現代小説を主に書いてきた作家などが晩年になって歴史分野に足を踏み入れることは珍しくない。
古くは森鴎外晩年の『阿部一族』『興津弥五右衛門の遺書』などの一連の歴史小説や島崎藤村の『夜明け前』、戦後も安部公房『榎本武揚』、大岡昇平『天誅組』『堺港攘夷始末』(未完で遺作)、松本清張も相当な数の歴史作品を残し『両像・森鴎外』が遺作となった。また戦後を代表する文芸評論家の小林秀雄は晩年に『本居宣長』を著し、ジャーナリストの大宅壮一も還暦を過ぎてのち明治天皇崩御から幕末までを逆にたどるユニークな歴史大作『炎は流れる』をものしてこれが遺作となった。
こういった例は挙げればきりがないが、考えてみれば職業的物書きでなくても、ふつうの勤め人などがある年齢に達すると「オレはいったい何者で、どこからきたのか」という観念に囚われ、自身の家系に興味を持ちはじめ歴史小説などを好んで読むようになる傾きがあり、そんな例はわたしの身近にも少なくない。
むかしから歴史を学ぶことは士族など支配階級の重要な教養の一部であり、近代以降にもその風習はある程度引き継がれているのかもしれぬが、作家を名乗る者ならなおさら、自国の歴史もロクに識らないようではいくらなんでも情けない。きっとそんな心情も手伝って壮年期から歴史に興味をもつようになるのだろうが、ただ上に挙げた後世に遺るような作品群は、作家たちの深奥にある何らかの必然性から生まれたものと断言していいだろう。鴎外が、敬慕してやまなかった乃木希典の殉死を機に歴史小説を書きはじめたことはあまりに有名だ。
その意味で、高知出身の作家安岡章太郎(1920〜2013)が晩年に完成させた歴史小説『流離譚』はまさにその代表例と云っていいかもしれない。ただこの作品はほかと比べてもまことに特筆すべき点がある。分厚い上下本で1600枚の大作であることもさることながら、幕末から明治にかけての激動の日本近代史が天性の作家との運命的な出遭いによって紡ぎ出された、いわば書かれるべくして書かれた稀有な作品となっていることだ。
「私の親戚に一軒だけ東北弁の家がある。」という印象的な書き出してはじまるこの作品は、香美郡山北村(現香南市香我美町山北)で明治維新まで永く郷士として暮らしてきた安岡一族(本家、お上、お下、お西と呼ばれる血族4家族があり章太郎はお下の出)を核に据えた物語だが、作品化が可能になったのは家系図や相当量の古い書簡などが保存されていたことにくわえ、お西の惣領だった安岡文助の31年間(天保5年〜慶応元年)にわたる日記が新たに発見され、その報が東京の安岡章太郎の下に届いたことによる。これを見た安岡は、いよいよその時がきたかと覚悟を決め、膨大な史料との格闘がはじまるのである。
それというのも、文助が坂本龍馬の長兄権平や寺田寅彦の祖父宇賀市郎平(文助の親戚でもある)らと親しく、さらに息子3人がすべて武市瑞山(半平太)を党首とする土佐勤王党に入党し、土佐藩の参政吉田東洋を暗殺した刺客のひとり次男嘉助は脱藩後に吉村寅太郎が率いる天誅組の一員として大和で戦ってのち捕縛され京都の六角獄舎で刑死、長男覚之助は板垣退助を総督とする土佐藩迅衝隊の小軍監として戊辰戦争の会津戦で討死、また三男道之助は戊辰戦争で生き残り維新後に自由民権運動に投じて立志社で板垣退助や片岡健吉らと活動するという日本近代の真っ只中を駆け抜けた奔走家だったことが、手紙や日記などからかなり詳(つまび)らかになったからだ。
むろん安岡自身も一族の歴史、わけても死後に維新の功臣として顕彰され一門の誇りとなった覚之助や嘉助については父親や親類から漏れ聞き多少なりの興味はあったろうし、土佐を舞台にした作品も多い旧知の司馬遼太郎などから「そりゃ作家たるもの、それを書かん手はないで安岡さん」などと冗談半分でせっつかれていたのではないかとわたしは勝手な想像をしているが、親類宅から文助の日記がたまたま見つかったことで、いよいよ骨の折れる仕事に本気で取り組む気になった。50代半ばという作家としての円熟期だったことも本人をして決断させるに十分だったろう。
『流離譚』はもともと文芸誌『新潮』に昭和51年3月号から56年4月号まで、56歳から61歳の5年間にわたり掲載されたものを同年12月に単行本化したものだが、翌年にはさっそく文芸春秋社から司馬との対談企画が持ち込まれ、昭和57年の『オール讀物』6月号でふたりは対談(司馬の対談集『八人との対話』に転載)する。
その冒頭、司馬は「『流離譚』はいい小説でした。ああいうのは、何十年に一作というようなものですね。」といきなりベタ褒め。安岡は「おそれいります……。なんかテレくさいもんですなあ。(笑)」という具合だ。先生に褒められて恥ずかしそうにしている生徒みたいだが、安岡より3歳年少とはいえ相手は歴史小説の大家なのだからどうも仕方がない。プロはやはりプロから認められることが一番のご褒美で、対談自体もふたりの息が合ってとても面白い内容である。
対談の最後、安岡は岩崎弥太郎が捕吏として嘉助を大坂まで追った因縁を述べたあと「実はうちに、安岡文助っていう安岡嘉助の親父宛に、<弥太郎>って書いたぼろぼろの手紙が一つありましてね…あまりにぼろぼろで判読できない。」と言うと、司馬が岩崎や後藤象二郎の話をし、「とにかく土佐というのは諸国とはちがっていろんな人間が詰まっているという感じでまだまだ論じることができるんだけれど、『流離譚』のおかげで我々はだいたい”土佐”を卒業できたということは言えるようですね。」と対談を結んでいる。
もうひとり、『流離譚』をことのほか評価した人物がいる。小林秀雄だ。
亡くなる前年、79歳だった小林の最後の評論となったのが『新潮』(昭和57年新年号)に掲載された「『流離譚』を読む」である。
<矛盾撞着する資料の過剰…、それが歴史資料といふもの本来の厄介な姿である事は、上巻の書き出しから、下巻の末尾に到るまで、手に入る限りの歴史資料を集め、歴史事実の吟味に、少しも手を休めなかつた作者には、無論、よく解つてゐたであらう。苦しいほどよく解つてゐた筈だと、私は言ひたい。資料との、争ひと言つていゝやうな緊張した対話を、紙上で、あからさまに続けて行く作者の意識が、おのづからこの長編を貫く強いリズムを形成し、それが読者の心を捕へるのを感ずるからである。こゝら辺りに、この作家が開拓した、歴史小説の新手法があると見てもよいのではないか。>(単行本上巻の帯に掲載)
ふつう歴史作家は多くの史料を読み込んで事実の断片を頭に入れ、それを自家薬籠中のものとして物語を構築し作品化するものだが、『流離譚』の作者はそれをせず、あえて自家史料を表に出して読み解き、不明箇所があれば筆者の真意を探り、多くの既存史料と比較し、可能な限り正確さを期するといった作者自身の姿を”あからさまに”読者の前に披瀝して、なおかつ練達の作家ならではこれらを見事に再構成し作品にしているのである。そのことを小林は云っているわけだ。ちなみに小林は安岡が『新潮』に同作品を連載中の昭和53年に『本居宣長』で『流離譚』と同じ日本文学大賞を受賞しており、ふたりはどこかしら因縁めいてもいる。
すこし余談だが、村上春樹がもっとも影響を受けた日本の戦後作家として安岡章太郎を挙げているのも面白い。ふたりの文体や作品内容にまったく共通点がなさそうなので意外な印象を受けるが、安岡の初期の短編の数々を読んで文章のうまさに驚嘆したという。そういえば『海辺のカフカ』という表題はもしかしたら、安岡が作家としての地位を確立した『海辺の光景』(芸術選奨、野間文芸賞受賞)へのオマージュではないかと想像させる。これは安岡自身とおもわれる主人公が高知の海辺に建つ精神病院で母親を看取る姿を描いた私小説風の作品で、最初に講談社の文芸誌『群像』に掲載され単行本化されたものだが、村上のデビュー作「風の歌を聴け」(群像新人文学賞受賞)が同じく『群像』に掲載されたのが昭和54年6月、ちょうどそのときライバル文芸誌の『新潮』で安岡が「流離譚」を連載中だったのだから、偶然とはいえこれも奇縁である。
山北の田園地帯には安岡章太郎の先祖が約200年前から暮らしたお下の家が現存しており、国の重要文化財に指定され保存されている。練塀に囲まれた2500uにもおよぶ広々とした敷地に主屋のほか蔵などが並ぶ立派な郷士屋敷は7年半にわたる改修工事を2019年に了(お)え、昨年6月には前庭に『流離譚』の文学碑も建った。歴史の風韻に包まれた静謐な佇まいが印象的な、『流離譚』の故郷である。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html