2012年03月09日

”今白隠”玄峰老師の真実

 太平洋戦争末期、もはや絶望的な状況になりつつあるこの戦争のゆく末に政府首脳はすべからく、頭を悩ませていた。このまま突きすすめば、日本という国はまちがいなく滅ぶ。しかし「本土決戦」「聖戦完遂」の大合唱のなか、戦争を止めよとか、降伏すべきと公言するものは朝野に皆無だった。ただひとり、禅僧・山本玄峰老師を除いては―。
 小磯国昭内閣のあとをうけて、天皇より総理大臣の内示をうけていた海軍大将・鈴木貫太郎は三島・龍沢寺に使いをやり、臨済宗僧侶・山本玄峰に会いたい旨を伝えた。そして昭和20年3月25日、赤坂の旧乃木邸の向かいにあった内田眼科病院の内田博士の邸宅でふたりは密かに会った。これは、玄峰老師の弟子で秘書でもあった田中清玄の自伝(『田中清玄自伝』文芸春秋・1993年刊)ではじめて世に出た事実である。
 このとき、鈴木はこう言った。
 「実は今、私は陛下から大任を命ぜられようとしています。しかし、私は政治は嫌いです。『武人、政治に関与すべからず』という明治陛下の御勅語を金科玉条としてきた者としては、その信念に反することにもなり、どうしたら良いものか、非常に悩んでおります」
 すると老師は次のように応えた。
 「あなたは日常の政治家ではないし、総理になる人でもない。総理になる者は、世の中の悪いことも、いいこともよく知っていて、いいことに尽すことのできる人です。あなたは純粋すぎる。しかし、今はそういう人こそが必要だ。名誉も地位もいらん、国になりきった人が必要だ。あなたは二・二六で、一度はあの世に行っている方だ。だから生死は乗り越えていらっしゃる。お引き受けなさい。ただし戦争を止めさせるためですよ」
 この瞬間から、鈴木貫太郎の戦終工作がはじまった。もっといえば、この瞬間に、尽きかけていた日本の命運は首の皮一枚でつながったのである。
 8月14日の最後の御前会議、鈴木首相は日本の無条件降伏を主旨としたポツダム宣言受諾の是非を6名の大臣らに諮り、結果は賛否3対3となる。最後は天皇陛下の聖断を仰ぐ形に、鈴木はもっていったのだ。そして天皇は、即座に受諾を宣する。鈴木(と天皇)の終戦工作は、ここに見事に完結したのである。
 その後も、玄峰老師は鈴木首相を通して天皇にさまざまな示唆をあたえる。天皇の肉声による終戦の詔勅「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び…」は玄峰老師の授けた言葉であり、戦後の幣原喜重郎首相に「象徴天皇制」の案を授けたのも老師だったといわれる。
 戦時下、老師の下には米内光政(海相)、吉田茂(首相)、安倍能成(学習院院長)、岡田啓介(首相)、岩波茂雄(岩波書店社長)など軍に反対の立場をとる人物が大勢出入りしたが、老師が自らもとめて会ったのは鈴木貫太郎ひとりだったという。ついでにいえば、東条英機(首相)が人を介して面会を求めてきたときは、「お会いしても無駄じゃろう。東条さんは、日本の大黒柱じゃ、アジアの大船じゃと、我慢や我見にとらわれたままわしに会っても、とてもわしの言うことは分からんじゃろう」と断っている。
 山本玄峰は、和歌山県の湯の峰という山奥の温泉郷の温泉宿「芳野屋」の子として慶應2年(1866年)に生まれた。理由はさだかではないが、生れ落ちるとすぐに捨てられ、仮死状態のところを地元の素封家、岡本善蔵・とみえ夫妻が拾い、育てたといわれている。芳野屋で生まれた子ということで、岡本芳吉と名付けられた。
 芳吉は体がよわく、4歳ごろまで歩くこともできず、どこに行くにも母がおんぶした。しかし次第に感のするどさ、敏捷さをそなえる少年に育ち、厳父・善蔵は芳吉の性質を慮って妻帯をすすめ、19歳の若さで結婚させた。ところが、このころに芳吉は原因不明の眼病に罹り、ついにはほとんど失明寸前まで悪化する。わかい芳吉は絶望し、投身自殺を図ろうと華厳の滝、足尾銅山、越後にまで放浪したこともあった。
 それでも苦しみは消えず、芳吉は四国霊場巡拝の旅を思い立つ。来る日も来る日も、ただひたすら四国八十八ヵ所を巡る孤独な旅。のどかなお遍路さんではない、死に場所をもとめての苦行である。その7度目の遍路の途上、ついに三十三番札所、土佐・長浜の雪渓寺門前で力尽き、行き倒れてしまう。明治22年、芳吉24歳のときである。
