬと言うから、どうかご勘弁を」と述べたあと、「生来、粗にして野だが卑ではないつもり。丁寧な言葉を使おうと思っても、生まれつきでできない。無理に使うと、マンキーが裃(かみしも)を着たような、おかしなことになる。無礼なことがあれば、よろしくお許し願いたい」とまったく異例の、というより痛快無比な挨拶をし、そしてとどめに「国鉄が今日のような状態になったのは、諸君たちにも責任がある」と言い放ったのだ。議場はざわつき、代議士たちから怒りの声が上がったのは云うまでもない。「なんだ、この無礼な爺さんは!」というわけだ。
就任後の石田はまさに矍鑠(かくしゃく)として6年間にわたり国鉄改革に力を尽くし、社内に企業精神を植えつけて引退した。引退後は一農園主として国府津(こうづ)(神奈川県)に隠棲、92歳の天寿を全うした。最後の言葉は、「今年の稲はどうだ」だった。葬儀は国府津の自宅で行われ、参列者もすくなくきわめて簡素であったという。
石田は生前、「葬式なぞは簡素にするものだ」と言い、自分の葬儀についても口酸っぱく妻に言い含めていた。曰く「死亡通知を出す必要はない」「物産や国鉄が社葬にしようと言ってくるかも知れぬが、おれは現職ではない。彼等の費用をつかうなんて、もってのほか。葬式は家族だけで営め」「香典や花輪は一切断われ」「戒名はなくてもいい。天国で戒名がないからといって差別されることもないだろう」「葬式が終わった後、内々で済ませましたとの通知だけ出せ」等々。これを妻は忠実に守った。
この遺言は、95歳で世を去った石田よりすこし先輩の「電力の鬼」松永安左エ門を思い起こさせる。「官吏は人間のクズである」と公言して憚らなかった自由主義者で、一貫して野にあり、いまの民営9電力体制を創り上げた男だ。この爺さんの遺言状もすごい。
<何度も申し置く通り、死後一切の葬儀・法要はうずくの出るほど嫌いに是れあり。墓碑一切、法要一切が不要。線香類も嫌い。死んで勲章位階(もとより誰もくれまいが友人の政治家が勘違いで尽力する不心得、かたく禁物)これはヘドが出る程嫌いに候。財産はセガレおよび遺族に一切くれてはいかぬ。彼らがダラクするだけです。…>
松永も石田に負けず劣らず、「粗にして野だが卑ではない」男であったが、明治生まれの傑物はやはりケタが違う。それを思えば、いまの政財官界でふんぞり返る連中がいかに小者で、そして何よりいかに卑なることか。
ところで、父の書庫を事務所にすべく蔵書を整理したところ、石田の著書『いいたいほうだい』(日本経済新聞社)、さらに城山三郎の『粗にして野だが卑ではない』も発見した。そうか父も読んでいたかと感慨深いものがあったが、息子が自分の葬儀でそれを引用するとは想像もしなかったろう。
いまにしてみれば石田禮助の名言をわが父の葬儀で使ったのはいささか“子の欲目”であったが、父を知る参列者にはそれなりに納得してもらえたはずである。そして何より、「かく云うおぬしはどうか」と自問自戒する機縁になったことに意味はあったと思っている。
Text by Shuhei Matsuoka
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