今年は広島と長崎に原爆が投下されてから80年目となる。
この間、さいわいにも核爆弾が戦争で使用されることは一度もなかったが、朝鮮戦争、キューバ危機、ベトナム戦争などを想起すればこれはまことに奇跡的なことであった。
1950年にアメリカの核爆弾の備蓄はすでに300発あり、この年にはじまった朝鮮戦争でマッカーサーは中国大陸へ数十発を投下するようトルーマン大統領に強く要望していたし、1962年のキューバ危機ではケネディ大統領が空軍に核爆弾搭載を命じて米ソは一触即発となりフルシチョフは家族をモスクワから避難させマクナマラ国防長官は自分の命も今日までと観念したと回想している。またベトナム戦争でもニクソン大統領は核爆弾を搭載したB52を沖縄に配備させ北ベトナムへ投下する寸前までいっていたのである。
そしていまやプーチンがウクライナへの核兵器使用をほのめかすという極度に危険な状態となってしまったが、そんななかで昨年、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞したことは一縷の光明であった。
この日本被団協という組織には、広島・長崎に落とされた原爆による被爆者はもちろんだが、終戦の翌年からアメリカがはじめたマーシャル諸島ビキニ環礁での原水爆実験(1946〜1958年の間に67回行われた)による被爆者が含まれていることも忘れてはならない。
米ソ冷戦が激化して両国は競って強力な核爆弾の開発を行うようになり、アメリカも原爆より格段に威力のある水爆の実験を本格化させる。そこで起こったのが世界を震撼させ、日本被団協誕生の契機ともなった「第五福竜丸事件」である。
1954年3月1日、広島型原爆の約1000倍という途方もない威力の「ブラボー」と名付けられた水爆がビキニ環礁で爆発した。閃光、そして轟音とともにサンゴ礁の島に直径1.6キロ、深さ66メートルの大穴が空き、膨大な量の粉々になったサンゴと海水が巨大なキノコ雲に舞い上げられた。
マグロ船の第五福竜丸は爆心地から約160キロも東方にあったが、閃光と巨大なキノコ雲、そして7、8分後にやってきた爆音と船を揺らす大波に船員たちは震え上がった。そして白い灰が目も口も開けていられぬほどに4時間以上も間断なく船に降り注いだが、船員らはこの灰の恐ろしさを知らなかったのだ。
静岡県焼津に帰港後、船員らがさまざまな重篤な病状を呈したことで大騒ぎとなる。「邦人漁夫ビキニ原爆実験に遭遇、23名に原子病、水爆か」と読売新聞は報じ、このニュースにより核爆発から遠く離れた場所でも放射能で汚染されるという恐怖が世界中を駆け巡る。
そしてのちにこの船以外に延べ992隻を超える日本の漁船が被爆したことが判明するが、とりわけ高知県幡多郡下9校の高校生と教諭らによる丹念な聞き取り調査と資料発掘によって室戸漁港を基地とする多くのマグロ漁船と室戸水産高校練習船が被爆し放射能症の犠牲者を出していたこと、さらにその存在を日米両政府がひた隠しにしてきた経緯までも暴き出したことは特筆すべきことだった。またかれらはマーシャル諸島にまで足を運び、人体実験さながら島に置き去りにされ被爆してがん、甲状腺異常、死産、先天性障害児の出産などの放射能障害に苦しむ島民らの筆舌に尽くしがたい悲惨な姿をも白日の下にしたのである。
水爆実験による被爆者の実態解明の端緒となったこの貴重な調査レポートは1988年に『ビキニの海は忘れない』(世界文化社)として出版され、NHKや民放各局、朝日新聞「天声人語」などでも絶賛されて全国でおおきな話題となった。
この第五福竜丸事件はまた日本被団協発足の契機となっただけでなく、ある高名な人物をして世界的な反核運動を創設せしめるきっかけともなった。イギリスの名家の出で20世紀最高の知性といっていい人物、ノーベル文学賞受賞の哲学者・数学者バートランド・ラッセル卿である。かれは第一次世界大戦中、激烈な反戦論・平和論のため投獄された経験もある筋金入りの平和主義者であった。
米ソが原水爆開発競争を止めなければ人類は滅ぶと直感したラッセルは、ノーベル賞受賞の世界的な理論物理学者アルベルト・アインシュタイン(1879〜1955)に連絡、さらに日本人初のノーベル賞学者である湯川秀樹など世界トップレベルの科学者11名の署名を得て、第五福竜丸事件の翌年(1955年)7月にロンドンで原子力戦争の絶対反対を宣言(「ラッセル=アインシュタイン宣言」)、のちの「パグウォッシュ会議」へとつながってゆく。アインシュタインはラッセルの依頼で署名した2日後に死去し、これはかれの遺言ともなった。
ところで、ひとつの都市を一発で消し去るほどの威力をもつ原子爆弾の開発をアメリカが決めたのは広島・長崎への投下のちょうど6年前、1939年8月のことである。これはルーズベルト大統領に届いた1通の手紙がきっかけだった。
差出人は、故国ドイツを離れアメリカのプリンストン高等研究所教授となっていたアインシュタインだった。ナチスが原爆を開発している可能性があり、もし完成すれば世界はナチスに征服されてしまう、これを止めるにはアメリカがいち早く開発するしかないという内容で、ナチスから逃れ渡米していた物理学者らが世界的著名人のアインシュタインに依頼したのだ。生来目立つことが嫌いで平和主義者のかれは本意ではなかったろうが、自身もユダヤ人でナチスから迫害されていたし、1905年に発表した特殊相対性理論が原爆の基礎理論となるため、大統領への進言は自分の責務だと感じたようだ。
ルーズベルトは即座に原子爆弾の研究開発を命じ、極秘裏に米英の科学者・技術者を総動員して3年後の1942年には巨費を投じてニューメキシコ州ロス・アラモスに研究所を建設、本格的な開発・製造を開始する。有名なマンハッタン計画である。所長はドイツからのユダヤ移民2世である理論物理学者ロバート・オッペンハイマーであった。
このあたりの経緯は昨年3月に日本公開された映画『オッペンハイマー』(米アカデミー賞主要7部門受賞)に描かれたので観た人も多かったろう。原爆投下が戦争を終結させたという印象は崩さず、その惨禍などもほとんど描かれなかったのはアメリカ映画の限界だったが、作品としては観応えがあった。とりわけ本編最後でオッペンハイマーが先輩学者のアインシュタインに「われわれは世界を破壊してしまった」とつぶやき、核ミサイルが飛び交う世界終末の映像で終わるラストシーンはいかにも暗示的だった。
実際にアインシュタインは広島に原爆が投下されたニュースを聞いたとき悲し気に首を振り、のちに「もしドイツが原子爆弾の製造に成功しないということを知っていたら、私は原子爆弾に関して何もしなかったろう」と語ったといわれる。
さて日本にとって最大の不運は、ルーズベルトが原爆の使用法について側近らに何も語らぬまま1945年4月に急死したことである。かれは降伏寸前の日本の都市に無警告で投下するという暴挙には出なかったはずだが、急死したため副大統領のトルーマンが大統領の座に就き、就任の日にはじめてスティムソン陸軍長官から超極秘プロジェクト「マンハッタン計画」の説明を受け驚愕する。
驚異的な破壊力をもつ原子爆弾が完成すれば、ミズーリの田舎町の雑貨屋の倅で運だけで大統領になった男と軽侮されるのを恐れていた二流政治家ハリー・トルーマンにとって、これは最高の切り札となる。大統領就任の翌月にはドイツが降伏し、かれは側近のジェームズ・バーンズ国務長官と図り日本をターゲットに周到な計画を実行に移してゆく。
東京など主要大都市は空襲でほぼ焼き尽くされ、沖縄戦も終わりかけて日本が講和を求めつつあることをトルーマンは熟知していたが、原爆投下で世界にその威力を見せつけるまで日本を降伏させないこと、そして破壊力を正確に知るため無傷の中規模都市(新潟、広島、小倉、長崎)のうち2都市を選び、ソ連の対日参戦前(英米首脳は2月のヤルタ会談でソ連参戦を了承)に投下して獲物(日本)の分け前を取りに来るスターリンに先制することがかれらの極秘プランだった。このことは現代史家・鳥居民の労作『原爆を投下するまで日本を降伏させるな』(草思社)などでほぼ明らかになっている。
今年で原爆投下から80年、ラッセル=アインシュタイン宣言から70年となる。1991年のソ連崩壊と冷戦終結で核使用リスクは一時低減したが、ウクライナ戦争や北朝鮮の核保有などでいまや最悪レベルに達している。1945年にアインシュタインやオッペンハイマーらによって創刊された米誌『ブレティン・オブ・アトミック・サイエンティスツ(原子力科学者会報)』は今年1月、「終末時計」が世界の終わり(午前零時)まで残り時間「89秒」と過去最短になったと発表した。人類滅亡の危機は、依然わたしたちの目の前にある。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
2025年03月25日
2024年12月26日
教育崩壊がもたらすもの
あさ新聞を読んでいて、ごくまれに―1年に数回程度だが―1面からめくって見出しをざっと一覧したあと、「そんな馬鹿な」と再度そこに戻り、また「え?」と声を上げ、まつ毛が眉につくほど目を見開いて読みはじめることがある。
10月30日の高知新聞社会面に載った記事がまさにそれだった。
≪小学教諭新採204人辞退 県内来年度 合格者の7割強≫
小学校教諭として来年度採用される予定の学生の7割が辞退したという意味に受け取れ、まさかそんなことがあるはずはない、見出しをこちらが読み間違えたのだろうかと思って二度見、三度見し、そして目を皿にして読んでみたのだ。ところが、その通りの内容だったことにわたしは愕然とした。
2025年度の高知県の小学校教諭採用(採用予定130人程度)について、合格通知を出した280人中すでに7割超の204人が辞退したため新たに13人に追加合格を出し、12月には2次募集(40人程度)を行うと県教育委員会が発表。教育長はこの前日に16歳未満の女性(女子中学生だろう)への不同意性交の容疑で四万十市の中学教諭が逮捕された事件にも触れ、「一人一人が自身の行動を省み、子どもたちに誇れるか常に問い、厳しく見つめる必要がある」と述べたという。
教師は残業が多く部活動なども先生任せで生徒に向き合う時間すらない、という典型的なブラック職種であり、心身共にもたなくなって辞める者も多く、わたしの高校の同級生(小学校教諭だった)のように過労死する者も少なくない。そんなだからなり手不足だろうと思ってはいたが、なんと合格者の7割以上が辞退とは。
日本の教育はすでに取り返しのつかぬまでに崩壊してしまっているのではないか―そんな不吉な想念がわたしの頭をめぐる。
文科省はこれまで教員に残業代を支払わないかわりに「教職調整額」と称する定額補助を義務付けてきた。が、あまりにも極端な長時間労働が問題視されるようになり、あわてて補助額を月額4%から13%に増やす案を出したものの、これはたんなる弥縫策に過ぎず「定額働かせ放題」の現状をさらに悪化させるとの批判が噴出。衆院選で過半数割れとなった影響もあり野党の要求をのんで残業代を支払う仕組みに変更すべきとの案も出ている。
わたしは嘆息しつつ、何気なくその上の記事に目をやった。すると横転した車を何人かで起こそうとしている写真とこんな見出しが目にとまった。
≪香美市中学教諭 飲酒運転か 高知署捜査 高知市で自損事故≫
香美市内の49歳の中学教諭が飲酒運転で歩道に乗り上げて電柱に激突、車が横転して大破したのだ。教員による不祥事は珍しくないが、学校の先生たるものがまだ泥酔状態で運転しているのかとあきれるばかり。教育現場の人心荒廃ぶりはもはや末期症状だ。
そしてまさかと思いつつ一番下の記事に目をやったところ、なんとここにも教育現場の退廃を象徴する記事が掲載されているではないか。
≪学校でのセクハラ防げ 大阪のNPO代表「研修で共通認識を」≫
大阪市立の中学校教諭として30年間勤務し、その後NPO法人「スクール・セクシャル・ハラスメント防止全国ネットワーク」を設立した女性が高知市で講演をしたという記事だ。彼女は自身の教職時代、ある教諭が生徒にセクハラをしていると校長に報告したところ、職員室での朝礼で「同じ仲間である先生を売ろうとした」と教頭に名指しで非難されたうえ、学校側は被害にあった生徒の声は聞き入れず加害教諭を異動させただけだったという。被害相談を受けた人が孤立しないためにもセクハラ防止に学校全体で取り組んでほしい、と彼女は訴えている。
この日、10月30日の高知新聞の社会面に載ったこれらの記事だけでも、日本の教育現場の惨状がはっきりと見てとれるが、この2日後にはこんな記事が社会面を飾った。
≪県内小中不登校 最多 23年度1000人当たり34.3人≫
文科省発表によると、昨年度の県内小中学校の不登校児童・生徒は1604人、千人当たりで過去最高の34.3人になったという。驚くべき数だが、考えてみれば当然の結果ではないか。教師らは長時間労働で疲弊し、深刻ないじめや性犯罪などは日常茶飯事という学校にだれが行きたいか。学校なぞに行かないほうが精神の健康が保てるのではないかとすら思えてくる。ちなみに高知県の割合はこれでも全国で15番目の少なさだという。
さてこれらは初・中等教育の問題だが、高等教育もじつに深刻だ。
昭和54年度から全国一斉の国公立大学入試共通一次試験がはじまった。経済学者の宇沢弘文はかつて『「豊かな社会」の貧しさ』(岩波書店)の中で「およそ考えうる入学者選抜方式のなかでもっとも非人間的、非文化的なものが、この共通一次試験制度であるといってよい」と痛罵をあびせたが、そういった批判渦巻くなかで文部官僚らは名称を「センター試験」、「共通テスト」と変えて存続させている。毎年1月に全国一斉の大学入試共通テストを強要する愚かさは、降雪など気候上の不公平に加え試験場での様々なトラブルや不正行為となって現れる。文科省は一斉テストを運営する「大学入試センター」を天下り先として維持するためだけに高校生らに無意味な負担と犠牲を強いているのだ。
さて、非人間的な全国一斉テストののち、大学別の入学試験を経て大学に入ると、今度は莫大な学費負担がのしかかる。わたしが入学した昭和50年、ちょうど半世紀前だが、国立大学の年間授業料は3万6000円だった。それがいま標準額53万6363円で首都圏の一橋大、東京科学大、東京芸大などはすでに64万2960円となっており、東大も来年度から同額に引き上げると発表している。近い将来には全国でこの流れになるだろう。
この学費上昇率がいかに常軌を逸しているかは、大卒初任給のそれと比較すれば一目瞭然だ。今年度の大卒初任給は平均約24万円で昭和50年度の2.7倍ほどだが、国立大の授業料はなんと17倍になっているのである。むろん私立大学はさらに高く平均で年間100万円ほどかかり、地方出身者だと学費のほかにアパート代や生活費の負担が加わる。
庶民が子どもを大学にやるのがきわめて困難になりつつあり、家計の負担を減らすため奨学金を利用する学生も多いが、就職後に返済できなくなる事例が多発している。最新の労働者福祉中央協議会の調査では、半数近くが奨学金返済が日々の食事に影響していると答え、約4割が結婚、出産、子育てに影響していると答えている。
巷間に喧(かまびす)しい日本の出生率低下も、教育崩壊のもたらした現象のひとつだ。女性1人当たり1.26人(2022年)は他の先進国に比べても異常な低さで、このままでは急激な人口減少を止めることはできまい。教育環境の劣化に加え、教育費の家計負担が大きすぎて、子どもを産みたくても産めない社会になってしまったのだ。
2024年9月発表の最新データによると、OECDに加盟する36ヵ国の教育分野への公的支出は標準値でGDPの12%だが、日本は8%で下から3番目。一方、高等教育にかかる費用のうち家計負担の割合は上から3番目の高さ(なんと51%!)で、教育費が家計に重くのしかかっていることがわかる。いかに日本政府が教育を軽んじてきたか、そしていまの教育崩壊が故なきことでないことがよくわかろう。防衛予算倍増で軍拡に狂奔し、一方で教育をなおざりにしているのが日本の姿なのだ。
さらには日本の国力低下も見逃せない。スイスの有力ビジネススクールIMDが毎年発表する世界競争力ランキングで、かつて1位だった日本はこの30年間で下がり続け、今年は67ヵ国中38位と過去最低を更新した。アジア地域でもシンガポール、中国、韓国から大きく引き離され最下層に転落したのは、教育レベルの低下と無縁ではなかろう。
国を成り立たせているのは、云うまでもなく「人」である。資源のない日本のような国ではなおさらだ。その「人」を育てる「教育」があらゆる政策分野の最上位に置かれるべきものであることは論を俟たないだろう。
教育を支配する文部省への、本邦初の痛烈な批判者だった福沢諭吉はこう述べている。
<教育の功徳(くどく)は単に受教者の一身に止(とど)まらずして遠く子孫に及び、社会全体の自然に進歩し又退歩するも、その国に行わるゝ教育法の勤怠に関係すること明(あきらか)に知るべし。>(『福翁百話』)
「教育は百年の計」という至言がある。緒方洪庵の教えを慶應義塾で実践して数多(あまた)の有為なる人材を社会に送り出した福沢ならではの寸言は、これに通ずるものだ。教育現場から自由を奪い、教師や生徒らを支配し、教育内容に口出しし、挙句に深刻な教育崩壊を招いて社会を退歩させている文科省が、厚顔にもホームページにこの至言を掲げている。言葉をうしなうほどのアイロニーではないか。(敬称略)
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
10月30日の高知新聞社会面に載った記事がまさにそれだった。
≪小学教諭新採204人辞退 県内来年度 合格者の7割強≫
小学校教諭として来年度採用される予定の学生の7割が辞退したという意味に受け取れ、まさかそんなことがあるはずはない、見出しをこちらが読み間違えたのだろうかと思って二度見、三度見し、そして目を皿にして読んでみたのだ。ところが、その通りの内容だったことにわたしは愕然とした。
2025年度の高知県の小学校教諭採用(採用予定130人程度)について、合格通知を出した280人中すでに7割超の204人が辞退したため新たに13人に追加合格を出し、12月には2次募集(40人程度)を行うと県教育委員会が発表。教育長はこの前日に16歳未満の女性(女子中学生だろう)への不同意性交の容疑で四万十市の中学教諭が逮捕された事件にも触れ、「一人一人が自身の行動を省み、子どもたちに誇れるか常に問い、厳しく見つめる必要がある」と述べたという。
教師は残業が多く部活動なども先生任せで生徒に向き合う時間すらない、という典型的なブラック職種であり、心身共にもたなくなって辞める者も多く、わたしの高校の同級生(小学校教諭だった)のように過労死する者も少なくない。そんなだからなり手不足だろうと思ってはいたが、なんと合格者の7割以上が辞退とは。
日本の教育はすでに取り返しのつかぬまでに崩壊してしまっているのではないか―そんな不吉な想念がわたしの頭をめぐる。
文科省はこれまで教員に残業代を支払わないかわりに「教職調整額」と称する定額補助を義務付けてきた。が、あまりにも極端な長時間労働が問題視されるようになり、あわてて補助額を月額4%から13%に増やす案を出したものの、これはたんなる弥縫策に過ぎず「定額働かせ放題」の現状をさらに悪化させるとの批判が噴出。衆院選で過半数割れとなった影響もあり野党の要求をのんで残業代を支払う仕組みに変更すべきとの案も出ている。
わたしは嘆息しつつ、何気なくその上の記事に目をやった。すると横転した車を何人かで起こそうとしている写真とこんな見出しが目にとまった。
≪香美市中学教諭 飲酒運転か 高知署捜査 高知市で自損事故≫
香美市内の49歳の中学教諭が飲酒運転で歩道に乗り上げて電柱に激突、車が横転して大破したのだ。教員による不祥事は珍しくないが、学校の先生たるものがまだ泥酔状態で運転しているのかとあきれるばかり。教育現場の人心荒廃ぶりはもはや末期症状だ。
そしてまさかと思いつつ一番下の記事に目をやったところ、なんとここにも教育現場の退廃を象徴する記事が掲載されているではないか。
≪学校でのセクハラ防げ 大阪のNPO代表「研修で共通認識を」≫
大阪市立の中学校教諭として30年間勤務し、その後NPO法人「スクール・セクシャル・ハラスメント防止全国ネットワーク」を設立した女性が高知市で講演をしたという記事だ。彼女は自身の教職時代、ある教諭が生徒にセクハラをしていると校長に報告したところ、職員室での朝礼で「同じ仲間である先生を売ろうとした」と教頭に名指しで非難されたうえ、学校側は被害にあった生徒の声は聞き入れず加害教諭を異動させただけだったという。被害相談を受けた人が孤立しないためにもセクハラ防止に学校全体で取り組んでほしい、と彼女は訴えている。
この日、10月30日の高知新聞の社会面に載ったこれらの記事だけでも、日本の教育現場の惨状がはっきりと見てとれるが、この2日後にはこんな記事が社会面を飾った。
≪県内小中不登校 最多 23年度1000人当たり34.3人≫
文科省発表によると、昨年度の県内小中学校の不登校児童・生徒は1604人、千人当たりで過去最高の34.3人になったという。驚くべき数だが、考えてみれば当然の結果ではないか。教師らは長時間労働で疲弊し、深刻ないじめや性犯罪などは日常茶飯事という学校にだれが行きたいか。学校なぞに行かないほうが精神の健康が保てるのではないかとすら思えてくる。ちなみに高知県の割合はこれでも全国で15番目の少なさだという。
さてこれらは初・中等教育の問題だが、高等教育もじつに深刻だ。
昭和54年度から全国一斉の国公立大学入試共通一次試験がはじまった。経済学者の宇沢弘文はかつて『「豊かな社会」の貧しさ』(岩波書店)の中で「およそ考えうる入学者選抜方式のなかでもっとも非人間的、非文化的なものが、この共通一次試験制度であるといってよい」と痛罵をあびせたが、そういった批判渦巻くなかで文部官僚らは名称を「センター試験」、「共通テスト」と変えて存続させている。毎年1月に全国一斉の大学入試共通テストを強要する愚かさは、降雪など気候上の不公平に加え試験場での様々なトラブルや不正行為となって現れる。文科省は一斉テストを運営する「大学入試センター」を天下り先として維持するためだけに高校生らに無意味な負担と犠牲を強いているのだ。
さて、非人間的な全国一斉テストののち、大学別の入学試験を経て大学に入ると、今度は莫大な学費負担がのしかかる。わたしが入学した昭和50年、ちょうど半世紀前だが、国立大学の年間授業料は3万6000円だった。それがいま標準額53万6363円で首都圏の一橋大、東京科学大、東京芸大などはすでに64万2960円となっており、東大も来年度から同額に引き上げると発表している。近い将来には全国でこの流れになるだろう。
この学費上昇率がいかに常軌を逸しているかは、大卒初任給のそれと比較すれば一目瞭然だ。今年度の大卒初任給は平均約24万円で昭和50年度の2.7倍ほどだが、国立大の授業料はなんと17倍になっているのである。むろん私立大学はさらに高く平均で年間100万円ほどかかり、地方出身者だと学費のほかにアパート代や生活費の負担が加わる。
庶民が子どもを大学にやるのがきわめて困難になりつつあり、家計の負担を減らすため奨学金を利用する学生も多いが、就職後に返済できなくなる事例が多発している。最新の労働者福祉中央協議会の調査では、半数近くが奨学金返済が日々の食事に影響していると答え、約4割が結婚、出産、子育てに影響していると答えている。
巷間に喧(かまびす)しい日本の出生率低下も、教育崩壊のもたらした現象のひとつだ。女性1人当たり1.26人(2022年)は他の先進国に比べても異常な低さで、このままでは急激な人口減少を止めることはできまい。教育環境の劣化に加え、教育費の家計負担が大きすぎて、子どもを産みたくても産めない社会になってしまったのだ。
2024年9月発表の最新データによると、OECDに加盟する36ヵ国の教育分野への公的支出は標準値でGDPの12%だが、日本は8%で下から3番目。一方、高等教育にかかる費用のうち家計負担の割合は上から3番目の高さ(なんと51%!)で、教育費が家計に重くのしかかっていることがわかる。いかに日本政府が教育を軽んじてきたか、そしていまの教育崩壊が故なきことでないことがよくわかろう。防衛予算倍増で軍拡に狂奔し、一方で教育をなおざりにしているのが日本の姿なのだ。
さらには日本の国力低下も見逃せない。スイスの有力ビジネススクールIMDが毎年発表する世界競争力ランキングで、かつて1位だった日本はこの30年間で下がり続け、今年は67ヵ国中38位と過去最低を更新した。アジア地域でもシンガポール、中国、韓国から大きく引き離され最下層に転落したのは、教育レベルの低下と無縁ではなかろう。
国を成り立たせているのは、云うまでもなく「人」である。資源のない日本のような国ではなおさらだ。その「人」を育てる「教育」があらゆる政策分野の最上位に置かれるべきものであることは論を俟たないだろう。
教育を支配する文部省への、本邦初の痛烈な批判者だった福沢諭吉はこう述べている。
<教育の功徳(くどく)は単に受教者の一身に止(とど)まらずして遠く子孫に及び、社会全体の自然に進歩し又退歩するも、その国に行わるゝ教育法の勤怠に関係すること明(あきらか)に知るべし。>(『福翁百話』)
「教育は百年の計」という至言がある。緒方洪庵の教えを慶應義塾で実践して数多(あまた)の有為なる人材を社会に送り出した福沢ならではの寸言は、これに通ずるものだ。教育現場から自由を奪い、教師や生徒らを支配し、教育内容に口出しし、挙句に深刻な教育崩壊を招いて社会を退歩させている文科省が、厚顔にもホームページにこの至言を掲げている。言葉をうしなうほどのアイロニーではないか。(敬称略)
Text by Shuhei Matsuoka
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2024年09月25日
憲法は土佐の山間より
日本国憲法はいま、累卵(るいらん)の危うきにある。
自民党を中心とするいわゆる改憲派は、現憲法は敗戦後にGHQ(連合国軍総司令部)と総司令官マッカーサーに押しつけられたものであり、また戦後永らく経ち安全保障環境も激変していることから日本人自らの手で改正すべきだと主張する。このたびの自民党総裁選でも裏金問題から国民の目を逸らすため、年中行事的な改憲論をここぞとばかり持ち出し、第9条改正を臆面もなく主張する有様である。
ただ、改憲は自民党内でもいまやたんなる掛け声で右派勢力向けのポーズに過ぎず、実は本気でやる気はないという見方もある。改憲派の急先鋒と思われた元首相の安倍晋三でさえ、2016年9月に「その必要はなくなった」とジャーナリストの田原総一朗に本音をポロリと吐露したという。「実は集団的自衛権の行使を決めるまではアメリカがやいのやいのとうるさかったが、これを決めてからまったくなにも言わなくなった。だから改憲の必要がなくなった」と。そして「ただ憲法学者の7割が自衛隊を違憲だと言っているから、憲法に自衛隊を明記したいと思う」と付け加えたという。
憲法第96条で、憲法改正には「国会で衆参両院議員のそれぞれ3分の2以上の賛成を得たのち、国民投票によって過半数の賛成を必要とする」となっている。アメリカは戦後自らが日本に授けた現憲法の、とりわけ不戦条項の第9条が邪魔でしかたがなく、日本政府に集団的自衛権の行使容認などを早く決めさせようと憲法改正を迫ってきたが、仮に議員数で3分の2以上を占めても国会でまともに議論したら国論は二分し、下手をすれば国民投票で過半数を取れず永遠に葬り去られかねない。だからアメリカの圧力を受けながらも自民党自身が一歩を踏み出せないでいたわけだ。ところが閣議決定という姑息な裏技で現憲法のまま解釈変更して集団的自衛権の行使容認を決めてしまったためその必要がなくなった、ということだろう。
ではかれらが改憲に本気でないなら憲法は安泰なのかというと、そうではない。国権の最高機関である国会を平然と無視して閣議決定だけで国の根幹にかかわる防衛政策の大転換−集団的自衛権行使の容認、防衛予算倍増、敵基地攻撃能力を明記した安保関連3文書改定など−を決めるという大方の憲法学者が憲法違反だとする暴挙がこの10年間で公然と繰り返されるようになったことにこそ問題の本質がある。これは民主国家ではなく専制国家のやることで、いわば先祖返りにほかならない。
劈頭(へきとう)でわたしが累卵の危うきにあると云ったのは、改正するまでもなく憲法はすでに自公政権により形骸化し、その精神は瀕死の状態にあるという意味なのだ。
そもそも現憲法は改憲派が主張するようにGHQに「押しつけられた」ものなのか。「押しつけられた」とすれば、それは天皇主権の国体を維持したい日本の支配層(保守層)が「押しつけられた」のであって、国民が「押しつけられた」のではない。どころか、戦前・戦中と散々な目に遭ってきた国民は国民主権と平和を心底望んだわけだから、「押しつけられた」どころか望外の平和憲法をマッカーサーが授けてくれて歓喜雀躍したのだ。
国民が「押しつけられた」のは、明治22年(1889年)に発布され昭和21年(1946年)に命脈尽きた旧憲法のほうだった。全国の民権家や民権結社が民主的な憲法草案を新聞等に次々と発表するもそれを一切無視して、ドイツのプロイセン憲法に倣(なら)った絶対不可侵の天皇を頂点とする専制的な「夏島草案」(伊藤博文、井上毅(こわし)、伊東巳代治(みよじ)、金子堅太郎が神奈川県夏島の伊藤の別荘で鳩首して起草)をもとに制定された大日本帝国憲法こそ、国民に「押しつけられた」ものであったことを忘れてならない。
敗戦後の憲法改正にあたっては当初、ポツダム宣言の趣旨に則って敗戦国である日本自らが改正案を作成するようマッカーサーは日本政府に指示した。そしてGHQの示唆により、建前上は天皇が日本政府に憲法改正を発議して幣原喜重郎内閣をして草案を作成せしめる形をとり、幣原は国務大臣松本烝治(じょうじ)を委員長に御用学者らを擁した憲法問題調査委員会を発足させ草案作成にあたらせた。だが、出てきた草案は天皇制護持を柱にした明治憲法に近いもので民主的とはほど遠い代物であったことから、マッカーサーはGHQ作成に切り替える。その際GHQは、在野の憲法学者鈴木安蔵(やすぞう)ら7人のメンバーによる憲法研究会が起草した民主的な「憲法草案要綱」を高く評価し、これを参考にして10日間ほどの徹夜態勢で原案を作成、それをもとにGHQと日本側が具体的な条文などを決め現在の日本国憲法となったのである。
鈴木安蔵は明治期の自由民権史、なかんずく土佐の俊英植木枝盛(うえきえもり)(1857〜1892)の研究者であった。先年亡くなった歴史家の色川大吉は『自由民権』(岩波新書)でこう述べている。
<この草案を執筆したのは、かねて自由民権運動史や植木枝盛研究の第一人者である鈴木安蔵であった。鈴木は起草にあたって1793年のフランス憲法における権利宣言を最も参考にしたが、植木枝盛草案なども念頭においたという。そのためか、鈴木草案には、「政府憲法ニキ国民ノ自由ヲ抑圧シ権利をスルトキハ国民之ヲ変更スルヲ得」という一条があったのである。>
『植木枝盛研究』などの著書もある歴史学者の家永三郎も『植木枝盛選集』(岩波文庫)の巻末「解説」で、日本国憲法の原案となったマッカーサー草案の作成にあたり、占領軍が戦前におけるほとんど唯一人の植木枝盛研究者であった鈴木安蔵が起草した「憲法草案要綱」を参考にしたとして、「日本国憲法と植木枝盛草案の酷似は、単なる偶然の一致ではなくて、実質的なつながりを有する」と明言している。植木の220条に及ぶ「日本国国憲案」には、「政府国憲ニ違背スルトキハ日本人民ハ之ニ従ハザルコトヲ得」「政府官吏圧制ヲ為ストキハ日本人民ハ之ヲ排斥スルヲ得」などの記述があり、そのことをかれらは指摘しているのだ。
「日本人民の基本的人権を植木枝盛ほど明確に定型化した理論家を日本の歴史は持っていない」とは色川の評だが、いかに植木の憲法草案が民主的かつ現代的であったかがわかろう。むろん、天皇を頂点とする帝国主義国家を目指す明治政府がこれを採用することなぞありえなかったのだが。
つまり惨憺たる敗戦を経てなお旧態依然たる日本政府草案を否定したマッカーサーの命により生まれた日本国憲法には、京大学生時代に治安維持法違反で逮捕され、のちに思想犯として投獄された経験を持つ筋金入りの憲法学者鈴木安蔵を通して、”自由民権派最高の理論家”(色川)植木枝盛起草の憲法草案(立志社「東洋大日本国国憲案」)という世界でも先進的な民主主義思想が注入されていたことになる。
高知市中央公園の一隅にある立志社跡そばに、植木が立志社機関誌『海南新誌』創刊号の緒言に書いた「自由は土佐の山間より出ず」の碑がある。当の植木は知る由もなかったが、紆余曲折を経て、かれが希求した「自由」を象徴する平和憲法がまさに土佐の山間より出たことになるのだ。そのことを思えば、広島・長崎が反核運動のメッカとなったごとく、高知こそ護憲運動のそれになってしかるべきだろう。ちなみにここでいう護憲とは、たんに現憲法を護るだけでなく、国の最高法規である憲法を平然と踏みにじって日米安保条約を”不磨(ふま)の大典(たいてん)”のごとくその上座に据え、戦争のできる国にしようとするアメリカ一辺倒の日本の支配層への抵抗のことでもある。
植木枝盛は第2回衆議院選挙の出馬準備中に36歳で世を去ったが、若いころから毎日のように日記をつけていた。『植木枝盛集・第七巻』(岩波書店)の「植木枝盛日記」を見ると、明治14年(1881)の8月、おそらく台風が襲来したのだろう、次のように記されている。
<廿八日 小島稔来訪。大風雨幽居。日本国憲法艸す。>
<廿九日 大風雨。幽居、日本憲法艸す。>
暴風雨の中、高知城下の桜馬場の自宅で机にしがみつき、あの鋭い眼光を紙面に注ぎつつ、かねてより構想中だった憲法草案をわずか2日間で一気に書き上げたことがわかる。さらに驚くべきことに、このとき枝盛はまだ弱冠25歳だったのだ。
激動の明治期、土佐から中江兆民、馬場辰猪、小野梓、植木枝盛、幸徳秋水と澎湃(ほうはい)として群がり出た名だたる民権思想家たちのことを思えば、かれらの身命を賭した不屈の抵抗精神を涵養する何ものかがこの僻遠の地、土佐の風土にあきらかに存在していたことがわかる。そのことを大いに誇りとしつつも、わたしは果たしてかれらに顔向けできる後輩たりえたかと迂闊にも自問し、ただ呆然としている。(敬称略)
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
自民党を中心とするいわゆる改憲派は、現憲法は敗戦後にGHQ(連合国軍総司令部)と総司令官マッカーサーに押しつけられたものであり、また戦後永らく経ち安全保障環境も激変していることから日本人自らの手で改正すべきだと主張する。このたびの自民党総裁選でも裏金問題から国民の目を逸らすため、年中行事的な改憲論をここぞとばかり持ち出し、第9条改正を臆面もなく主張する有様である。
ただ、改憲は自民党内でもいまやたんなる掛け声で右派勢力向けのポーズに過ぎず、実は本気でやる気はないという見方もある。改憲派の急先鋒と思われた元首相の安倍晋三でさえ、2016年9月に「その必要はなくなった」とジャーナリストの田原総一朗に本音をポロリと吐露したという。「実は集団的自衛権の行使を決めるまではアメリカがやいのやいのとうるさかったが、これを決めてからまったくなにも言わなくなった。だから改憲の必要がなくなった」と。そして「ただ憲法学者の7割が自衛隊を違憲だと言っているから、憲法に自衛隊を明記したいと思う」と付け加えたという。
憲法第96条で、憲法改正には「国会で衆参両院議員のそれぞれ3分の2以上の賛成を得たのち、国民投票によって過半数の賛成を必要とする」となっている。アメリカは戦後自らが日本に授けた現憲法の、とりわけ不戦条項の第9条が邪魔でしかたがなく、日本政府に集団的自衛権の行使容認などを早く決めさせようと憲法改正を迫ってきたが、仮に議員数で3分の2以上を占めても国会でまともに議論したら国論は二分し、下手をすれば国民投票で過半数を取れず永遠に葬り去られかねない。だからアメリカの圧力を受けながらも自民党自身が一歩を踏み出せないでいたわけだ。ところが閣議決定という姑息な裏技で現憲法のまま解釈変更して集団的自衛権の行使容認を決めてしまったためその必要がなくなった、ということだろう。
ではかれらが改憲に本気でないなら憲法は安泰なのかというと、そうではない。国権の最高機関である国会を平然と無視して閣議決定だけで国の根幹にかかわる防衛政策の大転換−集団的自衛権行使の容認、防衛予算倍増、敵基地攻撃能力を明記した安保関連3文書改定など−を決めるという大方の憲法学者が憲法違反だとする暴挙がこの10年間で公然と繰り返されるようになったことにこそ問題の本質がある。これは民主国家ではなく専制国家のやることで、いわば先祖返りにほかならない。
劈頭(へきとう)でわたしが累卵の危うきにあると云ったのは、改正するまでもなく憲法はすでに自公政権により形骸化し、その精神は瀕死の状態にあるという意味なのだ。
そもそも現憲法は改憲派が主張するようにGHQに「押しつけられた」ものなのか。「押しつけられた」とすれば、それは天皇主権の国体を維持したい日本の支配層(保守層)が「押しつけられた」のであって、国民が「押しつけられた」のではない。どころか、戦前・戦中と散々な目に遭ってきた国民は国民主権と平和を心底望んだわけだから、「押しつけられた」どころか望外の平和憲法をマッカーサーが授けてくれて歓喜雀躍したのだ。
国民が「押しつけられた」のは、明治22年(1889年)に発布され昭和21年(1946年)に命脈尽きた旧憲法のほうだった。全国の民権家や民権結社が民主的な憲法草案を新聞等に次々と発表するもそれを一切無視して、ドイツのプロイセン憲法に倣(なら)った絶対不可侵の天皇を頂点とする専制的な「夏島草案」(伊藤博文、井上毅(こわし)、伊東巳代治(みよじ)、金子堅太郎が神奈川県夏島の伊藤の別荘で鳩首して起草)をもとに制定された大日本帝国憲法こそ、国民に「押しつけられた」ものであったことを忘れてならない。
敗戦後の憲法改正にあたっては当初、ポツダム宣言の趣旨に則って敗戦国である日本自らが改正案を作成するようマッカーサーは日本政府に指示した。そしてGHQの示唆により、建前上は天皇が日本政府に憲法改正を発議して幣原喜重郎内閣をして草案を作成せしめる形をとり、幣原は国務大臣松本烝治(じょうじ)を委員長に御用学者らを擁した憲法問題調査委員会を発足させ草案作成にあたらせた。だが、出てきた草案は天皇制護持を柱にした明治憲法に近いもので民主的とはほど遠い代物であったことから、マッカーサーはGHQ作成に切り替える。その際GHQは、在野の憲法学者鈴木安蔵(やすぞう)ら7人のメンバーによる憲法研究会が起草した民主的な「憲法草案要綱」を高く評価し、これを参考にして10日間ほどの徹夜態勢で原案を作成、それをもとにGHQと日本側が具体的な条文などを決め現在の日本国憲法となったのである。
鈴木安蔵は明治期の自由民権史、なかんずく土佐の俊英植木枝盛(うえきえもり)(1857〜1892)の研究者であった。先年亡くなった歴史家の色川大吉は『自由民権』(岩波新書)でこう述べている。
<この草案を執筆したのは、かねて自由民権運動史や植木枝盛研究の第一人者である鈴木安蔵であった。鈴木は起草にあたって1793年のフランス憲法における権利宣言を最も参考にしたが、植木枝盛草案なども念頭においたという。そのためか、鈴木草案には、「政府憲法ニキ国民ノ自由ヲ抑圧シ権利をスルトキハ国民之ヲ変更スルヲ得」という一条があったのである。>
『植木枝盛研究』などの著書もある歴史学者の家永三郎も『植木枝盛選集』(岩波文庫)の巻末「解説」で、日本国憲法の原案となったマッカーサー草案の作成にあたり、占領軍が戦前におけるほとんど唯一人の植木枝盛研究者であった鈴木安蔵が起草した「憲法草案要綱」を参考にしたとして、「日本国憲法と植木枝盛草案の酷似は、単なる偶然の一致ではなくて、実質的なつながりを有する」と明言している。植木の220条に及ぶ「日本国国憲案」には、「政府国憲ニ違背スルトキハ日本人民ハ之ニ従ハザルコトヲ得」「政府官吏圧制ヲ為ストキハ日本人民ハ之ヲ排斥スルヲ得」などの記述があり、そのことをかれらは指摘しているのだ。
「日本人民の基本的人権を植木枝盛ほど明確に定型化した理論家を日本の歴史は持っていない」とは色川の評だが、いかに植木の憲法草案が民主的かつ現代的であったかがわかろう。むろん、天皇を頂点とする帝国主義国家を目指す明治政府がこれを採用することなぞありえなかったのだが。
つまり惨憺たる敗戦を経てなお旧態依然たる日本政府草案を否定したマッカーサーの命により生まれた日本国憲法には、京大学生時代に治安維持法違反で逮捕され、のちに思想犯として投獄された経験を持つ筋金入りの憲法学者鈴木安蔵を通して、”自由民権派最高の理論家”(色川)植木枝盛起草の憲法草案(立志社「東洋大日本国国憲案」)という世界でも先進的な民主主義思想が注入されていたことになる。
高知市中央公園の一隅にある立志社跡そばに、植木が立志社機関誌『海南新誌』創刊号の緒言に書いた「自由は土佐の山間より出ず」の碑がある。当の植木は知る由もなかったが、紆余曲折を経て、かれが希求した「自由」を象徴する平和憲法がまさに土佐の山間より出たことになるのだ。そのことを思えば、広島・長崎が反核運動のメッカとなったごとく、高知こそ護憲運動のそれになってしかるべきだろう。ちなみにここでいう護憲とは、たんに現憲法を護るだけでなく、国の最高法規である憲法を平然と踏みにじって日米安保条約を”不磨(ふま)の大典(たいてん)”のごとくその上座に据え、戦争のできる国にしようとするアメリカ一辺倒の日本の支配層への抵抗のことでもある。
植木枝盛は第2回衆議院選挙の出馬準備中に36歳で世を去ったが、若いころから毎日のように日記をつけていた。『植木枝盛集・第七巻』(岩波書店)の「植木枝盛日記」を見ると、明治14年(1881)の8月、おそらく台風が襲来したのだろう、次のように記されている。
<廿八日 小島稔来訪。大風雨幽居。日本国憲法艸す。>
<廿九日 大風雨。幽居、日本憲法艸す。>
暴風雨の中、高知城下の桜馬場の自宅で机にしがみつき、あの鋭い眼光を紙面に注ぎつつ、かねてより構想中だった憲法草案をわずか2日間で一気に書き上げたことがわかる。さらに驚くべきことに、このとき枝盛はまだ弱冠25歳だったのだ。
激動の明治期、土佐から中江兆民、馬場辰猪、小野梓、植木枝盛、幸徳秋水と澎湃(ほうはい)として群がり出た名だたる民権思想家たちのことを思えば、かれらの身命を賭した不屈の抵抗精神を涵養する何ものかがこの僻遠の地、土佐の風土にあきらかに存在していたことがわかる。そのことを大いに誇りとしつつも、わたしは果たしてかれらに顔向けできる後輩たりえたかと迂闊にも自問し、ただ呆然としている。(敬称略)
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
2024年06月26日
「地方消滅」の怪
今年4月、またぞろ怪しげなリストがメディアを賑わせ、世の不安を煽っている。いわく、「地方自治体の4割が消滅する」―。わが高知県に至っては、2050年には県内34市町村のうち7割強に当たる25市町村が消滅の危機にあるというのだから只事ではない。
ちょうど10年前の2014年5月に増田寛也(当時は慶応大大学院客員教授、元総務相・岩手県知事)を座長とする「日本創生会議」という民間組織が、2040年までに896の市町村が消滅する可能性が高いとするレポート(通称「増田レポート」)を雑誌『中央公論』に掲載、さらに同年8月には『地方消滅』(増田寛也編著、中公新書)を発刊して「地方消滅」が流行語大賞候補になるほどのセンセーションを巻き起こしたことだった。
この発表からちょうど10年経過したことを機に「人口戦略会議」という日本創生会議(2016年より休眠)の後身に当たる民間組織が人口動態を再調査し、お節介にも最新の消滅可能性自治体リストを公表したというわけだ。ちなみにこの新組織の議長に日本製鉄名誉会長の三村明夫、副議長に増田寛也(現日本郵政社長)が就いているが、実質的トップが増田であるのはいうまでもない。
今回の要旨は、消滅可能性自治体の数は10年前より若干減ったが依然として全国のおよそ4割に当たる744自治体が2050年には消滅している可能性が高いというもの。前回同様に子供を産むことのできる若年女性(20歳〜39歳)の人口動態のみを根拠に全国自治体の30年後(2020年〜2050年)を予測、減少率50%以上が予想される自治体を単純に「消滅可能性自治体」としたに過ぎず、地域に根差した行政・住民らの取り組みや自治体ごとの事情などはまったく考慮されていない。そして前回同様、“消滅”という衝撃的な言葉で世間の耳目をひきつけ、人口急減の自治体はもはや救えないという印象を与える効果を狙ったものと思われる。
このリスト公表に対し全国町村会の吉田隆行会長はつよく憤り、「全国の自治体が人口減少への対応や独自の地域づくりに懸命に取り組んでいるなかで、20歳から39歳の女性人口の半減という一面的な指標をもって線引きし、消滅可能性があるとしてリストを公表することは、これまでの地域の努力や取り組みに水を差すものだ」とすぐさま反論、島根県の丸山達也知事も「違和感がある」として人口減少問題は自治体ではなく国の問題だ、と断じている。当然の批判だろうし、怪しげなデマゴーグの跋扈(ばっこ)が「この国のかたち」を歪(いびつ)なものにしかねず、わたしなどは不快感と怒りすらおぼえる。
このリストによると、もっとも人口減少が著しい東北地方では215自治体のうち165(約77%)、北海道がこれに続き179自治体のうち117(約65%)が消滅の可能性大とされる。都道府県別ではわが高知県もかなり深刻で、人口減少率では秋田、青森、岩手に次ぐ全国第4位、県人口は2050年には45万人程度になると推定されている。さらに子供を産める若年女性に限っていえば2050年には43.7%も減少、室戸市(80.2%減少)を筆頭に大豊町、大月町、東洋町、土佐清水市と70%以上減少する自治体が続き、県全体でも冒頭で述べたごとく7割以上の市町村が消滅の危機にあるという。もしこれが現実になれば、4半世紀後には高知県そのものが行政機関として機能不全に陥っているはずだ。
ここで問題となるのは、このようなリストがひとり歩きしてしまうと、消滅するとされた自治体首長、行政職員、住民も「こりゃ無理だ」とヤル気を無くし、若者流出に拍車がかかる可能性があることだ。また地方自治体はどこも大都市からのUターンや移住者誘致に懸命だが、将来消滅すると名指しされた町や村に誰が住みたいと思うだろうか。つまり、このようなリストの公表自体が、地方消滅をさらに加速させる懸念すらあるのだ。
ではいったいなぜこの人口戦略会議という組織はことさらに、そして執拗に地方自治体の消滅を煽るのか。そのヒントは、この組織のリーダーである増田寛也が10年前に上梓した『地方消滅』の中にある。
この本の序章で増田は、政府は2003年に「少子化社会対策基本法」を制定し、内閣府に「少子化社会対策会議」を設置して取り組んできたが、残念ながら有効な対策が打ち出せないのが実情だとし、政治、行政、住民が事実をきちんと認識することが必要との問題意識から公表したという。
なるほどと思わせるが、内容をよく読むと、極度にひっ迫する国家財政を考えれば人口減少で壊死(えし)する地方自治体は救えないから、「選択と集中」の考え方を徹底し、地方中核都市に資源や政策を集中的に投入してその中核都市を「人口のダム」として東京への人口流出を食い止めるというプランが強調されており、ここにかれらの狙いがあるようだ。
「人口のダム」とは建設省出身の増田らしい命名だが、旧態依然とした経済効率最優先かつ“上から目線”の発想で、地域に暮らす人びとの生活や歴史や風土などは一切無視される。人口減少をある程度で食い止めて日本の競争力を維持するためには、脆弱な地方自治体の切り捨てもやむなし、という底意が透けて見える。
この「増田レポート」の欺瞞性に真っ先に警鐘を鳴らしたのが社会学者・山下祐介(現東京都立大教授)だった。かれはすぐさま『地方消滅の罠』(ちくま新書)を著して反論している。帯には<衝撃の「増田レポート」 地方を消滅へと導こうとしているのは、あなたたちではないのか?その虚妄を暴く!>とあり、地方の実態を知悉する筆者の舌鋒はするどい。この本の内容を紹介するには紙幅が許さぬが、山下の「優しい顔の裏には悪魔が潜んでいる。増田レポートにはどうもその気配がある」との一文にわたしは膝を拍(う)ったものだ。華やかな経歴を持つ増田の穏やかなしゃべり口や文章は一見論理的で万人受けしそうだが、取り返しのつかぬ道へ日本を誘い込みかねない胡散(うさん)臭さは拭えない。
たとえば、都市と地方の格差是正を目的に2008年から「ふるさと納税」がはじまったが、このときの総務大臣が増田だった。大都市から地方に納税寄付金が集まり地場産品の育成にもつながるという触れ込みで行政機関を市場経済の只中に放り込んでしまった結果、自治体間競争の激化を招き、高知県では奈半利町の担当職員2名が受託収賄罪で逮捕されるなど全国で問題が多発する。さらに今後「選択と集中」を徹底させれば全国で自治体の壊死が加速し、のみならず中核都市間で住民の取り合い競争が激化することになろう。その弊害は、「ふるさと納税」の比ではあるまい。
さてここで少し話は外(そ)れる。
わたしは今年を最後に年賀状仕舞いをしたが、その理由としてこんなことを書き添えたことだった。
<…加えて近年の郵便局の体たらくに我慢ならず、年賀はがき代すら勿体ないと思うようになりました。一度など、木曜日の午前中に高知市内への郵便物を出しに行ったところ、着くのは来週火曜日になりますと言われ、二の句が継げませんでした。月曜が振替休日ではあったものの、江戸時代でも江戸〜大坂間を急飛脚なら3日で届けたというのに、車で15分の所へ5日もかかるとはこれ如何に。今秋の郵便料金大幅値上げといい、未だ親方日の丸の緩み切った会社に郵便事業を独占させる弊は目を覆うばかりです。>
「地方消滅」の仕掛け人である増田寛也は2020年1月から日本郵政社長の座にある。同社は2007年に民営化されて以降トラブル続きで次々と社長が交代、2019年にはかんぽ生命保険の大規模な不正販売事件、顧客からの12億円詐取、切手6億円分着服、6万人超の顧客情報紛失など信じられないような不祥事が次々と発覚して第5代社長の長門正貢が辞任、第6代社長に就いたのが増田だった。
増田は2006年から郵政民営化に深くかかわり、「増田レポート」発表時は郵政民営化委員会の委員長(2013年〜16年)を務めていた。つまり同社の生みの親なのだが、増田体制になってからも郵便局長による経費詐取、酒気帯び運転、女性盗撮などの不祥事が続発している。国が株式の3分の1を保有し、増田を含め取締役4人(社外取締役を除く)すべてが官僚出身という”親方日の丸”の巨大組織の、これが実態なのだ。
明治の初めに旧幕臣の前島密(ひそか)が立案し、「全国低額均一料金で、信書不達の地がないこと」を目標に苦労のすえ築き上げた近代郵便制度だが、いまや前島の高邁な志も社会的信頼も失われつつある。さらには今後、増田らの掲げる「選択と集中」により郵便局の統廃合を進め、採算性を理由に人口減の著しい自治体を公然と切り捨てるかもしれない。そのための地ならしとして「地方消滅」を煽っているのだとしたら、社会的共通資本ともいえる公共性のきわめて高い郵政事業を運営する資格なぞ、この人物にあるわけがない。(敬称略)
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
ちょうど10年前の2014年5月に増田寛也(当時は慶応大大学院客員教授、元総務相・岩手県知事)を座長とする「日本創生会議」という民間組織が、2040年までに896の市町村が消滅する可能性が高いとするレポート(通称「増田レポート」)を雑誌『中央公論』に掲載、さらに同年8月には『地方消滅』(増田寛也編著、中公新書)を発刊して「地方消滅」が流行語大賞候補になるほどのセンセーションを巻き起こしたことだった。
この発表からちょうど10年経過したことを機に「人口戦略会議」という日本創生会議(2016年より休眠)の後身に当たる民間組織が人口動態を再調査し、お節介にも最新の消滅可能性自治体リストを公表したというわけだ。ちなみにこの新組織の議長に日本製鉄名誉会長の三村明夫、副議長に増田寛也(現日本郵政社長)が就いているが、実質的トップが増田であるのはいうまでもない。
今回の要旨は、消滅可能性自治体の数は10年前より若干減ったが依然として全国のおよそ4割に当たる744自治体が2050年には消滅している可能性が高いというもの。前回同様に子供を産むことのできる若年女性(20歳〜39歳)の人口動態のみを根拠に全国自治体の30年後(2020年〜2050年)を予測、減少率50%以上が予想される自治体を単純に「消滅可能性自治体」としたに過ぎず、地域に根差した行政・住民らの取り組みや自治体ごとの事情などはまったく考慮されていない。そして前回同様、“消滅”という衝撃的な言葉で世間の耳目をひきつけ、人口急減の自治体はもはや救えないという印象を与える効果を狙ったものと思われる。
このリスト公表に対し全国町村会の吉田隆行会長はつよく憤り、「全国の自治体が人口減少への対応や独自の地域づくりに懸命に取り組んでいるなかで、20歳から39歳の女性人口の半減という一面的な指標をもって線引きし、消滅可能性があるとしてリストを公表することは、これまでの地域の努力や取り組みに水を差すものだ」とすぐさま反論、島根県の丸山達也知事も「違和感がある」として人口減少問題は自治体ではなく国の問題だ、と断じている。当然の批判だろうし、怪しげなデマゴーグの跋扈(ばっこ)が「この国のかたち」を歪(いびつ)なものにしかねず、わたしなどは不快感と怒りすらおぼえる。
このリストによると、もっとも人口減少が著しい東北地方では215自治体のうち165(約77%)、北海道がこれに続き179自治体のうち117(約65%)が消滅の可能性大とされる。都道府県別ではわが高知県もかなり深刻で、人口減少率では秋田、青森、岩手に次ぐ全国第4位、県人口は2050年には45万人程度になると推定されている。さらに子供を産める若年女性に限っていえば2050年には43.7%も減少、室戸市(80.2%減少)を筆頭に大豊町、大月町、東洋町、土佐清水市と70%以上減少する自治体が続き、県全体でも冒頭で述べたごとく7割以上の市町村が消滅の危機にあるという。もしこれが現実になれば、4半世紀後には高知県そのものが行政機関として機能不全に陥っているはずだ。
ここで問題となるのは、このようなリストがひとり歩きしてしまうと、消滅するとされた自治体首長、行政職員、住民も「こりゃ無理だ」とヤル気を無くし、若者流出に拍車がかかる可能性があることだ。また地方自治体はどこも大都市からのUターンや移住者誘致に懸命だが、将来消滅すると名指しされた町や村に誰が住みたいと思うだろうか。つまり、このようなリストの公表自体が、地方消滅をさらに加速させる懸念すらあるのだ。
ではいったいなぜこの人口戦略会議という組織はことさらに、そして執拗に地方自治体の消滅を煽るのか。そのヒントは、この組織のリーダーである増田寛也が10年前に上梓した『地方消滅』の中にある。
この本の序章で増田は、政府は2003年に「少子化社会対策基本法」を制定し、内閣府に「少子化社会対策会議」を設置して取り組んできたが、残念ながら有効な対策が打ち出せないのが実情だとし、政治、行政、住民が事実をきちんと認識することが必要との問題意識から公表したという。
なるほどと思わせるが、内容をよく読むと、極度にひっ迫する国家財政を考えれば人口減少で壊死(えし)する地方自治体は救えないから、「選択と集中」の考え方を徹底し、地方中核都市に資源や政策を集中的に投入してその中核都市を「人口のダム」として東京への人口流出を食い止めるというプランが強調されており、ここにかれらの狙いがあるようだ。
「人口のダム」とは建設省出身の増田らしい命名だが、旧態依然とした経済効率最優先かつ“上から目線”の発想で、地域に暮らす人びとの生活や歴史や風土などは一切無視される。人口減少をある程度で食い止めて日本の競争力を維持するためには、脆弱な地方自治体の切り捨てもやむなし、という底意が透けて見える。
この「増田レポート」の欺瞞性に真っ先に警鐘を鳴らしたのが社会学者・山下祐介(現東京都立大教授)だった。かれはすぐさま『地方消滅の罠』(ちくま新書)を著して反論している。帯には<衝撃の「増田レポート」 地方を消滅へと導こうとしているのは、あなたたちではないのか?その虚妄を暴く!>とあり、地方の実態を知悉する筆者の舌鋒はするどい。この本の内容を紹介するには紙幅が許さぬが、山下の「優しい顔の裏には悪魔が潜んでいる。増田レポートにはどうもその気配がある」との一文にわたしは膝を拍(う)ったものだ。華やかな経歴を持つ増田の穏やかなしゃべり口や文章は一見論理的で万人受けしそうだが、取り返しのつかぬ道へ日本を誘い込みかねない胡散(うさん)臭さは拭えない。
たとえば、都市と地方の格差是正を目的に2008年から「ふるさと納税」がはじまったが、このときの総務大臣が増田だった。大都市から地方に納税寄付金が集まり地場産品の育成にもつながるという触れ込みで行政機関を市場経済の只中に放り込んでしまった結果、自治体間競争の激化を招き、高知県では奈半利町の担当職員2名が受託収賄罪で逮捕されるなど全国で問題が多発する。さらに今後「選択と集中」を徹底させれば全国で自治体の壊死が加速し、のみならず中核都市間で住民の取り合い競争が激化することになろう。その弊害は、「ふるさと納税」の比ではあるまい。
さてここで少し話は外(そ)れる。
わたしは今年を最後に年賀状仕舞いをしたが、その理由としてこんなことを書き添えたことだった。
<…加えて近年の郵便局の体たらくに我慢ならず、年賀はがき代すら勿体ないと思うようになりました。一度など、木曜日の午前中に高知市内への郵便物を出しに行ったところ、着くのは来週火曜日になりますと言われ、二の句が継げませんでした。月曜が振替休日ではあったものの、江戸時代でも江戸〜大坂間を急飛脚なら3日で届けたというのに、車で15分の所へ5日もかかるとはこれ如何に。今秋の郵便料金大幅値上げといい、未だ親方日の丸の緩み切った会社に郵便事業を独占させる弊は目を覆うばかりです。>
「地方消滅」の仕掛け人である増田寛也は2020年1月から日本郵政社長の座にある。同社は2007年に民営化されて以降トラブル続きで次々と社長が交代、2019年にはかんぽ生命保険の大規模な不正販売事件、顧客からの12億円詐取、切手6億円分着服、6万人超の顧客情報紛失など信じられないような不祥事が次々と発覚して第5代社長の長門正貢が辞任、第6代社長に就いたのが増田だった。
増田は2006年から郵政民営化に深くかかわり、「増田レポート」発表時は郵政民営化委員会の委員長(2013年〜16年)を務めていた。つまり同社の生みの親なのだが、増田体制になってからも郵便局長による経費詐取、酒気帯び運転、女性盗撮などの不祥事が続発している。国が株式の3分の1を保有し、増田を含め取締役4人(社外取締役を除く)すべてが官僚出身という”親方日の丸”の巨大組織の、これが実態なのだ。
明治の初めに旧幕臣の前島密(ひそか)が立案し、「全国低額均一料金で、信書不達の地がないこと」を目標に苦労のすえ築き上げた近代郵便制度だが、いまや前島の高邁な志も社会的信頼も失われつつある。さらには今後、増田らの掲げる「選択と集中」により郵便局の統廃合を進め、採算性を理由に人口減の著しい自治体を公然と切り捨てるかもしれない。そのための地ならしとして「地方消滅」を煽っているのだとしたら、社会的共通資本ともいえる公共性のきわめて高い郵政事業を運営する資格なぞ、この人物にあるわけがない。(敬称略)
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
2024年03月26日
死もまた社会奉仕
ここ1年半ほどは、政界の腐敗が次々と暴かれるスキャンダルのオンパレードだ。これほどまでに自民党は腐り切っていたかとあきれるばかりだが、それにしても民主国家とは言い難いこの日本でよくぞこれらが表に出たものだと近ごろは思うようになった。
自民党との永年の癒着を背景に多くの被害者を生んだ旧統一教会事件とほぼ同時期に表に出たのが五輪汚職だ。世論の反対を押し切ってコロナ下に強行された東京五輪は、数えあげればきりがないほどのトラブル続きでまさに呪われた五輪だったが、挙句に電通などが絡む大胆かつ悪辣な贈収賄事件にまで発展して世間を唖然とさせた。これにつづいて噴出した自民党派閥の裏金事件はさらに超ド級の政界スキャンダルとなり、戦後日本を牛耳ってきた自民党の見るも無残な腐敗ぶりと政治家たちの唾棄すべき卑劣さをいやというほど見せつけられた、日本政治史にも残る出来事となった。
そしていまさらにして思うのは、これらの事件がすべて安倍晋三というたった一人の政治家との深いかかわりによって起きたという事実の重大さだ。これほど特異な事例は明治以降の政治史にもほとんど類がないのではないか。
森友・加計・桜の疑惑から逃げ切るためコロナ対策失敗による支持率低下を機に総理の座を突然投げ出し、自民党最大派閥「安倍派」の領袖として隠然とした力を持ち続けていたこの人物が、もしいまでも存命だったらどうなっていたか。ここ1年半の間に噴き出した重大な政治スキャンダルの数々は強権的な力によって押さえ込まれ、疑惑のまま闇に埋もれてしまったのではないか。
そう考えたとき、戦後62歳で政界入りして総理大臣まで務めたジャーナリスト出身の石橋湛山(いしばしたんざん)の名言「死もまた社会奉仕」が、頭をよぎるのだ。これは明治維新の元勲山県有朋(やまがたありとも)の死去(大正11年)に際して湛山が『東洋経済新報』に書いた評論のタイトルである。山県は80歳を過ぎてもなお政界に睨みをきかせ、隠然として君臨していた。
湛山はこう述べる。
<維新の元勲のかくて次第に去り行くは、寂しくも感ぜられる。しかし先日大隈侯逝去の場合にも述べたが如く世の中は新陳代謝だ。急激にはあらず、しかも絶えざる、停滞せざる新陳代謝があって、初めて社会は健全な発達をする。人は適当の時期に去り行くのも、また一の意義ある社会奉仕でなければならぬ。…一人の者が、久しきにわたって絶大の権力を占むれば、弊害が起る。>
これを書いた湛山はすでに東洋経済新報社の取締役ではあったが弱冠38歳。83歳の元勲山県有朋の死をもって社会奉仕と言い放つ言論人石橋湛山の肚(はら)のすわりようには驚嘆するほかない。
山県有朋と安倍晋三ではあまりに格がちがい、同等に論じられないのは云うまでもないが、共に長州出身で、権力志向が異常につよく、国家権力により国民を監視して反対者は封殺すべきとの信念を持った専制的リーダーであったことなど共通点が多いのも事実だ。安倍が山県をとりわけ畏敬していたのはよく知られるが、数百人の社会主義者らを証拠不十分のまま一斉検挙し、土佐中村(現四万十市)出身の幸徳秋水を筆頭に12名を処刑した明治44年の大弾圧事件(大逆事件)は、当時の元老山県のつよい意向によるフレームアップだったといわれている。
旧統一教会により家庭崩壊の憂き目にあったひとりの不幸な男による元首相暗殺という未曽有の出来事が、旧統一教会問題だけでなく五輪汚職と自民党裏金事件という空前の大醜聞を暴き出し、それが国民を目覚めさせついに政権交代ということになれば、まさに湛山流にいう「安倍晋三の死もまた社会奉仕」ということになるだろう。
さて、一方で忘れてはならないことがある。安倍一強時代からの失政により日本は課題山積でじつのところ相当な危険水域にあり、国会もマスコミも政治スキャンダルに右顧左眄(うこさべん)して時間を空費している場合ではないのだ。地球温暖化対策、防災対策、教育・少子化対策は待ったなしだが、より喫緊の課題が、脆弱の極にある食料とエネルギーの安全保障、そして国防政策である。
一昨年暮れに岸田文雄首相が突如発表した防衛予算倍増にはだれしもがあきれたことだった。日本はこれまで憲法を盾に防衛費GDP比1%を守ってきたが、いきなりNATO諸国並みに2%まで増やすというわけだ。戦時下でもないのに防衛予算を一挙に倍増する国なぞ見たことがないが、野党が弱いため何をしても自民党政権は盤石というおごりがこの狂気じみた行動に出させたのだろう。
むろんこれは岸田の独自政策ではない。第2次安倍政権のころからすでにアメリカから武器の大量購入を要望され、2020年には戦闘機F35を147機も“爆買い”する約束をしてトランプ大統領を大いに喜ばせたが、そんな安倍でさえ国内世論と中国の反発が予想される極端な防衛予算増には踏み込めなかったのだ。ところが鈍感力が服を着て歩いているような岸田が、おそらくはバイデン大統領から凄惨なウクライナ戦争を例に、台湾有事で困るのは日本だよ、なぞと説得されるや舞い上がってあっさりと飲んでしまったのだ。
これにはそれなりの根拠がある。バイデン本人が昨年6月20日、カリフォルニア州での支持者集会で「日本は長期間、軍事費を増やしてこなかった。私は日本の指導者に広島(G7サミット)を含め3回会い、彼(岸田首相)を説得した。彼も何か違うことをしなければならないと確信した。そして日本は指数関数的に軍事費を増やした」と自慢げに内情を喋ってしまったからだ。
この発言に大慌(あわ)てしたのが岸田だった。これではアメリカから要求されて防衛費倍増を決めたことがバレて立場をうしなう。すぐに外交ルートを通じて発言訂正を申し入れ、1週間後にアメリカ政府は「彼は私の説得を必要としなかった。彼はすでに決めていた」と、とってつけたような短い大統領コメントを出したことだった。
日本の首相の名前さえ記憶していない高齢のバイデンがうっかり本当のことを喋ってしまったのは明らかで、まさに“語るに落ちた”わけだ。
さてここで、湛山の遺言ともなった論評にふれないわけにはいかない。
2年前のロシアによるウクライナ侵攻とよく似た事件が東西冷戦時代に起こる。チェコスロバキアのドプチェク政権が進める自由化政策(「プラハの春」と呼ばれた)に危機感をもったソ連が1968年(昭和43年)8月、同国に軍事侵攻した事件だ。
戦車に蹂躙される首都プラハの様子を見て怖くなったか、あるいは絶好のタイミングと判断してか当時の首相佐藤栄作(安倍晋三の大叔父)が「日本の自衛力は足りないと思う」と軍拡へ踏み込みはじめたのだ。これに対して84歳の湛山が『東洋経済新報』に「日本防衛論」を発表して反駁(はんばく)する。
「なるほど、チェコの自衛力が不足だったから、あのような苦難に陥ったというのは事実である。しかしそうかといって、日本もまた自衛力を強化しなければならぬというのは、戦前の軍備拡張論と同じ危険な考え方だ」とし、明治維新や第2世界次大戦、泥沼化しつつあったベトナム戦争を例に論評を加え、「わが国の独立と安全を守るために、軍備の拡張という国力を消耗するような考えでいったら、国防を全うすることができないばかりでなく、国を滅ぼす。したがって、そういう考え方をもった政治家に政治を託するわけにはいかない」と厳しく論難したのだ。
憲法を解釈変更で次々と骨抜きにし、挙句には防衛予算倍増にくわえ敵基地攻撃能力を明記した安保関連3文書を閣議決定だけで改訂して戦争への道をひらいた愚昧なる政権リーダーらを見て、泉下の湛山はなんと言うだろうか。
東大・鈴木宣弘(のぶひろ)教授の『世界で最初に飢えるのは日本』(講談社+α新書)によると、日本の食料自給率はカロリーベースで37%だが、ほぼすべてを輸入に頼る野菜の種、家畜のエサ、肥料などを考慮した「真の自給率」は10%にも満たないという。戦前の日本の食料自給率は86%、大抵のEU諸国はいまでも穀物自給率100%超だ。いくら軍拡しようが、海外からの食料を止められたら日本は戦争どころかあっという間に飢餓に陥る、世界でもっとも食料安全保障の脆弱な国なのである。
安全保障が国民の命を守ることであるなら、いま何を優先すべきかは小学生でもわかること。「食料は武器より安い武器」というアメリカの狡猾な対日戦略にズルズルと呑み込まれていつのまにか完全な食料輸入国に転落し、おまけに防衛予算倍増を飲まされ際限なく武器を買わされて自ら戦争に近づきつつあるのが日本の現実なのである。
比類なき自由主義者で真の愛国者であった湛山の思想が、いまほど必要とされるときはない。(敬称略)
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
自民党との永年の癒着を背景に多くの被害者を生んだ旧統一教会事件とほぼ同時期に表に出たのが五輪汚職だ。世論の反対を押し切ってコロナ下に強行された東京五輪は、数えあげればきりがないほどのトラブル続きでまさに呪われた五輪だったが、挙句に電通などが絡む大胆かつ悪辣な贈収賄事件にまで発展して世間を唖然とさせた。これにつづいて噴出した自民党派閥の裏金事件はさらに超ド級の政界スキャンダルとなり、戦後日本を牛耳ってきた自民党の見るも無残な腐敗ぶりと政治家たちの唾棄すべき卑劣さをいやというほど見せつけられた、日本政治史にも残る出来事となった。
そしていまさらにして思うのは、これらの事件がすべて安倍晋三というたった一人の政治家との深いかかわりによって起きたという事実の重大さだ。これほど特異な事例は明治以降の政治史にもほとんど類がないのではないか。
森友・加計・桜の疑惑から逃げ切るためコロナ対策失敗による支持率低下を機に総理の座を突然投げ出し、自民党最大派閥「安倍派」の領袖として隠然とした力を持ち続けていたこの人物が、もしいまでも存命だったらどうなっていたか。ここ1年半の間に噴き出した重大な政治スキャンダルの数々は強権的な力によって押さえ込まれ、疑惑のまま闇に埋もれてしまったのではないか。
そう考えたとき、戦後62歳で政界入りして総理大臣まで務めたジャーナリスト出身の石橋湛山(いしばしたんざん)の名言「死もまた社会奉仕」が、頭をよぎるのだ。これは明治維新の元勲山県有朋(やまがたありとも)の死去(大正11年)に際して湛山が『東洋経済新報』に書いた評論のタイトルである。山県は80歳を過ぎてもなお政界に睨みをきかせ、隠然として君臨していた。
湛山はこう述べる。
<維新の元勲のかくて次第に去り行くは、寂しくも感ぜられる。しかし先日大隈侯逝去の場合にも述べたが如く世の中は新陳代謝だ。急激にはあらず、しかも絶えざる、停滞せざる新陳代謝があって、初めて社会は健全な発達をする。人は適当の時期に去り行くのも、また一の意義ある社会奉仕でなければならぬ。…一人の者が、久しきにわたって絶大の権力を占むれば、弊害が起る。>
これを書いた湛山はすでに東洋経済新報社の取締役ではあったが弱冠38歳。83歳の元勲山県有朋の死をもって社会奉仕と言い放つ言論人石橋湛山の肚(はら)のすわりようには驚嘆するほかない。
山県有朋と安倍晋三ではあまりに格がちがい、同等に論じられないのは云うまでもないが、共に長州出身で、権力志向が異常につよく、国家権力により国民を監視して反対者は封殺すべきとの信念を持った専制的リーダーであったことなど共通点が多いのも事実だ。安倍が山県をとりわけ畏敬していたのはよく知られるが、数百人の社会主義者らを証拠不十分のまま一斉検挙し、土佐中村(現四万十市)出身の幸徳秋水を筆頭に12名を処刑した明治44年の大弾圧事件(大逆事件)は、当時の元老山県のつよい意向によるフレームアップだったといわれている。
旧統一教会により家庭崩壊の憂き目にあったひとりの不幸な男による元首相暗殺という未曽有の出来事が、旧統一教会問題だけでなく五輪汚職と自民党裏金事件という空前の大醜聞を暴き出し、それが国民を目覚めさせついに政権交代ということになれば、まさに湛山流にいう「安倍晋三の死もまた社会奉仕」ということになるだろう。
さて、一方で忘れてはならないことがある。安倍一強時代からの失政により日本は課題山積でじつのところ相当な危険水域にあり、国会もマスコミも政治スキャンダルに右顧左眄(うこさべん)して時間を空費している場合ではないのだ。地球温暖化対策、防災対策、教育・少子化対策は待ったなしだが、より喫緊の課題が、脆弱の極にある食料とエネルギーの安全保障、そして国防政策である。
一昨年暮れに岸田文雄首相が突如発表した防衛予算倍増にはだれしもがあきれたことだった。日本はこれまで憲法を盾に防衛費GDP比1%を守ってきたが、いきなりNATO諸国並みに2%まで増やすというわけだ。戦時下でもないのに防衛予算を一挙に倍増する国なぞ見たことがないが、野党が弱いため何をしても自民党政権は盤石というおごりがこの狂気じみた行動に出させたのだろう。
むろんこれは岸田の独自政策ではない。第2次安倍政権のころからすでにアメリカから武器の大量購入を要望され、2020年には戦闘機F35を147機も“爆買い”する約束をしてトランプ大統領を大いに喜ばせたが、そんな安倍でさえ国内世論と中国の反発が予想される極端な防衛予算増には踏み込めなかったのだ。ところが鈍感力が服を着て歩いているような岸田が、おそらくはバイデン大統領から凄惨なウクライナ戦争を例に、台湾有事で困るのは日本だよ、なぞと説得されるや舞い上がってあっさりと飲んでしまったのだ。
これにはそれなりの根拠がある。バイデン本人が昨年6月20日、カリフォルニア州での支持者集会で「日本は長期間、軍事費を増やしてこなかった。私は日本の指導者に広島(G7サミット)を含め3回会い、彼(岸田首相)を説得した。彼も何か違うことをしなければならないと確信した。そして日本は指数関数的に軍事費を増やした」と自慢げに内情を喋ってしまったからだ。
この発言に大慌(あわ)てしたのが岸田だった。これではアメリカから要求されて防衛費倍増を決めたことがバレて立場をうしなう。すぐに外交ルートを通じて発言訂正を申し入れ、1週間後にアメリカ政府は「彼は私の説得を必要としなかった。彼はすでに決めていた」と、とってつけたような短い大統領コメントを出したことだった。
日本の首相の名前さえ記憶していない高齢のバイデンがうっかり本当のことを喋ってしまったのは明らかで、まさに“語るに落ちた”わけだ。
さてここで、湛山の遺言ともなった論評にふれないわけにはいかない。
2年前のロシアによるウクライナ侵攻とよく似た事件が東西冷戦時代に起こる。チェコスロバキアのドプチェク政権が進める自由化政策(「プラハの春」と呼ばれた)に危機感をもったソ連が1968年(昭和43年)8月、同国に軍事侵攻した事件だ。
戦車に蹂躙される首都プラハの様子を見て怖くなったか、あるいは絶好のタイミングと判断してか当時の首相佐藤栄作(安倍晋三の大叔父)が「日本の自衛力は足りないと思う」と軍拡へ踏み込みはじめたのだ。これに対して84歳の湛山が『東洋経済新報』に「日本防衛論」を発表して反駁(はんばく)する。
「なるほど、チェコの自衛力が不足だったから、あのような苦難に陥ったというのは事実である。しかしそうかといって、日本もまた自衛力を強化しなければならぬというのは、戦前の軍備拡張論と同じ危険な考え方だ」とし、明治維新や第2世界次大戦、泥沼化しつつあったベトナム戦争を例に論評を加え、「わが国の独立と安全を守るために、軍備の拡張という国力を消耗するような考えでいったら、国防を全うすることができないばかりでなく、国を滅ぼす。したがって、そういう考え方をもった政治家に政治を託するわけにはいかない」と厳しく論難したのだ。
憲法を解釈変更で次々と骨抜きにし、挙句には防衛予算倍増にくわえ敵基地攻撃能力を明記した安保関連3文書を閣議決定だけで改訂して戦争への道をひらいた愚昧なる政権リーダーらを見て、泉下の湛山はなんと言うだろうか。
東大・鈴木宣弘(のぶひろ)教授の『世界で最初に飢えるのは日本』(講談社+α新書)によると、日本の食料自給率はカロリーベースで37%だが、ほぼすべてを輸入に頼る野菜の種、家畜のエサ、肥料などを考慮した「真の自給率」は10%にも満たないという。戦前の日本の食料自給率は86%、大抵のEU諸国はいまでも穀物自給率100%超だ。いくら軍拡しようが、海外からの食料を止められたら日本は戦争どころかあっという間に飢餓に陥る、世界でもっとも食料安全保障の脆弱な国なのである。
安全保障が国民の命を守ることであるなら、いま何を優先すべきかは小学生でもわかること。「食料は武器より安い武器」というアメリカの狡猾な対日戦略にズルズルと呑み込まれていつのまにか完全な食料輸入国に転落し、おまけに防衛予算倍増を飲まされ際限なく武器を買わされて自ら戦争に近づきつつあるのが日本の現実なのである。
比類なき自由主義者で真の愛国者であった湛山の思想が、いまほど必要とされるときはない。(敬称略)
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
2023年12月26日
巨人熊楠に訊け
高知城のそばにかつて、丸ノ内緑地と名付けられたちょっとした森があった。追手門の南側、新しい高知城歴史博物館とお堀を隔てた一帯である。この鬱蒼とした森が最近、すっかり消えてしまったのだ。昭和51年に貴重な都市緑地として開設され、半世紀近くを経てやっと樹々も大きくなり一人前の森になりかけたばかりであったが、そのほとんどが伐採され遊歩道と芝生の寒々とした広場になってしまった。
管理者である高知市のホームページには、高知城の天守が見えるように景観整備、中心市街地にあるオープンスペースとして賑わいの創出、防災機能確保などを目的とし、総工費3億2千万円でリニューアルしたとある。そもそも少し離れれば丸ノ内緑地の向こうに天守は見えたし、火災時に延焼を防ぐのは大きな樹々の生い茂る森であることは常識で、それを潰してまでなぜ広場が必要なのかまったく理解に苦しむが、このあきれた計画に高知市民から反対運動が起こったという話は聞かない。
規模もその来歴もまったく異なるが、都市緑地の重要性とエコロジーの意義がまったく理解されていないという点で、消えた丸ノ内緑地と東京の明治神宮外苑再開発計画とは明らかに通底している。神宮外苑のシンボルである樹齢百年を超える壮麗なイチョウ並木とその向こうにひろがる鬱蒼とした森を見れば、だれしもが東京の懐の深さを感じるはずだ。都心部には明治神宮内外苑のほか皇居(江戸城跡)、新宿御苑、代々木公園、上野恩賜公園、旧藩主邸宅跡の庭園など広い緑地が点在し、一人当たりの緑地面積は大阪市の倍以上である。これらの都市緑地は貴重な文化遺産であるだけでなく防災上もきわめて重要で、大気・水・河川などと同様に市民が平等に恩恵を受けるべき社会的共通資本である。行政や所有者が好き勝手にどうにかできるものではない。
神宮外苑の再開発計画は、三井不動産などが事業主体となり、宗教法人明治神宮が大部分を所有する神宮外苑内にある神宮球場や秩父宮ラグビー場など老朽化したスポーツ施設を建て替え、高級マンション、ホテル、オフィスなどが入る超高層ビル2棟と高層ビル1棟を新築する総事業費3490億円という大プロジェクトだ。それがなぜ問題視されるのかといえば、明治天皇・皇后を祀る明治神宮内外苑の創建にあたり都民からの献木や寄付によって創り上げた鬱蒼と生い茂る巨木群がごっそり伐採されるからであり、神宮外苑とは不釣り合いな超高層ビルの存在や工事自体によってイチョウ並木に悪影響が出る可能性がきわめて高いからだ。計画では移植・植樹により緑地は5%増えるというが、破壊された生態系は元には戻らないし、そもそも樹齢百年を超える743本(三井不動産の発表)もの神木を伐り倒すことに一片の罪悪感すら感じないのかと、わたしなどは不思議でならない。
たださいわいにもこの暴挙に異を唱える人々が出はじめ―そこがわが丸ノ内緑地と違うところだが―音楽家の故坂本龍一を嚆矢として村上春樹などの作家、桑田佳祐などのミュージシャンら著名人がこぞって計画反対を表明、今年9月にはユネスコの諮問機関イコモス(国際記念物遺跡会議)が計画撤回をもとめる緊急要請「ヘリテージ・アラート」を発出するに至った。これにより事業者側もさすがに強引には進められないと判断してか伐採は延期されたが、計画自体を撤回する気はさらさらないようだ。
丸ノ内緑地の伐採も明治神宮外苑再開発計画も、土地の有効活用や経済効率優先といった浅はかで近視眼的な発想から全国の貴重な鎮守の森などを濫伐してきた所業の延長線上にあるのは論を俟(ま)たないだろう。SDGsなぞと口では言いながら、実態は昔と何ら変わらない。
さてここで日本人初のエコロジスト南方(みなかた)熊楠(くまぐす)(1867〜1941)を想起したい。
慶應3年に紀州和歌山に生まれ、大学予備門(のちの東京帝国大学)を中退してのち英米を中心に14年間もの学問修行を経て和歌山に戻り、田辺に居を構えて『ネイチャー』など英文科学誌に論文を次々と発表、世界に向け発信し続けた在野の学者・思想家である。
熊楠の研究分野は広大無辺で博物学、民俗学、植物学、人類学、宗教学とまさに森羅万象にわたり、並外れた語学力(二十数ヵ国語を自在に操った)で東西の万巻の書を読破し、驚異的な記憶力と集中力で論文や長文書簡を国内外の雑誌や学者宛に書きまくった博覧強記のまさに巨人であった。熊楠と親交のあった民俗学者柳田國男の次の一文は、熊楠の底知れぬ天才の一端をよく表していよう。
<…ところが我が南方先生ばかりは、どこの隅を尋ねて見ても、これだけが世間並みというものが、ちょっと捜し出せそうにも無いのである。七十何年の一生の殆ど全部が、普通の人の為し得ないことのみを以て構成せられて居る。私などはこれを日本人の可能性の極限かとも思い、又時としては更にそれよりもなお一つ向こうかと思うことさえある。>(『ささやかなる昔』筑摩叢書)
風貌魁偉で奇行の数々でも知られる熊楠であったが、しかしたんなる変り者の学者ではなく、実に信念の人でもあった。それを象徴するのが明治39年(1906年)に発令された「神社合祀令(ごうしれい)」への、それこそ命がけの抗議運動である。
中央集権国家を目指す明治政府が、神道の国教化政策の一環として一町村一社を原則とし、その他の小社・小祠を壊して他の神社へ併合させるとした政策で、これにより廃社と決まった神社や祠を取り巻く神木群、いわゆる鎮守の森が破壊されていった。「南方の生涯のハイライトは神社合祀反対運動である」とする社会学者鶴見和子の『南方熊楠―地球志向の比較学―』(講談社学術文庫)によると、1911年までの5年間に全国で約8万社が合併または廃社され、とりわけ三重と和歌山が顕著で三重では6.8分の1、和歌山は4.7分の1にまで減少したという。樹木払下げのカネ目当てに地方役人と業者が結託し、濫伐に拍車がかかったことが決定的となった。
これに怒ったのが熊楠だった。熊楠は1909年から地元紙に神社合祀反対の意見を発表しはじめ、翌年には神社合祀推進者の県吏に面会を求め講習会場に乱入、家宅侵入罪で逮捕され18日間拘留される。1911年には柳田國男が熊楠の神社合祀反対意見書を「南方二書」として印刷し関係各所に配布、1912年には『日本及日本人』に2万8千字におよぶ「神社合併反対意見」を連載するなど、抗議運動に生活のすべてをかけるようになる。フンドシ一丁で大楠の前に立ちはだかるなど荒れ狂う熊楠を見て、神社の宮司の娘である妻松枝が子どもを置いて実家に帰ると泣きわめいたとき、出刃包丁をもった熊楠が馬乗りになり、お前がそのようにふらふらしては困ると諭したエピソードもあるほどで、まさに命がけの抗議運動だったのだ。
こうした熊楠の人生をかけた不退転の抵抗のすえ、ついに1918年(大正7年)、国会で神社合祀令の廃止が決まり、実に11年間におよぶかれの闘いは終わる。2004年に「紀伊山地の霊場と参拝道」が世界遺産に登録されたが、これなどまさに熊野の森を救った熊楠のお蔭なのである。
熊楠は、自然を破壊することはその土地の生態系のみならず人間社会の破壊につながることを必死で説き続けた世界でも先駆的なエコロジストであった。実際に1911年(明治44年)の柳田への書簡で、田辺湾に浮かぶ神島(かしま)について「昨今各国競うて研究発表する植物棲態学ecologyを、熊野で見るべき非常の好模範島なるに…」と述べ、かれの思想の根幹に明治末期においてすでに生態系エコロジーの発想があったことを示している。
さらには因果応報というべきか、この書簡にある熊楠の愛した神島が、晩年のかれに奇跡のような僥倖をもたらすことになる。熊楠の神社合祀反対運動により辛うじて自然が守られた象徴的なこの島に1929年(昭和4年)、南紀行幸の昭和天皇を62歳の熊楠が迎え、粘菌標本を献呈して35分間進講するという栄誉が与えられたのだ。この一椿事は、原生生物の研究者であった昭和天皇の政府への皮肉な意趣返しともとれ、また献呈された粘菌標本110種が桐の箱ではなくキャラメルの箱に入れられていたことを天皇が面白がって、「あれでいいではないか」と嬉しそうに側近に語ったという逸話も残っている。
天皇はのちに、<雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ>と詠み、在野の巨人熊楠を哀惜している。
いまの日本人は、はたして熊楠や昭和天皇ほどに自然への畏敬の念をもっているか、エコロジーの真意を理解しているのか。消えた丸ノ内緑地や神宮外苑の再開発計画を見るにつけ、わたしは暗澹たる思いになる。森林破壊に命がけの抵抗をした先駆的エコロジスト南方熊楠の射るような鋭い眼光は、われわれ現代人にこそ向けられているのだ。(敬称略)
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
