2009年01月14日

富太郎と熊楠

 近代、つまり明治維新以降に活躍した日本人で学術分野の世界的巨人といえば、紀州の南方熊楠(1867〜1941)を措(お)いてほかに見当たらない。
 比べる者のない博覧強記、奇想天外の発想力、計り知れない天才、並はずれた語学力(18ヵ国語を自在に操った!)、桁はずれの記憶力と集中力。研究した分野も民俗学、博物学、人類学、生物学、植物学、動物学、考古学、天文学、宗教学と果てしない。明治期に単身アメリカ、ロンドンに渡って15年間学び、その才能を早くから開花させ、現在でも世界中の学者の憧れである『ネイチャー』(英文科学雑誌)に1893年から50回も論文を掲載して日本人「ミナカタ」の名を世界的に知らしめたおそるべき巨人。
 南方熊楠から多くの教えと啓示を受けた日本を代表する民俗学者柳田國男は考え方の相違からのちに熊楠と袂を分かつが、熊楠の死後に「南方熊楠は日本人の可能性の極限である」と最大級の賛辞を惜しまなかった。

 さてこの稀代の巨人、南方熊楠に対して、尋常ならざる感情を持ったのが、わが土佐の牧野富太郎(1862〜1957)だった。
 長年にわたる研鑽と分類学上の非凡な分析力、加えて強烈な上昇志向と野心をもって日本における植物分類学界の権威に登りつめた牧野は、「肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」と日本での学位や名声や権威などを軽侮した5歳年少の南方熊楠が気に食わなかった。
 小学校中退の独学の植物学者、65歳でやっと東大から理学博士号をもらい、78歳で辞職を要求されるまで東大講師の職に固執し、生涯にわたり権威を求め続けた男の、これはまぎれもない嫉妬であったのだろう。
 熊楠の仕事は余人には到底理解できぬほど深遠無比だったが、とりわけ植物と動物の間に位置する「粘菌」が生命の原初形態を探るのに役立つと考え生涯にわたりこれを研究し、世界的な業績を残した。しかし牧野富太郎は熊楠の粘菌研究の成果を認めようとせず、熊楠が亡くなってのちにこんな文章を、それも『文芸春秋』(1942年2月号)という大衆雑誌に掲載する。

 …南方君は往々新聞などでは世界の植物学界に巨大な足跡を印した大植物学者だと書かれまた世人の多くもそう信じているようだが、実は同君は大なる文学者でこそあったが決して大なる植物学者では無かった。植物ことに粘菌についてはそれはかなり研究せられたことはあったようだが、しからばそれについて刊行せられた一の成書かあるいは論文かがあるかというと私はまったくそれが存在しているかを知らない。…(中略)…南方君が不断あまり邦文では書かずその代りこれを欧文でつづり、断えず西洋で我が文章を発表しつつあったという人があり、また英国発行の”Nature”誌へも頻々と書かれつつあったようにいう人もある。按ずるに欧文で何かを書いて向こうの雑誌へ投書し発表した事は、同君が英国にいられたずっと昔には無論必ずあった事でもあったろうが、しかし今日に至るまで断えずそれを実行しつつ来たという事は果たして真乎、果たして証拠立てられ得る乎。(「南方熊楠翁の事ども」)

 牧野は80歳のこの頃すでに日本の植物分類学の泰斗として君臨していた。そして、日本の学界(権威)なぞ一顧だにしなかった鼻持ちならぬ熊楠の死を待っていたかのように、翌年にすぐさまこの一文を書いて溜飲を下げたのだった。
 女々しいほどの皮肉を込めた牧野のこの文章を、先年他界した社会学者の鶴見和子は『南方熊楠』(講談社学術文庫1981年、毎日出版文化賞受賞)に引用して、こう自説を加えている。
 「アカデミーの学者が、南方をどのように評価していたかをしるための一つのよい見本といえよう。それだけではない。外国語で自説を国外で発表した日本の学者が、日本のアカデミーから、どのような仕返しをうけたか、そのことがよくわかる文章である」
 アメリカのプリンストン大学で社会学Ph.Dを修めた鶴見が、牧野富太郎をドメスティックな日本的権威(アカデミー)の象徴とし、学者としての品格を揶揄している点がおもしろいが、鶴見はさらに続けて、「南方が、『ネイチャー』誌その他に帰国後も英文の文章を投稿していたというのはウソだろうと疑っている箇所についていっておきたい」として、帰国後の方が在英中よりも投稿数が多い結果を明らかにし、「わたしのような浅学の者が、ちょっと調べればすぐわかることを、どうして牧野富太郎のような大学者は、調べもせずに、他人を悪しざまに、しかもその人が死んでしまって、反証があげられないことを承知のうえで、罵言するのであろうか」と、痛烈な批判を加えているのだ。
 当時の日本でもっとも高名な植物学者だった牧野が書いたこの一文の影響力は小さくなく、南方熊楠への評価はその後長い間、正当に扱われなくなる。牧野の一文から30年も後に生物学者の平野威馬雄が中山太郎(民俗学者)の次の言葉を引用して熊楠の擁護をしなければならなかったことでも、その一端が垣間見える。

 …民俗学的考証など、翁(熊楠)にあっては、まったくの余技でしかなく、鏡検のあいまの仕事にすぎない、一種の道楽でしかなかったのである。然るに、この事が学界に吹聴され、人口に膾炙(かいしゃ)されたために、世には往々にして本末を誤り、翁を目して文学者なり、植物学者にあらずと云う者さえある。もちろんかくの如きは、群盲が象をなで脚にふれて全象を評すると同じく、翁を誣(し)ゆること甚だしいのみならず、まだ廬(ろ)山のすべてを尽さざるものというべきである。(平野威馬雄『くまくす外伝』昭和47年、濤書房)

 さてここで、急いで付言しなければならない。
 言うまでもないことだが、わたしは「日本の植物分類学の父」とされる牧野富太郎の大きな業績にいささかの疑義を持つものではないし、氏のなした膨大な仕事の価値を貶(おとし)める目的でこれを書いているのでも、毛頭ない。そもそもわたしは植物学にはまったくの門外漢で、その資格もない。
 そうではなく、われわれは歴史上の通説や人物評に対して盲目的であってはならず、それは郷土の生んだ偉人とて例外ではないのであり、われわれの妄信や固陋(ころう)はときとして後の世に誤謬や禍根をのこす結果になりかねぬことを、土佐の生んだ牧野富太郎、紀州の生んだ南方熊楠という自然科学界に名を成したふたりの確執をもって示そうとしたのである。
 それにしても、高知県立牧野植物園ホームページの「牧野博士の紹介」の冒頭に、「世界的な博物学者南方熊楠と同時代を生きた牧野富太郎とは、いったいどのような人物だったのでしょう」とわざわざ熊楠の名を出すユーモア(?)には、唸ってしまった。熊楠を上座に譲り、なおかつ「博物学者」と慎重に記しているところなど、まさに絶妙ではないか。
                 (了)
      Text by Shuhei Matsuoka
posted by ノブレスオブリージュ at 10:51| Comment(1) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
『南方熊楠百話』で牧野富太郎の文章を最初に読んだ時には鶴見和子と同様の感想を持ちました。
しかし、再度読み直してみると、確かに牧野には熊楠に対するジェラシーはあったと窺える文章ですが、よく読むとそれだけでなく、その底にはもっと複雑かつ「会っておけばよかった」、「崇拝一方だけではなく、本当に熊楠を知って理解しているのか」と問い合わせる文面、そして「植物学者」と持ち上げるならば、熊楠の植物学上の論文等をまとめて一冊にして公表すべきだと正論を吐いているのではないかと考えました。

6月はじめに田辺の熊楠顕彰館を訪ねるため、数冊関係書物を読んでいますが、武内氏、中瀬氏の書物が大分参考になりました。
鶴見和子、中沢新一の書物ははそれぞれ自分の思想のなかから熊楠を見ていていて、当時の熊楠を取り巻く環境や世の動きには余り重視していないような書き方なのが違和感があります。
大変中身の深いコラムで参考に成りました。
有り難うございました。
Posted by 阿部賢一 at 2014年05月14日 10:08
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