モラルや生きることの現実を放擲し、安易なバーチャル世界に耽溺する日本人。そしてこれと呼応するように現れた青少年の性や犯罪の恐るべき短絡化。
日本人はいま、内部から壊れていっているのではないか。
そして私の中では、このことと高度経済成長とともに完膚なきまでに破壊された「日本の風景」が完全に重なるのである。
普通どんな国でも、その地域特有の町並みや家並みが風景を形づくっている。
フィレンツェでもロンドンでも北京でもそうだ。風景は、その土地の風土を母として、文化を父として生まれ、人びとによって育まれるものである。
しかし驚くべきことに、京都や奈良など一部を除いて、日本にはすでに本来の「日本の風景」がほとんど存在しない。ここ50年ですっかり壊れてしまったのである。
「戦争で焼け野原になったから仕方ない」との声も聞こえてきそうだ。確かにそうである。しかし空襲で灰燼に帰したドレスデンの町並みを60年かけて寸分狂いなく復元するヨーロッパ人の執念とくらべれば、やけにあっさりとしている。あたかも、伝統的な日本の家や町並み、風景などそもそも存在していなかったごとく、せっせと奇怪な別世界をつくり上げてしまったのが、いまの日本なのである。
たとえばわずか半世紀前の映像に映し出された昭和30年代の日本といまの風景を比べて私などは慄然とする。そして同時に、冒頭に触れた現代の相貌を思い起こすのだ。
この「日本の風景」の変容に一役買ったのが、日本独特のハウスメーカーという不思議な企業群の存在であると私は考えている。
規格化された部品を現地で組み立てる、いわゆるプレハブの会社は欧米にもある。しかしナショナルブランドとして全国津々浦々で家を販売するような巨大メーカーが何社も存在するのは、世界でも日本だけである。
「日本の風景」が変わったのは、どうやらハウスメーカーの規格化された映画のセットのような家々が、いまの日本全国の標準的な家並みを形成しているからではないか。
そして、現実感のない、無個性で白々しい洋風のプレハブ住宅の子供部屋で、子供たちは現実感のないバーチャルな遊びに興じる。「日本の風景」を壊したハウスメーカーの家々の中で、日本人が内部から壊れていっている図だ。
この情況を食い止めるもっとも効果的な方法はなにか。
それは、人々が「住まい」を根本的に見直し、「日本の風景」をもう一度きちんとつくり直し、「人間」をつくり直すことがではないか。
好例をひとつ紹介しよう。
十年ほど前、高知県に「土佐派の家委員会」と称する建築家グループが立ち上がった。
土佐杉・檜、土佐漆喰、土佐和紙など地元の伝統的な自然素材をふんだんに使った、百年住める野太い住宅建築を標榜している建築家グループだ。
リーダーの山本長水さんは「土佐派の家」をこう説明する。
「化石エネルギーと化学薬物を多用した近代文明がもたらしたさまざまな問題を乗り越えた新しい時代のもの。地球環境にあまり負担をかけない、多様な生命の共存共栄を願えば、人間が多少の犠牲的な努力を求められることもある。これを受け入れて、地上に新たしい“楽土”を実現しようとするとき、建築や住宅はどんなものであれば良いのかという答えを求めた、一つの新しくて美しい運動です」
いまの日本の家は平均25年で建て替えられているという。近代的な工場で化学物質をふんだんに使って作られるハウスメーカーの家々は、大量の産業廃棄物を生み出しながら次々に新しく立て替えられている。なるほどビジネスとしては、うまくできている。しかし、やっと住宅ローンが終わったら建て替え時期がやってくるというのでは、庶民はたまったものではないし、この環境の時代に資源浪費も甚だしい。
こんな冗談のような悲惨な現状に、土佐の田舎から敢然と異議申し立てをしようというのだ。
ハウスメーカーは莫大な費用を投入して華やかなテレビCMを演出する。家を買えば、あたかも“楽土”を手に入れられるがごとく。そして当たり前のように人々は、そんな白々しい、映画のセットのような無個性な工業製品に憧れ、「住まい」として買う。
「土佐派の家」グループは、そんな嘘にだまされるなとは言わない。しかし、住まいは家族に深い安らぎや生きるためのエネルギーを与えてくれる大切なものであり、そろそろ日本人は目を覚まして、本当の“楽土”の住まいを手に入れたらどうか、と主張するのみである。
このような美しい運動が実を結び、「日本の風景」を少しずつでも蘇らせることができたなら、壊れかかった日本人もなんとか恢復するのではないか。
私には、そう思えてならないのである。
Text by Shuhei Matsuoka
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「日本の風景」にはあまりこだわりがありません。大切なのは、最低限、安全な水と火と光がいつでも手に入ることだと考えています。それさえも手に入らない人々の何と多いことでしょう。