10月30日の高知新聞社会面に載った記事がまさにそれだった。
≪小学教諭新採204人辞退 県内来年度 合格者の7割強≫
小学校教諭として来年度採用される予定の学生の7割が辞退したという意味に受け取れ、まさかそんなことがあるはずはない、見出しをこちらが読み間違えたのだろうかと思って二度見、三度見し、そして目を皿にして読んでみたのだ。ところが、その通りの内容だったことにわたしは愕然とした。
2025年度の高知県の小学校教諭採用(採用予定130人程度)について、合格通知を出した280人中すでに7割超の204人が辞退したため新たに13人に追加合格を出し、12月には2次募集(40人程度)を行うと県教育委員会が発表。教育長はこの前日に16歳未満の女性(女子中学生だろう)への不同意性交の容疑で四万十市の中学教諭が逮捕された事件にも触れ、「一人一人が自身の行動を省み、子どもたちに誇れるか常に問い、厳しく見つめる必要がある」と述べたという。
教師は残業が多く部活動なども先生任せで生徒に向き合う時間すらない、という典型的なブラック職種であり、心身共にもたなくなって辞める者も多く、わたしの高校の同級生(小学校教諭だった)のように過労死する者も少なくない。そんなだからなり手不足だろうと思ってはいたが、なんと合格者の7割以上が辞退とは。
日本の教育はすでに取り返しのつかぬまでに崩壊してしまっているのではないか―そんな不吉な想念がわたしの頭をめぐる。
文科省はこれまで教員に残業代を支払わないかわりに「教職調整額」と称する定額補助を義務付けてきた。が、あまりにも極端な長時間労働が問題視されるようになり、あわてて補助額を月額4%から13%に増やす案を出したものの、これはたんなる弥縫策に過ぎず「定額働かせ放題」の現状をさらに悪化させるとの批判が噴出。衆院選で過半数割れとなった影響もあり野党の要求をのんで残業代を支払う仕組みに変更すべきとの案も出ている。
わたしは嘆息しつつ、何気なくその上の記事に目をやった。すると横転した車を何人かで起こそうとしている写真とこんな見出しが目にとまった。
≪香美市中学教諭 飲酒運転か 高知署捜査 高知市で自損事故≫
香美市内の49歳の中学教諭が飲酒運転で歩道に乗り上げて電柱に激突、車が横転して大破したのだ。教員による不祥事は珍しくないが、学校の先生たるものがまだ泥酔状態で運転しているのかとあきれるばかり。教育現場の人心荒廃ぶりはもはや末期症状だ。
そしてまさかと思いつつ一番下の記事に目をやったところ、なんとここにも教育現場の退廃を象徴する記事が掲載されているではないか。
≪学校でのセクハラ防げ 大阪のNPO代表「研修で共通認識を」≫
大阪市立の中学校教諭として30年間勤務し、その後NPO法人「スクール・セクシャル・ハラスメント防止全国ネットワーク」を設立した女性が高知市で講演をしたという記事だ。彼女は自身の教職時代、ある教諭が生徒にセクハラをしていると校長に報告したところ、職員室での朝礼で「同じ仲間である先生を売ろうとした」と教頭に名指しで非難されたうえ、学校側は被害にあった生徒の声は聞き入れず加害教諭を異動させただけだったという。被害相談を受けた人が孤立しないためにもセクハラ防止に学校全体で取り組んでほしい、と彼女は訴えている。
この日、10月30日の高知新聞の社会面に載ったこれらの記事だけでも、日本の教育現場の惨状がはっきりと見てとれるが、この2日後にはこんな記事が社会面を飾った。
≪県内小中不登校 最多 23年度1000人当たり34.3人≫
文科省発表によると、昨年度の県内小中学校の不登校児童・生徒は1604人、千人当たりで過去最高の34.3人になったという。驚くべき数だが、考えてみれば当然の結果ではないか。教師らは長時間労働で疲弊し、深刻ないじめや性犯罪などは日常茶飯事という学校にだれが行きたいか。学校なぞに行かないほうが精神の健康が保てるのではないかとすら思えてくる。ちなみに高知県の割合はこれでも全国で15番目の少なさだという。
さてこれらは初・中等教育の問題だが、高等教育もじつに深刻だ。
昭和54年度から全国一斉の国公立大学入試共通一次試験がはじまった。経済学者の宇沢弘文はかつて『「豊かな社会」の貧しさ』(岩波書店)の中で「およそ考えうる入学者選抜方式のなかでもっとも非人間的、非文化的なものが、この共通一次試験制度であるといってよい」と痛罵をあびせたが、そういった批判渦巻くなかで文部官僚らは名称を「センター試験」、「共通テスト」と変えて存続させている。毎年1月に全国一斉の大学入試共通テストを強要する愚かさは、降雪など気候上の不公平に加え試験場での様々なトラブルや不正行為となって現れる。文科省は一斉テストを運営する「大学入試センター」を天下り先として維持するためだけに高校生らに無意味な負担と犠牲を強いているのだ。
さて、非人間的な全国一斉テストののち、大学別の入学試験を経て大学に入ると、今度は莫大な学費負担がのしかかる。わたしが入学した昭和50年、ちょうど半世紀前だが、国立大学の年間授業料は3万6000円だった。それがいま標準額53万6363円で首都圏の一橋大、東京科学大、東京芸大などはすでに64万2960円となっており、東大も来年度から同額に引き上げると発表している。近い将来には全国でこの流れになるだろう。
この学費上昇率がいかに常軌を逸しているかは、大卒初任給のそれと比較すれば一目瞭然だ。今年度の大卒初任給は平均約24万円で昭和50年度の2.7倍ほどだが、国立大の授業料はなんと17倍になっているのである。むろん私立大学はさらに高く平均で年間100万円ほどかかり、地方出身者だと学費のほかにアパート代や生活費の負担が加わる。
庶民が子どもを大学にやるのがきわめて困難になりつつあり、家計の負担を減らすため奨学金を利用する学生も多いが、就職後に返済できなくなる事例が多発している。最新の労働者福祉中央協議会の調査では、半数近くが奨学金返済が日々の食事に影響していると答え、約4割が結婚、出産、子育てに影響していると答えている。
巷間に喧(かまびす)しい日本の出生率低下も、教育崩壊のもたらした現象のひとつだ。女性1人当たり1.26人(2022年)は他の先進国に比べても異常な低さで、このままでは急激な人口減少を止めることはできまい。教育環境の劣化に加え、教育費の家計負担が大きすぎて、子どもを産みたくても産めない社会になってしまったのだ。
2024年9月発表の最新データによると、OECDに加盟する36ヵ国の教育分野への公的支出は標準値でGDPの12%だが、日本は8%で下から3番目。一方、高等教育にかかる費用のうち家計負担の割合は上から3番目の高さ(なんと51%!)で、教育費が家計に重くのしかかっていることがわかる。いかに日本政府が教育を軽んじてきたか、そしていまの教育崩壊が故なきことでないことがよくわかろう。防衛予算倍増で軍拡に狂奔し、一方で教育をなおざりにしているのが日本の姿なのだ。
さらには日本の国力低下も見逃せない。スイスの有力ビジネススクールIMDが毎年発表する世界競争力ランキングで、かつて1位だった日本はこの30年間で下がり続け、今年は67ヵ国中38位と過去最低を更新した。アジア地域でもシンガポール、中国、韓国から大きく引き離され最下層に転落したのは、教育レベルの低下と無縁ではなかろう。
国を成り立たせているのは、云うまでもなく「人」である。資源のない日本のような国ではなおさらだ。その「人」を育てる「教育」があらゆる政策分野の最上位に置かれるべきものであることは論を俟たないだろう。
教育を支配する文部省への、本邦初の痛烈な批判者だった福沢諭吉はこう述べている。
<教育の功徳(くどく)は単に受教者の一身に止(とど)まらずして遠く子孫に及び、社会全体の自然に進歩し又退歩するも、その国に行わるゝ教育法の勤怠に関係すること明(あきらか)に知るべし。>(『福翁百話』)
「教育は百年の計」という至言がある。緒方洪庵の教えを慶應義塾で実践して数多(あまた)の有為なる人材を社会に送り出した福沢ならではの寸言は、これに通ずるものだ。教育現場から自由を奪い、教師や生徒らを支配し、教育内容に口出しし、挙句に深刻な教育崩壊を招いて社会を退歩させている文科省が、厚顔にもホームページにこの至言を掲げている。言葉をうしなうほどのアイロニーではないか。(敬称略)
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
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