記録文学や歴史小説の分野におおきな足跡を残した作家吉村昭(1927〜2006)が著した一冊に『関東大震災』(文芸春秋、1973年刊)がある。大正12年に関東南部で発生した大地震とそれに伴う災害の実相を克明に調べて完成させたドキュメントだが、わたしはかつて、次々と描出される凄惨な光景や極限状態の人間の狂気、そして行間から腐臭さえ漂ってきそうな生々しさに気分すら悪くなって途中で読むのをやめてしまった経験がある。
一度に10万人超が死亡するという日本史上最悪の被害をもたらした関東大震災から2023年でちょうど百年を迎える。それを知った時、わたしの中でこの百年をたんなる年表的な区切りで済ましていいものかという問題意識が湧き、最近になって同書を再び書棚から取り出して今度は一気に読了した。そして改めて、この恐ろしい内容こそがまさにいまのわれわれが知っておくべき歴史的事実だと確信するに至った。
1923年(大正12年)の残暑厳しい9月1日の午前11時58分32秒、関東南部を突然の激しい揺れが襲った。震源は神奈川県西部から相模湾北部、深さ約25キロ、マグニチュード7.9と推定されている。フィリピン海プレートが相模湾の相模トラフに滑り込むことで起こる海溝型地震だが、内陸部が震源に含まれたため直下型地震の性質も併せ持っていた。震源域は神奈川県西部から房総半島南部にまで及び、大都市横浜を含む神奈川県一帯が最大震度7の激震に見舞われた。
全死者数は10万5385人(『関東大震災』では20万人余となっているが、のちの研究で修正された)、東京市(現在の東京23区)で6万8660人、横浜市で2万6623人が亡くなった。この震災の特徴はなんといっても同時多発的に発生した火災とその規模の巨きさで、東京市のなんと43.5%が焼き払われ48万戸のうち30万1千戸が焼失、横浜市でも10万戸のうち6万2千戸が焼失した。焼死が死者全体の9割を占め、次いで川や池での溺死(水を求めて殺到した)、建物の下敷きになった圧死の順となっている。
わけても悲惨をきわめたのが、東京市本所区横網町(現墨田区)にあった2万坪強という広大な陸軍被服廠跡(軍服製造工場の跡地)での大惨事だ。建物のないだだっ広い空き地は避難場所に最適と思われ人びとが押し寄せた。その数およそ4万人。ほとんど立錐の余地のない混雑ぶりだったが、最初はみな呑気に昼飯を食べたり遠くの火災を眺めたり、なかには囲碁に興じる者もいた。しかしいつの間にか周囲は火の海となり、午後4時ごろ物凄い火炎とともにゴーという轟音と旋風が起こりはじめ、ついに避難者の運び込んだ大八車の荷物や衣類に飛火して劫火となって襲いかかった。
ここからの阿鼻叫喚の図が生き残った者の証言をもとに淡々とした筆致で委曲を尽くして描かれる。その惨状はわれわれの想像をはるかに超えるが、なにより火災が引き起こす旋風の凄まじさだ。ある女性は、目の前で老婆を背負ったまま男が空中に飛び上がり、荷を積んだ馬車が馬もろとも回転しながら舞い上がるのを目撃しているし、焼けトタンが物凄い勢いで飛んできて、乾いたような音がした瞬間、隣にいた友人の頭部が失われていたとの証言もある。旋風で吹き上げられ、隣接する安田邸(安田財閥創始者の安田善次郎邸)の高さ2メートルもある塀を超え庭園に落下して助かった者もいたが、被災後調査にあたった寺田寅彦は、広遠な安田邸庭園の樹木が凄まじい火炎と旋風でほとんど根こそぎにされ、残った木には焼けトタンが手拭いでも絞ってたたきつけたようにからみつき、自転車もひっかかっていたと報告している。被服廠跡で死体の下にもぐりこむなどして辛うじて生き残った者はわずか2千人、全体の95%に当たる3万8千人が数時間のうちに焼死したのである。
東京市での悲劇は、避難者の持ち出した荷物や家財によると著者の吉村は断定する。道路という道路は荷物を積んだ大八車と避難民で埋まり、それらに飛火して次の住宅街へと延焼しただけでなく逃げ惑う人びとと燃えさかる瓦礫が消防、警察、軍隊の消火・救援作業を不能にしたからだ。江戸時代、火事の恐ろしさを熟知していた幕府は消火の妨げになるため火災時の荷物搬出を禁止し、破った者には罰を与えるとするお触れを出していた。しかしこの歴史的教訓は生かされず、消火能力も格段に高いはずの大正末期に未曽有の惨劇を招いてしまったのだ。
寺田博士は昭和8年、「津浪と人間」と題するエッセーにこう記している。
<「自然」は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にもまったく同じように行われるのである。科学の方則とは畢竟「自然の記憶の覚え書き」である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである。
それだからこそ、二十世紀の文明という空虚な名をたのんで、安政の昔の経験を馬鹿にした東京は大正十二年の地震で焼き払われたのである。>
また吉村は阪神・淡路大震災後の講演で、大地震の際は可燃性のリュックなどを持たず手ぶらで逃げること、ガソリンが入った自動車は発火源になるから絶対に自動車で道に出てはいけない、道路は道路として確保しなければいけないと口をきわめて警告している。
人智の及ばぬ大震災はまた、人間を狂気に奔らせる。当時まだラジオはなく、電話も電話局や電話線が焼失して使用不能となり、頼みの新聞もすべての新聞社が火災などで機能不全となって情報は完全に途絶した。その極度の不安の中で起こったのが、流言の洪水だった。それは富士山が噴火したなどさまざまだったが、朝鮮人の暴徒が襲ってくるという流言はとりわけ人びとを恐怖に陥れた。当時の朝鮮は日本の植民地で、搾取され貧困に喘ぐ人びとが海を渡り日本の土木現場などで下働きをしていた。そのため日本人の中にある種の後ろ暗さがあり、それが根も葉もない流言を生み出したと吉村は結論している。
朝鮮人が井戸に毒を入れている、集団で日本人を襲っている、放火しているといった流言が横浜市から東京方面に瞬く間に拡がり、「朝鮮人約3千人がすでに多摩川を渡って洗足や中延付近に来襲して住民と闘争している」などとおそろしく具体的な流言となって2日後には避難民の口を介して関東全域に拡がった。地震の5日目から一部の新聞が流通しはじめたが、流言をもとに書かれた記事が火に油を注いだ。そして恐怖に怯える住民らによって各地に自警団が組織され、その数は東京府、東京市だけで1145にも上った。かれらは朝鮮人を見つけては日本刀、匕首、金棒、竹槍、猟銃などの凶器を手に襲いかかり、朝鮮人を保護していた警察署すら襲撃する有様で、実に6千人余の罪もない朝鮮人が虐殺されたとの記録もある(正確な数は未だ不明)。
この忌まわしい凶事がわずか百年前の出来事であることに誰しも戦慄するだろう。ただの流言蜚語によって普通の日本人がかくも残虐な暴徒と化した事実はあまりに重い。
ところで、この関東大震災をかなり正確に的中させた地震学者がいた。東京帝国大学地震学教室の助教授だった今村明恒である。今村は震災の18年前、明治38年に雑誌「太陽」に発表した論文で「過去の江戸に起った大地震は平均百年に一回の割合で発生しており、最後の安政の大地震からすでに五十年が過ぎていることを考えると、今後五十年以内に大地震に襲われることは必至と覚悟すべき」とし、大火災によって死者は10万から20万人に達すると予測した。
ところが今村の上司で地震学教室主任教授であった世界的権威の大森房吉は、東京が大地震に見舞われるのは数百年に一度で今村の説はまったく何の根拠もない浮説だと批判し、「現在の東京は道路もひろく消防器機も改良されているから、江戸時代の大地震のような大災害を受けることはない」と一蹴した。しかし結果的に今村説が的中し、大森は世間から厳しい非難を浴びることになる。
現在では海溝型地震は80年〜150年の周期で繰り返されることが判っており、南海トラフだと大雑把ながら今後30年以内の発生確率70〜80%と公表されている。だが歴史的に首都圏は海溝型と内陸直下型の大地震が頻発してきた日本屈指の地震地帯で、直下型は発生時期・規模ともまったく予測不能である。おまけに人口は大正時代とは桁違いで日本の中枢機能が極度に集中する。地震の強さ・規模によっては想像を絶する事態が招来することになろう。
この百年で地震発生後の震源の特定やメカニズム解析などは長足の進歩を遂げたが、これから起こる地震については相変わらず過去の統計が頼りで今村の時代と大差はない。私事だが、首都圏にはわたしの家族や親戚もいるし友人知人も多い。実に気がかりである。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html