2008年09月11日

無冠の先駆者 竹内明太郎

 わが国初の純国産自動車が世に出たのはいまから94年前、大正3年(1914年)の大正博覧会に出品された「DAT(だっと)号」だと言われている。開発者は橋本増次郎という人物で、「DATSUN」(ダットサン)と名を変えてのちに日産自動車に引き継がれ、日本車の代名詞となる。
 さてこの「DAT号」という変わった名前、“脱兎のごとく”早く走るという意味と、もうひとつ重要な意味が隠されていた。3つのアルファベットが田健次郎、青山禄郎、竹内明太郎という3人の開発支援者の頭文字になっていたのだ。
 この竹内明太郎という人物、国産第1号車の開発に関わっただけではない。じつは世界第2位の建機メーカーに成長したコマツ(小松製作所)を創業し、早稲田大学理工学部そして高知工業高校を創設するなど技術者育成に情熱を傾け日本の工業技術発展に大きく貢献した土佐人なのである。大隈重信が「無名の英雄」と称えつづけた知られざる英傑の生きざまを紹介しよう。

 竹内明太郎は万延元年(1860年)、「桜田門外の変」の3日前に土佐・宿毛の竹内家の長男として生を受けた。攘夷か開国かで国論が二分し、新しい世に向けて国中が沸騰しはじめたころである。
 父の竹内綱は土佐藩の支藩、宿毛領の領主だった伊賀家の藩士で、明治維新後は板垣退助、後藤象二郎などと結んで自由党の結成に奔走し、自由民権運動で活躍。板垣が岐阜で遊説中に刺され、「板垣死すとも、自由は死せず」の名文句を吐いたとき、真っ先に駆け寄り胸に刺さった短刀を引き抜いたことでも知られる。明治23年の第1回衆議院議員選挙で高知1区から出馬して民選後初の国会議員となり、その後は鉱山経営に乗り出すなど経済界でも活躍する。ちなみに吉田家に養子にやった五男、茂は昭和のワンマン宰相・吉田茂。明太郎の実の弟(異母弟)である。
 さてその明太郎、10歳のとき父綱が大阪府の小参事になったため一家は宿毛を離れ、14歳のとき綱の大蔵省勤務により上京して土佐出身の思想家、中江兆民の仏学塾に通うようになる。この兆民との出会いが、明太郎の後の生き方に大きな影響を与えたと考えられる。
 明太郎が成人してのち、父綱が竹内鉱業という鉱山会社を設立したことで、綱とともに本格的な経営者の道を歩みはじめる。明太郎の活躍はこのときからはじまる。
 経営を任された明太郎は最新の技術を積極的に導入し、茨城無煙炭鉱、佐賀県唐津の芳谷炭鉱、大夕張炭鉱、石川県小松の遊泉寺銅山など全国屈指の優良鉱山をもつ鉱山会社に成長させ、全盛期には三井や三菱と肩を並べるほどの勢いであった。だが明太郎は、政商として強大化するほかの財閥とはまったく別の方向に歩みはじめる。
 いくら優良な鉱山、炭鉱であっても埋蔵資源は有限でいつかは枯渇する。そうなれば地元住民は仕事を失い、地域経済は死んでしまう。それぞれの地に、地下資源に頼らずとも生きていける地場産業、とくに機械工業を興すべきだと明太郎は考えたのだ。
 当時の経営者としてはまさに慧眼と言えようが、じつは明太郎の先駆的な発想の背景にはある貴重な体験があった。明治33年(1900年)に渡欧してパリ万博を見学したとき、欧州諸国の驚くべき工業力に圧倒され、大きな衝撃を受けたのだ。工業化を急がねば、日本の発展は到底望めないし、やがて列強に呑み込まれてしまう。そう痛感した明太郎は帰国後、日本の工業化と人材育成にすべてのエネルギーを投入していく。そこには自らの鉱山会社の繁栄や蓄財などという卑小な発想は微塵もなく、日本という国の行く末のみを憂う幕末の志士さながらの使命感が彼をつき動かしていたのである。
 明太郎はさっそく、全国有数の銅山だった石川県小松の遊泉寺銅山に小松鉄工所(初代所長は「DAT号」開発者の橋本増次郎)と小松電気製鋼所を設立。大正10年に2社は統合されて小松製作所と改名され、油圧ショベルなどの建設機械や産業機械の世界トップメーカー「コマツ」の礎を築いていく。同時にこのころ、見込みのある社員を次々に海外留学させ先進技術を学ばせるとともに、私費で郷里高知に工科大学をつくる計画を進めていたのである。
 一方、早稲田大学を創立した大隈重信も同じころ、工業分野の人材育成のため理工学科の新設を目指していたが、資金面や人材面で難航し、実現が危ぶまれていた。それを知った明太郎は、自らの工科大計画をそっくり早稲田大学へ寄付することを申し入れる。当時日本最高峰だった海外留学組を惜しげもなく早稲田の教授陣として差し出し、そればかりか理工学科(のちの理工学部)新設資金と長期にわたる運営資金すべてを明太郎は私費でまかなったのである。大隈が後々まで明太郎に感謝し、「無名の英雄」と称えつづけたのも頷けよう(理工学部にある「竹内記念ラウンジ」は明太郎の偉業をいまに伝えている)。
 だが明太郎の凄さはこれだけではない。早稲田大学理工学部創設のわずか2ヶ月後の明治41年6月、郷里高知に工業化の種を撒くべく私立高知工業学校(現県立高知工業高校)のための敷地2400坪余りを私費で購入する。尋常小学校を卒業したばかりの少年たちに工業教育をほどこすことを考えたのだ。既成の教育方針を否定し、全国初の5ヵ年制、完全にオリジナルなカリキュラムを組んで全国でも注目される優れた工業学校となり、県立となってからも多くの有為な人材を輩出する。明太郎は見事にその執念を実らせたのだった。

 このように数々の優れた仕事を残した明太郎だったが、最晩年は不遇だった。竹内鉱業が昭和恐慌のあおりを受け昭和3年に倒産。明太郎は借金返済のために無一文となり、過労がたたって病床に臥(ふ)せるようになる。
 失意の明太郎を見舞った側近の松本俊吉(小松製作所支配人)が、「不幸にも財政的には失敗されたが、あなたが為された事業はほとんど成功し、社会への貢献も非常に大きい。小松製作所だけでなく早稲田大学理工学部も高知工業学校もまことに順調です」と告げると、明太郎は静かに目を開けて、「まあ、そんなものだ。心配するな。自分もそのように思っている」と微笑んだという。その5日後、明太郎は息をひきとる。享年68。
 皮の煙草入れをポケットから取り出し、キセルをふかしながら社員と談笑するのが好きだった明太郎。そんな彼を、小松製作所支配人を務めた森本嘉一はこう振り返っている。
 「名声や金銭に頓着せず、衣食住は正しく生きるための方便としか考えていなかった。自分を高しとするような人は、それが学者、実業家、技術者、政治家であれ、大嫌いだった」(「沈黙の巨星」北國新聞社出版局)
 私利私欲を捨て国家、社会のため事を成そうなどという人間は、哀しいかな、いまや絶滅危惧種である。しかしわずか100年前、そのような人は少なからずいた。そのひとり竹内明太郎は、背筋のピンと伸びた見事な土佐人だった。
            
Text by Shuhei Matsuoka

posted by ノブレスオブリージュ at 11:27| Comment(1) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
大正時代には、立憲政友会に所属した衆議院議員でもありましたね。
Posted by i.kuma at 2008年09月12日 09:25
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