2022年09月25日

さらば反知性主義

 久しぶりに痛快な本に出会った。気鋭の政治学者・白井聡(1977年生まれ、京都精華大准教授)の渾身の一冊、『長期腐敗体制』(角川新書)である。
 同書は朝日カルチャーセンターでの連続講座「戦後史のなかの安倍・菅政権」(2021年3月〜6月)の講義録を全面的に改稿・加筆したもので、小難しい論文とちがって読みやすいこと甚だしく、帯にはデカデカと「なぜ、いつも頭(トップ)から腐るのか!?」の文字も踊る。装丁に一種キワモノっぽさがあるものの、著者は30代半ばで「石橋湛山賞」「角川財団学芸賞」を受賞するなど早くから頭角を現した本格派の思想史家・政治学者である。
 『長期腐敗体制』は2012年に発足した第2次安倍政権から菅、岸田政権へと連綿としてつづくこの10年間を不正・無能・腐敗という悪徳の3拍子が揃った戦後最悪の「2012年体制」(命名は政治学者・中野晃一)と位置づけ、その実相を見事な筆さばきで腑分けしてみせる。もちろんこの体制の基礎構造はすべて安倍晋三政権時のいわゆる「安倍一強体制」によって堅固に構築され、菅・岸田はそれを引き継いだにすぎない。
 「モリ・カケ・桜」など重大な醜聞(スキャンダル)の数々で露呈した行政府の劣化と不正・腐敗の本質、経済政策「アベノミクス」の失敗とその原因、外交・安全保障政策の矛盾と問題点などを俎上にあげ、日本社会がいまや抜き差しならぬ事態に陥った最大の原因が「2012年体制」にあり、野党の体たらく以上にこの体制を「だらしなく肯定」してしまった市民の無知と無気力にその淵源をもとめるのも納得的だ。
 ところで同書は安倍元首相が凶弾に斃(たお)れるちょうど1か月前の6月10日に発行されたもので、筆者は次のような「あとがき」を書いて筆を擱(お)いているが、そこにドキリとする一言が出てくる。
 <本書はこの10年近くの日本政治の低迷、というよりも転落を概括的に論じました。もちろん、その政治の中心には、自民党が鎮座しています。いま円安が止めどもなく進んでいますが、日銀に打つ手はありません。いよいよアベノミクスというマヤカシのツケを払わせられるときがきたのです。
 言うまでもなく、問題は経済だけではありません。この10年のうちの7年以上にわたって継続した安倍晋三政権は、内政も外政もただひたすら出鱈目(でたらめ)をやっただけでした。結果、日本の統治は崩壊しました。その罪は万死に値します。…>
 そしてまさかの凶事、筆者は背筋が凍る思いだったろう。が、それはさておき紙幅に限りある新書版のためか同書にもすこし物足らぬところがある。この「2012年体制」が露骨な「反知性主義」を内包し、これが日本社会を衰退せしめる大きな要因になっている点に踏み込んでいないことだ。ここでいう反知性主義とは、権力者などが社会から学問や知性を排除するよう志向することで、普通に考えればとんでもないことだが、古今東西を問わず世の為政者はしばしばこの手を使ってきた。社会から知性を奪い批判眼を摘み取れば国を意のままに統治できるからだが、現代においても残念ながらこれは日常の光景となっている。
 たとえば教育学者の佐藤学(東大名誉教授)は、学問を攻撃するクーデタは世界のトレンドになりつつあるとして、ウクライナ戦争で耳目を集めるトルコのエルドアン大統領は2016年のクーデタ鎮圧を逆手に取って新たなクーデタを企て、1年間で15大学を閉鎖、5300人の大学教員と1200人の事務職員を解雇、899人の大学関係者を逮捕して現在の独裁政権を打ち立てた。ロシアのプーチン大統領は2013年以降、ロシア科学アカデミーに権力介入してメディアと学者を粛清して独裁者となった。ハンガリーのオルバン首相も欧州の「学問の自由」の拠点、中央欧州大学(CEU)を存続の危機に追い込み独裁者となった、と述べている(『学問の自由が危ない』晶文社)。反知性主義は、学問と言論(メディア)の封殺からその姿を現しはじめる。
 では「2012年体制」の反知性主義とはいかなるものか。
 前代未聞の出来事が2020年10月、菅義偉政権のときに起こる。「日本学術会議」が新会員に推薦した学者のうち人文・社会科学系の6名を、首相が明確な理由なしに任命拒否した事件である(現岸田政権も任命拒否のまま放置)。この専制的な政権はNHKなどのメディアだけでなく学問分野にまで手を伸ばしはじめたかと世間を震撼させ、「学問の自由」の侵害として1000を超える学協会が一斉に抗議声明を出し、内閣支持率も急落した。
 ここで注意すべきは、すでに安倍政権の2016年ごろから「事前調整」と称して官邸官僚が任命人事に干渉しはじめていたという事実だ。きっかけは2015年、集団的自衛権行使を容認する安保関連法案の審議中に参考意見を求められたすべての憲法学者がこれを「違憲」としたことにはじまる。安倍官邸はこのころから人文・社会科学系の学者を目の敵にするようになり、1949年に科学者の戦争加担への反省から生まれた日本学術会議が2017年に改めて「軍事目的のための科学研究を行わない」との声明を出し、民生技術の軍事利用に前のめりな政権に冷水を浴びせたことが決定的となった。
 公金で運営する組織には政策に異を唱える資格はないと考える安倍政権の官房長官だった菅は、首相になるや「誰がボスかおしえてやる」とばかりに意に添わぬ発言や論文を発表してきた6人を任命拒否し、 “獅子身中の虫”である日本学術会議を無力化していずれは政府機関から放逐することを目論んだのである。
 前出の佐藤は「身震いするほどの驚愕の事件である。政権トップがアカデミー会員の任命を拒否することは、ファシズム国家か全体主義国家の独裁者しか起こさないことである。日本の政治はそこまでおちぶれてしまったのか」(前掲書)と危機感を募らせ、さらに憲法第23条に保障される「学問の自由」の本質は政治権力からの学問の自由と独立性にあり、このいわば「学問の独立」に掣肘(せいちゅう)が加えられたのだと断ずる。菅の一挙は日本学術会議法違反であるばかりか明らかな憲法違反であり、図らずも「2012年体制」の反知性主義を曝け出す象徴的な事件となったのだ。
 ところで、「学問の独立」という言葉で思い出す人物がいる。明治期の前半に活躍した土佐・宿毛出身の政治思想家・小野梓(1852〜1886)である。
 大隈重信が早稲田大学建学の”父”、小野は同じく“母”と称され、学内にある「小野梓記念館」や優れた学術・芸術業績に与えられる「小野梓記念賞」などの存在でその名が知られる。特筆すべきは、小野が”知”と”立憲”を日本に根付かせようと奮闘した日本近代の建設者のひとりであり、大隈重信の腹心として薩長藩閥政権打倒とイギリス型政党内閣制樹立(小野は3年間の英米留学で法律を学んだ)を掲げ、立憲改進党結党や東京専門学校(のちの早稲田大学)の開校・運営に尽力、33年10ヵ月という短い生涯を駆け抜けた俊秀であったことだ。
 小野にとって分水嶺となったのが「明治14年の政変」である。伊藤博文ら薩長勢力は大隈重信、福沢諭吉、岩崎弥太郎の3者連合が政権転覆を企てているという陰謀説をフレームアップし、筆頭参議の大隈以下慶應・三菱系の官僚らすべてを政府から追放する。このとき会計検査院一等書記官だった小野も連袂(れんべい)して辞職する。政変の背後に明治憲法制定に係る対立や世情を騒然とさせていた「開拓使官有物払下げ事件」(開拓使長官の黒田清隆が北海道官有物を薩摩閥の政商五代友厚らにただ同然で払下げようとして発覚)、また全国で激しさを増す民権運動の騒擾(そうじょう)もあり政情不安を案じた天皇も了承せざるを得なかったのだ。
 ちなみにこの政変、驚くなかれ現在にまで悪影響を及ぼしている。クーデタ成功で薩長藩閥政権は盤石化し、これにより最後発の帝国主義国家となった日本は日清・日露・日中戦争、とどめに太平洋戦争を起こして完全に破滅するが、あろうことか戦後も岸、佐藤、安倍と長閥政権はつづき、「2012年体制」として現代社会にまでその弊を瀰漫(びまん)させているのだ。
 さて翌明治15年10月21日、早稲田にあった大隈の別荘の敷地内に新築された東京専門学校で開校式が開催された。この式典で小野は新入生80人を前に、日本ではじめて「学問の独立」という言葉をたかだかと掲げた。明治35年に早稲田大学と改称されてからも大隈は早世した小野の意志を継ぎ、学問の政治権力からの独立をことあるごとに唱え、現在でも「学問の独立」は早稲田を象徴する言葉となっている。
 実は『長期腐敗体制』の著者白井聡は早稲田大学政経学部出身、実父の白井克彦は第15代早稲田大学総長である。稲門の白井聡こそは、「学問の独立」を脅かし社会を衆愚化させるおぞましい反知性主義を排斥する一大勢力になってくれることだろう。(敬称略)

