2023年06月27日

税金で飯を食うということ

 先日、『生きるLIVING』という新作のイギリス映画を観て、いろいろな想いが頭をめぐっている。
 この映画は黒澤明監督の『生きる』(1952年封切)をリメイクしたもので、ノーベル賞作家カズオ・イシグロの脚本と知り映画館に足を運んでみたのだが、期待をこえる出来映えにうなってしまった。
 黒澤の『生きる』はストーリーもさることながら主役の志村喬の怪演で成り立っていたからかれの役が嵌(はま)らなければ映画にならないが、イギリスの国民的俳優ビル・ナイの志村とはまたちがった、もの静かで哀しみを内に秘めたふかい演技力によってこの映画はたんなる名作のリメイクではない、もうひとつの観るに値する秀作に仕上がっていた。
 イシグロは若いころ黒澤の『生きる』につよい感銘を受けたらしく、本作でも原作を十分に尊重し、舞台こそロンドン、東京と異なるが両作とも第2次大戦後の役所での出来事を主題にしており、がんで余命半年と告げられた定年間近の市民課長が、死んでいるも同然だった空虚な役人人生にハタと気づき最後に生きる意味を見出すというストーリーや主な登場人物などもほぼ忠実になぞられている。雪の降る公園でブランコを漕ぎながら主人公が歌を口ずさむ有名なエピローグも、もちろん再現される。
 ただあえて云えば、この両作にはひとつだけ大きな相違点がある。原作には痛烈な役人批判、役所批判がこれでもかとばかり込められているが、リメイク版は役所の“事なかれ主義”はもちろん描いてあるものの原作のエゲツなさは抑えられ上品に仕上げてあるところだ。お国柄の違いもあろうが、幼時に渡英したイシグロならでは、イギリス社会への遠慮と紳士の国への憧憬がそうさせたのではないかとわたしは勝手な想像をしている。
 実は原作の『生きる』は上映時間が本作より約40分もながい。その40分に黒澤、橋本忍、小國英雄という脚本スタッフの役人社会へのつよい義憤と侮蔑を込めた感があり、もっとも重要となるラストの場面にそれは如実にあらわれる。リメイク版では主人公の葬儀後に列車の中で市民課職員らが粛然とした面持ちで会話を交わすシーンとなっているが、原作では役所のトップから各部署の小役人まで大勢が出席する主人公の通夜の席となっており、ここで黒澤はいささか辟易(へきえき)するほどの執拗さで役人と役所の実態を皮肉たっぷりに描いている。当時役人が観たらかなり不快な気分になったのではないかと思えるほどだ。
 いずれにしろ役所も時代とともに多少は変化し、また直接市民と接する市役所のような自治体もあれば霞が関の官僚組織もありひと括りにはできないが、役所幹部や議員にひたすら阿諛(あゆ)し、決して余計なこと(市民・国民のためになること)はせず、出世最優先で責任回避を旨とする役人の因循姑息な習性は共通しており、それは戦後すぐであれ現在であれ大差はない。かれらの中に市民や国民のために仕事をすべき公務員であるという自覚は、ほんの一部の例外を除き、まず見受けられないのが普通だ。
 大蔵省理財局長といういわば役人の中の役人であったキャリア官僚の佐川某が、国民からの税金で飯を食っている国家公務員でありながら国会で嘘の答弁を繰り返して己が地位と安倍政権を守ろうとした姿がまさにそれを象徴しており、佐川の命令で公文書改ざんを余儀なくされその罪悪感から自ら命を絶った近畿財務局のノンキャリア職員赤木俊夫氏がそのほんの一部の例外に当たる。どちらが公務員として、人間としてのあるべき姿かは云うまでもあるまい。
 そもそも役人になるとはどういうことで、税金で飯を食うとはどういうことなのか。そんなことを『生きるLIVING』 と原作とをあらためて比べながら考えるうち、ふと頭に浮かんだのが、昭和を代表する歴史学者羽仁五郎の著書『教育の論理−文部省廃止論−』(ダイヤモンド社)である。この中で羽仁が前島密(ひそか)の言ったとされる<誓って兄弟の血はすすらない。税金で飯を食おうとは思わない>という言葉を引いていたのを思い出したのだ。
 旧幕臣の前島は明治維新のとき、通信の自由の実現のため日本にも近代的な郵便制度をつくる必要があると主張して認められ、その責任者となっていまでいう郵政大臣となり今日の郵便制度をつくった男だが、それが成ったときこの言葉とともに職を辞し、民間に戻ったのだ。羽仁は「この前島の一言は、国際的にみても、第一級の名言であろう」と最大級の賛辞を惜しまず、続けて「かれは公務員になることが目的ではなくて、郵便制度を日本に創立するということが目的だった。その郵便制度をつくるには、国家の事業としてするよりほかなく、そのために公務員になる必要があったから公務員になったのであり、その必要が解決されたのだから、つづけて公務員として生活する、ということはかれには考えられなかった。」と述べている。
