2009年12月01日

田中茂穂の遺言

 日本の魚類学の父、田中茂穂博士(1878〜1974)は土佐の生まれである。
 同じ土佐出身の牧野富太郎(植物学)、寺田寅彦(物理学)にくらべ、魚類学の田中茂穂を知る県民が少ないのはなんとも残念なことだが、米スタンフォード大のジョーダン、スナイダー両博士との共著『日本産魚類目録(英文)』(1913年)は日本産の魚類をはじめて系統的に分類した名著として知られ、研究論文は約三百編、著書も五十冊に及ぶ大学者なのである。新種として命名した魚も数多い。
 その田中博士、じつは一風変わったところがあった。東京帝国大学の助教授時代、同僚がみな白衣を着るなかでひとり繻子(サテン)の黒衣を羽織って教壇に立ったという。僧侶か古武士のような風格を漂わせる人物で、目上の人であれ歯に衣をきせず持論を述べたというから、かなりの“いごっそう”でもあった。昭和天皇が採取した魚類標本を固定するなど日本を代表する魚類学者として世界的に名を知られた博士は、威厳と武骨と実力を兼ねそなえた、まことに土佐人らしい土佐人といっていい人物だった。

 田中茂穂は明治十一年に高知県土佐郡上街南奉公人町(現在の高知市上町)に生まれた。高知県尋常中学校(現追手前高校)を卒業し、第一高等学校を経て明治三十四年に東京帝国大学理学部に入学。その後、魚類学を専攻し、東大教授(理学博士)となる。尋常中学校時代の同級生、寺田寅彦とはつねに首席の座をあらそうライバル同士で、のちに物理学の泰斗となり文人としてもたぐい稀な才覚をあらわした友、寅彦を茂穂は終生畏敬してやまなかった。
 そんな田中茂穂がなによりも怖れたこと、それは自然破壊だった。魚は水が汚染されると棲む場所をうしなうのだから、魚類学者ならこれは当然の心情であろう。
 茂穂が東大を定年退官してのちに発刊した自伝的随筆『魚と暮らして』(昭和14年、思潮社)のなかに「土佐の風物」という一章がある。子どものころの高知のうつくしい風景、家のちかくを流れる鏡川で遊んだ愉しい思い出にふれ、しかし近ごろその鏡川もだんだんダメになったと嘆き、つぎのように記している。
 「外国の例を引くまでもないが、彼地では天然の風物は成るべくその原形や美観を損しないように努めてゐるが我國では従来斯様なことは遠慮なく打ちこわして顧みられなかった。近頃に至って余程斯様な點を考慮するようにもなったが、まだまだ注意が足りない。殊に土佐は従来新進気鋭の風に富んでゐて、或方面では誠に結構であるが、どうも天然の風致にはさほどの執着のないのは残念である」
 そのまま21世紀のいまに通用する内容であることに驚くが、すでにこのころから自然が危機にさらされつつあることを茂穂は敏感に感じとっていた。そして暗に土佐人の民度の低さを憂い、自然というものに無頓着な高知の行くすえを案じていたのだろう。
 そんな茂穂の危惧が、のちに最悪のかたちで現実化してしまう。
 同書のなかで茂穂は、「土佐にはだいたい四百種類位の魚類がいる」として「アカメは高知の魚市場でも度々見られ、浦戸湾でアカメ釣りがある」と自慢気に書いているが、高知市民が自宅の庭のように愛したうつくしい浦戸湾は、戦後の高度成長期に日本でもっとも汚染された哀れな“死の海”に堕ちてしまうのだ。

