2022年09月25日

さらば反知性主義

 久しぶりに痛快な本に出会った。気鋭の政治学者・白井聡(1977年生まれ、京都精華大准教授)の渾身の一冊、『長期腐敗体制』(角川新書)である。
 同書は朝日カルチャーセンターでの連続講座「戦後史のなかの安倍・菅政権」(2021年3月〜6月)の講義録を全面的に改稿・加筆したもので、小難しい論文とちがって読みやすいこと甚だしく、帯にはデカデカと「なぜ、いつも頭(トップ)から腐るのか!?」の文字も踊る。装丁に一種キワモノっぽさがあるものの、著者は30代半ばで「石橋湛山賞」「角川財団学芸賞」を受賞するなど早くから頭角を現した本格派の思想史家・政治学者である。
 『長期腐敗体制』は2012年に発足した第2次安倍政権から菅、岸田政権へと連綿としてつづくこの10年間を不正・無能・腐敗という悪徳の3拍子が揃った戦後最悪の「2012年体制」(命名は政治学者・中野晃一)と位置づけ、その実相を見事な筆さばきで腑分けしてみせる。もちろんこの体制の基礎構造はすべて安倍晋三政権時のいわゆる「安倍一強体制」によって堅固に構築され、菅・岸田はそれを引き継いだにすぎない。
 「モリ・カケ・桜」など重大な醜聞(スキャンダル)の数々で露呈した行政府の劣化と不正・腐敗の本質、経済政策「アベノミクス」の失敗とその原因、外交・安全保障政策の矛盾と問題点などを俎上にあげ、日本社会がいまや抜き差しならぬ事態に陥った最大の原因が「2012年体制」にあり、野党の体たらく以上にこの体制を「だらしなく肯定」してしまった市民の無知と無気力にその淵源をもとめるのも納得的だ。
 ところで同書は安倍元首相が凶弾に斃(たお)れるちょうど1か月前の6月10日に発行されたもので、筆者は次のような「あとがき」を書いて筆を擱(お)いているが、そこにドキリとする一言が出てくる。
 <本書はこの10年近くの日本政治の低迷、というよりも転落を概括的に論じました。もちろん、その政治の中心には、自民党が鎮座しています。いま円安が止めどもなく進んでいますが、日銀に打つ手はありません。いよいよアベノミクスというマヤカシのツケを払わせられるときがきたのです。
 言うまでもなく、問題は経済だけではありません。この10年のうちの7年以上にわたって継続した安倍晋三政権は、内政も外政もただひたすら出鱈目(でたらめ)をやっただけでした。結果、日本の統治は崩壊しました。その罪は万死に値します。…>
 そしてまさかの凶事、筆者は背筋が凍る思いだったろう。が、それはさておき紙幅に限りある新書版のためか同書にもすこし物足らぬところがある。この「2012年体制」が露骨な「反知性主義」を内包し、これが日本社会を衰退せしめる大きな要因になっている点に踏み込んでいないことだ。ここでいう反知性主義とは、権力者などが社会から学問や知性を排除するよう志向することで、普通に考えればとんでもないことだが、古今東西を問わず世の為政者はしばしばこの手を使ってきた。社会から知性を奪い批判眼を摘み取れば国を意のままに統治できるからだが、現代においても残念ながらこれは日常の光景となっている。
 たとえば教育学者の佐藤学(東大名誉教授)は、学問を攻撃するクーデタは世界のトレンドになりつつあるとして、ウクライナ戦争で耳目を集めるトルコのエルドアン大統領は2016年のクーデタ鎮圧を逆手に取って新たなクーデタを企て、1年間で15大学を閉鎖、5300人の大学教員と1200人の事務職員を解雇、899人の大学関係者を逮捕して現在の独裁政権を打ち立てた。ロシアのプーチン大統領は2013年以降、ロシア科学アカデミーに権力介入してメディアと学者を粛清して独裁者となった。ハンガリーのオルバン首相も欧州の「学問の自由」の拠点、中央欧州大学(CEU)を存続の危機に追い込み独裁者となった、と述べている(『学問の自由が危ない』晶文社)。反知性主義は、学問と言論(メディア)の封殺からその姿を現しはじめる。
 では「2012年体制」の反知性主義とはいかなるものか。
 前代未聞の出来事が2020年10月、菅義偉政権のときに起こる。「日本学術会議」が新会員に推薦した学者のうち人文・社会科学系の6名を、首相が明確な理由なしに任命拒否した事件である(現岸田政権も任命拒否のまま放置)。この専制的な政権はNHKなどのメディアだけでなく学問分野にまで手を伸ばしはじめたかと世間を震撼させ、「学問の自由」の侵害として1000を超える学協会が一斉に抗議声明を出し、内閣支持率も急落した。
