2023年12月26日

巨人熊楠に訊け

 高知城のそばにかつて、丸ノ内緑地と名付けられたちょっとした森があった。追手門の南側、新しい高知城歴史博物館とお堀を隔てた一帯である。この鬱蒼とした森が最近、すっかり消えてしまったのだ。昭和51年に貴重な都市緑地として開設され、半世紀近くを経てやっと樹々も大きくなり一人前の森になりかけたばかりであったが、そのほとんどが伐採され遊歩道と芝生の寒々とした広場になってしまった。
 管理者である高知市のホームページには、高知城の天守が見えるように景観整備、中心市街地にあるオープンスペースとして賑わいの創出、防災機能確保などを目的とし、総工費3億2千万円でリニューアルしたとある。そもそも少し離れれば丸ノ内緑地の向こうに天守は見えたし、火災時に延焼を防ぐのは大きな樹々の生い茂る森であることは常識で、それを潰してまでなぜ広場が必要なのかまったく理解に苦しむが、このあきれた計画に高知市民から反対運動が起こったという話は聞かない。
 規模もその来歴もまったく異なるが、都市緑地の重要性とエコロジーの意義がまったく理解されていないという点で、消えた丸ノ内緑地と東京の明治神宮外苑再開発計画とは明らかに通底している。神宮外苑のシンボルである樹齢百年を超える壮麗なイチョウ並木とその向こうにひろがる鬱蒼とした森を見れば、だれしもが東京の懐の深さを感じるはずだ。都心部には明治神宮内外苑のほか皇居(江戸城跡)、新宿御苑、代々木公園、上野恩賜公園、旧藩主邸宅跡の庭園など広い緑地が点在し、一人当たりの緑地面積は大阪市の倍以上である。これらの都市緑地は貴重な文化遺産であるだけでなく防災上もきわめて重要で、大気・水・河川などと同様に市民が平等に恩恵を受けるべき社会的共通資本である。行政や所有者が好き勝手にどうにかできるものではない。
 神宮外苑の再開発計画は、三井不動産などが事業主体となり、宗教法人明治神宮が大部分を所有する神宮外苑内にある神宮球場や秩父宮ラグビー場など老朽化したスポーツ施設を建て替え、高級マンション、ホテル、オフィスなどが入る超高層ビル2棟と高層ビル1棟を新築する総事業費3490億円という大プロジェクトだ。それがなぜ問題視されるのかといえば、明治天皇・皇后を祀る明治神宮内外苑の創建にあたり都民からの献木や寄付によって創り上げた鬱蒼と生い茂る巨木群がごっそり伐採されるからであり、神宮外苑とは不釣り合いな超高層ビルの存在や工事自体によってイチョウ並木に悪影響が出る可能性がきわめて高いからだ。計画では移植・植樹により緑地は5%増えるというが、破壊された生態系は元には戻らないし、そもそも樹齢百年を超える743本(三井不動産の発表)もの神木を伐り倒すことに一片の罪悪感すら感じないのかと、わたしなどは不思議でならない。
 たださいわいにもこの暴挙に異を唱える人々が出はじめ―そこがわが丸ノ内緑地と違うところだが―音楽家の故坂本龍一を嚆矢として村上春樹などの作家、桑田佳祐などのミュージシャンら著名人がこぞって計画反対を表明、今年9月にはユネスコの諮問機関イコモス(国際記念物遺跡会議)が計画撤回をもとめる緊急要請「ヘリテージ・アラート」を発出するに至った。これにより事業者側もさすがに強引には進められないと判断してか伐採は延期されたが、計画自体を撤回する気はさらさらないようだ。
 丸ノ内緑地の伐採も明治神宮外苑再開発計画も、土地の有効活用や経済効率優先といった浅はかで近視眼的な発想から全国の貴重な鎮守の森などを濫伐してきた所業の延長線上にあるのは論を俟(ま)たないだろう。SDGsなぞと口では言いながら、実態は昔と何ら変わらない。
 さてここで日本人初のエコロジスト南方(みなかた)熊楠(くまぐす)(1867〜1941)を想起したい。
 慶應3年に紀州和歌山に生まれ、大学予備門(のちの東京帝国大学)を中退してのち英米を中心に14年間もの学問修行を経て和歌山に戻り、田辺に居を構えて『ネイチャー』など英文科学誌に論文を次々と発表、世界に向け発信し続けた在野の学者・思想家である。
 熊楠の研究分野は広大無辺で博物学、民俗学、植物学、人類学、宗教学とまさに森羅万象にわたり、並外れた語学力(二十数ヵ国語を自在に操った)で東西の万巻の書を読破し、驚異的な記憶力と集中力で論文や長文書簡を国内外の雑誌や学者宛に書きまくった博覧強記のまさに巨人であった。熊楠と親交のあった民俗学者柳田國男の次の一文は、熊楠の底知れぬ天才の一端をよく表していよう。
 <…ところが我が南方先生ばかりは、どこの隅を尋ねて見ても、これだけが世間並みというものが、ちょっと捜し出せそうにも無いのである。七十何年の一生の殆ど全部が、普通の人の為し得ないことのみを以て構成せられて居る。私などはこれを日本人の可能性の極限かとも思い、又時としては更にそれよりもなお一つ向こうかと思うことさえある。>(『ささやかなる昔』筑摩叢書)
 風貌魁偉で奇行の数々でも知られる熊楠であったが、しかしたんなる変り者の学者ではなく、実に信念の人でもあった。それを象徴するのが明治39年(1906年)に発令された「神社合祀令(ごうしれい)」への、それこそ命がけの抗議運動である。
 中央集権国家を目指す明治政府が、神道の国教化政策の一環として一町村一社を原則とし、その他の小社・小祠を壊して他の神社へ併合させるとした政策で、これにより廃社と決まった神社や祠を取り巻く神木群、いわゆる鎮守の森が破壊されていった。「南方の生涯のハイライトは神社合祀反対運動である」とする社会学者鶴見和子の『南方熊楠―地球志向の比較学―』(講談社学術文庫)によると、1911年までの5年間に全国で約8万社が合併または廃社され、とりわけ三重と和歌山が顕著で三重では6.8分の1、和歌山は4.7分の1にまで減少したという。樹木払下げのカネ目当てに地方役人と業者が結託し、濫伐に拍車がかかったことが決定的となった。
 これに怒ったのが熊楠だった。熊楠は1909年から地元紙に神社合祀反対の意見を発表しはじめ、翌年には神社合祀推進者の県吏に面会を求め講習会場に乱入、家宅侵入罪で逮捕され18日間拘留される。1911年には柳田國男が熊楠の神社合祀反対意見書を「南方二書」として印刷し関係各所に配布、1912年には『日本及日本人』に2万8千字におよぶ「神社合併反対意見」を連載するなど、抗議運動に生活のすべてをかけるようになる。フンドシ一丁で大楠の前に立ちはだかるなど荒れ狂う熊楠を見て、神社の宮司の娘である妻松枝が子どもを置いて実家に帰ると泣きわめいたとき、出刃包丁をもった熊楠が馬乗りになり、お前がそのようにふらふらしては困ると諭したエピソードもあるほどで、まさに命がけの抗議運動だったのだ。
 こうした熊楠の人生をかけた不退転の抵抗のすえ、ついに1918年(大正7年)、国会で神社合祀令の廃止が決まり、実に11年間におよぶかれの闘いは終わる。2004年に「紀伊山地の霊場と参拝道」が世界遺産に登録されたが、これなどまさに熊野の森を救った熊楠のお蔭なのである。
 熊楠は、自然を破壊することはその土地の生態系のみならず人間社会の破壊につながることを必死で説き続けた世界でも先駆的なエコロジストであった。実際に1911年(明治44年)の柳田への書簡で、田辺湾に浮かぶ神島(かしま)について「昨今各国競うて研究発表する植物棲態学ecologyを、熊野で見るべき非常の好模範島なるに…」と述べ、かれの思想の根幹に明治末期においてすでに生態系エコロジーの発想があったことを示している。
 さらには因果応報というべきか、この書簡にある熊楠の愛した神島が、晩年のかれに奇跡のような僥倖をもたらすことになる。熊楠の神社合祀反対運動により辛うじて自然が守られた象徴的なこの島に1929年(昭和4年)、南紀行幸の昭和天皇を62歳の熊楠が迎え、粘菌標本を献呈して35分間進講するという栄誉が与えられたのだ。この一椿事は、原生生物の研究者であった昭和天皇の政府への皮肉な意趣返しともとれ、また献呈された粘菌標本110種が桐の箱ではなくキャラメルの箱に入れられていたことを天皇が面白がって、「あれでいいではないか」と嬉しそうに側近に語ったという逸話も残っている。
 天皇はのちに、<雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ>と詠み、在野の巨人熊楠を哀惜している。
 いまの日本人は、はたして熊楠や昭和天皇ほどに自然への畏敬の念をもっているか、エコロジーの真意を理解しているのか。消えた丸ノ内緑地や神宮外苑の再開発計画を見るにつけ、わたしは暗澹たる思いになる。森林破壊に命がけの抵抗をした先駆的エコロジスト南方熊楠の射るような鋭い眼光は、われわれ現代人にこそ向けられているのだ。(敬称略)

 Text by Shuhei Matsuoka
 単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
posted by ノブレスオブリージュ at 09:21| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする