2017年09月06日

「子規庵」雑考

 一昨年の夏に上京した際、思い立って「子規庵」にでかけた。
 「子規庵」は正岡子規(1867〜1902)とその母八重、妹律が明治27年から住んだ東京・根岸の家を昭和25年に復元したものである。当時の地名は「上根岸鶯横町」で、鬱蒼と木々が生い茂り、通りも薄暗く家々もまばらで森閑としていたという。まさにうぐいすの鳴き声が聴こえる長閑(のどか)な場所だったのだ。
 現在はというと、最寄り駅はその名もJR鶯谷駅。せっかくの雅名を受け継ぎながら、都内でも指折りの下卑た猥雑な一帯になっている。電車を降りて地図をたよりに歩くと、すぐにラヴホテル街に入ってしまった。間違えたかと地図を何度も確認するが、そうなっているのだから仕方がない。
 怪しげで金ぴかな異空間である真昼間のホテル街を抜けると、忽然としてふるい平屋のちいさな民家が現れる。家のブロック塀に「東京都指定史跡 子規庵」とある。地図は間違いではなかったのだ。
 それにしても根岸という江戸の風情をのこす地名と駅周辺のとびきり下品で無秩序な珍開発の落差にはあきれるが、考えようによっては、この姿こそがエネルギッシュに自己増殖し続けるモンスター都市・東京ならではの一相貌といえなくもない。善し悪しはさておき、この無頓着さ、無神経さこそがまさに、“ずばり東京”なのである。
 土曜の昼下がりだったが、「子規庵」のお客さんはわたしのほか3人。子規の故郷である伊予松山からはるばる来たという中年の夫婦と、文学座の女性ひとり。文学座で子規を主人公に芝居をやる計画があり、取材にきていたのだ(2017年2月に文学座創立80周年記念『食いしん坊万歳!〜正岡子規青春狂詩曲〜』が上演された)。
 説明係のボランティアの男性がひとり居て、子規の病床のあった6畳間の前にわれわれを坐らせて子規と「子規庵」のことを説明してくれる。説明はとても分かりやすくありがたいのだが、反面、じっと独りで子規の病床のあった部屋を眺めていたいという気持ちもあった。あの、半身を少しだけあげてこちらを向いた本人お気に入りの写真。身動きできぬまま激痛に耐えていた子規だが、ふとその写真の子規の方に向かい、話しかけてみたい思いにかられる。
 もし子規の病床に向かい、具合はどうですか、と問えば、こちらをちらりと見て、「どうもこうもない、見てのとおりぞな」と伊予弁でニコリとしそうだが、結核菌が脊椎を腐らせる怖ろしい脊椎カリエスの病魔に魅入られた子規は、想像を絶する地獄のなかにあった。腰などあちこちに空けられた大きな穴から膿がでて苦しむその姿に接したら、実際は気軽に声もかけられないだろう。妹の律が毎朝、膿止めのガーゼを取り替えるのだが、そのときの激痛はすさまじく、あたりかまわず子規は泣き叫ぶ。その声は閑(しずか)な鶯横町に響きわたり、近所の子どもたちは気味悪がってこの家を避けて通ったという。
 「子規庵」の座敷にじっといると、かれの号泣、叫び声、膿の臭いまでしてきそうだ。
 松山市教育委員会が青少年向けに著した好著『伝記 正岡子規』(昭和54年刊)に子規の病床を見舞った古島一雄の残した一文が掲載されている。古島は日本新聞社の記者で子規とともに日清戦争に従軍した同僚である。
 「彼の病床を訪ねたものは、彼が生きているのかと疑うであろう。八年間も日光を受けたことのない青白い顔と痩せにやせた細く長い手とは、まず人をギョッとさせる。生きた木乃伊(ミイラ)があるとすると彼はそれである。ほんとうのミイラはそれほどにも感じないが、このミイラの腰の辺は七か所の大きな穴があいて腐った骨は膿となって常に流れ出ているのである。腰の骨盤は減って、ほとんど無くなっている。脊髄はぐちゃぐちゃにこわれている。そして片一っぽうの肺がなくなり片っ方は七分通り腐っている。頭の毛は抜けている。三十六枚の歯はことごとく黒くなって欠けている。どうしてこれで生きておれるのであろう。ああ、天はなぜにどこまで彼をいじめるのであるか。」
 ジャーナリストの冷徹な筆致は、子規の絶望的な病状を容赦なく描出する。
 だがこんな極限状態にありながら、子規は異常な意志力で俳句、短歌、随筆、評論などを書きまくったのである。横臥したまま書き綴った子規晩年―といっても三十代半ばだが―の『仰臥漫録』『病床六尺』『墨汁一滴』などはその鮮やかな精華で、生きながら腐ってゆく自らの姿をもモチーフにするというリアリズム文学の極致であり、極度の悲惨の中にも巧まざる滑稽とユーモアがあり、読む者はいつのまにか粛然とさせられ、「子規は偉いなぁ」とつぶやくのだ。これらの著作は、近代日本が世界に誇れる文学的偉業といっても言い過ぎではないだろう。
 口語と文語のはげしい乖離や文体の不統一などで未だ国民言語となっていなかった日本語の革新を自らの使命として命を燃やした子規―。現代日本語のまさに黎明期、正岡子規(とその畏友夏目漱石)は、われわれがいま不自由なく使っている日本語の建設者であり、生みの親でもあったのだ。
 鼻をつく異臭と死臭たちこめる座敷の万年床に横臥するのは、肉体をもったひとりの人間というよりは、一個の強靭な意思が生きながら腐ってゆく肉体を纏(まと)った怖ろしくも崇高な姿であった。そして不思議なことに、この救いようのない重病人の家には大勢の人が集まり、その多くが文芸や学問の世界に名を残すことになる俊英たちだった。虚飾をなによりきらい、本質を見抜く明晰と一途さの裏側におおきな温かさを宿していた子規をひとびとは敬愛し、子規もまた生涯の恩人陸羯(くがかつ)南(なん)や夏目漱石、秋山真之などの友人、同郷の後輩や門下生らをこころから愛した。正岡子規とは、そういう人だった。
 この一点だけでも子規の偉さがわかるが、下の忘れがたい逸話を識(し)ったとき、わたしは子規という人の不思議な魅力と稀有な人間力の本源をしっかりとこの目で見たような気がしたものだ。
 伊予松山の後輩、寒川鼠骨が新聞社への就職のことで子規に相談に行った。子規のいる日本新聞社は朝日新聞社にくらべて給料がかなり安い。両社に内定していた鼠骨は迷っていた。すると子規は鼠骨の心情を見透かしたように、「それやア日本サ」と、やや急き込んだ調子で言い放った。
 「人間は最も少ない報酬で最も多く働くほどエライ人ぞな。一の報酬で十の働きをする人は百の報酬で百の働きをする人よりエライのぞな。収入の多寡は人の尊卑でない事くらゐ分つとろがな。
人は友を撰ばんといかん。『日本』には正しくて學門の出来た人が多い、他の新聞社には碌な人間は居ないぞな。アシでも他へ行けば七十や八十圓は呉れるのだが三十圓で『日本』に居る方がいゝと思つてな。
 まあ辛抱おしや。今の内に本をお讀みや。繁華畢竟読書難といふぢやないか。本を讀むのに左程金はいらんものぞな」(寒川鼠骨『子規居士との座談』)
 「子規庵」の前庭にはたくさんの草花が無造作に植えられており、写真で見る実際の子規旧宅をよく再現している。訪れたのがさいわい夏だったため軒先にはへちまもぶら下がっていた。子規の命日を「糸瓜忌(へちまき)」というのはよく知られおり、へちまはいわば子規と「子規庵」のシンボルなのである。
 明治35年9月18日の朝、衰弱しきった子規は痰が詰まり、ごほごほと咳をしながら、律に持たせた画板を無言のまま引き寄せた。律が子規の使い慣れた細長い筆に墨をたっぷり含ませて渡すと、子規は鶴のように痩せた手で受けとって画板の上の紙にやっとのことで辞世の3句を書き、そして力尽きて筆を投げすてた。

 糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
 痰一斗糸瓜の水も間に合はず
 おととひのへちまの水も取らざりき

 翌19日の午前1時、子規正岡常則(つねのり)(通称升(のぼる))はこの家でこときれた。35歳になったばかりだった。
 長いながい看病の果て、母八重は「のぼ(升)さん、サアもう一ぺん痛いというておみ」と、ぽたぽたと涙を落としたという。
 
  Text by Shuhei Matsuoka
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2017年05月15日

天然の無常 〜寅彦と漱石〜

 仕事柄、そして趣味としても本はよく読むが、読書がいつのまにか惰性にながれて集中できないことがよくある。そんなとき、読みさしの本をほったらかして寺田寅彦(1878〜1935)の本を引っ張り出す。かれの随筆は、豊かな教養を背景にした科学的視座に上質の諧謔と洒脱を兼ねそなえており、いつ読んでも味わい深く知的快感に浸ることができるからだ。
 寺田寅彦といえば、やはり夏目漱石との関係があまりにも有名である。
 高知県立尋常中学を卒業後、熊本の第五高等学校に入学した寅彦は、五校の英語教授だった夏目金之助(漱石)と運命的な邂逅をする。漱石から英語と俳句を学ぶなかで漱石の深い教養と人間的魅力にふれ、漱石を心底畏敬し、人生の師として親密な関係をもち続けることになる。このことが寅彦をして、世界的物理学者でありながら文学者としての類まれな素質をも開花せしめるおおきなきっかけになったことは疑う余地がない。
 漱石は五校時代に文部省から英国留学を命ぜられ、3年後の明治36年1月に帰国。そのまま東京に居を構え、第一高等学校、東京帝大の英文科講師としての生活をはじめる。そして帰国からちょうど2年後の明治38年1月、正岡子規の弟子である高浜虚子のすすめで『ホトトギス』に『吾輩は猫である』を発表、この一作により漱石は一躍著名人となり、漱石を慕う大勢の弟子たちが夏目家(通称「漱石山房」)に集うようになる。文豪夏目漱石の誕生である。
 ただ、東京帝大の学生として東京住まいをはじめていた寅彦だけは、俄(にわ)か弟子たちとは明らかに一線を画していた。漱石が無名の英語教師だったころから、多いときは月に何度も家を訪れていたのはただひとり寅彦だけだったし、弟子たちが毎週木曜日に決めて(「木曜会」)漱石山房に集まるようになってからも、寅彦だけは別の日に漱石に会いに行っていた。ふたりの関係は、それほどに特別なものだったのだ。
 少壮の物理学者となった寅彦が『団(どん)栗(ぐり)』などの秀逸な文芸作品を『ホトトギス』に発表しはじめると、漱石はその才に驚愕し、「学問、芸術のいかなる方向に進んで行っても、寺田は将来必ず一流になるだろう」と評したというから、さすがに炯眼である。『猫』の水島寒月、『三四郎』の主人公三四郎や科学者・野々宮宗八も寅彦がモデル化されていることはつとに知られたところで、出不精の漱石は家にやってくる寅彦との会話から小説のヒントや重要なプロットを得ることも多かった。
 そして寅彦のほうは、漱石から俳句だけではなく、「自然の美しさを自分自身の目で発見すること、人間の心の中の真なるものと偽なるものを見分け、真なるものを愛し偽なるものを憎むべきことも教えられた」(『夏目漱石先生の追憶』)、つまり人生のすべてを教わったといっても過言ではないだろう。
 さて、物理学者・池内了氏ほか各界の寅彦ファンが現代に寺田寅彦の偉業を伝える重要な役割を果たしているが、とりわけ6年前の東日本大震災を機に寅彦にふたたび光が当たってきたことは、寅彦ファンのひとりとしてわが意を得たりの感がある。
 寅彦の著作から地震・津波などに材をとった随筆を集め再編集した『天災と日本人』(角川ソフィア文庫)と『天災と国防』(講談社学術文庫)が平成23年に立て続けに出版され、平成26年には寅彦の弟子の物理学者・中谷宇吉郎(「雪は天からの手紙」の言葉で知られる北大教授)の『寺田寅彦の追想』(昭和22年刊)が文庫化され『寺田寅彦−わが師の追想−』(講談社学術文庫)として出版された。出版界にいま、ちいさな寅彦ブームが起こっているのだ。
 寅彦の随筆は、岩波文庫版の『寺田寅彦随筆集』(第1巻〜第5巻)に主要なものは収録されているので皆さんも一読されればとおもうが、上に挙げた“天災”を冠した2冊は吉村冬彦などの筆名で書いた文芸作品ではなく、地球物理学者ならではの卓抜な科学評論集となっていて、阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震など未曽有の災害に見舞われた日本人にはまさに必読書である。
 たとえば『天災と日本人』にある『日本人の自然観』と題する随筆には次のような、はっとさせられる箇所が多い。
 「西欧科学を輸入した現代日本人は西洋と日本とで自然の環境に著しい相違のあることを無視し、したがって伝来の相地の学を蔑視して建てるべからざるところに人工を建設した。そうして克服しえたつもりの自然の厳父の揮(ふる)った鞭(むち)のひと打ちで、その建設物が実に意気地もなく潰滅(かいめつ)する、それを眼前に見ながら自己の錯誤を悟らないでいる、といったような場合が近ごろ頻繁に起こるように思われる」
 これは寅彦最晩年の昭和十年に『東洋思潮』に掲載された文章だが、まったく現代社会そのままであることに驚く。そしていっぽうで、「日本人を日本人にしたのはじつは学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よく続けられて来たこの災難教育であったかもしれない」(『災害雑考』)などと大真面目に云う。
 日本が世界にも稀な多様で美しい自然に恵まれている反面、自然災害の頻発地であるがために、自然の猛威にさからうのではなく、ある種の諦観を深奥に据えて自然を受容しつつ生きるという、いわば「天然の無常」が日本人をして賢い民族たらしめたと寅彦は考えるのだ。
 「思うに仏教の根底(こんてい)にある無常観が日本人のおのずからな自然観と相調和するところのあるのもその一つの因子ではないかと思うのである。鴨長明(かものちょうめい)の方丈記を引用するまでもなく地震や風水の災禍の頻繁でしかもまったく予測し難い国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓(ごぞう)六腑(ろっぷ)に浸(し)み渡っているからである」(『日本人の自然観』)「おそらく日本の自然は西洋流の分析的科学の生まれるためにはあまりに多彩であまりに無常であったかもしれないのである」(同)
 宗教学者の山折哲雄氏は『天災と日本人』の巻末解説で、哲学者・和辻哲郎(漱石門下のひとり)の著書『風土』と比較して「日本の風土を考察するとき、和辻哲郎がその台風的契機を重視して『慈悲の道徳』に着目したのにたいし、寺田寅彦がそこから地震的契機をとりだして『天然の無常』という認識に到達していたことの対照性に、私は無類の知的好奇心を覚えるのである」と結んでいるが、じつはこの寅彦の「天然の無常」観にこそ、わたしは漱石の影響をみるのである。
 たとえば画家・津田青楓にあてた漱石の手紙の一節。
 「世の中にすきな人は段々なくなります。そうして天と地と草と木とが美しく見えて来ます。私はそれをたよりに生きています」
 これが漱石晩年の境地「則天去私」(私を去り身を天然にゆだねる)のエッセンスであり、寅彦にもそのまま引き継がれたと考えていいだろう。寅彦には、長女を産んで間もなく、あっけなくも21歳で世を去った妻夏子への哀惜があり、漱石もまた無二の親友正岡子規の死に追い打ちをかけるように五女雛子を生後1年半で喪う。ふたりには死があまりにも身近にあり、自らの運命を受容せざるをえない無常観とふかい悲しみを共有していたのである。そして、漱石が寅彦に手ほどきした俳句こそは、まさに「天然の無常」を基底にした日本固有の芸術であったのだ。
 じつは寅彦は、漱石が知らぬ者なき文豪となってゆくことを、内心では喜んではいなかったようだ。漱石を客観視するには身近すぎ、思慕しすぎていたのである。
 「先生が俳句がうまかろうが、まずかろうが、英文学に通じていようがいまいが、そんなことはどうでもよかった。況(いわ)んや先生が大文豪になろうがなるまいが、そんなことは問題にも何もならなかった。むしろ先生がいつまでも名もないただの学校の先生であってくれたほうがよかったではないかというような気がするくらいである」(『夏目漱石先生の追憶』)
 土佐が生んだ広大無辺の知の巨人、寺田寅彦―。
 馬鹿のひとつ覚えのごとく「龍馬、龍馬」と騒ぐのではなく、われわれ土佐人は寺田寅彦をこそ誇るべきであり、その寅彦を見出し、寅彦の人間と才を愛し、寅彦を斯界最高峰の知性へと導いた夏目漱石にも、おおいに感謝すべきなのである。

 先生と話して居れば小春哉 (牛(ニュー)頓(トン))  ※牛頓は寅彦の筆名のひとつ
 
Text by Shuhei Matsuoka
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2017年02月03日

「選択の自由」の顛末

 昨年末だったか、テレビの報道番組で訳知り顔のコメンテーターが何気なく喋った内容があまりに衝撃的で、素っ頓狂な声をあげてしまった。
 かれはたしか、こう言ったのだ。
 「マイクロソフト創業者のビル・ゲイツ氏の総資産は、株や為替の動きで毎日1千億円ほど上下し、変動が大きいときはそれが5千億円に達する」
 この天文学的な数字が一個人の資産の、それもたった1日の変動額というのだから、世界一の金持ちというのはまことに気の毒としか云いようがない。よくそんな状態で精神に異常をきたさず日々暮らしていけるものだとおもうが、このテレビ番組から1ヵ月ほどして流れたさらなる驚愕ニュースは、もはや余人の想像をはるかに超えていた。
 フランス通信社AFPの報じたところによると、貧困撲滅に取り組む国際NGO「Oxfam」が次のような内容の報告書を出したという。
 「いま世界人口のうち所得の低い半分に相当する36億人の総資産と、世界でもっとも裕福な富豪8人の資産額は同額である」
 この8人とは、米誌「フォーブス」の世界長者番付上位のアメリカ人6人、スペイン人1人、メキシコ人1人で、この中にはマイクロソフト共同創業者のビル・ゲイツ、SNS最大手フェイスブック共同創業者のマーク・ザッカーバーグ、ネット通販最大手アマゾン・ドットコム創業者のジェフ・ベゾスが含まれているという。
 この国際NGOは、「格差が『社会を分断する脅威』となるレベルにまで拡大している」と警鐘を鳴らしているが、いま地球上の富の偏在は、「格差」なぞという呑気(のんき)な流行り言葉で表せるような、そんな生易しいレベルにはもうないと断じてよさそうだ。
 わたしはこのニュースを見て、シリアやイラクやウクライナなどの凄惨な紛争、難民問題、ISの隆盛と世界中で頻発するテロ、トランプ米大統領の登場、英国のEU離脱、欧米各国の右傾化、ヘイトスピーチの蔓延など地球上で人類が直面しているすべての深刻な社会問題や国際問題がこの異常なほどの富の偏在に起因し、その結果、社会の分断どころではなく、すでにわれわれ人類は第3次世界大戦に突入しているのではないかという暗い直感すら覚えたほどだ。
 そして同時に、わたしの脳裏にある人物の姿が浮かんだ。足尾銅山の鉱毒問題ですべてを擲(なげう)って住民とともに闘った政治家・田中正造を彷彿させるような、顔一面に白鬚をたくわえた老経済学者―。2014年9月に86歳で亡くなった、宇沢弘文氏である。
 氏は戦後日本を代表する経済学者で、アメリカや日本を中心に猖獗(しょうけつ)をきわめる市場原理主義という誤った経済システムが地球環境をおおきく破壊し、富の偏在をとめどなく拡散させることに警鐘を鳴らし続け、「社会的共通資本」を基軸概念とする、人間を中心に据えた新しい経済学の構築を目指し、またその必要性を世に問い続けた人物だ。
 社会的共通資本とは、大気・水・森林・河川・海洋・土壌などの「自然環境」、道路・交通機関・上下水道などの「社会的インフラストラクチャー」、教育・医療・福祉・行政などの「制度資本」という3要素からなる概念で、これらは貧富、人種、地域にかかわらずすべての人が公正・公平に享受できなければならない基本的な要件であるとした上で、優勝劣敗の市場原理をこれらの分野に野放図に導入してはならないとする。社会的共通資本は万人の共有物「コモンズ(Commons)」なのだという考えなのだ。
 わたしなどはきわめて健康的で常識的な理念だとおもうが、しかし1980年頃から世界を席巻してきた「新自由主義(Neoliberalism)」―その本質は徹底的な市場化と規制緩和により人間社会のすべてを儲け(売買)の対象とする “市場原理主義”なのだが―という巨大な妖怪の前で、この宇沢経済学は青息吐息である。
 1980年、アメリカの経済学者でノーベル経済学賞受賞者であるミルトン・フリードマンと妻ローズの共著『選択の自由(FREE TO CHOOSE)―自立社会への挑戦―』(邦訳は日本経済新聞社版)が出版された。経済成長を阻む環境保護運動や消費者運動を批判し、公共セクターの徹底した民営化、聖域なき規制緩和・自由市場化などを説くこの野心的な1冊は世界各国で翻訳され、フリードマンを教祖とする市場原理主義は世界中に輸出されてその信者を生み出してゆく。
 バブル崩壊後の不況に喘ぐ属国・日本はとりわけ格好のターゲットとなり、アメリカの強い意向に従って規制緩和や自由市場化が強力にすすめられることになるが、その最たる例が、ブッシュ政権からの意向を受けた小泉・竹中改革であった。このときから日本は郵政民営化、三位一体改革にとどまらず教育、福祉、医療など最重要な社会共通資本にまで容赦のない市場原理を導入し、いわば商品化してしまったのである。
 たとえば小泉政権時代、新自由主義を信奉する竹中平蔵氏の発案であろう、教育事業の一環として子どもたちに株で儲ける楽しみを教えようと小学校で株式投資の授業をはじめたことが大々的に報じられたが、日本における教育の商品化は、アメリカから直輸入されたこのようなおぞましい洗脳政策とともに進行していったのである。
 ついでに教育関連でいえば、宇沢氏はシカゴ大学経済学部の教授時代、同僚であったフリードマン教授の次のような発言を直接聞いたという。
 「黒人問題は経済的貧困の問題だ。黒人の子どもたちは、ティーンエイジャーのとき遊ぶか勉強するかという選択を迫られて、遊ぶことを自らの意思で合理的に選択した。だから上の学校に行けないし、技能も低い。報酬も少ないし、不況になれば最初にクビになる。それは黒人の子どもがちゃんと計算して遊ぶことを合理的に選択した結果なのだから、経済学者としてとやかく言うことはできない」
 そのとき、ある黒人の大学院生が立ち上がってこう言った。
 「フリードマン教授、私に両親を選ぶ自由などあったでしょうか?」
 これは宇沢氏と経済評論家・内橋克人氏の対談『始まっている未来―新しい経済学は可能か―』(岩波書店、2009年刊)に出てくる挿話だが、このフリードマンと学生のやりとりにこそ、すべてが象徴されていよう。
 もちろん教育ばかりではない。地球温暖化防止策と称してCO2排出権という奇怪な金融商品をつくり出し、市場で売買するという暴挙が世界中で平然と行われているのはご存知のとおり。人類すべての共有財産であるはずの地球環境すらも商品化し、投機の対象とする金融資本家らの抜け目なさと奸智にはあきれるばかりである。
 だがいっぽうで、資本主義社会においては優秀な人がそれだけ儲けるのは当たり前で、それが社会に活力を生み出すのだ、という声も聴こえてきそうだ。これは市場原理主義者たちが金科玉条とする理屈だが、しかしこの異常な富の偏在を見れば、そんな一般論で片付けられる話でないことは明らかだろう。宗主国が植民地を一方的に収奪する帝国主義の構造さながら、法的な歯止めを持たない弱者収奪の仕組みを制度的につくり出す理念こそが新自由主義であり、市場原理主義だということだ。人間の欲望を是とする資本主義社会において、もし社会制度に適正な規制や倫理的規範を設けなければどうなるか、その明瞭な結果が超富豪8人と36億人のニュースなのである。
 「選択の自由」という美名の下、いつのまにか身のまわりのすべてが市場化・商品化され、儲けの対象となり、ほんの一握りの強者による徹底した弱者収奪が合法的に、それもグローバルに行われる―。そんな非人間的で残酷な社会を、われわれは本当に望んだのか。
 余談だが、『始まっている未来』には若い研究者時代の竹中平蔵氏(現在は人材派遣会社パソナグループ取締役会長で安倍政権ブレーン)の驚くべきエピソードも出てくる。すでに著名な学者だった宇沢氏に読んでもらいたいと、竹中氏から自著が送られてきた。ところがその内容は竹中氏ともう一人の研究者とが共同研究を行っていたもので、それを竹中氏は自分だけの研究成果として勝手に本にして送ってきたことが分かったのだ。そのことを宇沢氏は本書で明かし、この剽窃(ひょうせつ)行為は研究者としてはもちろんのこと、人間としてもっとも恥ずべき行為であると切り捨てている。
 むべなるかな、である。
Text by Shuhei Matsuoka
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2016年12月13日

「私立」とはなにか 〜諭吉と鴎外〜

 関西の名門私立大学を出、卒業後に同大学の職員となって学友会などの仕事を続けた知人がいる。かれの愛校心の旺盛さは並大抵ではなく、それはかれの個性であり微笑ましくもある反面、長いことその愛校心を奇異に感じていた。ところが最近、その理由がすこしわかってきた。どうもわたし自身が国立大学出であることと関係しているようなのだ。
 そもそも、私立大学にはすべからく創立者がおり、“建学の精神”が存在する。これは当たり前のことである。ある人が崇高な志をたて、資金をあつめ、勇を鼓して学校をつくる。創立者のつよい思いが独自の校風をつくり、学生や卒業生にもゆきわたる。愛校心を涵養する要素がもともと存在するわけだ。
 いっぽう国立大学に創立者はいないし、その学校ならではの“建学の精神”なぞない。国が国家予算をつかって計画的につくった大学なのだから、これまた当たり前のことである。授業料は優遇されるが、国立大学に「学問の自由」や「大学の自治」が本当に存在するのかすら疑わしいほどだ(安倍政権の強権的で愚かしい国立大学改革を見よ)。
 つまり、私立にくらべ国立(官立)にはそもそも学生や卒業生たちに愛校心の芽生える要素がきわめて希薄で、わたしに愛校心がうすいのは至極当然のことなのだ。そして、くだんの知人の愛校心がすこしうらやましく思えてきた次第。
 そこで、あらためて「私立」というものを考えてみたい。
 私立、とはつまり政府(お上)から独立したもの、ということである。象徴的な例として、ふたりの人物を想起しよう。慶應義塾を興し、維新後は一貫して「私立」を貫き、それを矜持(きょうじ)として生きた啓蒙思想家の福沢諭吉と、軍医で文学者だった森鴎外である。
 福沢諭吉は天保5年(1834年)に豊前国(現大分県)中津藩の下級士族・福沢百助の次男として大坂堂島の同藩蔵屋敷で生まれた。その28年後の文久2年(1862年)、石見国(現島根県)津和野に藩医・森静男の長男として森林太郎(鴎外)は生まれている。
 31歳で幕臣(外国奉行翻訳方)に召し抱えられた福沢は明治維新までに3度洋行して世界を識(し)り、35歳で世界史上まれにみる維新回天に直面する。そしてその衝撃をエネルギーとして慶應義塾でおおぜいの若者に文明のなんたるかを教え、膨大な書物や評論を書いて国民の蒙を啓(ひら)き、日本という国をあり得べき姿に導くことを使命として倦(う)むことなく邁進した、まさに「一身にして二生を経た」人生であった。
 福沢の口癖は、云わずと知れた「独立自尊」である。「一身の独立なくして一国の独立なし」との名言も遺したが、この「独立」こそが日本を一人前の国家たらしめる必須条件であり、福沢の考える「私立」のバックボーンでもあった。
 また福沢は、学問というものは本来、官許のものではなく「私立」であるべきと説き、学者のほとんどが新政府に入って禄を食(は)む姿を難じている。『学問のすゝめ』において福沢は、「今の世の学者、この国の独立を助け成さんとするに当たって、政府の範囲に入り官に在って事をなすと、その範囲を脱して私立するとの利害得失を述べ、本論は私立に左袒(さたん)したるものなり」とし、「無芸無能、僥倖(ぎょうこう)に由(よ)って官途に就き、慢(みだり)に給料を貪って奢侈の資(もと)となし、戯(たわむ)れに天下の事を談ずる者は我輩の友に非ず」とまで云う。
 『学問のすゝめ』とは、福沢が渾身の力で書いた「私立のすゝめ」でもあったのだ。
 福沢の死の翌年(明治35年)に生まれた小林秀雄は福沢の『痩(やせ)我慢(がまん)の説』を引き、「『私立』は『痩我慢』である」(『考えるヒント』文春文庫)と喝破している。これは幕府の重臣でありながら維新後に恬然として新政府の顕官となった勝海舟と榎本武揚の出処進退を福沢が激しく難じた有名な一文だが、「私立」するとは痩せ我慢を通すことにほかならぬことを小林は福沢から学んだともいえる。東京帝大出ながらその後は作家・評論家として「私立」を貫いた小林が福沢につよいシンパシーをもったのも頷けよう。
 では一方の森鴎外はどうか。
 鴎外は郷党の期待を一身にうけて明治10年、東京大学の創立と同時にわずか15歳で医学部に入学し、19歳で卒業した俊秀である。卒業後は軍医としてドイツに官費留学し、のち軍医の最高位である陸軍軍医総監にまで上り詰める。また、類まれな文才にも恵まれ、知らぬ者なき文豪ともなった。
 この鴎外の人生を俯瞰して際立つのは、長州閥との濃厚な関係である。
 津和野は長州に隣接する4万3千石の小藩で、長州のいわば属国であった。鴎外は長州閥が牛耳る陸軍に職をもとめ、敬慕した乃木希典(長州藩支藩の長府藩士)の明治天皇への殉死に衝撃を受けて切腹や殉死に材をとった歴史小説を書きはじめ、さらには歌会などを通じて長閥のトップ山縣有朋ときわめて親密な仲となる。小藩出身ながら出世できたのは山縣あってのことだともいわれる。このように長閥とのふかい関係を背景に国家権力の中枢に入り、軍医として栄達の途を歩みながら、いっぽうで文学者という「私」の部分を持ちつづけ、夥(おびただ)しい数の文学作品や翻訳作品を残したのである。
 高級官吏と文学者という「公」と「私」を一身のうちに抱えた人生は、「一身にして二生を経た」福沢とはまたちがった困難な途であった。山縣が主導したフレームアップとされる大逆事件(幸徳事件)とその後の言論弾圧に対し批判的な作品を書くなど、鴎外はふたつの立場に引き裂かれることにもなる。かれが次のように遺言したことは、それを象徴していよう。
 「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死ノ別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス森林太郎トシテ死セントス 墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラズ 書ハ中村不折ニ委託シ宮内省陸軍ノ栄典は絶対ニ取リヤメヲ請ウ」
 臨終に際し、官僚として栄達をもとめた自らの人生、さらには文学者・森鴎外からもきっぱりと決別し、ただの石見人森林太郎として死ぬことを選んだのだ。日本近代史にのこる、まことに痛切な遺書といわざるをえない。
 福沢諭吉と森鴎外は、親子ほども齢がちがうこともあり、直(じか)に接したことはないかもしれない。だが、福沢の弟子の細菌学者・北里柴三郎(のちに慶應義塾大学医学部を創設)が鴎外ら東京帝大グループと脚気の原因や伝染病研究所設立の件で暗闘を繰り広げてきたこと、北里が第1回ノーベル生理学・医学賞を受賞できなかった背景に鴎外ら東大閥の妨害があったとされることからも、生前の福沢は鴎外に好印象をもってなかったろう。
 しかし鴎外のほうはそうでもなかった。
 『福翁自伝』で福沢が、文章は勇気をもって自由自在に書くべきだが、論難した相手を前にして堂々と言えないようなことは書いてはならない、それは無責任の毒筆だと断じている箇所に鴎外が「感心した」と云ったことが、慶應塾長であった小泉信三のエッセイ(『ペンと剣』ダイヤモンド社)に出てくるし、福沢が亡くなってのち明治43年に鴎外は慶應義塾大学文学科顧問に迎えられ、「三田文学」創刊に携わって自ら編集委員になり、これにいくつかの作品を掲載している。鴎外は文学者として、福沢の「私立」を貫く生きざま、潔さにある種の憧憬の念を抱いていたと思われる。
 ところで、近代日本に名を成したこのふたりの生き方を考えるとき、明治維新を福沢が35歳で迎え、鴎外はわずか6歳だったことを見逃してはならないだろう。
 人生半ばの働き盛りで大転換期を迎えた福沢は自らの出処進退をはっきりとここで決める必要があり、幾度となく政府から請われながら決然として「私立」の途を選んだ。もちろん位階勲等も拒んだ。が、鴎外は日本がすでに近代国家の体を整えつつあったころに東京大学(慶應義塾に対抗して明治政府が設立)を卒業し、長閥のツテを頼りに官途に就いて出世を目指すコースに衒(てら)いもなく乗ったように見える。
 しかし文学者でもあった鴎外に、「私立」しなかったことへの負い目はなかったか。かれの遺言や福沢へのある種の憧憬は、それを暗示しているようにわたしには思える。
 「私立」とは畢竟(ひっきょう)、痩せ我慢することであり、その矜持であり、一身独立の方途である。これは現代の私立大学や企業の経営にも、もちろん通ずることであろう。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html

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2016年06月27日

ムヒカの箴言

 アメリカ大統領選もいよいよ大詰めだが、本稿ではすこし視点を変えて、現職のオバマ大統領に注目したい。
 任期満了が近づき政治的影響力が落ちた首相や大統領を、“レームダック(lame duck)”と称することがある。足のわるい鴨、つまり「死に体」という意味だ。欧米政界の俗語で、2期目もいよいよ終章に入ったオバマ大統領は昨年あたりからそう揶揄されている。
 だが、レームダックは、じつは悪いことばかりではない。次の選挙がないので、もともとやりたかったことをかなり自由に、そして大胆にやることができるからだ。
 アメリカ人にとって、1年半前には想像もできなかった2つの出来事が立て続けに起こった。昨年7月20日、バラク・オバマはアメリカの現職大統領としては88年ぶりにキューバの首都ハバナに降り立ち、54年ぶりに両国は国交を回復した。そして今年5月27日には、現職大統領としてはじめて被爆地・広島を訪問したのである。
 キューバは、米ソ核戦争寸前までいったキューバ危機以来のいわくつきの国、アメリカの喉もとに突きつけられた匕首(あいくち)に譬(たと)えられる社会主義国だ。そして広島はアメリカが人類史上はじめて実戦で原爆を投下し、20万人もの無辜(むこ)の民を殺戮して壊滅させた都市。ともに歴代の大統領が目をそむけつづけてきた場所である。永きにわたり喉の奥に刺さったこのふたつの厄介なトゲを、オバマは任期中に取り去ったのである。これは、初のアフリカ系でなおかつ左派系大統領であるオバマにしかできなかった快挙だろう。
 さて、話は北米から南米にとぶ。
 日本のほぼ真裏にウルグアイという人口300万人の国がある。ブラジル、アルゼンチンという大国に挟まれた、牧畜を主産業とする小国である。サッカーの古豪としても知られ、FCバルセロナのウルグアイ人選手スアレスはメッシ、ネイマールに並ぶスーパースターだ。
 じつはこの南米の小国に、もうひとりのスーパースターがいるのをご存じだろうか。昨年まで同国大統領だった、ホセ・ムヒカ(81歳)である。
 2012年のリオデジャネイロでの国連会議で、過剰消費社会とグローバリズムへ警鐘を鳴らす名演説を行って「世界でもっとも貧しい大統領」として世界中で有名になり、今年4月には夫婦で初来日して日本でも話題になった。
 首都モンテビデオ郊外の貧しい家庭に生まれたムヒカは10代から政治活動をはじめ、1960年代初期に当時の独裁政権に反抗する極左武装組織トゥパマロスに加わる。ゲリラ活動による投獄は都合4回、2度は脱獄したもののリーダー格として活動中に6発の銃弾を浴びて再投獄され、奇跡的に命は取りとめたが最後の投獄は13年間に及んだ。激しい拷問にくわえ、換気口もトイレもない蛸壺のような狭い独房に10年間にもわたり投獄され生死の境をさまよったのである。そして、ウルグアイにもついに民主化の流れが及び、1985年に釈放となってのち1994年に下院議員に当選、2010年にはなんと第40代大統領(〜2015年)に就任するのである。
 まことに過酷で数奇な人生だが、かれが世界中で有名になった理由はそれだけでない。
 大統領公邸ではなく郊外の古い平屋に上院議員の奥さん、事故で前足一本を失った小型犬、猫、ニワトリと一緒に暮らし、月給の9割を慈善事業に寄付してわずか月千ドルでの生活。資産といえばトラクター1台と1987年製のフォルクスワーゲン1台だけで、いつもはワーゲンを自分で運転するが、やむをえず公用車に乗る時もけっして運転手にドアを開け閉めさせない。そして後部座席ではなくかならず助手席に乗るのは、襲撃されたとき運転手だけを犠牲にしたくないためだ。外遊しても一切その費用を請求せず、飛行機だって大統領専用機ではなく一般機のエコノミークラスに乗る。そしていかなる公式の場でもノーネクタイにジャケット、ローマ教皇の前であれ国連での演説であれそうだ。
 しかし、ムヒカをたんなる質素な変わり者の爺さんと見誤ってはいけない。
 かれのすごさ、すばらしさは、東西の歴史や哲学から学んだふかい教養と実行力、卓越した人間力にある。ホセ・ムヒカは決して聖人ではない。腹を立てれば毒づくし、したたかさももっている。国民の貧富の差をなくすことを最大の目標とするが、いっぽうでプラグマティズムを貫く筋金入りの老練な政治家なのである。2013年にはミハエル・ゴルバチョフの推薦で、2014年にはさらに多くの政治家や学者が推薦してノーベル平和賞にノミネートされたことでも、かれの人物レベルが分かろう(「受賞した場合には辞退する」と発言していたため受賞しなかった)。
 そのムヒカが初来日した重要な目的のひとつは、被爆地・広島を訪問することだった。人類が犯したもっとも愚劣な罪とその歴史に直接ふれたかったのだ。そして、かれが広島を訪れた翌月、現職のアメリカ大統領がはじめて被爆地・広島の地を踏んだのである。
 一見、まったくの偶然に見える。が、これはじつに示唆的な出来事なのである。
 2012年の初め、この二人は南米コロンビアで開かれたサミットではじめて顔を合わせ、晩さん会でたまたま隣同士になり長時間話す機会を得た。このとき、二人は互いにとても好い印象を持った。ムヒカはのちにこう述べている。
 「オバマは、アメリカの他の政治家と比べると急進左派だ。だから、言ってやったよ。『アフガニスタンから撤退しなさい』とね。オバマは笑っていた。…(中略)…現在のアメリカの置かれた状況を考えると、オバマは最高の大統領だ」(『悪役―世界でいちばん貧しい大統領の本音』汐文社)
 このあと、オバマが「自分の任期中にアフガニスタンから完全撤退する」と宣言したことは周知のとおりだ(残念ながら現地事情の悪化から昨年10月に任期中の撤退断念を発表)。
 2014年5月にムヒカはホワイトハウスの大統領執務室にも足を踏み入れている。元極左ゲリラで米政府のブラックリストにも載る南米の指導者がこの部屋に入るのは前代未聞のことだったが、このとき二人の間で語られたことはさらに前代未聞だった。アメリカとキューバの国交回復の可能性を模索する内容だったのだ。
 ムヒカは若いころキューバを訪れてチェ・ゲバラやフィデル・カストロに会い、キューバ革命の輝かしい成功をお手本にウルグアイでも社会主義革命を起こそうとしたのだ。そんなムヒカにオバマは、「あなたのご友人に、和解を模索するチャンスだとお伝えください」と、キューバとの仲介役を頼んだのである。まさに歴史が動いた瞬間だった。
 その後の二人は、しばしば直通電話で話をするほどの仲よしである。オバマはムヒカを人生の先輩として、そして艱難(かんなん)を乗り越える強靭な精神力と人類の未来に警鐘を鳴らす叡智にふかい尊崇の念を抱き、いっぽうのムヒカは、アメリカ史上初めてのアフリカ系大統領で人権派でもあるオバマにつよいシンパシーと期待を抱きつづけてきたのだ。
 ムヒカの広島訪問は今年の4月10日、東京外国語大学での講演やテレビ出演などのための初来日で実現した。「絶対に行かねばならない」と言いつづけた広島は、かれにとって特別な場所だったのだ。一方このころ、伊勢志摩サミットで来日するオバマの広島訪問が取り沙汰されていたが、国内世論への配慮から実現が危ぶまれていた。ところがムヒカが広島を訪れたちょうど1か月後の5月10日、ホワイトハウスはオバマの広島訪問を正式発表する。そして5月27日、オバマは現職のアメリカ大統領としてはじめて広島の地に立ち、あの歴史的な演説を行うのである。
 わたしが何を言いたいかわかっていただけるだろうか。ムヒカが心を揺さぶられた広島、その広島にアメリカ大統領が行かないという判断をムヒカが是とするはずはない。それも、信頼している友人のオバマである。
 「アメリカ大統領として広島へ行ける最後のチャンスなんだよ!」
 ムヒカが、そう進言しないほうが不自然だろう。
 ウルグアイには日本からの移民も多かった。日本人の勤勉さや質実さを子どものころから知るムヒカは、もともと大の親日家である。しかしかれは、明治維新や戦後の輝かしい技術立国ぶりに敬意を表しつつも、「日本人は魂をうしなった」と手厳しい。
 「西洋に勝るほどの発展を遂げたが、西洋の悪いところを真似しすぎてしまった。経済成長に躍起になり、かつての良さを見失っているように見える。いくらモノがあっても、モノは幸せにはしてくれない。日本人はいま幸せなんだろうか?」
 この言を虚心に聴く耳すら、日本人はうしなっていないだろうか。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
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2016年06月22日

奇しき縁にて候

 昭和33年、大阪市西区西長堀に11階建の高層アパートが建った。通称 “西長堀のマンモスアパート”。日本住宅公団が建てた都市型高層住宅の第1号で、当時としては珍しかった洋風便器やタイル張りのバスルームを完備、297戸というその規模も家賃も破格なら、入居者も有名女優やプロ野球のスター選手もいるという華やかさだった。
 昭和34年12月、このマンモスアパートにはやや不似合いなわかい夫婦が10階に引っ越してきた。産経新聞社出版局勤務の福田定一と妻みどりである。再婚の福田は36歳で妻のみどりは30歳、ふたりはこの年の1月に結婚したばかりの新婚カップルだった。
 一介の若い新聞記者が住めるような家賃ではないが、妻も産経新聞記者でダブル・インカムでもあり、くわえて福田には特殊な事情もあった。この3年前にペンネームを持ち、二足のわらじを履いた作家として頭角を現しつつあったのだ。
 ―司馬遼太郎である。
 ことのき司馬はすでに『ペルシャの幻術師』で第8回講談倶楽部賞を受賞し、中外日報で『梟のいる都城』(のち『梟の城』に改題)の連載を了(お)えたばかりだった。そしてマンモスアパートに入居した翌年の昭和35年に『梟の城』で第42回直木賞を受賞、翌36年3月には産経新聞社を退社するのである。ときに司馬遼太郎、38歳。
 ちょうどそのころのことである。産経新聞の後輩で渡辺司郎という高知生まれの男がマンモスアパートに司馬を訪ねてくる。司馬はこのときのことを、高知市での講演(昭和60年8月8日)ですこしユーモラスに語っている。
 「血液型はO型でした。こまごましたことが表現できない、しかしそれでいて神経こまやかな、典型的な土佐人でした。彼が遊びに来て言いました。
 『これは仕事で言っているのではなくて、自分の国の土佐には坂本竜馬という男がいる。竜馬を書いてくれ』
 べつにそのときにはその気がなかったのです。すぐほかの話に移り、その話は消えました。ところが翌日から一週間ほどですが、おかしなことが続きました。ほかの小説を書くために本を読んだり、資料を読んでいると、必ず坂本竜馬が出てくるのです」(週刊朝日増刊『司馬遼太郎が語る日本』)
 司馬がいう“ほかの小説”とは、ほどなくして連載をはじめる『新選組血風録』と『燃えよ剣』のことで、幕末関連の史料を読み漁って新選組に集中していた時期である。渡辺が帰ったあと、坂本竜馬とやらにはあまり興味がわかないと司馬が何気なく妻にいったところ、意外にもみどり夫人は「わたしは竜馬、ええとおもうわ」と応えたという。司馬の才に惚れ、司馬作品の第一の読者でもあった夫人のこの一言もあり、司馬は次第に知られざる坂本竜馬に引きこまれてゆく。
 竜馬を調べるうちに、「この男はひょっとしたら最高の素材ではないか」と司馬をして大興奮せしめたのは、姉乙女にあてた手紙の数々に垣間見える無類のチャーミングさ、型破りな発想と人間力、そして維新回天の大立役者の一人、勝海舟がことのほか評価していたことであったろう。
 勝が晩年に口述筆記させた『氷川清話』は第一級史料で司馬もむさぼり読んだはずだが、とりわけ次のようなくだりにはするどく感応したにちがいない(講談社学術文庫版より)。
 「坂本が薩摩からかへつて来て言ふには、成程西郷という奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だらうといつたが、坂本もなかゝ鑑識のある奴だヨ」
 「土州では、坂本と岩崎弥太郎、熊本では横井(小楠)と元田(永孚)だろう。
坂本龍馬。彼(あ)れは、おれを殺しに来た奴だが、なかゝ人物さ。その時おれは笑つて受けたが、沈着(オチツ)いてな、なんとなく冒(おか)しがたい威権があつて、よい男だつたよ」
 その結果、作家・半藤一利がいう「竜馬をみつけたのは司馬さんの大スクープ」ということになる。
 39歳の司馬は昭和37年6月21日、まさに満を持して産経新聞夕刊に『竜馬がゆく』(〜昭和41年5月19日)の連載をはじめる。司馬はすでに同年5月から「小説中央公論」で『新選組血風録』(〜昭和38年12月)を、11月19日からは「週刊文春」で新選組副長の土方歳三を主人公にした『燃えよ剣』(〜昭和39年3月9日)の連載を開始するので、1年半ほどの間、竜馬と新選組という真逆の立場から、幕末を舞台にした長編小説3本を同時連載していたことになる。
 司馬遼太郎は一本の青春小説−とあえて云おう―の傑作によって、それまで無名に近かった「坂本龍馬」という、土佐藩を脱藩した一介の無位無官の浪人、おまけに33歳のわかさで死んだ男を日本最大のヒーロー「坂本竜馬」に仕立てあげた。もし司馬がこの男に興味をもたなかったならば、土佐藩郷士・坂本家の次男坊は桂浜の銅像でのみ知られる幕末の志士のひとりに過ぎず、よしんば誰かがその後にかれを見つけて小説などにしたとしても、いまわれわれが知る坂本竜馬には到底なりえてなかったろう。
 ところで、マンモスアパートのことである。
 司馬の後輩の土佐人、渡辺司郎がこのアパートに司馬を訪ねてからほどなくして、司馬は不思議なことに気づく。このマンモスアパートが、偶然にも土佐藩大坂藩邸の跡地に建てられていたことである。作家・司馬遼太郎になったばかりの福田定一は、「おそらく竜馬も来たことがある土佐藩大坂藩邸の上に乗っかって住んでいる」ことに気づいたとき、ただならぬ奇縁を感じたはずだ。
 幕末、この土佐藩大坂藩邸のトップ(小参事)に上り詰めたのが、勝が竜馬と並び称した傑物、岩崎弥太郎である。弥太郎は廃藩置県で土佐藩が消滅するや、大坂藩邸の藩船を譲り受け、この藩邸敷地内で海運会社を興す。これがのちの三菱である。
 弥太郎は竜馬とはソリが合わなかったが、「世界の海援隊をやる」という言葉に刺激を受け、竜馬亡きあと、自らがこの地で海運会社を興すわけである。その場所に歴史作家になったばかりの司馬は偶然にも住んでいて、その竜馬を書きはじめるのだから奇縁というほかあるまい。
 司馬がマンモスアパートに住んだころは長堀川もまだ埋めたてられておらず、玄関前には鰹座(かつおざ)橋があり、近くにはかつて白髪(しらが)橋という橋も架かっていた。この二橋の奇妙な名は、土佐藩が名産の鰹節と白髪山で産する杉・檜を藩船ではるばる土佐から運び込み、藩営の土佐商会を介して大量に売りさばいていた名残りで、川が埋め立てられて長堀通りとなったいまでもそのまま交差点名として残っている。
 また、この旧土佐藩邸跡の一角に、土佐藩の社(やしろ)だった土佐稲荷神社も現存している。古色蒼然としてすこし寂れた風情だが、三菱創業の地であることからいまは三菱グループの守護神となっており、境内は岩崎家や三菱系企業からの寄進物で溢れている。司馬は当時、この神社に保管されていた弥太郎の日記の存在を知り、貸してほしいと訪れたこともあったという。
 『竜馬がゆく』の連載をはじめた翌月、司馬は短いエッセー「上方(かみがた)住まい」にこう述べている。
 「私はいま、かつて土佐藩の大坂屋敷のあった場所に住んでいる。すでにその敷地には十一階だての鉄筋アパートが建っており、その十階にすんでいるのだが、いまなお、アパートの前の橋は、鰹座(かつおざ)橋(ばし)であり、横には、藩邸の守護神であった土佐(とさ)ノ稲荷(いなり)という神社が現存している。
 竜馬の取材のために高知から大阪のすまいへもどってくるときなど、ふと、私の主人公もまた、高知とこの大阪鰹座橋を往復したであろうことをおもって、こどもっぽい感慨をもつことがある」(『司馬遼太郎が考えたこと(2)』新潮文庫) 
 大阪に行く機会があれば土佐稲荷神社を訪れ、目の前のマンモスアパート(現・UR西長堀団地)を眺めつつ、『竜馬がゆく』誕生の奇縁に身をひたすのも一興ですぞ。
   Text by Shuhei Matsuoka
   単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
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2016年03月18日

「岩崎邸」物語

 森鴎外の小説『雁』に、「岩崎の邸」として三菱の創業者、岩崎弥太郎の邸宅が出てくる。舞台は、明治13年の東京である。語り手の“僕”は東京大学の医学生らしいので、鴎外自身のことであろう。こんなくだりがある。
 「その頃から無縁坂の南側は岩崎(いわさき)の邸(やしき)であったが、まだ今のような巍巍(ぎぎ)たる土塀(どべい)で囲ってはなかった。きたない石垣(いしがき)が築いてあって、苔蒸(こけむ)した石と石との間から歯朶(しだ)や杉菜(すぎな)が覗(のぞ)いていた。あの石垣の上あたりは平地だか、それとも小山のようにでもなっているか、岩崎の邸の中に這入って見たことのない僕は、今でも知らないが、兎(と)に角(かく)当時は石垣の上の所に、雑木(ぞうき)が生(は)えたい程生えて、育ちたい程育っているのが、往来から根まで見えていて、その根に茂っている草もめったに苅(か)られることがなかった。」
 明治13年といえば、西南戦争で莫大な財を成し、飛ぶ鳥を落とす勢いの岩崎弥太郎が旧舞鶴藩主牧野家から不忍の池に程近い広大な屋敷を買い取って2年後のことである。
 本郷台地の東端に位置し、房総半島や富士山をも遠望できるこの邸宅はもともと越後高田藩主榊原(さかきばら)家の江戸屋敷であったが、明治維新のどさくさのなか明治4年に西郷隆盛の側近、桐野利秋の邸となった。桐野は幕末までは中村半次郎を名乗り、示現流(じげんりゅう)の達人で“人斬り半次郎”と恐れられた薩摩の壮漢である。桐野のような無学(文字が読めなかった)で小身の男がこのような豪壮な藩邸をわがものにしていたことでも明治維新がいかにどんでん返しの革命であったかがわかるが、明治6年の政変で薩摩に帰国した西郷と行動を共にするため桐野はこれを牧野弼(すけ)成(しげ)に売りはらった。しかし舞鶴知事となった牧野は東京に住むことなくこの屋敷はそのまま放置され、広大な庭園を有する邸宅を探していた岩崎弥太郎がこれを買い取ったのである。
 この小説のころは、弥太郎が大坂西長堀の土佐藩大坂藩邸で九十九(つくも)商会(三菱商会の前身)を創業してわずか9年、東京日本橋に本拠を移して6年しか経っていないが、三菱(当時の社名は三菱蒸気船会社)はすでに社員数2千人を超える日本最大規模の会社となっていた。日々忙しく飛び回って社員らに檄を飛ばし、毎夜のように政府高官らを料亭で接待して「大臣・参議が三菱の岩崎か」といわれるほどに権勢を誇った弥太郎のこと、多忙を極めていたのかこの屋敷には転居せず一家はまだ駿河台の旧邸に住んでいた。
 つまり、医学生“僕”こと18歳の森林太郎(鴎外)は無人の邸の鬱蒼とした雑木林と、あたり一帯を睥睨(へいげい)するごとき苔むした高い石垣を横に見遣りながら無縁坂を上り下りしていたことになる。わたしははじめて『雁』を読んだとき、「きたない石垣」などのやや下卑た言葉は成り上がった豪商に対する鴎外の心象を表していると感じたが、邸宅は桐野が住んだあとながく放置されたままだったのだからごく自然な描写でもあったのだ。
 弥太郎一家は邸宅を購入して4年後の明治15年8月、母屋を改築してやっとこの地に転居する。多忙の合間を縫っての念願の新居への引っ越し、弥太郎も家族もさぞ嬉しかったろう。だが、残念なことにこのわずか2年半後の明治18年2月、弥太郎は胃がんのため50歳で急死するのである。
 日本の海運の覇を争い、三井と渋沢栄一が手を組んだ共同運輸会社を敵に回してのまさに死闘の真最中のできごとだった。この弥太郎の死去をきっかけに、井上馨、西郷従道などが仲裁に入り、両社は翌年ついに合併に合意。新たに日本郵船会社が設立され、明治のビジネス界を騒然とさせた大激闘はやっとここに終焉を迎えることになる。
 さて、一代の巨商・岩崎弥太郎の葬儀とはどのようなものであったか。
 当時の新聞報道などによれば、2月13日の午後1時過ぎに下谷(したや)茅(かや)町(ちょう)(現在の地名は台東区池之端)の本邸を出棺、長蛇の葬列は湯島切通しの坂を上り、本郷通りを経て午後3時20分に駒込の染井墓地に至った。騎馬兵、警視庁の巡査数十名、東京鎮台の一中隊が先頭に立ち、さらに騎馬に先導された馬車で祭官らが続き、岩崎家親戚一同、三菱幹部、佐々木高行、福岡孝(たか)弟(ちか)、谷干城、土方久元らの土佐出身者を含めた政府顕官数百名、銀行などの会社重役、朝廷からの使者、英米公使などの西洋人、愛顧を受けた芸人や力士などを含め5千人余が列した。喪主の長男岩崎久弥は一般の会葬者を5万人と想定し、広大な岩崎邸だけでは手狭とみて隣接する湯島天神境内や近隣一帯の割烹店などを借りて休憩所に充て、6万人分の西洋料理、日本料理、各種菓子などを用意、葬儀のあと立食形式で貴賤を問わず全会葬者に饗応されたというから、一民間人の葬儀としてはまさに空前絶後だった。
 この東京中の語り草になるほどの大葬儀のあと、三菱は弥太郎の弟弥之助が引き継ぎ、その9年後の明治27年に弥太郎の長男久弥が三代目を襲った。
 岩崎久弥は慶応元年生まれ、慶応義塾を卒業後に渡米し、明治24年にペンシルベニア大学を卒業して帰国した俊秀である。29歳の若さで三菱総帥のポストを譲り受け、三菱グループの近代化と事業再編のため三菱合資会社を新たに設立して社長となった。
 久弥はまず、本社の丸の内移転を決行する。日本に招聘された最初の建築家で鹿鳴館やニコライ堂の設計で知られる英国人ジョサイア・コンドルを建築顧問に迎え、丸の内に日本初のオフィスビル「三菱1号館」(現在は復元されて美術館になっている)を建設して本社とした。さらに2号館、3号館とつぎとぎに建て、荒地だった丸の内を一大オフィス街(「一丁倫(ロン)敦(ドン)」と呼ばれた)へと変貌させてゆく。
 そして次に久弥は父弥太郎がわずか2年半しか暮らせなかった邸宅の大改築に着手する。まず近隣の土地を買い足して敷地を倍ほどに広げ、明治29年にはコンドルに白亜の木造洋館と撞球(ビリヤード)場を設計させて日本の選りすぐりの職人により建築、さらに20棟もの書院造りの豪壮な和館(総建坪550坪)を名工・大河喜十郎に依頼して増築し、岩崎家と50人におよぶ使用人たちの生活の場とした。敷地内には屋敷群と庭園のほか茶室、テニス場、馬場と厩舎、使用人住宅、表門には巡査の詰所まであり、総敷地面積は1万5千坪にのぼったというから、これはひとつの“町”といえる巨(おお)大(き)さであったろう。
 その久弥も大正5年、51歳で三菱総帥の座を岩崎小弥太(弥太郎の弟弥之助の長男)に譲り、小岩井牧場などの農牧事業や文化事業のみに専念してこの邸で悠々自適の晩年を迎えようとしていた。大正12年の関東大震災の際に邸宅全体を開放して5千人のひとびとを災禍から救ったことなどは、このころの岩崎家と久弥の人物をよく伝える挿話である。
 ところが、昭和20年の敗戦が岩崎家を、そしてこの豪壮な岩崎邸をも奈落に突き落とすことになる。軍需産業の中核を担った三菱は戦犯扱いとなり岩崎家は財産のほとんどをGHQに没収されたばかりか、米国陸軍情報部のキャノン機関が稀少な洋館を持つ岩崎邸を本部として接収、10人の若い将校たちが邸全体を占拠したのである。岩崎一家は“折半住居者”として和館の一角に住まうことを命じられた。
 「夜中に庭をかけまわる女の嬌声―私どもはそのたびに耳をおおいました。兵隊たちはピストルの練習に空いた罐詰の罐をならべて、一日中、パンパンと打ちつづけます。それ弾丸(だま)が『折半住居者』のわれわれの方まで飛んできて、窓ガラスの割れることもあり、ピストル音がきこえだすとビクビクしていました」「『七十年も住んだこの家、不義者一人出さなかったこの家を、女郎屋にしてしまった』と、ただひとこと、父がくやし涙を出したことがありました」
 これは、久弥の長女としてこの豪邸に生まれ、外交官沢田兼三に嫁し、敗戦後にエリザベス・サンダース・ホームを創設して多くの混血孤児を育てた沢田美喜の自伝『黒い肌と白い心‐サンダース・ホームへの道』にあるくだりだが、土佐の気風と岩崎家代々の家風を誇りとした齢(よわい)八十を数える当主久弥の鬱勃(うつぼつ)たる憤怒が胸を搏(う)つ。
 この邸宅はその後、昭和27年に財産税で物納され、現在は東京都所有となり「旧岩崎邸庭園」として一般公開されている。敷地は当時の3分の1、和館もほとんどが取り壊されて3棟を残すのみとなっているが、重文指定の壮麗な洋館、和館、巨木に囲まれた広遠な芝園は往時をしのばせるに足る存在感である。
 土佐の微禄の下級武士から一代で大三菱を興した岩崎弥太郎、その長男久弥の一族の栄華と落魄の歴史が、ここにはたしかに息づいている。
Text by Shuhei Matsuoka
  単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html

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2015年12月25日

町並み考

 昔日の佇まいをしっかりと残した町並みを見かけることは、日本では本当に稀である。
 かつて暮らした場所を訪ねて、ほんの数十年でまるで別の町かと見紛うほどに変貌していて愕然とした経験をもつ人もすくなくないだろう。なぜ日本人はこれほど変化を好み、すぐにリセットしたがるのだろうか。
 この国の美術品や工芸品のレベルはきわめて高く、技の伝統を重んじる点でも世界屈指だろうが、歴史を刻んだ町並みや建物にはなぜかあまり頓着しない。すぐに壊して新しくすることになんの痛痒も感じぬどころか、そのほうが活気があるとでも思い込んでいる風である。
 最近の例でいえば、やっと歴史らしきものができつつあった東京の国立競技場やホテル・オークラをあっさりと、それも大金をかけて建て替える神経は、わたしにはどうも解(げ)せぬ。機能や耐震性で時代に適(あ)わなくなったなら、その部分に知恵をしぼって改修すべきで、そのノウハウこそが持続可能な社会へ転換するための新たな技術力やデザイン力となる。百年を経たものを壊すのは一瞬だが、百年を経た歴史的、文化的価値をもう一度つくり直そうとすれば、やはりまた百年かかるという単純な事実に日本人はなぜ恐怖しないのか。もし京都の木造建築群の多くがありふれた現代建築に建て替えられたら、京都は世界中から激しい非難と痛罵を浴びることになろう。それが正常な神経というものだ。
 だがいっぽうで、次々と壊して新たにつくればその分だけ経済活動は旺盛になり景気がよくなると歓迎するひとびとがいるのも事実だ。が、これほど短絡的でバカげた発想はない。それで得るものと喪うものの比較をしてみるがいい。無駄な開発が一時的に経済指標を押し上げても、すこし長い目で見れば、限りある資源を濫費するばかりか歴史・文化を毀損し、自然環境をも破壊する行為であることは論を俟(ま)たないし、そういった愚挙の果てが足下の日本のありさまではないか。
 残念ながらこの点において、日本人はヨーロッパのひとびとの足元にも及ばぬと断じていいだろう。
 とはいえ、そんな日本にもほんのわずかだが、いい風情の町は残っている。たとえば岡山県の倉敷はそのひとつだ。
 いい、といっても天領として栄えた江戸時代の蔵屋敷がのこる美観地区(「重要伝統的建造物群保存地区」指定)のことだが、戦前に国際連盟からリットン調査団が来日して偶々(たまたま)おとずれた大原美術館とその収蔵品に驚嘆し、水島工業地帯に隣接する格好の爆撃対象ながらこれを灰燼に帰すのは惜しいと爆撃しなかったために残った町並みとされる。
 まだ日本に美術館なぞなかった昭和のはじめ、私財を投じて国内外の一級の美術品を買い集め、日本人に本物を観せたいと壮麗な大原美術館を建築した倉敷の実業家・大原孫三郎の着想と執念、そしてその意志を継いでこれを発展させた息子總一郎の教養と見識に負うことはいうまでもないが、もしリットン卿が本当に大原美術館の価値を正確に報告し、そのためにこの町が爆撃を免れたのだとすれば、かれの炯(けい)眼(がん)にも謝すべきだろう。
 この倉敷ほどではないが、ささやかながらわが高知にもいい町並みが残っている。
 室戸市吉良川町と安芸市の土居廓中である。前者は平成9年10月、後者は平成24年7月に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。安芸市の土居廓中は山内家家老の五藤家が治めた武家の町、室戸市の吉良川町は明治期から昭和中期まで土佐備長炭の産地として栄え、これで財を成した古い商家が並ぶ町である。
 安芸市の土居廓中は、山口県の萩市を思い起こさせる風情がある。
 萩は、いうまでもなく明治維新を先導した長州藩の本拠地であった。吉田松陰、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋らはすべてこの小さな城下町とその近郊に生まれ、松門(しょうもん)(松下村塾派)はのちに天下を獲る。だが、土塀と夏みかんの樹々が印象的な鄙びた武家屋敷群と藩政時代の町並み(武家屋敷群は全国初の「重要伝統的建造物群保存地区」、今年は世界産業遺産にも選定された)のほぼそのままをわれわれが見ることができるのは、維新前に藩庁が瀬戸内側の山口に移り、明治以降も日本海側の萩は捨ておかれ、開発から取り残されたからなのだ。
 土居廓中もまた同様である。安芸市は県都高知市から東へ約40kmと離れており、産業らしきものもない。藩政時代、山内家家老であった五藤氏の小さな城(土居)があり、そのまわりに家臣団の家々が並んでいたのだが、ここも不便な田舎町だったことがさいわいして開発から取り残された。萩ほどではないが、およそ40棟のふるい武家屋敷がまとまって残っており、狭い街路とその両側に自然石の縁石をつかった側溝、土用竹の生垣、安芸川の河原石や古瓦を赤土で固めた練り塀などが往時をしのばせる。
 いっぽうの吉良川町は土居廓中とはまるでちがう町並みである。
 もともと室戸一帯は良材のウバメガシが豊富に自生する土地柄で、明治期に紀州から来た遍路が備長炭の技術を吉良川のひとびとに伝えたとされる。大正年間に入ると土佐備長炭は上方で大評判をとり、これを扱う商家や廻船問屋が軒を連ねるほどにこの町は栄えたのだ。家々は財を成した商家らしく白い土佐漆喰壁に水切り瓦という贅を尽くしたつくりで、倉敷同様に立派な蔵も多い。
 吉良川の町並み(保存指定建造物は160棟)がいまに残った理由も、辺境の地であるため先の戦争で爆撃も受けず、さいわい大火にも見舞われず、戦後も開発から取り残されたからである。燃料が炭から石油やガスへと代わったため戦後はすっかり寂れたが、どしっとした漆喰壁の建築群が辛うじて残ったのだ。
 このうちの一軒に、とりわけ広い敷地に何棟かの屋敷と蔵、そしてよく手入れされた中庭をもつ「蔵空間茶館」という名の瀟洒なカフェ兼遍路宿がある。これを営む感じのよいご夫婦は、父祖から受け継いだこの建築と町並みを愛し、改修して次代に引き継ぐことを自らに課してさまざまなアイデアでこれを実現しつつある。蔵屋敷の落ちついた風情とご夫婦のセンスに惚れこみ、一度宿泊した県外客が二度、三度と訪ねてくるというから驚く。また最近はこの地で土佐備長炭製造を業とする若者がふたたび増え、生産量で紀州備長炭を抜いて日本一になったと聞く。かつての隆盛は望むべくもないが、高級炭として東京の料亭などへのネット販売が好調のようで、あかるい兆しも出てきている。
 さて、京都にふれたついでにいうと、京都が京都たりえている理由について、京都に生まれ育った日本を代表する“知の巨人”梅棹忠夫(1920〜2010)がかつておもしろいことを述べている(『京都の精神』角川文庫)。
 京都は保守的な都市であると思われがちだが、永年、革新政権が君臨していた。革新のシンボルだった蜷川虎三の府知事時代は7期28年も続いたのだ。これは、京都市民が、開発を推し進める政権与党(自民党)に異を唱える革新に行政権力をゆだねることで、京都のミニ東京化を拒んだ結果だという。戦火から免れたこともあるが、日本全国がミニ東京化していくなかで、京都が固有の町並みを残し得た理由はそこにあるというのだ。そして梅棹はこう結論づけている。
 「ことばの通常の意味での革新と保守は、京都においては逆転していたのである」
 千年の都を守ってきた京都市民の端倪(たんげい)すべからざる知性としかいいようがないが、反面で、あの京都ですら市民がつよい意志をもたねば、世界中のひとびとを魅了してやまない町並みもあっけなく消失する危険にさらされていることを暗示している。京都も萩も倉敷も、開発好きでリセット好きの日本人が住むまちであることにちがいはないからだ。
 そう考えると、けっきょくのところ昔日の佇まいを残す町並みや歴史を刻んだ建築をまもれるのは、そこに住まうひとびとや建物オーナー、自治体行政マンらの勁(つよ)い意思と知性であるという、シンプルなところに行きつく。
 土佐人も、負けてはいられない。
    Text by Shuhei Matsuoka
  単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html

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2015年09月19日

遍路考

 数年前から四国八十八ヶ所巡拝をはじめた大阪の知人(土佐市生まれ)が、来年6月の65歳の誕生日に結願するという。病をえたことが巡拝のきっかけだったようだが、一度に歩き通すわけではないにしろなかなかの健脚だ。先だって高知市内の札所巡拝のおりに再会したが、本人はいたって元気、病も毒気をぬかれて退散したにちがいない。
 四国八十八ヵ所巡りはいまでこそ観光資源として脚光を浴び、かれのようなごくふつうの人びとが国内だけなく海外からもやってきて巡拝を行うようになったが、お遍路には一昔前まではかなり暗いイメージがつきまとっていた。わたしの世代だと、子ども心に暗くおそろしい記憶とともにある。
 ある日の昼下がり、家の門前で突然、鈴の音と念仏を唱える声が聴こえはじめる。もうそれだけで子どもは戦慄するが、家の誰かが気づき、「あら、お遍路さんじゃ」と言いながらそそくさと小銭やら米を包み、それを手渡す役を子どもにさせたりする。早く渡さなければ念仏は永遠に終わりそうにない気配なので大人たちは小走りでことを済ませようとするが、子どもは大人たちのそのような非日常の立ち振る舞いや表情、どこか呪術的な異界の気配にそこはかとない恐怖をおぼえるのだ。
 お遍路さんは菅笠の奥でかるく会釈してお布施を受けとると、念仏もほどほどに次の家のほうに向かい、家の者たちも、なにごともなかったようにやりかけの家事に戻る。「死」の使いがなんの前ぶれもなく突如やってきて、頼みもしないのに玄関先で唱える念仏の気味わるさ、そして汗や埃で薄汚れた白装束のうえにのった菅笠の奥の顔が見えない怖さ。平穏な日常が一瞬静止し、彼岸と此岸の境目に白装束がふいに立ちあらわれ、ほんの数分ののち鈴の音とともに何処(いずこ)かへ去ってゆく一幕の白日夢だった。
 今年で四国霊場開創1200年というからその歴史はふるいが、「御百度を踏む」などの言葉もあるように、ひたすら無心に歩く行為そのものが祈りに通ずると信じられたことから、開祖である弘法大師空海を慕う仏徒らの修行道となった。そして江戸期になると一般民衆の間にも流行(ひろが)り、お伊勢参り、金比羅参り、善光寺参り、西国三十三ヵ所巡礼などとならぶ有名な巡拝ルートのひとつになっていた。
 むろん、ふつうの庶民が全行程360余里(約1,450km)もある巡礼の旅に出るには、それぞれに云うにいわれぬ事情があったろう。不治の病に冒された者、不具の身に生まれた者、心の苦しみをかかえた者、故郷を追われた者、そして罪人も紛れ込んでいた。霊場巡りを生涯の生業(なりわい)とした乞食遍路も少なくなかったようだ。江戸初期には「『へんろ』『かんじん』『せぎょう(施行)』『へんど(辺土)』『ぜんもん(禅門)』など、仏徒とは名ばかりの、おびただしい零落者のむれとなり、あてどなく山野をさまようようになっていったのである」と『日本残酷物語 第一部−貧しき人々のむれ−』(平凡社)にある。これは全国的な乞食遍路の流行を指しているのだが、辺土(辺境)の地、四国の霊場巡りは、江戸期を経て明治期の廃仏毀釈という愚挙をかいくぐって生き延びた八十八寺(札所)の歴代住職ら関係者の努力によってそっくり現在にまで遺った貴重な姿なのである。
 四国霊場巡りという長途の旅程はつまるところ、仏徒の托鉢修行の場であり祈りと信仰のみちであると同時に、零落の世捨人が物乞いしつつかろうじて生きてゆける救済システムであり、あるいはどこかで行き倒れて死ぬための黄泉(よみ)のみちでもあった。いつ野垂れ死んでもお大師さま(弘法大師)のもとに行けるよう死装束を纏(まと)うのはその証しである。そういえば、松本清張の『砂の器』には子連れのハンセン病患者が遍路となって流浪する姿が描かれていたし、失明を苦にして紀州から四国巡礼の旅に出、長浜・雪渓寺門前で行き倒れたわかいころの山本玄峰老師の話を本コラムに書いたこともある。
 しかし一方で、遍路と地元民との交流がさまざまな文物を流通させ地域に根づかせた歴史があったことを忘れてはならない。四国霊場巡拝にはもともと呪術的、宗教的で「死」を想起させる暗いイメージがある反面、四国固有のゆたかな「遍路文化」とも呼べるものがあったのだ。これらのことは史料としてはほとんど存在していないが、地域にはさまざまな言い伝えとして遺っている。
 高知平野の村々では近年までヘンドマイ(遍路米)、ヘンドボウズ(遍路坊主)、ヘンドシンリキ(遍路神力)と呼ばれる稲が栽培されていた。遍路に出た土佐人が、他国の路傍にある実りのよい稲穂を見つけるとそっと二三本を抜き取って頭陀袋にいれて持ち帰ったものが種もみとして広がったものだという。逆に、土佐に来た他国の遍路が田植えの方法などの農業技術を伝えたという話も数多い。漁業技術を遍路が伝えたという例もあり、たとえば紀州からやってきた岡田八太という遍路が安芸の浜でカモメが群れ飛ぶ姿を見てよい漁場だとみてここに住み着き、八太網漁としていまにその名を残している。幡多地方に残る三角式大敷網漁法も江戸期に長門(現山口県)からきた遍路が伝えた漁法だといわれる。
 そのほか、医療技術ではお遍路灸、お大師灸、お遍路鍼などの名が残っており、行き倒れた他国の遍路がお礼にそれらの技術を残してくれたという言い伝えが県内いたるところに残っている。また産業分野では稲生の石灰がよく知られる。江戸後期に下田村稲生(現南国市稲生)で行き倒れた阿波の徳右衛門という遍路が、介抱してくれたお礼に築窯法と製造法を地元に伝え、この技術のおかげで石灰生産は明治以降、土佐の主要産業となってゆく。徳右衛門はその後いったん阿波に帰国したが、石灰製法を他国に漏らした罪に問われるのを恐れてふたたび土佐へ舞い戻り、羽根浦(現室戸市羽根)に住み着いたようだ。
 これらは高知の民俗学者・坂本正夫氏(元高知県立歴史民俗資料館長)が『土佐と南海道』(吉川弘文館)のなかに採録している興味深い例だが、伊野に伝わる手漉き和紙の伝承は、悲劇的な遍路の物語として伝説化している。江戸初期、伊予国宇和郡(現愛媛県宇和島市)生まれの新之丞(しんのじょう)は四国巡礼の途上、土佐郡成山村(現伊野町)で行き倒れた。これを助けたのが、伊野成山に落ちのびていた長宗我部元親の妹、養(よう)甫(ほ)尼(に)である。新之丞は恩返しにと手漉き製紙法をおしえ、養甫尼と安芸三郎左衛門家友(安芸国虎の次男)らはその秘法をもとに土佐七色紙の製造に成功、伊野がのちに一大製紙産地となる礎を築いた。ところが、新之丞が郷里へ旅立つ日、製紙法が他国へ漏れることを恐れた家友は成山村仏ヶ峠でかれを待ち伏せて斬殺するのである。
 これらの言い伝えは遍路文化のほんの一部を垣間見せるだけだが、それでもこのいくつかの例から察するに、他国からやってくる遍路たちは決して厄介者なぞではなく、しばしば知識や技能の伝達者となり、地元民にとって貴重な情報源であったこともうかがえる。そして氏素性もしらぬ流浪者と地元民はいわばゆるやかに共存し、お互いが助け合ってすらいたことがわかる。行き倒れて亡くなった遍路は手あつく葬られ、さいわいに生き残り恩をうけた遍路は身につけた技能や知恵を返礼としてその土地に残し、あるいはそのまま居着いた遍路も少なくなかった。そういったことどもすべてを包含したものが遍路文化なのであり、表舞台にあらわれることのない口伝の民衆史でもある。
 現代に生きるわたしたち四国人のことばや習俗には、はるか千年むかしから行き交った遍路たちの所産が否応なしに染み込んでいるのだろう。
 四国霊場巡りは今年4月に日本文化遺産に認定されたこともあり、ますます人気が出そうだ。季節のよい時期に四国の山や海、木々や草花を眺めながら歩く巡礼の旅は心身をリフレッシュしてくれようし、悲壮感のない現代風の気軽なお遍路さんも、おおいに結構だとおもう(観光バスでやってくる団体遍路は醜悪だが…)。しかし、望郷のおもいを胸に野垂れ死んだ数知れぬ遍路たちの無念、一椀のめしに命をすくわれた乞食遍路の頬をつたう涙、不具の子を連れての巡礼途上ついに路傍に果てた親子遍路の虚(うつ)ろな瞳にもすこしぐらいは想いをはせてみよう。いまでは舗装されてしまった遍路みちの下には、社会からもれ落ちたおおぜいの棄民たちの声なき声、人生が累々として横たわっているのだから。
        Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html

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2015年06月19日

田中角栄の亡霊

 前回は47年前に書かれた3つの遺書を題材に、ここ半世紀のあいだに起こった日本人のただならぬ変容と淪落ぶりについて述べたが、今回はその原因について考えてみたい。
 さきごろ北陸新幹線が金沢まで延伸開通して話題となった。東京から金沢や富山に早く行けるようになっても高知に住むわれわれにはあまり関係ないが、それはさておき開通フィーバーが冷めたころ、ちょっとおもしろい新聞記事が目にとまった。
 田中角栄元首相が手書きした北陸新幹線の路線構想図が新潟県内で発見されたという内容で、昭和47年4月に新潟県新井市(現妙高市)の陳情団が目白の田中邸を訪れたとき、当時通産大臣だった角栄自ら北陸新幹線として想定される4ルートを手書きし、「このルートがいいと思っている」と、高崎から六日町を経て直江津を結ぶルートを指し示したという。これは新潟県中部を横断して角栄の地盤である旧新潟3区を通過するルートだが、このころすでに新潟県を縦断する上越新幹線(東京〜新潟間)の工事は着工されていたので、角栄は地元新潟に2本の新幹線を通すことを決め、すでに実行段階に入っていたことになる。
 あからさまな利益誘導が権力者によっていとも簡単に決められてゆく姿が印象的だが、じつはこの構想図が書かれた2ヵ月後の昭和47年6月、自民党総裁選を間近に控えていた田中角栄は満を持して『日本列島改造論』(日刊工業新聞社)を発表する。北陸新幹線の路線構想図を角栄が手ずから書いたとき、同書の原稿はすでに出来上がっていたわけだ。
 さて、本題はここからである。
 周知のように、この『日本列島改造論』は発売とともに一大ブームを巻き起こすことになるが、どうやらこの43年前に世に出たベストセラーこそが、日本人の変容と無残な淪落を決定づける直接的原因になったとみてよさそうなのだ。
 本書の「序にかえて」にはこうある。
 「明治百年をひとつのフシ目にして、都市集中のメリットは、いま明らかにデメリットに変わった。国民がいまなにより求めているのは、(都市の)過密と(地方の)過疎の弊害の同時解消であり、美しく、住みよい国土で将来に不安なく、豊かに暮らしていけることである。そのためには都市集中の奔流を大胆に転換して、民族の活力と日本経済のたくましい余力を日本列島の全域に向けて展開することである。工業の全国的な再配置と知識集約化、全国新幹線と高速自動車道の建設、情報通信網のネットワークの形成などをテーマにして、都市と農村、表日本と裏日本の格差は必ずなくすことができる」
 ひとびとはこの本の一点の曇りもない明快性に魅せられ、そして総理大臣になった田中角栄の力に自らの人生とあかるい未来を仮託し、かれを“今太閤”ともて囃して受け容れたのである。
 本書を改めて読んでみると、ありふれた政治家の政策論とは一味ちがい、その内容の精緻さにおどろかされる。全国を網羅する新幹線網(高知にも四国新幹線が伸びる計画となっている)、高速自動車道路網、3本の本四架橋などにより日本を「一日交通圏、一日経済圏に再編成する」(同書)というのが眼目で、データと数字にあふれ、きわめて具体的なのだ。
 田中角栄をコンピュータ付きブルドーザーとは誰が云ったか知らないが、いうまでもなくそのCPU役を担ったのは霞ヶ関の官僚たちだった。総理大臣になった角栄はその官僚たちを手足のごとく使い、日本列島改造をパワフルなブルドーザーよろしく一気に実現させてゆく。
 序文に書かれた角栄のことばに嘘はなく、かれの目指すところは大都市の過密と地方の過疎の解消、そして住みよい日本の創出であったのだろう。しかし、角栄の肚(はら)にはあきらかにもうひとつの目論見があった。かれは建設会社をはじめたわかいころから、「土地」は巨大なカネをつくるもっとも効率的な手段になるということを熟知していた。カネは、いうまでもなく、権力である。
 結果、このちいさな島国になにが起こったか。道路、新幹線、駅施設などが予定される周辺の土地を先行取得しようと目論む連中が雲霞(うんか)のごとく群れ出て、角栄の読みどおり激しい地価高騰が全国規模で起きはじめる。たしかに昭和30年代からの高度成長期に地価は騰(あ)がりはじめてはいたが、一億万民を土地投機熱に投じたのは、まちがいなく『日本列島改造論』の発刊とその実行がきっかけだった。
 かくして昭和50年代から未曾有の公共投資ブームが訪れ、日本国中に土建業者があふれ、ちいさな国土にひたすらコンクリートが流しこまれてゆく。一方で、株価上昇と地価高騰が日本経済を実体以上に膨張させ、社会の隅々にまで“カネがすべて”の拝金主義がはびこり、ひとびとの精神が腐食しはじめる。当の田中角栄はほどなくして立花隆レポートで土地転がしによる金脈を暴かれ、ロッキード事件で逮捕されるのだが、皮肉なことに日本列島改造によって地方はますます過疎化して疲弊し、首都圏などの都市部がますます巨大化、過密化していったのは周知のとおりだ。つまり、かれと取り巻きの官僚たちは政策的過ちのみならず、人道的過ちをも犯してしまったということになるだろう。
 それでも、バブル経済崩壊を奇貨としてそれまでとは逆方向に大きく舵を切ればまだよかった。だが日本はどこまでもツイてなかった。バブル経済絶頂期の1989年、つまりバブル経済崩壊の前年にはじまった日米構造協議が火に油を注いだのだ。
 アメリカからの強い要求により、10年間で430兆円という公共投資が日本経済の生産性を高めないような土木事業に向けられ、1994年にはさらに200兆円追加させられて最終的には630兆円の公共投資が実行される。バブル崩壊後の深刻な不況下、景気対策の名目で巨額の公共投資はつづき、その多くは地方に押しつけられたため国・地方自治体ともに莫大な借金を抱え沈んでいったのである。金持ちになりすぎ調子にのりすぎた属国日本へ宗主国アメリカがすえたお灸は、それほど強烈だったのだ。
 ところで、さいきん「増田レポート」(日本創生会議・人口減少問題検討分科会の報告)とその新書版『地方消滅』(中公新書)が世間の耳目をあつめているのをご存知だろうか。
 建設官僚から岩手県知事を3期、総務大臣も務めた地方行政のプロが「896の市町村が消える」というのだから穏やかではない。日本創生会議座長である著者の増田寛也氏は、人口減少を国家的大損失とみなし−わたしなどドイツやフランス並みに人口が減ればずっと住みやすい国になれるとおもうが−東京一極集中を是正するために人口20万人以上の地方中核都市に重点的に投資し、それ以外の弱小自治体は財政的に支えるのは無理なので消滅やむなしとする「選択と集中」で日本を創生せよと説く。
 予想数字やデータを多用してセンセーショナルな論理を組み立てている点、トップダウン方式の東京一極集中是正と地方中核都市構想などはまさに「日本列島改造論」と瓜二つ。増田氏は「日本列島改造論」について「…一時的に東京への人口流入を抑える効果はあったものの、いずれの政策も中央政府の財政支出によってハードの整備を進めるという側面が大きかったため、地方の自律的な雇用拡大と人口維持にはつながらなかった」と簡単にふれているだけだが、わたしには田中角栄の亡霊が40数年のときを経て蘇えろうとしているとしか思えない。人の精神(こころ)や生活の質、歴史や文化や自然といった数字では表せないきわめて重要なファクターに価値を見いださず、国際競争力や“大国幻想”に凝り固まった視野狭窄の霞ヶ関的発想こそ、両者に通底する本質だからだ。
 田中角栄と官僚たちが推し進めた日本列島改造がトリガーとなって日本全体をまるごと拝金社会に貶(おとし)め、われわれ日本人から健康な精神と質実さを奪い去ってしまったことは、いくら悔やんでも悔やみきれるものではない。が、だからといって、過去の為政者や役人らの過ちをいまさら嘆いても、これは詮ないことだ。
 明治維新からちょうど150年、東京の机上で構想される空論に振りまわされるのではなく、地域住民自らがリスクを負って政策や制度を選びとる時代が来たのかもしれない。
   Text by Shuhei Matsuoka
 単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html


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2015年03月15日

3つの遺書

 高知のような辺境の県に住んでいると、大都市生活では見えにくい日本の構造的欠陥を目の当たりにして、うんざりすることがすくなくない。地域社会がシンプルだからこそでもあるのだが、擦(す)れっからしのわたしでも驚嘆のあまり言葉をうしなうほどである。
 たとえば、檮原町出身の友人が言うには、檮原にはいま小中学校が1校あるきりだが、かれが子どものころ、なんと小学校だけで9校もあったらしい。ちょっと信じがたい数字なので檮原町役場に確認してみたところ、41年前の昭和49年3月まではたしかに9校ありました、という。町の人口はこの間、およそ半分に減っている。この国の異常なほど急激な経済成長と工業化が農山漁村の若者を吸いあげ、土石流さながら都会へ押し流していった様子がはっきりと見てとれる。
 かつて土佐のチベットと揶揄された檮原だが、いまや立派な道路が整備されて便利になった、しかしふるさとは休耕田や耕作放棄地が広がる一方で、商店も学校もなくなり、うしなったものはおおきいとかれは嘆息する。司馬遼太郎が絶賛した見事な千枚田や雲の上のホテル、温泉、プール、龍馬脱藩の道なども整備され、環境分野でもけっこう頑張っている優等生の檮原町にしてそうなのだ。
 さて、ここで話はすこし外(そ)れる。
 過日、戦後の世相を調べる必要があり大手新聞社発行の浩瀚(こうかん)なムック本『戦後50年』をなにげなく開いたところ、たまたま出てきたのが1968年(昭和43年)のページだった。47年前といえばわたしは小学6年生、当時の新聞記事やニュース写真を懐かしい思いで眺めていると、隅っこに奇妙なタイトルが目にとまった。
 おわびの入水自殺−。
 この年の1月28日、奈良県大和郡山市の通称「下池」で、44歳の母親と73歳の祖母が腰ひもで体をしばり合って入水自殺したという記事だった。長男の工員(19)がこつこつ貯めた金で買ったばかりの小型乗用車を運転中、過ってバイクと衝突、バイクの2人が即死、後ろからきた被害者の弟が失明する事故を起こし、補償問題がこじれた挙句に工員の母と祖母が自殺したのである。そして、つぎのような遺書がのこされていた。
 「大切な息子さんの命を奪い、ほんとうに申し訳ございませんでした。なにひとつさせていただけず、ただ、口ですみません、すみませんといってばかりですからみなさまのお心もおさまらぬことと思います。鬼や畜生とも思われましたでしょう。でも私にはもうどうにもできません。卑きょうとは思いますが、死んでおわびをいたします。私ぐらいが死んでなにになるかとおしかりのことと思いますが、私のせめてもの気持ちです…」
 このちいさな事件の記憶はないが、わたしはこれを読んで感慨にふけっていた。明治や大正の世ではない、ほんの47年前、息子の罪を詫びるために母と祖母が極寒のなか腰ひもで結び合って入水自殺したのである。
 断言してもいいが、このような人たちはいまの日本には存在しない。この半世紀のあいだに、日本人に何がおこったのだろうか。
 ため息混じりに見開きページ全体を眺めていると、右下に見覚えのあるマラソンランナーの姿を見つけた。東京オリンピックの銅メダリスト、円谷幸吉だった。円谷が自殺したのも、この年の1月9日だったのだ。記事にはあの有名な遺書が掲載されていた。
 「父上様、母上様、3日とろろ美味しうございました。干し柿、もちも美味しうございました。敏雄兄、姉上様、おすし美味しうございました。勝美兄、姉上様、ブドウ酒、リンゴ美味しうございました。巌兄、姉上様、しそめし、南ばんづけ美味しうございました。喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。幸造兄、姉上様、往復車に便乗さして戴き有難うございました。モンゴいか美味しうございました。正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。…(中略)…父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れきってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が休まる事なく、御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。幸吉は父母様の側で暮らしとうございました」
 わたしは息をするのも忘れてこれを読み了(お)え、そして、はっとした。この遺書も、わずか47年前のものなのである。
 わたしは、なにかに背中を押されるように、あわててほかの記事を目で追った。昭和43年は東京・府中での3億円事件、東大安田講堂闘争など大事件が多発した戦後史を代表するような一年であったことに改めて驚いたが、ひとつ気になる事件の記事と写真が目に入った。この年の2月、金嬉老事件が起こっていたのである。
 在日朝鮮人の金嬉老は静岡で暴力団員2人をライフル銃で射殺し、寸又峡の旅館に13人の人質をとって立てこもり警察に自ら通報、そして在日朝鮮人に対する警察の暴言と殺害した暴力団員がいかに悪道非道を働いていたかを公表してほしい、その後はダイナマイトで自殺する、と要求した。けっきょく人質はすべて開放したが、4日後に金は記者に扮した警官に取り押さえられた。犯行は一見凶悪だが、金嬉老に世間の同情も寄せられた心にのこる事件で、子どもだったわたしにも微(かす)かな記憶はある。
 公判の最終陳述で、金はこう述べたという。
 「日本の戦争に協力し、それにかり出され、それに協力してその傷跡を背負って、いまなお日本の社会のなかで安定した職業もなく生活の保証もなく、日本のなかでギリギリに生きている、そういう同胞たちのことを深く深く考えてやっていただきたい」
 ムック本には金嬉老が立てこもった部屋の壁の写真も掲載されていた。ライフル銃が立てかけられたその壁に、金は大きな字で遺書を書いていたのだ。
 「罪もない此の家に 大変な迷惑を掛けた事を心から申訳なく思います 此の責任は自分の死によって詫びます お母さん 不幸を許してください」
 わたしは偶然にも47年前に書かれた3つの遺書にふれ、このころの世相に懐かしさを感じつつも、つよい喪失感をおぼえたのだった。そして、この年がちょうど明治百年にあたることにも気がついた。日本が西欧列強からの圧力を受け、維新革命がおこり、封建国家から近代国家へ一歩を踏み出したのが1868年。ちょうど百年を経たこのころの日本には、卑しさのない、真っ当な精神(こころ)をもった日本人(金も当然そのひとりだ)がまだおおぜい存在していたのである。
 ほんの数十年前、日本中の農山漁村には相当おおくの人びとが住み、小中学校もたくさんあった。どの村やまちにもなにがしかの商店街があり、八百屋や魚屋や雑貨屋があって人びとの暮らしを支え、地域コミュニティがしっかりと形成されていた。だからこそ、人様に迷惑をかけない、いわゆる恥の文化が存在していたし、貧しくはあったが人のこころに健康な精神が宿っていたのである。しかしこれらは、いつの間にか雲散霧消してしまった。
 どうやら、ここ数十年のあいだに日本全土を蹂躙した経済至上主義−俗な言葉でいえば拝金主義−というブルドーザーが、たいせつなものどもを根こそぎ持ち去ってしまったような気がする。われわれはまったく無自覚のうちにどこか驕慢になり、節度をうしない、もともと具(そな)わっていた質実さを著しく毀損してしまったようだ。むろん、グローバル経済という怪物が地球上をわがもの顔に跋扈(ばっこ)するいま、これは多かれ少なかれどの国にも見られる現象でもあろう。が、日本ほど矯激で、常軌を逸した例は稀有のはずだ。
 この国の津々浦々で、檮原のようなうつくしいまちや村が知らぬ間に痩せ細り、その多くが消えつつある。そのことと、この半世紀のあいだにおこったただならぬ日本人の変容は完全に軌を一にしているように思える。
 47年前の3つの遺書が、ことの重大さをしずかに語りかけている。
      Text by Shuhei Matsuoka
      単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html

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2014年09月14日

或る革命家の笑顔

 日本における最初の写真(銀板写真)は嘉永元年(1848)にオランダから長崎に渡来し、当地の御用商人・上野俊之丞が日本人としてはじめて写真術を導入した。息子の上野彦馬は日本初の写真店「上野撮影局」を長崎で開業したパイオニアとして知られ、このスタジオでブーツを履いた立ち姿の坂本龍馬(龍馬像のモデル)や散切り頭の高杉晋作、木戸孝允など多くの志士たちが撮影された。
 はげしく時代が動く慶応年間には長崎、大坂、京都、江戸、横浜、箱館といった大都市に写真屋が次々と開業し、明日の命の保証もない侍らが己の姿をこの世に遺そうとこぞって写場へ足を運ぶようになる。幕末は、まさに一大写真ブームの時代でもあった。
 その幕末写真のなかに、一度見たら忘れられない印象的な一枚がある。土佐脱藩浪士、中岡慎太郎の笑顔の写真である。
 さながら休憩中の時代劇俳優かと見紛う現代風なワンショットだが、撮影は京都の祇園に店を構えていた大坂屋与兵衛こと堀与兵衛の写場、撮影日は慶応2年11月24日であることもわかっている。龍馬とともに暗殺される1年ほど前のことだ。帯刀せず脇差だけの正座した秀麗の志士が、片手を顎から頬に当て、白い歯を見せてにっこり微笑んでいる。中岡の右手に坐る人物は何かで削られて判別できないが、これは写場専属モデル(お茶屋の芸妓や女中のアルバイト)で、慎太郎の恋人"おらん"ではない。慎太郎の膝には女性モデルの袖の一部が掛かっているので妙な艶っぽさも漂う。
 じつはこの写真の原版が、奇遇にもNHK『龍馬伝』が放映されていた2010年7月に富山市で見つかった。これを保管していた人物は龍馬の付き人だった峰吉の子孫で、峰吉の死後、妻キンは富山に移り住み、彼女の遺品として代々受け継がれてきたという。最初から右側の女性は削られていたらしいが、当時の湿板写真は薬品を塗ったガラス板(原版)の上に画像を焼き付けているので、その気になれば脇差などで簡単に削れる。
 峰吉は慎太郎と龍馬が暗殺された日にも一緒に近江屋に居たが、龍馬が「軍鶏(しゃも)を食いたい」と言いだし、峰吉が買いに出かけている間に事件は起こった。慎太郎は斬られる前にこの写真原版を峰吉に預けていたことになる。
 龍馬は恋人のお龍とふたりで平然と京の街なかを歩いたほどの“現代人”だが、一方で「われわれ脱藩の者は女性と一緒に写真を撮ってはならぬ」ということもいい、そのような写真が後世に残ることを嫌った。龍馬が磊落(らいらく)の反面に細心さを併せもっていたことがよくわかるが、慎太郎が写真の女性を削ったのは龍馬の忠告を受けたからではないかと、幕末史に詳しい作家宮地佐一郎は中岡慎太郎生誕150年記念講演で述べている。
 いずれにしろ、当時の写真技術では露出時間が数十秒から短くて十数秒といわれ、その間は微動だにできない。したがってどの写真も人物は不自然に緊張した仏頂面に写っており、笑顔の写真がないのはそのためである。なぜ中岡だけが仏頂面ではなく、こぼれるような自然な笑顔で写っているのか、そもそもなぜそれが可能だったのかは分からないが、これこそが日本初の笑顔写真だといわれるゆえんである。そして後世のわれわれが中岡慎太郎という非業に斃れた俊英の素顔を垣間見ることのできる、まことに貴重な一枚でもある。
 
 さて、その中岡慎太郎という人物である。
 中岡の最大の功績は、なんといっても薩長双方から信望をあつめ、ついに両藩の連合を実現させ、一気に討幕への道筋をつけたことである。こう言うと、いやそれは坂本龍馬ではないかという声が聴こえそうだが、じつはそうではない。
 脱藩して長州で活動していた中岡が長州軍の隊長として戦った禁門の変(長州軍は会薩連合軍に破れ京都から敗走)の数ヵ月後の元治元年(1864)11月、薩長両藩が和解し手を結ばねば維新革命はできないという着想をすでに語っている文章が残っている。京での戦(いくさ)のあと石川清之助(当時の変名)こと中岡慎太郎は命からがら長州へ逃げ帰り、そこから仇敵同士である薩長の連合、そして長州派の三条実美と薩摩派の岩倉具視という両実力公家の提携に奔走するのである。そしてその仕上げの時期に薩摩に顔のきく先輩格の龍馬を押したて、肝心の薩長連合締結の場には中岡(このとき九州太宰府に居た)ではなく龍馬が立ち会って朱の裏書をすることになる。そのため後世、龍馬ひとりが薩長連合の立役者のようになり、小説や演劇の主人公としてもて囃され大英雄になってしまった。
 しかし、中岡同様に土佐藩を脱藩した長州派で、慎太郎と龍馬の双方を知悉する田中光顕(中岡亡きあとの陸援隊長)の伝記『伯爵田中青山』には、はっきりとこうある。
 「思ふに坂本と中岡とは車の両輪の如く、長短相補ふて終(つい)に能(よ)く薩長連合の大仕事を仕遂(と)げたが、若(も)し活動の実質より言へば中岡の功遥(はる)かに坂本の上にある事は史家の認むる處(ところ)であるけれども中岡は君子だけに其(そ)の表面の役者としては坂本を推(おし)立てたものである」
 名利をもとめぬ慎太郎が龍馬に功を譲ったために、のちの世に龍馬の影に隠れるようになってしまったのは歴史の皮肉である。
 そしてもうひとつ見逃せない点がある。武力討幕でしか維新回天はありえないことを確信していた中岡は、佐幕派の勢力が依然強く日和見姿勢を崩さない土佐藩を説くため、慶応元年暮れに「時勢論」という有名な論文を書いている。
 この中で中岡は世の傑物として薩藩の西郷隆盛、長藩の桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞を挙げ、薩英戦争と馬関戦争というふたつの攘夷戦争によって両藩は大勢を一新して強力な国づくりを成しており、天下を獲るのは必ず薩長であると述べている。
 「吾思ふに天下近日の内に二藩の命に従ふこと鏡に掛けて見るが如し。…今日の敵国外患、他日より見候へば天下の名灸(めいきゅう)と相成り候へば、実に天下の大功之に過ぎ申さずと存奉り候」(平尾道雄著『中岡慎太郎』白竜社版より)
 近いうちに薩長二藩の天下が来る、その姿が鏡に見えるようだといい、武力による西洋列強からの圧力も後の世から見れば最良のお灸だったとわかるだろう、というのだがらすごい。高杉や久坂との交流から時代の趨勢をこの時期すでに読みきり、後世の眼で見通している若干27歳、おそろしいほどの炯(けい)眼(がん)である。
 そしてこの中岡の卓説はついに板垣退助を動かし、土佐藩の舵を一気に討幕へと切らせる。板垣隊は鳥羽伏見の戦いの2日目になんとか間に合い、土佐はのちに薩長に次ぐ地位を築くことができたのである。慎太郎の才と功をよく識(し)る板垣が「もし慎太郎が生きておれば大久保利通や木戸孝允と肩を並べる明治新政府の指導者になっていたであろう」と最大級の評価を惜しまなかったのも頷けよう。
 一方、龍馬は後藤象二郎と結んで大政奉還を実現させたが、武力討幕には難色を示していた。その龍馬の甘さに、先の見える中岡は切歯扼腕していた。暗殺当夜もそのことで激論となり、迂闊にもしのび寄る刺客に気づかず、剣の達人ふたりがあっさり斬殺されたとみる歴史家もある。中岡絶命の報を受けた岩倉具視は、「自分は片腕をもがれた」と声をあげて哭(な)いたといわれる。
 
 さて、中岡慎太郎を語るうえで忘れてならぬのが、安芸郡北川郷という山間部の農民出身である点だ。中岡家は名望家の大庄屋として苗字帯刀をゆるされていた農民郷士で、慎太郎は北川郷柏木の生家から田野の郡校まで7、8キロの山道を毎日歩いて通い、このころ田野に剣術指南で出張していた武市瑞山に遇(あ)って感化された。そしてのちに武市を慕って高知城下へ出、文武両道の鮮やかな秀才に育ってゆく。高知城下の裕福な商人郷士の出で、学問はないが近代的合理性の萌芽が生まれながらに具(そな)わっていた龍馬とは対照的である。
 慎太郎は庄屋の跡取りでありながら故郷(くに)を棄て国事に奔走した。が、いつも北川郷の農作物の出来を気にかけ、そのような内容の手紙を家族にあて書いていた。柚(ゆず)を植えることを農民らに奨励し、北川郷を日本屈指の柚産地にしたのもかれの功績だと伝えられる。
 眼光するどく人を説いて時代を動かしていった剛毅の反面に、あのさわやかな笑顔に見られる質実さとやさしさを宿した稀有の革命家であった。
    Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html

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2014年07月14日

”土佐の山翁”に訊け

 かつて本コラムに「木を植えるということ」という小論(拙著『風聞異説』にも収録)を書いたことがある。2007年のことである。
 木を植えるということの本質と価値を自分なりに考え、読者の皆さんに提示してみようとおもったのが動機であった。そしてこんな一文で結んだものだ。

 伊庭貞剛の森は愛媛だが、隣接する高知県は森林率が84%で全国一の森林県だというのが自慢である。それはそれで結構なことだが、峻険な四国山脈に分け入り人知れず黙々と木を植え育てていった土佐の先人たちの営為をこそ、誇るべきではないか。
 「志を継ぐ」こと、これこそが木を植えるという行為の本質なのかもしれない。

 わたしがこの小論を脱稿したのは2007年5月。まことに迂闊なことに、”土佐の山翁”福田健次郎氏(1920〜2007)の存在をしらずに書いたのだが、この福田翁こそ、われわれ土佐人が誇るべき”土佐の先人たち”を代表する人物だったことをのちに識ることになる。そして奇遇なことに、わたしが上の一文を書く直前に、翁は88歳で逝去されていたのである。
 福田健次郎―。
 建機レンタルなどを主業務とする四国建設センター(高知市葛島)という会社の創業者で、浦戸湾を守る会、物部川ダム反対運動、緑の党の運動と、高知パルプ生コン事件で知られる山崎圭次氏らと行動をともにし、環境問題にふかくコミットしてきた人物である。そして、知る人ぞ知る土佐の山林王でもあった。
 さいきん、ある本の存在を識り、私家版であるため発行者(健次郎氏のご子息)が経営する会社の方におねがいして一冊落手した。
 『希いは一つ』というタイトルで、「福田健次郎 遺稿集」と副題がついている。昭和40年代から亡くなる直前まで、やむにやまれぬ思いで書きつづけた評論や論文、雑誌への寄稿文などをあつめ、没後に遺族が編集・出版したものである。
 このなかに、木を植えることについての文章がいくつかある。
 福田氏は昭和21年、27歳のとき赤岡町に製氷会社を創業したが、昭和30年頃に建機レンタル会社を新たに興すことを決意し、その創業資金の一部にするため父親から贈与されたばかりの35年生の桧山を収入伐採、その後も80町歩の原生林を資金繰りのために売却した。そのことがずっと気になっていたのだろう、父にたいする罪滅ぼしの気持ちもあって昭和35年ごろから副業として山林を買い足しはじめ、植林をはじめたのである。
 早稲田の理工学部出で林業知識はゼロだったが、試行錯誤を経ながら、見事な山林をつぎつぎと育成していった。昭和40年代には猫も杓子も土地投機に奔(はし)りはじめたが、「土地をただ置いておけば儲かるようなことはしたくない」と浮利を卑しみ、山林投資のみの一点張り。本人にとってそれは、“比較的健全な道楽”でもあったのだ。
 リターンを得るまでに長い時間を要する山林経営がはたして会社経営にメリットとなるのかとも思うが、福田翁独特の理にかなった考えは耳を傾けるに値する。すこし長いが引用しよう。

 化石エネルギーの枯渇と共に現代工業中心社会は終わり、太陽エネルギーに依存する一次産業中心社会へ の回帰は不可避であるとの信念に基づきます。例えば、鉱工業生産高は間違いで、鉱工業加工高と言うべきです。真に生産と言えるのは、太陽光線と葉緑素による光合成、つまり農林漁業だけです。少なくとも2、30年後には一次産業への回帰が始まると確信しています。
 又の理由は、今日は税金抜きに事業経営は語れません。一般に会社の利益は約60%が税金で持って行かれます。ところが社有林の場合、一定の条件付きで植付、撫育、作業道等の出費は単年度或いは数年度で損金処理が認められます。その代わり木材伐出利益には60%の法人課税です。つまり本業の利益のある時に山林投資をし、赤字の時には木材伐出で、会社の安泰を図ろうというわけです。
 又、心情的に林業に魅入られました。どんな建築や構造物も年毎に老朽化しますが、樹木は半永久的に成長を続け、遂には荘厳ともいえる林相に達するからです。明らかに人生は有限と解っているにかかわらず、林内に佇むと木と共に永遠に生きられるような誠に有り難い錯覚を与えてくれます。

 これは平成7年、福田翁76歳のころの雑誌寄稿文からの抜粋である。
 一個の人間のなかにゆたかな知性と感受性が高度に融和した、地方教養人のあるべき姿の一典型がここに見られるではないか。
 福田氏の文章は、明晰な理系人間の例にもれずどれもきわめて論理的で科学的、ふかい思索のあとがうかがえる点で特徴的だ。そしてかなり先駆的でもある。たとえば“「週休三日制」の提案”などはその好例だ。これは『人と自然』という雑誌への寄稿論文だが、掲載されたのは昭和54年(1979)、まだ世の中が週休2日にもなっていない35年も前であることに一驚させられる。そして提案者が会社社長というのだから、どこか飄逸でもある。
 「自然環境を破壊する自由経済の暴走を制御するために」と副題がそえられているので内容は察してもらえると思うが、ひとことでいえば、野放図な自然環境破壊と資源濫費に警鐘を鳴らし、それを食い止めるためには経済の縮小しかありえず、まずは週休3日にして働く時間を減らして生産量を減らすしかないというのが骨子だ。おもしろいのは、農業団体は過酷な「減反」を強いられているのだから、政財界に「工業の減反」を迫るよう求めるのが当然ではないかとしている条(くだり)で、わたしなど思わず膝を拍ったものだ。
 週休3日というと、日本政府だって国民の休日を増やすことに躍起だという人もいるかもしれない。その通りだが、目的が福田氏とは真逆である点に注意しよう。政府の方は、金を使うことを国民に奨励して消費を増大させ、景気浮揚と経済拡大を促したいという相変わらずの近視眼的バブル志向が背景になっているが、福田翁の唱える週休3日制は過剰生産、過剰消費に歯止めをかけ、ワークシェアを促し、経済を段階的に縮小させるという長期的視座を持っている点で対照的だ。はたしてどちらが健康的で先進的な経済の捉え方か、小さな地球というゼロサムのなかでやりくりするしかない現実を正視するか否かの差がそこにあらわれる。
 さてその福田翁、じつは稀代の節約家であったことでも知られている。
 断るまでもないが、節約家というのは、吝嗇(りんしょく)家ではない。節約・倹約は、その人のライフスタイルであり、大人の信念である。そして資源を濫費しない清々しい生き方である。が、吝(けち)は、ミーイズムから一歩も出ない幼児性の発露である。だから真逆の概念、とすらいえるかもしれない。福田翁も「節約とケチとは全く違います。自分に厳しく人にやさしく、その逆がケチです」と喝破しておられる。四国建設センター社長時代、燃費の良い軽自動車にしか乗らず、人は乗せないからと運転席以外の座席をすべて取り払っていたという話を仄聞(きい)たことがあるが、並の節約家とはケタがちがう。
 節約とは、言い換えれば、貪(むさぼ)らぬ生き方であろう。現代のようなゼロサム社会では、ひとりが貪れば、かならずだれかがその割を食う。貪ることは、卑しいことなのである。国家も企業も人も、それはおなじ。福田翁は、きっとそう云いたかったにちがいない。そして翁は、愛する山に入って黙々と木を植えつづけたのである。
 『希いは一つ』の表紙を開くと最初のページに福田翁のおだやかで聡明そうな顔写真と、そこにうつくしい詩がそえられている。最後にご一読を希いたい。

 今日も山行き
 希いは一つ
 無節三丈の万本桧

 せいたちいかんぜよ
 百年後には
 土佐の名物万本桧

 せめて遺したや
 万本桧
 魚梁瀬千本杉の
 後継ぎに
              Text by Shuhei Matsuoka
        単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
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2014年03月11日

吉田茂の「勘」

 昭和のワンマン宰相、とは手垢まみれの野暮な表現でいやだが、吉田茂(1878-1967)という政治家を語るうえの枕としては便利な言葉ではある。
 土佐・宿毛出の自由党土佐派のリーダー竹内綱は、東京の芸者(氏素性は不明)に産ませた五男を友人の実業家・吉田健三に養嗣子としてやった。これがのちの吉田茂だが、東京うまれの神奈川育ちであるかれは生涯にわたり、土佐という土地にほとんど興味をもたなかった。衆議院選挙に立候補するにあたり、神奈川か高知のいずれを選挙区にするが得策か考えていたとき、親戚筋にあたる林譲治から「神奈川だったら冠婚葬祭全部いかなくてはならないけれど、高知なら遠いからそんなことをしないですむ」と言われ、父綱と兄竹内明太郎の地盤だった高知全県区から立候補したに過ぎない。
 もともと外交官で政治家になる気なぞなかった茂にとって選挙は嫌でしかたがない。演説も苦手、自己宣伝は大嫌いという男なのだ。三女和子(現副総理兼財務大臣・麻生太郎の母親)の手記『父 吉田茂』(光文社)には、「東京は神田の生まれでほんとうの江戸っ子だと威張っていたのが突然高知から立つことになり『滑稽だよね、にわか高知県人になっちゃうんだから』と自分で笑っていた」とある。選挙のため不承不承で高知に来たときも、壇上でただ「吉田茂です」とだけしか言わないような珍種の政治家でもあった。高知に立派な銅像まで建っていることを、天国の本人ははたしてどう思っていることか。
 ところで吉田茂の一般的なイメージは、外交官出身、元老牧野伸顕(大久保利通の次男)の女婿、敗戦直後の占領下日本の総理大臣、サンフランシスコ講和条約締結、バカヤロー解散、ワンマン、葉巻と白足袋、傲岸不遜…。和製チャーチルとも称されたが、講和条約締結以降は大衆からもマスコミからも受けがよくなく、7年間にわたった首相在任最後の支持率は20%程度に下がり、あっさり引退して大磯に隠棲した。
 しかし吉田は引退してのちに評価が上がりはじめ、そして不思議なことに、亡くなってからさらに大衆人気が高まった。有史以来はじめて他国に占領された敗戦国日本の舵取りを担うという仕事の過酷さと困難さがひとびとに理解されはじめ、同時に、大衆に媚びず、絶対権力者として君臨したマッカーサーと堂々と対峙し、強靭な精神力で祖国を復興させた功績、先見性、そして深い教養にひとびとが気づいたからだ。
 たとえば吉田が引退後に著した回顧録『回想十年』(全4巻、新潮社)や最晩年の著書『激動の百年史』(白川書院)などを読めば、かれの教養が並みの政治家では及びもつかぬレベルにあることがわかる。とりわけわたしは『激動の百年史』を評価したいが、この名著の序文にちょっとおもしろい一文が記されている。
 「…また、日本は太平洋戦争という大失敗も犯したが、全体としては激しい国際政治の荒波のなかを巧みに舵をとってきた。しかし、それは日本人のすぐれた『勘』のたまものなのである。とくに明治の指導者たちはすぐれた『勘』をもっていた。だから私は事あるごとに『勘』の必要性を説いてきたのである」
 わたしはかつてこの一文を読み、不思議な感覚にとらわれた。「勘」という意外な言葉−。「勘に頼る」「ヤマ勘」という言い方があるように、ふつうは根拠のない当てずっぽうという意味に使われるからだが、どうやらかれのいう「勘」はすこし趣が異なる。経験、知識、歴史観などに裏打ちされたするどい感性、英語のsenseという意味のようである。つまり、すぐれた「勘」とは、good senseということになる。
 あらためて吉田茂関連の本を調べると、かれがいかに「勘」を大事にしたかが窺える。吉田の随筆集『大磯随想』には「外交と勘」という一章をもうけているし、前出の『父 吉田茂』には「『マッカーサーというのはたいへんにカンのいい男だ。頭もいいし、カンもいい』というのは、いつも父がいっていたことです。昔から、「カンのわるいやつだ」というのは、父の最大級のけなし言葉でした」とある。白洲次郎を通して知り合い、吉田に可愛がられた作家・今日出海の『吉田茂』(講談社)には「強い個性と勘で押しまくって来た吉田を…」「私は吉田を勘の鋭い人だと屡々言った」「元帥は吉田の明治人的骨っぽさと直情と勘を信頼したのであろう」等々、きりがないほど出てくる。そういえば同書に、大磯で吉田と会った小林秀雄が “吉田は天才”と言った話が出てくるが、小林の卓越した批評眼が吉田の類まれな「勘」をしてそう評せしめたとすれば、なかなかおもしろい挿話である。
 さてここで、吉田のするどい「勘」が奏功した水際立った一例を引いてみよう。
 終戦後の東西冷戦激化のなか、日本の処遇をめぐって、ソ連など共産圏を含めた全面講和か連合国との単独講和かで国内外の世論が二分して前に進まぬ状況が続いていた。これを打開するため、昭和25年4月、吉田は子飼いの池田勇人蔵相を訪米させ、密かに単独講和への道を探った。GHQには「経済・財政事情の見学」と嘘の報告をしてワシントンとの直接交渉に打って出たのだ。苦痛と忍従を余儀なくされたオキュパイド・ジャパンから一日も早く脱し、独立国とならねば日本の生きていく道はない。これは吉田の信念だった。そして、天も吉田に味方した。池田訪米の2ヶ月半後、金日成率いる北朝鮮軍が韓国に突如として侵攻、朝鮮戦争が勃発したのだ。これにより反共の砦として日本をはやく独立させるべきとの機運がアメリカ(及び連合国)側にもうまれ、昭和26年9月7日、ついに敗戦国日本に比較的寛大なサンフランシスコ講和条約の締結にこぎつける。
 その後、この華やかな政治的成果をピークとして次第に大衆もマスコミも長期政権に飽きはじめ、造船疑獄などの汚職事件も起こり、さまざまな非難を一身に受けて吉田は退陣するが、日本人が飢えと貧困から脱して誇りを取り戻し、世界中が瞠目した奇跡的な経済復興を遂げることができたことをおもえば、吉田ドクトリンがまちがっていなかったことは明白だろう。国を想う明治人の気概と、大衆から理解されずとも頑固一徹に邁進する勇気なくして、廃墟と化した祖国を復興に導くことは不可能だった。そして、史上前例のない国難のなかで吉田が頼りにしたのは、外交官として培った国際感覚と歴史観、そして自らの「勘」だったのである。
 吉田茂は、実父竹内綱の出身地・土佐には、残念ながら縁遠かった。しかし、そんなことは当たり前のことだし、どうでもよいことである。吉田の筋をまげぬ一徹さや世評に左右されぬ凛然たる姿に、本人が意識せずとも、実父から受け継いだイゴッソーの血をわれわれはみることができるからだ。
 そして養父母の存在も忘れてはならない。養父吉田健三は越前福井藩士の出で、幕末にイギリスの軍艦で同国に密航して2年間にわたり彼の地で西洋の知識を得、維新後はジャーディン・マセソン商会の横浜支店長として辣腕をふるい、のちに独立して数々の事業を成功させ財をなした俊才である。40歳で早世したが、いまの金額で数十億円に相当するともいわれる遺産を受け継いだのが、わずか10歳の茂だった。いったい何に使ったのか壮年期までに遺産のほとんどを蕩尽したらしいが、さいわい茂が養父から受け継いだものはカネだけではなかった。また、養母の士(こと)子は『言志四録』で知られる幕末の儒学者佐藤一斎の孫娘で、この聡明な養母からもおおくのことを学んだ。
 吉田茂は、いまとまれば、不世出の政治家であったことがわかる。戦後の政治家で、かれに並ぶ者は皆無である。昭和53年に日本橋三越本店で「生誕百年記念 吉田茂展」が開催され全国から大勢の客を集めたが、そのような政治家が昭和の時代に存在したことすら不思議な気がするほどだ。
 では、吉田茂は凡百の政治家とどこがちがうのか?
 そりゃ君、「勘」だよ。天国で吉田はニヤリとして、そううそぶくにちがいない。ただ惜しむらくは、吉田の美質を見事なほど受け継がなかった孫麻生太郎の「勘」がわるいこと。これはまあ、お祖父ちゃんのせいでもあるまいが。
        Text by Shuhei Matsuoka
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2013年12月03日

地名改竄の愚

 今年(2013年)8月、日本を代表する民俗学者の谷川健一氏が92歳で亡くなった。
 文献や史料の丹念な渉猟だけでなく、離島をふくめ全国をくまなく歩き、そこから紡ぎ出された大胆かつ緻密な推理と研究は圧倒的で、共著をふくめ研究書・著作は膨大であり、毎日出版文化賞、南方熊楠賞、芸術選奨文部大臣賞、そして2007年には文化功労者に選出された。独自の視点で日本の歴史・文化を読み解く手法は「谷川民俗学」とも呼ばれ、在野にあってあれだけの仕事を遺した功績は宮本常一にも比肩される。また、日本民俗学の創始者柳田国男を師としながらもその批判眼はするどく、柳田の学問上の未達域や弱点をみごとに補い、発展させていったことでも知られる碩学であった。
 その谷川氏が死ぬまで憂えつづけたのが、戦後日本の野放図な地名改竄だった。
 自治省がすすめる市町村合併により全国津々浦々で繰り広げられる地名改竄によって、地域の宝ともいえる過去の記憶がプッツリと途絶え、この国の歴史や文化のながれを読み解く手がかりをうしなってしまうことを恐れたのだ。昔からの地名を守るために、氏は自ら神奈川県川崎市に「日本地名研究所」を設立したほどだった。 
 地名から日本の歴史を読み解いた名著『日本の地名』(岩波新書)の結語で谷川氏は、「地名の改竄は歴史の改竄につながる。それは地名を通じて長年培われた日本人の共同感情抹殺であり、日本の伝統に対する挑戦である」と怒りをあらわにしている。
 地名の改竄は、今後の歴史学や民俗学などの学問上のみならず、ひろく日本人のアイデンティティーにおおきな悪影響をあたえることはまちがいあるまい。いわば、日本人自身による日本文化の抹殺行為にほかならぬことを、はたして日本人自身が気づいているのだろうか。
 たとえば、身近な例でいえば、2004年に四国中央市という途方もなく愚劣な名称の市が愛媛県にうまれたことは記憶にあたらしい。この土地のひとびとには申し訳ないが、民度のひくさを図らずも露呈してしまったとしか云いようがない。市が四国のほぼ中央部にあり高速道路の結束点ともなっていることから、将来の道州制を睨み四国の交通拠点にとのおもいを込めたというが、なんという短絡と幼稚さだろうか。
 市町村合併であたらしい市ができることは時代のながれとして仕方がないにしても、もともとこの地には宇摩(うま)という古代より続く由緒ある名称があったのだから、なにも新たに名前を考える必要なぞなく、宇摩市とすればよかったのだ。それを、なにを血迷ったのか宇摩四市町村(川ノ江市、伊予三島市、土居町、新宮村)でつくる宇摩合併協議会は、「馬」を連想させて格好が悪いという理由で切り捨てたという(じっさいに「宇摩」は「馬」から転訛した言葉かもしれない)。そして公募した名称の第4位だった「四国中央市」を強引に採用したのだから、まるで小学生並みの発想である。さいたま市、南アルプス市にならぶ三大珍市名といわれるらしいが、珍などといって嗤(わら)っている場合ではないのだ。
 さて、愛媛県の四国中央市を対岸の火事のごとく傍観、揶揄している場合ではないのが、わが高知県である。その惨状をみれば、とても胸を張れたものではない。
 いわゆる「平成の大合併」で2005年に中村市と幡多郡西土佐村が合併して四万十市となった。四万十川が全国に知られているからそれにあやかってのことだが、中村という旧藩の名でもある由緒ある市名を勝手に改竄してしまったのだ。さらには2006年には幡多郡大正町、十和村と高岡郡窪川町というふるい歴史と由緒ある名を持つ町村が合併して、これまた四万十川にあやかって四万十町にしてしまった。旧中村市にはもともと四万十町があるので、県西部はいたるところ四万十だらけなのだ。もはや怒りをとおり越して、わが県民の民度のひくさにあきれてものが云えぬほどだが、問題はこういった改竄がたんなる愚行では済まされないことだ。
 そう思ってみてみると、昭和30年ごろからの地名改竄はじつにはなはだしい。たとえば高知市中心地でも、藩政時代からつたわる町名がいつの間にか次々と消え去っていることに気づく。町名の由来を知れば、まともな神経の人なら先人の思いや文化の香りを残す名称を簡単に改竄しようなぞとは思わないはずだが。
 帯屋町は帯屋勘助という大商人がいたことからその名がついた。与力町は与力(庶務補佐役)の住まいが多かった地域、鷹匠町はもちろん鷹匠が住んだ一角だった。唐人町は長宗我部元親が秀吉の命で朝鮮の役に参戦したとき、連れ帰った捕虜の武将朴好仁と部下を住まわせたことからきている(かれらは豆腐をつくって販売していたらしい)。築城奉行百々越前の住まいがあった越前町、幡多の藩主だった山内大膳(だいぜん)亮(のすけ)が住んだ大膳町(戦前まで大膳様町と呼ばれたらしい)など、高知城にちかいいわゆる高知郭中(かちゅう)(山内家家臣団の住宅地)の一帯は割合にふるい町名が残っている。
 しかし高知市中心地でも、すっかり名前が変えられた地域がある。北から廿代町、西蓮池町、細工町、西紺屋町、京町、堺町、八百屋町、掛川町などが並ぶ一帯は商人や職人の町だったが、細工町、西紺屋町、八百屋町、掛川町がいつのまにか消滅している。ちなみに、京都の商人が住んだ京町、泉州堺の商人が住んだ堺町、山内一豊と共に遠州掛川からやってきた大工職人らが住んだのが掛川町、鏡川から水を引いて帯や着物を染める職人が多かったのが紺屋町だ。そして今やこの一帯から東側はすべてはりまや町と南はりまや町になってしまい、材木町や紺屋町などは消えてしまった。ちなみに、材木町は二代藩主忠義から材木の専売権を与えられた材木商自らが堀川を通してこのあたりに店と住まいを構えたという。全国的に有名な播磨屋橋にあやかり、旧名を捨て地域一帯をはりまや町と南はりまや町にしてしまった惨状は、県西部が四万十の名で溢れかえる姿に酷似する。
 そういえば、地名改竄を心底憂えた民俗学者谷川健一氏は『日本の地名』で高知県のことにもすこしふれている。
 「地名は私ども日本人の感覚や感情をゆさぶる力をもっている。
その一方で地名を改悪して恬然としている同胞のあることも指摘しない訳にはいかない。さきの沖縄市の例(コザという地名を消滅させ沖縄市にしたこと)がそうであるが、その無神経ぶりは本土の行政地名にもあらわれている。高知県に南国市があるのは苦笑を誘う」
 ペギー葉山の「南国土佐を後にして」が大ヒットしたのは1959年(昭和34年)である。まさにこの年、長岡郡と香美郡の5町村が合併して南国市がうまれた。われわれは半世紀以上にわたり当たり前のようにこの市名を使っているわけだが、あらためて谷川氏に指摘されると、県民のひとりとしてわたしは赤面を禁じえない。
 市町村合併で行政効率を上げるという趣旨はわからぬでもない。しかし、だからといって、わたしたちは無神経であってはならないだろう。勝手気ままに地名を改悪する権利は、わたしたちにはない。わたしたち現代人は、滔々(とうとう)とながれる歴史のほんの一瞬、この世に生をうけたリレー走者であり、先人から受け継いだバトンを後進にわたす責務が与えられていることを忘れてはならない。過去の歴史や文化をわれわれの世代で断絶させる権利は、断じてないのだ。
 ところで、谷川健一氏は熊本県水俣市のうまれ、弟は吉本隆明らと共に60年安保を思想的に牽引した伝説的詩人の谷川雁(1995年没)である。ともに東大出の俊才だが、弟はするどく現代性にこだわり、兄は古代に仕事領域をもとめた点で対照的であった。しかし谷川雁のはげしく先鋭的な言葉の裏側に土着性と民族性が濃厚に胚胎していたこと、そして兄健一が古代から現代の天皇制を照射する鮮やかな光源をもっていたことは偶然ではないだろう。そして言うまでもなく、かれら兄弟がうまれ育った「水俣」という土地を抜きに、かれらを語ることはできない。
 地名はたんなる名称ではなく、歴史と文化の記憶であり、神々の足跡でもある。地名を聴くだけで、わたしは全身にかるい電流が奔(はし)り心が揺さぶられる感覚が生じることすらある。たとえばこの「水俣」がそれだ。苦海浄土の神がその足跡をのこしてしまった、この忘れがたき地名を…。

 
     Text by Shuhei Matsuoka
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2013年10月09日

中内功と金子直吉

 土佐国矢井賀村(現中土佐町)の郷士の倅で、明治の世になってのち、青雲の志を立て商都大阪に渡ったひとりの男がいた。
 名を中内栄といった。
 栄は大阪医学校を出て家庭をもち、その後、一家をあげて新興都市の神戸に出、眼科医として働くようになる。当時はトラホームが流行していて、眼科医はひっぱりだこだった。
 栄の息子秀雄も父親の影響からか医療の世界に興味をもち、大阪薬学専門学校を卒業して薬剤師となる。そして大正5年、神戸を拠点に三井・三菱と肩を並べるほどの大企業グループに躍進していた鈴木商店に就職し、グループ会社の石鹸工場に勤務するようになった。薬学の知識が活かせる仕事だったからだが、鈴木商店の経営トップ・金子直吉が土佐の出で、社員に土佐人が多かったことも理由のひとつだったろう。だがその後、石鹸工場が業績不振となり退社、秀雄は大阪にもどり西成区で小さな薬局を開く。
 この頃、大正11年8月2日、両親の猛反対を押し切って結婚した秀雄に、待望の長男が生まれた。異郷の地で辛苦のすえ一家を興した祖父の栄が、「功(いさお)」と名付けた。「力」という字の上に突き出た部分を下に押し込め「刀」として、力が抜けないようにしたという。のちに日本最大の巨大流通企業グループとなるダイエーの創業者、中内功の誕生である。
 大正15年、功が4歳のとき一家はふたたび神戸に出、父秀雄は「サカエ薬局」を開いた。屋号は祖父の名からとった。功のあとに男の子3人が次々と生まれて家族も6人に増え、1階に店舗と台所、2階に3畳と5畳の和室だけという三角地に建つ小さな家で、貧しさに耐えながら一家は肩を寄せ合うようにして暮らしはじめた。
 功は幼少期、青少年期を神戸のこの家で過ごし、昭和18年に20歳で徴兵される。満州からフィリピンへ転戦、凄絶な飢餓戦線を生き抜いて復員した功は戦後、神戸三宮で薬の闇商売をはじめ、大阪に出て薬問屋「サカエ薬品」を出店。そして昭和32年、小売こそ天職と定め、薬品を中心に化粧品や日用雑貨も売る「主婦の店ダイエー」を千林に出店する。大阪の「大」と祖父の「栄」からその名をとったというこの30坪の店から、ダイエーの奇跡的な快進撃がはじまることになる。
 その後、功はスーパーマーケットを日本で初めてチェーン展開し、数十年で売上高3兆円超、社員数6万人を擁する日本最大の流通グループに成長させ、まさに立志伝中の人物となってゆく。しかしバブル崩壊後、1990年代に入ると無理な拡大路線と多角化がたたり経営不振が顕在化、2001年には実質的破綻が明らかとなり、300社を超える巨大企業グループを一代で築き上げた中内功はついにダイエーグループから追われることになる。
 その中内が、ダイエー破綻が現実味を帯びはじめた2000年1月に日経新聞「私の履歴書」に連載をはじめ、世間を驚かせたことがあった。カリスマといわれ、かれに関する幾多の本や記事が書かれ、しかし自ら筆を執ることのなかった伝説的経営者の渾身の自伝はおおくの読者を獲得し、日経新聞を裏から読む人が増えたといわれたほどだ。同年12月には連載は『流通革命は終わらない−私の履歴書』(日本経済新聞社)として出版された。
 著書の冒頭で中内はこう述べている。
 「生まれは大阪、育ちは神戸だ。祖父の代までは土佐に住んでいたので、土佐の血が流れているのかもしれない。戌(いぬ)年生まれで土佐とくれば、闘争心おう盛な『闘犬=中内』と連想されそうだが、それより海から受けた影響の方がずっと大きい。…(中略)…祖父から受け継いだ土佐特有の海洋性の明るさに、自由で開放的な港町神戸で一層磨きがかかり、元気の源となっている」
 じつはわたしは、連載をはじめたこの時期の中内の脳裏には、5歳の時(昭和2年)に倒産した地元神戸の鈴木商店と金子直吉が存在したのではないかと思っている。
 土佐の吾川郡吾川村(現仁淀川町)に生まれた金子直吉は、新興都市神戸の一介の砂糖商だった鈴木商店を大番頭として日本最大規模の巨大企業グループ(総合商社)へと発展させた。同社は明治末期から大正期、「スエズ運河を通る船の一割はスズキの船」といわれるほどの隆盛をきわめたが、金子ワンマン体制と急激な拡大路線などがあだとなり、昭和恐慌で倒産。のちの神戸製鋼所、日商岩井、石川島播磨重工業、帝人、サッポロビールなど錚々たる企業群の母体となった鈴木商店はあっけなく消滅してしまう。土佐の血が流れる中内の父も一時鈴木商店に雇われていた。そしてその息子、功がつくり上げた巨大流通企業ダイエーは中内が日経新聞に自伝を連載しはじめたころ2兆数千億円という天文学的な負債をかかえ、すでに破綻の危機に瀕していたのである。
 じつは中内自身は阪急グループの創始者小林一三を畏敬しており、そう公言して憚らなかった。阪急電鉄、阪急百貨店、宝塚歌劇団、東宝をつくり上げた大物実業家・小林一三の事業理念を中内は学び、踏襲しようともした。しかしこのふたりは、経営者としてはまるでタイプが違った。山梨の豪商の家に生まれた慶応出のスマートな合理主義者に、中内にある異常なほどの野心や闘争心、果てもない飢餓感はなかった。むしろ中内には、三井・三菱なにするものぞと、大いなる野望と闘争心で日本制覇を目論んだ土佐出身の金子に相通ずるところがあった。
 その中内が、自伝の最後に、慟哭のごとき悲痛な一言を書き遺している。
 「四十年間、楽しいことは何もなかった。これからもそう感じることはない。私の戦争はまだ終わっていない。野火が、心の中で燃え続け、心を焦がす」
 戦友のほとんどを失った地獄のフィリピン戦線から幽鬼のごとく蘇った男は、まるで別人となって戦後の産業界に突如として現れた。存在感のうすい地味で目立たぬ生真面目な青年を、戦争が一匹の鬼に変貌させたのだった。その鬼は、餓鬼道の修羅のなかを脇目もふらず疾駆していった。そして敗軍の老将となっても、戦いをやめようとはしなかった。
 『カリスマ−中内功とダイエーの「戦後」』(佐野眞一著、日経BP社)の中に、中内のうちにある信じがたいほどの“餓鬼”の実相を、あるダイエー幹部が語る場面がある。
 「あれほど、物欲が強い人はいません。ホテルに泊まると、備品のタオルや洗面用具をあらいざらいもち帰る。飛行機に乗るとコーヒーをかきまわす小さなマドラーまで忘れずもっていく。一度“あなたも今や日本を代表する企業の大社長なんですから、そんなみっともないことはやめたらどうですか”と、やんわりたしなめたことがありました。けれど、“いや、このクセだけはなおらないんだ”といって、とりあってくれませんでした」
 身中に巣食うおぞましいほどの強欲と得体の知れぬ狂気に、中内自身も手を焼いていたのかもしれない。
 中内功は、『流通革命は終わらない−私の履歴書』を出して5年後、平成17年(2005年)に83歳で死去した。私財を投じて創設した神戸の流通科学大学に行った帰りに立ち寄った病院で倒れ、意識は戻らぬままだった。田園調布の自宅も芦屋の別宅も差押えとなっていたため、亡骸(なきがら)は大阪市此花区の中内家一族が眠る正蓮寺にそのまま移送され、近親者だけで密葬を済ませた。産業再生機構入りし再建中だったダイエーは、ファウンダー(創業者)中内功の社葬を行わなかった。
 金子と中内には、あまりにも共通点がおおい。土佐人の金子も、自身に流れる土佐の血を誇りにした中内も、ともに新開地神戸で事業を興し、憑かれたように事業拡大に狂奔し、日本制覇どころか世界制覇を目指した。そしてともに天才的事業家で超ワンマン、強烈なカリスマ性があった。死ぬ思いで育て上げた巨大企業グループはしかし最後に破綻し、ともに孤独で惨めな最期をむかえた。
 金子直吉の死去から60年後、中内功はカリスマでも鬼でもない一介の老翁となり、しずかにこの世を去った。
     Text by Shuhei Matsuoka
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2013年08月21日

”法王”と呼ばれた男

 三菱財閥を興した土佐人・岩崎弥太郎の名はだれもが知っているが、岩崎の右腕として三菱の基礎を築き、のちに第3代日銀総裁として辣腕をふるい“日銀の法王”と呼ばれた川田小一郎(1836〜1896)を知るひとは案外にすくないようだ。
 明治末期に北海道にわたって新種のジャガイモ「男爵イモ」(川田男爵から名づけられた)を広めた息子の川田龍吉の方がむしろ知られているのかもしれないが、父小一郎の人物は息子とは比べものにならぬ巨(おお)きさである。
 川田小一郎は、坂本龍馬がうまれた翌年、天保7年(1836年)8月に土佐郡旭村(現高知市旭町)に郷士川田恆之丞(つねのじょう)の二男として生を享けた。藩政時代の小一郎についてはあまり記録も残っておらず無名だったが、明治維新の動乱がかれの名を世に出すことになる。
 慶應4年1月、小笠原唯八を隊長とする土佐藩兵が官軍として伊予松山征伐に赴き、川田小一郎率いる一隊が別子銅山を接収した。このとき住友の大番頭だった広瀬宰平が川田の下を訪れ、「銅山は住友の私有財産であり、生産銅を幕府に献上してきただけです。住友家は勤皇の志篤く、わたくしに従来通り銅山をお任せくだされば、生産量を大幅に増やして国家にお尽くしいたします」と必死に懇願するのである。川田は広瀬の熱意に感じ入り、ふたりで大阪へ赴いて太政官に家行継続を申し入れ、住友へこれを返す許可を得ることができたのだった。
 住友財閥のその後の隆盛はひとえに川田のこの決断にあったといって過言ではなく、住友家と広瀬はその後もながく川田を大恩人として敬い、別子産銅で寿像を建立して顕彰した。また川田がのちに三菱で鉱山経営に才を発揮する素地は、この広瀬との邂逅によってうまれたといってよい。
 そしてこの2年後、明治3年暮れに川田小一郎はある男と運命的に出遭う。岩崎弥太郎である。
 小一郎より2歳年長の弥太郎はこの年の10月に小参事にまで出世し、土佐藩大坂藩邸の代表者となっていた。そして小一郎が藩命により大坂藩邸勤めになったことではじめて弥太郎と出遭ったのだ。
 才にとみ豪放磊落(らいらく)を絵にかいたような二人はまたたくまにうち解け、明治4年の廃藩置県で土佐藩が消滅するや弥太郎は「俺は海運会社をやる、一緒にやらないか」と川田を誘う。そして土佐藩時代から引き継いだ海運商社「九十九(つくも)商会」を「三川(みつかわ)商会」(川田小一郎、石川七財、中川亀之助の三川を合わせて命名)という名の私企業として明治5年にあらたに発足させ、明治6年に正式に弥太郎が代表となって三菱商会と改名する。このときが、現三菱グループの創業といえるだろう。
 川田の三菱での活躍ぶりは凄まじく、石川七財とともに弥太郎の右腕として事業の拡大に奔走する。海運業にくわえ、紀州炭鉱、吉岡銅山、高島炭鉱といった鉱山の経営を成功に導いたことで大財閥への道をひらき、最大の懸案だった三菱汽船と共同運輸との合併(日本郵船会社となる)にも心血を注いだ。総帥の岩崎弥太郎が臨終の際、「事業のことは委細川田氏に聴け」と言い遺したことでも、川田の存在がいかにおおきかったかが分ろう。
 明治18年、岩崎弥太郎は胃がんを患い、52歳で死去。弟の弥之助が三菱の総帥となるや、小一郎は50歳で自らの地位を荘田平五郎にゆずり、金十万円をもらってあっさりと三菱から身を退く。その後は楽隠居の身となり、土佐に帰って遊んだりしていたが、明治22年に初代大蔵大臣の松方正義から請われて第3代日本銀行総裁に就任する。金融にあかるいわけではなかったが、三菱時代の辣腕と盛名を買われての抜擢だった。そして29年11月に死去するまで7年間にわたり君臨し、“日銀の法王”と呼ばれ畏れられた。
 川田小一郎の日銀時代のエピソードは枚挙にいとまがない。
 総裁でありながら株主総会以外には日銀に出勤せず、重役や局長を毎日私邸に呼びつけて指示を出していたという逸話は有名だが、部下のみならず大蔵大臣すら呼びつけたというからそのワンマンぶりは凄まじい。
 福沢諭吉の婿養子で電力界で名を馳せた福沢桃介はこんな逸話を紹介している。
 明治20年、初代首相の伊藤博文は憲法草案をつくるため、子分の伊東巳代(みよ)治(じ)、金子堅太郎、井上毅(こわし)を連れて夏島(神奈川県)の料亭「東屋」にこもって準備作業をしていた。そこに一日、川田が伊藤を訪ねてきた。このとき川田は興にのって、伊東巳代治の体重が16貫あるかないかで伊藤と賭けをやった。実際に計ってみたところ、はたして川田の勝ちとなり、伊藤は平身低頭で謝ったという。ほんの遊びだろうが、一財界人の川田が総理大臣(それも初代!)と五分のつき合いをしていたことを物語るエピソードである。福沢桃介は「渋沢(栄一)、大倉(喜八郎)などでも伊藤、山県に対しては米搗(こめつき)バッタも同様で、全く頭が上がらなかった。然るに独り川田に至っては、幇間然たる挙動など微塵も無く、伊藤、山県と同格のつき合いをやり…」「明治二十九十一月、六十一歳を一期として死ぬるまで、威張って威張って、威張り通した傑物」(『財界人物我観』)と評している。
 しかし川田小一郎は、ただ威張るだけの漢(おとこ)ではなかった。
 かれの真骨頂は、藩閥や門閥などには目もくれずに人物を見抜き登用する点にあった。川田は芸者遊びも人後におちなかったが、自らを“男道楽”と称したほどで、朝野を問わず英才を探しだしては要職に就けて日銀の基盤を強固にしていったのだ。
 その好例が、ペルー銀山事件で尾羽打ち枯らしていた高橋是清(当時39歳)を拾い上げたことだろう。
 日本政府がペルーの廃坑銀山を掴まされた詐欺事件で、特許局長を辞してペルーに渡った高橋は私財を投げ打って文無しになったばかりか、世間からペテン師扱いされ落魄していた。当時、大蔵次官だった田尻稲次郎が「高橋のようなヤマ師を日銀に入れたのはけしからん」と放言したことを聞きつけた川田が怒り、夜中の1時に田尻の家に乗り込んで「拙者、見るところがあって高橋を採用した。監督官たる貴公がこれに異議あるとなれば、拙者も総裁を辞める」とねじ込み、陳謝させて一札を入れさせたエピソードは有名だ。
 高橋是清―。のちに日銀総裁、大蔵大臣、総理大臣にまで栄達する逸材は、名伯楽・川田小一郎あってのものだった。炯眼で剛腹な川田は、初対面の高橋にいきなり山陽鉄道の社長のポストを薦めてかれをあわてさせた。中上川(なかみがわ)彦次郎が三井へ移ったのでその後釜にすえようとしたのだが、当時の山陽鉄道といえばいまのJR西日本にも匹敵する大会社だ。高橋はしかしこれを分不相応として断り、ペルー銀山事件で名を落とした身、丁稚奉公からやらせてほしいと頼むのである。
 川田はますます高橋にほれこみ、当時建築中だった日銀本店ビルの建築所事務主任(日銀正社員でなく嘱託)で雇う。月給百円の安サラリーマンである。川田小一郎総裁の下には、安田財閥総帥の安田善次郎が建築担当重役として座り、技術部長(設計者)が建築家の辰野金吾、その下に高橋是清が配属されたわけだから、のちの世からみればなんとも贅沢な布陣である。
 余談だが、“日本近代建築の父”とも称され、東京駅などの設計でも知られる建築家辰野金吾は、生地の佐賀唐津で高橋の英語の教え子だった。先生が、教え子の下に就いたのだから辰野はさぞやりにくかったろうが、高橋はまるで意に介さず辰野を上司として立て、工事を無事完成に導いた。高橋是清の、非凡さをうかがわせる挿話のひとつだ。
 さて川田小一郎だが、日銀総裁として日清戦争時代の財政処理、戦費調達に貢献し、その功により男爵に叙せられる。これはかつての主家・岩崎家の授爵よりも早い。また明治23年には帝国議会開設と同時に貴族院議員に勅選され、明治29年11月7日、一代の傑物川田小一郎は日銀総裁現職のまま61歳でこの世を去る。
 近代日本に資本主義を根づかせた、“日本の創業者(ファウンダー)”のひとりだった。
       Text by Shuhei Matsuoka
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2013年07月13日

土佐人として

 正直にいうと、わたしは高知という土地があまり好きではない。 
 いや、これは正確ではないかもしれない。高知にうまれ育ったわたしにとって、両親を好きか嫌いかで表せないのと同様に、この地はいわば体の一部のようなものであり、そうであるがゆえに、人がだれしも自己愛と自己嫌悪を併せもつように高知にもそのような感情をもっているという意味においてである。
 わたしは、高校卒業と同時にこの地を離れ、京都、大阪、東京、そして海外にも暮らし、40代に帰郷した。いわゆるUターンだが、ふるさとに帰ったものの、わたしには高知県人に戻ったという感覚はなく、十数年経ったいまでもエトランゼの気分でいる。つまり、生まれ育った高知に完全に同化してはいないということだ。
 ところが、ある言葉の前では、わたしの感情はすこし昂ぶる。自分自身が溶解し、この地に同化してしまうような感覚を味わうことになるのだ。
 それは、「土佐」という一言である。
 この旧(ふる)い呼称はいうまでもなく明治維新をもって正式(行政的)には消え、「高知県」に変更されたわけだが、あらゆる分野で現実には存在し、使われている。藩政時代の呼称をこれほど頻繁かつ堂々と使っている県は他にはないだろう。
 そこで劈頭(へきとう)の一文だが、これを「わたしは土佐という土地が好きである」と言い換えてみることはできる。これならばしっくりくるし、わたしもエトランゼではなくなるのだ。峻険な四国山脈と太平洋に挟まれ、くわえて一国一藩による均質性がつくりあげた独特な気質と風土性が「土佐」という言葉に濃厚にのこっているためだろうか。
 さてこのたび、わたしは『風聞異説』というタイトルの本を上梓した。本誌『季刊高知』に長年連載している同名のエッセーを中心に、わたし自身のブログに書いた評論などをくわえてまとめたもので、42編の物語が収録されている。
 もともと連載を頼まれたとき、季刊誌なのであまり時事的な内容は入れられないとおもい、幕末から明治、大正期ごろまでの「近代」に材を取ることにした。土佐人がおおいに活躍した時期であり、知られざる傑物や立派な人物を多く輩出しているのでなんとか続けられると判断したからだ。そして、見開き2ページという紙幅ではあるが、たんなる身辺瑣事ではなく、リーダブルな(読むに値する)ひとつの物語に仕上げることを自らに課した。それが果たして成功しているかどうかは読者の判断に委ねるしかないが、それなりに時間と労力を費やし、力を入れて書いてきたつもりでいる。
 そう、もうひとつ付け加えておかねばならない。この連載をはじめたとき、考えたことがあった。それは、少々不遜かもしれぬが、土佐人である読者の皆さんに、海のような凛呼たる誇りと真夏の雲のようなあかるい希望を持ってもらいたいということだった。
 明治新政府が東京を首都に決めて統一国家建設を目指したとき、西洋列強から容易に侵されぬ強固な国家像を漠然とだが描き、その実現のために選択した方法が東京を核とした「中央集権システム」だった。これは近代国家建設の初期には効率的で効果的な手法であったが、それが戦後日本にまでそのまま引き継がれ、さらに極端な姿となって現在の社会、文化、さらにはひとびとの精神にまで幣をおよぼす結果をまねいた。なんでもかんでも東京から発信され、地方は価値観まで押しつけられ、いわれなき劣等感にさいなまれる。そんなバカなことがあってなるものか。そう、わたしは考えたのだ。
 そして、ふたたび劈頭の一文に戻ろう。
 わたしは、高知が本当に好きなのか?そう自らに問うた。そして「東京」に対応する「高知」は、べつに好きではない。東京に対していない、そのくびきからフリーな「土佐」を好きなのだ、そう感じたのだ。そしてその土佐に、誇りを持とうではないかとおもったのだ。そのひとつの手段、きっかけとして、わたしはこの連載「風聞異説」をはじめた。拙著『風聞異説』をお読みいただければ、土佐と土佐人にたいする既成の概念が揺らぎ、心の中で何かが変化するものと、多少なりの自負はしている。(「季刊高知49号」<単行本『風聞異説』発売記念エッセー>)
      Text by Shuhei Matsuoka
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2013年05月16日

タカクラ・テルの仕事

 先日、高知市内の書店で『日本の名著』(中公新書)という本を購入した。
 1962年に初版が発行され、このちょうど50年後に当たる2012年10月に出た改版である。本としては旧(ふる)いので昔買って自宅のどこかにある可能性もなくはないが、パラパラとめくってみてあまりにおもしろそうだったのだ。
 そして帰宅して読んでみれば案に違(たが)わず、枕頭においては毎夜の愉しみとなったのだが、哲学者・梅原猛氏の簡にして要をえた解説が帯に添えられているのでこれを引けば中身は察してもらえるだろう。
 「この著書は京都学派のリーダーの桑原武夫氏が、明冶以来現代までの日本の名著五十冊を選び、私を含めて氏の最も信頼する学者十五人に論評させたものである。そこには全盛期の京都学派の広く深い知識と批判精神がキラキラ光っている。名著を論じた名著というべきであろうか」
 福沢諭吉『学問のすゝめ』から丸山眞男『日本政治思想史研究』まで、日本の近現代を代表する名著(小説を除く)50冊がならぶ。執筆陣の豪華さ、そして選択眼と諭評の鋭さではちょっと類がないほどで、多少なりとも知的好奇心をお持ちの方はぜひ手元においてほしい一冊だが、そのことはさておき、この本に紹介されている50冊の著者の中に、3人の土佐人がえらばれている。中江兆民『三酔人経綸問答』、幸徳秋水『廿世紀之怪物帝国主義』、そしてタカクラ・テル『新文学入門』である。
 前記ふたりとその名高い論文についてはだれしもが納得するであろう。が、タカクラ・テルとはいったい何者なのか。この『日本の名著』で多田道太郎が論じるタカクラの『新文学入門』を読んでわたしは少なからずショックをうけ、タカクラ・テルなる人物におおいに惹かれるようになった。次の一文は『新文学入門』(1952年、理論社)からの引用である。
 
 文学の作品わ、書くのわ、作家だが、けっきょくは、全読者大衆・全民族が作るものだ。だから、大衆  化ということが、文学のこんぽんのもんだいで、これおはなれて、文学のもんだいお取りあげれば、かな  らず、本質から、それてしまう。
 これまで、文学のもんだいわ、おもに、作品と作家お中心にして、取りあげられた。これわ、さか立ち  した文学論で、文学論わ、すべて読者のもんだいから、出発しなければならないものだと、わたしわ、二  十年ほど前から考えるよーになった。

 断るまでもないが、これはわたしの写し間違いでも変換ミスでもない。こんな不思議な文章にわたしはついぞお目にかかったことはなく、読者諸氏もそれは同感ではないか。さらにタカクラは、日露戦争後にプチブル層が大きくふくれあがり、かれらが夏目漱石という「文壇外」の作家を呼び寄せたとしてこう述べる。
 「ソーセキの人物が、教師であるか、学生であるか、あるいわ、卒業生であるか」ということは「彼の作品が、おもに、そーいう新興プチブル層のあいだで、読まれたという事実お、何より雄弁に、語っている」
 まったくするどい指摘というほかないが、なによりも、この一冊を近代の名著50冊にいれた碩学・桑原武夫の慧眼にはいまさらながら感服である。

 タカクラ・テルは本名を高倉輝豊という。1891年(明治24年)に高知県高岡郡口(くち)神川(ごうのかわ)にうまれ、その後、幡多郡七郷村(ななさとむら)浮(うき)鞭(ぶち)(現大方町)に一家は移り住んだ。中学は愛媛の宇和島中学へ、そして京都の第三高等学校、京都帝国大学文学部へとすすみロシア文学、言語学などをまなんだ。その後も国語国字問題を研究し、独自の日本語文体をも開発した。カタカナの筆名や先にあげた一風変わった文章にその特徴はみてとれるだろう。
 テルは卒業後学究の途をえらび、京大で嘱託職員として勤務していたが、やがて文筆の才に目覚め、劇作家・小説家になる決意をする。そしてロシア革命や河上肇の影響もあり、次第に社会の下層で抑圧されつづける無産階級の農民や労働者とともに闘う文学者・活動家となってゆく。インテリ文学青年が社会運動に投じる姿は明治末期から昭和にかけての日本のひとつの風景でもあったが、テルは凡百のインテリ青年には及びもつかぬ過酷な道を自らえらんで歩みはじめるのだ。
 大正10年、哲学者の土田杏村が、労働をしながら学べる民衆のための学校「信濃自由大学」を創設するやこれに共感し、長野県沓掛星野温泉に移り住み土田と活動をともにするようになる。そしてこの信州時代に、精力的に小説を書きはじめる。テル自身の言葉を借りよう。
 
 わたしは、三つの系統的な長編の創作計画を立てていた。『高瀬川』、『百姓の唄』、『狼』がそれ   で、『高瀬川』では、わたしが京都で実際に見た、勤労(生産)から完全に浮きあがった階層(いわゆる  「上流階級」)のくさりはてた生活を、『百姓の唄』では、農村にはいって初めて知った、当時の農民の  じつにひどい生活と、その出身の女工の、たたかう方法を知らない所からくる、この上なくみじめな悲劇  を、『狼』では、実際に階級闘争をやっている労働者・農民の新しいひどい苦しさと、しかし、そこに初  めてさしている新しい希望を、それぞれ具体的に描こうと企てた。(『狼』あとがきより)
 
 わたしが百万語を弄するより、これを読めばテルの志したものがわかろう。
 しかし長野での充実した日々はながくは続かなかった。『狼』を書いた翌年の1932年(昭和8年)に、「2・4事件」(教員赤化事件)と呼ばれる思想弾圧事件が起こり、テルは検挙され、家族は東京に移送される。そしてはげしい拷問をうけながらも1年半におよぶ獄中生活を耐えぬき、保釈後に自身の代表作ともいえる『大原幽学』『ハコネ用水の話』(のち『箱根用水』と改題)を書き上げるのだ。
 しかしその後も当局の弾圧ははげしさを増し、テルは思想犯として生涯4度も投獄されることになるが、かれにとって忘れようにも忘れえぬできごとが敗戦の前年に起こる。昭和19年に八王子での農業指導を赤化運動だと疑われ投獄されたテルは警視庁正門から脱走し、哲学者三木清宅にかくまわれたことで三木は検挙され獄死するのである。テルはこのことを生涯悔やみ、心にふかい傷を負ったといわれる。
 敗戦後、テルは正式に共産党に入党し、長野県から立候補して衆議院議員、ついで昭和25年に参議院議員に当選するが、翌日にマッカーサー書簡によるレッドパージで議員追放となる。そして翌年、かれはついに日本を捨て中国・ソ連へ亡命、8年間の亡命生活をおくることになるのだ。ちなみに亡命の年に名作『箱根用水』と冒頭で紹介した独創的な『新文学入門』が理論社から発行されたが、保守的な文壇からは当然のように黙殺された。
 昭和34年(1959年)4月、68歳のテルは長い亡命生活にやっとピリオドを打ち、プラハから帰国。その後はさいわいにして長命し、昭和61年に94歳でその壮絶な生涯をとじた。大方町浮鞭には横書きで「タカクラ」とだけ書かれた墓があり、その下にテルはやすらかに眠っている。かれは生前、色紙をたのまれると、好んでこう書いたという。
 <あらしは つよい木を つくる>
 まことにタカクラ・テルらしい、凛呼たる一言だ。

 それにしても、土佐の辺境に生を享けた輝(テ)豊(ル)少年はなぜにタカクラ・テルとなりしか。
 テルの父輝房は僻村や離島をめぐる篤実な医師で、わかいころ自由民権運動の洗礼をうけ、貧乏人からは薬代をとらなかったという理想主義者だった。学費がつづかず高知医学校を中退し、正式な医師ではなかったため一家の生活は苦しく、テルの母も養蚕や馬車引きをして働いた。タカクラ・テルとは、近代化の影に捨ておかれ、あるいはその犠牲となっていった明治期の貧しい民衆社会がうみだした、一個の高貴で強靭なる魂だったのだ。
 選者に特別な意図があったわけではないだろうが、『日本の名著』にえらばれた土佐人3人の著者名をあらためてならべてみると、はっきりとした一筋の思想的潮流がみえてくる。
 自由民権運動の理論的指導者で日本に民主主義思想の種を蒔いた先覚者中江兆民、兆民の弟子として社会改革の緒についた矢先に「大逆事件」で刑死した社会主義者幸徳秋水、そして4度の投獄と非道な弾圧にも屈せず文学者・社会運動家として独創的な仕事を遺したタカクラ・テル。やはりここには、桑原武夫の巧緻な仕掛けが隠されているとみるべきなのか。
 『日本の名著』の初版発行から半世紀、いまやイデオロギーの時代は幕を閉じ、ひとびとは暖衣飽食をむさぼり、あたりまえのような顔で自由を謳歌する。しかし、身命を賭して真に民主的な社会の建設を志した郷土の先人らの血のにじむような営為を、すくなくともわれわれ土佐人は忘れるべきではないだろう。
       Text by Shuhei Matsuoka
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2012年11月30日

馬場辰猪の「気品」

 日本の近・現代を考えるうえで、明治10年と11年はひとつのおおきな転機、いわば分水嶺といってよい。
 明治10年はいうまでもなく西南戦争の勃発であり、維新最大の功労者・西郷隆盛は薩摩の城山に自刃し、鎌倉幕府開闢(かいびゃく)いらい700年の歴史をもつサムライがこの世から消え、事実上の維新革命は終焉する。そしてこの戦争の最中に木戸孝允が病没し、翌11年5月14日には石川県士族の島田一郎らによって、ときの最高権力者・大久保利通が暗殺される。こうして革命第1世代がわずか1年ちょっとのあいだにすべてこの世を去り、これを境に伊藤博文、井上馨、山県有朋、黒田清隆、大隈重信といった第2世代が実権を握っていく。この時期こそ、「“腕力の時代”から、“弁舌の時代”への転換点」(歴史家・萩原延壽)だったのである。
 このような時代のおおきな転換期に、土佐出身の民権家・馬場辰猪(1850〜1888)は2度目の英国留学から帰国した。明治11年5月11日のことである。
 馬場は、明治3年に土佐藩が最初に派遣した海外留学生(眞邉戒作、國澤新九郎、深尾貝作、松井正水、馬場辰猪の五名)のひとりとしてアメリカ経由でロンドンに渡り、明治7年暮れに一時帰国したが再渡英して都合7年間にも及ぶ英国生活を送った。そして、奇しくも、明治新政府の首領であった大久保が暗殺される3日前に帰国したのである。
 馬場辰猪は、群をぬく英語力と最先端の法学・政治学の知識を獲得した、近代国家建設を担う逸材のひとりと目されていた。くわえて紅顔の美青年であり、卓越した弁舌と俊才を兼ね備えていたのだから、天が二物も三物もを与えた類まれな人物だったといえよう。しかし帰国した馬場は、いっさい官職を得ようとはしなかった−立身出世とは「官途に就く」こととほぼ同義語だった時代であることを心にとめおかれたい−。どころか、自由民権運動が全国で沸騰した時期の理論派リーダーとなり、政府批判の先頭に立ったのだ。かれは『天賦人権論』ほかの著作や多くの論文をものし、その活躍のあざやかさは、まさに一頭地をぬくものとなった。
 ところが晩年(といっても30代後半だが)、自由民権運動の牙城であったはずの自由党、そしてその領袖・板垣退助の政治家としてのお粗末さに絶望し脱党、アメリカに活躍の場をもとめて政治亡命―日本人初の政治亡命者だろう―する。そして38歳のわかさで貧困と病のためやせ衰え、フィラデルフィアで客死するのである。ゆたかな才に恵まれながら、あまりに孤独な、文字どおり非業の死だった。
 
 馬場辰猪は、土佐藩士の家庭にうまれ、藩校・文武館を経て、慶應2年に17才で慶應義塾に入塾する。
 福沢諭吉の興した慶應義塾と土佐との関係は浅くない。わけても三菱を興した土佐人・岩崎弥太郎と福沢とは互いの才覚と志を認め合う仲で、のちに姻戚関係をむすんだほどだ。政商の親玉のような弥太郎と啓蒙思想家の諭吉という組み合わせは意外ともとれるが、徒手空拳で一時代を築いた強烈な個性と叛骨心に相通ずるものを互いが感じていたのである。そして三菱は慶應義塾の経営が厳しい時期に経済的援助を行い、慶應義塾は三菱への人材供給機関の役割を果たしていった。それゆえ、明治期はとくに慶應義塾には優秀な土佐人がおおく入塾した。そのひとりが、馬場辰猪だった。
 ちなみに、岩崎弥太郎は長女の春路を嫁がせようとしたほど馬場を買っていたし―春路はけっきょく加藤高明の妻となり、加藤は三菱財閥をバックに総理大臣まで上りつめる―、フィラデルフィアで馬場が病死したとき、ペンシルベニア大学病院に駆けつけた数人の日本人のうちひとりが同大学に留学中だった岩崎久弥(弥太郎の長男)であったことも因縁めいている。
 馬場は福沢の興した慶應義塾の、芝新銭座時代の最初期の秀才だった。福沢は馬場の8回忌(明治29年11月2日、谷中墓地)での追弔辞―犬養毅が代読―の中でこう回想している。
 
 今を去ること凡そ三十年、馬場辰猪君が土佐より出て我慶応義塾に入学せしときは年十七歳、眉目秀英の紅 顔の美少年なりしが、此少年唯顔色の美なるのみに非ず、其天賦の気品如何にも高潔にして心身洗うが如く 一点の曇りを留めず、加うるに文思の緻密なるものありて同窓の先輩に親愛敬重せられた。
           ・・・(中略)・・・
 君は天下の人才にして其期する所も亦大なりと雖も、吾々が特に君に重きを置て忘るゝこと能はざる所のも のは、其気風品格の高尚なるに在り。学者万巻の書を読み百物の理を講ずるも、平生一片の気品なき者は遂 に賤丈夫たるを免れず。君の如きは西洋文明の知識に兼て其精神の真面目を得たる者と云う可し。
 
 いかに福沢が馬場を愛惜したかは、追弔辞とはいえ、この手放しの賛辞でもよくわかる。福沢は馬場の英才のみならず、かれの高尚なる「気品」をことのほか評価していたのだ。
 じつは福沢はこのころ、講演などでしきりに「気品」という言葉を口にしていた。明治も半ばをすぎると慶應義塾も盛名をえて大所帯になったが、反面、学生たちの中に芽生えつつある精神のマンネリズムを福沢は感じはじめていた。そしてそのことへの戒めとして、「気品」という言葉を使うようになっていた。愛弟子であった馬場の「気品」が福沢の意識にはっきりとあったことは、疑う余地のないところだろう。
 たとえば明治29年11月1日、つまり馬場の8回忌の前日、63歳の福沢は芝の紅葉館で慶應出身者を前にこんな演説をおこなっている。

 我党の士に於て特に重んずる所は人生の気品に在り。抑(そもそ)も気品とは英語にあるカラクトルの意味に して、人の気品の如何は尋常一様の徳論の喋々する善悪邪正など云う簡単なる標準を以て律る可からず。況 (いわん)んや法律の如きに於ておや。固より其制裁の及ぶ可き限りに非ず。恰も孟子の云ひし浩然の気に等 しく、之を説明すること甚だ難しと雖も、人にして苟も其気風品格の高尚なるものあるに非ざれば、才智技 倆の如何に拘はらず、君子として世に立つ可らざるの事実は、社会一般の首肯する所なり。

 福沢はこの演説の1年後、大阪の慶応義塾同窓会でも「我が党の士に於て重んずるところは、人生の気品にあり」と述べ、翌31年に出版した『福翁自伝』も、「私の生涯の中(うち)に出来(でか)してみたいと思うところは、全国男女の気品を次第々々に高尚に導いて真実文明の名に恥ずかしくないようにすること」という一文で締めくくっているほどだ。
 ところで、福沢のいう「気品」とはそもそも何なのだろうか。
 福沢自身も「之を説明すること甚だ難し」と云っているが、「立国は私(わたくし)なり、公に非(あら)ざるなり」という有名な書き出しではじまる福沢の『瘠我慢の説』がひとつのヒントになるとわたしは思っている。福沢はこの論文を明治24年11月27日に脱稿したが、10年近くも篋中(きょうちゅう)に秘め、明治34年元旦の時事新報紙上ではじめて公表した。徳川幕府の重臣でありながら恬として恥じることなく明治新政府の顕官となった勝海舟と榎本武揚の出所進退をはげしく批判した一文で、しかるべき地位にある人物ならば、瘠我慢をしてでも筋を通さなければいけないという福沢の思想背景を明瞭にしめしたものだ。
 福沢がこの『瘠我慢の説』を脱稿した明治24年11月のちょうど3年前に、愛弟子の馬場辰猪はアメリカで客死している。馬場は、ある意味では福沢以上に福沢精神を体現した人物であり、生涯にわたり野(や)にあって、一貫した政府批判者としてそのみじかい生を閉じた。この馬場の思想信条をまげぬ狷介で凛乎(りんこ)たる生き方に、福沢は勝や榎本にない「ノブレス・オブリージュ(身分のある者の果たすべき重責)」をみたのではないか、つまり瘠我慢とはノブレス・オブリージュであり、それが福沢のいう「気品」というものだったのではないだろうか。

 さて、明治29年11月2日の谷中墓地―。
 フィラデルフィアの馬場の墓を模した西洋風の墓石の前にはおよそ140人が集まった。弟の馬場胡蝶(文学者・翻訳家)ら家族、そして福沢諭吉、小幡篤次郎、田口卯吉、中上川彦次郎、大石正巳、犬養毅ら慶應、三菱系の人士に交じって、同郷の盟友・中江兆民の姿もそこにあった。土佐藩留学生として馬場にすこし遅れて欧州にわたりフランスにまなんだ兆民中江篤介も、三歳年少の馬場を心から敬愛し、その才と「気品」を愛惜したひとりだった。
       Text by Shuhei Matsuoka
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