 前島の業績は郵便制度の創設だけでなく、駅制改革、陸・海運の振興、教育の振興、鉄道計画の立案など多岐にわたる。首都東京を実現したのもかれの功績で、慶應4年に新政府の首都をどこにするかで時の最高権力者大久保利通の唱える大坂遷都論に傾きかけたとき、江戸遷都論を大久保に献言して京都から江戸(東京)への遷都を決断させた。また明治15年に大隈重信が東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立したとき、土佐・宿毛出身の小野梓とともに大隈を支え、小野が早世したあとも校長として早稲田大学の基礎をつくっている。大隈が前島を「日本文明の一大恩人」と称えたのも頷ける見事な生き様だ。
 この前島と好対照をなすのが、土佐人田中光顕(みつあき)である。
 佐川の深尾家(土佐藩家老)家臣という下級武士の家に生まれた田中は脱藩して長州に赴き、高杉晋作の腰巾着になる。高杉亡きあとは同じく長州系の中岡慎太郎に従って土佐陸援隊に入り戊辰戦争にも出征するが、おおくの有為な志士が非命に斃(たお)れるなか生き残り、「典型的な二流志士」(司馬遼太郎)ながら政府要職を歴任して最後は伯爵宮内大臣に栄達、95歳まで生きた強運の男だ。前島より8歳年少で明治維新のころは25歳という若さだったが、27歳ですでに兵庫県知事の地位にあった長閥の出世頭伊藤俊輔(博文)から県官吏の職を与えられ、その後は伊藤が中央政府の要職に就いて栄進するとともに田中も政府役人として出世してゆく。
 ところが生まれは争えないということか、田中は宮内大臣時代にとんでもないスキャンダルを起こしている。大宅壮一著『炎は流れる』(文芸春秋)によると、明治41年、韓国とのあいだに「第二協約」が結ばれて日本の支配権が確立した記念に、皇太子嘉仁(よしひと)親王の韓国行啓となった。このときの随行者は皇室関係者のほか総理大臣公爵桂太郎、陸軍大将侯爵野津道貫(みちつら)、海軍大将伯爵東郷平八郎、そして宮内大臣伯爵田中光顕といった錚々たる顔ぶれだった。
 そして大宅はこう続ける。
 「この随行者のなかで、たいへんな物議をかもしたのは田中光顕である。彼は韓国滞在中、花柳界で話題になるような遊びをしたばかりでなく、京城(ソウル)の骨董屋と人夫数十名をひきつれて、高麗時代の古都開城にのりこみ、国宝の一つにかぞえられていた蠟石の塔をもち出して、東京の自邸に送った。
 あとでこれを知った博文は、烈火のように怒り、長文の詰問電報をうってきた。そこで光顕は、この塔を韓国王から宮内省へ献上するという形をとろうとしたが、韓国側が同意しなくて、この事件はけっきょくウヤムヤとなった。」
 田中のこの暴挙がワシントンポスト紙などで大きく報じられ、韓国統監であった伊藤博文は顔をつぶされた形となったのだ。なおこの国宝は敬天寺十層石塔というのが正式名称で、大正7年に米英ジャーナリストらの尽力で韓国に返還されている。
 田中は文化財の収集にことのほか熱心で、佐川町の青山(せいざん)文庫のほか東京・多摩市の旧多摩聖蹟記念館、宮内庁などにそれらは保管されている。おそらくは身にそぐわぬ高い地位が尊大と驕慢を生み、権力を背景にした奇矯なほど際限ない収集癖につながったのだろうが、前島密の<誓って兄弟の血はすすらない。税金で飯を食おうとは思わない>という覚悟と清廉さに比べるべくもない。
 といって誤解されても困るが、わたしはなにも役人なぞになるなと云いたいわけではない。そうではなく、役人や議員のような公職に就くなら、せめて「税金で飯を食う」ということの重大な意味を骨の髄に叩き込んで一時たりとも忘れてくれるなということだ。
 人生の最後に役人として本来すべき仕事をし遂げて幸せそうに死んでいった、『生きるLIVING』とその原作におけるわが市民課長は、きっとそこに気づいたのだろう。

 Text by Shuhei Matsuoka
 単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
posted by ノブレスオブリージュ at 06:50| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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