2013年12月03日

地名改竄の愚

 今年(2013年)8月、日本を代表する民俗学者の谷川健一氏が92歳で亡くなった。
 文献や史料の丹念な渉猟だけでなく、離島をふくめ全国をくまなく歩き、そこから紡ぎ出された大胆かつ緻密な推理と研究は圧倒的で、共著をふくめ研究書・著作は膨大であり、毎日出版文化賞、南方熊楠賞、芸術選奨文部大臣賞、そして2007年には文化功労者に選出された。独自の視点で日本の歴史・文化を読み解く手法は「谷川民俗学」とも呼ばれ、在野にあってあれだけの仕事を遺した功績は宮本常一にも比肩される。また、日本民俗学の創始者柳田国男を師としながらもその批判眼はするどく、柳田の学問上の未達域や弱点をみごとに補い、発展させていったことでも知られる碩学であった。
 その谷川氏が死ぬまで憂えつづけたのが、戦後日本の野放図な地名改竄だった。
 自治省がすすめる市町村合併により全国津々浦々で繰り広げられる地名改竄によって、地域の宝ともいえる過去の記憶がプッツリと途絶え、この国の歴史や文化のながれを読み解く手がかりをうしなってしまうことを恐れたのだ。昔からの地名を守るために、氏は自ら神奈川県川崎市に「日本地名研究所」を設立したほどだった。 
 地名から日本の歴史を読み解いた名著『日本の地名』(岩波新書)の結語で谷川氏は、「地名の改竄は歴史の改竄につながる。それは地名を通じて長年培われた日本人の共同感情抹殺であり、日本の伝統に対する挑戦である」と怒りをあらわにしている。
 地名の改竄は、今後の歴史学や民俗学などの学問上のみならず、ひろく日本人のアイデンティティーにおおきな悪影響をあたえることはまちがいあるまい。いわば、日本人自身による日本文化の抹殺行為にほかならぬことを、はたして日本人自身が気づいているのだろうか。
 たとえば、身近な例でいえば、2004年に四国中央市という途方もなく愚劣な名称の市が愛媛県にうまれたことは記憶にあたらしい。この土地のひとびとには申し訳ないが、民度のひくさを図らずも露呈してしまったとしか云いようがない。市が四国のほぼ中央部にあり高速道路の結束点ともなっていることから、将来の道州制を睨み四国の交通拠点にとのおもいを込めたというが、なんという短絡と幼稚さだろうか。
 市町村合併であたらしい市ができることは時代のながれとして仕方がないにしても、もともとこの地には宇摩(うま)という古代より続く由緒ある名称があったのだから、なにも新たに名前を考える必要なぞなく、宇摩市とすればよかったのだ。それを、なにを血迷ったのか宇摩四市町村(川ノ江市、伊予三島市、土居町、新宮村)でつくる宇摩合併協議会は、「馬」を連想させて格好が悪いという理由で切り捨てたという(じっさいに「宇摩」は「馬」から転訛した言葉かもしれない)。そして公募した名称の第4位だった「四国中央市」を強引に採用したのだから、まるで小学生並みの発想である。さいたま市、南アルプス市にならぶ三大珍市名といわれるらしいが、珍などといって嗤(わら)っている場合ではないのだ。
 さて、愛媛県の四国中央市を対岸の火事のごとく傍観、揶揄している場合ではないのが、わが高知県である。その惨状をみれば、とても胸を張れたものではない。
 いわゆる「平成の大合併」で2005年に中村市と幡多郡西土佐村が合併して四万十市となった。四万十川が全国に知られているからそれにあやかってのことだが、中村という旧藩の名でもある由緒ある市名を勝手に改竄してしまったのだ。さらには2006年には幡多郡大正町、十和村と高岡郡窪川町というふるい歴史と由緒ある名を持つ町村が合併して、これまた四万十川にあやかって四万十町にしてしまった。旧中村市にはもともと四万十町があるので、県西部はいたるところ四万十だらけなのだ。もはや怒りをとおり越して、わが県民の民度のひくさにあきれてものが云えぬほどだが、問題はこういった改竄がたんなる愚行では済まされないことだ。
 そう思ってみてみると、昭和30年ごろからの地名改竄はじつにはなはだしい。たとえば高知市中心地でも、藩政時代からつたわる町名がいつの間にか次々と消え去っていることに気づく。町名の由来を知れば、まともな神経の人なら先人の思いや文化の香りを残す名称を簡単に改竄しようなぞとは思わないはずだが。
