2024年09月25日

憲法は土佐の山間より

 日本国憲法はいま、累卵(るいらん)の危うきにある。
 自民党を中心とするいわゆる改憲派は、現憲法は敗戦後にGHQ(連合国軍総司令部)と総司令官マッカーサーに押しつけられたものであり、また戦後永らく経ち安全保障環境も激変していることから日本人自らの手で改正すべきだと主張する。このたびの自民党総裁選でも裏金問題から国民の目を逸らすため、年中行事的な改憲論をここぞとばかり持ち出し、第9条改正を臆面もなく主張する有様である。
 ただ、改憲は自民党内でもいまやたんなる掛け声で右派勢力向けのポーズに過ぎず、実は本気でやる気はないという見方もある。改憲派の急先鋒と思われた元首相の安倍晋三でさえ、2016年9月に「その必要はなくなった」とジャーナリストの田原総一朗に本音をポロリと吐露したという。「実は集団的自衛権の行使を決めるまではアメリカがやいのやいのとうるさかったが、これを決めてからまったくなにも言わなくなった。だから改憲の必要がなくなった」と。そして「ただ憲法学者の7割が自衛隊を違憲だと言っているから、憲法に自衛隊を明記したいと思う」と付け加えたという。
 憲法第96条で、憲法改正には「国会で衆参両院議員のそれぞれ3分の2以上の賛成を得たのち、国民投票によって過半数の賛成を必要とする」となっている。アメリカは戦後自らが日本に授けた現憲法の、とりわけ不戦条項の第9条が邪魔でしかたがなく、日本政府に集団的自衛権の行使容認などを早く決めさせようと憲法改正を迫ってきたが、仮に議員数で3分の2以上を占めても国会でまともに議論したら国論は二分し、下手をすれば国民投票で過半数を取れず永遠に葬り去られかねない。だからアメリカの圧力を受けながらも自民党自身が一歩を踏み出せないでいたわけだ。ところが閣議決定という姑息な裏技で現憲法のまま解釈変更して集団的自衛権の行使容認を決めてしまったためその必要がなくなった、ということだろう。
 ではかれらが改憲に本気でないなら憲法は安泰なのかというと、そうではない。国権の最高機関である国会を平然と無視して閣議決定だけで国の根幹にかかわる防衛政策の大転換−集団的自衛権行使の容認、防衛予算倍増、敵基地攻撃能力を明記した安保関連3文書改定など−を決めるという大方の憲法学者が憲法違反だとする暴挙がこの10年間で公然と繰り返されるようになったことにこそ問題の本質がある。これは民主国家ではなく専制国家のやることで、いわば先祖返りにほかならない。
 劈頭(へきとう)でわたしが累卵の危うきにあると云ったのは、改正するまでもなく憲法はすでに自公政権により形骸化し、その精神は瀕死の状態にあるという意味なのだ。
 そもそも現憲法は改憲派が主張するようにGHQに「押しつけられた」ものなのか。「押しつけられた」とすれば、それは天皇主権の国体を維持したい日本の支配層(保守層)が「押しつけられた」のであって、国民が「押しつけられた」のではない。どころか、戦前・戦中と散々な目に遭ってきた国民は国民主権と平和を心底望んだわけだから、「押しつけられた」どころか望外の平和憲法をマッカーサーが授けてくれて歓喜雀躍したのだ。
 国民が「押しつけられた」のは、明治22年(1889年)に発布され昭和21年(1946年)に命脈尽きた旧憲法のほうだった。全国の民権家や民権結社が民主的な憲法草案を新聞等に次々と発表するもそれを一切無視して、ドイツのプロイセン憲法に倣(なら)った絶対不可侵の天皇を頂点とする専制的な「夏島草案」(伊藤博文、井上毅(こわし)、伊東巳代治(みよじ)、金子堅太郎が神奈川県夏島の伊藤の別荘で鳩首して起草)をもとに制定された大日本帝国憲法こそ、国民に「押しつけられた」ものであったことを忘れてならない。
 敗戦後の憲法改正にあたっては当初、ポツダム宣言の趣旨に則って敗戦国である日本自らが改正案を作成するようマッカーサーは日本政府に指示した。そしてGHQの示唆により、建前上は天皇が日本政府に憲法改正を発議して幣原喜重郎内閣をして草案を作成せしめる形をとり、幣原は国務大臣松本烝治(じょうじ)を委員長に御用学者らを擁した憲法問題調査委員会を発足させ草案作成にあたらせた。だが、出てきた草案は天皇制護持を柱にした明治憲法に近いもので民主的とはほど遠い代物であったことから、マッカーサーはGHQ作成に切り替える。その際GHQは、在野の憲法学者鈴木安蔵(やすぞう)ら7人のメンバーによる憲法研究会が起草した民主的な「憲法草案要綱」を高く評価し、これを参考にして10日間ほどの徹夜態勢で原案を作成、それをもとにGHQと日本側が具体的な条文などを決め現在の日本国憲法となったのである。
 鈴木安蔵は明治期の自由民権史、なかんずく土佐の俊英植木枝盛(うえきえもり)(1857〜1892)の研究者であった。先年亡くなった歴史家の色川大吉は『自由民権』(岩波新書)でこう述べている。
 <この草案を執筆したのは、かねて自由民権運動史や植木枝盛研究の第一人者である鈴木安蔵であった。鈴木は起草にあたって1793年のフランス憲法における権利宣言を最も参考にしたが、植木枝盛草案なども念頭においたという。そのためか、鈴木草案には、「政府憲法ニキ国民ノ自由ヲ抑圧シ権利をスルトキハ国民之ヲ変更スルヲ得」という一条があったのである。>
 『植木枝盛研究』などの著書もある歴史学者の家永三郎も『植木枝盛選集』(岩波文庫)の巻末「解説」で、日本国憲法の原案となったマッカーサー草案の作成にあたり、占領軍が戦前におけるほとんど唯一人の植木枝盛研究者であった鈴木安蔵が起草した「憲法草案要綱」を参考にしたとして、「日本国憲法と植木枝盛草案の酷似は、単なる偶然の一致ではなくて、実質的なつながりを有する」と明言している。植木の220条に及ぶ「日本国国憲案」には、「政府国憲ニ違背スルトキハ日本人民ハ之ニ従ハザルコトヲ得」「政府官吏圧制ヲ為ストキハ日本人民ハ之ヲ排斥スルヲ得」などの記述があり、そのことをかれらは指摘しているのだ。
 「日本人民の基本的人権を植木枝盛ほど明確に定型化した理論家を日本の歴史は持っていない」とは色川の評だが、いかに植木の憲法草案が民主的かつ現代的であったかがわかろう。むろん、天皇を頂点とする帝国主義国家を目指す明治政府がこれを採用することなぞありえなかったのだが。
 つまり惨憺たる敗戦を経てなお旧態依然たる日本政府草案を否定したマッカーサーの命により生まれた日本国憲法には、京大学生時代に治安維持法違反で逮捕され、のちに思想犯として投獄された経験を持つ筋金入りの憲法学者鈴木安蔵を通して、”自由民権派最高の理論家”(色川)植木枝盛起草の憲法草案(立志社「東洋大日本国国憲案」)という世界でも先進的な民主主義思想が注入されていたことになる。
 高知市中央公園の一隅にある立志社跡そばに、植木が立志社機関誌『海南新誌』創刊号の緒言に書いた「自由は土佐の山間より出ず」の碑がある。当の植木は知る由もなかったが、紆余曲折を経て、かれが希求した「自由」を象徴する平和憲法がまさに土佐の山間より出たことになるのだ。そのことを思えば、広島・長崎が反核運動のメッカとなったごとく、高知こそ護憲運動のそれになってしかるべきだろう。ちなみにここでいう護憲とは、たんに現憲法を護るだけでなく、国の最高法規である憲法を平然と踏みにじって日米安保条約を”不磨(ふま)の大典(たいてん)”のごとくその上座に据え、戦争のできる国にしようとするアメリカ一辺倒の日本の支配層への抵抗のことでもある。
 植木枝盛は第2回衆議院選挙の出馬準備中に36歳で世を去ったが、若いころから毎日のように日記をつけていた。『植木枝盛集・第七巻』(岩波書店)の「植木枝盛日記」を見ると、明治14年(1881)の8月、おそらく台風が襲来したのだろう、次のように記されている。
 <廿八日 小島稔来訪。大風雨幽居。日本国憲法艸す。>
 <廿九日 大風雨。幽居、日本憲法艸す。>             
 暴風雨の中、高知城下の桜馬場の自宅で机にしがみつき、あの鋭い眼光を紙面に注ぎつつ、かねてより構想中だった憲法草案をわずか2日間で一気に書き上げたことがわかる。さらに驚くべきことに、このとき枝盛はまだ弱冠25歳だったのだ。
 激動の明治期、土佐から中江兆民、馬場辰猪、小野梓、植木枝盛、幸徳秋水と澎湃(ほうはい)として群がり出た名だたる民権思想家たちのことを思えば、かれらの身命を賭した不屈の抵抗精神を涵養する何ものかがこの僻遠の地、土佐の風土にあきらかに存在していたことがわかる。そのことを大いに誇りとしつつも、わたしは果たしてかれらに顔向けできる後輩たりえたかと迂闊にも自問し、ただ呆然としている。(敬称略)

Text by Shuhei Matsuoka
 単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
posted by ノブレスオブリージュ at 10:08| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス: [必須入力]

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック