2012年02月07日

龍馬像秘話

 高知市桂浜の龍頭岬にそびえたつ坂本龍馬像は、高知の観光名所のいわば横綱である。像の高さは5.3m、台座をふくめれば13.5mあり、和装に革靴の龍馬が懐手をして遠く太平洋をのぞむ雄大な姿は印象的だ。
 製作者は日本近代彫刻の父といわれる高村光雲の愛弟子で、銅像では第一人者といわれた高知出身の本山白雲である。除幕式はいまから84年前、昭和3年(1928年)5月27日に行われた。
 白雲の作品は、じつはほとんど残っていない。太平洋戦争中、国家総動員法により金属供出が義務づけられ、庶民の鍋釜はもちろんのこと、全国の寺の梵鐘、学校の二宮尊徳像、戦国武将や明治の元勲の銅像などはことごとく撤去、没収された。ひとびとから愛された東京・渋谷の忠犬ハチ公像(初代)なども例外ではなかった。白雲の作品は伊藤博文や板垣退助など明治の元勲たちが多く、ほとんどすべてが溶かされて銅塊となってしまったのである。高知城に立つ白雲作の板垣像も、戦後再建されたものだ。
 しかし桂浜の龍馬像と室戸岬の中岡慎太郎像(昭和10年建立)は生き残った。上野の西郷隆盛像同様、奇跡的に供出をまぬがれた例外中の例外なのだ。海援隊長の龍馬が「海軍の創始者」、陸援隊長の慎太郎が「陸軍の創始者」とみなされたことがその理由とされる。
 ちなみに上野の西郷像の方は原型木彫を白雲の師、高村光雲が製作した。銅像建立の発起人は西郷の友人・吉井友実で、高知に縁のふかい歌人・吉井勇の祖父である。明治31年、ときの総理大臣・山県有朋ほか西郷従道、勝海舟、谷干城、山本権兵衛、大山巌、樺山資紀、東郷平八郎ら8百余名が参列し、盛大に除幕式が執りおこなわれた。西郷は日本初の陸軍大将でもあり、昭和の軍部もさすがにこの銅像を鋳つぶすことはできなかった。
 余談だが、昭和19年、空襲が激しさを増すなか、白雲は破壊された明治の元勲たちの原型を一体一体、自ら素手で叩き割ってしまったという。そのそばで妻はしずかに合掌していたと、白雲の娘がのちに述懐している。全身全霊を傾けた作品群を、家族の目のまえで叩き割っていく芸術家の無念はいかばかりであったろうか。
 さて、龍馬像である。名だたる彫刻家・本山白雲に銅像製作を依頼してきたのは、なんと若干21歳の早稲田の学生だった。高知県南国市生まれ、名を入交好保(よしやす)(1903〜1996)という。巨大な龍馬像の建立は、一学生のいわば退屈しのぎからはじまったプロジェクトだったのだ。
 坂本龍馬は昭和40年代に『竜馬がゆく』(司馬遼太郎著)で一躍有名になるが、それまでの知名度はひくく歴史教科書にも出てこなかった。とくに明治期は、一部の元志士以外にはほとんど知られていなかったという。その名がはじめて世に出たのは、明治37(1904)年のことである。日露戦争前夜、ロシアとの海戦の行方に気をもむ皇后陛下の夢枕に白装束の武士が立ち、「心配はいりません。私が日本海軍をお守りします」と語ったという“事件”がきっかけだった。ときの宮内大臣・田中光(みつ)顕(あき)が「白装束は土佐海援隊の制服。それは間違いなく坂本龍馬です。このような人物ではなかったですか」と龍馬の写真を皇后に見せたところ、「たしかにこの武士でした」と認めたというのだ。この話が雑誌や新聞に出て、ちょっとした龍馬ブームがおこった。
 土佐人の田中光顕は佐川の下級武士の出で、わかいころ脱藩して長州にわたり、高杉晋作の腰巾着になった。高杉の病没後、中岡慎太郎に仕えて土佐陸援隊の副隊長として国事に奔走、京都・近江屋で坂本と中岡が暗殺された直後、谷干城らとともに真っ先に駆けつけ、まだ息のあった中岡の聞きとりをおこなったことで知られる。司馬遼太郎にいわせると「典型的な二流志士」なのだが、たまたま長命し(97歳まで生きた)、おかげで伯爵にまで栄進した。運のいいおとこだった。
 一方、明治36年うまれの入交好保は子どものころ、皇后の夢枕に立ったといわれる龍馬の話を親から聞いていたという。そして長じてのち、真山青果の戯曲『坂本龍馬』の上演を見て、知られざる郷土の傑物に心酔するようになった。そこで、どうせ気楽な学生身分、退屈しのぎに一丁、日本一おおきな龍馬像でもつくってやろうじゃないかと思い立ったのだ。土佐人らしい盛大な“稚気”である。さっそくかれは高知の同級生3人に呼びかけ、龍馬像プロジェクトが動きはじめる。
 しかし資金も信用もない学生だけでは募金活動もままならない。そこでかれらは、だれもが納得する看板として三菱・岩崎家に白羽の矢を立てた。龍馬と岩崎弥太郎の関係を考えれば真っ先に寄付金を出してくれるはずだ。だがその目論みは、ものの見事に外れる。東京の岩崎家の門を叩いたが、剣もホロロに門前払いをくわされたのだ。
 好保はしかし、あきらめない。今度は高知財界のリーダー格、野村茂久馬に会いに行き、説得して「坂本龍馬先生銅像建設会」の会長を引きうけてもらう。四国の交通王といわれた野村は当時、中央にも名の知れた大物だった。そして次に、人を介して土佐派の重鎮、田中光顕に会いにいくことにした。田中は畏敬する龍馬の死を間近に見、日露戦争に乗じて龍馬の名を世に知らしめた天下の伯爵だ。これ以上ない大看板になる。
 大正15年10月3日、好保青年は静岡県蒲原(かんばら)に隠棲していた86歳の田中を訪ねた。好保が銅像建設のあらましを説明すると、田中は次のようにいったという。
 「そうか、それは妙じゃのう。日本一の銅像を桂浜に建ててくれるか。青年だけの力でのう。坂本もなんぼか嬉しかろうのう。活動写真も作るか。そりゃ見たいのう」(入交好保著『忘れ得ぬ人びと』)
 活動写真というのは、好保自らが書いた脚本を有名俳優の阪東妻三郎に見せ、阪妻主演で龍馬の映画を製作する了解を取りつけていたことを指す(後に完成し上映される)。
 好保は田中邸に一泊しておおいに歓待され、銅像建立の後ろ盾となる確約を得て意気揚々と帰高する。野村茂久馬だけでなく田中光顕といった大物を担ぎ出した好保らの行動力にひとびとは驚き、さらには秩父宮殿下から2百円の御下賜金があったことで、募金活動そのものを不許可にした県(行政)も掌(てのひら)を返して協力を申し出てきた。はたして募金は順調に増え、2万5千円(現在の5千万円程度)の建設資金は難なく集まった。
 おもしろいのは、好保らの活躍ぶりを聞きおよんだ岩崎男爵家から突然、5千円の寄付申し出があったことだ。好保はすぐさま東京におもむき、「ありがたいですが、すでに資金は集まったので辞退いたします。そのお金はいずれ高知県のためにお役立てください。それまでお預けしておきます」と言い放ったという。快男児入交好保、渾身の意趣返しだった。
 そして昭和3年5月、本山白雲作の「坂本龍馬像」はついに完成した。巨像ははるばる東京から鉄道と船で運ばれ、同年5月27日(海軍記念日)に無事、除幕式を迎えることができた。帝国海軍は軍艦を土佐湾に派遣して祝砲を撃ち、陸軍もラッパを吹いて捧げ銃で祝した。総理大臣ほか各大臣から祝辞がとどき、それは盛大なものとなった。
 銅像の後見人ともいえる88歳の田中光顕も老体をおして高知に足をはこび参列、切々と祝辞をよむ老志士の目は感涙であふれたという。維新前夜に無念の死をとげた龍馬にひきくらべ、子分格の自分が長命して栄達したことへの贖罪の涙でもあったろう。
 入交好保はその後、労働運動や社会運動に投じ、昭和12年からは10年間にわたり満州で事業家として奔走する。戦後は高知にかえり、昭和27年には社会党から衆議院選挙に出馬するも吉田茂、林譲治らに敗北。その後は事業家として、また「考える村」(安芸郡芸西村)の創設者として社会改革への情熱を燃やし、平成8年に93歳で世を去った。
 龍馬に似て、土佐にあだたぬ(収まりきれない)漢(おとこ)であった。
                 (了)
         Text by Shuhei Matsuoka
posted by ノブレスオブリージュ at 09:34| Comment(0) | TrackBack(1) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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