明治3年に土佐藩が送り出した英国留学生5人の中に、のちの民権家馬場辰猪のほか明治洋画界の草分けとなる国沢新九郎(明治10年死去)がいた。国沢は法律の勉強を命じられていたが、画家に転向して明治7年に帰国、東京麹町平河町に洋画塾「彰技堂」を開いて人気を博すようになる。このあたらしい画塾に、佐倉藩出身の20歳の聡明な若者が入塾する。のちの洋画家浅井忠(ちゅう)(1856〜1907)である。
夏目漱石の『三四郎』に、美禰子と三四郎が絵画の展覧会「丹青会」に行く有名なくだりがある。画家の原口が三四郎に「深見さんの水彩は普通の水彩の積りで見ちゃ不可ませんよ。何処までも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、中々面白い所が出て来ます」と言い残して野々宮と出て行き、次のように続く。
<細長い壁に一列に懸っている深見先生の遺画を見ると、なるほど原口さんの注意した如く殆んど水彩ばかりである。三四郎が著るしく感じたのは、その水彩の色が、どれもこれも薄くて、数が少くって、対照に乏しくって、日向(ひなた)へでも出さないと引き立たないと思う程地味に描いてあるという事である。その代り筆が些(ちっ)とも滞っていない。殆んど一気呵(か)成(せい)に仕上げた趣がある。絵の具の下に鉛筆の輪郭(りんかく)が明かに透いて見えるのでも、洒落(しゃらく)な画風がわかる。>
丹青会とは、明治41年に上野で開催された太平洋画会第6回展のことで、ここで深見先生こと浅井忠の回顧展が開催されていた。浅井はこの展覧会の前年、明治40年に京都で51歳で亡くなっている。
夏目漱石はひと回り年配の洋画家浅井忠を畏敬してやまなかった。上の『三四郎』の文章からも、浅井の絵の質の高さを世に知らしめる意図が窺えるし、『それから』にも「湯呑には、京都の浅井黙語の模様画が染め付けてあった」と浅井を登場させているほどだ(「黙語」は浅井の号)。
漱石は明治33年10月に英国留学の途上パリに立ち寄り、ひと足先に同地に44歳という遅い留学をしていた浅井を訪ねている。浅井は明治29年に東京・上根岸に居を構えたことで近くに住むジャーナリストの陸羯(くがかつ)南(なん)や正岡子規と交流を深め、子規庵にも出入りするようになっていた。漱石はその子規の紹介で、パリの浅井を訪ねたのである。このときの出会いがふたりの初対面らしく、よほど気が合ったのか2年後の明治35年には日本への帰国途上の浅井がロンドンの漱石を訪ね、下宿に4日間も滞在しているのである。
漱石は浅井没後、明治41年の講演で次のように回想している。
「私が先年倫敦に居った時、此間亡くなった浅井先生と市中を歩いたのであります。其時浅井先生はどこの町へ出てもどの建物を見てもあれは好い色だ、これは好い色だと、とうとう家へ帰る迄色尽しで御仕舞いになりました。流石画伯だけあって、違ったものだ、先生は色で世界が出来上がってると考えてるんだと大いに悟りました」
わかいころ建築家志望だった漱石は、留学時代から美術工芸誌「The Studio」を定期購読するほどの美術好きで、かれの芸術観の基層には当時欧州を席巻していたアーツ・アンド・クラフツ運動やアール・ヌーヴォーの影響、そして洋画家浅井忠の存在がどっしりと盤踞(ばんきょ)していたはずである。
また子規が「写生」に目覚めるのも浅井忠との出会いによる。浅井はわかい弟子の中村不折(ふせつ)(画家・書家)を子規に紹介し、その不折をして浅井が師フォンタネージから学んだ絵画技法である写生の本質を子規に伝授せしめ、子規はそれを俳句や短歌にも応用するようになる。漱石の『吾輩は猫である』初版本の上巻挿画を不折、中・下巻を浅井が描いていることからも漱石・子規と画家の浅井・不折の親密さが見てとれるだろう。
さて浅井の洋行が決まってのち、明治33年1月16日に陸、子規のほか画家や俳人など10人ほどが集まり子規庵で送別会が開かれた。長身で端正な風貌の浅井をいつも「先生」と呼び尊敬してやまなかった子規であったが、病の悪化で死を覚悟していたかれはそのとき「先生のお留守さむしや上根岸」の句を詠み、もう会えぬかもしれぬ浅井を哀惜したのである。しかしさいわいにも浅井は帰国後、開校予定の京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)の教授として京都へ移住する前に子規を見舞うことができたのだ。このわずか3週間後に子規は亡くなる。