 臨済宗妙心寺派・雪渓寺(高知市長浜)は長宗我部元親の菩提寺でもある名刹で、かつてこの寺の住職だった天室は土佐南学の祖、その門から野中兼山、谷時中など錚々たる人物を輩出した。しかし明治維新になると廃仏毀釈の嵐がふき荒れ、土佐はとくに狂信的で寺には石が投げ入れられ、仏像は焼かれ川に捨てられた。ほとんどの寺は廃寺となり、子どもは僧侶に石を投げつけたという。そのとき、身を粉にして雪渓寺を復興させたのが、山本太玄和尚だった。
 太玄和尚は行き倒れた青年芳吉に出家をすすめた。「私は盲目にひとしく、文字も知りません」という芳吉に、「心の眼は一度開けばつぶれることはない。死んだつもりになれば、本当の坊さんになれる」と諭し、仏門に入れる。その後、芳吉は修行ぶりを見込まれて山本太玄の養子となり、山本玄峰として太玄のあとを継ぎ雪渓寺の住職となるのである。玄峰は晩年、生涯17回にも及んだといわれる四国霊場巡拝について、こう述べている。
 「寒中の寒さは何とかなる。わしは寒中に四国霊場参りを7回も8回も裸足でやった。寒中の氷の中、雪の中を歩くのはどうにかやっていける。歩くほど温もってくるし、つらいとも思わん。しかし、暑いときに砂利が道などに敷き込んであるところを歩くと、全身にこたえる」(『玄峰老師』高木蒼梧編)
 雪渓寺に拾われてから二十年後、玄峰は43歳で雪渓寺を太岳和尚に譲り、全国の名だたる禅僧の下でふたたび修行に励む日々を送るようになる。そして50歳で、山岡鉄舟が3年間参禅した白隠ゆかりの龍沢寺(静岡県三島市)を復興させて住職となる。
 自らに想像を絶する苦行を課す玄峰老師のこと、寺での修行のきびしさは尋常ではなく、性根の座った雲水でもしばしば逃げ出すほどだった。また読経の声は太玄和尚に認められただけあって全堂を震わすほどで、老師の「馬鹿者ッ!」の一喝で卒倒して気をうしなった僧侶がいたというから凄まじい。
 しかし一方で、“今白隠”といわれた春風駘蕩たる人柄にふれるため、全国からひきもきらず人があつまった。老師は常々、「わしの部屋は乗り合い舟じゃ。村の婆さんもくれば乞食もくる。大臣もくれば共産党もくる。皆同じ乗り合い舟のお客様じゃ」といい、相手がだれであれ、まったく分け隔てをしなかった。修行者には無類の厳しさで臨んだが、深奥には大海のようなやさしさを宿していた。
 また、酒をこよなく愛し、そしてなによりカネや権威に恬淡としていた。宗教界も俗世間とかわりなくカネと名誉の世界、その意味でも最高のポストとされる妙心寺派管長になってほしいと京都本山の人たちが龍沢寺に押しかけてきたときも、玄峰老師は「迷惑だ」と取り合わなかった(結局は断りきれず1年間だけ引き受けることになるが)。
 昭和35年(1961年)暮れ、95歳の老師に最期のときがおとずれようとしていた。
 11月末に発病、死をさとった老師は東京・谷中の全生庵(山岡鉄舟菩提寺)で断食をはじめた。病床での断食3日目、弟子の田中清玄が「生きてください」と話しかけると、いきなり病人ともおもえぬ力で殴りつけ、「禅坊主の死に方を見せてやる!」と怒声を浴びせたという。しかし断食は大晦日で止め、正月がくると、お気に入りだった伊豆竹倉温泉の伯日荘へ行き、そこを死に場所と決めた。
 そしてこの半年後の6月5日、玄峰老師は一杯の葡萄酒をうまそうに飲みほすと、「旅に出る。着物を用意しろ」と短く言って、天に召された。96年の見事な生涯であった。
    Text by Shuhei Matsuoka
posted by ノブレスオブリージュ at 10:49| Comment(1) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
今伯日荘様を錦田郷土研究員としてしらべています。
参考になりました。ありがとうございます。
白蓮様もお泊りであったことと玄峰老師とご一緒に写真を撮られていることをしりました。
今年の10月に小さな公民館で講演会が開かれることになりました。
伯日荘の女将はもう亡くなっていませんが、老師の事を語ったビデオを息子さんが撮っていてそれを最近見せてもらっております。
いろんなエピソードを語られています。
私は、学もなく文章も上手に書けませんが、楽しく郷土研究員様たちの助けで研究をさせていただいております。よろしければこちらの文章を、資料に一部引用させていただきたく思います。よろしくお願い申し上げます。ホームページはこれから少しずつ書いていきます。
すみませんあんまりなくて。。。
Posted by 田中道子 at 2014年08月24日 05:59
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