2016年12月13日

「私立」とはなにか 〜諭吉と鴎外〜

 関西の名門私立大学を出、卒業後に同大学の職員となって学友会などの仕事を続けた知人がいる。かれの愛校心の旺盛さは並大抵ではなく、それはかれの個性であり微笑ましくもある反面、長いことその愛校心を奇異に感じていた。ところが最近、その理由がすこしわかってきた。どうもわたし自身が国立大学出であることと関係しているようなのだ。
 そもそも、私立大学にはすべからく創立者がおり、“建学の精神”が存在する。これは当たり前のことである。ある人が崇高な志をたて、資金をあつめ、勇を鼓して学校をつくる。創立者のつよい思いが独自の校風をつくり、学生や卒業生にもゆきわたる。愛校心を涵養する要素がもともと存在するわけだ。
 いっぽう国立大学に創立者はいないし、その学校ならではの“建学の精神”なぞない。国が国家予算をつかって計画的につくった大学なのだから、これまた当たり前のことである。授業料は優遇されるが、国立大学に「学問の自由」や「大学の自治」が本当に存在するのかすら疑わしいほどだ(安倍政権の強権的で愚かしい国立大学改革を見よ)。
 つまり、私立にくらべ国立(官立)にはそもそも学生や卒業生たちに愛校心の芽生える要素がきわめて希薄で、わたしに愛校心がうすいのは至極当然のことなのだ。そして、くだんの知人の愛校心がすこしうらやましく思えてきた次第。
 そこで、あらためて「私立」というものを考えてみたい。
 私立、とはつまり政府(お上)から独立したもの、ということである。象徴的な例として、ふたりの人物を想起しよう。慶應義塾を興し、維新後は一貫して「私立」を貫き、それを矜持(きょうじ)として生きた啓蒙思想家の福沢諭吉と、軍医で文学者だった森鴎外である。
 福沢諭吉は天保5年(1834年)に豊前国(現大分県)中津藩の下級士族・福沢百助の次男として大坂堂島の同藩蔵屋敷で生まれた。その28年後の文久2年(1862年)、石見国(現島根県)津和野に藩医・森静男の長男として森林太郎(鴎外)は生まれている。
 31歳で幕臣(外国奉行翻訳方)に召し抱えられた福沢は明治維新までに3度洋行して世界を識(し)り、35歳で世界史上まれにみる維新回天に直面する。そしてその衝撃をエネルギーとして慶應義塾でおおぜいの若者に文明のなんたるかを教え、膨大な書物や評論を書いて国民の蒙を啓(ひら)き、日本という国をあり得べき姿に導くことを使命として倦(う)むことなく邁進した、まさに「一身にして二生を経た」人生であった。
 福沢の口癖は、云わずと知れた「独立自尊」である。「一身の独立なくして一国の独立なし」との名言も遺したが、この「独立」こそが日本を一人前の国家たらしめる必須条件であり、福沢の考える「私立」のバックボーンでもあった。
 また福沢は、学問というものは本来、官許のものではなく「私立」であるべきと説き、学者のほとんどが新政府に入って禄を食(は)む姿を難じている。『学問のすゝめ』において福沢は、「今の世の学者、この国の独立を助け成さんとするに当たって、政府の範囲に入り官に在って事をなすと、その範囲を脱して私立するとの利害得失を述べ、本論は私立に左袒(さたん)したるものなり」とし、「無芸無能、僥倖(ぎょうこう)に由(よ)って官途に就き、慢(みだり)に給料を貪って奢侈の資(もと)となし、戯(たわむ)れに天下の事を談ずる者は我輩の友に非ず」とまで云う。
 『学問のすゝめ』とは、福沢が渾身の力で書いた「私立のすゝめ」でもあったのだ。
 福沢の死の翌年(明治35年)に生まれた小林秀雄は福沢の『痩(やせ)我慢(がまん)の説』を引き、「『私立』は『痩我慢』である」(『考えるヒント』文春文庫)と喝破している。これは幕府の重臣でありながら維新後に恬然として新政府の顕官となった勝海舟と榎本武揚の出処進退を福沢が激しく難じた有名な一文だが、「私立」するとは痩せ我慢を通すことにほかならぬことを小林は福沢から学んだともいえる。東京帝大出ながらその後は作家・評論家として「私立」を貫いた小林が福沢につよいシンパシーをもったのも頷けよう。
 では一方の森鴎外はどうか。
 鴎外は郷党の期待を一身にうけて明治10年、東京大学の創立と同時にわずか15歳で医学部に入学し、19歳で卒業した俊秀である。卒業後は軍医としてドイツに官費留学し、のち軍医の最高位である陸軍軍医総監にまで上り詰める。また、類まれな文才にも恵まれ、知らぬ者なき文豪ともなった。
 この鴎外の人生を俯瞰して際立つのは、長州閥との濃厚な関係である。
 津和野は長州に隣接する4万3千石の小藩で、長州のいわば属国であった。鴎外は長州閥が牛耳る陸軍に職をもとめ、敬慕した乃木希典(長州藩支藩の長府藩士)の明治天皇への殉死に衝撃を受けて切腹や殉死に材をとった歴史小説を書きはじめ、さらには歌会などを通じて長閥のトップ山縣有朋ときわめて親密な仲となる。小藩出身ながら出世できたのは山縣あってのことだともいわれる。このように長閥とのふかい関係を背景に国家権力の中枢に入り、軍医として栄達の途を歩みながら、いっぽうで文学者という「私」の部分を持ちつづけ、夥(おびただ)しい数の文学作品や翻訳作品を残したのである。
 高級官吏と文学者という「公」と「私」を一身のうちに抱えた人生は、「一身にして二生を経た」福沢とはまたちがった困難な途であった。山縣が主導したフレームアップとされる大逆事件(幸徳事件)とその後の言論弾圧に対し批判的な作品を書くなど、鴎外はふたつの立場に引き裂かれることにもなる。かれが次のように遺言したことは、それを象徴していよう。
 「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死ノ別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス森林太郎トシテ死セントス 墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラズ 書ハ中村不折ニ委託シ宮内省陸軍ノ栄典は絶対ニ取リヤメヲ請ウ」
 臨終に際し、官僚として栄達をもとめた自らの人生、さらには文学者・森鴎外からもきっぱりと決別し、ただの石見人森林太郎として死ぬことを選んだのだ。日本近代史にのこる、まことに痛切な遺書といわざるをえない。
 福沢諭吉と森鴎外は、親子ほども齢がちがうこともあり、直(じか)に接したことはないかもしれない。だが、福沢の弟子の細菌学者・北里柴三郎(のちに慶應義塾大学医学部を創設)が鴎外ら東京帝大グループと脚気の原因や伝染病研究所設立の件で暗闘を繰り広げてきたこと、北里が第1回ノーベル生理学・医学賞を受賞できなかった背景に鴎外ら東大閥の妨害があったとされることからも、生前の福沢は鴎外に好印象をもってなかったろう。
 しかし鴎外のほうはそうでもなかった。
 『福翁自伝』で福沢が、文章は勇気をもって自由自在に書くべきだが、論難した相手を前にして堂々と言えないようなことは書いてはならない、それは無責任の毒筆だと断じている箇所に鴎外が「感心した」と云ったことが、慶應塾長であった小泉信三のエッセイ(『ペンと剣』ダイヤモンド社)に出てくるし、福沢が亡くなってのち明治43年に鴎外は慶應義塾大学文学科顧問に迎えられ、「三田文学」創刊に携わって自ら編集委員になり、これにいくつかの作品を掲載している。鴎外は文学者として、福沢の「私立」を貫く生きざま、潔さにある種の憧憬の念を抱いていたと思われる。
 ところで、近代日本に名を成したこのふたりの生き方を考えるとき、明治維新を福沢が35歳で迎え、鴎外はわずか6歳だったことを見逃してはならないだろう。
 人生半ばの働き盛りで大転換期を迎えた福沢は自らの出処進退をはっきりとここで決める必要があり、幾度となく政府から請われながら決然として「私立」の途を選んだ。もちろん位階勲等も拒んだ。が、鴎外は日本がすでに近代国家の体を整えつつあったころに東京大学(慶應義塾に対抗して明治政府が設立)を卒業し、長閥のツテを頼りに官途に就いて出世を目指すコースに衒(てら)いもなく乗ったように見える。
 しかし文学者でもあった鴎外に、「私立」しなかったことへの負い目はなかったか。かれの遺言や福沢へのある種の憧憬は、それを暗示しているようにわたしには思える。
 「私立」とは畢竟(ひっきょう)、痩せ我慢することであり、その矜持であり、一身独立の方途である。これは現代の私立大学や企業の経営にも、もちろん通ずることであろう。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html

posted by ノブレスオブリージュ at 13:57| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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