浅井は子規没後、ホトトギスの子規追悼集に「子規居士弄丹青図」を描いて子規を哀悼している。サラサラと鉛筆で描いたような戯画風の絵で、縁側のほうにころがる3個の柿と鉢植えの花を写生しているのだろうか、無精ひげの子規が床に横になったまま絵を描いている。生前の子規の特徴をよくとらえた愛情あふれる絵だ。
このように明治の文化人たちにおおきな影響を与えた“日本近代洋画の父”浅井忠はしかし没後、薩摩出身で11歳年少の黒田清輝(せいき)の陰に隠れてしまい、作品のレベルのみならずその先駆的業績すら過小評価されてきた感がある。浅井の生きた明治という時代は、社会のあらゆる分野が薩長土肥、なかんずく薩長二藩の下級武士たちによる「薩長に非ずんば人に非ず」と云われるほどに強力な藩閥政治の只中にあり、絵画芸術もむろんその埒外にはなかったのだ。
浅井忠は、江戸東方の要衝であった下総の佐倉藩(現千葉県佐倉市)出身である。同藩は幕末、英邁な藩主堀田正陸(まさよし)(のち幕府老中首座)が江戸の蘭方医佐藤泰然を招き、大坂の適塾と並び称される高名な蘭学塾「順天堂」(現順天堂大学の前身)を創設するなど学問分野におおくの俊才―思想家の西村茂樹、外交官の林董(ただす)、医者の松本良順、農学者の津田仙(せん)など―を輩出したことで知られるが、戊辰戦争で新政府軍の前にやむなく恭順、禄高三百石の藩士の長男であった浅井忠之丞(のちに忠と改名)は朝敵の子、負け組として冷や飯を食うことになるのだ。
一方、勝ち組である薩摩の子爵の養子として何不自由なく育った黒田清輝は、明治17年に弱冠18歳でフランスに留学する。もともとは政治家を目指し法律を学ぶ予定だったが、土佐の国沢新九郎同様に絵画に興味が移り転向する。この10年間にもわたる優雅な留学生活が、黒田におおきな僥倖をもたらすことになる。
黒田の洋行中、国内では岡倉天心とフェノロサによる洋画排斥運動が燃えさかり、洋画家たちは死に体も同然になっていたのだ。展覧会での洋画展示も禁止され、明治22年に開校された東京美術学校(学長は岡倉天心)にも西洋画科は設置されないという逆風下、洋画家のリーダー格であった浅井は日本初の美術団体「明治美術会」を創設して必死に踏ん張っていた。そんな矢先の明治26年7月、薩閥のプリンス黒田清輝が帰国する。
黒田の帰国は浅井ら洋画家に朗報と思われたが、黒田は帰国の3年後に明治美術会と袂を分かって新グループ「白馬会」を創設し、その翌月に天心は東京美術学校長を罷免され同校に西洋画科が設置されると同時に黒田が教授に就任、洋画界は政治に翻弄されつつ内部分裂してゆく。印象派風の明るい絵を描く白馬会の画家らは外光派・紫派と呼ばれてもてはやされ、浅井らは脂(やに)派・旧派と揶揄されるようになるのだ。日本の美術界はすでに黒田清輝を中心に回りはじめていたのである。
そんな流派同士の不毛な争いにほとほと嫌気がさしていた浅井に突然、文部省からパリ万博の監査官任命と2年間のフランス留学の命が下る。浅井は渡りに船とばかりに翌年の明治33年に渡欧、帰国後は東京美術学校教授を辞して京都に赴き、京都高等工芸学校開校と同時に教授として図案科で美術やデザインを教え、聖護院洋画研究所のちに関西美術院を創設して後進の指導を行うようになる。派閥争いにうつつをぬかす東京の美術界をよそに、浅井は京都で悠然と油絵、水彩画、陶芸のほか洒脱なデザイン画を描き、のちの日本画壇を代表する梅原龍三郎、安井曾太郎、津田青楓らを育ててゆくのである。
だが残念なことに、そんな生活も永くは続かなかった。
京都に移住してわずか5年後の明治40年暮れ、美術・工芸の革新を目指した天性の芸術家は、時代の波に翻弄されながら51年の生涯を古都の地で閉じるのである。死の間際まで関西美術院と京都高等工芸学校の学生らを気にかけ、「どうか美術院も学校も宜しく頼む」と言い遺したという。
実を云うと、わたしはその旧京都高等工芸学校、現在の京都工芸繊維大学の建築工芸学科卒である。同科は昔の図案科であるから、不肖ながらわたしは浅井忠の遥か遠い弟子ということになる。そう勝手に決めこんで、最近はヘタな素描や水彩画をはじめている。お手本は云うまでもなく、浅井黙語先生である。
Text by Shuhei Matsuoka
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