 人口三十万人の都市、高知市に抱かれるようにある浦戸湾。この瓢箪(ひょうたん)のようなかたちのちいさな内海には鏡川、江ノ口川、国分川など7つもの河川が流れこむ。最深10m、湾口の幅はわずか250mしかなく、海水と淡水が絶妙に混じる汽水域を形成し、そのため古(いにしえ)より魚介類の宝庫となっていた。体長1.5mにもなる日本固有種の怪魚アカメ、体重2kgにもなる美味しいエガニなど希少種も多い。200種にもおよぶという魚種の多さは国内どころか世界でも屈指とされ、江戸時代には湾のなかを小魚やプランクトンをもとめて鯨が悠然と泳ぐほどに豊かな海だった。
 この貴重なビオトープ、浦戸湾に注ぎこむ江ノ口川に、あろうことか1950年から毎日1万3500トンものパルプ廃液を流しはじめたのが、県と高知市が鳴り物入りで誘致した高知パルプだった。高知市街の真中をはしる江ノ口川はたちまち真黒な廃液でおおわれ、ブクブクと有毒ガスが沸き目と鼻を強烈な異臭がおそうドブ川となった。そして浦戸湾に生息する魚の背は曲がり、あらゆる魚介類が死に絶えていった。あのうつくしい浦戸湾は、市民の誰もが見向きもしなくなるほど汚染された「死の海」と化した。
 さらに悪いことに、どうせ死んだ湾だというので、県はこれを工業用地として埋め立てはじめたのだ。1970年の台風十号で高知市内全域がまともにパルプ排水をかぶり、未曾有の大水害をもたらしたのは湾を埋め立てた結果だった。工場の操業停止をもとめて抗議の断食を行い亡くなる人が出るに至っても、行政当局は平然と工場の操業を許可しつづけた。
 そして1971年6月、市民団体「浦戸湾を守る会」のメンバーが高知パルプの工場排水管に生コン6トンを投入する事件が起こる。公害訴訟として全国的に有名な「高知パルプ生コン事件」である。実行者の一人、「守る会」会長の山崎圭次さんは自著『星よりのことづて』のあとがきにこんな一文を遺している(1986年1月)。

七十一年六月九日、午前四時半、(浦戸湾を守る会の同志三人と共に)生コン六トン、排水管に投入。
赤褐色のパルプ廃液は、道路に溢れ、操業は中止された。
起訴され、長い裁判はつづき、その間、イデオロギーを越えて、たくさんの方々に大変お世話になった。
浦戸湾、江ノ口川は劇的によみがえっていった。
浦戸湾の魚種は倍に増し、奇形魚はほとんどいなくなり、悪臭は消えた。
今は秋。
湾の岸辺で、若い母親が子供と一しょに、釣りをしている。
おじいちゃんが、孫に餌をつけてやっている。
(註・苦しい時に、私を支えてくれたのは、浦戸湾で遊んだ子供の時の楽しい思い出であった。この子達もきっとそうなるとおもう)。
浦戸湾が巻物を巻くように、よみがえってゆく姿の中に、この星の創生期より瞬時も休むことなく働いている神の意思をみた。

 一度は死んだ浦戸湾だが、山崎さんらの強靭な信念と行動力により、いまやっと蘇りつつある。魚種もかなり恢復しているという。しかし人びとが少しでも気を緩めれば、じわりと魔の手は忍びよる。シオマネキ(カニの一種)などの絶滅危惧種が生息する江ノ口川の支流、新堀川の汽水域を暗渠(あんきょ)にしようなどという暴挙もそのたぐいだろう。川は、水面(みなも)をみせてこそさわやかな景色や風を人びともたらし、その土地の歴史をとどめ、動植物も生きながらえることができる。川を殺して、海を殺して、どうして人が人らしく生きられようか。
 「天然の風物は成るべくその原形や美観を損しないよう―」
 これは明治期のうつくしい土佐の風土が生んだ科学者・田中茂穂博士が子孫の私たちに残してくれた心からの願いであり、遺言でもある。
               (了)
   Text by Shuhei Matsuoka
posted by ノブレスオブリージュ at 12:03| Comment(1) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
田中茂穂は私の祖母の兄です。幼少のころ、父に釣りに連れて行ってもらい、お魚博士だったと聞いていました。
その私も今年61歳です。2009年にスタンフォード大学に立ち寄り(シンポジウムで)ました。構内の教会は話のそのままでした。祖父も同行したようです。ヨセミテ公園の古い案内書があります。いまのヨセミテ公園と比べると案内書に感慨深いものがありますね。昔は船で、皮のボストンバックをもって行ったようです。インターネットのおかげで詳細がわかり、父母が元気でいれば懐かしがったことでしょう。
Posted by 矢野陽子 at 2015年05月08日 17:04
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