管理者である高知市のホームページには、高知城の天守が見えるように景観整備、中心市街地にあるオープンスペースとして賑わいの創出、防災機能確保などを目的とし、総工費3億2千万円でリニューアルしたとある。そもそも少し離れれば丸ノ内緑地の向こうに天守は見えたし、火災時に延焼を防ぐのは大きな樹々の生い茂る森であることは常識で、それを潰してまでなぜ広場が必要なのかまったく理解に苦しむが、このあきれた計画に高知市民から反対運動が起こったという話は聞かない。
規模もその来歴もまったく異なるが、都市緑地の重要性とエコロジーの意義がまったく理解されていないという点で、消えた丸ノ内緑地と東京の明治神宮外苑再開発計画とは明らかに通底している。神宮外苑のシンボルである樹齢百年を超える壮麗なイチョウ並木とその向こうにひろがる鬱蒼とした森を見れば、だれしもが東京の懐の深さを感じるはずだ。都心部には明治神宮内外苑のほか皇居(江戸城跡)、新宿御苑、代々木公園、上野恩賜公園、旧藩主邸宅跡の庭園など広い緑地が点在し、一人当たりの緑地面積は大阪市の倍以上である。これらの都市緑地は貴重な文化遺産であるだけでなく防災上もきわめて重要で、大気・水・河川などと同様に市民が平等に恩恵を受けるべき社会的共通資本である。行政や所有者が好き勝手にどうにかできるものではない。
神宮外苑の再開発計画は、三井不動産などが事業主体となり、宗教法人明治神宮が大部分を所有する神宮外苑内にある神宮球場や秩父宮ラグビー場など老朽化したスポーツ施設を建て替え、高級マンション、ホテル、オフィスなどが入る超高層ビル2棟と高層ビル1棟を新築する総事業費3490億円という大プロジェクトだ。それがなぜ問題視されるのかといえば、明治天皇・皇后を祀る明治神宮内外苑の創建にあたり都民からの献木や寄付によって創り上げた鬱蒼と生い茂る巨木群がごっそり伐採されるからであり、神宮外苑とは不釣り合いな超高層ビルの存在や工事自体によってイチョウ並木に悪影響が出る可能性がきわめて高いからだ。計画では移植・植樹により緑地は5%増えるというが、破壊された生態系は元には戻らないし、そもそも樹齢百年を超える743本(三井不動産の発表)もの神木を伐り倒すことに一片の罪悪感すら感じないのかと、わたしなどは不思議でならない。
たださいわいにもこの暴挙に異を唱える人々が出はじめ―そこがわが丸ノ内緑地と違うところだが―音楽家の故坂本龍一を嚆矢として村上春樹などの作家、桑田佳祐などのミュージシャンら著名人がこぞって計画反対を表明、今年9月にはユネスコの諮問機関イコモス(国際記念物遺跡会議)が計画撤回をもとめる緊急要請「ヘリテージ・アラート」を発出するに至った。これにより事業者側もさすがに強引には進められないと判断してか伐採は延期されたが、計画自体を撤回する気はさらさらないようだ。
丸ノ内緑地の伐採も明治神宮外苑再開発計画も、土地の有効活用や経済効率優先といった浅はかで近視眼的な発想から全国の貴重な鎮守の森などを濫伐してきた所業の延長線上にあるのは論を俟(ま)たないだろう。SDGsなぞと口では言いながら、実態は昔と何ら変わらない。
さてここで日本人初のエコロジスト南方(みなかた)熊楠(くまぐす)(1867〜1941)を想起したい。
慶應3年に紀州和歌山に生まれ、大学予備門(のちの東京帝国大学)を中退してのち英米を中心に14年間もの学問修行を経て和歌山に戻り、田辺に居を構えて『ネイチャー』など英文科学誌に論文を次々と発表、世界に向け発信し続けた在野の学者・思想家である。
熊楠の研究分野は広大無辺で博物学、民俗学、植物学、人類学、宗教学とまさに森羅万象にわたり、並外れた語学力(二十数ヵ国語を自在に操った)で東西の万巻の書を読破し、驚異的な記憶力と集中力で論文や長文書簡を国内外の雑誌や学者宛に書きまくった博覧強記のまさに巨人であった。熊楠と親交のあった民俗学者柳田國男の次の一文は、熊楠の底知れぬ天才の一端をよく表していよう。
<…ところが我が南方先生ばかりは、どこの隅を尋ねて見ても、これだけが世間並みというものが、ちょっと捜し出せそうにも無いのである。七十何年の一生の殆ど全部が、普通の人の為し得ないことのみを以て構成せられて居る。私などはこれを日本人の可能性の極限かとも思い、又時としては更にそれよりもなお一つ向こうかと思うことさえある。>(『ささやかなる昔』筑摩叢書)
風貌魁偉で奇行の数々でも知られる熊楠であったが、しかしたんなる変り者の学者ではなく、実に信念の人でもあった。それを象徴するのが明治39年(1906年)に発令された「神社合祀令(ごうしれい)」への、それこそ命がけの抗議運動である。
中央集権国家を目指す明治政府が、神道の国教化政策の一環として一町村一社を原則とし、その他の小社・小祠を壊して他の神社へ併合させるとした政策で、これにより廃社と決まった神社や祠を取り巻く神木群、いわゆる鎮守の森が破壊されていった。「南方の生涯のハイライトは神社合祀反対運動である」とする社会学者鶴見和子の『南方熊楠―地球志向の比較学―』(講談社学術文庫)によると、1911年までの5年間に全国で約8万社が合併または廃社され、とりわけ三重と和歌山が顕著で三重では6.8分の1、和歌山は4.7分の1にまで減少したという。樹木払下げのカネ目当てに地方役人と業者が結託し、濫伐に拍車がかかったことが決定的となった。
これに怒ったのが熊楠だった。熊楠は1909年から地元紙に神社合祀反対の意見を発表しはじめ、翌年には神社合祀推進者の県吏に面会を求め講習会場に乱入、家宅侵入罪で逮捕され18日間拘留される。1911年には柳田國男が熊楠の神社合祀反対意見書を「南方二書」として印刷し関係各所に配布、1912年には『日本及日本人』に2万8千字におよぶ「神社合併反対意見」を連載するなど、抗議運動に生活のすべてをかけるようになる。フンドシ一丁で大楠の前に立ちはだかるなど荒れ狂う熊楠を見て、神社の宮司の娘である妻松枝が子どもを置いて実家に帰ると泣きわめいたとき、出刃包丁をもった熊楠が馬乗りになり、お前がそのようにふらふらしては困ると諭したエピソードもあるほどで、まさに命がけの抗議運動だったのだ。
こうした熊楠の人生をかけた不退転の抵抗のすえ、ついに1918年(大正7年)、国会で神社合祀令の廃止が決まり、実に11年間におよぶかれの闘いは終わる。2004年に「紀伊山地の霊場と参拝道」が世界遺産に登録されたが、これなどまさに熊野の森を救った熊楠のお蔭なのである。
熊楠は、自然を破壊することはその土地の生態系のみならず人間社会の破壊につながることを必死で説き続けた世界でも先駆的なエコロジストであった。実際に1911年(明治44年)の柳田への書簡で、田辺湾に浮かぶ神島(かしま)について「昨今各国競うて研究発表する植物棲態学ecologyを、熊野で見るべき非常の好模範島なるに…」と述べ、かれの思想の根幹に明治末期においてすでに生態系エコロジーの発想があったことを示している。
さらには因果応報というべきか、この書簡にある熊楠の愛した神島が、晩年のかれに奇跡のような僥倖をもたらすことになる。熊楠の神社合祀反対運動により辛うじて自然が守られた象徴的なこの島に1929年(昭和4年)、南紀行幸の昭和天皇を62歳の熊楠が迎え、粘菌標本を献呈して35分間進講するという栄誉が与えられたのだ。この一椿事は、原生生物の研究者であった昭和天皇の政府への皮肉な意趣返しともとれ、また献呈された粘菌標本110種が桐の箱ではなくキャラメルの箱に入れられていたことを天皇が面白がって、「あれでいいではないか」と嬉しそうに側近に語ったという逸話も残っている。
天皇はのちに、<雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ>と詠み、在野の巨人熊楠を哀惜している。
いまの日本人は、はたして熊楠や昭和天皇ほどに自然への畏敬の念をもっているか、エコロジーの真意を理解しているのか。消えた丸ノ内緑地や神宮外苑の再開発計画を見るにつけ、わたしは暗澹たる思いになる。森林破壊に命がけの抵抗をした先駆的エコロジスト南方熊楠の射るような鋭い眼光は、われわれ現代人にこそ向けられているのだ。(敬称略)
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
2023年09月25日
美と幸福の神さま
京都の河井ェ次郎記念館と河井家の日常を淡々と描いた、「すべてのものが幸福にしかなれない處」というタイトルのNHKBS番組が先日放送され、たまたま観ていて十数年前のささやかな悔恨の記憶がよみがえった。
東京南青山に住む妹に会いに行くため地下鉄表参道駅からの道すがら骨董通りを歩いていたとき、ビルの1階にある間口の狭い小体(こてい)な骨董店をガラスドア越しに何気なく覗いたところ、ある作品に目が吸いよせられた。店は閉まっていたが、ふしぎな曲線を帯びた6号ほどの額が入口近くにかかっており、見覚えのある特徴的な文字(おそらく木版)でなにやら片言隻語が書かれていたのが見えたのだ。はたしてそれは、予想したとおり河井ェ次郎(1890〜1966)の作だった。ほう、こんなところに河井ェ次郎、とわたしはうれしくなった。
値段ははっきりとは憶えていないが、10〜15万円ほどではなかったか。これはまったく手の出ない金額ではないと思いつつ、ガラスドア越しにしばし見入っていたが、いかんせん店は閉まっている。わたしは後ろ髪をひかれる思いで立ち去り、迂闊にも何が書かれていたのかすら記憶せず、そしていつのまにかそのこと自体をすっかり忘れてしまったのだった。このチャンスを逃したことをその後、しばしば後悔することになる。
京都五条坂に、陶芸家河井ェ次郎の記念館はある。ェ次郎自らが設計した住居兼仕事場が陶器、木彫、家具などの作品群とともに保存されており、だれでも入館できる。敷地内には登り窯もある。外観は看板がなければ普通の京町屋にしか見えないが、中はもうまさに別世界、別宇宙。だれしもがブッタマゲ、自身に巣喰う“常識”がいかに貧相なものかを思い知らされることになる。河井ェ次郎が紛うことなき天才であったことが、どんな鈍感な人にもわかるはずだ。ちなみにェ次郎は俗世の褒章などにまるで興味がなく、人間国宝、文化勲章を辞退している。
ェ次郎を導いた民藝運動の創始者柳(やなぎ)宗悦(むねよし)による東京駒場の日本民藝館の圧倒的な建築と展示物、倉敷の大原美術館内にある工芸・東洋館もすばらしい展示物にあふれ、ともに大好きな施設だが、生活と美と神秘が混然となったこの河井ェ次郎記念館はちょっと別格だ。
さてこの不世出の天才と、のちに日本を代表する“知の巨人”と称されるようになる民族学・比較文明学の泰斗、梅(うめ)棹(さお)忠夫(1920〜2010)とのふしぎな出遭いはわたしにはたまらなく愉快なエピソードだ。昭和30年代、梅棹はたびたび河井邸に遊びにいったという。
<わたしはべつにェ次郎大先生にお目にかかるために河井邸をおとずれたのではない。そのころのわたしは、陶器のことも民芸のこともわからぬ一介の青年生物学徒であって、ェ次郎大先生が引見してくださるわけもなく、お話をうかがったところでネコに小判であった。じつは御曹子の博次君が京都一中以来の親友で、その博次君をたずねて河井邸にゆくようになったのだった。
ところがふしぎなことに、いつのまにか老先生はわたしをつかまえて談論風発ということになり、このネコにもすこし小判がわかるようになった。博次の解説と指導で、この世界のことが、すくなくとも感覚的には身ぢかのものに感じられるようになっていたのである。河井邸の訪問は、たのしかった。
河井邸は、ふしぎな造形にみちた家であった。どの部屋にも、脳天にナタをぶちこむような強烈な形態のものがごろごろしていた。わたしは、巨大な手の指が天空をさしてつったっていたのをわすれない。それは、ある不気味さをさえはらんだ存在であったが、おどろくべき質量感、生命感をもって、座敷にすわっていた。いまからおもえば、あれが「手」の連作だったのだ。>(『美意識と神さま』中央公論社)
この一文は、ェ次郎没後10周年を記念して神戸で開催された河井ェ次郎「木の仕事展」に併せて出版されたェ次郎木彫作品集に梅棹が寄稿した「アニミズム的神像作家−河井ェ次郎」からの抜粋である。
わかい梅棹も、見る者を絶句させずにはおかぬあの巨大な手の木彫などにただならぬものを感じたクチだったのだ。どこか飄然としたェ次郎翁が梅棹青年とニコニコと親しく話しこんでいる微笑ましくもすこし滑稽な姿を想像するだけで、わたしはなぜか幸せな気持ちでいっぱいになる。ェ次郎もこの聡明な青年におおきな将来性を見出したのだろう。
のちに梅棹忠夫は戦後京都学派のリーダー格となり23巻におよぶ膨大な著作集や多くのエッセーなどを遺すことになる。とりわけ『文明の生態史観』(1957年)と『知的生産の技術』(1969年)はあまりにも有名で、現在でも版を重ねる大ベストセラーだ。
梅棹には豊かな教養・知識や卓越した文章力だけでなく、たぐいまれな行動力(研究者として文字通り世界中を踏破している)を背景にした際立った独創性と科学的論理性があり、鋭く時代を読んで未来を見通す洞察力があった。そして世の中につよいインパクトを与えつづける稀代のアジテーターでもあった。
一方で、学者に限らず権威をふりかざす輩(やから)を軽侮・忌避し、独創性のない言説やニセモノに容赦はなかった。世の凡百の学者・インテリから恐れられたのも、むべなるかなといえる。それはたとえば戦後知識人の代表格とされた丸山眞男ですら例外ではなかった。
丸山が京大に講演に来たとき、若手研究者だった梅棹は途中で席を立ってしまった。そのときのことを弟子筋にあたる文化人類学者の小山修三に訊かれ、こう回想している。
<ああ。「こんなあほらしいもん、ただのマルクスの亜流やないか」って。そのときも桑原さん、「ああいうことやっちゃいかん。あれは、東京で偉いんやぞ」って。(笑)実はあとでわたしは丸山眞男と親しくなった。ものすごく陽気でいい人物だった。おもしろい人やったね。でも、話はつまらん(笑)。あんなものは、理論的にただマルクスを日本に適用しただけのことで、何の独創性もない。>(『梅棹忠夫 語る』日経プレミアシリーズ)
京大人文研で梅棹の先輩格であった碩学の桑原武夫をして「ぼくは秀才やけど、梅棹君は天才や」と言わしめたほどの大学者であったのだ。
さて河井ェ次郎である。
河井ェ次郎の作品にはどこにも無意味な装飾や理屈っぽさ、奇を衒(てら)った繊弱なデザインはない。
陶器はどれも造形そのものが魅惑的で、独特の色合いの中に浮きあがる大胆な文様がどしりとした質感を与えている。無機物であるはずの陶器に生命の存在すら感じられ、手にとって撫でてみたいという誘惑にかられるのだ。一方で晩年におおく製作した木彫には無邪気なまでの無目的性とプリミティブなおおらかさがあり、梅棹はそこにアニミズムを見たわけだ。これはいったい何なのか?とだれしもが目を見開いて凝視する圧倒的な存在感に、わたしも人類の原初的な−より具体的には縄文的な−美を感じたことだった。
宗教哲学者の柳宗悦は昭和の初め、貴族的な工藝品ではない名もなき工人たちによる民衆的工藝品に「用の美」を見出して民藝品と名づけ、いわゆる民藝運動を創始した。その運動には柳の思想に共鳴した河井ェ次郎や濱田庄司などおおくの異才が集ったが、板画家の棟方志功もそのひとりだった。大地から躍り出た神々をそのまま版木に刻みつけたような躍動感と生命力に満ちた棟方の作品にも、ェ次郎のそれに相通じる日本古来のプリミティブで縄文的な美があきらかに存在する。
河井ェ次郎や棟方志功の前では、岡本太郎なぞはただの子供だましに過ぎず、天才の名をほしいままにするあのパブロ・ピカソですら色あせて見えるほどだ。
ところで、河井ェ次郎は陶器や木彫だけでなく折々に魅力的な言葉を遺しており、記念館にもェ次郎作の額縁に入れられて展示されている。わたしが東京の骨董通りで買いそびれたのもそのひとつだったのだろうか。最後にかれの言葉のいくつかを紹介しよう。
暮らしが仕事 仕事が暮らし
新しい自分が見たいのだ―仕事をする
此世は自分をさがしに来たところ、此世は自分を見に来たところ
美はすべての人を愛している
美はすべての人に愛されたがっている
美はすべての人のものになりたがっている
神話のくに出雲安来に生をうけ、京都で生涯にわたり「美」の本質を探究しつづけた河井ェ次郎―。一工人としてひたすら自らと向き合い、そこから生み落とされた作品群で見る者すべてを幸せな気持ちにさせる。なんと豊穣で、見事な人生であったことか。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
東京南青山に住む妹に会いに行くため地下鉄表参道駅からの道すがら骨董通りを歩いていたとき、ビルの1階にある間口の狭い小体(こてい)な骨董店をガラスドア越しに何気なく覗いたところ、ある作品に目が吸いよせられた。店は閉まっていたが、ふしぎな曲線を帯びた6号ほどの額が入口近くにかかっており、見覚えのある特徴的な文字(おそらく木版)でなにやら片言隻語が書かれていたのが見えたのだ。はたしてそれは、予想したとおり河井ェ次郎(1890〜1966)の作だった。ほう、こんなところに河井ェ次郎、とわたしはうれしくなった。
値段ははっきりとは憶えていないが、10〜15万円ほどではなかったか。これはまったく手の出ない金額ではないと思いつつ、ガラスドア越しにしばし見入っていたが、いかんせん店は閉まっている。わたしは後ろ髪をひかれる思いで立ち去り、迂闊にも何が書かれていたのかすら記憶せず、そしていつのまにかそのこと自体をすっかり忘れてしまったのだった。このチャンスを逃したことをその後、しばしば後悔することになる。
京都五条坂に、陶芸家河井ェ次郎の記念館はある。ェ次郎自らが設計した住居兼仕事場が陶器、木彫、家具などの作品群とともに保存されており、だれでも入館できる。敷地内には登り窯もある。外観は看板がなければ普通の京町屋にしか見えないが、中はもうまさに別世界、別宇宙。だれしもがブッタマゲ、自身に巣喰う“常識”がいかに貧相なものかを思い知らされることになる。河井ェ次郎が紛うことなき天才であったことが、どんな鈍感な人にもわかるはずだ。ちなみにェ次郎は俗世の褒章などにまるで興味がなく、人間国宝、文化勲章を辞退している。
ェ次郎を導いた民藝運動の創始者柳(やなぎ)宗悦(むねよし)による東京駒場の日本民藝館の圧倒的な建築と展示物、倉敷の大原美術館内にある工芸・東洋館もすばらしい展示物にあふれ、ともに大好きな施設だが、生活と美と神秘が混然となったこの河井ェ次郎記念館はちょっと別格だ。
さてこの不世出の天才と、のちに日本を代表する“知の巨人”と称されるようになる民族学・比較文明学の泰斗、梅(うめ)棹(さお)忠夫(1920〜2010)とのふしぎな出遭いはわたしにはたまらなく愉快なエピソードだ。昭和30年代、梅棹はたびたび河井邸に遊びにいったという。
<わたしはべつにェ次郎大先生にお目にかかるために河井邸をおとずれたのではない。そのころのわたしは、陶器のことも民芸のこともわからぬ一介の青年生物学徒であって、ェ次郎大先生が引見してくださるわけもなく、お話をうかがったところでネコに小判であった。じつは御曹子の博次君が京都一中以来の親友で、その博次君をたずねて河井邸にゆくようになったのだった。
ところがふしぎなことに、いつのまにか老先生はわたしをつかまえて談論風発ということになり、このネコにもすこし小判がわかるようになった。博次の解説と指導で、この世界のことが、すくなくとも感覚的には身ぢかのものに感じられるようになっていたのである。河井邸の訪問は、たのしかった。
河井邸は、ふしぎな造形にみちた家であった。どの部屋にも、脳天にナタをぶちこむような強烈な形態のものがごろごろしていた。わたしは、巨大な手の指が天空をさしてつったっていたのをわすれない。それは、ある不気味さをさえはらんだ存在であったが、おどろくべき質量感、生命感をもって、座敷にすわっていた。いまからおもえば、あれが「手」の連作だったのだ。>(『美意識と神さま』中央公論社)
この一文は、ェ次郎没後10周年を記念して神戸で開催された河井ェ次郎「木の仕事展」に併せて出版されたェ次郎木彫作品集に梅棹が寄稿した「アニミズム的神像作家−河井ェ次郎」からの抜粋である。
わかい梅棹も、見る者を絶句させずにはおかぬあの巨大な手の木彫などにただならぬものを感じたクチだったのだ。どこか飄然としたェ次郎翁が梅棹青年とニコニコと親しく話しこんでいる微笑ましくもすこし滑稽な姿を想像するだけで、わたしはなぜか幸せな気持ちでいっぱいになる。ェ次郎もこの聡明な青年におおきな将来性を見出したのだろう。
のちに梅棹忠夫は戦後京都学派のリーダー格となり23巻におよぶ膨大な著作集や多くのエッセーなどを遺すことになる。とりわけ『文明の生態史観』(1957年)と『知的生産の技術』(1969年)はあまりにも有名で、現在でも版を重ねる大ベストセラーだ。
梅棹には豊かな教養・知識や卓越した文章力だけでなく、たぐいまれな行動力(研究者として文字通り世界中を踏破している)を背景にした際立った独創性と科学的論理性があり、鋭く時代を読んで未来を見通す洞察力があった。そして世の中につよいインパクトを与えつづける稀代のアジテーターでもあった。
一方で、学者に限らず権威をふりかざす輩(やから)を軽侮・忌避し、独創性のない言説やニセモノに容赦はなかった。世の凡百の学者・インテリから恐れられたのも、むべなるかなといえる。それはたとえば戦後知識人の代表格とされた丸山眞男ですら例外ではなかった。
丸山が京大に講演に来たとき、若手研究者だった梅棹は途中で席を立ってしまった。そのときのことを弟子筋にあたる文化人類学者の小山修三に訊かれ、こう回想している。
<ああ。「こんなあほらしいもん、ただのマルクスの亜流やないか」って。そのときも桑原さん、「ああいうことやっちゃいかん。あれは、東京で偉いんやぞ」って。(笑)実はあとでわたしは丸山眞男と親しくなった。ものすごく陽気でいい人物だった。おもしろい人やったね。でも、話はつまらん(笑)。あんなものは、理論的にただマルクスを日本に適用しただけのことで、何の独創性もない。>(『梅棹忠夫 語る』日経プレミアシリーズ)
京大人文研で梅棹の先輩格であった碩学の桑原武夫をして「ぼくは秀才やけど、梅棹君は天才や」と言わしめたほどの大学者であったのだ。
さて河井ェ次郎である。
河井ェ次郎の作品にはどこにも無意味な装飾や理屈っぽさ、奇を衒(てら)った繊弱なデザインはない。
陶器はどれも造形そのものが魅惑的で、独特の色合いの中に浮きあがる大胆な文様がどしりとした質感を与えている。無機物であるはずの陶器に生命の存在すら感じられ、手にとって撫でてみたいという誘惑にかられるのだ。一方で晩年におおく製作した木彫には無邪気なまでの無目的性とプリミティブなおおらかさがあり、梅棹はそこにアニミズムを見たわけだ。これはいったい何なのか?とだれしもが目を見開いて凝視する圧倒的な存在感に、わたしも人類の原初的な−より具体的には縄文的な−美を感じたことだった。
宗教哲学者の柳宗悦は昭和の初め、貴族的な工藝品ではない名もなき工人たちによる民衆的工藝品に「用の美」を見出して民藝品と名づけ、いわゆる民藝運動を創始した。その運動には柳の思想に共鳴した河井ェ次郎や濱田庄司などおおくの異才が集ったが、板画家の棟方志功もそのひとりだった。大地から躍り出た神々をそのまま版木に刻みつけたような躍動感と生命力に満ちた棟方の作品にも、ェ次郎のそれに相通じる日本古来のプリミティブで縄文的な美があきらかに存在する。
河井ェ次郎や棟方志功の前では、岡本太郎なぞはただの子供だましに過ぎず、天才の名をほしいままにするあのパブロ・ピカソですら色あせて見えるほどだ。
ところで、河井ェ次郎は陶器や木彫だけでなく折々に魅力的な言葉を遺しており、記念館にもェ次郎作の額縁に入れられて展示されている。わたしが東京の骨董通りで買いそびれたのもそのひとつだったのだろうか。最後にかれの言葉のいくつかを紹介しよう。
暮らしが仕事 仕事が暮らし
新しい自分が見たいのだ―仕事をする
此世は自分をさがしに来たところ、此世は自分を見に来たところ
美はすべての人を愛している
美はすべての人に愛されたがっている
美はすべての人のものになりたがっている
神話のくに出雲安来に生をうけ、京都で生涯にわたり「美」の本質を探究しつづけた河井ェ次郎―。一工人としてひたすら自らと向き合い、そこから生み落とされた作品群で見る者すべてを幸せな気持ちにさせる。なんと豊穣で、見事な人生であったことか。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
2023年06月27日
税金で飯を食うということ
先日、『生きるLIVING』という新作のイギリス映画を観て、いろいろな想いが頭をめぐっている。
この映画は黒澤明監督の『生きる』(1952年封切)をリメイクしたもので、ノーベル賞作家カズオ・イシグロの脚本と知り映画館に足を運んでみたのだが、期待をこえる出来映えにうなってしまった。
黒澤の『生きる』はストーリーもさることながら主役の志村喬の怪演で成り立っていたからかれの役が嵌(はま)らなければ映画にならないが、イギリスの国民的俳優ビル・ナイの志村とはまたちがった、もの静かで哀しみを内に秘めたふかい演技力によってこの映画はたんなる名作のリメイクではない、もうひとつの観るに値する秀作に仕上がっていた。
イシグロは若いころ黒澤の『生きる』につよい感銘を受けたらしく、本作でも原作を十分に尊重し、舞台こそロンドン、東京と異なるが両作とも第2次大戦後の役所での出来事を主題にしており、がんで余命半年と告げられた定年間近の市民課長が、死んでいるも同然だった空虚な役人人生にハタと気づき最後に生きる意味を見出すというストーリーや主な登場人物などもほぼ忠実になぞられている。雪の降る公園でブランコを漕ぎながら主人公が歌を口ずさむ有名なエピローグも、もちろん再現される。
ただあえて云えば、この両作にはひとつだけ大きな相違点がある。原作には痛烈な役人批判、役所批判がこれでもかとばかり込められているが、リメイク版は役所の“事なかれ主義”はもちろん描いてあるものの原作のエゲツなさは抑えられ上品に仕上げてあるところだ。お国柄の違いもあろうが、幼時に渡英したイシグロならでは、イギリス社会への遠慮と紳士の国への憧憬がそうさせたのではないかとわたしは勝手な想像をしている。
実は原作の『生きる』は上映時間が本作より約40分もながい。その40分に黒澤、橋本忍、小國英雄という脚本スタッフの役人社会へのつよい義憤と侮蔑を込めた感があり、もっとも重要となるラストの場面にそれは如実にあらわれる。リメイク版では主人公の葬儀後に列車の中で市民課職員らが粛然とした面持ちで会話を交わすシーンとなっているが、原作では役所のトップから各部署の小役人まで大勢が出席する主人公の通夜の席となっており、ここで黒澤はいささか辟易(へきえき)するほどの執拗さで役人と役所の実態を皮肉たっぷりに描いている。当時役人が観たらかなり不快な気分になったのではないかと思えるほどだ。
いずれにしろ役所も時代とともに多少は変化し、また直接市民と接する市役所のような自治体もあれば霞が関の官僚組織もありひと括りにはできないが、役所幹部や議員にひたすら阿諛(あゆ)し、決して余計なこと(市民・国民のためになること)はせず、出世最優先で責任回避を旨とする役人の因循姑息な習性は共通しており、それは戦後すぐであれ現在であれ大差はない。かれらの中に市民や国民のために仕事をすべき公務員であるという自覚は、ほんの一部の例外を除き、まず見受けられないのが普通だ。
大蔵省理財局長といういわば役人の中の役人であったキャリア官僚の佐川某が、国民からの税金で飯を食っている国家公務員でありながら国会で嘘の答弁を繰り返して己が地位と安倍政権を守ろうとした姿がまさにそれを象徴しており、佐川の命令で公文書改ざんを余儀なくされその罪悪感から自ら命を絶った近畿財務局のノンキャリア職員赤木俊夫氏がそのほんの一部の例外に当たる。どちらが公務員として、人間としてのあるべき姿かは云うまでもあるまい。
そもそも役人になるとはどういうことで、税金で飯を食うとはどういうことなのか。そんなことを『生きるLIVING』 と原作とをあらためて比べながら考えるうち、ふと頭に浮かんだのが、昭和を代表する歴史学者羽仁五郎の著書『教育の論理−文部省廃止論−』(ダイヤモンド社)である。この中で羽仁が前島密(ひそか)の言ったとされる<誓って兄弟の血はすすらない。税金で飯を食おうとは思わない>という言葉を引いていたのを思い出したのだ。
旧幕臣の前島は明治維新のとき、通信の自由の実現のため日本にも近代的な郵便制度をつくる必要があると主張して認められ、その責任者となっていまでいう郵政大臣となり今日の郵便制度をつくった男だが、それが成ったときこの言葉とともに職を辞し、民間に戻ったのだ。羽仁は「この前島の一言は、国際的にみても、第一級の名言であろう」と最大級の賛辞を惜しまず、続けて「かれは公務員になることが目的ではなくて、郵便制度を日本に創立するということが目的だった。その郵便制度をつくるには、国家の事業としてするよりほかなく、そのために公務員になる必要があったから公務員になったのであり、その必要が解決されたのだから、つづけて公務員として生活する、ということはかれには考えられなかった。」と述べている。
前島の業績は郵便制度の創設だけでなく、駅制改革、陸・海運の振興、教育の振興、鉄道計画の立案など多岐にわたる。首都東京を実現したのもかれの功績で、慶應4年に新政府の首都をどこにするかで時の最高権力者大久保利通の唱える大坂遷都論に傾きかけたとき、江戸遷都論を大久保に献言して京都から江戸(東京)への遷都を決断させた。また明治15年に大隈重信が東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立したとき、土佐・宿毛出身の小野梓とともに大隈を支え、小野が早世したあとも校長として早稲田大学の基礎をつくっている。大隈が前島を「日本文明の一大恩人」と称えたのも頷ける見事な生き様だ。
この前島と好対照をなすのが、土佐人田中光顕(みつあき)である。
佐川の深尾家(土佐藩家老)家臣という下級武士の家に生まれた田中は脱藩して長州に赴き、高杉晋作の腰巾着になる。高杉亡きあとは同じく長州系の中岡慎太郎に従って土佐陸援隊に入り戊辰戦争にも出征するが、おおくの有為な志士が非命に斃(たお)れるなか生き残り、「典型的な二流志士」(司馬遼太郎)ながら政府要職を歴任して最後は伯爵宮内大臣に栄達、95歳まで生きた強運の男だ。前島より8歳年少で明治維新のころは25歳という若さだったが、27歳ですでに兵庫県知事の地位にあった長閥の出世頭伊藤俊輔(博文)から県官吏の職を与えられ、その後は伊藤が中央政府の要職に就いて栄進するとともに田中も政府役人として出世してゆく。
ところが生まれは争えないということか、田中は宮内大臣時代にとんでもないスキャンダルを起こしている。大宅壮一著『炎は流れる』(文芸春秋)によると、明治41年、韓国とのあいだに「第二協約」が結ばれて日本の支配権が確立した記念に、皇太子嘉仁(よしひと)親王の韓国行啓となった。このときの随行者は皇室関係者のほか総理大臣公爵桂太郎、陸軍大将侯爵野津道貫(みちつら)、海軍大将伯爵東郷平八郎、そして宮内大臣伯爵田中光顕といった錚々たる顔ぶれだった。
そして大宅はこう続ける。
「この随行者のなかで、たいへんな物議をかもしたのは田中光顕である。彼は韓国滞在中、花柳界で話題になるような遊びをしたばかりでなく、京城(ソウル)の骨董屋と人夫数十名をひきつれて、高麗時代の古都開城にのりこみ、国宝の一つにかぞえられていた蠟石の塔をもち出して、東京の自邸に送った。
あとでこれを知った博文は、烈火のように怒り、長文の詰問電報をうってきた。そこで光顕は、この塔を韓国王から宮内省へ献上するという形をとろうとしたが、韓国側が同意しなくて、この事件はけっきょくウヤムヤとなった。」
田中のこの暴挙がワシントンポスト紙などで大きく報じられ、韓国統監であった伊藤博文は顔をつぶされた形となったのだ。なおこの国宝は敬天寺十層石塔というのが正式名称で、大正7年に米英ジャーナリストらの尽力で韓国に返還されている。
田中は文化財の収集にことのほか熱心で、佐川町の青山(せいざん)文庫のほか東京・多摩市の旧多摩聖蹟記念館、宮内庁などにそれらは保管されている。おそらくは身にそぐわぬ高い地位が尊大と驕慢を生み、権力を背景にした奇矯なほど際限ない収集癖につながったのだろうが、前島密の<誓って兄弟の血はすすらない。税金で飯を食おうとは思わない>という覚悟と清廉さに比べるべくもない。
といって誤解されても困るが、わたしはなにも役人なぞになるなと云いたいわけではない。そうではなく、役人や議員のような公職に就くなら、せめて「税金で飯を食う」ということの重大な意味を骨の髄に叩き込んで一時たりとも忘れてくれるなということだ。
人生の最後に役人として本来すべき仕事をし遂げて幸せそうに死んでいった、『生きるLIVING』とその原作におけるわが市民課長は、きっとそこに気づいたのだろう。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
この映画は黒澤明監督の『生きる』(1952年封切)をリメイクしたもので、ノーベル賞作家カズオ・イシグロの脚本と知り映画館に足を運んでみたのだが、期待をこえる出来映えにうなってしまった。
黒澤の『生きる』はストーリーもさることながら主役の志村喬の怪演で成り立っていたからかれの役が嵌(はま)らなければ映画にならないが、イギリスの国民的俳優ビル・ナイの志村とはまたちがった、もの静かで哀しみを内に秘めたふかい演技力によってこの映画はたんなる名作のリメイクではない、もうひとつの観るに値する秀作に仕上がっていた。
イシグロは若いころ黒澤の『生きる』につよい感銘を受けたらしく、本作でも原作を十分に尊重し、舞台こそロンドン、東京と異なるが両作とも第2次大戦後の役所での出来事を主題にしており、がんで余命半年と告げられた定年間近の市民課長が、死んでいるも同然だった空虚な役人人生にハタと気づき最後に生きる意味を見出すというストーリーや主な登場人物などもほぼ忠実になぞられている。雪の降る公園でブランコを漕ぎながら主人公が歌を口ずさむ有名なエピローグも、もちろん再現される。
ただあえて云えば、この両作にはひとつだけ大きな相違点がある。原作には痛烈な役人批判、役所批判がこれでもかとばかり込められているが、リメイク版は役所の“事なかれ主義”はもちろん描いてあるものの原作のエゲツなさは抑えられ上品に仕上げてあるところだ。お国柄の違いもあろうが、幼時に渡英したイシグロならでは、イギリス社会への遠慮と紳士の国への憧憬がそうさせたのではないかとわたしは勝手な想像をしている。
実は原作の『生きる』は上映時間が本作より約40分もながい。その40分に黒澤、橋本忍、小國英雄という脚本スタッフの役人社会へのつよい義憤と侮蔑を込めた感があり、もっとも重要となるラストの場面にそれは如実にあらわれる。リメイク版では主人公の葬儀後に列車の中で市民課職員らが粛然とした面持ちで会話を交わすシーンとなっているが、原作では役所のトップから各部署の小役人まで大勢が出席する主人公の通夜の席となっており、ここで黒澤はいささか辟易(へきえき)するほどの執拗さで役人と役所の実態を皮肉たっぷりに描いている。当時役人が観たらかなり不快な気分になったのではないかと思えるほどだ。
いずれにしろ役所も時代とともに多少は変化し、また直接市民と接する市役所のような自治体もあれば霞が関の官僚組織もありひと括りにはできないが、役所幹部や議員にひたすら阿諛(あゆ)し、決して余計なこと(市民・国民のためになること)はせず、出世最優先で責任回避を旨とする役人の因循姑息な習性は共通しており、それは戦後すぐであれ現在であれ大差はない。かれらの中に市民や国民のために仕事をすべき公務員であるという自覚は、ほんの一部の例外を除き、まず見受けられないのが普通だ。
大蔵省理財局長といういわば役人の中の役人であったキャリア官僚の佐川某が、国民からの税金で飯を食っている国家公務員でありながら国会で嘘の答弁を繰り返して己が地位と安倍政権を守ろうとした姿がまさにそれを象徴しており、佐川の命令で公文書改ざんを余儀なくされその罪悪感から自ら命を絶った近畿財務局のノンキャリア職員赤木俊夫氏がそのほんの一部の例外に当たる。どちらが公務員として、人間としてのあるべき姿かは云うまでもあるまい。
そもそも役人になるとはどういうことで、税金で飯を食うとはどういうことなのか。そんなことを『生きるLIVING』 と原作とをあらためて比べながら考えるうち、ふと頭に浮かんだのが、昭和を代表する歴史学者羽仁五郎の著書『教育の論理−文部省廃止論−』(ダイヤモンド社)である。この中で羽仁が前島密(ひそか)の言ったとされる<誓って兄弟の血はすすらない。税金で飯を食おうとは思わない>という言葉を引いていたのを思い出したのだ。
旧幕臣の前島は明治維新のとき、通信の自由の実現のため日本にも近代的な郵便制度をつくる必要があると主張して認められ、その責任者となっていまでいう郵政大臣となり今日の郵便制度をつくった男だが、それが成ったときこの言葉とともに職を辞し、民間に戻ったのだ。羽仁は「この前島の一言は、国際的にみても、第一級の名言であろう」と最大級の賛辞を惜しまず、続けて「かれは公務員になることが目的ではなくて、郵便制度を日本に創立するということが目的だった。その郵便制度をつくるには、国家の事業としてするよりほかなく、そのために公務員になる必要があったから公務員になったのであり、その必要が解決されたのだから、つづけて公務員として生活する、ということはかれには考えられなかった。」と述べている。
前島の業績は郵便制度の創設だけでなく、駅制改革、陸・海運の振興、教育の振興、鉄道計画の立案など多岐にわたる。首都東京を実現したのもかれの功績で、慶應4年に新政府の首都をどこにするかで時の最高権力者大久保利通の唱える大坂遷都論に傾きかけたとき、江戸遷都論を大久保に献言して京都から江戸(東京)への遷都を決断させた。また明治15年に大隈重信が東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立したとき、土佐・宿毛出身の小野梓とともに大隈を支え、小野が早世したあとも校長として早稲田大学の基礎をつくっている。大隈が前島を「日本文明の一大恩人」と称えたのも頷ける見事な生き様だ。
この前島と好対照をなすのが、土佐人田中光顕(みつあき)である。
佐川の深尾家(土佐藩家老)家臣という下級武士の家に生まれた田中は脱藩して長州に赴き、高杉晋作の腰巾着になる。高杉亡きあとは同じく長州系の中岡慎太郎に従って土佐陸援隊に入り戊辰戦争にも出征するが、おおくの有為な志士が非命に斃(たお)れるなか生き残り、「典型的な二流志士」(司馬遼太郎)ながら政府要職を歴任して最後は伯爵宮内大臣に栄達、95歳まで生きた強運の男だ。前島より8歳年少で明治維新のころは25歳という若さだったが、27歳ですでに兵庫県知事の地位にあった長閥の出世頭伊藤俊輔(博文)から県官吏の職を与えられ、その後は伊藤が中央政府の要職に就いて栄進するとともに田中も政府役人として出世してゆく。
ところが生まれは争えないということか、田中は宮内大臣時代にとんでもないスキャンダルを起こしている。大宅壮一著『炎は流れる』(文芸春秋)によると、明治41年、韓国とのあいだに「第二協約」が結ばれて日本の支配権が確立した記念に、皇太子嘉仁(よしひと)親王の韓国行啓となった。このときの随行者は皇室関係者のほか総理大臣公爵桂太郎、陸軍大将侯爵野津道貫(みちつら)、海軍大将伯爵東郷平八郎、そして宮内大臣伯爵田中光顕といった錚々たる顔ぶれだった。
そして大宅はこう続ける。
「この随行者のなかで、たいへんな物議をかもしたのは田中光顕である。彼は韓国滞在中、花柳界で話題になるような遊びをしたばかりでなく、京城(ソウル)の骨董屋と人夫数十名をひきつれて、高麗時代の古都開城にのりこみ、国宝の一つにかぞえられていた蠟石の塔をもち出して、東京の自邸に送った。
あとでこれを知った博文は、烈火のように怒り、長文の詰問電報をうってきた。そこで光顕は、この塔を韓国王から宮内省へ献上するという形をとろうとしたが、韓国側が同意しなくて、この事件はけっきょくウヤムヤとなった。」
田中のこの暴挙がワシントンポスト紙などで大きく報じられ、韓国統監であった伊藤博文は顔をつぶされた形となったのだ。なおこの国宝は敬天寺十層石塔というのが正式名称で、大正7年に米英ジャーナリストらの尽力で韓国に返還されている。
田中は文化財の収集にことのほか熱心で、佐川町の青山(せいざん)文庫のほか東京・多摩市の旧多摩聖蹟記念館、宮内庁などにそれらは保管されている。おそらくは身にそぐわぬ高い地位が尊大と驕慢を生み、権力を背景にした奇矯なほど際限ない収集癖につながったのだろうが、前島密の<誓って兄弟の血はすすらない。税金で飯を食おうとは思わない>という覚悟と清廉さに比べるべくもない。
といって誤解されても困るが、わたしはなにも役人なぞになるなと云いたいわけではない。そうではなく、役人や議員のような公職に就くなら、せめて「税金で飯を食う」ということの重大な意味を骨の髄に叩き込んで一時たりとも忘れてくれるなということだ。
人生の最後に役人として本来すべき仕事をし遂げて幸せそうに死んでいった、『生きるLIVING』とその原作におけるわが市民課長は、きっとそこに気づいたのだろう。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
2023年03月25日
アメリカ様
嘉永6年(1853年)6月3日、アメリカ合衆国フィルモア大統領の親書を携えたマシュー・ペリー提督が率いる黒船艦隊が、江戸湾口の浦賀沖に突如として現れた。排水量2450トンの巨大な蒸気戦艦サスケハナ号を旗艦とし、同じく蒸気戦艦のミシシッピー号(1692トン)、帆船の戦艦プリマス号(989トン)とサラトガ号(882トン)の4隻で、巨大砲は合計で63門を備えていた。当時の日本では大型船でもせいぜいが千石船の100トンクラス、“たった四杯の上喜撰”で蜂の巣をつついたごとき大騒ぎになったのも頷ける。
しかし、突如といっても実のところ幕府は長崎出島のオランダ商館長から、ペリー率いる使節艦隊の日本派遣が前年の米議会で決まったことを報らされていたし、10年前には大国の清が手もなくイギリスの軍門に下った(アヘン戦争)ことから西洋列強の軍事力が並々ならぬことも知ってはいた。が、かといって大した手も打たず、そのときはそのときで国是である鎖国を理由に拒否すればよいと漫然と座視していたのだ。ところが実際にことが起こってみると、黒船艦隊の大迫力とアメリカ側の戦闘辞さずの強硬姿勢に度肝を抜かれる。
ペリーは、親書への回答を受け取るため翌年に再び来航すると告げ(実際に翌年1月に9隻の大艦隊で再来航)9日後にいったん江戸湾を去ったが、太平の眠りをむさぼっていた江戸の武士たちは大慌てにあわてた。もう不要だろうと質入れしたり売り払っていた甲冑、刀剣、馬具などを買い戻しに走る有様で、武具は高騰して江戸の武具屋や古道具屋はにわか景気に大儲け、「武具馬具屋アメリカ様とそッと云い」という戯(ざ)れ句が流行ったというから嗤(わら)わせる。
その戯れ句からタイトルをとった一書が、反骨のジャーナリスト宮武外骨(1867〜1955)の『アメリカ様』だ。敗戦の翌年、奇しくも東京裁判の開廷日である昭和21年(1946年)5月3日に刊行された。慶應3年生まれの外骨はこのとき80歳。
同書の冒頭にこうある。
<日本軍閥の全滅、官僚の没落、財閥の屛息(へいそく)、やがて民主的平和政府となる前提、誠に我々国民一同の大々的幸福、これ全く敗戦の結果、この無血革命、痛快の新時代を寄与してくれたアメリカ様のお蔭である。…これに加え、我国開闢以来、初めて言論の自由、何という仕合せ、何という幸福であろう。皆これ勝って下さったアメリカ様、日本を負けさせて下さったアメリカ様のお蔭として感謝せねばならぬ。>(ちくま学芸文庫版)
人びとを戦争に駆り立てた軍・政治家・官僚・財閥などを断罪しつつ、自由を奪われつづけた自身の人生を思い起こし、真に平和を取り戻した喜びに溢れている。が、その一方で新たな主人となった敵国アメリカにおもねる奴隷根性の日本人の姿を、アメリカに「様」をつけて諧謔を利かせ、自身を「半米人」と称して自虐的に皮肉る。
生涯にわたり権力を揶揄・批判する新聞、雑誌、書籍を発行し続け、入獄4回、罰金・発禁29回という空前の筆禍史を持つ外骨は、同書でも日米両政府から記事削除などの処分を受けている。ジャーナリズムの凋落著しい現代日本からは想像もできぬ硬骨漢だ。
さてペリーの強圧的な砲艦外交により不平等な日米和親条約締結を余儀なくされた日本は後世にいう幕末期に一気に突入、尊王攘夷を旗印にした新政府軍により徳川幕府は倒され近代国家への一歩を踏み出すことになるが、ペリー来航から3世代ほど経った92年後の1945年、軍拡と攘夷戦争にあけくれ自己肥大化した日本はついにそのアメリカに無謀な戦争をしかけて惨憺たる敗戦を迎えることとなる。
厚木飛行場に降り立った連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは日本を武装解除して占領下におき、二度と戦争をしない民主国家にすべく財閥解体や平和憲法制定などを断行、敗戦の6年後に日本はサンフランシスコ平和条約でやっと名目上の独立国となる。しかし実質は沖縄・奄美群島と小笠原諸島を差し出す日米安保条約を同時に締結して属国となったに過ぎず、政府首脳の「アメリカ様」におもねる習性と奴隷根性はこのときから宿痾(しゅくあ)のごとく身についたのである。
これをもっとも象徴する政治家が岸信介だ。A級戦犯でありながらアメリカ様の「お役に立つ」ことを条件に罪を免れ政界復帰した岸は1957年、保守2政党の合同で55年に結党された自由民主党の第3代総裁そして第56第総理大臣となる。アメリカ一辺倒を否定する徹底した平和主義者の前総理石橋湛山が病で倒れて就任わずか65日で辞任し、アメリカ様の”一の子分”岸信介が権力を握ったこのとき、その後の日本の姿がほぼ決まったといっていい。
ひとつのエピソードを紹介しよう。
太平洋戦争で日本の本土爆撃の任務を負った米軍司令官カーティス・ルメイは、いかに効率的に木造の家を焼き尽くして日本人を大量殺戮するかに執念を燃やし、ユタ砂漠で日本家屋群を再現した施設をつくり実験を繰り返して油脂に水素を添加した焼夷弾(ナパーム弾)を開発する。そして1945年3月の東京大空襲で一晩に8万人を焼き殺したのを皮切りに全国の都市を無差別爆撃し、締めに2発の原爆を投下して日本を文字どおり焦土化する。
その張本人のルメイが1964年に来日したとき、こともあろうに岸の実弟で自民党総裁の佐藤栄作を総理大臣にいただく日本政府はかれに勲一等旭日大綬章を贈ったのだ。日本の航空自衛隊の育成に貢献したことがその理由とされるが、ウクライナ人をもっとも多く殺したロシアの司令官にウクライナ政府が勲章を贈るようなもので、ヘドが出るような奴隷根性である。冷血と残忍さで知られるルメイはのちにベトナム戦争で、「お前らを石器時代に戻してやる!」とナパーム弾の雨を降らしたことでも知られる。
さて現在の日本はどうか。
来日する外国の元首はすべて羽田空港から入国するが、ひとりアメリカ大統領だけは横田基地に大統領専用機で勝手に降り立ち、そこから車で堂々と日本の道路を日本の警察に守らせて走り皇居や首相官邸などにやってくる。その姿はマッカーサーによる占領時代となんら変わらないが、これに日本政府も政治家もだれも文句を言わない。ついでながら、日本は在日米軍駐留経費として、アメリカ様に直接差し出す“思いやり予算”を含め年間8000億円超という巨額の税金をつぎ込んでいる。
さらには“核の傘”という幻想にすがり、核兵器廃絶の先頭に立つべき唯一の被爆国でありながら、その原爆を落とした当事者の宗主国アメリカ様に気をつかい、一昨年に国連で正式に発効した核兵器禁止条約を批准しないばかりかオブザーバー参加すらもしないみっともなさ。最近、フランスの著名な歴史人口学者のエマニュエル・トッドが共同通信のインタビューで「日本の一番の問題は、米国を父親のように見て、従って、独立していないこと」と喝破していたが、外国からは日本は主権国家とは見られていない。
どんな悲惨な災害も戦争も3世代過ぎれば民族の記憶からは消えてしまうというのがわたしの持論だが、ほぼ3世代前の1945年の敗戦でやっと平和が来たと喜んだ宮武外骨も、戦争を知らない戦後世代の自民党リーダー安倍晋三(岸の孫)、菅義偉、岸田文雄とつづくあからさまな対米従属政権がついには集団的自衛権行使と敵基地攻撃能力により世界に冠たる平和憲法―アメリカ様からいただいたものだが―を実質的に放棄し、軍事予算倍増(による武器購入)というアメリカ様への貢ぎ物を決めたと知ったらどんな顔をするだろうか。
ペリー来航を事前に報らされながら漫然と座視した江戸幕府、アメリカの軍事力の強大さを知りながら無謀な太平洋戦争に突入した帝国日本。根拠のない希望的観測と責任逃れしか頭にないわが国権力者のこれは本性であり、現在もそれはまったく変わりない。かつての勢いを失ったアメリカは核大国のロシアや中国と直接に干戈(かんか)を交えることは絶対になく、もし中台間に紛争が発生すれば近接する日本はアメリカ様から“核の傘”の見返りに都合よく手先となるよう仕向けられるだろう。最前線の自衛隊員諸君だけでなく、軍事基地が集中する沖縄などは間違いなくターゲットとなり近隣住民の多くが犠牲になる。こちらが父親と思ってすがっても、宗主国のアメリカ様は日本をたんなる属国としか見ていないのだからこれは当然の帰結だ。
食糧自給率37%、エネルギー自給率12%というひ弱な国が、なにを血迷ったか平和憲法をかなぐり捨て世界第3位の軍事大国になるという。有権者であるわたしたち国民も、そろそろ目を醒(さ)まして投票行動で「ノー」を表明すべき時ではないのか。そのうちチコちゃんに「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と叱られるぜよ。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
しかし、突如といっても実のところ幕府は長崎出島のオランダ商館長から、ペリー率いる使節艦隊の日本派遣が前年の米議会で決まったことを報らされていたし、10年前には大国の清が手もなくイギリスの軍門に下った(アヘン戦争)ことから西洋列強の軍事力が並々ならぬことも知ってはいた。が、かといって大した手も打たず、そのときはそのときで国是である鎖国を理由に拒否すればよいと漫然と座視していたのだ。ところが実際にことが起こってみると、黒船艦隊の大迫力とアメリカ側の戦闘辞さずの強硬姿勢に度肝を抜かれる。
ペリーは、親書への回答を受け取るため翌年に再び来航すると告げ(実際に翌年1月に9隻の大艦隊で再来航)9日後にいったん江戸湾を去ったが、太平の眠りをむさぼっていた江戸の武士たちは大慌てにあわてた。もう不要だろうと質入れしたり売り払っていた甲冑、刀剣、馬具などを買い戻しに走る有様で、武具は高騰して江戸の武具屋や古道具屋はにわか景気に大儲け、「武具馬具屋アメリカ様とそッと云い」という戯(ざ)れ句が流行ったというから嗤(わら)わせる。
その戯れ句からタイトルをとった一書が、反骨のジャーナリスト宮武外骨(1867〜1955)の『アメリカ様』だ。敗戦の翌年、奇しくも東京裁判の開廷日である昭和21年(1946年)5月3日に刊行された。慶應3年生まれの外骨はこのとき80歳。
同書の冒頭にこうある。
<日本軍閥の全滅、官僚の没落、財閥の屛息(へいそく)、やがて民主的平和政府となる前提、誠に我々国民一同の大々的幸福、これ全く敗戦の結果、この無血革命、痛快の新時代を寄与してくれたアメリカ様のお蔭である。…これに加え、我国開闢以来、初めて言論の自由、何という仕合せ、何という幸福であろう。皆これ勝って下さったアメリカ様、日本を負けさせて下さったアメリカ様のお蔭として感謝せねばならぬ。>(ちくま学芸文庫版)
人びとを戦争に駆り立てた軍・政治家・官僚・財閥などを断罪しつつ、自由を奪われつづけた自身の人生を思い起こし、真に平和を取り戻した喜びに溢れている。が、その一方で新たな主人となった敵国アメリカにおもねる奴隷根性の日本人の姿を、アメリカに「様」をつけて諧謔を利かせ、自身を「半米人」と称して自虐的に皮肉る。
生涯にわたり権力を揶揄・批判する新聞、雑誌、書籍を発行し続け、入獄4回、罰金・発禁29回という空前の筆禍史を持つ外骨は、同書でも日米両政府から記事削除などの処分を受けている。ジャーナリズムの凋落著しい現代日本からは想像もできぬ硬骨漢だ。
さてペリーの強圧的な砲艦外交により不平等な日米和親条約締結を余儀なくされた日本は後世にいう幕末期に一気に突入、尊王攘夷を旗印にした新政府軍により徳川幕府は倒され近代国家への一歩を踏み出すことになるが、ペリー来航から3世代ほど経った92年後の1945年、軍拡と攘夷戦争にあけくれ自己肥大化した日本はついにそのアメリカに無謀な戦争をしかけて惨憺たる敗戦を迎えることとなる。
厚木飛行場に降り立った連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは日本を武装解除して占領下におき、二度と戦争をしない民主国家にすべく財閥解体や平和憲法制定などを断行、敗戦の6年後に日本はサンフランシスコ平和条約でやっと名目上の独立国となる。しかし実質は沖縄・奄美群島と小笠原諸島を差し出す日米安保条約を同時に締結して属国となったに過ぎず、政府首脳の「アメリカ様」におもねる習性と奴隷根性はこのときから宿痾(しゅくあ)のごとく身についたのである。
これをもっとも象徴する政治家が岸信介だ。A級戦犯でありながらアメリカ様の「お役に立つ」ことを条件に罪を免れ政界復帰した岸は1957年、保守2政党の合同で55年に結党された自由民主党の第3代総裁そして第56第総理大臣となる。アメリカ一辺倒を否定する徹底した平和主義者の前総理石橋湛山が病で倒れて就任わずか65日で辞任し、アメリカ様の”一の子分”岸信介が権力を握ったこのとき、その後の日本の姿がほぼ決まったといっていい。
ひとつのエピソードを紹介しよう。
太平洋戦争で日本の本土爆撃の任務を負った米軍司令官カーティス・ルメイは、いかに効率的に木造の家を焼き尽くして日本人を大量殺戮するかに執念を燃やし、ユタ砂漠で日本家屋群を再現した施設をつくり実験を繰り返して油脂に水素を添加した焼夷弾(ナパーム弾)を開発する。そして1945年3月の東京大空襲で一晩に8万人を焼き殺したのを皮切りに全国の都市を無差別爆撃し、締めに2発の原爆を投下して日本を文字どおり焦土化する。
その張本人のルメイが1964年に来日したとき、こともあろうに岸の実弟で自民党総裁の佐藤栄作を総理大臣にいただく日本政府はかれに勲一等旭日大綬章を贈ったのだ。日本の航空自衛隊の育成に貢献したことがその理由とされるが、ウクライナ人をもっとも多く殺したロシアの司令官にウクライナ政府が勲章を贈るようなもので、ヘドが出るような奴隷根性である。冷血と残忍さで知られるルメイはのちにベトナム戦争で、「お前らを石器時代に戻してやる!」とナパーム弾の雨を降らしたことでも知られる。
さて現在の日本はどうか。
来日する外国の元首はすべて羽田空港から入国するが、ひとりアメリカ大統領だけは横田基地に大統領専用機で勝手に降り立ち、そこから車で堂々と日本の道路を日本の警察に守らせて走り皇居や首相官邸などにやってくる。その姿はマッカーサーによる占領時代となんら変わらないが、これに日本政府も政治家もだれも文句を言わない。ついでながら、日本は在日米軍駐留経費として、アメリカ様に直接差し出す“思いやり予算”を含め年間8000億円超という巨額の税金をつぎ込んでいる。
さらには“核の傘”という幻想にすがり、核兵器廃絶の先頭に立つべき唯一の被爆国でありながら、その原爆を落とした当事者の宗主国アメリカ様に気をつかい、一昨年に国連で正式に発効した核兵器禁止条約を批准しないばかりかオブザーバー参加すらもしないみっともなさ。最近、フランスの著名な歴史人口学者のエマニュエル・トッドが共同通信のインタビューで「日本の一番の問題は、米国を父親のように見て、従って、独立していないこと」と喝破していたが、外国からは日本は主権国家とは見られていない。
どんな悲惨な災害も戦争も3世代過ぎれば民族の記憶からは消えてしまうというのがわたしの持論だが、ほぼ3世代前の1945年の敗戦でやっと平和が来たと喜んだ宮武外骨も、戦争を知らない戦後世代の自民党リーダー安倍晋三(岸の孫)、菅義偉、岸田文雄とつづくあからさまな対米従属政権がついには集団的自衛権行使と敵基地攻撃能力により世界に冠たる平和憲法―アメリカ様からいただいたものだが―を実質的に放棄し、軍事予算倍増(による武器購入)というアメリカ様への貢ぎ物を決めたと知ったらどんな顔をするだろうか。
ペリー来航を事前に報らされながら漫然と座視した江戸幕府、アメリカの軍事力の強大さを知りながら無謀な太平洋戦争に突入した帝国日本。根拠のない希望的観測と責任逃れしか頭にないわが国権力者のこれは本性であり、現在もそれはまったく変わりない。かつての勢いを失ったアメリカは核大国のロシアや中国と直接に干戈(かんか)を交えることは絶対になく、もし中台間に紛争が発生すれば近接する日本はアメリカ様から“核の傘”の見返りに都合よく手先となるよう仕向けられるだろう。最前線の自衛隊員諸君だけでなく、軍事基地が集中する沖縄などは間違いなくターゲットとなり近隣住民の多くが犠牲になる。こちらが父親と思ってすがっても、宗主国のアメリカ様は日本をたんなる属国としか見ていないのだからこれは当然の帰結だ。
食糧自給率37%、エネルギー自給率12%というひ弱な国が、なにを血迷ったか平和憲法をかなぐり捨て世界第3位の軍事大国になるという。有権者であるわたしたち国民も、そろそろ目を醒(さ)まして投票行動で「ノー」を表明すべき時ではないのか。そのうちチコちゃんに「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と叱られるぜよ。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
2022年12月26日
史実は警告する
記録文学や歴史小説の分野におおきな足跡を残した作家吉村昭(1927〜2006)が著した一冊に『関東大震災』(文芸春秋、1973年刊)がある。大正12年に関東南部で発生した大地震とそれに伴う災害の実相を克明に調べて完成させたドキュメントだが、わたしはかつて、次々と描出される凄惨な光景や極限状態の人間の狂気、そして行間から腐臭さえ漂ってきそうな生々しさに気分すら悪くなって途中で読むのをやめてしまった経験がある。
一度に10万人超が死亡するという日本史上最悪の被害をもたらした関東大震災から2023年でちょうど百年を迎える。それを知った時、わたしの中でこの百年をたんなる年表的な区切りで済ましていいものかという問題意識が湧き、最近になって同書を再び書棚から取り出して今度は一気に読了した。そして改めて、この恐ろしい内容こそがまさにいまのわれわれが知っておくべき歴史的事実だと確信するに至った。
1923年(大正12年)の残暑厳しい9月1日の午前11時58分32秒、関東南部を突然の激しい揺れが襲った。震源は神奈川県西部から相模湾北部、深さ約25キロ、マグニチュード7.9と推定されている。フィリピン海プレートが相模湾の相模トラフに滑り込むことで起こる海溝型地震だが、内陸部が震源に含まれたため直下型地震の性質も併せ持っていた。震源域は神奈川県西部から房総半島南部にまで及び、大都市横浜を含む神奈川県一帯が最大震度7の激震に見舞われた。
全死者数は10万5385人(『関東大震災』では20万人余となっているが、のちの研究で修正された)、東京市(現在の東京23区)で6万8660人、横浜市で2万6623人が亡くなった。この震災の特徴はなんといっても同時多発的に発生した火災とその規模の巨きさで、東京市のなんと43.5%が焼き払われ48万戸のうち30万1千戸が焼失、横浜市でも10万戸のうち6万2千戸が焼失した。焼死が死者全体の9割を占め、次いで川や池での溺死(水を求めて殺到した)、建物の下敷きになった圧死の順となっている。
わけても悲惨をきわめたのが、東京市本所区横網町(現墨田区)にあった2万坪強という広大な陸軍被服廠跡(軍服製造工場の跡地)での大惨事だ。建物のないだだっ広い空き地は避難場所に最適と思われ人びとが押し寄せた。その数およそ4万人。ほとんど立錐の余地のない混雑ぶりだったが、最初はみな呑気に昼飯を食べたり遠くの火災を眺めたり、なかには囲碁に興じる者もいた。しかしいつの間にか周囲は火の海となり、午後4時ごろ物凄い火炎とともにゴーという轟音と旋風が起こりはじめ、ついに避難者の運び込んだ大八車の荷物や衣類に飛火して劫火となって襲いかかった。
ここからの阿鼻叫喚の図が生き残った者の証言をもとに淡々とした筆致で委曲を尽くして描かれる。その惨状はわれわれの想像をはるかに超えるが、なにより火災が引き起こす旋風の凄まじさだ。ある女性は、目の前で老婆を背負ったまま男が空中に飛び上がり、荷を積んだ馬車が馬もろとも回転しながら舞い上がるのを目撃しているし、焼けトタンが物凄い勢いで飛んできて、乾いたような音がした瞬間、隣にいた友人の頭部が失われていたとの証言もある。旋風で吹き上げられ、隣接する安田邸(安田財閥創始者の安田善次郎邸)の高さ2メートルもある塀を超え庭園に落下して助かった者もいたが、被災後調査にあたった寺田寅彦は、広遠な安田邸庭園の樹木が凄まじい火炎と旋風でほとんど根こそぎにされ、残った木には焼けトタンが手拭いでも絞ってたたきつけたようにからみつき、自転車もひっかかっていたと報告している。被服廠跡で死体の下にもぐりこむなどして辛うじて生き残った者はわずか2千人、全体の95%に当たる3万8千人が数時間のうちに焼死したのである。
東京市での悲劇は、避難者の持ち出した荷物や家財によると著者の吉村は断定する。道路という道路は荷物を積んだ大八車と避難民で埋まり、それらに飛火して次の住宅街へと延焼しただけでなく逃げ惑う人びとと燃えさかる瓦礫が消防、警察、軍隊の消火・救援作業を不能にしたからだ。江戸時代、火事の恐ろしさを熟知していた幕府は消火の妨げになるため火災時の荷物搬出を禁止し、破った者には罰を与えるとするお触れを出していた。しかしこの歴史的教訓は生かされず、消火能力も格段に高いはずの大正末期に未曽有の惨劇を招いてしまったのだ。
寺田博士は昭和8年、「津浪と人間」と題するエッセーにこう記している。
<「自然」は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にもまったく同じように行われるのである。科学の方則とは畢竟「自然の記憶の覚え書き」である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである。
それだからこそ、二十世紀の文明という空虚な名をたのんで、安政の昔の経験を馬鹿にした東京は大正十二年の地震で焼き払われたのである。>
また吉村は阪神・淡路大震災後の講演で、大地震の際は可燃性のリュックなどを持たず手ぶらで逃げること、ガソリンが入った自動車は発火源になるから絶対に自動車で道に出てはいけない、道路は道路として確保しなければいけないと口をきわめて警告している。
人智の及ばぬ大震災はまた、人間を狂気に奔らせる。当時まだラジオはなく、電話も電話局や電話線が焼失して使用不能となり、頼みの新聞もすべての新聞社が火災などで機能不全となって情報は完全に途絶した。その極度の不安の中で起こったのが、流言の洪水だった。それは富士山が噴火したなどさまざまだったが、朝鮮人の暴徒が襲ってくるという流言はとりわけ人びとを恐怖に陥れた。当時の朝鮮は日本の植民地で、搾取され貧困に喘ぐ人びとが海を渡り日本の土木現場などで下働きをしていた。そのため日本人の中にある種の後ろ暗さがあり、それが根も葉もない流言を生み出したと吉村は結論している。
朝鮮人が井戸に毒を入れている、集団で日本人を襲っている、放火しているといった流言が横浜市から東京方面に瞬く間に拡がり、「朝鮮人約3千人がすでに多摩川を渡って洗足や中延付近に来襲して住民と闘争している」などとおそろしく具体的な流言となって2日後には避難民の口を介して関東全域に拡がった。地震の5日目から一部の新聞が流通しはじめたが、流言をもとに書かれた記事が火に油を注いだ。そして恐怖に怯える住民らによって各地に自警団が組織され、その数は東京府、東京市だけで1145にも上った。かれらは朝鮮人を見つけては日本刀、匕首、金棒、竹槍、猟銃などの凶器を手に襲いかかり、朝鮮人を保護していた警察署すら襲撃する有様で、実に6千人余の罪もない朝鮮人が虐殺されたとの記録もある(正確な数は未だ不明)。
この忌まわしい凶事がわずか百年前の出来事であることに誰しも戦慄するだろう。ただの流言蜚語によって普通の日本人がかくも残虐な暴徒と化した事実はあまりに重い。
ところで、この関東大震災をかなり正確に的中させた地震学者がいた。東京帝国大学地震学教室の助教授だった今村明恒である。今村は震災の18年前、明治38年に雑誌「太陽」に発表した論文で「過去の江戸に起った大地震は平均百年に一回の割合で発生しており、最後の安政の大地震からすでに五十年が過ぎていることを考えると、今後五十年以内に大地震に襲われることは必至と覚悟すべき」とし、大火災によって死者は10万から20万人に達すると予測した。
ところが今村の上司で地震学教室主任教授であった世界的権威の大森房吉は、東京が大地震に見舞われるのは数百年に一度で今村の説はまったく何の根拠もない浮説だと批判し、「現在の東京は道路もひろく消防器機も改良されているから、江戸時代の大地震のような大災害を受けることはない」と一蹴した。しかし結果的に今村説が的中し、大森は世間から厳しい非難を浴びることになる。
現在では海溝型地震は80年〜150年の周期で繰り返されることが判っており、南海トラフだと大雑把ながら今後30年以内の発生確率70〜80%と公表されている。だが歴史的に首都圏は海溝型と内陸直下型の大地震が頻発してきた日本屈指の地震地帯で、直下型は発生時期・規模ともまったく予測不能である。おまけに人口は大正時代とは桁違いで日本の中枢機能が極度に集中する。地震の強さ・規模によっては想像を絶する事態が招来することになろう。
この百年で地震発生後の震源の特定やメカニズム解析などは長足の進歩を遂げたが、これから起こる地震については相変わらず過去の統計が頼りで今村の時代と大差はない。私事だが、首都圏にはわたしの家族や親戚もいるし友人知人も多い。実に気がかりである。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
一度に10万人超が死亡するという日本史上最悪の被害をもたらした関東大震災から2023年でちょうど百年を迎える。それを知った時、わたしの中でこの百年をたんなる年表的な区切りで済ましていいものかという問題意識が湧き、最近になって同書を再び書棚から取り出して今度は一気に読了した。そして改めて、この恐ろしい内容こそがまさにいまのわれわれが知っておくべき歴史的事実だと確信するに至った。
1923年(大正12年)の残暑厳しい9月1日の午前11時58分32秒、関東南部を突然の激しい揺れが襲った。震源は神奈川県西部から相模湾北部、深さ約25キロ、マグニチュード7.9と推定されている。フィリピン海プレートが相模湾の相模トラフに滑り込むことで起こる海溝型地震だが、内陸部が震源に含まれたため直下型地震の性質も併せ持っていた。震源域は神奈川県西部から房総半島南部にまで及び、大都市横浜を含む神奈川県一帯が最大震度7の激震に見舞われた。
全死者数は10万5385人(『関東大震災』では20万人余となっているが、のちの研究で修正された)、東京市(現在の東京23区)で6万8660人、横浜市で2万6623人が亡くなった。この震災の特徴はなんといっても同時多発的に発生した火災とその規模の巨きさで、東京市のなんと43.5%が焼き払われ48万戸のうち30万1千戸が焼失、横浜市でも10万戸のうち6万2千戸が焼失した。焼死が死者全体の9割を占め、次いで川や池での溺死(水を求めて殺到した)、建物の下敷きになった圧死の順となっている。
わけても悲惨をきわめたのが、東京市本所区横網町(現墨田区)にあった2万坪強という広大な陸軍被服廠跡(軍服製造工場の跡地)での大惨事だ。建物のないだだっ広い空き地は避難場所に最適と思われ人びとが押し寄せた。その数およそ4万人。ほとんど立錐の余地のない混雑ぶりだったが、最初はみな呑気に昼飯を食べたり遠くの火災を眺めたり、なかには囲碁に興じる者もいた。しかしいつの間にか周囲は火の海となり、午後4時ごろ物凄い火炎とともにゴーという轟音と旋風が起こりはじめ、ついに避難者の運び込んだ大八車の荷物や衣類に飛火して劫火となって襲いかかった。
ここからの阿鼻叫喚の図が生き残った者の証言をもとに淡々とした筆致で委曲を尽くして描かれる。その惨状はわれわれの想像をはるかに超えるが、なにより火災が引き起こす旋風の凄まじさだ。ある女性は、目の前で老婆を背負ったまま男が空中に飛び上がり、荷を積んだ馬車が馬もろとも回転しながら舞い上がるのを目撃しているし、焼けトタンが物凄い勢いで飛んできて、乾いたような音がした瞬間、隣にいた友人の頭部が失われていたとの証言もある。旋風で吹き上げられ、隣接する安田邸(安田財閥創始者の安田善次郎邸)の高さ2メートルもある塀を超え庭園に落下して助かった者もいたが、被災後調査にあたった寺田寅彦は、広遠な安田邸庭園の樹木が凄まじい火炎と旋風でほとんど根こそぎにされ、残った木には焼けトタンが手拭いでも絞ってたたきつけたようにからみつき、自転車もひっかかっていたと報告している。被服廠跡で死体の下にもぐりこむなどして辛うじて生き残った者はわずか2千人、全体の95%に当たる3万8千人が数時間のうちに焼死したのである。
東京市での悲劇は、避難者の持ち出した荷物や家財によると著者の吉村は断定する。道路という道路は荷物を積んだ大八車と避難民で埋まり、それらに飛火して次の住宅街へと延焼しただけでなく逃げ惑う人びとと燃えさかる瓦礫が消防、警察、軍隊の消火・救援作業を不能にしたからだ。江戸時代、火事の恐ろしさを熟知していた幕府は消火の妨げになるため火災時の荷物搬出を禁止し、破った者には罰を与えるとするお触れを出していた。しかしこの歴史的教訓は生かされず、消火能力も格段に高いはずの大正末期に未曽有の惨劇を招いてしまったのだ。
寺田博士は昭和8年、「津浪と人間」と題するエッセーにこう記している。
<「自然」は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にもまったく同じように行われるのである。科学の方則とは畢竟「自然の記憶の覚え書き」である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである。
それだからこそ、二十世紀の文明という空虚な名をたのんで、安政の昔の経験を馬鹿にした東京は大正十二年の地震で焼き払われたのである。>
また吉村は阪神・淡路大震災後の講演で、大地震の際は可燃性のリュックなどを持たず手ぶらで逃げること、ガソリンが入った自動車は発火源になるから絶対に自動車で道に出てはいけない、道路は道路として確保しなければいけないと口をきわめて警告している。
人智の及ばぬ大震災はまた、人間を狂気に奔らせる。当時まだラジオはなく、電話も電話局や電話線が焼失して使用不能となり、頼みの新聞もすべての新聞社が火災などで機能不全となって情報は完全に途絶した。その極度の不安の中で起こったのが、流言の洪水だった。それは富士山が噴火したなどさまざまだったが、朝鮮人の暴徒が襲ってくるという流言はとりわけ人びとを恐怖に陥れた。当時の朝鮮は日本の植民地で、搾取され貧困に喘ぐ人びとが海を渡り日本の土木現場などで下働きをしていた。そのため日本人の中にある種の後ろ暗さがあり、それが根も葉もない流言を生み出したと吉村は結論している。
朝鮮人が井戸に毒を入れている、集団で日本人を襲っている、放火しているといった流言が横浜市から東京方面に瞬く間に拡がり、「朝鮮人約3千人がすでに多摩川を渡って洗足や中延付近に来襲して住民と闘争している」などとおそろしく具体的な流言となって2日後には避難民の口を介して関東全域に拡がった。地震の5日目から一部の新聞が流通しはじめたが、流言をもとに書かれた記事が火に油を注いだ。そして恐怖に怯える住民らによって各地に自警団が組織され、その数は東京府、東京市だけで1145にも上った。かれらは朝鮮人を見つけては日本刀、匕首、金棒、竹槍、猟銃などの凶器を手に襲いかかり、朝鮮人を保護していた警察署すら襲撃する有様で、実に6千人余の罪もない朝鮮人が虐殺されたとの記録もある(正確な数は未だ不明)。
この忌まわしい凶事がわずか百年前の出来事であることに誰しも戦慄するだろう。ただの流言蜚語によって普通の日本人がかくも残虐な暴徒と化した事実はあまりに重い。
ところで、この関東大震災をかなり正確に的中させた地震学者がいた。東京帝国大学地震学教室の助教授だった今村明恒である。今村は震災の18年前、明治38年に雑誌「太陽」に発表した論文で「過去の江戸に起った大地震は平均百年に一回の割合で発生しており、最後の安政の大地震からすでに五十年が過ぎていることを考えると、今後五十年以内に大地震に襲われることは必至と覚悟すべき」とし、大火災によって死者は10万から20万人に達すると予測した。
ところが今村の上司で地震学教室主任教授であった世界的権威の大森房吉は、東京が大地震に見舞われるのは数百年に一度で今村の説はまったく何の根拠もない浮説だと批判し、「現在の東京は道路もひろく消防器機も改良されているから、江戸時代の大地震のような大災害を受けることはない」と一蹴した。しかし結果的に今村説が的中し、大森は世間から厳しい非難を浴びることになる。
現在では海溝型地震は80年〜150年の周期で繰り返されることが判っており、南海トラフだと大雑把ながら今後30年以内の発生確率70〜80%と公表されている。だが歴史的に首都圏は海溝型と内陸直下型の大地震が頻発してきた日本屈指の地震地帯で、直下型は発生時期・規模ともまったく予測不能である。おまけに人口は大正時代とは桁違いで日本の中枢機能が極度に集中する。地震の強さ・規模によっては想像を絶する事態が招来することになろう。
この百年で地震発生後の震源の特定やメカニズム解析などは長足の進歩を遂げたが、これから起こる地震については相変わらず過去の統計が頼りで今村の時代と大差はない。私事だが、首都圏にはわたしの家族や親戚もいるし友人知人も多い。実に気がかりである。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
2022年09月25日
さらば反知性主義
久しぶりに痛快な本に出会った。気鋭の政治学者・白井聡(1977年生まれ、京都精華大准教授)の渾身の一冊、『長期腐敗体制』(角川新書)である。
同書は朝日カルチャーセンターでの連続講座「戦後史のなかの安倍・菅政権」(2021年3月〜6月)の講義録を全面的に改稿・加筆したもので、小難しい論文とちがって読みやすいこと甚だしく、帯にはデカデカと「なぜ、いつも頭(トップ)から腐るのか!?」の文字も踊る。装丁に一種キワモノっぽさがあるものの、著者は30代半ばで「石橋湛山賞」「角川財団学芸賞」を受賞するなど早くから頭角を現した本格派の思想史家・政治学者である。
『長期腐敗体制』は2012年に発足した第2次安倍政権から菅、岸田政権へと連綿としてつづくこの10年間を不正・無能・腐敗という悪徳の3拍子が揃った戦後最悪の「2012年体制」(命名は政治学者・中野晃一)と位置づけ、その実相を見事な筆さばきで腑分けしてみせる。もちろんこの体制の基礎構造はすべて安倍晋三政権時のいわゆる「安倍一強体制」によって堅固に構築され、菅・岸田はそれを引き継いだにすぎない。
「モリ・カケ・桜」など重大な醜聞(スキャンダル)の数々で露呈した行政府の劣化と不正・腐敗の本質、経済政策「アベノミクス」の失敗とその原因、外交・安全保障政策の矛盾と問題点などを俎上にあげ、日本社会がいまや抜き差しならぬ事態に陥った最大の原因が「2012年体制」にあり、野党の体たらく以上にこの体制を「だらしなく肯定」してしまった市民の無知と無気力にその淵源をもとめるのも納得的だ。
ところで同書は安倍元首相が凶弾に斃(たお)れるちょうど1か月前の6月10日に発行されたもので、筆者は次のような「あとがき」を書いて筆を擱(お)いているが、そこにドキリとする一言が出てくる。
<本書はこの10年近くの日本政治の低迷、というよりも転落を概括的に論じました。もちろん、その政治の中心には、自民党が鎮座しています。いま円安が止めどもなく進んでいますが、日銀に打つ手はありません。いよいよアベノミクスというマヤカシのツケを払わせられるときがきたのです。
言うまでもなく、問題は経済だけではありません。この10年のうちの7年以上にわたって継続した安倍晋三政権は、内政も外政もただひたすら出鱈目(でたらめ)をやっただけでした。結果、日本の統治は崩壊しました。その罪は万死に値します。…>
そしてまさかの凶事、筆者は背筋が凍る思いだったろう。が、それはさておき紙幅に限りある新書版のためか同書にもすこし物足らぬところがある。この「2012年体制」が露骨な「反知性主義」を内包し、これが日本社会を衰退せしめる大きな要因になっている点に踏み込んでいないことだ。ここでいう反知性主義とは、権力者などが社会から学問や知性を排除するよう志向することで、普通に考えればとんでもないことだが、古今東西を問わず世の為政者はしばしばこの手を使ってきた。社会から知性を奪い批判眼を摘み取れば国を意のままに統治できるからだが、現代においても残念ながらこれは日常の光景となっている。
たとえば教育学者の佐藤学(東大名誉教授)は、学問を攻撃するクーデタは世界のトレンドになりつつあるとして、ウクライナ戦争で耳目を集めるトルコのエルドアン大統領は2016年のクーデタ鎮圧を逆手に取って新たなクーデタを企て、1年間で15大学を閉鎖、5300人の大学教員と1200人の事務職員を解雇、899人の大学関係者を逮捕して現在の独裁政権を打ち立てた。ロシアのプーチン大統領は2013年以降、ロシア科学アカデミーに権力介入してメディアと学者を粛清して独裁者となった。ハンガリーのオルバン首相も欧州の「学問の自由」の拠点、中央欧州大学(CEU)を存続の危機に追い込み独裁者となった、と述べている(『学問の自由が危ない』晶文社)。反知性主義は、学問と言論(メディア)の封殺からその姿を現しはじめる。
では「2012年体制」の反知性主義とはいかなるものか。
前代未聞の出来事が2020年10月、菅義偉政権のときに起こる。「日本学術会議」が新会員に推薦した学者のうち人文・社会科学系の6名を、首相が明確な理由なしに任命拒否した事件である(現岸田政権も任命拒否のまま放置)。この専制的な政権はNHKなどのメディアだけでなく学問分野にまで手を伸ばしはじめたかと世間を震撼させ、「学問の自由」の侵害として1000を超える学協会が一斉に抗議声明を出し、内閣支持率も急落した。
ここで注意すべきは、すでに安倍政権の2016年ごろから「事前調整」と称して官邸官僚が任命人事に干渉しはじめていたという事実だ。きっかけは2015年、集団的自衛権行使を容認する安保関連法案の審議中に参考意見を求められたすべての憲法学者がこれを「違憲」としたことにはじまる。安倍官邸はこのころから人文・社会科学系の学者を目の敵にするようになり、1949年に科学者の戦争加担への反省から生まれた日本学術会議が2017年に改めて「軍事目的のための科学研究を行わない」との声明を出し、民生技術の軍事利用に前のめりな政権に冷水を浴びせたことが決定的となった。
公金で運営する組織には政策に異を唱える資格はないと考える安倍政権の官房長官だった菅は、首相になるや「誰がボスかおしえてやる」とばかりに意に添わぬ発言や論文を発表してきた6人を任命拒否し、 “獅子身中の虫”である日本学術会議を無力化していずれは政府機関から放逐することを目論んだのである。
前出の佐藤は「身震いするほどの驚愕の事件である。政権トップがアカデミー会員の任命を拒否することは、ファシズム国家か全体主義国家の独裁者しか起こさないことである。日本の政治はそこまでおちぶれてしまったのか」(前掲書)と危機感を募らせ、さらに憲法第23条に保障される「学問の自由」の本質は政治権力からの学問の自由と独立性にあり、このいわば「学問の独立」に掣肘(せいちゅう)が加えられたのだと断ずる。菅の一挙は日本学術会議法違反であるばかりか明らかな憲法違反であり、図らずも「2012年体制」の反知性主義を曝け出す象徴的な事件となったのだ。
ところで、「学問の独立」という言葉で思い出す人物がいる。明治期の前半に活躍した土佐・宿毛出身の政治思想家・小野梓(1852〜1886)である。
大隈重信が早稲田大学建学の”父”、小野は同じく“母”と称され、学内にある「小野梓記念館」や優れた学術・芸術業績に与えられる「小野梓記念賞」などの存在でその名が知られる。特筆すべきは、小野が”知”と”立憲”を日本に根付かせようと奮闘した日本近代の建設者のひとりであり、大隈重信の腹心として薩長藩閥政権打倒とイギリス型政党内閣制樹立(小野は3年間の英米留学で法律を学んだ)を掲げ、立憲改進党結党や東京専門学校(のちの早稲田大学)の開校・運営に尽力、33年10ヵ月という短い生涯を駆け抜けた俊秀であったことだ。
小野にとって分水嶺となったのが「明治14年の政変」である。伊藤博文ら薩長勢力は大隈重信、福沢諭吉、岩崎弥太郎の3者連合が政権転覆を企てているという陰謀説をフレームアップし、筆頭参議の大隈以下慶應・三菱系の官僚らすべてを政府から追放する。このとき会計検査院一等書記官だった小野も連袂(れんべい)して辞職する。政変の背後に明治憲法制定に係る対立や世情を騒然とさせていた「開拓使官有物払下げ事件」(開拓使長官の黒田清隆が北海道官有物を薩摩閥の政商五代友厚らにただ同然で払下げようとして発覚)、また全国で激しさを増す民権運動の騒擾(そうじょう)もあり政情不安を案じた天皇も了承せざるを得なかったのだ。
ちなみにこの政変、驚くなかれ現在にまで悪影響を及ぼしている。クーデタ成功で薩長藩閥政権は盤石化し、これにより最後発の帝国主義国家となった日本は日清・日露・日中戦争、とどめに太平洋戦争を起こして完全に破滅するが、あろうことか戦後も岸、佐藤、安倍と長閥政権はつづき、「2012年体制」として現代社会にまでその弊を瀰漫(びまん)させているのだ。
さて翌明治15年10月21日、早稲田にあった大隈の別荘の敷地内に新築された東京専門学校で開校式が開催された。この式典で小野は新入生80人を前に、日本ではじめて「学問の独立」という言葉をたかだかと掲げた。明治35年に早稲田大学と改称されてからも大隈は早世した小野の意志を継ぎ、学問の政治権力からの独立をことあるごとに唱え、現在でも「学問の独立」は早稲田を象徴する言葉となっている。
実は『長期腐敗体制』の著者白井聡は早稲田大学政経学部出身、実父の白井克彦は第15代早稲田大学総長である。稲門の白井聡こそは、「学問の独立」を脅かし社会を衆愚化させるおぞましい反知性主義を排斥する一大勢力になってくれることだろう。(敬称略)
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
同書は朝日カルチャーセンターでの連続講座「戦後史のなかの安倍・菅政権」(2021年3月〜6月)の講義録を全面的に改稿・加筆したもので、小難しい論文とちがって読みやすいこと甚だしく、帯にはデカデカと「なぜ、いつも頭(トップ)から腐るのか!?」の文字も踊る。装丁に一種キワモノっぽさがあるものの、著者は30代半ばで「石橋湛山賞」「角川財団学芸賞」を受賞するなど早くから頭角を現した本格派の思想史家・政治学者である。
『長期腐敗体制』は2012年に発足した第2次安倍政権から菅、岸田政権へと連綿としてつづくこの10年間を不正・無能・腐敗という悪徳の3拍子が揃った戦後最悪の「2012年体制」(命名は政治学者・中野晃一)と位置づけ、その実相を見事な筆さばきで腑分けしてみせる。もちろんこの体制の基礎構造はすべて安倍晋三政権時のいわゆる「安倍一強体制」によって堅固に構築され、菅・岸田はそれを引き継いだにすぎない。
「モリ・カケ・桜」など重大な醜聞(スキャンダル)の数々で露呈した行政府の劣化と不正・腐敗の本質、経済政策「アベノミクス」の失敗とその原因、外交・安全保障政策の矛盾と問題点などを俎上にあげ、日本社会がいまや抜き差しならぬ事態に陥った最大の原因が「2012年体制」にあり、野党の体たらく以上にこの体制を「だらしなく肯定」してしまった市民の無知と無気力にその淵源をもとめるのも納得的だ。
ところで同書は安倍元首相が凶弾に斃(たお)れるちょうど1か月前の6月10日に発行されたもので、筆者は次のような「あとがき」を書いて筆を擱(お)いているが、そこにドキリとする一言が出てくる。
<本書はこの10年近くの日本政治の低迷、というよりも転落を概括的に論じました。もちろん、その政治の中心には、自民党が鎮座しています。いま円安が止めどもなく進んでいますが、日銀に打つ手はありません。いよいよアベノミクスというマヤカシのツケを払わせられるときがきたのです。
言うまでもなく、問題は経済だけではありません。この10年のうちの7年以上にわたって継続した安倍晋三政権は、内政も外政もただひたすら出鱈目(でたらめ)をやっただけでした。結果、日本の統治は崩壊しました。その罪は万死に値します。…>
そしてまさかの凶事、筆者は背筋が凍る思いだったろう。が、それはさておき紙幅に限りある新書版のためか同書にもすこし物足らぬところがある。この「2012年体制」が露骨な「反知性主義」を内包し、これが日本社会を衰退せしめる大きな要因になっている点に踏み込んでいないことだ。ここでいう反知性主義とは、権力者などが社会から学問や知性を排除するよう志向することで、普通に考えればとんでもないことだが、古今東西を問わず世の為政者はしばしばこの手を使ってきた。社会から知性を奪い批判眼を摘み取れば国を意のままに統治できるからだが、現代においても残念ながらこれは日常の光景となっている。
たとえば教育学者の佐藤学(東大名誉教授)は、学問を攻撃するクーデタは世界のトレンドになりつつあるとして、ウクライナ戦争で耳目を集めるトルコのエルドアン大統領は2016年のクーデタ鎮圧を逆手に取って新たなクーデタを企て、1年間で15大学を閉鎖、5300人の大学教員と1200人の事務職員を解雇、899人の大学関係者を逮捕して現在の独裁政権を打ち立てた。ロシアのプーチン大統領は2013年以降、ロシア科学アカデミーに権力介入してメディアと学者を粛清して独裁者となった。ハンガリーのオルバン首相も欧州の「学問の自由」の拠点、中央欧州大学(CEU)を存続の危機に追い込み独裁者となった、と述べている(『学問の自由が危ない』晶文社)。反知性主義は、学問と言論(メディア)の封殺からその姿を現しはじめる。
では「2012年体制」の反知性主義とはいかなるものか。
前代未聞の出来事が2020年10月、菅義偉政権のときに起こる。「日本学術会議」が新会員に推薦した学者のうち人文・社会科学系の6名を、首相が明確な理由なしに任命拒否した事件である(現岸田政権も任命拒否のまま放置)。この専制的な政権はNHKなどのメディアだけでなく学問分野にまで手を伸ばしはじめたかと世間を震撼させ、「学問の自由」の侵害として1000を超える学協会が一斉に抗議声明を出し、内閣支持率も急落した。
ここで注意すべきは、すでに安倍政権の2016年ごろから「事前調整」と称して官邸官僚が任命人事に干渉しはじめていたという事実だ。きっかけは2015年、集団的自衛権行使を容認する安保関連法案の審議中に参考意見を求められたすべての憲法学者がこれを「違憲」としたことにはじまる。安倍官邸はこのころから人文・社会科学系の学者を目の敵にするようになり、1949年に科学者の戦争加担への反省から生まれた日本学術会議が2017年に改めて「軍事目的のための科学研究を行わない」との声明を出し、民生技術の軍事利用に前のめりな政権に冷水を浴びせたことが決定的となった。
公金で運営する組織には政策に異を唱える資格はないと考える安倍政権の官房長官だった菅は、首相になるや「誰がボスかおしえてやる」とばかりに意に添わぬ発言や論文を発表してきた6人を任命拒否し、 “獅子身中の虫”である日本学術会議を無力化していずれは政府機関から放逐することを目論んだのである。
前出の佐藤は「身震いするほどの驚愕の事件である。政権トップがアカデミー会員の任命を拒否することは、ファシズム国家か全体主義国家の独裁者しか起こさないことである。日本の政治はそこまでおちぶれてしまったのか」(前掲書)と危機感を募らせ、さらに憲法第23条に保障される「学問の自由」の本質は政治権力からの学問の自由と独立性にあり、このいわば「学問の独立」に掣肘(せいちゅう)が加えられたのだと断ずる。菅の一挙は日本学術会議法違反であるばかりか明らかな憲法違反であり、図らずも「2012年体制」の反知性主義を曝け出す象徴的な事件となったのだ。
ところで、「学問の独立」という言葉で思い出す人物がいる。明治期の前半に活躍した土佐・宿毛出身の政治思想家・小野梓(1852〜1886)である。
大隈重信が早稲田大学建学の”父”、小野は同じく“母”と称され、学内にある「小野梓記念館」や優れた学術・芸術業績に与えられる「小野梓記念賞」などの存在でその名が知られる。特筆すべきは、小野が”知”と”立憲”を日本に根付かせようと奮闘した日本近代の建設者のひとりであり、大隈重信の腹心として薩長藩閥政権打倒とイギリス型政党内閣制樹立(小野は3年間の英米留学で法律を学んだ)を掲げ、立憲改進党結党や東京専門学校(のちの早稲田大学)の開校・運営に尽力、33年10ヵ月という短い生涯を駆け抜けた俊秀であったことだ。
小野にとって分水嶺となったのが「明治14年の政変」である。伊藤博文ら薩長勢力は大隈重信、福沢諭吉、岩崎弥太郎の3者連合が政権転覆を企てているという陰謀説をフレームアップし、筆頭参議の大隈以下慶應・三菱系の官僚らすべてを政府から追放する。このとき会計検査院一等書記官だった小野も連袂(れんべい)して辞職する。政変の背後に明治憲法制定に係る対立や世情を騒然とさせていた「開拓使官有物払下げ事件」(開拓使長官の黒田清隆が北海道官有物を薩摩閥の政商五代友厚らにただ同然で払下げようとして発覚)、また全国で激しさを増す民権運動の騒擾(そうじょう)もあり政情不安を案じた天皇も了承せざるを得なかったのだ。
ちなみにこの政変、驚くなかれ現在にまで悪影響を及ぼしている。クーデタ成功で薩長藩閥政権は盤石化し、これにより最後発の帝国主義国家となった日本は日清・日露・日中戦争、とどめに太平洋戦争を起こして完全に破滅するが、あろうことか戦後も岸、佐藤、安倍と長閥政権はつづき、「2012年体制」として現代社会にまでその弊を瀰漫(びまん)させているのだ。
さて翌明治15年10月21日、早稲田にあった大隈の別荘の敷地内に新築された東京専門学校で開校式が開催された。この式典で小野は新入生80人を前に、日本ではじめて「学問の独立」という言葉をたかだかと掲げた。明治35年に早稲田大学と改称されてからも大隈は早世した小野の意志を継ぎ、学問の政治権力からの独立をことあるごとに唱え、現在でも「学問の独立」は早稲田を象徴する言葉となっている。
実は『長期腐敗体制』の著者白井聡は早稲田大学政経学部出身、実父の白井克彦は第15代早稲田大学総長である。稲門の白井聡こそは、「学問の独立」を脅かし社会を衆愚化させるおぞましい反知性主義を排斥する一大勢力になってくれることだろう。(敬称略)
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
2022年06月25日
不屈と憎悪
毎日のようにメディアに流れるウクライナ戦争の惨状を見るにつけ、やるかたない悲憤と鬱々たる気分に苛まれる。
地球上に4千以上の民族が存在し、196の国々がすべからく国境と固有の国土を有しているかぎり戦争や紛争の種は尽きないのかもしれないが、高度に情報化され殺傷能力のきわめて高い兵器で武装した国々が大勢を占める現代社会では容易に一線を越えぬよういくつかの国際協定や条約が存在し、とりわけ核兵器・生物化学兵器の使用や民間人攻撃の禁止などは過去の悲惨な戦争の反省から生まれた必須の人道的ルールとなっている。
しかしそれらはけっきょくただの紳士協定にすぎなかったことをウクライナ戦争が曝け出した。目を背けたくなる非道なジェノサイド(大量虐殺)や原発への攻撃を平然と行い、核兵器使用をもちらつかせるロシアを前に国連の無力ぶりをイヤというほど見せつけられているわたしたちは、まったく終わりの見えない不安と苛立ちの中にいる。
ただ怪我の功名といえば不謹慎かもしれないが、黒海に面したウクライナという東ヨーロッパに位置する農業大国の文化や美しい街並みや人びとの暮らしぶりをわれわれはあらためて知ることになった。そしてなによりロシア帝国からの度重なる侵略の歴史を持つゆえにこそやっと獲得した「自由」と「独立」をウクライナ人が手放すはずはなく、ロシアの大軍に対して一歩も退かぬかれらの尋常ならざる不屈が世界を瞠目させ感動すら与えていることは一条の光明と云ってもいいだろう―おおきな犠牲とひき換えのあまりに痛々しいものではあることは云うまでもないが―。
ところで、ウクライナ戦争勃発と同時に、北大西洋条約機構(NATO)の存在がにわかにクローズアップされてきた。ウクライナが非加盟国であるためNATO軍が直接的に軍事介入できないことを見透かしてロシアは侵攻し、その結果多くの民間人などの犠牲を出しながら膠着状態となっているわけだが、あらためてヨーロッパ地図を眺めてみると面白いことがわかる。
1949年に12か国で創設された軍事同盟NATOの加盟国はいまや30か国におよぶが、西側ヨーロッパにも非加盟国はわずかながら存在する。ロシアの侵攻を見て急きょ加盟申請したスウェーデンとフィンランドがこれまで非加盟だったのは隣接するロシアを刺激したくなかったからで、内陸の小国スイスとオーストリアは永世中立国であるほうがむしろ安全と考えて加入していない。ところが、まさに北大西洋上に浮かぶもっとも加盟国にふさわしい位置にある島国アイルランドが非加盟なのである。ヨーロッパの西の端にあり、対岸のアメリカ、カナダ、そしてイギリス、フランスなどの枢要なNATO諸国に囲まれていながら一国だけがポツンと非加盟なのはなぜか。
17世紀、クロムウェルに率いられた清教徒(ピューリタン)を名乗るイングランドのプロテスタント(新教徒)たちが海を隔てたカトリック国のアイルランドを侵略し大殺戮を行って支配した。このアイルランドの苦悩と屈辱の歴史、そして不屈のウクライナ人にどこか相通ずるアイルランド人気質の存在が背景にあり、憎きイギリスが加盟する軍事同盟なぞに入るわけがないというのがかれらの本音なのだ。アイルランドはケルト民族でカトリック、イングランドはアングロサクソン(ゲルマン民族)でプロテスタントと、もともと民族・言語も習俗も、そして宗派も違う。そのイングランドの侵略と支配が生んだ憎悪は、強烈な反英感情のかたちで現代においても牢固として生きているのである。
『街道をゆく』(司馬遼太郎著)の中でもとりわけ強い印象をうける「愛蘭土紀行」で司馬は「客観的には百敗の民である。が、主観的には不敗だとおもっている」と、アイルランド人の屈折した心と不屈の気質をあざやかに表現し、さらにこう述べている。
<アイルランド人は、組織感覚がなく(中世的である)、統治される性格ではなく(古代的である)、大きな組織のなかの部品で甘んじるというところがすくなく(近代的ではない)、さらには部品であることが崇高な義務だというところがうすい。それらは概してイギリス人が所有しているとされるものなのである。…ともかくも、アイリッシュ海という小さな海をへだててならんでいる二つの島ほど、人間群の光景として相異なるところもすくない。>
ところで最近、つまりロシアのウクライナ侵攻後だが、たまたま『ベルファスト』という映画を観た。今年のアカデミー賞主要6部門にノミネートされた秀作との評判にくわえ、このタイトルに惹かれて観に行ったのだ。
予備知識はほとんどなく、北アイルランドの首府ベルファストが舞台のいわゆる北アイルランド紛争を主題にしたすこし暗い社会派映画かもしれないと思って観に行ったのだが、その予断はさいわいにも裏切られた。たしかに紛争が勃発したころのベルファストを舞台にしてはいるが、主題は紛争そのものではなく、そこに暮らす或る一家のささやかな日常とかれらの住む街への愛情を込めて描かれた上質のヒューマンドラマであった。
ちなみに北アイルランドはアイルランド島北部の一角に飛び地のように存在するイギリス(英国)領である。イギリスは普通UKと表記されるが正式名称はthe United Kingdom of Great Britain & Northern Irelandで、グレイトブリテン(ブリテン島)のイングランド、ウェールズ、スコットランドの3か国、それに北アイルランドを含めた4つの非独立国で構成された連邦国家であり、アイリッシュ海を隔てた北アイルランドの存在、そしてイングランドの侵略に屈して18世紀に併呑されたスコットランドが2014年に独立を目指して国民投票を実施したことでもわかるように、日本に似た島国ながらイギリスは日本のような単純で均質な国家ではない。
アイルランドはイギリスとの血みどろの独立戦争の結果、1921年にイングランドからの植民者の子孫(プロテスタント)が過半を占める北部6州が北アイルランドとして英国領に残り、ほかの地域は英連邦内の自治領「アイルランド自由国」として実質的独立を獲得、1949年にやっと正式な独立国となった。しかしその後も北アイルランドではアイルランドへの帰属を求めるカトリック系と親英派のプロテスタント系が激しく争ってIRA(アイルランド共和軍)によるテロなどが頻発し、1998年の和平合意(ベルファスト合意)まで約3600人もの死者を出した。これがいわゆる「北アイルランド紛争」だ。
さて映画『ベルファスト』だが、監督・製作は著名な俳優でもあるケネス・ブラナー。ベルファスト出身のかれの思い出深い少年時代を描いた自伝的な作品で、1969年8月にプロテスタントの暴徒がカトリックの住民を攻撃しはじめた事件を発端に人びとが分断されてゆく姿とベルファストでの日常がバディという名の9歳の少年の目を通してモノクロで描かれる。監督が「私が愛した場所、愛した人たちの物語だ」と述べているように、突然の紛争に揺れる労働者一家の苦悩と質素で微笑ましい生活ぶりが、役者たちの名演技(バディと祖父母役が出色)とユーモアとノスタルジーあふれる映像・音楽で再現されている。
映画の結末は差し控えるが、ああやっぱりアイルランド人だな、という家族の姿がそこにあった。アイルランドといえばアイリッシュウイスキー、パブ、ギネスビール、文学、アイロニー(皮肉)とユーモア、そしてなによりも移民、それがヒントだ。
話をウクライナに戻そう。
人類におおきな惨禍をもたらした第2次世界大戦を契機として、永く続いた帝国主義の時代は終焉を迎えた。他国を武力で支配しても経済的に採算が合わないばかりか、戦争や紛争の火種と憎悪しか生まないことが証明されたのだ。大英帝国によるアイルランド支配も何世代にもわたる根深い憎しみと厄介な鬼っ子(北アイルランド)を産み遺しただけだし、大日本帝国による朝鮮・中国の侵略と支配もまったく同様だ。
汚職と謀略と嘘と暴力で大統領にのし上がった独裁者プーチンはいまや公然とその本性を露わにし、愚かにもロシアをふたたび弱肉強食の帝国主義へ回帰させる道を選んだようだ。ウクライナを“ロシア化する”という言葉に典型的な帝国主義のやり口が見えるではないか。だが現代社会がそんな時代錯誤の暴挙を許すはずもなく、なによりもウクライナ人の不屈の前にその目論見は頓挫することになろう。また世界からの制裁がもたらす経済破綻によってロシア国民をも道連れにするかもしれない。まことに行く末は神のみぞ知る、である。
願わくば、ウクライナがアイルランドのように国が二分される悲劇を生まず、21世紀最大の戦争犯罪人ウラジミール・プーチンがその末路を迎える日が近からんことをー。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
地球上に4千以上の民族が存在し、196の国々がすべからく国境と固有の国土を有しているかぎり戦争や紛争の種は尽きないのかもしれないが、高度に情報化され殺傷能力のきわめて高い兵器で武装した国々が大勢を占める現代社会では容易に一線を越えぬよういくつかの国際協定や条約が存在し、とりわけ核兵器・生物化学兵器の使用や民間人攻撃の禁止などは過去の悲惨な戦争の反省から生まれた必須の人道的ルールとなっている。
しかしそれらはけっきょくただの紳士協定にすぎなかったことをウクライナ戦争が曝け出した。目を背けたくなる非道なジェノサイド(大量虐殺)や原発への攻撃を平然と行い、核兵器使用をもちらつかせるロシアを前に国連の無力ぶりをイヤというほど見せつけられているわたしたちは、まったく終わりの見えない不安と苛立ちの中にいる。
ただ怪我の功名といえば不謹慎かもしれないが、黒海に面したウクライナという東ヨーロッパに位置する農業大国の文化や美しい街並みや人びとの暮らしぶりをわれわれはあらためて知ることになった。そしてなによりロシア帝国からの度重なる侵略の歴史を持つゆえにこそやっと獲得した「自由」と「独立」をウクライナ人が手放すはずはなく、ロシアの大軍に対して一歩も退かぬかれらの尋常ならざる不屈が世界を瞠目させ感動すら与えていることは一条の光明と云ってもいいだろう―おおきな犠牲とひき換えのあまりに痛々しいものではあることは云うまでもないが―。
ところで、ウクライナ戦争勃発と同時に、北大西洋条約機構(NATO)の存在がにわかにクローズアップされてきた。ウクライナが非加盟国であるためNATO軍が直接的に軍事介入できないことを見透かしてロシアは侵攻し、その結果多くの民間人などの犠牲を出しながら膠着状態となっているわけだが、あらためてヨーロッパ地図を眺めてみると面白いことがわかる。
1949年に12か国で創設された軍事同盟NATOの加盟国はいまや30か国におよぶが、西側ヨーロッパにも非加盟国はわずかながら存在する。ロシアの侵攻を見て急きょ加盟申請したスウェーデンとフィンランドがこれまで非加盟だったのは隣接するロシアを刺激したくなかったからで、内陸の小国スイスとオーストリアは永世中立国であるほうがむしろ安全と考えて加入していない。ところが、まさに北大西洋上に浮かぶもっとも加盟国にふさわしい位置にある島国アイルランドが非加盟なのである。ヨーロッパの西の端にあり、対岸のアメリカ、カナダ、そしてイギリス、フランスなどの枢要なNATO諸国に囲まれていながら一国だけがポツンと非加盟なのはなぜか。
17世紀、クロムウェルに率いられた清教徒(ピューリタン)を名乗るイングランドのプロテスタント(新教徒)たちが海を隔てたカトリック国のアイルランドを侵略し大殺戮を行って支配した。このアイルランドの苦悩と屈辱の歴史、そして不屈のウクライナ人にどこか相通ずるアイルランド人気質の存在が背景にあり、憎きイギリスが加盟する軍事同盟なぞに入るわけがないというのがかれらの本音なのだ。アイルランドはケルト民族でカトリック、イングランドはアングロサクソン(ゲルマン民族)でプロテスタントと、もともと民族・言語も習俗も、そして宗派も違う。そのイングランドの侵略と支配が生んだ憎悪は、強烈な反英感情のかたちで現代においても牢固として生きているのである。
『街道をゆく』(司馬遼太郎著)の中でもとりわけ強い印象をうける「愛蘭土紀行」で司馬は「客観的には百敗の民である。が、主観的には不敗だとおもっている」と、アイルランド人の屈折した心と不屈の気質をあざやかに表現し、さらにこう述べている。
<アイルランド人は、組織感覚がなく(中世的である)、統治される性格ではなく(古代的である)、大きな組織のなかの部品で甘んじるというところがすくなく(近代的ではない)、さらには部品であることが崇高な義務だというところがうすい。それらは概してイギリス人が所有しているとされるものなのである。…ともかくも、アイリッシュ海という小さな海をへだててならんでいる二つの島ほど、人間群の光景として相異なるところもすくない。>
ところで最近、つまりロシアのウクライナ侵攻後だが、たまたま『ベルファスト』という映画を観た。今年のアカデミー賞主要6部門にノミネートされた秀作との評判にくわえ、このタイトルに惹かれて観に行ったのだ。
予備知識はほとんどなく、北アイルランドの首府ベルファストが舞台のいわゆる北アイルランド紛争を主題にしたすこし暗い社会派映画かもしれないと思って観に行ったのだが、その予断はさいわいにも裏切られた。たしかに紛争が勃発したころのベルファストを舞台にしてはいるが、主題は紛争そのものではなく、そこに暮らす或る一家のささやかな日常とかれらの住む街への愛情を込めて描かれた上質のヒューマンドラマであった。
ちなみに北アイルランドはアイルランド島北部の一角に飛び地のように存在するイギリス(英国)領である。イギリスは普通UKと表記されるが正式名称はthe United Kingdom of Great Britain & Northern Irelandで、グレイトブリテン(ブリテン島)のイングランド、ウェールズ、スコットランドの3か国、それに北アイルランドを含めた4つの非独立国で構成された連邦国家であり、アイリッシュ海を隔てた北アイルランドの存在、そしてイングランドの侵略に屈して18世紀に併呑されたスコットランドが2014年に独立を目指して国民投票を実施したことでもわかるように、日本に似た島国ながらイギリスは日本のような単純で均質な国家ではない。
アイルランドはイギリスとの血みどろの独立戦争の結果、1921年にイングランドからの植民者の子孫(プロテスタント)が過半を占める北部6州が北アイルランドとして英国領に残り、ほかの地域は英連邦内の自治領「アイルランド自由国」として実質的独立を獲得、1949年にやっと正式な独立国となった。しかしその後も北アイルランドではアイルランドへの帰属を求めるカトリック系と親英派のプロテスタント系が激しく争ってIRA(アイルランド共和軍)によるテロなどが頻発し、1998年の和平合意(ベルファスト合意)まで約3600人もの死者を出した。これがいわゆる「北アイルランド紛争」だ。
さて映画『ベルファスト』だが、監督・製作は著名な俳優でもあるケネス・ブラナー。ベルファスト出身のかれの思い出深い少年時代を描いた自伝的な作品で、1969年8月にプロテスタントの暴徒がカトリックの住民を攻撃しはじめた事件を発端に人びとが分断されてゆく姿とベルファストでの日常がバディという名の9歳の少年の目を通してモノクロで描かれる。監督が「私が愛した場所、愛した人たちの物語だ」と述べているように、突然の紛争に揺れる労働者一家の苦悩と質素で微笑ましい生活ぶりが、役者たちの名演技(バディと祖父母役が出色)とユーモアとノスタルジーあふれる映像・音楽で再現されている。
映画の結末は差し控えるが、ああやっぱりアイルランド人だな、という家族の姿がそこにあった。アイルランドといえばアイリッシュウイスキー、パブ、ギネスビール、文学、アイロニー(皮肉)とユーモア、そしてなによりも移民、それがヒントだ。
話をウクライナに戻そう。
人類におおきな惨禍をもたらした第2次世界大戦を契機として、永く続いた帝国主義の時代は終焉を迎えた。他国を武力で支配しても経済的に採算が合わないばかりか、戦争や紛争の火種と憎悪しか生まないことが証明されたのだ。大英帝国によるアイルランド支配も何世代にもわたる根深い憎しみと厄介な鬼っ子(北アイルランド)を産み遺しただけだし、大日本帝国による朝鮮・中国の侵略と支配もまったく同様だ。
汚職と謀略と嘘と暴力で大統領にのし上がった独裁者プーチンはいまや公然とその本性を露わにし、愚かにもロシアをふたたび弱肉強食の帝国主義へ回帰させる道を選んだようだ。ウクライナを“ロシア化する”という言葉に典型的な帝国主義のやり口が見えるではないか。だが現代社会がそんな時代錯誤の暴挙を許すはずもなく、なによりもウクライナ人の不屈の前にその目論見は頓挫することになろう。また世界からの制裁がもたらす経済破綻によってロシア国民をも道連れにするかもしれない。まことに行く末は神のみぞ知る、である。
願わくば、ウクライナがアイルランドのように国が二分される悲劇を生まず、21世紀最大の戦争犯罪人ウラジミール・プーチンがその末路を迎える日が近からんことをー。
Text by Shuhei Matsuoka
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2022年03月25日
『流離譚』の光景
現代小説を主に書いてきた作家などが晩年になって歴史分野に足を踏み入れることは珍しくない。
古くは森鴎外晩年の『阿部一族』『興津弥五右衛門の遺書』などの一連の歴史小説や島崎藤村の『夜明け前』、戦後も安部公房『榎本武揚』、大岡昇平『天誅組』『堺港攘夷始末』(未完で遺作)、松本清張も相当な数の歴史作品を残し『両像・森鴎外』が遺作となった。また戦後を代表する文芸評論家の小林秀雄は晩年に『本居宣長』を著し、ジャーナリストの大宅壮一も還暦を過ぎてのち明治天皇崩御から幕末までを逆にたどるユニークな歴史大作『炎は流れる』をものしてこれが遺作となった。
こういった例は挙げればきりがないが、考えてみれば職業的物書きでなくても、ふつうの勤め人などがある年齢に達すると「オレはいったい何者で、どこからきたのか」という観念に囚われ、自身の家系に興味を持ちはじめ歴史小説などを好んで読むようになる傾きがあり、そんな例はわたしの身近にも少なくない。
むかしから歴史を学ぶことは士族など支配階級の重要な教養の一部であり、近代以降にもその風習はある程度引き継がれているのかもしれぬが、作家を名乗る者ならなおさら、自国の歴史もロクに識らないようではいくらなんでも情けない。きっとそんな心情も手伝って壮年期から歴史に興味をもつようになるのだろうが、ただ上に挙げた後世に遺るような作品群は、作家たちの深奥にある何らかの必然性から生まれたものと断言していいだろう。鴎外が、敬慕してやまなかった乃木希典の殉死を機に歴史小説を書きはじめたことはあまりに有名だ。
その意味で、高知出身の作家安岡章太郎(1920〜2013)が晩年に完成させた歴史小説『流離譚』はまさにその代表例と云っていいかもしれない。ただこの作品はほかと比べてもまことに特筆すべき点がある。分厚い上下本で1600枚の大作であることもさることながら、幕末から明治にかけての激動の日本近代史が天性の作家との運命的な出遭いによって紡ぎ出された、いわば書かれるべくして書かれた稀有な作品となっていることだ。
「私の親戚に一軒だけ東北弁の家がある。」という印象的な書き出してはじまるこの作品は、香美郡山北村(現香南市香我美町山北)で明治維新まで永く郷士として暮らしてきた安岡一族(本家、お上、お下、お西と呼ばれる血族4家族があり章太郎はお下の出)を核に据えた物語だが、作品化が可能になったのは家系図や相当量の古い書簡などが保存されていたことにくわえ、お西の惣領だった安岡文助の31年間(天保5年〜慶応元年)にわたる日記が新たに発見され、その報が東京の安岡章太郎の下に届いたことによる。これを見た安岡は、いよいよその時がきたかと覚悟を決め、膨大な史料との格闘がはじまるのである。
それというのも、文助が坂本龍馬の長兄権平や寺田寅彦の祖父宇賀市郎平(文助の親戚でもある)らと親しく、さらに息子3人がすべて武市瑞山(半平太)を党首とする土佐勤王党に入党し、土佐藩の参政吉田東洋を暗殺した刺客のひとり次男嘉助は脱藩後に吉村寅太郎が率いる天誅組の一員として大和で戦ってのち捕縛され京都の六角獄舎で刑死、長男覚之助は板垣退助を総督とする土佐藩迅衝隊の小軍監として戊辰戦争の会津戦で討死、また三男道之助は戊辰戦争で生き残り維新後に自由民権運動に投じて立志社で板垣退助や片岡健吉らと活動するという日本近代の真っ只中を駆け抜けた奔走家だったことが、手紙や日記などからかなり詳(つまび)らかになったからだ。
むろん安岡自身も一族の歴史、わけても死後に維新の功臣として顕彰され一門の誇りとなった覚之助や嘉助については父親や親類から漏れ聞き多少なりの興味はあったろうし、土佐を舞台にした作品も多い旧知の司馬遼太郎などから「そりゃ作家たるもの、それを書かん手はないで安岡さん」などと冗談半分でせっつかれていたのではないかとわたしは勝手な想像をしているが、親類宅から文助の日記がたまたま見つかったことで、いよいよ骨の折れる仕事に本気で取り組む気になった。50代半ばという作家としての円熟期だったことも本人をして決断させるに十分だったろう。
『流離譚』はもともと文芸誌『新潮』に昭和51年3月号から56年4月号まで、56歳から61歳の5年間にわたり掲載されたものを同年12月に単行本化したものだが、翌年にはさっそく文芸春秋社から司馬との対談企画が持ち込まれ、昭和57年の『オール讀物』6月号でふたりは対談(司馬の対談集『八人との対話』に転載)する。
その冒頭、司馬は「『流離譚』はいい小説でした。ああいうのは、何十年に一作というようなものですね。」といきなりベタ褒め。安岡は「おそれいります……。なんかテレくさいもんですなあ。(笑)」という具合だ。先生に褒められて恥ずかしそうにしている生徒みたいだが、安岡より3歳年少とはいえ相手は歴史小説の大家なのだからどうも仕方がない。プロはやはりプロから認められることが一番のご褒美で、対談自体もふたりの息が合ってとても面白い内容である。
対談の最後、安岡は岩崎弥太郎が捕吏として嘉助を大坂まで追った因縁を述べたあと「実はうちに、安岡文助っていう安岡嘉助の親父宛に、<弥太郎>って書いたぼろぼろの手紙が一つありましてね…あまりにぼろぼろで判読できない。」と言うと、司馬が岩崎や後藤象二郎の話をし、「とにかく土佐というのは諸国とはちがっていろんな人間が詰まっているという感じでまだまだ論じることができるんだけれど、『流離譚』のおかげで我々はだいたい”土佐”を卒業できたということは言えるようですね。」と対談を結んでいる。
もうひとり、『流離譚』をことのほか評価した人物がいる。小林秀雄だ。
亡くなる前年、79歳だった小林の最後の評論となったのが『新潮』(昭和57年新年号)に掲載された「『流離譚』を読む」である。
<矛盾撞着する資料の過剰…、それが歴史資料といふもの本来の厄介な姿である事は、上巻の書き出しから、下巻の末尾に到るまで、手に入る限りの歴史資料を集め、歴史事実の吟味に、少しも手を休めなかつた作者には、無論、よく解つてゐたであらう。苦しいほどよく解つてゐた筈だと、私は言ひたい。資料との、争ひと言つていゝやうな緊張した対話を、紙上で、あからさまに続けて行く作者の意識が、おのづからこの長編を貫く強いリズムを形成し、それが読者の心を捕へるのを感ずるからである。こゝら辺りに、この作家が開拓した、歴史小説の新手法があると見てもよいのではないか。>(単行本上巻の帯に掲載)
ふつう歴史作家は多くの史料を読み込んで事実の断片を頭に入れ、それを自家薬籠中のものとして物語を構築し作品化するものだが、『流離譚』の作者はそれをせず、あえて自家史料を表に出して読み解き、不明箇所があれば筆者の真意を探り、多くの既存史料と比較し、可能な限り正確さを期するといった作者自身の姿を”あからさまに”読者の前に披瀝して、なおかつ練達の作家ならではこれらを見事に再構成し作品にしているのである。そのことを小林は云っているわけだ。ちなみに小林は安岡が『新潮』に同作品を連載中の昭和53年に『本居宣長』で『流離譚』と同じ日本文学大賞を受賞しており、ふたりはどこかしら因縁めいてもいる。
すこし余談だが、村上春樹がもっとも影響を受けた日本の戦後作家として安岡章太郎を挙げているのも面白い。ふたりの文体や作品内容にまったく共通点がなさそうなので意外な印象を受けるが、安岡の初期の短編の数々を読んで文章のうまさに驚嘆したという。そういえば『海辺のカフカ』という表題はもしかしたら、安岡が作家としての地位を確立した『海辺の光景』(芸術選奨、野間文芸賞受賞)へのオマージュではないかと想像させる。これは安岡自身とおもわれる主人公が高知の海辺に建つ精神病院で母親を看取る姿を描いた私小説風の作品で、最初に講談社の文芸誌『群像』に掲載され単行本化されたものだが、村上のデビュー作「風の歌を聴け」(群像新人文学賞受賞)が同じく『群像』に掲載されたのが昭和54年6月、ちょうどそのときライバル文芸誌の『新潮』で安岡が「流離譚」を連載中だったのだから、偶然とはいえこれも奇縁である。
山北の田園地帯には安岡章太郎の先祖が約200年前から暮らしたお下の家が現存しており、国の重要文化財に指定され保存されている。練塀に囲まれた2500uにもおよぶ広々とした敷地に主屋のほか蔵などが並ぶ立派な郷士屋敷は7年半にわたる改修工事を2019年に了(お)え、昨年6月には前庭に『流離譚』の文学碑も建った。歴史の風韻に包まれた静謐な佇まいが印象的な、『流離譚』の故郷である。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
古くは森鴎外晩年の『阿部一族』『興津弥五右衛門の遺書』などの一連の歴史小説や島崎藤村の『夜明け前』、戦後も安部公房『榎本武揚』、大岡昇平『天誅組』『堺港攘夷始末』(未完で遺作)、松本清張も相当な数の歴史作品を残し『両像・森鴎外』が遺作となった。また戦後を代表する文芸評論家の小林秀雄は晩年に『本居宣長』を著し、ジャーナリストの大宅壮一も還暦を過ぎてのち明治天皇崩御から幕末までを逆にたどるユニークな歴史大作『炎は流れる』をものしてこれが遺作となった。
こういった例は挙げればきりがないが、考えてみれば職業的物書きでなくても、ふつうの勤め人などがある年齢に達すると「オレはいったい何者で、どこからきたのか」という観念に囚われ、自身の家系に興味を持ちはじめ歴史小説などを好んで読むようになる傾きがあり、そんな例はわたしの身近にも少なくない。
むかしから歴史を学ぶことは士族など支配階級の重要な教養の一部であり、近代以降にもその風習はある程度引き継がれているのかもしれぬが、作家を名乗る者ならなおさら、自国の歴史もロクに識らないようではいくらなんでも情けない。きっとそんな心情も手伝って壮年期から歴史に興味をもつようになるのだろうが、ただ上に挙げた後世に遺るような作品群は、作家たちの深奥にある何らかの必然性から生まれたものと断言していいだろう。鴎外が、敬慕してやまなかった乃木希典の殉死を機に歴史小説を書きはじめたことはあまりに有名だ。
その意味で、高知出身の作家安岡章太郎(1920〜2013)が晩年に完成させた歴史小説『流離譚』はまさにその代表例と云っていいかもしれない。ただこの作品はほかと比べてもまことに特筆すべき点がある。分厚い上下本で1600枚の大作であることもさることながら、幕末から明治にかけての激動の日本近代史が天性の作家との運命的な出遭いによって紡ぎ出された、いわば書かれるべくして書かれた稀有な作品となっていることだ。
「私の親戚に一軒だけ東北弁の家がある。」という印象的な書き出してはじまるこの作品は、香美郡山北村(現香南市香我美町山北)で明治維新まで永く郷士として暮らしてきた安岡一族(本家、お上、お下、お西と呼ばれる血族4家族があり章太郎はお下の出)を核に据えた物語だが、作品化が可能になったのは家系図や相当量の古い書簡などが保存されていたことにくわえ、お西の惣領だった安岡文助の31年間(天保5年〜慶応元年)にわたる日記が新たに発見され、その報が東京の安岡章太郎の下に届いたことによる。これを見た安岡は、いよいよその時がきたかと覚悟を決め、膨大な史料との格闘がはじまるのである。
それというのも、文助が坂本龍馬の長兄権平や寺田寅彦の祖父宇賀市郎平(文助の親戚でもある)らと親しく、さらに息子3人がすべて武市瑞山(半平太)を党首とする土佐勤王党に入党し、土佐藩の参政吉田東洋を暗殺した刺客のひとり次男嘉助は脱藩後に吉村寅太郎が率いる天誅組の一員として大和で戦ってのち捕縛され京都の六角獄舎で刑死、長男覚之助は板垣退助を総督とする土佐藩迅衝隊の小軍監として戊辰戦争の会津戦で討死、また三男道之助は戊辰戦争で生き残り維新後に自由民権運動に投じて立志社で板垣退助や片岡健吉らと活動するという日本近代の真っ只中を駆け抜けた奔走家だったことが、手紙や日記などからかなり詳(つまび)らかになったからだ。
むろん安岡自身も一族の歴史、わけても死後に維新の功臣として顕彰され一門の誇りとなった覚之助や嘉助については父親や親類から漏れ聞き多少なりの興味はあったろうし、土佐を舞台にした作品も多い旧知の司馬遼太郎などから「そりゃ作家たるもの、それを書かん手はないで安岡さん」などと冗談半分でせっつかれていたのではないかとわたしは勝手な想像をしているが、親類宅から文助の日記がたまたま見つかったことで、いよいよ骨の折れる仕事に本気で取り組む気になった。50代半ばという作家としての円熟期だったことも本人をして決断させるに十分だったろう。
『流離譚』はもともと文芸誌『新潮』に昭和51年3月号から56年4月号まで、56歳から61歳の5年間にわたり掲載されたものを同年12月に単行本化したものだが、翌年にはさっそく文芸春秋社から司馬との対談企画が持ち込まれ、昭和57年の『オール讀物』6月号でふたりは対談(司馬の対談集『八人との対話』に転載)する。
その冒頭、司馬は「『流離譚』はいい小説でした。ああいうのは、何十年に一作というようなものですね。」といきなりベタ褒め。安岡は「おそれいります……。なんかテレくさいもんですなあ。(笑)」という具合だ。先生に褒められて恥ずかしそうにしている生徒みたいだが、安岡より3歳年少とはいえ相手は歴史小説の大家なのだからどうも仕方がない。プロはやはりプロから認められることが一番のご褒美で、対談自体もふたりの息が合ってとても面白い内容である。
対談の最後、安岡は岩崎弥太郎が捕吏として嘉助を大坂まで追った因縁を述べたあと「実はうちに、安岡文助っていう安岡嘉助の親父宛に、<弥太郎>って書いたぼろぼろの手紙が一つありましてね…あまりにぼろぼろで判読できない。」と言うと、司馬が岩崎や後藤象二郎の話をし、「とにかく土佐というのは諸国とはちがっていろんな人間が詰まっているという感じでまだまだ論じることができるんだけれど、『流離譚』のおかげで我々はだいたい”土佐”を卒業できたということは言えるようですね。」と対談を結んでいる。
もうひとり、『流離譚』をことのほか評価した人物がいる。小林秀雄だ。
亡くなる前年、79歳だった小林の最後の評論となったのが『新潮』(昭和57年新年号)に掲載された「『流離譚』を読む」である。
<矛盾撞着する資料の過剰…、それが歴史資料といふもの本来の厄介な姿である事は、上巻の書き出しから、下巻の末尾に到るまで、手に入る限りの歴史資料を集め、歴史事実の吟味に、少しも手を休めなかつた作者には、無論、よく解つてゐたであらう。苦しいほどよく解つてゐた筈だと、私は言ひたい。資料との、争ひと言つていゝやうな緊張した対話を、紙上で、あからさまに続けて行く作者の意識が、おのづからこの長編を貫く強いリズムを形成し、それが読者の心を捕へるのを感ずるからである。こゝら辺りに、この作家が開拓した、歴史小説の新手法があると見てもよいのではないか。>(単行本上巻の帯に掲載)
ふつう歴史作家は多くの史料を読み込んで事実の断片を頭に入れ、それを自家薬籠中のものとして物語を構築し作品化するものだが、『流離譚』の作者はそれをせず、あえて自家史料を表に出して読み解き、不明箇所があれば筆者の真意を探り、多くの既存史料と比較し、可能な限り正確さを期するといった作者自身の姿を”あからさまに”読者の前に披瀝して、なおかつ練達の作家ならではこれらを見事に再構成し作品にしているのである。そのことを小林は云っているわけだ。ちなみに小林は安岡が『新潮』に同作品を連載中の昭和53年に『本居宣長』で『流離譚』と同じ日本文学大賞を受賞しており、ふたりはどこかしら因縁めいてもいる。
すこし余談だが、村上春樹がもっとも影響を受けた日本の戦後作家として安岡章太郎を挙げているのも面白い。ふたりの文体や作品内容にまったく共通点がなさそうなので意外な印象を受けるが、安岡の初期の短編の数々を読んで文章のうまさに驚嘆したという。そういえば『海辺のカフカ』という表題はもしかしたら、安岡が作家としての地位を確立した『海辺の光景』(芸術選奨、野間文芸賞受賞)へのオマージュではないかと想像させる。これは安岡自身とおもわれる主人公が高知の海辺に建つ精神病院で母親を看取る姿を描いた私小説風の作品で、最初に講談社の文芸誌『群像』に掲載され単行本化されたものだが、村上のデビュー作「風の歌を聴け」(群像新人文学賞受賞)が同じく『群像』に掲載されたのが昭和54年6月、ちょうどそのときライバル文芸誌の『新潮』で安岡が「流離譚」を連載中だったのだから、偶然とはいえこれも奇縁である。
山北の田園地帯には安岡章太郎の先祖が約200年前から暮らしたお下の家が現存しており、国の重要文化財に指定され保存されている。練塀に囲まれた2500uにもおよぶ広々とした敷地に主屋のほか蔵などが並ぶ立派な郷士屋敷は7年半にわたる改修工事を2019年に了(お)え、昨年6月には前庭に『流離譚』の文学碑も建った。歴史の風韻に包まれた静謐な佇まいが印象的な、『流離譚』の故郷である。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
2021年12月27日
絶滅を選ぶのか
映画「ジュラシックパーク」に出てきそうな恐竜が突如、国連本部に現れて英語で演説するニュース映像に驚いた人も多かったろう。UNDP(国連開発計画)が「Don’t Choose Extinction(絶滅を選ぶな)」キャンペーンの一環として製作した2分半の短編映画で、イギリス・グラスゴーで10月31日から開催されたCOP26(国連気候変動枠組み条約第26回締約国会議)を前に世界に向けSNSで流したものだ。
ティラノザウルスらしき大型恐竜がノシノシと壇上に上がり、太い指でグイとマイクを引き寄せ、鼻息とともに咳払いを一発かましてからこんな演説をはじめる。
「皆、よく聞いてほしい。これは明らかなことだが、絶滅に向かうということは悪いことだ。しかし君たち人間は、自分自身の手で自らを絶滅させるつもりなのだろうか。それは過去7千万年のあいだに私が聞いた出来事の中で最も馬鹿げたことだ。われわれの絶滅には少なくとも小惑星の直撃があった。では君たちの言い訳は何なんだ?(中略)化石燃料への莫大な公的助成金などは愚かなことだ。絶滅を選んではいけない!手遅れになる前に種を救え!今こそ言い訳をやめて、変わりはじめる時だ」
演説が終わると人々は立ち上がって拍手喝采となり、最後に「It’s now or never(今やるか、やらないか)」のテロップが流れる。
実際、COP26というぐらいだから、地球温暖化への危機感から国際会議が最初に開かれて早や26年目ということになる。しかし世界のエネルギー起源の温室効果ガス排出量は1990年の231億トンから、2019年には376億トンとこの30年間に約63%も増えているのだから、絶滅経験者の恐竜があきれてアドバイスしたくなったのも頷ける。
そのCOP26の最終日、議長国イギリスは成果文書の中にパリ協定で合意した産業革命前からの気温上昇を1.5℃に抑える決意は盛り込んだが、肝心の石炭火力は「段階的廃止」ではなく「段階的削減」と後退。また各国が表明した温室効果ガス排出実質ゼロの期限もたんなる努力目標に過ぎず順守される見込みは薄いうえ、仮に完遂されても1.5℃への抑制はできないことがわかっているのだから、そもそもが自己欺瞞的な仮説と経済成長への妄執で覆われたバブルの中で行われる国際会議なのだ。おまけに会議の往復に4万人もが航空機などを使って膨大な量の二酸化炭素を余計に排出しているジレンマ!
そんな迂遠な議論に終始する会議を予想しての恐竜の演説だったわけだが、それでも所詮はコンピュータグラフィックスの恐竜、各国の参加者もフムフムと感心しながら観たにちがいない。しかし、小柄なスウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリがグラスゴーでCOP26をこうこき下ろした演説からは目を背けた(あるいは見て見ぬふりをした)のではあるまいか。
「COP26が失敗なのは秘密でもなんでもない。いまの状況をつくり出した同じ方法で危機を解決できないのは明らかだ。その事実を理解しはじめている人は次第に増えている。何が権力者たちを目覚めさせるのかを多くの人々自問している。でも彼ら権力者は気づいている。自分たちが何をしているのかを明確に知っている」「COPはもはや気候変動対策会議ではない。いまや北半球のグリーンウォッシュ(見せかけのだけの環境対策=環境を意味する「グリーン」と偽装や見せかけを意味する「ホワイトウォッシュ」からつくった造語)の祭典だ。2週間続けられるいつものくだらないおざなりの演説のオンパレード。最も影響を受ける地域の最も影響を受ける人々の声は聞かれない。未来世代の声はグリーンウォッシュと、空虚な言葉と約束の中に溺れている」「しかし事実は嘘をつかない。私たちは王様が裸であることを知っている。パリ協定の目標を達成するためには、人間のコントロールを超えて不可逆的なチェーンリアクションが始まるリスクを最小限に抑えなければならない。そのためには、世界がまだ見たことのないような抜本的な温室効果ガス排出量の削減がすぐに必要だ」
グレタはまた、近年さかんに喧伝される「カーボン・オフセット」についても「シェルとBP、スタンダードチャータード銀行はグラスゴーでカーボン・オフセットの規模を拡大し、汚染者に汚染を続けさせるためのフリーパスを与えようとしている」「オフセットは人権侵害のリスクがあり、すでに弱い立場にあるコミュニティを傷つけてしまう。オフセットはしばしば偽善であり、COP26ではそれが渦巻いている」と鋭く衝く。これは、企業などが削減できない分を植林・再生エネルギー事業などへの投資や他の国・地域で削減された排出量をクレジットという形で購入して埋め合わせできるという仕組みのことで、日本を含めた先進国ではすでに行われており、排出権取引市場も存在する。
実際に環境保護団体「グローバル・ウィットネス」によると、COP26にどの国よりも代表を多く送り込んだのは化石燃料産業(503人)であり、かれらは石油・ガス産業のロビー活動を請け負った人々で、中でも最大級の103人を送り込んだのはシェル、BPなど石油メジャーの業界団体である国際排出量取引協会(IETA)だったと公表している。表向きはともかく、かれらが参加した本当の目的はいかに供給量を減らさず現状維持させ利益を確保するかなのだ。
さて、さらに問題はわが日本である。
岸田首相は意気揚々とCOP26で演説をしたが、残念ながら昨年に続く2年連続の「化石賞」受賞と相成った。これはCAN(気候変動ネットワーク)が地球温暖化対策に後ろ向きな国に贈る不名誉な賞で、脱石炭がCOP26の優先目標なのに首相が石炭火力発電を2030年以降も続ける意思を示したことをその理由とした。「石炭火力のゼロエミッション化を進める」との言説もその非現実性を軽く見抜かれた格好で、日本政府の無責任さと危機意識の無さを白日の下にする結果となった。ちなみにドイツの環境シンクタンク「ジャーマンウオッチ」などの研究チームは11月11日、世界の61の国・地域の中で日本の温暖化対策レベルは中国(37位)より下の45位だったと発表している。
日本の温室効果ガス排出量は中国、アメリカ、インド、ロシアに次ぐ堂々の世界第5位である。資源のない小国がカネにあかせて化石燃料を海外から大量に買い漁り、それをせっせと燃やしてこれだけ地球環境を劣化させているのだ。しかし政府も企業も温暖化対策に後ろ向きで、せいぜいがスーパーのレジ袋やプラスチック・ストローをやめるとか、遊び半分のSDGsキャンペーンなどのママゴトレベル。そんな状況を日本人自身が大して問題とも思ってないことは、先の衆議院選挙でまったく争点にならなかったことでもわかる。また政府は温室効果ガス排出量を2030年度までに13年度比で46%削減すると大見得を切ったが、これは当時の “ポエム”小泉進次郎環境大臣がTVインタビューでのたまわった「おぼろげながら頭に浮かんできた」数字をそのまま出したまでで、誰も達成できるなんて思っていない。日本はまさに「化石賞」に相応しい、世界に冠たる恥ずべきグリーンウォッシュ大国なのである。
ところで、COP26を糾弾するグレタの姿を見ながら、わたしはもうひとりの女性のことを思いおこしていた。『沈黙の春(Silent Spring)』の著者、レイチェル・カーソンだ。
1907年にアメリカの工業都市ピッツバーグ近郊の篤農家の娘として生まれたレイチェルは長じて生物学者となり、文筆家としても名を馳せるようになる。そんな彼女のもとに1958年、友人から一通の手紙が届く。役所が殺虫剤DDTを空中散布した後に、彼女の庭にやってきたコマツグミが次々と死んでしまった、という内容だった。レイチェルはこの手紙をきっかけに4年に及ぶ歳月をかけ、のちに「歴史を変えることができた数少ない本の1冊」と称されることになる名著『沈黙の春』を著す。途中でがんに冒され余命いくばくもない中、膨大な資料に埋もれつつ執念で書き上げたものだった。
同書はたちまちベストセラーとなったが保守系政治家や化学企業関係者からの心ない批判にも晒され、出版の2年後に彼女は亡くなる。この一冊はしかし人々に環境問題への意識を芽生えさせ、世界中で農薬使用を制限する法律制定を促してゆく。一女性科学者がたったひとりで巨大権力に立ち向かい、社会をおおきく変えたのだ。
グレタも、最初は15歳の時のたったひとりの座り込みストライキだった。それがいまでは世界の若者たちを糾合し、いっこうに本気にならない地球温暖化の元凶である先進国やその指導者、企業トップらに圧力をかけ続ける。若者らを突き動かしているのは、自分たちの未来をお前らに潰されてたまるか、という至極まっとうな怒りなのだ。
それにしても、『沈黙の春』からグレタに至るわずか50〜60年の間の地球環境劣化のスケールとスピードの凄まじさはどうだろう。科学がそう遠くない将来の人類絶滅をも予測するほどになったということは、わずか18歳のグレタの使命がレイチェルのそれをはるかに凌ぐ緊急性と重要性を帯びたことになろう。
地球はおそらく全宇宙でたったひとつ、奇跡的なバランスによって生物が生息するに至った天体だ。しかしひとたび温暖化のチェーンリアクション(連鎖反応)がはじまればそのバランスが崩れ、もはや人間の手には負えなくなる。われわれの責任はとてつもなく重い。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
ティラノザウルスらしき大型恐竜がノシノシと壇上に上がり、太い指でグイとマイクを引き寄せ、鼻息とともに咳払いを一発かましてからこんな演説をはじめる。
「皆、よく聞いてほしい。これは明らかなことだが、絶滅に向かうということは悪いことだ。しかし君たち人間は、自分自身の手で自らを絶滅させるつもりなのだろうか。それは過去7千万年のあいだに私が聞いた出来事の中で最も馬鹿げたことだ。われわれの絶滅には少なくとも小惑星の直撃があった。では君たちの言い訳は何なんだ?(中略)化石燃料への莫大な公的助成金などは愚かなことだ。絶滅を選んではいけない!手遅れになる前に種を救え!今こそ言い訳をやめて、変わりはじめる時だ」
演説が終わると人々は立ち上がって拍手喝采となり、最後に「It’s now or never(今やるか、やらないか)」のテロップが流れる。
実際、COP26というぐらいだから、地球温暖化への危機感から国際会議が最初に開かれて早や26年目ということになる。しかし世界のエネルギー起源の温室効果ガス排出量は1990年の231億トンから、2019年には376億トンとこの30年間に約63%も増えているのだから、絶滅経験者の恐竜があきれてアドバイスしたくなったのも頷ける。
そのCOP26の最終日、議長国イギリスは成果文書の中にパリ協定で合意した産業革命前からの気温上昇を1.5℃に抑える決意は盛り込んだが、肝心の石炭火力は「段階的廃止」ではなく「段階的削減」と後退。また各国が表明した温室効果ガス排出実質ゼロの期限もたんなる努力目標に過ぎず順守される見込みは薄いうえ、仮に完遂されても1.5℃への抑制はできないことがわかっているのだから、そもそもが自己欺瞞的な仮説と経済成長への妄執で覆われたバブルの中で行われる国際会議なのだ。おまけに会議の往復に4万人もが航空機などを使って膨大な量の二酸化炭素を余計に排出しているジレンマ!
そんな迂遠な議論に終始する会議を予想しての恐竜の演説だったわけだが、それでも所詮はコンピュータグラフィックスの恐竜、各国の参加者もフムフムと感心しながら観たにちがいない。しかし、小柄なスウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリがグラスゴーでCOP26をこうこき下ろした演説からは目を背けた(あるいは見て見ぬふりをした)のではあるまいか。
「COP26が失敗なのは秘密でもなんでもない。いまの状況をつくり出した同じ方法で危機を解決できないのは明らかだ。その事実を理解しはじめている人は次第に増えている。何が権力者たちを目覚めさせるのかを多くの人々自問している。でも彼ら権力者は気づいている。自分たちが何をしているのかを明確に知っている」「COPはもはや気候変動対策会議ではない。いまや北半球のグリーンウォッシュ(見せかけのだけの環境対策=環境を意味する「グリーン」と偽装や見せかけを意味する「ホワイトウォッシュ」からつくった造語)の祭典だ。2週間続けられるいつものくだらないおざなりの演説のオンパレード。最も影響を受ける地域の最も影響を受ける人々の声は聞かれない。未来世代の声はグリーンウォッシュと、空虚な言葉と約束の中に溺れている」「しかし事実は嘘をつかない。私たちは王様が裸であることを知っている。パリ協定の目標を達成するためには、人間のコントロールを超えて不可逆的なチェーンリアクションが始まるリスクを最小限に抑えなければならない。そのためには、世界がまだ見たことのないような抜本的な温室効果ガス排出量の削減がすぐに必要だ」
グレタはまた、近年さかんに喧伝される「カーボン・オフセット」についても「シェルとBP、スタンダードチャータード銀行はグラスゴーでカーボン・オフセットの規模を拡大し、汚染者に汚染を続けさせるためのフリーパスを与えようとしている」「オフセットは人権侵害のリスクがあり、すでに弱い立場にあるコミュニティを傷つけてしまう。オフセットはしばしば偽善であり、COP26ではそれが渦巻いている」と鋭く衝く。これは、企業などが削減できない分を植林・再生エネルギー事業などへの投資や他の国・地域で削減された排出量をクレジットという形で購入して埋め合わせできるという仕組みのことで、日本を含めた先進国ではすでに行われており、排出権取引市場も存在する。
実際に環境保護団体「グローバル・ウィットネス」によると、COP26にどの国よりも代表を多く送り込んだのは化石燃料産業(503人)であり、かれらは石油・ガス産業のロビー活動を請け負った人々で、中でも最大級の103人を送り込んだのはシェル、BPなど石油メジャーの業界団体である国際排出量取引協会(IETA)だったと公表している。表向きはともかく、かれらが参加した本当の目的はいかに供給量を減らさず現状維持させ利益を確保するかなのだ。
さて、さらに問題はわが日本である。
岸田首相は意気揚々とCOP26で演説をしたが、残念ながら昨年に続く2年連続の「化石賞」受賞と相成った。これはCAN(気候変動ネットワーク)が地球温暖化対策に後ろ向きな国に贈る不名誉な賞で、脱石炭がCOP26の優先目標なのに首相が石炭火力発電を2030年以降も続ける意思を示したことをその理由とした。「石炭火力のゼロエミッション化を進める」との言説もその非現実性を軽く見抜かれた格好で、日本政府の無責任さと危機意識の無さを白日の下にする結果となった。ちなみにドイツの環境シンクタンク「ジャーマンウオッチ」などの研究チームは11月11日、世界の61の国・地域の中で日本の温暖化対策レベルは中国(37位)より下の45位だったと発表している。
日本の温室効果ガス排出量は中国、アメリカ、インド、ロシアに次ぐ堂々の世界第5位である。資源のない小国がカネにあかせて化石燃料を海外から大量に買い漁り、それをせっせと燃やしてこれだけ地球環境を劣化させているのだ。しかし政府も企業も温暖化対策に後ろ向きで、せいぜいがスーパーのレジ袋やプラスチック・ストローをやめるとか、遊び半分のSDGsキャンペーンなどのママゴトレベル。そんな状況を日本人自身が大して問題とも思ってないことは、先の衆議院選挙でまったく争点にならなかったことでもわかる。また政府は温室効果ガス排出量を2030年度までに13年度比で46%削減すると大見得を切ったが、これは当時の “ポエム”小泉進次郎環境大臣がTVインタビューでのたまわった「おぼろげながら頭に浮かんできた」数字をそのまま出したまでで、誰も達成できるなんて思っていない。日本はまさに「化石賞」に相応しい、世界に冠たる恥ずべきグリーンウォッシュ大国なのである。
ところで、COP26を糾弾するグレタの姿を見ながら、わたしはもうひとりの女性のことを思いおこしていた。『沈黙の春(Silent Spring)』の著者、レイチェル・カーソンだ。
1907年にアメリカの工業都市ピッツバーグ近郊の篤農家の娘として生まれたレイチェルは長じて生物学者となり、文筆家としても名を馳せるようになる。そんな彼女のもとに1958年、友人から一通の手紙が届く。役所が殺虫剤DDTを空中散布した後に、彼女の庭にやってきたコマツグミが次々と死んでしまった、という内容だった。レイチェルはこの手紙をきっかけに4年に及ぶ歳月をかけ、のちに「歴史を変えることができた数少ない本の1冊」と称されることになる名著『沈黙の春』を著す。途中でがんに冒され余命いくばくもない中、膨大な資料に埋もれつつ執念で書き上げたものだった。
同書はたちまちベストセラーとなったが保守系政治家や化学企業関係者からの心ない批判にも晒され、出版の2年後に彼女は亡くなる。この一冊はしかし人々に環境問題への意識を芽生えさせ、世界中で農薬使用を制限する法律制定を促してゆく。一女性科学者がたったひとりで巨大権力に立ち向かい、社会をおおきく変えたのだ。
グレタも、最初は15歳の時のたったひとりの座り込みストライキだった。それがいまでは世界の若者たちを糾合し、いっこうに本気にならない地球温暖化の元凶である先進国やその指導者、企業トップらに圧力をかけ続ける。若者らを突き動かしているのは、自分たちの未来をお前らに潰されてたまるか、という至極まっとうな怒りなのだ。
それにしても、『沈黙の春』からグレタに至るわずか50〜60年の間の地球環境劣化のスケールとスピードの凄まじさはどうだろう。科学がそう遠くない将来の人類絶滅をも予測するほどになったということは、わずか18歳のグレタの使命がレイチェルのそれをはるかに凌ぐ緊急性と重要性を帯びたことになろう。
地球はおそらく全宇宙でたったひとつ、奇跡的なバランスによって生物が生息するに至った天体だ。しかしひとたび温暖化のチェーンリアクション(連鎖反応)がはじまればそのバランスが崩れ、もはや人間の手には負えなくなる。われわれの責任はとてつもなく重い。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
2021年09月28日
浅井忠の明治
明治3年に土佐藩が送り出した英国留学生5人の中に、のちの民権家馬場辰猪のほか明治洋画界の草分けとなる国沢新九郎(明治10年死去)がいた。国沢は法律の勉強を命じられていたが、画家に転向して明治7年に帰国、東京麹町平河町に洋画塾「彰技堂」を開いて人気を博すようになる。このあたらしい画塾に、佐倉藩出身の20歳の聡明な若者が入塾する。のちの洋画家浅井忠(ちゅう)(1856〜1907)である。
夏目漱石の『三四郎』に、美禰子と三四郎が絵画の展覧会「丹青会」に行く有名なくだりがある。画家の原口が三四郎に「深見さんの水彩は普通の水彩の積りで見ちゃ不可ませんよ。何処までも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、中々面白い所が出て来ます」と言い残して野々宮と出て行き、次のように続く。
<細長い壁に一列に懸っている深見先生の遺画を見ると、なるほど原口さんの注意した如く殆んど水彩ばかりである。三四郎が著るしく感じたのは、その水彩の色が、どれもこれも薄くて、数が少くって、対照に乏しくって、日向(ひなた)へでも出さないと引き立たないと思う程地味に描いてあるという事である。その代り筆が些(ちっ)とも滞っていない。殆んど一気呵(か)成(せい)に仕上げた趣がある。絵の具の下に鉛筆の輪郭(りんかく)が明かに透いて見えるのでも、洒落(しゃらく)な画風がわかる。>
丹青会とは、明治41年に上野で開催された太平洋画会第6回展のことで、ここで深見先生こと浅井忠の回顧展が開催されていた。浅井はこの展覧会の前年、明治40年に京都で51歳で亡くなっている。
夏目漱石はひと回り年配の洋画家浅井忠を畏敬してやまなかった。上の『三四郎』の文章からも、浅井の絵の質の高さを世に知らしめる意図が窺えるし、『それから』にも「湯呑には、京都の浅井黙語の模様画が染め付けてあった」と浅井を登場させているほどだ(「黙語」は浅井の号)。
漱石は明治33年10月に英国留学の途上パリに立ち寄り、ひと足先に同地に44歳という遅い留学をしていた浅井を訪ねている。浅井は明治29年に東京・上根岸に居を構えたことで近くに住むジャーナリストの陸羯(くがかつ)南(なん)や正岡子規と交流を深め、子規庵にも出入りするようになっていた。漱石はその子規の紹介で、パリの浅井を訪ねたのである。このときの出会いがふたりの初対面らしく、よほど気が合ったのか2年後の明治35年には日本への帰国途上の浅井がロンドンの漱石を訪ね、下宿に4日間も滞在しているのである。
漱石は浅井没後、明治41年の講演で次のように回想している。
「私が先年倫敦に居った時、此間亡くなった浅井先生と市中を歩いたのであります。其時浅井先生はどこの町へ出てもどの建物を見てもあれは好い色だ、これは好い色だと、とうとう家へ帰る迄色尽しで御仕舞いになりました。流石画伯だけあって、違ったものだ、先生は色で世界が出来上がってると考えてるんだと大いに悟りました」
わかいころ建築家志望だった漱石は、留学時代から美術工芸誌「The Studio」を定期購読するほどの美術好きで、かれの芸術観の基層には当時欧州を席巻していたアーツ・アンド・クラフツ運動やアール・ヌーヴォーの影響、そして洋画家浅井忠の存在がどっしりと盤踞(ばんきょ)していたはずである。
また子規が「写生」に目覚めるのも浅井忠との出会いによる。浅井はわかい弟子の中村不折(ふせつ)(画家・書家)を子規に紹介し、その不折をして浅井が師フォンタネージから学んだ絵画技法である写生の本質を子規に伝授せしめ、子規はそれを俳句や短歌にも応用するようになる。漱石の『吾輩は猫である』初版本の上巻挿画を不折、中・下巻を浅井が描いていることからも漱石・子規と画家の浅井・不折の親密さが見てとれるだろう。
さて浅井の洋行が決まってのち、明治33年1月16日に陸、子規のほか画家や俳人など10人ほどが集まり子規庵で送別会が開かれた。長身で端正な風貌の浅井をいつも「先生」と呼び尊敬してやまなかった子規であったが、病の悪化で死を覚悟していたかれはそのとき「先生のお留守さむしや上根岸」の句を詠み、もう会えぬかもしれぬ浅井を哀惜したのである。しかしさいわいにも浅井は帰国後、開校予定の京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)の教授として京都へ移住する前に子規を見舞うことができたのだ。このわずか3週間後に子規は亡くなる。
浅井は子規没後、ホトトギスの子規追悼集に「子規居士弄丹青図」を描いて子規を哀悼している。サラサラと鉛筆で描いたような戯画風の絵で、縁側のほうにころがる3個の柿と鉢植えの花を写生しているのだろうか、無精ひげの子規が床に横になったまま絵を描いている。生前の子規の特徴をよくとらえた愛情あふれる絵だ。
このように明治の文化人たちにおおきな影響を与えた“日本近代洋画の父”浅井忠はしかし没後、薩摩出身で11歳年少の黒田清輝(せいき)の陰に隠れてしまい、作品のレベルのみならずその先駆的業績すら過小評価されてきた感がある。浅井の生きた明治という時代は、社会のあらゆる分野が薩長土肥、なかんずく薩長二藩の下級武士たちによる「薩長に非ずんば人に非ず」と云われるほどに強力な藩閥政治の只中にあり、絵画芸術もむろんその埒外にはなかったのだ。
浅井忠は、江戸東方の要衝であった下総の佐倉藩(現千葉県佐倉市)出身である。同藩は幕末、英邁な藩主堀田正陸(まさよし)(のち幕府老中首座)が江戸の蘭方医佐藤泰然を招き、大坂の適塾と並び称される高名な蘭学塾「順天堂」(現順天堂大学の前身)を創設するなど学問分野におおくの俊才―思想家の西村茂樹、外交官の林董(ただす)、医者の松本良順、農学者の津田仙(せん)など―を輩出したことで知られるが、戊辰戦争で新政府軍の前にやむなく恭順、禄高三百石の藩士の長男であった浅井忠之丞(のちに忠と改名)は朝敵の子、負け組として冷や飯を食うことになるのだ。
一方、勝ち組である薩摩の子爵の養子として何不自由なく育った黒田清輝は、明治17年に弱冠18歳でフランスに留学する。もともとは政治家を目指し法律を学ぶ予定だったが、土佐の国沢新九郎同様に絵画に興味が移り転向する。この10年間にもわたる優雅な留学生活が、黒田におおきな僥倖をもたらすことになる。
黒田の洋行中、国内では岡倉天心とフェノロサによる洋画排斥運動が燃えさかり、洋画家たちは死に体も同然になっていたのだ。展覧会での洋画展示も禁止され、明治22年に開校された東京美術学校(学長は岡倉天心)にも西洋画科は設置されないという逆風下、洋画家のリーダー格であった浅井は日本初の美術団体「明治美術会」を創設して必死に踏ん張っていた。そんな矢先の明治26年7月、薩閥のプリンス黒田清輝が帰国する。
黒田の帰国は浅井ら洋画家に朗報と思われたが、黒田は帰国の3年後に明治美術会と袂を分かって新グループ「白馬会」を創設し、その翌月に天心は東京美術学校長を罷免され同校に西洋画科が設置されると同時に黒田が教授に就任、洋画界は政治に翻弄されつつ内部分裂してゆく。印象派風の明るい絵を描く白馬会の画家らは外光派・紫派と呼ばれてもてはやされ、浅井らは脂(やに)派・旧派と揶揄されるようになるのだ。日本の美術界はすでに黒田清輝を中心に回りはじめていたのである。
そんな流派同士の不毛な争いにほとほと嫌気がさしていた浅井に突然、文部省からパリ万博の監査官任命と2年間のフランス留学の命が下る。浅井は渡りに船とばかりに翌年の明治33年に渡欧、帰国後は東京美術学校教授を辞して京都に赴き、京都高等工芸学校開校と同時に教授として図案科で美術やデザインを教え、聖護院洋画研究所のちに関西美術院を創設して後進の指導を行うようになる。派閥争いにうつつをぬかす東京の美術界をよそに、浅井は京都で悠然と油絵、水彩画、陶芸のほか洒脱なデザイン画を描き、のちの日本画壇を代表する梅原龍三郎、安井曾太郎、津田青楓らを育ててゆくのである。
だが残念なことに、そんな生活も永くは続かなかった。
京都に移住してわずか5年後の明治40年暮れ、美術・工芸の革新を目指した天性の芸術家は、時代の波に翻弄されながら51年の生涯を古都の地で閉じるのである。死の間際まで関西美術院と京都高等工芸学校の学生らを気にかけ、「どうか美術院も学校も宜しく頼む」と言い遺したという。
実を云うと、わたしはその旧京都高等工芸学校、現在の京都工芸繊維大学の建築工芸学科卒である。同科は昔の図案科であるから、不肖ながらわたしは浅井忠の遥か遠い弟子ということになる。そう勝手に決めこんで、最近はヘタな素描や水彩画をはじめている。お手本は云うまでもなく、浅井黙語先生である。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
夏目漱石の『三四郎』に、美禰子と三四郎が絵画の展覧会「丹青会」に行く有名なくだりがある。画家の原口が三四郎に「深見さんの水彩は普通の水彩の積りで見ちゃ不可ませんよ。何処までも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、中々面白い所が出て来ます」と言い残して野々宮と出て行き、次のように続く。
<細長い壁に一列に懸っている深見先生の遺画を見ると、なるほど原口さんの注意した如く殆んど水彩ばかりである。三四郎が著るしく感じたのは、その水彩の色が、どれもこれも薄くて、数が少くって、対照に乏しくって、日向(ひなた)へでも出さないと引き立たないと思う程地味に描いてあるという事である。その代り筆が些(ちっ)とも滞っていない。殆んど一気呵(か)成(せい)に仕上げた趣がある。絵の具の下に鉛筆の輪郭(りんかく)が明かに透いて見えるのでも、洒落(しゃらく)な画風がわかる。>
丹青会とは、明治41年に上野で開催された太平洋画会第6回展のことで、ここで深見先生こと浅井忠の回顧展が開催されていた。浅井はこの展覧会の前年、明治40年に京都で51歳で亡くなっている。
夏目漱石はひと回り年配の洋画家浅井忠を畏敬してやまなかった。上の『三四郎』の文章からも、浅井の絵の質の高さを世に知らしめる意図が窺えるし、『それから』にも「湯呑には、京都の浅井黙語の模様画が染め付けてあった」と浅井を登場させているほどだ(「黙語」は浅井の号)。
漱石は明治33年10月に英国留学の途上パリに立ち寄り、ひと足先に同地に44歳という遅い留学をしていた浅井を訪ねている。浅井は明治29年に東京・上根岸に居を構えたことで近くに住むジャーナリストの陸羯(くがかつ)南(なん)や正岡子規と交流を深め、子規庵にも出入りするようになっていた。漱石はその子規の紹介で、パリの浅井を訪ねたのである。このときの出会いがふたりの初対面らしく、よほど気が合ったのか2年後の明治35年には日本への帰国途上の浅井がロンドンの漱石を訪ね、下宿に4日間も滞在しているのである。
漱石は浅井没後、明治41年の講演で次のように回想している。
「私が先年倫敦に居った時、此間亡くなった浅井先生と市中を歩いたのであります。其時浅井先生はどこの町へ出てもどの建物を見てもあれは好い色だ、これは好い色だと、とうとう家へ帰る迄色尽しで御仕舞いになりました。流石画伯だけあって、違ったものだ、先生は色で世界が出来上がってると考えてるんだと大いに悟りました」
わかいころ建築家志望だった漱石は、留学時代から美術工芸誌「The Studio」を定期購読するほどの美術好きで、かれの芸術観の基層には当時欧州を席巻していたアーツ・アンド・クラフツ運動やアール・ヌーヴォーの影響、そして洋画家浅井忠の存在がどっしりと盤踞(ばんきょ)していたはずである。
また子規が「写生」に目覚めるのも浅井忠との出会いによる。浅井はわかい弟子の中村不折(ふせつ)(画家・書家)を子規に紹介し、その不折をして浅井が師フォンタネージから学んだ絵画技法である写生の本質を子規に伝授せしめ、子規はそれを俳句や短歌にも応用するようになる。漱石の『吾輩は猫である』初版本の上巻挿画を不折、中・下巻を浅井が描いていることからも漱石・子規と画家の浅井・不折の親密さが見てとれるだろう。
さて浅井の洋行が決まってのち、明治33年1月16日に陸、子規のほか画家や俳人など10人ほどが集まり子規庵で送別会が開かれた。長身で端正な風貌の浅井をいつも「先生」と呼び尊敬してやまなかった子規であったが、病の悪化で死を覚悟していたかれはそのとき「先生のお留守さむしや上根岸」の句を詠み、もう会えぬかもしれぬ浅井を哀惜したのである。しかしさいわいにも浅井は帰国後、開校予定の京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)の教授として京都へ移住する前に子規を見舞うことができたのだ。このわずか3週間後に子規は亡くなる。
浅井は子規没後、ホトトギスの子規追悼集に「子規居士弄丹青図」を描いて子規を哀悼している。サラサラと鉛筆で描いたような戯画風の絵で、縁側のほうにころがる3個の柿と鉢植えの花を写生しているのだろうか、無精ひげの子規が床に横になったまま絵を描いている。生前の子規の特徴をよくとらえた愛情あふれる絵だ。
このように明治の文化人たちにおおきな影響を与えた“日本近代洋画の父”浅井忠はしかし没後、薩摩出身で11歳年少の黒田清輝(せいき)の陰に隠れてしまい、作品のレベルのみならずその先駆的業績すら過小評価されてきた感がある。浅井の生きた明治という時代は、社会のあらゆる分野が薩長土肥、なかんずく薩長二藩の下級武士たちによる「薩長に非ずんば人に非ず」と云われるほどに強力な藩閥政治の只中にあり、絵画芸術もむろんその埒外にはなかったのだ。
浅井忠は、江戸東方の要衝であった下総の佐倉藩(現千葉県佐倉市)出身である。同藩は幕末、英邁な藩主堀田正陸(まさよし)(のち幕府老中首座)が江戸の蘭方医佐藤泰然を招き、大坂の適塾と並び称される高名な蘭学塾「順天堂」(現順天堂大学の前身)を創設するなど学問分野におおくの俊才―思想家の西村茂樹、外交官の林董(ただす)、医者の松本良順、農学者の津田仙(せん)など―を輩出したことで知られるが、戊辰戦争で新政府軍の前にやむなく恭順、禄高三百石の藩士の長男であった浅井忠之丞(のちに忠と改名)は朝敵の子、負け組として冷や飯を食うことになるのだ。
一方、勝ち組である薩摩の子爵の養子として何不自由なく育った黒田清輝は、明治17年に弱冠18歳でフランスに留学する。もともとは政治家を目指し法律を学ぶ予定だったが、土佐の国沢新九郎同様に絵画に興味が移り転向する。この10年間にもわたる優雅な留学生活が、黒田におおきな僥倖をもたらすことになる。
黒田の洋行中、国内では岡倉天心とフェノロサによる洋画排斥運動が燃えさかり、洋画家たちは死に体も同然になっていたのだ。展覧会での洋画展示も禁止され、明治22年に開校された東京美術学校(学長は岡倉天心)にも西洋画科は設置されないという逆風下、洋画家のリーダー格であった浅井は日本初の美術団体「明治美術会」を創設して必死に踏ん張っていた。そんな矢先の明治26年7月、薩閥のプリンス黒田清輝が帰国する。
黒田の帰国は浅井ら洋画家に朗報と思われたが、黒田は帰国の3年後に明治美術会と袂を分かって新グループ「白馬会」を創設し、その翌月に天心は東京美術学校長を罷免され同校に西洋画科が設置されると同時に黒田が教授に就任、洋画界は政治に翻弄されつつ内部分裂してゆく。印象派風の明るい絵を描く白馬会の画家らは外光派・紫派と呼ばれてもてはやされ、浅井らは脂(やに)派・旧派と揶揄されるようになるのだ。日本の美術界はすでに黒田清輝を中心に回りはじめていたのである。
そんな流派同士の不毛な争いにほとほと嫌気がさしていた浅井に突然、文部省からパリ万博の監査官任命と2年間のフランス留学の命が下る。浅井は渡りに船とばかりに翌年の明治33年に渡欧、帰国後は東京美術学校教授を辞して京都に赴き、京都高等工芸学校開校と同時に教授として図案科で美術やデザインを教え、聖護院洋画研究所のちに関西美術院を創設して後進の指導を行うようになる。派閥争いにうつつをぬかす東京の美術界をよそに、浅井は京都で悠然と油絵、水彩画、陶芸のほか洒脱なデザイン画を描き、のちの日本画壇を代表する梅原龍三郎、安井曾太郎、津田青楓らを育ててゆくのである。
だが残念なことに、そんな生活も永くは続かなかった。
京都に移住してわずか5年後の明治40年暮れ、美術・工芸の革新を目指した天性の芸術家は、時代の波に翻弄されながら51年の生涯を古都の地で閉じるのである。死の間際まで関西美術院と京都高等工芸学校の学生らを気にかけ、「どうか美術院も学校も宜しく頼む」と言い遺したという。
実を云うと、わたしはその旧京都高等工芸学校、現在の京都工芸繊維大学の建築工芸学科卒である。同科は昔の図案科であるから、不肖ながらわたしは浅井忠の遥か遠い弟子ということになる。そう勝手に決めこんで、最近はヘタな素描や水彩画をはじめている。お手本は云うまでもなく、浅井黙語先生である。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
2021年06月28日
災禍の根源にあるもの
先月5月5日の「こどもの日」に掲載された、子どもの貧困化に関する新聞記事を読みながら、暗澹たる気持ちになった。
「世界の子ども貧困7億人」「コロナ禍 所得減直撃」「格差拡大 民間頼り限界」などの見出しが並ぶその特集記事は、21世紀初頭からのグローバル経済の進展に伴って世界の貧富差は急速に拡大しており、終息の見えないコロナ禍がそれを大きく加速させて世界中の子どもたちを直撃しているという内容である。災禍というものはいつの時代も、いちばん弱い者に襲いかかる。
記事によると、ユニセフと世銀の推計で2017年の世界の子どもの6人に1人に当たる3億5600万人が1日1.9ドル(約210円)以下で生活する極貧状態にあり、これが19年には5億8200万人、20年末には7億2500万人にまで増えているという。なんと直近3年間で食べることもままならぬ子どもの数が倍以上に急増しているのだ。大人と違って子どもの貧困は心身の成長に甚大な危害をもたらし、その影響は生涯にわたり続くといわれる。
むろんこの惨状はアフリカ、南アジア、中南米などの発展途上国だけの現象ではない。日本の「子どもの貧困率」(中間的な所得の半分に満たない世帯で暮らす18歳未満の割合)はリーマンショック後の2012年には16.3%という異常な高さとなり、「子ども食堂」という聞きなれない民間施設がこの年に誕生した。見るに見かねた大人たちが地域の子どもたちに無償で食事を提供し始めたのだが、これは行政に見捨てられた子どもたちの“駆け込み寺”となり、年々増えつづけて19年の調査では全国3718か所にものぼっている。いつの間に日本はこんな国になったのかと嘆息するほかないが、このたびのコロナ禍により子ども食堂も感染対策で活動制限せざるを得ず、事態は悪化の一途をたどっている。
その一方、アメリカに本拠を置く巨大IT企業GAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)はこれまでにも増して大きく業績を伸ばし、莫大な利益を上げていることが報じられて人びとを驚嘆させている。これは世界的な子どもの貧困化とはまさに好対照をなす実に象徴的な出来事だ。
とはいえ表面的にはこれらの巨大IT企業が不正を働いて暴利をむさぼっているわけではないし、上に挙げた子どもの貧困化とも直接かかわりはないように見える。コロナウイルスの流行により地球上のほぼすべての国で人びとの活動が制限され、皆が家に籠ってパソコンやスマホでネットショッピングやゲームに没入していることがGAFAにとっておおきなビジネスチャンスになったというのが一般的な見方だ。
だが、果たして本質はそんなに単純なことなのか。
ここで、1995年に世を去ったドイツ人作家ミヒャエル・エンデの代表作『モモ』の話をしたい。『モモ』(岩波書店)は日本だけでも340万部以上の発行部数を誇る世界的ロングセラーで、こんなストーリーである。
主人公は廃墟の円形劇場に住む、粗末な身なりの孤児の少女モモ。彼女は人の話を聴く能力に長け、そのために彼女の周りには道路掃除夫ペッポや観光ガイドのジジら街の大人や子どもがいつも集まって穏やかに暮していた。そこにある日、「時間貯蓄銀行」から来た外交員「灰色の男たち」が姿を見せ始め、人びとに「時間を節約し、銀行に預ければ、利子によって何倍もの時間が得られる」と勧誘するようになる。時間を預けて、無駄遣いしないようひたすら効率的な生活をするようになった街の人びとはどんどん不機嫌になり、ついには生きる喜びを失っていく。「灰色の男たち」は世界中の余分な時間を独占しようとしていたのだ。それを知ったモモは「時間どろぼう」に盗まれた人びとの時間を取りもどすために、不思議なカメ・カシオペイアとともに戦いに乗りだしてゆく―。
この物語は、「時間」というものの大切さと生きることの意味を問うファンタジーだが、実は本意はもっと根源的なところにある。エンデがこの作品で「時間」に仮託したのは、現代社会を覆う極端な貧富差やとどまるところを知らぬ環境破壊など地球上の諸悪の根源にあるのが、「お金」の問題であるというテーゼなのだ。
『エンデの遺言―根源からお金を問うこと―』(NHK出版)でエンデは、現代社会は「お金」の病に罹(かか)っていると指摘する。
「どう考えてもおかしいのは資本主義体制下の金融システムではないでしょうか。人間が生きていくことのすべて、つまり個人の価値観から世界像まで、経済活動と結びつかないものはありません。問題の根源はお金にあるのです」
あらゆる「物」は時間の経過とともに古びて価値は減っていくが、「お金」だけは価値が減らないどころか利子を生んで増えていく。現在の金融システムと貨幣制度こそ、利が利を生む現代の錬金術であり、お金(投機マネー)が生み出す膨大な利子によって世界中の弱者や貧者から資産家に所得移転される仕組みなのである。『モモ』の中の「灰色の男たち」とは、この不正な貨幣システムの受益者のことなのだ。
われわれは家や車をローンで買ったときだけ利子を払っているのではない。企業は銀行から資金を借り、利子を加えてそれを返している。その利子分は企業の販売する商品やサービスの価格に上乗せされる。もしその価格から利子分がなくなると物やサービスの値段は3割ほども安くなり、庶民の所得はいまの2倍にもなるといわれる。つまりこの貨幣システムによりわれわれは自動的に収奪され、貧者はますます貧しくなり、その分、受益者(先進国及び資産家)はますます肥え太っていく仕組みになっているのだ。
わたしはかつて本コラムで、世界の大富豪上位8人の総資産が、世界人口のうち所得の低い半分に相当する36億人の総資産と同額であるという驚くべきニュースを取り上げたことがあった。この富豪のうち6人はGAFAのアマゾン創業者ジェフ・ベゾス、フェイスブック創業者マーク・ザッカーバーグ、そしてマイクロソフトの創業者ビル・ゲイツなどのアメリカ人であり、そのアメリカは1%の人間がその他の99%よりも多くを所有しているといわれるほどの極端な格差社会だ。そして同時に、アメリカのような先進国は毎日、莫大な利子を第三世界から自動的に奪っているのである。
そしてさらに深刻な問題がある。『エンデの遺言』の中でかれは、お金にまつわる象徴的な例として、スイスの経済学者ビンズヴァンガーの著書からこんな実話を引いている。
<ロシアのバイカル湖の湖畔に暮らす漁民たちは紙幣というものがその地方に導入されるまではよい生活を送っていた。毎日売れるだけの量を獲っていたのだが、今ではバイカル湖の魚は最後の一匹まで獲りつくされてしまった。それは、ある日紙幣が入ってきたからだ。紙幣と一緒に銀行ローンもやってきて、漁師たちは競ってローンで大きな船を買い、より効果的な漁法を採用し、冷凍倉庫を建て、獲った魚は遠くまで運搬できるようになった。すると対岸の漁師も負けじとさらに大きな船を買い、大量に魚を獲り始めた。ローンを利子付きで返すためにもそうせざるを得なかったのだ。その結果、湖に魚がいなくなってしまった。>
金融・貨幣システムが人心を荒廃させるだけでなく、地球資源がとめどなく収奪され、自然環境が破壊され続ける現実の深刻さ。エンデは「わたしたちは短期的利潤のためにおのれの畑を荒らし、土壌を不毛にしている農夫と同じだ」と断じ、パン屋でパンを買うときに払うお金と、株式取引所で扱われる資本としてのお金が同じであってはならないと主張する。錬金術によってグロテスクに自己増殖する膨大な資本の成長は無から生ずるものではなく、どこかの誰かが犠牲になり、自然が犠牲になっているからだ。
「貨幣を実際になされた労働や物的価値の等価代償として取り戻すためには、いまの貨幣システムの何を変えるべきなのか、ということです。これは人類がこの惑星で今後も生存できるかどうかを決める決定的な問いであると、わたしは思っています」「人々はお金は変えられないと考えていますが、そうではありません。お金は変えられます。人間がつくったものですから」(同)
『モモ』は、盗まれた時間をモモが取り戻してハッピーエンドで終る。だがモモのいない現実社会は残酷だ。コロナ禍で追いつめられる大勢の貧しい子どもたちと、それをビジネスチャンスに天文学的な利益を上げるGAFAの存在がなによりも雄弁に物語る。そしてこのふたつの象徴的な現象には、あきらかな因果関係がある。そこに目をつぶらず、叡智をあつめて本気で踏み込まぬかぎり、SDGsや脱炭素などの緩い弥縫(びほう)策をいくら繰り出しても、残念ながら本質的な問題解決になりはしないだろう。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
「世界の子ども貧困7億人」「コロナ禍 所得減直撃」「格差拡大 民間頼り限界」などの見出しが並ぶその特集記事は、21世紀初頭からのグローバル経済の進展に伴って世界の貧富差は急速に拡大しており、終息の見えないコロナ禍がそれを大きく加速させて世界中の子どもたちを直撃しているという内容である。災禍というものはいつの時代も、いちばん弱い者に襲いかかる。
記事によると、ユニセフと世銀の推計で2017年の世界の子どもの6人に1人に当たる3億5600万人が1日1.9ドル(約210円)以下で生活する極貧状態にあり、これが19年には5億8200万人、20年末には7億2500万人にまで増えているという。なんと直近3年間で食べることもままならぬ子どもの数が倍以上に急増しているのだ。大人と違って子どもの貧困は心身の成長に甚大な危害をもたらし、その影響は生涯にわたり続くといわれる。
むろんこの惨状はアフリカ、南アジア、中南米などの発展途上国だけの現象ではない。日本の「子どもの貧困率」(中間的な所得の半分に満たない世帯で暮らす18歳未満の割合)はリーマンショック後の2012年には16.3%という異常な高さとなり、「子ども食堂」という聞きなれない民間施設がこの年に誕生した。見るに見かねた大人たちが地域の子どもたちに無償で食事を提供し始めたのだが、これは行政に見捨てられた子どもたちの“駆け込み寺”となり、年々増えつづけて19年の調査では全国3718か所にものぼっている。いつの間に日本はこんな国になったのかと嘆息するほかないが、このたびのコロナ禍により子ども食堂も感染対策で活動制限せざるを得ず、事態は悪化の一途をたどっている。
その一方、アメリカに本拠を置く巨大IT企業GAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)はこれまでにも増して大きく業績を伸ばし、莫大な利益を上げていることが報じられて人びとを驚嘆させている。これは世界的な子どもの貧困化とはまさに好対照をなす実に象徴的な出来事だ。
とはいえ表面的にはこれらの巨大IT企業が不正を働いて暴利をむさぼっているわけではないし、上に挙げた子どもの貧困化とも直接かかわりはないように見える。コロナウイルスの流行により地球上のほぼすべての国で人びとの活動が制限され、皆が家に籠ってパソコンやスマホでネットショッピングやゲームに没入していることがGAFAにとっておおきなビジネスチャンスになったというのが一般的な見方だ。
だが、果たして本質はそんなに単純なことなのか。
ここで、1995年に世を去ったドイツ人作家ミヒャエル・エンデの代表作『モモ』の話をしたい。『モモ』(岩波書店)は日本だけでも340万部以上の発行部数を誇る世界的ロングセラーで、こんなストーリーである。
主人公は廃墟の円形劇場に住む、粗末な身なりの孤児の少女モモ。彼女は人の話を聴く能力に長け、そのために彼女の周りには道路掃除夫ペッポや観光ガイドのジジら街の大人や子どもがいつも集まって穏やかに暮していた。そこにある日、「時間貯蓄銀行」から来た外交員「灰色の男たち」が姿を見せ始め、人びとに「時間を節約し、銀行に預ければ、利子によって何倍もの時間が得られる」と勧誘するようになる。時間を預けて、無駄遣いしないようひたすら効率的な生活をするようになった街の人びとはどんどん不機嫌になり、ついには生きる喜びを失っていく。「灰色の男たち」は世界中の余分な時間を独占しようとしていたのだ。それを知ったモモは「時間どろぼう」に盗まれた人びとの時間を取りもどすために、不思議なカメ・カシオペイアとともに戦いに乗りだしてゆく―。
この物語は、「時間」というものの大切さと生きることの意味を問うファンタジーだが、実は本意はもっと根源的なところにある。エンデがこの作品で「時間」に仮託したのは、現代社会を覆う極端な貧富差やとどまるところを知らぬ環境破壊など地球上の諸悪の根源にあるのが、「お金」の問題であるというテーゼなのだ。
『エンデの遺言―根源からお金を問うこと―』(NHK出版)でエンデは、現代社会は「お金」の病に罹(かか)っていると指摘する。
「どう考えてもおかしいのは資本主義体制下の金融システムではないでしょうか。人間が生きていくことのすべて、つまり個人の価値観から世界像まで、経済活動と結びつかないものはありません。問題の根源はお金にあるのです」
あらゆる「物」は時間の経過とともに古びて価値は減っていくが、「お金」だけは価値が減らないどころか利子を生んで増えていく。現在の金融システムと貨幣制度こそ、利が利を生む現代の錬金術であり、お金(投機マネー)が生み出す膨大な利子によって世界中の弱者や貧者から資産家に所得移転される仕組みなのである。『モモ』の中の「灰色の男たち」とは、この不正な貨幣システムの受益者のことなのだ。
われわれは家や車をローンで買ったときだけ利子を払っているのではない。企業は銀行から資金を借り、利子を加えてそれを返している。その利子分は企業の販売する商品やサービスの価格に上乗せされる。もしその価格から利子分がなくなると物やサービスの値段は3割ほども安くなり、庶民の所得はいまの2倍にもなるといわれる。つまりこの貨幣システムによりわれわれは自動的に収奪され、貧者はますます貧しくなり、その分、受益者(先進国及び資産家)はますます肥え太っていく仕組みになっているのだ。
わたしはかつて本コラムで、世界の大富豪上位8人の総資産が、世界人口のうち所得の低い半分に相当する36億人の総資産と同額であるという驚くべきニュースを取り上げたことがあった。この富豪のうち6人はGAFAのアマゾン創業者ジェフ・ベゾス、フェイスブック創業者マーク・ザッカーバーグ、そしてマイクロソフトの創業者ビル・ゲイツなどのアメリカ人であり、そのアメリカは1%の人間がその他の99%よりも多くを所有しているといわれるほどの極端な格差社会だ。そして同時に、アメリカのような先進国は毎日、莫大な利子を第三世界から自動的に奪っているのである。
そしてさらに深刻な問題がある。『エンデの遺言』の中でかれは、お金にまつわる象徴的な例として、スイスの経済学者ビンズヴァンガーの著書からこんな実話を引いている。
<ロシアのバイカル湖の湖畔に暮らす漁民たちは紙幣というものがその地方に導入されるまではよい生活を送っていた。毎日売れるだけの量を獲っていたのだが、今ではバイカル湖の魚は最後の一匹まで獲りつくされてしまった。それは、ある日紙幣が入ってきたからだ。紙幣と一緒に銀行ローンもやってきて、漁師たちは競ってローンで大きな船を買い、より効果的な漁法を採用し、冷凍倉庫を建て、獲った魚は遠くまで運搬できるようになった。すると対岸の漁師も負けじとさらに大きな船を買い、大量に魚を獲り始めた。ローンを利子付きで返すためにもそうせざるを得なかったのだ。その結果、湖に魚がいなくなってしまった。>
金融・貨幣システムが人心を荒廃させるだけでなく、地球資源がとめどなく収奪され、自然環境が破壊され続ける現実の深刻さ。エンデは「わたしたちは短期的利潤のためにおのれの畑を荒らし、土壌を不毛にしている農夫と同じだ」と断じ、パン屋でパンを買うときに払うお金と、株式取引所で扱われる資本としてのお金が同じであってはならないと主張する。錬金術によってグロテスクに自己増殖する膨大な資本の成長は無から生ずるものではなく、どこかの誰かが犠牲になり、自然が犠牲になっているからだ。
「貨幣を実際になされた労働や物的価値の等価代償として取り戻すためには、いまの貨幣システムの何を変えるべきなのか、ということです。これは人類がこの惑星で今後も生存できるかどうかを決める決定的な問いであると、わたしは思っています」「人々はお金は変えられないと考えていますが、そうではありません。お金は変えられます。人間がつくったものですから」(同)
『モモ』は、盗まれた時間をモモが取り戻してハッピーエンドで終る。だがモモのいない現実社会は残酷だ。コロナ禍で追いつめられる大勢の貧しい子どもたちと、それをビジネスチャンスに天文学的な利益を上げるGAFAの存在がなによりも雄弁に物語る。そしてこのふたつの象徴的な現象には、あきらかな因果関係がある。そこに目をつぶらず、叡智をあつめて本気で踏み込まぬかぎり、SDGsや脱炭素などの緩い弥縫(びほう)策をいくら繰り出しても、残念ながら本質的な問題解決になりはしないだろう。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
2021年03月25日
卑に非(あら)ず
10年ほど前、事務所として借りていたマンションから実家の一角にある亡父の書庫に引っ越すことを思い立ち、不要なガラクタ類を処分してデスク、パソコン、ソファなどを設(しつら)えて現在に至るまで使用している。父のかなりの量の蔵書(岳父とわたし自身のものも含まれるが)に日々囲まれているわけだ。
わたしの父は知る人ぞ知る変り者だったが、残された本を見ていると人格形成の過程がなんとなくわかる気がして面白く、何より本コラムのような原稿を書くうえでそれらの蔵書がどれだけ役に立っているか知れない。いまでは入手できない本も少なくないからだ。
地声がおおきく喜怒哀楽の激しい典型的な“高知のおんちゃん”であった本好きの父が鬼籍に入ったのはいまから16年前である。葬儀の前夜、喪主であった当時48歳のわたしは参列者を前にどのような挨拶をしようかとあれこれ思いあぐねていた。そう長くはしゃべれないので、ごく簡潔に父の人となりを表現できる言葉はないものか。
そしてふと浮かんだのが、「粗(そ)にして野(や)だが卑(ひ)ではない」というフレーズだった。まさにぴったりだと思ったのだ。
これは『粗にして野だが卑ではない−石田禮助の生涯−』(城山三郎著、文芸春秋)からの引用で、戦前に三井物産で華々しい業績をあげて代表取締役社長にまで栄進し、戦後77歳で第5代国鉄総裁に就任して経営合理化と機構改革に取り組んだ石田禮助が国会で大勢の国会議員たちを前に言った言葉である。
父の葬儀の日は激しい雨であった。出棺を前にしてわたしは、雨の中をわざわざ足を運んでくださった参列者へのお礼と父の一生を簡単に述べたあと、次のように続けた。
「父は社会的な地位や名誉にも、お金にもまったく縁のない男でした。しかし、何者からも自由であり、また思うがまま生きた男でした。幸せな一生だったと思います。そして父の人となりを考えたとき、ある言葉が頭に浮かんできます。それは、<粗にして野だが卑ではない>という言葉です」
しゃべり言葉でこれを言うと相手に意味がわかりにくいので、「粗」「野」「卑」の漢字を想起してもらう説明を加え、石田禮助のことを添えて話したことだった。はたして参列者にきちんと伝わったかどうか心もとなかったが、あとで家内から「理解できたよ」と言われ、すこし安心したことを思い出す。
さて、「粗にして野だが卑ではない」という痛快な言葉を吐いた石田禮助(1886〜1978)とはいかなる人物であったか。
戦後の米軍占領下、昭和24年に設立された日本国有鉄道(国鉄)は当初から問題山積で誰が総裁になっても経営困難と思われていた。初代総裁の下山定則は謎の轢死体となり、第2代の加賀山之雄は桜木町事故の責任をとらされて辞任、第4代の十河(そごう)信二は三河島事故があり、また新幹線予算問題で2期目の任期を全うできず辞職に追い込まれている。当時の国鉄は事故も多く労働争議も苛烈を極めていたのだ。
時の総理、池田勇人は次の総裁にはなんとしても民間から財界人を起用して経営合理化に取り組みたいと考え、経団連会長・石坂泰三に人選を依頼した。池田のライバルだった佐藤栄作の国鉄への影響力を殺(そ)ぐ意図もあったようだ。
だがそもそも石坂自身が初代総裁就任を現役の身だからと断り、小林一三なども「何ひとつ権限のない仕事をやらせる気か」と撥(は)ねつけ、けっきょく運輸次官だった下山が総裁になった経緯もあるほどで、石坂は次の総裁人選にあたり松下幸之助や王子製紙の中島慶次などからも断られ、困り果てて最後にダメ元で親友の石田禮助を頼ったのである。石田は当時、十河からたのまれ国鉄の監査委員長をしており内情に詳しいこともあった。
だが、石田が「乃公(だいこう)出でずんば」とばかりこれをすんなり受けたことに当の石坂が逆に驚いた。どう考えても、功成り名を遂げた財界人なら誰もがやりたがらない晩節を汚しかねない大仕事なのだ。おまけに77歳という高齢である。
石田は高橋圭三との対談で言っている。
「あれら(断った財界人ら)は一国一城の主で、安定してらぁ。(笑)こんなところにノコノコ入ってくるのは、ちょっと狂い気味だね。(笑)またそういうのをひっぱってきたって、わかりゃせんわ」
アメリカを中心に海外生活28年、辣腕の商社マンとして商売に徹した半生を過ごしたかれにとって、晩年には金儲けとは無縁のパブリック・サービスに奉仕したいという思いが強かった。総裁就任についても「パスポート・フォア・ヘブン(天国への旅券)だ」と言い、総裁報酬は年1本のブランデーのみとして金銭を受けとらなかった。いやそれどころか、池田総理から勲一等叙勲の申し入れがあったときも、「おれはマンキー(山猿)だよ。マンキーが勲章下げた姿見られるか。見られやせんよ、キミ」と一笑に付して辞退している。「役人ごときに人物評価され、おまけに順位をつけられるいわれはない」と叙勲を辞退する人物もいるにはいるが、このあっけらかんは見事のひと言だ。
昭和38年、第5代国鉄総裁就任にあたり、石田は慣例によって国会で挨拶をすることになった。国鉄は国が100%の株式を持つ国有公社なので、国会は株主総会のようなものだ。
ところが、まっすぐ背を伸ばした長身の石田はそこで開口一番、「諸君!」とやって、ふだん周りから「先生」と呼ばれる代議士たちを面食らわせた。そして「わたしは嘘は絶対につきませんが、知らぬことは知らぬと言うから、どうかご勘弁を」と述べたあと、「生来、粗にして野だが卑ではないつもり。丁寧な言葉を使おうと思っても、生まれつきでできない。無理に使うと、マンキーが裃(かみしも)を着たような、おかしなことになる。無礼なことがあれば、よろしくお許し願いたい」とまったく異例の、というより痛快無比な挨拶をし、そしてとどめに「国鉄が今日のような状態になったのは、諸君たちにも責任がある」と言い放ったのだ。議場はざわつき、代議士たちから怒りの声が上がったのは云うまでもない。「なんだ、この無礼な爺さんは!」というわけだ。
就任後の石田はまさに矍鑠(かくしゃく)として6年間にわたり国鉄改革に力を尽くし、社内に企業精神を植えつけて引退した。引退後は一農園主として国府津(こうづ)(神奈川県)に隠棲、92歳の天寿を全うした。最後の言葉は、「今年の稲はどうだ」だった。葬儀は国府津の自宅で行われ、参列者もすくなくきわめて簡素であったという。
石田は生前、「葬式なぞは簡素にするものだ」と言い、自分の葬儀についても口酸っぱく妻に言い含めていた。曰く「死亡通知を出す必要はない」「物産や国鉄が社葬にしようと言ってくるかも知れぬが、おれは現職ではない。彼等の費用をつかうなんて、もってのほか。葬式は家族だけで営め」「香典や花輪は一切断われ」「戒名はなくてもいい。天国で戒名がないからといって差別されることもないだろう」「葬式が終わった後、内々で済ませましたとの通知だけ出せ」等々。これを妻は忠実に守った。
この遺言は、95歳で世を去った石田よりすこし先輩の「電力の鬼」松永安左エ門を思い起こさせる。「官吏は人間のクズである」と公言して憚らなかった自由主義者で、一貫して野にあり、いまの民営9電力体制を創り上げた男だ。この爺さんの遺言状もすごい。
<何度も申し置く通り、死後一切の葬儀・法要はうずくの出るほど嫌いに是れあり。墓碑一切、法要一切が不要。線香類も嫌い。死んで勲章位階(もとより誰もくれまいが友人の政治家が勘違いで尽力する不心得、かたく禁物)これはヘドが出る程嫌いに候。財産はセガレおよび遺族に一切くれてはいかぬ。彼らがダラクするだけです。…>
松永も石田に負けず劣らず、「粗にして野だが卑ではない」男であったが、明治生まれの傑物はやはりケタが違う。それを思えば、いまの政財官界でふんぞり返る連中がいかに小者で、そして何よりいかに卑なることか。
ところで、父の書庫を事務所にすべく蔵書を整理したところ、石田の著書『いいたいほうだい』(日本経済新聞社)、さらに城山三郎の『粗にして野だが卑ではない』も発見した。そうか父も読んでいたかと感慨深いものがあったが、息子が自分の葬儀でそれを引用するとは想像もしなかったろう。
いまにしてみれば石田禮助の名言をわが父の葬儀で使ったのはいささか“子の欲目”であったが、父を知る参列者にはそれなりに納得してもらえたはずである。そして何より、「かく云うおぬしはどうか」と自問自戒する機縁になったことに意味はあったと思っている。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
わたしの父は知る人ぞ知る変り者だったが、残された本を見ていると人格形成の過程がなんとなくわかる気がして面白く、何より本コラムのような原稿を書くうえでそれらの蔵書がどれだけ役に立っているか知れない。いまでは入手できない本も少なくないからだ。
地声がおおきく喜怒哀楽の激しい典型的な“高知のおんちゃん”であった本好きの父が鬼籍に入ったのはいまから16年前である。葬儀の前夜、喪主であった当時48歳のわたしは参列者を前にどのような挨拶をしようかとあれこれ思いあぐねていた。そう長くはしゃべれないので、ごく簡潔に父の人となりを表現できる言葉はないものか。
そしてふと浮かんだのが、「粗(そ)にして野(や)だが卑(ひ)ではない」というフレーズだった。まさにぴったりだと思ったのだ。
これは『粗にして野だが卑ではない−石田禮助の生涯−』(城山三郎著、文芸春秋)からの引用で、戦前に三井物産で華々しい業績をあげて代表取締役社長にまで栄進し、戦後77歳で第5代国鉄総裁に就任して経営合理化と機構改革に取り組んだ石田禮助が国会で大勢の国会議員たちを前に言った言葉である。
父の葬儀の日は激しい雨であった。出棺を前にしてわたしは、雨の中をわざわざ足を運んでくださった参列者へのお礼と父の一生を簡単に述べたあと、次のように続けた。
「父は社会的な地位や名誉にも、お金にもまったく縁のない男でした。しかし、何者からも自由であり、また思うがまま生きた男でした。幸せな一生だったと思います。そして父の人となりを考えたとき、ある言葉が頭に浮かんできます。それは、<粗にして野だが卑ではない>という言葉です」
しゃべり言葉でこれを言うと相手に意味がわかりにくいので、「粗」「野」「卑」の漢字を想起してもらう説明を加え、石田禮助のことを添えて話したことだった。はたして参列者にきちんと伝わったかどうか心もとなかったが、あとで家内から「理解できたよ」と言われ、すこし安心したことを思い出す。
さて、「粗にして野だが卑ではない」という痛快な言葉を吐いた石田禮助(1886〜1978)とはいかなる人物であったか。
戦後の米軍占領下、昭和24年に設立された日本国有鉄道(国鉄)は当初から問題山積で誰が総裁になっても経営困難と思われていた。初代総裁の下山定則は謎の轢死体となり、第2代の加賀山之雄は桜木町事故の責任をとらされて辞任、第4代の十河(そごう)信二は三河島事故があり、また新幹線予算問題で2期目の任期を全うできず辞職に追い込まれている。当時の国鉄は事故も多く労働争議も苛烈を極めていたのだ。
時の総理、池田勇人は次の総裁にはなんとしても民間から財界人を起用して経営合理化に取り組みたいと考え、経団連会長・石坂泰三に人選を依頼した。池田のライバルだった佐藤栄作の国鉄への影響力を殺(そ)ぐ意図もあったようだ。
だがそもそも石坂自身が初代総裁就任を現役の身だからと断り、小林一三なども「何ひとつ権限のない仕事をやらせる気か」と撥(は)ねつけ、けっきょく運輸次官だった下山が総裁になった経緯もあるほどで、石坂は次の総裁人選にあたり松下幸之助や王子製紙の中島慶次などからも断られ、困り果てて最後にダメ元で親友の石田禮助を頼ったのである。石田は当時、十河からたのまれ国鉄の監査委員長をしており内情に詳しいこともあった。
だが、石田が「乃公(だいこう)出でずんば」とばかりこれをすんなり受けたことに当の石坂が逆に驚いた。どう考えても、功成り名を遂げた財界人なら誰もがやりたがらない晩節を汚しかねない大仕事なのだ。おまけに77歳という高齢である。
石田は高橋圭三との対談で言っている。
「あれら(断った財界人ら)は一国一城の主で、安定してらぁ。(笑)こんなところにノコノコ入ってくるのは、ちょっと狂い気味だね。(笑)またそういうのをひっぱってきたって、わかりゃせんわ」
アメリカを中心に海外生活28年、辣腕の商社マンとして商売に徹した半生を過ごしたかれにとって、晩年には金儲けとは無縁のパブリック・サービスに奉仕したいという思いが強かった。総裁就任についても「パスポート・フォア・ヘブン(天国への旅券)だ」と言い、総裁報酬は年1本のブランデーのみとして金銭を受けとらなかった。いやそれどころか、池田総理から勲一等叙勲の申し入れがあったときも、「おれはマンキー(山猿)だよ。マンキーが勲章下げた姿見られるか。見られやせんよ、キミ」と一笑に付して辞退している。「役人ごときに人物評価され、おまけに順位をつけられるいわれはない」と叙勲を辞退する人物もいるにはいるが、このあっけらかんは見事のひと言だ。
昭和38年、第5代国鉄総裁就任にあたり、石田は慣例によって国会で挨拶をすることになった。国鉄は国が100%の株式を持つ国有公社なので、国会は株主総会のようなものだ。
ところが、まっすぐ背を伸ばした長身の石田はそこで開口一番、「諸君!」とやって、ふだん周りから「先生」と呼ばれる代議士たちを面食らわせた。そして「わたしは嘘は絶対につきませんが、知らぬことは知らぬと言うから、どうかご勘弁を」と述べたあと、「生来、粗にして野だが卑ではないつもり。丁寧な言葉を使おうと思っても、生まれつきでできない。無理に使うと、マンキーが裃(かみしも)を着たような、おかしなことになる。無礼なことがあれば、よろしくお許し願いたい」とまったく異例の、というより痛快無比な挨拶をし、そしてとどめに「国鉄が今日のような状態になったのは、諸君たちにも責任がある」と言い放ったのだ。議場はざわつき、代議士たちから怒りの声が上がったのは云うまでもない。「なんだ、この無礼な爺さんは!」というわけだ。
就任後の石田はまさに矍鑠(かくしゃく)として6年間にわたり国鉄改革に力を尽くし、社内に企業精神を植えつけて引退した。引退後は一農園主として国府津(こうづ)(神奈川県)に隠棲、92歳の天寿を全うした。最後の言葉は、「今年の稲はどうだ」だった。葬儀は国府津の自宅で行われ、参列者もすくなくきわめて簡素であったという。
石田は生前、「葬式なぞは簡素にするものだ」と言い、自分の葬儀についても口酸っぱく妻に言い含めていた。曰く「死亡通知を出す必要はない」「物産や国鉄が社葬にしようと言ってくるかも知れぬが、おれは現職ではない。彼等の費用をつかうなんて、もってのほか。葬式は家族だけで営め」「香典や花輪は一切断われ」「戒名はなくてもいい。天国で戒名がないからといって差別されることもないだろう」「葬式が終わった後、内々で済ませましたとの通知だけ出せ」等々。これを妻は忠実に守った。
この遺言は、95歳で世を去った石田よりすこし先輩の「電力の鬼」松永安左エ門を思い起こさせる。「官吏は人間のクズである」と公言して憚らなかった自由主義者で、一貫して野にあり、いまの民営9電力体制を創り上げた男だ。この爺さんの遺言状もすごい。
<何度も申し置く通り、死後一切の葬儀・法要はうずくの出るほど嫌いに是れあり。墓碑一切、法要一切が不要。線香類も嫌い。死んで勲章位階(もとより誰もくれまいが友人の政治家が勘違いで尽力する不心得、かたく禁物)これはヘドが出る程嫌いに候。財産はセガレおよび遺族に一切くれてはいかぬ。彼らがダラクするだけです。…>
松永も石田に負けず劣らず、「粗にして野だが卑ではない」男であったが、明治生まれの傑物はやはりケタが違う。それを思えば、いまの政財官界でふんぞり返る連中がいかに小者で、そして何よりいかに卑なることか。
ところで、父の書庫を事務所にすべく蔵書を整理したところ、石田の著書『いいたいほうだい』(日本経済新聞社)、さらに城山三郎の『粗にして野だが卑ではない』も発見した。そうか父も読んでいたかと感慨深いものがあったが、息子が自分の葬儀でそれを引用するとは想像もしなかったろう。
いまにしてみれば石田禮助の名言をわが父の葬儀で使ったのはいささか“子の欲目”であったが、父を知る参列者にはそれなりに納得してもらえたはずである。そして何より、「かく云うおぬしはどうか」と自問自戒する機縁になったことに意味はあったと思っている。
Text by Shuhei Matsuoka
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2020年12月29日
小菅と菅
藤沢周平(1927〜1997)の小説をはじめて読んだのは25年ほど前だと思う。記憶はあまり定かではないが、週刊誌の記者をしていたころ、藤沢ファンの記者仲間が作品の魅力を熱っぽく語る姿にほだされてのことだった気がする。バブル経済が弾けたあと不況が長く続き、どちらかといえば地味なこの作家に静かな人気が出はじめていたころだ。
最初に読んだのは、『蝉しぐれ』だった。かれの多くの作品に登場する北国の小藩「海坂(うなさか)藩」(庄内藩をモデルとした架空の藩)を舞台とした青春小説で、その清冽な文体や爽やかな読後感とともに牧文四郎という主人公の名はいまも記憶に残っている。
わたしはそれまで時代小説をほとんど読まなかったが、気に入ってその後も短編集などを含め何冊か読んだのだった。だが、いつの間にか史実に材をとった歴史小説の方を耽読する癖がついてしまい、ある時期からすっかりご無沙汰してしまっていた。世の藤沢周平ファンからすればお恥ずかしいほどの読者にとどまっていたのである。
しかし最近、齢とともに閑(ひま)がふえ、老後の愉しみに残しておいた−ということにしておく−山本周五郎や藤沢周平をふたたび読みはじめたのだが、じつは藤沢周平という作家は、まったく個人的な理由から、わたしにとってかなり以前から気になる存在だったのだ。
もうお気づきの方もいるだろう、わたしたちは名前が同じなのだ。「なんだそんなことか」といわれそうだが、本人にとっては案外大事なことで、読者でなくても淡いシンパシーは感じていたのだ。わたしの名は本名で、藤沢周平のそれはむろんペンネームだが、それでもありふれた名前ではないため同胞意識を勝手に抱いていた。
藤沢周平の本名は小菅留治という。「こすげ とめじ」と読む。かなり田舎臭い名前だが、山形県庄内地方の米農家の次男と聞けばうなずけよう。戦後作家で農家出身というのはかなり珍しいのではないかと思うが、その出自は目立つことが嫌いで物静かなかれの性格や端正な佇まいだけでなく作品の中にも深く投影されており、主に江戸時代を舞台にした作品群に尋常ならざるリアリティを与えている。奇をてらわぬ平明で美しい文体と鮮やかな自然描写、世渡り下手だが一本筋の通った人物設定など、その傍証は挙げればきりがない。
評論家の川本三郎は、『藤沢周平のすべて』(文春文庫)の中でこう述べている。
<庄内平野の農家に生まれ育った藤沢周平は太陽と共に起き、野良で「働いている」農民たちの暮らしを身近に見ていた。その健康さを愛し、自らも好んで田圃に入った。
随筆『半生の記』のなかでこんなことを書いている。「私は師範生のころも、休暇で家に帰れば時どき田圃に降りたし、教師になってからも農繁期には兄夫婦を手伝って稲を刈った。それは私自身田圃に出て働くことが嫌いでなかったせいでもあるが、より厳密に言えば、長男である兄に対する敬意の気持ちからそうするのだった。兄夫婦が田圃で汗を流しているときに、学生だからと畳にひっくり返って本を読んでいることは出来ない。それがむかしの農家をささえていたモラルだった」。
皆んなが汗を流しているときに、自分ひとりが、「本」の世界にいることは許されない。藤沢周平の文学の核にあるのは、まぎれもなくこの「むかしの農家をささえていたモラル」である。>
多くのプロ作家や評論家からも高い評価を得る藤沢周平だが、その作品群を評したものの中でも、東京生まれの川本ならではともいえるこの視点は出色である。
ちなみにペンネームの由来だが、「藤沢」は結婚のわずか4年後にがんで早世した最初の妻の故郷(山形の一地名)であり、「周」はかれが可愛がっていた妻の甥っ子の名である。生後8ヵ月の娘を残して28歳の若さで世を去らざるを得なかった妻の無念が、かれのその後の人生に大きな暗い影となって残ったことがそのペンネームからも窺い知れる。
藤沢周平こと小菅留治は、21歳で山形師範学校を卒業して念願だった地元中学校の先生になる。しかしその2年後に肺結核が発見され、地元の病院に入院。そして主治医の勧めで東京・東村山のサナトリウムに移り、死の淵を覗きながら30歳までそこで過ごした。その間に片肺と肋骨5本を切除し、命はとりとめたが教師への復職はかなわず、東京で業界紙記者の職を得て、藤沢出身の女性を妻に迎える。その妻が早世したことは先に述べた通りだ。
かれが小説を書くようになったのは、文章を書くことが好きだったことはあるが、こういった暗い過去や負い目から逃れるただひとつの手段だったからだ。直木賞を獲ってプロ作家となってからも、永いあいだ深い鬱屈の中にいたことをのちに吐露している。
さて、小菅留治が山形県東田川郡黄金(こがね)村(現鶴岡市)に生まれてから21年後の昭和23年、留治が山形師範学校に通っていたころだが、直線距離でわずか70キロほど北にある秋田県雄勝郡秋ノ宮村(現湯沢市)に菅義偉(よしひで)が生まれた。戦後のベビーブーマー、いわゆる団塊世代だ。
小菅(こすげ)と菅(すが)―。似た苗字だが、もちろんふたりはまったくの無関係である。ただ最近、自宅にあった『藤沢周平のすべて』を読みかえしていたとき、「むかしの農家をささえていたモラル」という言葉に感慨をおぼえながら、いっぽうで何かいやなものが頭にひっかかる感じがしたのだ。そのとき脳裏に浮かんだのが、菅義偉だった。
数々のスキャンダルや新型ウイルス対策の失敗でほとんど死に体だった安倍晋三が持病を理由に首相の座を投げだし、本来はその座に就くはずのない人物が形だけの自民党総裁選を経て禅譲された。“棚ぼた”で首相の座を射止めたその人物、菅義偉が総裁選後の挨拶そして総理就任記者会見で、「秋田の農家の長男として生まれた」という決めゼリフを吐いたときにわたしが感じた違和感と不快感を思い出したのだ。
菅にとって「秋田の農家の生まれ」はいわば最大の“売り”で、ことあるごとにそのセリフを吐いてきた。内なる権力欲をこの決めゼリフと貧弱な言語能力で覆いかくし、嘘のない質実な人柄だと思わせる効果を狙っているわけだが、じつは菅の父は「秋ノ宮いちご」のブランド化を成功させ町会議員を4期務めた地元では知られた人物で、ふたりの姉は大学に行ったが長男の義偉は高校卒業後、農家を継ぎたくないのと父との確執から田舎を飛び出した、あまり出来のよくない凡庸な青年だった。一時、東京・板橋の段ボール箱製造会社で働いていたが、けっきょくは大学進学を目指し、国立に落ちて法政大学に入学する。アルバイトをしながらではあるが、いわゆる苦学はしていない。
臆面もなく自己アピールするのが政治家のつねとはいえ、世襲議員や高学歴の官僚出身ではなく東北の農家出身で苦学して大学を卒業した苦労人、という世間受けする人物像を演出し、それを“売り”にするあざとさと抜け目なさ。あまつさえ日本学術会議の推薦した学者6人を政権に楯突く徒として−とは口が裂けても言わないだろうが−恬然として拒否する異常なほどの専横ぶりは、いったいどこから来るのかと思っていたときに読んだのが川本三郎の一文だったのだ。
菅は官房長官として安倍前首相の影となって隠然と権力を揮(ふる)ってきた。政策に異を唱える官僚は左遷させて忖度官僚ばかりを重用し、かれらを使ってモリ・カケ・サクラという3点セットのスキャンダルを公文書の隠蔽や改ざんまでさせて逃げ切りを図り、NHKなどのメディア、さらには学術界にまでも圧力をかけ忖度させようとする強権ぶり。こんな専横を許せば、保身と栄達にのみひた奔(はし)る卑劣漢が社会の中枢を占めるようになり不正や腐敗が常態化するのは理の当然だが、もっと恐ろしいのは、いつしか国民がそのことを大して悪いこととも思わなくなることだ。
戦後、機械化により農家の労働は楽になった。しかしそれと軌を一にするように農民の心(精神)も農村も大きく変貌し、「むかしの農家をささえていたモラル」は急速に消え失せていった。図らずもその来歴を白日の下にしたのが、東北の農家出身を“売り”にするベビーブーマー首相・菅義偉の登場である。そして「農家をささえていたモラル」とはつまるところ「日本人をささえていたモラル」そのものだと思い至ったとき、わたしはいまの日本社会の情けない淪落ぶりも納得できたのだった。
しかしあまり悲観しすぎないでおこう。藤沢周平の作品を読めばいつでも懐かしい日本の美しい原風景や凛としたひとびとに出逢えるという事実に変わりはない。その悦びを奪いさることは、いかな権力者でもできないのだから。(文中敬称略)
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
最初に読んだのは、『蝉しぐれ』だった。かれの多くの作品に登場する北国の小藩「海坂(うなさか)藩」(庄内藩をモデルとした架空の藩)を舞台とした青春小説で、その清冽な文体や爽やかな読後感とともに牧文四郎という主人公の名はいまも記憶に残っている。
わたしはそれまで時代小説をほとんど読まなかったが、気に入ってその後も短編集などを含め何冊か読んだのだった。だが、いつの間にか史実に材をとった歴史小説の方を耽読する癖がついてしまい、ある時期からすっかりご無沙汰してしまっていた。世の藤沢周平ファンからすればお恥ずかしいほどの読者にとどまっていたのである。
しかし最近、齢とともに閑(ひま)がふえ、老後の愉しみに残しておいた−ということにしておく−山本周五郎や藤沢周平をふたたび読みはじめたのだが、じつは藤沢周平という作家は、まったく個人的な理由から、わたしにとってかなり以前から気になる存在だったのだ。
もうお気づきの方もいるだろう、わたしたちは名前が同じなのだ。「なんだそんなことか」といわれそうだが、本人にとっては案外大事なことで、読者でなくても淡いシンパシーは感じていたのだ。わたしの名は本名で、藤沢周平のそれはむろんペンネームだが、それでもありふれた名前ではないため同胞意識を勝手に抱いていた。
藤沢周平の本名は小菅留治という。「こすげ とめじ」と読む。かなり田舎臭い名前だが、山形県庄内地方の米農家の次男と聞けばうなずけよう。戦後作家で農家出身というのはかなり珍しいのではないかと思うが、その出自は目立つことが嫌いで物静かなかれの性格や端正な佇まいだけでなく作品の中にも深く投影されており、主に江戸時代を舞台にした作品群に尋常ならざるリアリティを与えている。奇をてらわぬ平明で美しい文体と鮮やかな自然描写、世渡り下手だが一本筋の通った人物設定など、その傍証は挙げればきりがない。
評論家の川本三郎は、『藤沢周平のすべて』(文春文庫)の中でこう述べている。
<庄内平野の農家に生まれ育った藤沢周平は太陽と共に起き、野良で「働いている」農民たちの暮らしを身近に見ていた。その健康さを愛し、自らも好んで田圃に入った。
随筆『半生の記』のなかでこんなことを書いている。「私は師範生のころも、休暇で家に帰れば時どき田圃に降りたし、教師になってからも農繁期には兄夫婦を手伝って稲を刈った。それは私自身田圃に出て働くことが嫌いでなかったせいでもあるが、より厳密に言えば、長男である兄に対する敬意の気持ちからそうするのだった。兄夫婦が田圃で汗を流しているときに、学生だからと畳にひっくり返って本を読んでいることは出来ない。それがむかしの農家をささえていたモラルだった」。
皆んなが汗を流しているときに、自分ひとりが、「本」の世界にいることは許されない。藤沢周平の文学の核にあるのは、まぎれもなくこの「むかしの農家をささえていたモラル」である。>
多くのプロ作家や評論家からも高い評価を得る藤沢周平だが、その作品群を評したものの中でも、東京生まれの川本ならではともいえるこの視点は出色である。
ちなみにペンネームの由来だが、「藤沢」は結婚のわずか4年後にがんで早世した最初の妻の故郷(山形の一地名)であり、「周」はかれが可愛がっていた妻の甥っ子の名である。生後8ヵ月の娘を残して28歳の若さで世を去らざるを得なかった妻の無念が、かれのその後の人生に大きな暗い影となって残ったことがそのペンネームからも窺い知れる。
藤沢周平こと小菅留治は、21歳で山形師範学校を卒業して念願だった地元中学校の先生になる。しかしその2年後に肺結核が発見され、地元の病院に入院。そして主治医の勧めで東京・東村山のサナトリウムに移り、死の淵を覗きながら30歳までそこで過ごした。その間に片肺と肋骨5本を切除し、命はとりとめたが教師への復職はかなわず、東京で業界紙記者の職を得て、藤沢出身の女性を妻に迎える。その妻が早世したことは先に述べた通りだ。
かれが小説を書くようになったのは、文章を書くことが好きだったことはあるが、こういった暗い過去や負い目から逃れるただひとつの手段だったからだ。直木賞を獲ってプロ作家となってからも、永いあいだ深い鬱屈の中にいたことをのちに吐露している。
さて、小菅留治が山形県東田川郡黄金(こがね)村(現鶴岡市)に生まれてから21年後の昭和23年、留治が山形師範学校に通っていたころだが、直線距離でわずか70キロほど北にある秋田県雄勝郡秋ノ宮村(現湯沢市)に菅義偉(よしひで)が生まれた。戦後のベビーブーマー、いわゆる団塊世代だ。
小菅(こすげ)と菅(すが)―。似た苗字だが、もちろんふたりはまったくの無関係である。ただ最近、自宅にあった『藤沢周平のすべて』を読みかえしていたとき、「むかしの農家をささえていたモラル」という言葉に感慨をおぼえながら、いっぽうで何かいやなものが頭にひっかかる感じがしたのだ。そのとき脳裏に浮かんだのが、菅義偉だった。
数々のスキャンダルや新型ウイルス対策の失敗でほとんど死に体だった安倍晋三が持病を理由に首相の座を投げだし、本来はその座に就くはずのない人物が形だけの自民党総裁選を経て禅譲された。“棚ぼた”で首相の座を射止めたその人物、菅義偉が総裁選後の挨拶そして総理就任記者会見で、「秋田の農家の長男として生まれた」という決めゼリフを吐いたときにわたしが感じた違和感と不快感を思い出したのだ。
菅にとって「秋田の農家の生まれ」はいわば最大の“売り”で、ことあるごとにそのセリフを吐いてきた。内なる権力欲をこの決めゼリフと貧弱な言語能力で覆いかくし、嘘のない質実な人柄だと思わせる効果を狙っているわけだが、じつは菅の父は「秋ノ宮いちご」のブランド化を成功させ町会議員を4期務めた地元では知られた人物で、ふたりの姉は大学に行ったが長男の義偉は高校卒業後、農家を継ぎたくないのと父との確執から田舎を飛び出した、あまり出来のよくない凡庸な青年だった。一時、東京・板橋の段ボール箱製造会社で働いていたが、けっきょくは大学進学を目指し、国立に落ちて法政大学に入学する。アルバイトをしながらではあるが、いわゆる苦学はしていない。
臆面もなく自己アピールするのが政治家のつねとはいえ、世襲議員や高学歴の官僚出身ではなく東北の農家出身で苦学して大学を卒業した苦労人、という世間受けする人物像を演出し、それを“売り”にするあざとさと抜け目なさ。あまつさえ日本学術会議の推薦した学者6人を政権に楯突く徒として−とは口が裂けても言わないだろうが−恬然として拒否する異常なほどの専横ぶりは、いったいどこから来るのかと思っていたときに読んだのが川本三郎の一文だったのだ。
菅は官房長官として安倍前首相の影となって隠然と権力を揮(ふる)ってきた。政策に異を唱える官僚は左遷させて忖度官僚ばかりを重用し、かれらを使ってモリ・カケ・サクラという3点セットのスキャンダルを公文書の隠蔽や改ざんまでさせて逃げ切りを図り、NHKなどのメディア、さらには学術界にまでも圧力をかけ忖度させようとする強権ぶり。こんな専横を許せば、保身と栄達にのみひた奔(はし)る卑劣漢が社会の中枢を占めるようになり不正や腐敗が常態化するのは理の当然だが、もっと恐ろしいのは、いつしか国民がそのことを大して悪いこととも思わなくなることだ。
戦後、機械化により農家の労働は楽になった。しかしそれと軌を一にするように農民の心(精神)も農村も大きく変貌し、「むかしの農家をささえていたモラル」は急速に消え失せていった。図らずもその来歴を白日の下にしたのが、東北の農家出身を“売り”にするベビーブーマー首相・菅義偉の登場である。そして「農家をささえていたモラル」とはつまるところ「日本人をささえていたモラル」そのものだと思い至ったとき、わたしはいまの日本社会の情けない淪落ぶりも納得できたのだった。
しかしあまり悲観しすぎないでおこう。藤沢周平の作品を読めばいつでも懐かしい日本の美しい原風景や凛としたひとびとに出逢えるという事実に変わりはない。その悦びを奪いさることは、いかな権力者でもできないのだから。(文中敬称略)
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
2020年09月29日
災害と微笑
毎年毎年、よくもまあこれほどの自然災害が起こるものだとあきれる。
大規模な豪雨災害だけみても九州南部の球磨川流域を中心に全国各地が被災した今年の7月豪雨、昨年の台風19号による東日本豪雨、一昨年の西日本豪雨と続けざまに甚大な被害を出し、被災地域もいまや日本全土に広がりつつある。
情報過剰社会にどっぷり浸かっているためか、わたしたちの脳は次の情報(刺激)を求めるのに忙しく、繰り返される災害の記憶どころかほんの数週間前のこともすっかり忘れてしまうほどだが、いまやこの国のどこに住もうと、明日はわが身であることを常に自覚して生活しなければいけないことだけは忘れてならないだろう。
それにしても、気象庁がこのような災害時に「異常気象」「想定を超える大雨」などという言葉をいまだに使っているのは、どうにも解せぬ。かつての異常気象はとっくに常態化し、雨量も大幅に増えているのは誰の目にも明らかなのにいっこうに改める気配もない。この呑気さは事なかれ主義と前例主義のくびきから逃れられない日本の役所に胚胎する非科学性からくるものだろうが、情けないやら腹立たしいやら。
地球温暖化による気候変動がすでに日本国土の大半を温帯から亜熱帯に不可逆的に移行させていることは、気温上昇や雨量増加、台風の大型化のみならず動植物の分布変化からも明らかで、そのスピードは今後さらに激化する可能性が高い。そのことを国民に科学的エビデンスを示してきちんと警告すべきではないかと、わたしなどは切実におもう。桜の開花予想や天気の予報・警報を出すだけの組織に5千人もの職員は不要である。
ところで、もともと日本は世界にも類を見ない「災害大国」である。温暖多雨の東アジアモンスーン地帯にあるため南北に長い日本列島がそのまま台風の通り道になっており、4つのプレートが交差する最悪の位置にあるため大地震が頻発する。さらには列島中を無数の活断層が走り、活火山もいたるところに存在する。またいずれの川も短く急流で、上流に大雨が降るとたちまち増水して暴れ川に変貌し、中・下流域を洪水が襲ってくる。このような世界にも冠たる悪条件の上に、地球温暖化による自然の狂暴化がさらに追い打ちをかけているのがいまの日本の姿なのだ。
そして古(いにしえ)より頻繁に災害に見舞われてきたため、日本人の中には、地球上の他の国や地域にはほとんど見られない独特のエートス(精神)が存在するようになったと考えられる。
たとえば突然の災害に見舞われたとき、われわれ日本人がじつに特異な表情を見せることに皆さんはお気づきだろうか。これは外国人がよく指摘することでもあるが、地震や洪水のような不幸な災害に遭ったとき、テレビなどで被災者が見せる表情に注意してほしい。苦悩と絶望の中にありながらも、わずかながら微笑を浮かべる場合があることに気づくだろう。諦めや自嘲の表情とともに、ごく自然に表出する微笑。これはいったい何なのか。
海外においてはまず例外なく、被災者は怒りと絶望の表情で、激しい怨嗟の言葉が口をついて出るか泣き叫ぶだろうし、食料などを求めて市民が暴徒化する場合も少なくない。そんな外国人にとって、日本人の物静かな挙動や表情は理解できないものだろう。それにこんな悲惨な状況下で、こともあろうに微笑を見せるなんて−。
『逝きし世の面影』(平凡社、第12回和辻哲郎文化賞受賞)という浩瀚(こうかん)な一冊がある。九州・熊本に住む在野の歴史家・渡辺京二氏の代表作で、幕末から明治初期に来日した外国人によって書かれた膨大な日記や手紙、エッセーなどをくまなく渉猟し、異邦人が見た当時の日本の姿から、現代の日本人が喪ったものの意味と価値を再評価する労作だが、そこに、災難に見舞われたときの日本人の不思議な態度に驚いたという記述がいくつも出てくる。一例を引いてみよう。
明治9年、東京医学校(東大医学部前身)で教鞭をとっていたドイツ人医師のベルツが大火事(約1万戸焼失)に遭遇したときの記録だ。
「日本人とは驚嘆すべき国民である!今日午後、火災があってから三十六時間たつかたたぬかに、はや現場では、せいぜい板小屋と称すべき程度のものではあるが、千戸以上の家屋が、まるで地から生えたように立ち並んでいる。…女や男や子供たちが三々五々小さい火を囲んですわり、タバコをふかしたりしゃべったりしている。かれらの顔には悲しみの跡形もない。まるで何事もなかったかのように、冗談をいったり笑ったりしている幾多の人々をみた。かき口説く女、寝床をほしがる子供、はっきりと災難に打ちひしがれている男などは、どこにも見当たらない。」
まったく信じられない、というふうである。
渡辺は、「この時代の日本人は死や災難を、今日のわれわれからすれば怪しからぬと見えるほど平然と受けとめ、それを茶化すことさえできる人びとだった」と結論し、その後の急速な西洋化によってこの固有の特質は相当に変化してしまったとみる。わたしもその意見に大いに賛同するが、その特質の残滓がいまの日本人の中に残っていなくもないとわたしには思えるのだ。それが、被災時に見せる不思議な表情と微笑である。
微笑というものは、うれしさの表出だけではない。慈愛と寛容のそれでもある。「モナ・リザ」や赤子に乳を与える母親の表情を想い浮かべればよい。さらには、古より天災に苦しめられてきた日本人ならではの、人智のおよばぬ自然の猛威や運命に抗わぬ諦念と再生・再建への静かな覚悟の表出でもあるに違いない。
ところで、災害はたしかに悲劇ではあるが、被災期間は一般にごく短いのが普通だ。地震や火事、洪水も台風もそう長く続くことはない。だからこそ、われらが先祖のごとく何事もなかったかのように平然と、笑顔すら見せながらあっという間に再建することが可能だったのだ。
しかし、いつまで続くか見当もつかぬ災害、それもこのたびのコロナウイルス禍のような姿の見えない災厄に対しては日本人でもそう簡単ではない。無症状者が感染源にもなり、感染した人とそうでない人の区別がつきにくいという厄介さが恐怖と猜疑を煽り、ひとびとの心を次第に蝕んでいく。歪んだ正義感を振りかざして他人を攻撃する“自粛警察”などはその象徴だ。
このことは、大正12年の関東大震災の直後に起こった陰惨な事件を想起させる。朝鮮人が放火したり井戸に毒を投げ入れているといったデマが流れ、恐怖のあまり罪もない大勢の朝鮮人を無差別に虐殺したのは東京、神奈川、千葉、埼玉などの一般住民によって組織された自警団だった。これは中世ヨーロッパの魔女狩りを彷彿させる、狂気と暗黒の史実である。
と同時に、わたしの脳裏にはもうひとつの風景が浮かぶ。結核菌が肺や脊髄を腐らせ、体のあちこちに空いた穴から膿となって出る恐ろしい脊椎カリエスに冒されていた正岡子規とかれの友人や後輩たちの姿だ。子規は明治29年から35年に死去するまで東京・根岸で病床にあったが、当時の結核は特効薬がなくひとたび罹れば高い確率で死亡する「死の病」で、空気感染することも知られていた。だが、子規の家にはかれを慕う多くのひとびとが平然と集まり、談笑したり句会を開いていたのである。
わたしが云いたいのは、明治から大正にかけて急速に近代化、軍事大国化する中で、そしてとりわけ日露戦争(明治37〜38年)を境に、日本社会と日本人がおおきく変貌していったのではないかということだ。「日露戦争以降、日本人は民族的に痴呆化した」(『坂の上の雲』第二巻のあとがき)と断じたのは司馬遼太郎だが、西洋列強と肩を並べる一等国へと朝野を挙げて駆け上がろうとする狂騒の陰で、日本人は民族として誇るべき固有の何ものかを急速に喪っていったのだろう。
最後に『逝きし世の面影』をもう一度引いてみよう。同じ明治9年の東京大火の翌朝、銀座で焼け出された住民たちを見たアメリカ人女性の記録だ。
「この人たちが快活なのを見ると救われる思いだった。笑ったり、しゃべったり、冗談を言ったり、タバコを吸ったり、食べたり飲んだり、お互いに助け合ったりして、大きな一つの家族のようだった。家や家庭から追い出されながら、それを茶化そうと努め、助け合っているのだ。涙に暮れている者は一人も見なかった。」
現下のウイルス禍が人類にとって深刻な災害であることは間違いない。しかしわたしたち日本人は紛れもなく−まことに不肖ではあるが−西洋人が心底驚嘆したかつての日本人の子孫なのだ。焦らず騒がず、微笑すら浮かべて、立派に乗り切ってやろうではないか。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
大規模な豪雨災害だけみても九州南部の球磨川流域を中心に全国各地が被災した今年の7月豪雨、昨年の台風19号による東日本豪雨、一昨年の西日本豪雨と続けざまに甚大な被害を出し、被災地域もいまや日本全土に広がりつつある。
情報過剰社会にどっぷり浸かっているためか、わたしたちの脳は次の情報(刺激)を求めるのに忙しく、繰り返される災害の記憶どころかほんの数週間前のこともすっかり忘れてしまうほどだが、いまやこの国のどこに住もうと、明日はわが身であることを常に自覚して生活しなければいけないことだけは忘れてならないだろう。
それにしても、気象庁がこのような災害時に「異常気象」「想定を超える大雨」などという言葉をいまだに使っているのは、どうにも解せぬ。かつての異常気象はとっくに常態化し、雨量も大幅に増えているのは誰の目にも明らかなのにいっこうに改める気配もない。この呑気さは事なかれ主義と前例主義のくびきから逃れられない日本の役所に胚胎する非科学性からくるものだろうが、情けないやら腹立たしいやら。
地球温暖化による気候変動がすでに日本国土の大半を温帯から亜熱帯に不可逆的に移行させていることは、気温上昇や雨量増加、台風の大型化のみならず動植物の分布変化からも明らかで、そのスピードは今後さらに激化する可能性が高い。そのことを国民に科学的エビデンスを示してきちんと警告すべきではないかと、わたしなどは切実におもう。桜の開花予想や天気の予報・警報を出すだけの組織に5千人もの職員は不要である。
ところで、もともと日本は世界にも類を見ない「災害大国」である。温暖多雨の東アジアモンスーン地帯にあるため南北に長い日本列島がそのまま台風の通り道になっており、4つのプレートが交差する最悪の位置にあるため大地震が頻発する。さらには列島中を無数の活断層が走り、活火山もいたるところに存在する。またいずれの川も短く急流で、上流に大雨が降るとたちまち増水して暴れ川に変貌し、中・下流域を洪水が襲ってくる。このような世界にも冠たる悪条件の上に、地球温暖化による自然の狂暴化がさらに追い打ちをかけているのがいまの日本の姿なのだ。
そして古(いにしえ)より頻繁に災害に見舞われてきたため、日本人の中には、地球上の他の国や地域にはほとんど見られない独特のエートス(精神)が存在するようになったと考えられる。
たとえば突然の災害に見舞われたとき、われわれ日本人がじつに特異な表情を見せることに皆さんはお気づきだろうか。これは外国人がよく指摘することでもあるが、地震や洪水のような不幸な災害に遭ったとき、テレビなどで被災者が見せる表情に注意してほしい。苦悩と絶望の中にありながらも、わずかながら微笑を浮かべる場合があることに気づくだろう。諦めや自嘲の表情とともに、ごく自然に表出する微笑。これはいったい何なのか。
海外においてはまず例外なく、被災者は怒りと絶望の表情で、激しい怨嗟の言葉が口をついて出るか泣き叫ぶだろうし、食料などを求めて市民が暴徒化する場合も少なくない。そんな外国人にとって、日本人の物静かな挙動や表情は理解できないものだろう。それにこんな悲惨な状況下で、こともあろうに微笑を見せるなんて−。
『逝きし世の面影』(平凡社、第12回和辻哲郎文化賞受賞)という浩瀚(こうかん)な一冊がある。九州・熊本に住む在野の歴史家・渡辺京二氏の代表作で、幕末から明治初期に来日した外国人によって書かれた膨大な日記や手紙、エッセーなどをくまなく渉猟し、異邦人が見た当時の日本の姿から、現代の日本人が喪ったものの意味と価値を再評価する労作だが、そこに、災難に見舞われたときの日本人の不思議な態度に驚いたという記述がいくつも出てくる。一例を引いてみよう。
明治9年、東京医学校(東大医学部前身)で教鞭をとっていたドイツ人医師のベルツが大火事(約1万戸焼失)に遭遇したときの記録だ。
「日本人とは驚嘆すべき国民である!今日午後、火災があってから三十六時間たつかたたぬかに、はや現場では、せいぜい板小屋と称すべき程度のものではあるが、千戸以上の家屋が、まるで地から生えたように立ち並んでいる。…女や男や子供たちが三々五々小さい火を囲んですわり、タバコをふかしたりしゃべったりしている。かれらの顔には悲しみの跡形もない。まるで何事もなかったかのように、冗談をいったり笑ったりしている幾多の人々をみた。かき口説く女、寝床をほしがる子供、はっきりと災難に打ちひしがれている男などは、どこにも見当たらない。」
まったく信じられない、というふうである。
渡辺は、「この時代の日本人は死や災難を、今日のわれわれからすれば怪しからぬと見えるほど平然と受けとめ、それを茶化すことさえできる人びとだった」と結論し、その後の急速な西洋化によってこの固有の特質は相当に変化してしまったとみる。わたしもその意見に大いに賛同するが、その特質の残滓がいまの日本人の中に残っていなくもないとわたしには思えるのだ。それが、被災時に見せる不思議な表情と微笑である。
微笑というものは、うれしさの表出だけではない。慈愛と寛容のそれでもある。「モナ・リザ」や赤子に乳を与える母親の表情を想い浮かべればよい。さらには、古より天災に苦しめられてきた日本人ならではの、人智のおよばぬ自然の猛威や運命に抗わぬ諦念と再生・再建への静かな覚悟の表出でもあるに違いない。
ところで、災害はたしかに悲劇ではあるが、被災期間は一般にごく短いのが普通だ。地震や火事、洪水も台風もそう長く続くことはない。だからこそ、われらが先祖のごとく何事もなかったかのように平然と、笑顔すら見せながらあっという間に再建することが可能だったのだ。
しかし、いつまで続くか見当もつかぬ災害、それもこのたびのコロナウイルス禍のような姿の見えない災厄に対しては日本人でもそう簡単ではない。無症状者が感染源にもなり、感染した人とそうでない人の区別がつきにくいという厄介さが恐怖と猜疑を煽り、ひとびとの心を次第に蝕んでいく。歪んだ正義感を振りかざして他人を攻撃する“自粛警察”などはその象徴だ。
このことは、大正12年の関東大震災の直後に起こった陰惨な事件を想起させる。朝鮮人が放火したり井戸に毒を投げ入れているといったデマが流れ、恐怖のあまり罪もない大勢の朝鮮人を無差別に虐殺したのは東京、神奈川、千葉、埼玉などの一般住民によって組織された自警団だった。これは中世ヨーロッパの魔女狩りを彷彿させる、狂気と暗黒の史実である。
と同時に、わたしの脳裏にはもうひとつの風景が浮かぶ。結核菌が肺や脊髄を腐らせ、体のあちこちに空いた穴から膿となって出る恐ろしい脊椎カリエスに冒されていた正岡子規とかれの友人や後輩たちの姿だ。子規は明治29年から35年に死去するまで東京・根岸で病床にあったが、当時の結核は特効薬がなくひとたび罹れば高い確率で死亡する「死の病」で、空気感染することも知られていた。だが、子規の家にはかれを慕う多くのひとびとが平然と集まり、談笑したり句会を開いていたのである。
わたしが云いたいのは、明治から大正にかけて急速に近代化、軍事大国化する中で、そしてとりわけ日露戦争(明治37〜38年)を境に、日本社会と日本人がおおきく変貌していったのではないかということだ。「日露戦争以降、日本人は民族的に痴呆化した」(『坂の上の雲』第二巻のあとがき)と断じたのは司馬遼太郎だが、西洋列強と肩を並べる一等国へと朝野を挙げて駆け上がろうとする狂騒の陰で、日本人は民族として誇るべき固有の何ものかを急速に喪っていったのだろう。
最後に『逝きし世の面影』をもう一度引いてみよう。同じ明治9年の東京大火の翌朝、銀座で焼け出された住民たちを見たアメリカ人女性の記録だ。
「この人たちが快活なのを見ると救われる思いだった。笑ったり、しゃべったり、冗談を言ったり、タバコを吸ったり、食べたり飲んだり、お互いに助け合ったりして、大きな一つの家族のようだった。家や家庭から追い出されながら、それを茶化そうと努め、助け合っているのだ。涙に暮れている者は一人も見なかった。」
現下のウイルス禍が人類にとって深刻な災害であることは間違いない。しかしわたしたち日本人は紛れもなく−まことに不肖ではあるが−西洋人が心底驚嘆したかつての日本人の子孫なのだ。焦らず騒がず、微笑すら浮かべて、立派に乗り切ってやろうではないか。
Text by Shuhei Matsuoka
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2020年06月25日
コロナとグレタ
過日、わが家の庭に咲き誇るハナミズキを眺めながら、突如降ってわいた稀にみる奇妙な現象の意味を考えていた。
あまりに微小で単純な構造ゆえに生物の仲間にすら入れてもらえず、自分で移動することすらもできない、まったく取るに足らぬモノ(非生物)に恐れ慄(おのの)く地球上の覇者のなんとか弱く哀れなことか。この世のすべてのものは、わが家のハナミズキのようにまるで日常とかわらず美しく平然としているのに、人間だけが突如として狂ったようにあわてふためく姿は、当の人間にとっては悲劇であっても、どこか滑稽で寓話的である。それも、何者かに唆(そそのか)されたわけでも、脅されたわけでもなく、善良な市民自らがこのウイルスを知らぬ間に身の内に棲まわせ、せっせとそれを運び、わずか数ヵ月で地球全体に拡散させたのだから驚異的といえばこれほど驚異的なこともない。
フランスの哲学者パスカルの有名な言葉を思い出す。
「人間は一茎の葦にすぎない。自然のうちでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である。かれをおしつぶすには、全宇宙が武装するにおよばない。ひと吹きの蒸気、ひとしずくの水が、かれを殺すのに十分である。」(『パンセ』)
人間は、自然のうちでもっとも弱い存在であることを、科学の発達と自らの傲慢さが忘れさせたのかもしれない。さすればあるいは、近年の異常な気候変動や激甚化する自然災害同様、繁栄をきわめ増長した人類に対する母なる地球からの警告、いや天の怒りなのであろうか。あるいは、地球環境を回復不能なまでに破壊し続ける邪悪きわまりない人類に対して天が差し向けた災厄なのだろうか。
そしてこの原稿を書きながらも、わたしをあざ笑うかのように楽しげに樹々をわたる小鳥たちの啼(な)き声が、「少しは身に染みたか!」という天の声に聴こえてくるのだ。
ところで、4月放送のETV特集「緊急対談 パンデミックが変える世界〜海外の知性が語る展望〜」で経済学者・思想家のジャック・アタリ氏は、協力は競争よりも価値があり、利他主義こそがコロナ後の世界に必要だとして、こう述べている。
「利他主義は合理的利己主義にほかなりません。自らが感染の脅威にさらされないためには他人の感染を確実に防ぐ必要があります。利他的であることは、ひいては自分の利益となるのです。また、他の国々か感染していないことも自国の利益になります。たとえば日本の場合も世界の国々が栄えていれば、市場が拡大し、長期的にみると国益につながりますよね。…今回の危機は乗り越えられると思います。ただし、長期的にみるとこのままでは勝利は望めません。経済を全く新しい方向に設定しなおす必要があるのです。戦時中の経済では自動車から、爆弾や戦闘機へ企業は生産を切り替えなければなりません。今回も同じように移行すべきです。ただし、爆弾や武器を生産するのではありません。医療機器、病院、住宅、健康、水、良質な食糧などの生産を長期的に行うのです。多くの産業で大規模な転換が求められます」
アタリ氏は、いまのコロナ禍を市場崩壊と民主主義崩壊の危機としながらも、ひとびとの連帯による「利他主義」と長期的視点に立った「ポジティブ・エコノミー」、そして「共感のサービス」により次世代のことを考える社会に転換できるとし、のちにコロナ禍がきっかけとなって人類が進化したと云えるようにしなければならないという。
もちろん、世界はまだまだ大恐慌の不安を抱えているし、ハンガリーやイスラエルのように、緊急事態を利用して『1984』(ジョージ・オーウェル著)さながらの監視独裁化に向かおうとする国家が次々と現れる可能性も否定できない。また多くの発展途上国ではこれから深刻な経済的・社会的問題が噴出して、かなりの期間、手に負えない情況が続くに違いない。こういった重大な問題が本当に解決されるのかは誰もわからない。連帯どころか、国も人もますますミーイズムと疑心暗鬼に陥り、世界はバラバラになるという最悪のシナリオすら考えられる。アタリ氏はやや楽観的すぎるのかもしれない。
もし人類がこのパンデミックを契機に進化できなければ、地球温暖化による絶望の日を待つまでもなく、わが世の春を謳歌してきた現代文明は確実に危機、いや終焉を迎えることになるだろう。いまこの瞬間にも抗生物質への耐性を獲得した細菌類や未知のウイリスはわたしたちのすぐそばで生まれており、そのことを前提とした社会構造に転換していかねば、今後次々と襲来する見えざる恐怖に人類は到底耐えられないからだ。
そもそも中国・武漢とその周辺だけの地域的な疫病で終息せず未曾有のパンデミックに至ったのも、突然変異で人間を宿主とすることに成功した切れ者のウイルスが宿主とともに移動したことが原因であって、ひとえにヒト・モノ・カネが激しく動くグローバル社会を創りだしたわれわれ自身のせいなのだ。どころか、もともと自然界の奥深くでさまざまな野生動物と共生してきたウイルス群−コロナ(新型、SARS、MARS)、エイズ、エボラ、インフルエンザなどはみなそうだ−を、経済活動と乱開発により自然を蹂躙して引っ張り出してきてしまったのだから、二重の意味で自業自得なのである。
そう考えれば、武漢ウイルス研究所から漏れ出たものか否かはさておき、このたびのコロナ禍は、比喩でもなんでもなく、人間に対する天(地球)の怒りであり自然界からの挑戦状と考えるのが妥当だろう。
ところで、2019年暮れに初めてWHOにより新たな感染症として確認されたことから正式にCOVID-19と命名されたこのたびのコロナ禍と、同年9月に行われた国連における気候行動サミットでの出来事は無関係ではないとわたしには思えてならない。
「大絶滅を前にしているのに、あなたたちが話しているのは、お金と経済発展がいつまでも続くというお伽噺ばかり。よくもそんなことを!」と怒りに肩を震わせながら各国代表に言い放った当時16歳のスウェーデンの少女グレタ・トゥーンベリさんの姿に衝撃を受けなかった人はいないと思うが、人類を救うために天が差し向けたとしか思えない、少女の姿をした非凡者の出現と、このたびのコロナ禍が同じ2019年に起こったことは単なる偶然ではないのではないか。
つまり、天(地球あるいは自然)は「善」と「悪」の象徴としてグレタと新型ウイルスを同時にこの世に送り込み、人類を試しているのではないかということだ。果たしてわれわれはそのことに気づき経済・社会システムを大転換できるのか。SDGs(持続可能な開発目標)という高邁な行動指針がすでに国連で発動され一部の覚醒した企業や市民は動きはじめており、「環境」「社会」「ガバナンス」の3要素を企業選別の条件として中長期的視点で投資するESG投資が急激に伸びている(世界の運用資産の4分の1以上を占める)のは一縷の光明だが、影響力の大きいアメリカ、ロシア、中国といった大国や多くの発展途上国政府は環境問題にまるで後ろ向きで、環境破壊と温暖化は深刻度を増すばかりなのだ。
新型コロナとグレタが同時にわれわれの前に出現した意味を解せず、相も変わらず持続不可能な経済・社会システムを信奉して自滅へとひた走るのか、あるいは未来に向け大きく舵を切れるのか、その瀬戸際にわれわれ人類は立っているのかもしれない。
物理学者・寺田寅彦は昭和7年の随筆『からすうりの花と蛾』で述べている。
「われわれが存在の光栄を有する二十世紀の前半は、事によると、あらゆる時代のうちで人間がいちばん思い上がってわれわれの主人であり父母であるところの天然というものをばかにしているつもりで、ほんとうは最も多く天然にばかにされている時代かもしれないと思われる。…天然の玄関をちらとのぞいただけで、もうことごとく天然を征服した気持ちになっているようである。」
この碩学の一言は21世紀の現在でもまったく色褪せておらず、それどころかますます人間にその傾きが強くなっているのは間違いないだろう。その何よりの証拠が、この百年の激しい環境破壊と急激な地球温暖化、そしてこのたびの未曾有のパンデミックなのだ。
奇跡の少女グレタの言葉を通して傷ついた地球の声をしっかりと聴き、コロナショックによって競争と経済発展一辺倒の人類の内なる狂気を一日も早く鎮め、アタリ氏の云うごとく利他の精神によるまったく新しい社会・経済・政治体制を本気でつくり上げるしか人類に選択肢は残されていないのだろう。そしてそれを可能ならしめるのは、環境破壊に加担してこなかったグレタのような世界中の若者世代だ。彼らに期待しようではないか。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
あまりに微小で単純な構造ゆえに生物の仲間にすら入れてもらえず、自分で移動することすらもできない、まったく取るに足らぬモノ(非生物)に恐れ慄(おのの)く地球上の覇者のなんとか弱く哀れなことか。この世のすべてのものは、わが家のハナミズキのようにまるで日常とかわらず美しく平然としているのに、人間だけが突如として狂ったようにあわてふためく姿は、当の人間にとっては悲劇であっても、どこか滑稽で寓話的である。それも、何者かに唆(そそのか)されたわけでも、脅されたわけでもなく、善良な市民自らがこのウイルスを知らぬ間に身の内に棲まわせ、せっせとそれを運び、わずか数ヵ月で地球全体に拡散させたのだから驚異的といえばこれほど驚異的なこともない。
フランスの哲学者パスカルの有名な言葉を思い出す。
「人間は一茎の葦にすぎない。自然のうちでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である。かれをおしつぶすには、全宇宙が武装するにおよばない。ひと吹きの蒸気、ひとしずくの水が、かれを殺すのに十分である。」(『パンセ』)
人間は、自然のうちでもっとも弱い存在であることを、科学の発達と自らの傲慢さが忘れさせたのかもしれない。さすればあるいは、近年の異常な気候変動や激甚化する自然災害同様、繁栄をきわめ増長した人類に対する母なる地球からの警告、いや天の怒りなのであろうか。あるいは、地球環境を回復不能なまでに破壊し続ける邪悪きわまりない人類に対して天が差し向けた災厄なのだろうか。
そしてこの原稿を書きながらも、わたしをあざ笑うかのように楽しげに樹々をわたる小鳥たちの啼(な)き声が、「少しは身に染みたか!」という天の声に聴こえてくるのだ。
ところで、4月放送のETV特集「緊急対談 パンデミックが変える世界〜海外の知性が語る展望〜」で経済学者・思想家のジャック・アタリ氏は、協力は競争よりも価値があり、利他主義こそがコロナ後の世界に必要だとして、こう述べている。
「利他主義は合理的利己主義にほかなりません。自らが感染の脅威にさらされないためには他人の感染を確実に防ぐ必要があります。利他的であることは、ひいては自分の利益となるのです。また、他の国々か感染していないことも自国の利益になります。たとえば日本の場合も世界の国々が栄えていれば、市場が拡大し、長期的にみると国益につながりますよね。…今回の危機は乗り越えられると思います。ただし、長期的にみるとこのままでは勝利は望めません。経済を全く新しい方向に設定しなおす必要があるのです。戦時中の経済では自動車から、爆弾や戦闘機へ企業は生産を切り替えなければなりません。今回も同じように移行すべきです。ただし、爆弾や武器を生産するのではありません。医療機器、病院、住宅、健康、水、良質な食糧などの生産を長期的に行うのです。多くの産業で大規模な転換が求められます」
アタリ氏は、いまのコロナ禍を市場崩壊と民主主義崩壊の危機としながらも、ひとびとの連帯による「利他主義」と長期的視点に立った「ポジティブ・エコノミー」、そして「共感のサービス」により次世代のことを考える社会に転換できるとし、のちにコロナ禍がきっかけとなって人類が進化したと云えるようにしなければならないという。
もちろん、世界はまだまだ大恐慌の不安を抱えているし、ハンガリーやイスラエルのように、緊急事態を利用して『1984』(ジョージ・オーウェル著)さながらの監視独裁化に向かおうとする国家が次々と現れる可能性も否定できない。また多くの発展途上国ではこれから深刻な経済的・社会的問題が噴出して、かなりの期間、手に負えない情況が続くに違いない。こういった重大な問題が本当に解決されるのかは誰もわからない。連帯どころか、国も人もますますミーイズムと疑心暗鬼に陥り、世界はバラバラになるという最悪のシナリオすら考えられる。アタリ氏はやや楽観的すぎるのかもしれない。
もし人類がこのパンデミックを契機に進化できなければ、地球温暖化による絶望の日を待つまでもなく、わが世の春を謳歌してきた現代文明は確実に危機、いや終焉を迎えることになるだろう。いまこの瞬間にも抗生物質への耐性を獲得した細菌類や未知のウイリスはわたしたちのすぐそばで生まれており、そのことを前提とした社会構造に転換していかねば、今後次々と襲来する見えざる恐怖に人類は到底耐えられないからだ。
そもそも中国・武漢とその周辺だけの地域的な疫病で終息せず未曾有のパンデミックに至ったのも、突然変異で人間を宿主とすることに成功した切れ者のウイルスが宿主とともに移動したことが原因であって、ひとえにヒト・モノ・カネが激しく動くグローバル社会を創りだしたわれわれ自身のせいなのだ。どころか、もともと自然界の奥深くでさまざまな野生動物と共生してきたウイルス群−コロナ(新型、SARS、MARS)、エイズ、エボラ、インフルエンザなどはみなそうだ−を、経済活動と乱開発により自然を蹂躙して引っ張り出してきてしまったのだから、二重の意味で自業自得なのである。
そう考えれば、武漢ウイルス研究所から漏れ出たものか否かはさておき、このたびのコロナ禍は、比喩でもなんでもなく、人間に対する天(地球)の怒りであり自然界からの挑戦状と考えるのが妥当だろう。
ところで、2019年暮れに初めてWHOにより新たな感染症として確認されたことから正式にCOVID-19と命名されたこのたびのコロナ禍と、同年9月に行われた国連における気候行動サミットでの出来事は無関係ではないとわたしには思えてならない。
「大絶滅を前にしているのに、あなたたちが話しているのは、お金と経済発展がいつまでも続くというお伽噺ばかり。よくもそんなことを!」と怒りに肩を震わせながら各国代表に言い放った当時16歳のスウェーデンの少女グレタ・トゥーンベリさんの姿に衝撃を受けなかった人はいないと思うが、人類を救うために天が差し向けたとしか思えない、少女の姿をした非凡者の出現と、このたびのコロナ禍が同じ2019年に起こったことは単なる偶然ではないのではないか。
つまり、天(地球あるいは自然)は「善」と「悪」の象徴としてグレタと新型ウイルスを同時にこの世に送り込み、人類を試しているのではないかということだ。果たしてわれわれはそのことに気づき経済・社会システムを大転換できるのか。SDGs(持続可能な開発目標)という高邁な行動指針がすでに国連で発動され一部の覚醒した企業や市民は動きはじめており、「環境」「社会」「ガバナンス」の3要素を企業選別の条件として中長期的視点で投資するESG投資が急激に伸びている(世界の運用資産の4分の1以上を占める)のは一縷の光明だが、影響力の大きいアメリカ、ロシア、中国といった大国や多くの発展途上国政府は環境問題にまるで後ろ向きで、環境破壊と温暖化は深刻度を増すばかりなのだ。
新型コロナとグレタが同時にわれわれの前に出現した意味を解せず、相も変わらず持続不可能な経済・社会システムを信奉して自滅へとひた走るのか、あるいは未来に向け大きく舵を切れるのか、その瀬戸際にわれわれ人類は立っているのかもしれない。
物理学者・寺田寅彦は昭和7年の随筆『からすうりの花と蛾』で述べている。
「われわれが存在の光栄を有する二十世紀の前半は、事によると、あらゆる時代のうちで人間がいちばん思い上がってわれわれの主人であり父母であるところの天然というものをばかにしているつもりで、ほんとうは最も多く天然にばかにされている時代かもしれないと思われる。…天然の玄関をちらとのぞいただけで、もうことごとく天然を征服した気持ちになっているようである。」
この碩学の一言は21世紀の現在でもまったく色褪せておらず、それどころかますます人間にその傾きが強くなっているのは間違いないだろう。その何よりの証拠が、この百年の激しい環境破壊と急激な地球温暖化、そしてこのたびの未曾有のパンデミックなのだ。
奇跡の少女グレタの言葉を通して傷ついた地球の声をしっかりと聴き、コロナショックによって競争と経済発展一辺倒の人類の内なる狂気を一日も早く鎮め、アタリ氏の云うごとく利他の精神によるまったく新しい社会・経済・政治体制を本気でつくり上げるしか人類に選択肢は残されていないのだろう。そしてそれを可能ならしめるのは、環境破壊に加担してこなかったグレタのような世界中の若者世代だ。彼らに期待しようではないか。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html