 帯屋町は帯屋勘助という大商人がいたことからその名がついた。与力町は与力(庶務補佐役)の住まいが多かった地域、鷹匠町はもちろん鷹匠が住んだ一角だった。唐人町は長宗我部元親が秀吉の命で朝鮮の役に参戦したとき、連れ帰った捕虜の武将朴好仁と部下を住まわせたことからきている(かれらは豆腐をつくって販売していたらしい)。築城奉行百々越前の住まいがあった越前町、幡多の藩主だった山内大膳(だいぜん)亮(のすけ)が住んだ大膳町(戦前まで大膳様町と呼ばれたらしい)など、高知城にちかいいわゆる高知郭中(かちゅう)(山内家家臣団の住宅地)の一帯は割合にふるい町名が残っている。
 しかし高知市中心地でも、すっかり名前が変えられた地域がある。北から廿代町、西蓮池町、細工町、西紺屋町、京町、堺町、八百屋町、掛川町などが並ぶ一帯は商人や職人の町だったが、細工町、西紺屋町、八百屋町、掛川町がいつのまにか消滅している。ちなみに、京都の商人が住んだ京町、泉州堺の商人が住んだ堺町、山内一豊と共に遠州掛川からやってきた大工職人らが住んだのが掛川町、鏡川から水を引いて帯や着物を染める職人が多かったのが紺屋町だ。そして今やこの一帯から東側はすべてはりまや町と南はりまや町になってしまい、材木町や紺屋町などは消えてしまった。ちなみに、材木町は二代藩主忠義から材木の専売権を与えられた材木商自らが堀川を通してこのあたりに店と住まいを構えたという。全国的に有名な播磨屋橋にあやかり、旧名を捨て地域一帯をはりまや町と南はりまや町にしてしまった惨状は、県西部が四万十の名で溢れかえる姿に酷似する。
 そういえば、地名改竄を心底憂えた民俗学者谷川健一氏は『日本の地名』で高知県のことにもすこしふれている。
 「地名は私ども日本人の感覚や感情をゆさぶる力をもっている。
その一方で地名を改悪して恬然としている同胞のあることも指摘しない訳にはいかない。さきの沖縄市の例(コザという地名を消滅させ沖縄市にしたこと)がそうであるが、その無神経ぶりは本土の行政地名にもあらわれている。高知県に南国市があるのは苦笑を誘う」
 ペギー葉山の「南国土佐を後にして」が大ヒットしたのは1959年(昭和34年)である。まさにこの年、長岡郡と香美郡の5町村が合併して南国市がうまれた。われわれは半世紀以上にわたり当たり前のようにこの市名を使っているわけだが、あらためて谷川氏に指摘されると、県民のひとりとしてわたしは赤面を禁じえない。
 市町村合併で行政効率を上げるという趣旨はわからぬでもない。しかし、だからといって、わたしたちは無神経であってはならないだろう。勝手気ままに地名を改悪する権利は、わたしたちにはない。わたしたち現代人は、滔々(とうとう)とながれる歴史のほんの一瞬、この世に生をうけたリレー走者であり、先人から受け継いだバトンを後進にわたす責務が与えられていることを忘れてはならない。過去の歴史や文化をわれわれの世代で断絶させる権利は、断じてないのだ。
 ところで、谷川健一氏は熊本県水俣市のうまれ、弟は吉本隆明らと共に60年安保を思想的に牽引した伝説的詩人の谷川雁(1995年没)である。ともに東大出の俊才だが、弟はするどく現代性にこだわり、兄は古代に仕事領域をもとめた点で対照的であった。しかし谷川雁のはげしく先鋭的な言葉の裏側に土着性と民族性が濃厚に胚胎していたこと、そして兄健一が古代から現代の天皇制を照射する鮮やかな光源をもっていたことは偶然ではないだろう。そして言うまでもなく、かれら兄弟がうまれ育った「水俣」という土地を抜きに、かれらを語ることはできない。
 地名はたんなる名称ではなく、歴史と文化の記憶であり、神々の足跡でもある。地名を聴くだけで、わたしは全身にかるい電流が奔(はし)り心が揺さぶられる感覚が生じることすらある。たとえばこの「水俣」がそれだ。苦海浄土の神がその足跡をのこしてしまった、この忘れがたき地名を…。

 
     Text by Shuhei Matsuoka
     単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html


posted by ノブレスオブリージュ at 10:48| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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