 ここで注意すべきは、すでに安倍政権の2016年ごろから「事前調整」と称して官邸官僚が任命人事に干渉しはじめていたという事実だ。きっかけは2015年、集団的自衛権行使を容認する安保関連法案の審議中に参考意見を求められたすべての憲法学者がこれを「違憲」としたことにはじまる。安倍官邸はこのころから人文・社会科学系の学者を目の敵にするようになり、1949年に科学者の戦争加担への反省から生まれた日本学術会議が2017年に改めて「軍事目的のための科学研究を行わない」との声明を出し、民生技術の軍事利用に前のめりな政権に冷水を浴びせたことが決定的となった。
 公金で運営する組織には政策に異を唱える資格はないと考える安倍政権の官房長官だった菅は、首相になるや「誰がボスかおしえてやる」とばかりに意に添わぬ発言や論文を発表してきた6人を任命拒否し、 “獅子身中の虫”である日本学術会議を無力化していずれは政府機関から放逐することを目論んだのである。
 前出の佐藤は「身震いするほどの驚愕の事件である。政権トップがアカデミー会員の任命を拒否することは、ファシズム国家か全体主義国家の独裁者しか起こさないことである。日本の政治はそこまでおちぶれてしまったのか」(前掲書)と危機感を募らせ、さらに憲法第23条に保障される「学問の自由」の本質は政治権力からの学問の自由と独立性にあり、このいわば「学問の独立」に掣肘(せいちゅう)が加えられたのだと断ずる。菅の一挙は日本学術会議法違反であるばかりか明らかな憲法違反であり、図らずも「2012年体制」の反知性主義を曝け出す象徴的な事件となったのだ。
 ところで、「学問の独立」という言葉で思い出す人物がいる。明治期の前半に活躍した土佐・宿毛出身の政治思想家・小野梓(1852〜1886)である。
 大隈重信が早稲田大学建学の”父”、小野は同じく“母”と称され、学内にある「小野梓記念館」や優れた学術・芸術業績に与えられる「小野梓記念賞」などの存在でその名が知られる。特筆すべきは、小野が”知”と”立憲”を日本に根付かせようと奮闘した日本近代の建設者のひとりであり、大隈重信の腹心として薩長藩閥政権打倒とイギリス型政党内閣制樹立(小野は3年間の英米留学で法律を学んだ)を掲げ、立憲改進党結党や東京専門学校(のちの早稲田大学)の開校・運営に尽力、33年10ヵ月という短い生涯を駆け抜けた俊秀であったことだ。
 小野にとって分水嶺となったのが「明治14年の政変」である。伊藤博文ら薩長勢力は大隈重信、福沢諭吉、岩崎弥太郎の3者連合が政権転覆を企てているという陰謀説をフレームアップし、筆頭参議の大隈以下慶應・三菱系の官僚らすべてを政府から追放する。このとき会計検査院一等書記官だった小野も連袂(れんべい)して辞職する。政変の背後に明治憲法制定に係る対立や世情を騒然とさせていた「開拓使官有物払下げ事件」(開拓使長官の黒田清隆が北海道官有物を薩摩閥の政商五代友厚らにただ同然で払下げようとして発覚)、また全国で激しさを増す民権運動の騒擾(そうじょう)もあり政情不安を案じた天皇も了承せざるを得なかったのだ。
 ちなみにこの政変、驚くなかれ現在にまで悪影響を及ぼしている。クーデタ成功で薩長藩閥政権は盤石化し、これにより最後発の帝国主義国家となった日本は日清・日露・日中戦争、とどめに太平洋戦争を起こして完全に破滅するが、あろうことか戦後も岸、佐藤、安倍と長閥政権はつづき、「2012年体制」として現代社会にまでその弊を瀰漫(びまん)させているのだ。
 さて翌明治15年10月21日、早稲田にあった大隈の別荘の敷地内に新築された東京専門学校で開校式が開催された。この式典で小野は新入生80人を前に、日本ではじめて「学問の独立」という言葉をたかだかと掲げた。明治35年に早稲田大学と改称されてからも大隈は早世した小野の意志を継ぎ、学問の政治権力からの独立をことあるごとに唱え、現在でも「学問の独立」は早稲田を象徴する言葉となっている。
 実は『長期腐敗体制』の著者白井聡は早稲田大学政経学部出身、実父の白井克彦は第15代早稲田大学総長である。稲門の白井聡こそは、「学問の独立」を脅かし社会を衆愚化させるおぞましい反知性主義を排斥する一大勢力になってくれることだろう。(敬称略)

 Text by Shuhei Matsuoka
 単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
posted by ノブレスオブリージュ at 14:29| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする