嘉永6年(1853年)6月3日、アメリカ合衆国フィルモア大統領の親書を携えたマシュー・ペリー提督が率いる黒船艦隊が、江戸湾口の浦賀沖に突如として現れた。排水量2450トンの巨大な蒸気戦艦サスケハナ号を旗艦とし、同じく蒸気戦艦のミシシッピー号(1692トン)、帆船の戦艦プリマス号(989トン)とサラトガ号(882トン)の4隻で、巨大砲は合計で63門を備えていた。当時の日本では大型船でもせいぜいが千石船の100トンクラス、“たった四杯の上喜撰”で蜂の巣をつついたごとき大騒ぎになったのも頷ける。
しかし、突如といっても実のところ幕府は長崎出島のオランダ商館長から、ペリー率いる使節艦隊の日本派遣が前年の米議会で決まったことを報らされていたし、10年前には大国の清が手もなくイギリスの軍門に下った(アヘン戦争)ことから西洋列強の軍事力が並々ならぬことも知ってはいた。が、かといって大した手も打たず、そのときはそのときで国是である鎖国を理由に拒否すればよいと漫然と座視していたのだ。ところが実際にことが起こってみると、黒船艦隊の大迫力とアメリカ側の戦闘辞さずの強硬姿勢に度肝を抜かれる。
ペリーは、親書への回答を受け取るため翌年に再び来航すると告げ(実際に翌年1月に9隻の大艦隊で再来航)9日後にいったん江戸湾を去ったが、太平の眠りをむさぼっていた江戸の武士たちは大慌てにあわてた。もう不要だろうと質入れしたり売り払っていた甲冑、刀剣、馬具などを買い戻しに走る有様で、武具は高騰して江戸の武具屋や古道具屋はにわか景気に大儲け、「武具馬具屋アメリカ様とそッと云い」という戯(ざ)れ句が流行ったというから嗤(わら)わせる。
その戯れ句からタイトルをとった一書が、反骨のジャーナリスト宮武外骨(1867〜1955)の『アメリカ様』だ。敗戦の翌年、奇しくも東京裁判の開廷日である昭和21年(1946年)5月3日に刊行された。慶應3年生まれの外骨はこのとき80歳。
同書の冒頭にこうある。
<日本軍閥の全滅、官僚の没落、財閥の屛息(へいそく)、やがて民主的平和政府となる前提、誠に我々国民一同の大々的幸福、これ全く敗戦の結果、この無血革命、痛快の新時代を寄与してくれたアメリカ様のお蔭である。…これに加え、我国開闢以来、初めて言論の自由、何という仕合せ、何という幸福であろう。皆これ勝って下さったアメリカ様、日本を負けさせて下さったアメリカ様のお蔭として感謝せねばならぬ。>(ちくま学芸文庫版)
人びとを戦争に駆り立てた軍・政治家・官僚・財閥などを断罪しつつ、自由を奪われつづけた自身の人生を思い起こし、真に平和を取り戻した喜びに溢れている。が、その一方で新たな主人となった敵国アメリカにおもねる奴隷根性の日本人の姿を、アメリカに「様」をつけて諧謔を利かせ、自身を「半米人」と称して自虐的に皮肉る。
生涯にわたり権力を揶揄・批判する新聞、雑誌、書籍を発行し続け、入獄4回、罰金・発禁29回という空前の筆禍史を持つ外骨は、同書でも日米両政府から記事削除などの処分を受けている。ジャーナリズムの凋落著しい現代日本からは想像もできぬ硬骨漢だ。
さてペリーの強圧的な砲艦外交により不平等な日米和親条約締結を余儀なくされた日本は後世にいう幕末期に一気に突入、尊王攘夷を旗印にした新政府軍により徳川幕府は倒され近代国家への一歩を踏み出すことになるが、ペリー来航から3世代ほど経った92年後の1945年、軍拡と攘夷戦争にあけくれ自己肥大化した日本はついにそのアメリカに無謀な戦争をしかけて惨憺たる敗戦を迎えることとなる。
厚木飛行場に降り立った連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは日本を武装解除して占領下におき、二度と戦争をしない民主国家にすべく財閥解体や平和憲法制定などを断行、敗戦の6年後に日本はサンフランシスコ平和条約でやっと名目上の独立国となる。しかし実質は沖縄・奄美群島と小笠原諸島を差し出す日米安保条約を同時に締結して属国となったに過ぎず、政府首脳の「アメリカ様」におもねる習性と奴隷根性はこのときから宿痾(しゅくあ)のごとく身についたのである。
これをもっとも象徴する政治家が岸信介だ。A級戦犯でありながらアメリカ様の「お役に立つ」ことを条件に罪を免れ政界復帰した岸は1957年、保守2政党の合同で55年に結党された自由民主党の第3代総裁そして第56第総理大臣となる。アメリカ一辺倒を否定する徹底した平和主義者の前総理石橋湛山が病で倒れて就任わずか65日で辞任し、アメリカ様の”一の子分”岸信介が権力を握ったこのとき、その後の日本の姿がほぼ決まったといっていい。
ひとつのエピソードを紹介しよう。
太平洋戦争で日本の本土爆撃の任務を負った米軍司令官カーティス・ルメイは、いかに効率的に木造の家を焼き尽くして日本人を大量殺戮するかに執念を燃やし、ユタ砂漠で日本家屋群を再現した施設をつくり実験を繰り返して油脂に水素を添加した焼夷弾(ナパーム弾)を開発する。そして1945年3月の東京大空襲で一晩に8万人を焼き殺したのを皮切りに全国の都市を無差別爆撃し、締めに2発の原爆を投下して日本を文字どおり焦土化する。
その張本人のルメイが1964年に来日したとき、こともあろうに岸の実弟で自民党総裁の佐藤栄作を総理大臣にいただく日本政府はかれに勲一等旭日大綬章を贈ったのだ。日本の航空自衛隊の育成に貢献したことがその理由とされるが、ウクライナ人をもっとも多く殺したロシアの司令官にウクライナ政府が勲章を贈るようなもので、ヘドが出るような奴隷根性である。冷血と残忍さで知られるルメイはのちにベトナム戦争で、「お前らを石器時代に戻してやる!」とナパーム弾の雨を降らしたことでも知られる。
さて現在の日本はどうか。
来日する外国の元首はすべて羽田空港から入国するが、ひとりアメリカ大統領だけは横田基地に大統領専用機で勝手に降り立ち、そこから車で堂々と日本の道路を日本の警察に守らせて走り皇居や首相官邸などにやってくる。その姿はマッカーサーによる占領時代となんら変わらないが、これに日本政府も政治家もだれも文句を言わない。ついでながら、日本は在日米軍駐留経費として、アメリカ様に直接差し出す“思いやり予算”を含め年間8000億円超という巨額の税金をつぎ込んでいる。
さらには“核の傘”という幻想にすがり、核兵器廃絶の先頭に立つべき唯一の被爆国でありながら、その原爆を落とした当事者の宗主国アメリカ様に気をつかい、一昨年に国連で正式に発効した核兵器禁止条約を批准しないばかりかオブザーバー参加すらもしないみっともなさ。最近、フランスの著名な歴史人口学者のエマニュエル・トッドが共同通信のインタビューで「日本の一番の問題は、米国を父親のように見て、従って、独立していないこと」と喝破していたが、外国からは日本は主権国家とは見られていない。
どんな悲惨な災害も戦争も3世代過ぎれば民族の記憶からは消えてしまうというのがわたしの持論だが、ほぼ3世代前の1945年の敗戦でやっと平和が来たと喜んだ宮武外骨も、戦争を知らない戦後世代の自民党リーダー安倍晋三(岸の孫)、菅義偉、岸田文雄とつづくあからさまな対米従属政権がついには集団的自衛権行使と敵基地攻撃能力により世界に冠たる平和憲法―アメリカ様からいただいたものだが―を実質的に放棄し、軍事予算倍増(による武器購入)というアメリカ様への貢ぎ物を決めたと知ったらどんな顔をするだろうか。
ペリー来航を事前に報らされながら漫然と座視した江戸幕府、アメリカの軍事力の強大さを知りながら無謀な太平洋戦争に突入した帝国日本。根拠のない希望的観測と責任逃れしか頭にないわが国権力者のこれは本性であり、現在もそれはまったく変わりない。かつての勢いを失ったアメリカは核大国のロシアや中国と直接に干戈(かんか)を交えることは絶対になく、もし中台間に紛争が発生すれば近接する日本はアメリカ様から“核の傘”の見返りに都合よく手先となるよう仕向けられるだろう。最前線の自衛隊員諸君だけでなく、軍事基地が集中する沖縄などは間違いなくターゲットとなり近隣住民の多くが犠牲になる。こちらが父親と思ってすがっても、宗主国のアメリカ様は日本をたんなる属国としか見ていないのだからこれは当然の帰結だ。
食糧自給率37%、エネルギー自給率12%というひ弱な国が、なにを血迷ったか平和憲法をかなぐり捨て世界第3位の軍事大国になるという。有権者であるわたしたち国民も、そろそろ目を醒(さ)まして投票行動で「ノー」を表明すべき時ではないのか。そのうちチコちゃんに「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と叱られるぜよ。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html