2006年08月11日

龍馬と寅彦の因縁

 明治の知性には、なぜか深い翳(かげ)と憂鬱な不機嫌さがつきまとっている。
 漱石しかり、鴎外しかり。土佐出身の世界的物理学者で漱石の愛弟子だった寺田寅彦も例外ではない。
 ただ、寅彦の陰影には、生い立ちにまつわる哀しい理由(わけ)があった。
じつは、明治維新の立役者・坂本龍馬がこの寅彦の性格形成に大きな影響を与えたと聞けば、驚く人も多いだろう。
 ともに土佐人ではあるものの、龍馬は1867年に京都で暗殺され、その11年後の明治11年に寅彦は生まれているのでふたりは遭遇していないからである。 ではなぜ寅彦の性格形成にまで龍馬がかかわったのか。

 寅彦の父寺田利正は、長宗我部家の家臣の出で郷士(下士)であった宇賀市良平の次男として生まれ、幼名を知己之助といい、龍馬の幼友達であった。
 18歳で同じ郷士の寺田久右衛門の養子になり寺田利正を名乗るようになる。
 当時の土佐は、山内家の家臣である上士と長宗我部家の元家臣であった郷士(下士)との身分差は非常に大きく、郷士は一応は武士ではあるものの、ほとんど犬猫同然の扱いを受けて差別されていた。そのため、しばしば両派がいさかいを演じることがあった。
 文久元年(1861年)3月の雨の降る夜、城下の井口村で有名な刃傷沙汰が起こる。
 江ノ口川にかかる土橋で、酔った上士ふたりが郷士ふたりにからんだのだ。
 上士のひとりは城下でも名うての剣豪・山田広衛、からまれたひとりは利正(知己之助)の弟、宇賀喜久馬。喜久馬は夜目にも鮮やかな美男子だった。ちなみに司馬遼太郎は『龍馬がゆく』でこの事件に触れ、上士らは通りがかった郷士の男色をからかおうとしたとしており、美男子を宇賀某として喜久馬の名を伏せている。
 郷士のひとり中平某は山田にあっさり斬られたが、喜久馬はその間に中平の兄・池田寅之進を呼びにいき、まだ現場にいて油断していた山田を池田は後ろから袈裟がけで斬った。そしてもうひとりの連れも切り倒した。
 この刃傷事件をきっかけに、上士と郷士(下士)の間は一触即発の事態となった。
 このときの郷士のリーダーが、すでに地元で力をつけつつあった27歳の坂本龍馬だった。
 数十人の怒った上士が池田の家に押しかけ、龍馬ら郷士たちと押し問答の最中に、山田を斬った池田寅之進は切腹。宇賀喜久馬も切腹させよ、と上士らは迫った。
 喜久馬は歳若く、手を出してもいない。龍馬は必死で喜久馬を守ろうとした。
 しかし、当時の土佐における上士と下士の身分の差はいまのわれわれの想像を絶する。とても抗しきれるものではない。このままでは喜久馬が上士らに斬り殺されるだけに収まらず、大勢が死ぬ。
 龍馬も、諦めざるを得なかった。
 結局は19歳の紅顔の美少年、宇賀喜久馬は切腹。そして、まことに凄惨なことだが、親族立会いのもとで介錯をしたのが喜久馬のじつの兄知己之助、つまり寅彦の父寺田利正だった。
 年端もいかぬ弟を介錯した25歳の利正は、その後、ノイローゼ気味になったという。無理もない。
 利正はその後、家族には一切この事件のことは話さなかったが、息子の寅彦は祖母から聞いている。
 寅彦の随筆集『渋柿』にこんなくだりがある。

 安政時代の土佐の高知での話である。
 刃傷(にんじょう)事件に座して、親族立会いの上で詰め腹を切らされた十九歳の少年の祖母になる人が、愁傷の余りに失神しようとした。
 居合わせた人が、あわててその場にあった鉄瓶の湯をその老(ろう)媼(おう)の口に注ぎ込んだ。
 老媼は、その鉄瓶の底をなで回した掌で、自分の顔をやたらとなで回したために、顔じゅう一面に真っ黒い斑点ができた。
 居合わせた人々は、そういう極端な悲惨な事情のもとにも、やはりそれを見て笑ったそうである。

 まるで他人ごとのように書いているが、自らの父がかかわったショッキングなできごとを諧謔(かいぎゃく)を利かしたちいさなエッセーとしてわざわざ遺すあたり、寅彦の複雑な心情が表出している。

 利正は幕藩時代は普請方として山内家に仕えたが、明治維新後は出世して国の財政顧問にまでなった。書画骨董、花、陶芸、茶道、謡など多彩な趣味人で、才能もあったようだが、家の中では相当な癇癪持ちでもあり、非常に暗い性格だったという。
 その利正の暗さの原因が、利正25歳のときのこの刃傷沙汰に起因していると考えるのは、きわめて自然なことであろう。
 一方寅彦は、どうやら父を反面教師として育ったようだが、晩年になるにしたがい、皮肉なことに顔も性格も、多才ぶりまで父利正とそっくりになってしまった。そして、喜怒哀楽をほとんど表にあらわさなかったという寅彦の気質と、深い陰影を宿した性格は形成されていった。
 幕末の風雲児、坂本龍馬が、この世で会うこともなかった寺田寅彦という世界的物理学者の性格形成に、心ならずもかかわってしまったのである。

 と、ここまで書いて、かねてよりすこし気になっていたことを思い出した。
 寅彦との哀しい因縁をもつ坂本龍馬の記念館、寅彦の友人の牧野富太郎の記念館は立派なのが建っているのに、夏目漱石の愛弟子で卓越した業績と多彩な才能を持った稀代の物理学者、寺田寅彦の記念館がないのはなぜだろうか?
 漱石などは年若い寅彦の頭脳と人物を尊敬し、寅彦から聞いた話を作品の中に使ったり、『吾輩は猫である』『三四郎』には寅彦をモデルにした人物を登場させているほどある。
 寅彦の科学者としての偉大な業績はもちろんだが、秀逸な随筆や俳句、さらには美術や音楽や映画評論とまことに幅広い。展示すべきものはたくさんあるだろうし、県内外から多くの人を集めるに違いない。
 大川筋の寺田寅彦邸だけでは、人物の大きさからして、あまりに小さすぎる。
 橋本知事さん、なんとかなりませんか。

                  (了)
Text by Shuhei Matsuoka
posted by ノブレスオブリージュ at 12:36| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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