 Text by Shuhei Matsuoka
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2022年06月25日

不屈と憎悪

 毎日のようにメディアに流れるウクライナ戦争の惨状を見るにつけ、やるかたない悲憤と鬱々たる気分に苛まれる。
 地球上に4千以上の民族が存在し、196の国々がすべからく国境と固有の国土を有しているかぎり戦争や紛争の種は尽きないのかもしれないが、高度に情報化され殺傷能力のきわめて高い兵器で武装した国々が大勢を占める現代社会では容易に一線を越えぬよういくつかの国際協定や条約が存在し、とりわけ核兵器・生物化学兵器の使用や民間人攻撃の禁止などは過去の悲惨な戦争の反省から生まれた必須の人道的ルールとなっている。
 しかしそれらはけっきょくただの紳士協定にすぎなかったことをウクライナ戦争が曝け出した。目を背けたくなる非道なジェノサイド(大量虐殺)や原発への攻撃を平然と行い、核兵器使用をもちらつかせるロシアを前に国連の無力ぶりをイヤというほど見せつけられているわたしたちは、まったく終わりの見えない不安と苛立ちの中にいる。
 ただ怪我の功名といえば不謹慎かもしれないが、黒海に面したウクライナという東ヨーロッパに位置する農業大国の文化や美しい街並みや人びとの暮らしぶりをわれわれはあらためて知ることになった。そしてなによりロシア帝国からの度重なる侵略の歴史を持つゆえにこそやっと獲得した「自由」と「独立」をウクライナ人が手放すはずはなく、ロシアの大軍に対して一歩も退かぬかれらの尋常ならざる不屈が世界を瞠目させ感動すら与えていることは一条の光明と云ってもいいだろう―おおきな犠牲とひき換えのあまりに痛々しいものではあることは云うまでもないが―。
 ところで、ウクライナ戦争勃発と同時に、北大西洋条約機構(NATO)の存在がにわかにクローズアップされてきた。ウクライナが非加盟国であるためNATO軍が直接的に軍事介入できないことを見透かしてロシアは侵攻し、その結果多くの民間人などの犠牲を出しながら膠着状態となっているわけだが、あらためてヨーロッパ地図を眺めてみると面白いことがわかる。
 1949年に12か国で創設された軍事同盟NATOの加盟国はいまや30か国におよぶが、西側ヨーロッパにも非加盟国はわずかながら存在する。ロシアの侵攻を見て急きょ加盟申請したスウェーデンとフィンランドがこれまで非加盟だったのは隣接するロシアを刺激したくなかったからで、内陸の小国スイスとオーストリアは永世中立国であるほうがむしろ安全と考えて加入していない。ところが、まさに北大西洋上に浮かぶもっとも加盟国にふさわしい位置にある島国アイルランドが非加盟なのである。ヨーロッパの西の端にあり、対岸のアメリカ、カナダ、そしてイギリス、フランスなどの枢要なNATO諸国に囲まれていながら一国だけがポツンと非加盟なのはなぜか。
 17世紀、クロムウェルに率いられた清教徒(ピューリタン)を名乗るイングランドのプロテスタント(新教徒)たちが海を隔てたカトリック国のアイルランドを侵略し大殺戮を行って支配した。このアイルランドの苦悩と屈辱の歴史、そして不屈のウクライナ人にどこか相通ずるアイルランド人気質の存在が背景にあり、憎きイギリスが加盟する軍事同盟なぞに入るわけがないというのがかれらの本音なのだ。アイルランドはケルト民族でカトリック、イングランドはアングロサクソン(ゲルマン民族)でプロテスタントと、もともと民族・言語も習俗も、そして宗派も違う。そのイングランドの侵略と支配が生んだ憎悪は、強烈な反英感情のかたちで現代においても牢固として生きているのである。
 『街道をゆく』(司馬遼太郎著)の中でもとりわけ強い印象をうける「愛蘭土紀行」で司馬は「客観的には百敗の民である。が、主観的には不敗だとおもっている」と、アイルランド人の屈折した心と不屈の気質をあざやかに表現し、さらにこう述べている。
 <アイルランド人は、組織感覚がなく(中世的である)、統治される性格ではなく(古代的である)、大きな組織のなかの部品で甘んじるというところがすくなく(近代的ではない)、さらには部品であることが崇高な義務だというところがうすい。それらは概してイギリス人が所有しているとされるものなのである。…ともかくも、アイリッシュ海という小さな海をへだててならんでいる二つの島ほど、人間群の光景として相異なるところもすくない。>
 ところで最近、つまりロシアのウクライナ侵攻後だが、たまたま『ベルファスト』という映画を観た。今年のアカデミー賞主要6部門にノミネートされた秀作との評判にくわえ、このタイトルに惹かれて観に行ったのだ。
 予備知識はほとんどなく、北アイルランドの首府ベルファストが舞台のいわゆる北アイルランド紛争を主題にしたすこし暗い社会派映画かもしれないと思って観に行ったのだが、その予断はさいわいにも裏切られた。たしかに紛争が勃発したころのベルファストを舞台にしてはいるが、主題は紛争そのものではなく、そこに暮らす或る一家のささやかな日常とかれらの住む街への愛情を込めて描かれた上質のヒューマンドラマであった。
 ちなみに北アイルランドはアイルランド島北部の一角に飛び地のように存在するイギリス(英国)領である。イギリスは普通UKと表記されるが正式名称はthe United Kingdom of Great Britain & Northern Irelandで、グレイトブリテン(ブリテン島)のイングランド、ウェールズ、スコットランドの3か国、それに北アイルランドを含めた4つの非独立国で構成された連邦国家であり、アイリッシュ海を隔てた北アイルランドの存在、そしてイングランドの侵略に屈して18世紀に併呑されたスコットランドが2014年に独立を目指して国民投票を実施したことでもわかるように、日本に似た島国ながらイギリスは日本のような単純で均質な国家ではない。
 アイルランドはイギリスとの血みどろの独立戦争の結果、1921年にイングランドからの植民者の子孫(プロテスタント)が過半を占める北部6州が北アイルランドとして英国領に残り、ほかの地域は英連邦内の自治領「アイルランド自由国」として実質的独立を獲得、1949年にやっと正式な独立国となった。しかしその後も北アイルランドではアイルランドへの帰属を求めるカトリック系と親英派のプロテスタント系が激しく争ってIRA(アイルランド共和軍)によるテロなどが頻発し、1998年の和平合意(ベルファスト合意)まで約3600人もの死者を出した。これがいわゆる「北アイルランド紛争」だ。
 さて映画『ベルファスト』だが、監督・製作は著名な俳優でもあるケネス・ブラナー。ベルファスト出身のかれの思い出深い少年時代を描いた自伝的な作品で、1969年8月にプロテスタントの暴徒がカトリックの住民を攻撃しはじめた事件を発端に人びとが分断されてゆく姿とベルファストでの日常がバディという名の9歳の少年の目を通してモノクロで描かれる。監督が「私が愛した場所、愛した人たちの物語だ」と述べているように、突然の紛争に揺れる労働者一家の苦悩と質素で微笑ましい生活ぶりが、役者たちの名演技(バディと祖父母役が出色)とユーモアとノスタルジーあふれる映像・音楽で再現されている。
 映画の結末は差し控えるが、ああやっぱりアイルランド人だな、という家族の姿がそこにあった。アイルランドといえばアイリッシュウイスキー、パブ、ギネスビール、文学、アイロニー(皮肉)とユーモア、そしてなによりも移民、それがヒントだ。
 話をウクライナに戻そう。
 人類におおきな惨禍をもたらした第2次世界大戦を契機として、永く続いた帝国主義の時代は終焉を迎えた。他国を武力で支配しても経済的に採算が合わないばかりか、戦争や紛争の火種と憎悪しか生まないことが証明されたのだ。大英帝国によるアイルランド支配も何世代にもわたる根深い憎しみと厄介な鬼っ子(北アイルランド)を産み遺しただけだし、大日本帝国による朝鮮・中国の侵略と支配もまったく同様だ。
 汚職と謀略と嘘と暴力で大統領にのし上がった独裁者プーチンはいまや公然とその本性を露わにし、愚かにもロシアをふたたび弱肉強食の帝国主義へ回帰させる道を選んだようだ。ウクライナを“ロシア化する”という言葉に典型的な帝国主義のやり口が見えるではないか。だが現代社会がそんな時代錯誤の暴挙を許すはずもなく、なによりもウクライナ人の不屈の前にその目論見は頓挫することになろう。また世界からの制裁がもたらす経済破綻によってロシア国民をも道連れにするかもしれない。まことに行く末は神のみぞ知る、である。
 願わくば、ウクライナがアイルランドのように国が二分される悲劇を生まず、21世紀最大の戦争犯罪人ウラジミール・プーチンがその末路を迎える日が近からんことをー。

  Text by Shuhei Matsuoka
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2022年03月25日

『流離譚』の光景

 現代小説を主に書いてきた作家などが晩年になって歴史分野に足を踏み入れることは珍しくない。
 古くは森鴎外晩年の『阿部一族』『興津弥五右衛門の遺書』などの一連の歴史小説や島崎藤村の『夜明け前』、戦後も安部公房『榎本武揚』、大岡昇平『天誅組』『堺港攘夷始末』(未完で遺作)、松本清張も相当な数の歴史作品を残し『両像・森鴎外』が遺作となった。また戦後を代表する文芸評論家の小林秀雄は晩年に『本居宣長』を著し、ジャーナリストの大宅壮一も還暦を過ぎてのち明治天皇崩御から幕末までを逆にたどるユニークな歴史大作『炎は流れる』をものしてこれが遺作となった。
 こういった例は挙げればきりがないが、考えてみれば職業的物書きでなくても、ふつうの勤め人などがある年齢に達すると「オレはいったい何者で、どこからきたのか」という観念に囚われ、自身の家系に興味を持ちはじめ歴史小説などを好んで読むようになる傾きがあり、そんな例はわたしの身近にも少なくない。
 むかしから歴史を学ぶことは士族など支配階級の重要な教養の一部であり、近代以降にもその風習はある程度引き継がれているのかもしれぬが、作家を名乗る者ならなおさら、自国の歴史もロクに識らないようではいくらなんでも情けない。きっとそんな心情も手伝って壮年期から歴史に興味をもつようになるのだろうが、ただ上に挙げた後世に遺るような作品群は、作家たちの深奥にある何らかの必然性から生まれたものと断言していいだろう。鴎外が、敬慕してやまなかった乃木希典の殉死を機に歴史小説を書きはじめたことはあまりに有名だ。
 その意味で、高知出身の作家安岡章太郎(1920〜2013)が晩年に完成させた歴史小説『流離譚』はまさにその代表例と云っていいかもしれない。ただこの作品はほかと比べてもまことに特筆すべき点がある。分厚い上下本で1600枚の大作であることもさることながら、幕末から明治にかけての激動の日本近代史が天性の作家との運命的な出遭いによって紡ぎ出された、いわば書かれるべくして書かれた稀有な作品となっていることだ。
 「私の親戚に一軒だけ東北弁の家がある。」という印象的な書き出してはじまるこの作品は、香美郡山北村(現香南市香我美町山北)で明治維新まで永く郷士として暮らしてきた安岡一族(本家、お上、お下、お西と呼ばれる血族4家族があり章太郎はお下の出)を核に据えた物語だが、作品化が可能になったのは家系図や相当量の古い書簡などが保存されていたことにくわえ、お西の惣領だった安岡文助の31年間(天保5年〜慶応元年)にわたる日記が新たに発見され、その報が東京の安岡章太郎の下に届いたことによる。これを見た安岡は、いよいよその時がきたかと覚悟を決め、膨大な史料との格闘がはじまるのである。
 それというのも、文助が坂本龍馬の長兄権平や寺田寅彦の祖父宇賀市郎平(文助の親戚でもある)らと親しく、さらに息子3人がすべて武市瑞山(半平太)を党首とする土佐勤王党に入党し、土佐藩の参政吉田東洋を暗殺した刺客のひとり次男嘉助は脱藩後に吉村寅太郎が率いる天誅組の一員として大和で戦ってのち捕縛され京都の六角獄舎で刑死、長男覚之助は板垣退助を総督とする土佐藩迅衝隊の小軍監として戊辰戦争の会津戦で討死、また三男道之助は戊辰戦争で生き残り維新後に自由民権運動に投じて立志社で板垣退助や片岡健吉らと活動するという日本近代の真っ只中を駆け抜けた奔走家だったことが、手紙や日記などからかなり詳(つまび)らかになったからだ。
 むろん安岡自身も一族の歴史、わけても死後に維新の功臣として顕彰され一門の誇りとなった覚之助や嘉助については父親や親類から漏れ聞き多少なりの興味はあったろうし、土佐を舞台にした作品も多い旧知の司馬遼太郎などから「そりゃ作家たるもの、それを書かん手はないで安岡さん」などと冗談半分でせっつかれていたのではないかとわたしは勝手な想像をしているが、親類宅から文助の日記がたまたま見つかったことで、いよいよ骨の折れる仕事に本気で取り組む気になった。50代半ばという作家としての円熟期だったことも本人をして決断させるに十分だったろう。
 『流離譚』はもともと文芸誌『新潮』に昭和51年3月号から56年4月号まで、56歳から61歳の5年間にわたり掲載されたものを同年12月に単行本化したものだが、翌年にはさっそく文芸春秋社から司馬との対談企画が持ち込まれ、昭和57年の『オール讀物』6月号でふたりは対談(司馬の対談集『八人との対話』に転載)する。
 その冒頭、司馬は「『流離譚』はいい小説でした。ああいうのは、何十年に一作というようなものですね。」といきなりベタ褒め。安岡は「おそれいります……。なんかテレくさいもんですなあ。(笑)」という具合だ。先生に褒められて恥ずかしそうにしている生徒みたいだが、安岡より3歳年少とはいえ相手は歴史小説の大家なのだからどうも仕方がない。プロはやはりプロから認められることが一番のご褒美で、対談自体もふたりの息が合ってとても面白い内容である。
 対談の最後、安岡は岩崎弥太郎が捕吏として嘉助を大坂まで追った因縁を述べたあと「実はうちに、安岡文助っていう安岡嘉助の親父宛に、<弥太郎>って書いたぼろぼろの手紙が一つありましてね…あまりにぼろぼろで判読できない。」と言うと、司馬が岩崎や後藤象二郎の話をし、「とにかく土佐というのは諸国とはちがっていろんな人間が詰まっているという感じでまだまだ論じることができるんだけれど、『流離譚』のおかげで我々はだいたい”土佐”を卒業できたということは言えるようですね。」と対談を結んでいる。
 もうひとり、『流離譚』をことのほか評価した人物がいる。小林秀雄だ。
 亡くなる前年、79歳だった小林の最後の評論となったのが『新潮』(昭和57年新年号)に掲載された「『流離譚』を読む」である。
 <矛盾撞着する資料の過剰…、それが歴史資料といふもの本来の厄介な姿である事は、上巻の書き出しから、下巻の末尾に到るまで、手に入る限りの歴史資料を集め、歴史事実の吟味に、少しも手を休めなかつた作者には、無論、よく解つてゐたであらう。苦しいほどよく解つてゐた筈だと、私は言ひたい。資料との、争ひと言つていゝやうな緊張した対話を、紙上で、あからさまに続けて行く作者の意識が、おのづからこの長編を貫く強いリズムを形成し、それが読者の心を捕へるのを感ずるからである。こゝら辺りに、この作家が開拓した、歴史小説の新手法があると見てもよいのではないか。>(単行本上巻の帯に掲載)
 ふつう歴史作家は多くの史料を読み込んで事実の断片を頭に入れ、それを自家薬籠中のものとして物語を構築し作品化するものだが、『流離譚』の作者はそれをせず、あえて自家史料を表に出して読み解き、不明箇所があれば筆者の真意を探り、多くの既存史料と比較し、可能な限り正確さを期するといった作者自身の姿を”あからさまに”読者の前に披瀝して、なおかつ練達の作家ならではこれらを見事に再構成し作品にしているのである。そのことを小林は云っているわけだ。ちなみに小林は安岡が『新潮』に同作品を連載中の昭和53年に『本居宣長』で『流離譚』と同じ日本文学大賞を受賞しており、ふたりはどこかしら因縁めいてもいる。
 すこし余談だが、村上春樹がもっとも影響を受けた日本の戦後作家として安岡章太郎を挙げているのも面白い。ふたりの文体や作品内容にまったく共通点がなさそうなので意外な印象を受けるが、安岡の初期の短編の数々を読んで文章のうまさに驚嘆したという。そういえば『海辺のカフカ』という表題はもしかしたら、安岡が作家としての地位を確立した『海辺の光景』(芸術選奨、野間文芸賞受賞)へのオマージュではないかと想像させる。これは安岡自身とおもわれる主人公が高知の海辺に建つ精神病院で母親を看取る姿を描いた私小説風の作品で、最初に講談社の文芸誌『群像』に掲載され単行本化されたものだが、村上のデビュー作「風の歌を聴け」(群像新人文学賞受賞)が同じく『群像』に掲載されたのが昭和54年6月、ちょうどそのときライバル文芸誌の『新潮』で安岡が「流離譚」を連載中だったのだから、偶然とはいえこれも奇縁である。
 山北の田園地帯には安岡章太郎の先祖が約200年前から暮らしたお下の家が現存しており、国の重要文化財に指定され保存されている。練塀に囲まれた2500uにもおよぶ広々とした敷地に主屋のほか蔵などが並ぶ立派な郷士屋敷は7年半にわたる改修工事を2019年に了(お)え、昨年6月には前庭に『流離譚』の文学碑も建った。歴史の風韻に包まれた静謐な佇まいが印象的な、『流離譚』の故郷である。

 Text by Shuhei Matsuoka
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2021年12月27日

絶滅を選ぶのか

 映画「ジュラシックパーク」に出てきそうな恐竜が突如、国連本部に現れて英語で演説するニュース映像に驚いた人も多かったろう。UNDP(国連開発計画)が「Don’t Choose Extinction(絶滅を選ぶな)」キャンペーンの一環として製作した2分半の短編映画で、イギリス・グラスゴーで10月31日から開催されたCOP26(国連気候変動枠組み条約第26回締約国会議)を前に世界に向けSNSで流したものだ。
 ティラノザウルスらしき大型恐竜がノシノシと壇上に上がり、太い指でグイとマイクを引き寄せ、鼻息とともに咳払いを一発かましてからこんな演説をはじめる。
 「皆、よく聞いてほしい。これは明らかなことだが、絶滅に向かうということは悪いことだ。しかし君たち人間は、自分自身の手で自らを絶滅させるつもりなのだろうか。それは過去7千万年のあいだに私が聞いた出来事の中で最も馬鹿げたことだ。われわれの絶滅には少なくとも小惑星の直撃があった。では君たちの言い訳は何なんだ?(中略)化石燃料への莫大な公的助成金などは愚かなことだ。絶滅を選んではいけない!手遅れになる前に種を救え!今こそ言い訳をやめて、変わりはじめる時だ」
 演説が終わると人々は立ち上がって拍手喝采となり、最後に「It’s now or never(今やるか、やらないか)」のテロップが流れる。
 実際、COP26というぐらいだから、地球温暖化への危機感から国際会議が最初に開かれて早や26年目ということになる。しかし世界のエネルギー起源の温室効果ガス排出量は1990年の231億トンから、2019年には376億トンとこの30年間に約63%も増えているのだから、絶滅経験者の恐竜があきれてアドバイスしたくなったのも頷ける。
 そのCOP26の最終日、議長国イギリスは成果文書の中にパリ協定で合意した産業革命前からの気温上昇を1.5℃に抑える決意は盛り込んだが、肝心の石炭火力は「段階的廃止」ではなく「段階的削減」と後退。また各国が表明した温室効果ガス排出実質ゼロの期限もたんなる努力目標に過ぎず順守される見込みは薄いうえ、仮に完遂されても1.5℃への抑制はできないことがわかっているのだから、そもそもが自己欺瞞的な仮説と経済成長への妄執で覆われたバブルの中で行われる国際会議なのだ。おまけに会議の往復に4万人もが航空機などを使って膨大な量の二酸化炭素を余計に排出しているジレンマ!
 そんな迂遠な議論に終始する会議を予想しての恐竜の演説だったわけだが、それでも所詮はコンピュータグラフィックスの恐竜、各国の参加者もフムフムと感心しながら観たにちがいない。しかし、小柄なスウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリがグラスゴーでCOP26をこうこき下ろした演説からは目を背けた(あるいは見て見ぬふりをした)のではあるまいか。
 「COP26が失敗なのは秘密でもなんでもない。いまの状況をつくり出した同じ方法で危機を解決できないのは明らかだ。その事実を理解しはじめている人は次第に増えている。何が権力者たちを目覚めさせるのかを多くの人々自問している。でも彼ら権力者は気づいている。自分たちが何をしているのかを明確に知っている」「COPはもはや気候変動対策会議ではない。いまや北半球のグリーンウォッシュ(見せかけのだけの環境対策=環境を意味する「グリーン」と偽装や見せかけを意味する「ホワイトウォッシュ」からつくった造語)の祭典だ。2週間続けられるいつものくだらないおざなりの演説のオンパレード。最も影響を受ける地域の最も影響を受ける人々の声は聞かれない。未来世代の声はグリーンウォッシュと、空虚な言葉と約束の中に溺れている」「しかし事実は嘘をつかない。私たちは王様が裸であることを知っている。パリ協定の目標を達成するためには、人間のコントロールを超えて不可逆的なチェーンリアクションが始まるリスクを最小限に抑えなければならない。そのためには、世界がまだ見たことのないような抜本的な温室効果ガス排出量の削減がすぐに必要だ」
 グレタはまた、近年さかんに喧伝される「カーボン・オフセット」についても「シェルとBP、スタンダードチャータード銀行はグラスゴーでカーボン・オフセットの規模を拡大し、汚染者に汚染を続けさせるためのフリーパスを与えようとしている」「オフセットは人権侵害のリスクがあり、すでに弱い立場にあるコミュニティを傷つけてしまう。オフセットはしばしば偽善であり、COP26ではそれが渦巻いている」と鋭く衝く。これは、企業などが削減できない分を植林・再生エネルギー事業などへの投資や他の国・地域で削減された排出量をクレジットという形で購入して埋め合わせできるという仕組みのことで、日本を含めた先進国ではすでに行われており、排出権取引市場も存在する。
 実際に環境保護団体「グローバル・ウィットネス」によると、COP26にどの国よりも代表を多く送り込んだのは化石燃料産業(503人)であり、かれらは石油・ガス産業のロビー活動を請け負った人々で、中でも最大級の103人を送り込んだのはシェル、BPなど石油メジャーの業界団体である国際排出量取引協会(IETA)だったと公表している。表向きはともかく、かれらが参加した本当の目的はいかに供給量を減らさず現状維持させ利益を確保するかなのだ。
 さて、さらに問題はわが日本である。
 岸田首相は意気揚々とCOP26で演説をしたが、残念ながら昨年に続く2年連続の「化石賞」受賞と相成った。これはCAN(気候変動ネットワーク)が地球温暖化対策に後ろ向きな国に贈る不名誉な賞で、脱石炭がCOP26の優先目標なのに首相が石炭火力発電を2030年以降も続ける意思を示したことをその理由とした。「石炭火力のゼロエミッション化を進める」との言説もその非現実性を軽く見抜かれた格好で、日本政府の無責任さと危機意識の無さを白日の下にする結果となった。ちなみにドイツの環境シンクタンク「ジャーマンウオッチ」などの研究チームは11月11日、世界の61の国・地域の中で日本の温暖化対策レベルは中国(37位)より下の45位だったと発表している。
 日本の温室効果ガス排出量は中国、アメリカ、インド、ロシアに次ぐ堂々の世界第5位である。資源のない小国がカネにあかせて化石燃料を海外から大量に買い漁り、それをせっせと燃やしてこれだけ地球環境を劣化させているのだ。しかし政府も企業も温暖化対策に後ろ向きで、せいぜいがスーパーのレジ袋やプラスチック・ストローをやめるとか、遊び半分のSDGsキャンペーンなどのママゴトレベル。そんな状況を日本人自身が大して問題とも思ってないことは、先の衆議院選挙でまったく争点にならなかったことでもわかる。また政府は温室効果ガス排出量を2030年度までに13年度比で46%削減すると大見得を切ったが、これは当時の “ポエム”小泉進次郎環境大臣がTVインタビューでのたまわった「おぼろげながら頭に浮かんできた」数字をそのまま出したまでで、誰も達成できるなんて思っていない。日本はまさに「化石賞」に相応しい、世界に冠たる恥ずべきグリーンウォッシュ大国なのである。
 ところで、COP26を糾弾するグレタの姿を見ながら、わたしはもうひとりの女性のことを思いおこしていた。『沈黙の春(Silent Spring)』の著者、レイチェル・カーソンだ。
 1907年にアメリカの工業都市ピッツバーグ近郊の篤農家の娘として生まれたレイチェルは長じて生物学者となり、文筆家としても名を馳せるようになる。そんな彼女のもとに1958年、友人から一通の手紙が届く。役所が殺虫剤DDTを空中散布した後に、彼女の庭にやってきたコマツグミが次々と死んでしまった、という内容だった。レイチェルはこの手紙をきっかけに4年に及ぶ歳月をかけ、のちに「歴史を変えることができた数少ない本の1冊」と称されることになる名著『沈黙の春』を著す。途中でがんに冒され余命いくばくもない中、膨大な資料に埋もれつつ執念で書き上げたものだった。
 同書はたちまちベストセラーとなったが保守系政治家や化学企業関係者からの心ない批判にも晒され、出版の2年後に彼女は亡くなる。この一冊はしかし人々に環境問題への意識を芽生えさせ、世界中で農薬使用を制限する法律制定を促してゆく。一女性科学者がたったひとりで巨大権力に立ち向かい、社会をおおきく変えたのだ。
 グレタも、最初は15歳の時のたったひとりの座り込みストライキだった。それがいまでは世界の若者たちを糾合し、いっこうに本気にならない地球温暖化の元凶である先進国やその指導者、企業トップらに圧力をかけ続ける。若者らを突き動かしているのは、自分たちの未来をお前らに潰されてたまるか、という至極まっとうな怒りなのだ。
 それにしても、『沈黙の春』からグレタに至るわずか50〜60年の間の地球環境劣化のスケールとスピードの凄まじさはどうだろう。科学がそう遠くない将来の人類絶滅をも予測するほどになったということは、わずか18歳のグレタの使命がレイチェルのそれをはるかに凌ぐ緊急性と重要性を帯びたことになろう。
 地球はおそらく全宇宙でたったひとつ、奇跡的なバランスによって生物が生息するに至った天体だ。しかしひとたび温暖化のチェーンリアクション(連鎖反応)がはじまればそのバランスが崩れ、もはや人間の手には負えなくなる。われわれの責任はとてつもなく重い。

 Text by Shuhei Matsuoka
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2021年09月28日

浅井忠の明治

 明治3年に土佐藩が送り出した英国留学生5人の中に、のちの民権家馬場辰猪のほか明治洋画界の草分けとなる国沢新九郎(明治10年死去)がいた。国沢は法律の勉強を命じられていたが、画家に転向して明治7年に帰国、東京麹町平河町に洋画塾「彰技堂」を開いて人気を博すようになる。このあたらしい画塾に、佐倉藩出身の20歳の聡明な若者が入塾する。のちの洋画家浅井忠(ちゅう)(1856〜1907)である。
 夏目漱石の『三四郎』に、美禰子と三四郎が絵画の展覧会「丹青会」に行く有名なくだりがある。画家の原口が三四郎に「深見さんの水彩は普通の水彩の積りで見ちゃ不可ませんよ。何処までも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、中々面白い所が出て来ます」と言い残して野々宮と出て行き、次のように続く。
 <細長い壁に一列に懸っている深見先生の遺画を見ると、なるほど原口さんの注意した如く殆んど水彩ばかりである。三四郎が著るしく感じたのは、その水彩の色が、どれもこれも薄くて、数が少くって、対照に乏しくって、日向(ひなた)へでも出さないと引き立たないと思う程地味に描いてあるという事である。その代り筆が些(ちっ)とも滞っていない。殆んど一気呵(か)成(せい)に仕上げた趣がある。絵の具の下に鉛筆の輪郭(りんかく)が明かに透いて見えるのでも、洒落(しゃらく)な画風がわかる。>
 丹青会とは、明治41年に上野で開催された太平洋画会第6回展のことで、ここで深見先生こと浅井忠の回顧展が開催されていた。浅井はこの展覧会の前年、明治40年に京都で51歳で亡くなっている。
 夏目漱石はひと回り年配の洋画家浅井忠を畏敬してやまなかった。上の『三四郎』の文章からも、浅井の絵の質の高さを世に知らしめる意図が窺えるし、『それから』にも「湯呑には、京都の浅井黙語の模様画が染め付けてあった」と浅井を登場させているほどだ(「黙語」は浅井の号)。
 漱石は明治33年10月に英国留学の途上パリに立ち寄り、ひと足先に同地に44歳という遅い留学をしていた浅井を訪ねている。浅井は明治29年に東京・上根岸に居を構えたことで近くに住むジャーナリストの陸羯(くがかつ)南(なん)や正岡子規と交流を深め、子規庵にも出入りするようになっていた。漱石はその子規の紹介で、パリの浅井を訪ねたのである。このときの出会いがふたりの初対面らしく、よほど気が合ったのか2年後の明治35年には日本への帰国途上の浅井がロンドンの漱石を訪ね、下宿に4日間も滞在しているのである。
 漱石は浅井没後、明治41年の講演で次のように回想している。
 「私が先年倫敦に居った時、此間亡くなった浅井先生と市中を歩いたのであります。其時浅井先生はどこの町へ出てもどの建物を見てもあれは好い色だ、これは好い色だと、とうとう家へ帰る迄色尽しで御仕舞いになりました。流石画伯だけあって、違ったものだ、先生は色で世界が出来上がってると考えてるんだと大いに悟りました」
 わかいころ建築家志望だった漱石は、留学時代から美術工芸誌「The Studio」を定期購読するほどの美術好きで、かれの芸術観の基層には当時欧州を席巻していたアーツ・アンド・クラフツ運動やアール・ヌーヴォーの影響、そして洋画家浅井忠の存在がどっしりと盤踞(ばんきょ)していたはずである。
 また子規が「写生」に目覚めるのも浅井忠との出会いによる。浅井はわかい弟子の中村不折(ふせつ)(画家・書家)を子規に紹介し、その不折をして浅井が師フォンタネージから学んだ絵画技法である写生の本質を子規に伝授せしめ、子規はそれを俳句や短歌にも応用するようになる。漱石の『吾輩は猫である』初版本の上巻挿画を不折、中・下巻を浅井が描いていることからも漱石・子規と画家の浅井・不折の親密さが見てとれるだろう。
 さて浅井の洋行が決まってのち、明治33年1月16日に陸、子規のほか画家や俳人など10人ほどが集まり子規庵で送別会が開かれた。長身で端正な風貌の浅井をいつも「先生」と呼び尊敬してやまなかった子規であったが、病の悪化で死を覚悟していたかれはそのとき「先生のお留守さむしや上根岸」の句を詠み、もう会えぬかもしれぬ浅井を哀惜したのである。しかしさいわいにも浅井は帰国後、開校予定の京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)の教授として京都へ移住する前に子規を見舞うことができたのだ。このわずか3週間後に子規は亡くなる。
 浅井は子規没後、ホトトギスの子規追悼集に「子規居士弄丹青図」を描いて子規を哀悼している。サラサラと鉛筆で描いたような戯画風の絵で、縁側のほうにころがる3個の柿と鉢植えの花を写生しているのだろうか、無精ひげの子規が床に横になったまま絵を描いている。生前の子規の特徴をよくとらえた愛情あふれる絵だ。
 このように明治の文化人たちにおおきな影響を与えた“日本近代洋画の父”浅井忠はしかし没後、薩摩出身で11歳年少の黒田清輝(せいき)の陰に隠れてしまい、作品のレベルのみならずその先駆的業績すら過小評価されてきた感がある。浅井の生きた明治という時代は、社会のあらゆる分野が薩長土肥、なかんずく薩長二藩の下級武士たちによる「薩長に非ずんば人に非ず」と云われるほどに強力な藩閥政治の只中にあり、絵画芸術もむろんその埒外にはなかったのだ。
 浅井忠は、江戸東方の要衝であった下総の佐倉藩(現千葉県佐倉市)出身である。同藩は幕末、英邁な藩主堀田正陸(まさよし)(のち幕府老中首座)が江戸の蘭方医佐藤泰然を招き、大坂の適塾と並び称される高名な蘭学塾「順天堂」(現順天堂大学の前身)を創設するなど学問分野におおくの俊才―思想家の西村茂樹、外交官の林董(ただす)、医者の松本良順、農学者の津田仙(せん)など―を輩出したことで知られるが、戊辰戦争で新政府軍の前にやむなく恭順、禄高三百石の藩士の長男であった浅井忠之丞(のちに忠と改名)は朝敵の子、負け組として冷や飯を食うことになるのだ。
 一方、勝ち組である薩摩の子爵の養子として何不自由なく育った黒田清輝は、明治17年に弱冠18歳でフランスに留学する。もともとは政治家を目指し法律を学ぶ予定だったが、土佐の国沢新九郎同様に絵画に興味が移り転向する。この10年間にもわたる優雅な留学生活が、黒田におおきな僥倖をもたらすことになる。
 黒田の洋行中、国内では岡倉天心とフェノロサによる洋画排斥運動が燃えさかり、洋画家たちは死に体も同然になっていたのだ。展覧会での洋画展示も禁止され、明治22年に開校された東京美術学校(学長は岡倉天心)にも西洋画科は設置されないという逆風下、洋画家のリーダー格であった浅井は日本初の美術団体「明治美術会」を創設して必死に踏ん張っていた。そんな矢先の明治26年7月、薩閥のプリンス黒田清輝が帰国する。
 黒田の帰国は浅井ら洋画家に朗報と思われたが、黒田は帰国の3年後に明治美術会と袂を分かって新グループ「白馬会」を創設し、その翌月に天心は東京美術学校長を罷免され同校に西洋画科が設置されると同時に黒田が教授に就任、洋画界は政治に翻弄されつつ内部分裂してゆく。印象派風の明るい絵を描く白馬会の画家らは外光派・紫派と呼ばれてもてはやされ、浅井らは脂(やに)派・旧派と揶揄されるようになるのだ。日本の美術界はすでに黒田清輝を中心に回りはじめていたのである。
 そんな流派同士の不毛な争いにほとほと嫌気がさしていた浅井に突然、文部省からパリ万博の監査官任命と2年間のフランス留学の命が下る。浅井は渡りに船とばかりに翌年の明治33年に渡欧、帰国後は東京美術学校教授を辞して京都に赴き、京都高等工芸学校開校と同時に教授として図案科で美術やデザインを教え、聖護院洋画研究所のちに関西美術院を創設して後進の指導を行うようになる。派閥争いにうつつをぬかす東京の美術界をよそに、浅井は京都で悠然と油絵、水彩画、陶芸のほか洒脱なデザイン画を描き、のちの日本画壇を代表する梅原龍三郎、安井曾太郎、津田青楓らを育ててゆくのである。
 だが残念なことに、そんな生活も永くは続かなかった。
 京都に移住してわずか5年後の明治40年暮れ、美術・工芸の革新を目指した天性の芸術家は、時代の波に翻弄されながら51年の生涯を古都の地で閉じるのである。死の間際まで関西美術院と京都高等工芸学校の学生らを気にかけ、「どうか美術院も学校も宜しく頼む」と言い遺したという。
 実を云うと、わたしはその旧京都高等工芸学校、現在の京都工芸繊維大学の建築工芸学科卒である。同科は昔の図案科であるから、不肖ながらわたしは浅井忠の遥か遠い弟子ということになる。そう勝手に決めこんで、最近はヘタな素描や水彩画をはじめている。お手本は云うまでもなく、浅井黙語先生である。

Text by Shuhei Matsuoka
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2021年06月28日

災禍の根源にあるもの

 先月5月5日の「こどもの日」に掲載された、子どもの貧困化に関する新聞記事を読みながら、暗澹たる気持ちになった。
 「世界の子ども貧困7億人」「コロナ禍 所得減直撃」「格差拡大 民間頼り限界」などの見出しが並ぶその特集記事は、21世紀初頭からのグローバル経済の進展に伴って世界の貧富差は急速に拡大しており、終息の見えないコロナ禍がそれを大きく加速させて世界中の子どもたちを直撃しているという内容である。災禍というものはいつの時代も、いちばん弱い者に襲いかかる。
 記事によると、ユニセフと世銀の推計で2017年の世界の子どもの6人に1人に当たる3億5600万人が1日1.9ドル(約210円)以下で生活する極貧状態にあり、これが19年には5億8200万人、20年末には7億2500万人にまで増えているという。なんと直近3年間で食べることもままならぬ子どもの数が倍以上に急増しているのだ。大人と違って子どもの貧困は心身の成長に甚大な危害をもたらし、その影響は生涯にわたり続くといわれる。
 むろんこの惨状はアフリカ、南アジア、中南米などの発展途上国だけの現象ではない。日本の「子どもの貧困率」(中間的な所得の半分に満たない世帯で暮らす18歳未満の割合)はリーマンショック後の2012年には16.3%という異常な高さとなり、「子ども食堂」という聞きなれない民間施設がこの年に誕生した。見るに見かねた大人たちが地域の子どもたちに無償で食事を提供し始めたのだが、これは行政に見捨てられた子どもたちの“駆け込み寺”となり、年々増えつづけて19年の調査では全国3718か所にものぼっている。いつの間に日本はこんな国になったのかと嘆息するほかないが、このたびのコロナ禍により子ども食堂も感染対策で活動制限せざるを得ず、事態は悪化の一途をたどっている。
 その一方、アメリカに本拠を置く巨大IT企業GAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)はこれまでにも増して大きく業績を伸ばし、莫大な利益を上げていることが報じられて人びとを驚嘆させている。これは世界的な子どもの貧困化とはまさに好対照をなす実に象徴的な出来事だ。
 とはいえ表面的にはこれらの巨大IT企業が不正を働いて暴利をむさぼっているわけではないし、上に挙げた子どもの貧困化とも直接かかわりはないように見える。コロナウイルスの流行により地球上のほぼすべての国で人びとの活動が制限され、皆が家に籠ってパソコンやスマホでネットショッピングやゲームに没入していることがGAFAにとっておおきなビジネスチャンスになったというのが一般的な見方だ。                   
 だが、果たして本質はそんなに単純なことなのか。
 ここで、1995年に世を去ったドイツ人作家ミヒャエル・エンデの代表作『モモ』の話をしたい。『モモ』(岩波書店)は日本だけでも340万部以上の発行部数を誇る世界的ロングセラーで、こんなストーリーである。
 主人公は廃墟の円形劇場に住む、粗末な身なりの孤児の少女モモ。彼女は人の話を聴く能力に長け、そのために彼女の周りには道路掃除夫ペッポや観光ガイドのジジら街の大人や子どもがいつも集まって穏やかに暮していた。そこにある日、「時間貯蓄銀行」から来た外交員「灰色の男たち」が姿を見せ始め、人びとに「時間を節約し、銀行に預ければ、利子によって何倍もの時間が得られる」と勧誘するようになる。時間を預けて、無駄遣いしないようひたすら効率的な生活をするようになった街の人びとはどんどん不機嫌になり、ついには生きる喜びを失っていく。「灰色の男たち」は世界中の余分な時間を独占しようとしていたのだ。それを知ったモモは「時間どろぼう」に盗まれた人びとの時間を取りもどすために、不思議なカメ・カシオペイアとともに戦いに乗りだしてゆく―。
 この物語は、「時間」というものの大切さと生きることの意味を問うファンタジーだが、実は本意はもっと根源的なところにある。エンデがこの作品で「時間」に仮託したのは、現代社会を覆う極端な貧富差やとどまるところを知らぬ環境破壊など地球上の諸悪の根源にあるのが、「お金」の問題であるというテーゼなのだ。
 『エンデの遺言―根源からお金を問うこと―』(NHK出版)でエンデは、現代社会は「お金」の病に罹(かか)っていると指摘する。
 「どう考えてもおかしいのは資本主義体制下の金融システムではないでしょうか。人間が生きていくことのすべて、つまり個人の価値観から世界像まで、経済活動と結びつかないものはありません。問題の根源はお金にあるのです」
 あらゆる「物」は時間の経過とともに古びて価値は減っていくが、「お金」だけは価値が減らないどころか利子を生んで増えていく。現在の金融システムと貨幣制度こそ、利が利を生む現代の錬金術であり、お金(投機マネー)が生み出す膨大な利子によって世界中の弱者や貧者から資産家に所得移転される仕組みなのである。『モモ』の中の「灰色の男たち」とは、この不正な貨幣システムの受益者のことなのだ。
 われわれは家や車をローンで買ったときだけ利子を払っているのではない。企業は銀行から資金を借り、利子を加えてそれを返している。その利子分は企業の販売する商品やサービスの価格に上乗せされる。もしその価格から利子分がなくなると物やサービスの値段は3割ほども安くなり、庶民の所得はいまの2倍にもなるといわれる。つまりこの貨幣システムによりわれわれは自動的に収奪され、貧者はますます貧しくなり、その分、受益者(先進国及び資産家)はますます肥え太っていく仕組みになっているのだ。
 わたしはかつて本コラムで、世界の大富豪上位8人の総資産が、世界人口のうち所得の低い半分に相当する36億人の総資産と同額であるという驚くべきニュースを取り上げたことがあった。この富豪のうち6人はGAFAのアマゾン創業者ジェフ・ベゾス、フェイスブック創業者マーク・ザッカーバーグ、そしてマイクロソフトの創業者ビル・ゲイツなどのアメリカ人であり、そのアメリカは1%の人間がその他の99%よりも多くを所有しているといわれるほどの極端な格差社会だ。そして同時に、アメリカのような先進国は毎日、莫大な利子を第三世界から自動的に奪っているのである。
 そしてさらに深刻な問題がある。『エンデの遺言』の中でかれは、お金にまつわる象徴的な例として、スイスの経済学者ビンズヴァンガーの著書からこんな実話を引いている。
 <ロシアのバイカル湖の湖畔に暮らす漁民たちは紙幣というものがその地方に導入されるまではよい生活を送っていた。毎日売れるだけの量を獲っていたのだが、今ではバイカル湖の魚は最後の一匹まで獲りつくされてしまった。それは、ある日紙幣が入ってきたからだ。紙幣と一緒に銀行ローンもやってきて、漁師たちは競ってローンで大きな船を買い、より効果的な漁法を採用し、冷凍倉庫を建て、獲った魚は遠くまで運搬できるようになった。すると対岸の漁師も負けじとさらに大きな船を買い、大量に魚を獲り始めた。ローンを利子付きで返すためにもそうせざるを得なかったのだ。その結果、湖に魚がいなくなってしまった。>
 金融・貨幣システムが人心を荒廃させるだけでなく、地球資源がとめどなく収奪され、自然環境が破壊され続ける現実の深刻さ。エンデは「わたしたちは短期的利潤のためにおのれの畑を荒らし、土壌を不毛にしている農夫と同じだ」と断じ、パン屋でパンを買うときに払うお金と、株式取引所で扱われる資本としてのお金が同じであってはならないと主張する。錬金術によってグロテスクに自己増殖する膨大な資本の成長は無から生ずるものではなく、どこかの誰かが犠牲になり、自然が犠牲になっているからだ。
 「貨幣を実際になされた労働や物的価値の等価代償として取り戻すためには、いまの貨幣システムの何を変えるべきなのか、ということです。これは人類がこの惑星で今後も生存できるかどうかを決める決定的な問いであると、わたしは思っています」「人々はお金は変えられないと考えていますが、そうではありません。お金は変えられます。人間がつくったものですから」(同)
 『モモ』は、盗まれた時間をモモが取り戻してハッピーエンドで終る。だがモモのいない現実社会は残酷だ。コロナ禍で追いつめられる大勢の貧しい子どもたちと、それをビジネスチャンスに天文学的な利益を上げるGAFAの存在がなによりも雄弁に物語る。そしてこのふたつの象徴的な現象には、あきらかな因果関係がある。そこに目をつぶらず、叡智をあつめて本気で踏み込まぬかぎり、SDGsや脱炭素などの緩い弥縫(びほう)策をいくら繰り出しても、残念ながら本質的な問題解決になりはしないだろう。

Text by Shuhei Matsuoka
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2021年03月25日

卑に非(あら)ず

 10年ほど前、事務所として借りていたマンションから実家の一角にある亡父の書庫に引っ越すことを思い立ち、不要なガラクタ類を処分してデスク、パソコン、ソファなどを設(しつら)えて現在に至るまで使用している。父のかなりの量の蔵書(岳父とわたし自身のものも含まれるが)に日々囲まれているわけだ。
 わたしの父は知る人ぞ知る変り者だったが、残された本を見ていると人格形成の過程がなんとなくわかる気がして面白く、何より本コラムのような原稿を書くうえでそれらの蔵書がどれだけ役に立っているか知れない。いまでは入手できない本も少なくないからだ。
 地声がおおきく喜怒哀楽の激しい典型的な“高知のおんちゃん”であった本好きの父が鬼籍に入ったのはいまから16年前である。葬儀の前夜、喪主であった当時48歳のわたしは参列者を前にどのような挨拶をしようかとあれこれ思いあぐねていた。そう長くはしゃべれないので、ごく簡潔に父の人となりを表現できる言葉はないものか。
 そしてふと浮かんだのが、「粗(そ)にして野(や)だが卑(ひ)ではない」というフレーズだった。まさにぴったりだと思ったのだ。
 これは『粗にして野だが卑ではない−石田禮助の生涯−』(城山三郎著、文芸春秋)からの引用で、戦前に三井物産で華々しい業績をあげて代表取締役社長にまで栄進し、戦後77歳で第5代国鉄総裁に就任して経営合理化と機構改革に取り組んだ石田禮助が国会で大勢の国会議員たちを前に言った言葉である。
 父の葬儀の日は激しい雨であった。出棺を前にしてわたしは、雨の中をわざわざ足を運んでくださった参列者へのお礼と父の一生を簡単に述べたあと、次のように続けた。
 「父は社会的な地位や名誉にも、お金にもまったく縁のない男でした。しかし、何者からも自由であり、また思うがまま生きた男でした。幸せな一生だったと思います。そして父の人となりを考えたとき、ある言葉が頭に浮かんできます。それは、<粗にして野だが卑ではない>という言葉です」
 しゃべり言葉でこれを言うと相手に意味がわかりにくいので、「粗」「野」「卑」の漢字を想起してもらう説明を加え、石田禮助のことを添えて話したことだった。はたして参列者にきちんと伝わったかどうか心もとなかったが、あとで家内から「理解できたよ」と言われ、すこし安心したことを思い出す。
 さて、「粗にして野だが卑ではない」という痛快な言葉を吐いた石田禮助(1886〜1978)とはいかなる人物であったか。
 戦後の米軍占領下、昭和24年に設立された日本国有鉄道(国鉄)は当初から問題山積で誰が総裁になっても経営困難と思われていた。初代総裁の下山定則は謎の轢死体となり、第2代の加賀山之雄は桜木町事故の責任をとらされて辞任、第4代の十河(そごう)信二は三河島事故があり、また新幹線予算問題で2期目の任期を全うできず辞職に追い込まれている。当時の国鉄は事故も多く労働争議も苛烈を極めていたのだ。
 時の総理、池田勇人は次の総裁にはなんとしても民間から財界人を起用して経営合理化に取り組みたいと考え、経団連会長・石坂泰三に人選を依頼した。池田のライバルだった佐藤栄作の国鉄への影響力を殺(そ)ぐ意図もあったようだ。
 だがそもそも石坂自身が初代総裁就任を現役の身だからと断り、小林一三なども「何ひとつ権限のない仕事をやらせる気か」と撥(は)ねつけ、けっきょく運輸次官だった下山が総裁になった経緯もあるほどで、石坂は次の総裁人選にあたり松下幸之助や王子製紙の中島慶次などからも断られ、困り果てて最後にダメ元で親友の石田禮助を頼ったのである。石田は当時、十河からたのまれ国鉄の監査委員長をしており内情に詳しいこともあった。
 だが、石田が「乃公(だいこう)出でずんば」とばかりこれをすんなり受けたことに当の石坂が逆に驚いた。どう考えても、功成り名を遂げた財界人なら誰もがやりたがらない晩節を汚しかねない大仕事なのだ。おまけに77歳という高齢である。
 石田は高橋圭三との対談で言っている。
 「あれら(断った財界人ら)は一国一城の主で、安定してらぁ。(笑)こんなところにノコノコ入ってくるのは、ちょっと狂い気味だね。(笑)またそういうのをひっぱってきたって、わかりゃせんわ」
 アメリカを中心に海外生活28年、辣腕の商社マンとして商売に徹した半生を過ごしたかれにとって、晩年には金儲けとは無縁のパブリック・サービスに奉仕したいという思いが強かった。総裁就任についても「パスポート・フォア・ヘブン(天国への旅券)だ」と言い、総裁報酬は年1本のブランデーのみとして金銭を受けとらなかった。いやそれどころか、池田総理から勲一等叙勲の申し入れがあったときも、「おれはマンキー(山猿)だよ。マンキーが勲章下げた姿見られるか。見られやせんよ、キミ」と一笑に付して辞退している。「役人ごときに人物評価され、おまけに順位をつけられるいわれはない」と叙勲を辞退する人物もいるにはいるが、このあっけらかんは見事のひと言だ。
 昭和38年、第5代国鉄総裁就任にあたり、石田は慣例によって国会で挨拶をすることになった。国鉄は国が100%の株式を持つ国有公社なので、国会は株主総会のようなものだ。
 ところが、まっすぐ背を伸ばした長身の石田はそこで開口一番、「諸君!」とやって、ふだん周りから「先生」と呼ばれる代議士たちを面食らわせた。そして「わたしは嘘は絶対につきませんが、知らぬことは知らぬと言うから、どうかご勘弁を」と述べたあと、「生来、粗にして野だが卑ではないつもり。丁寧な言葉を使おうと思っても、生まれつきでできない。無理に使うと、マンキーが裃(かみしも)を着たような、おかしなことになる。無礼なことがあれば、よろしくお許し願いたい」とまったく異例の、というより痛快無比な挨拶をし、そしてとどめに「国鉄が今日のような状態になったのは、諸君たちにも責任がある」と言い放ったのだ。議場はざわつき、代議士たちから怒りの声が上がったのは云うまでもない。「なんだ、この無礼な爺さんは!」というわけだ。
 就任後の石田はまさに矍鑠(かくしゃく)として6年間にわたり国鉄改革に力を尽くし、社内に企業精神を植えつけて引退した。引退後は一農園主として国府津(こうづ)(神奈川県)に隠棲、92歳の天寿を全うした。最後の言葉は、「今年の稲はどうだ」だった。葬儀は国府津の自宅で行われ、参列者もすくなくきわめて簡素であったという。
 石田は生前、「葬式なぞは簡素にするものだ」と言い、自分の葬儀についても口酸っぱく妻に言い含めていた。曰く「死亡通知を出す必要はない」「物産や国鉄が社葬にしようと言ってくるかも知れぬが、おれは現職ではない。彼等の費用をつかうなんて、もってのほか。葬式は家族だけで営め」「香典や花輪は一切断われ」「戒名はなくてもいい。天国で戒名がないからといって差別されることもないだろう」「葬式が終わった後、内々で済ませましたとの通知だけ出せ」等々。これを妻は忠実に守った。
 この遺言は、95歳で世を去った石田よりすこし先輩の「電力の鬼」松永安左エ門を思い起こさせる。「官吏は人間のクズである」と公言して憚らなかった自由主義者で、一貫して野にあり、いまの民営9電力体制を創り上げた男だ。この爺さんの遺言状もすごい。
 <何度も申し置く通り、死後一切の葬儀・法要はうずくの出るほど嫌いに是れあり。墓碑一切、法要一切が不要。線香類も嫌い。死んで勲章位階(もとより誰もくれまいが友人の政治家が勘違いで尽力する不心得、かたく禁物)これはヘドが出る程嫌いに候。財産はセガレおよび遺族に一切くれてはいかぬ。彼らがダラクするだけです。…>
 松永も石田に負けず劣らず、「粗にして野だが卑ではない」男であったが、明治生まれの傑物はやはりケタが違う。それを思えば、いまの政財官界でふんぞり返る連中がいかに小者で、そして何よりいかに卑なることか。
 ところで、父の書庫を事務所にすべく蔵書を整理したところ、石田の著書『いいたいほうだい』(日本経済新聞社)、さらに城山三郎の『粗にして野だが卑ではない』も発見した。そうか父も読んでいたかと感慨深いものがあったが、息子が自分の葬儀でそれを引用するとは想像もしなかったろう。
 いまにしてみれば石田禮助の名言をわが父の葬儀で使ったのはいささか“子の欲目”であったが、父を知る参列者にはそれなりに納得してもらえたはずである。そして何より、「かく云うおぬしはどうか」と自問自戒する機縁になったことに意味はあったと思っている。

 Text by Shuhei Matsuoka
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2020年12月29日

小菅と菅

 藤沢周平(1927〜1997)の小説をはじめて読んだのは25年ほど前だと思う。記憶はあまり定かではないが、週刊誌の記者をしていたころ、藤沢ファンの記者仲間が作品の魅力を熱っぽく語る姿にほだされてのことだった気がする。バブル経済が弾けたあと不況が長く続き、どちらかといえば地味なこの作家に静かな人気が出はじめていたころだ。
 最初に読んだのは、『蝉しぐれ』だった。かれの多くの作品に登場する北国の小藩「海坂(うなさか)藩」(庄内藩をモデルとした架空の藩)を舞台とした青春小説で、その清冽な文体や爽やかな読後感とともに牧文四郎という主人公の名はいまも記憶に残っている。
 わたしはそれまで時代小説をほとんど読まなかったが、気に入ってその後も短編集などを含め何冊か読んだのだった。だが、いつの間にか史実に材をとった歴史小説の方を耽読する癖がついてしまい、ある時期からすっかりご無沙汰してしまっていた。世の藤沢周平ファンからすればお恥ずかしいほどの読者にとどまっていたのである。
 しかし最近、齢とともに閑(ひま)がふえ、老後の愉しみに残しておいた−ということにしておく−山本周五郎や藤沢周平をふたたび読みはじめたのだが、じつは藤沢周平という作家は、まったく個人的な理由から、わたしにとってかなり以前から気になる存在だったのだ。
 もうお気づきの方もいるだろう、わたしたちは名前が同じなのだ。「なんだそんなことか」といわれそうだが、本人にとっては案外大事なことで、読者でなくても淡いシンパシーは感じていたのだ。わたしの名は本名で、藤沢周平のそれはむろんペンネームだが、それでもありふれた名前ではないため同胞意識を勝手に抱いていた。
 藤沢周平の本名は小菅留治という。「こすげ とめじ」と読む。かなり田舎臭い名前だが、山形県庄内地方の米農家の次男と聞けばうなずけよう。戦後作家で農家出身というのはかなり珍しいのではないかと思うが、その出自は目立つことが嫌いで物静かなかれの性格や端正な佇まいだけでなく作品の中にも深く投影されており、主に江戸時代を舞台にした作品群に尋常ならざるリアリティを与えている。奇をてらわぬ平明で美しい文体と鮮やかな自然描写、世渡り下手だが一本筋の通った人物設定など、その傍証は挙げればきりがない。
 評論家の川本三郎は、『藤沢周平のすべて』(文春文庫)の中でこう述べている。
<庄内平野の農家に生まれ育った藤沢周平は太陽と共に起き、野良で「働いている」農民たちの暮らしを身近に見ていた。その健康さを愛し、自らも好んで田圃に入った。
 随筆『半生の記』のなかでこんなことを書いている。「私は師範生のころも、休暇で家に帰れば時どき田圃に降りたし、教師になってからも農繁期には兄夫婦を手伝って稲を刈った。それは私自身田圃に出て働くことが嫌いでなかったせいでもあるが、より厳密に言えば、長男である兄に対する敬意の気持ちからそうするのだった。兄夫婦が田圃で汗を流しているときに、学生だからと畳にひっくり返って本を読んでいることは出来ない。それがむかしの農家をささえていたモラルだった」。
 皆んなが汗を流しているときに、自分ひとりが、「本」の世界にいることは許されない。藤沢周平の文学の核にあるのは、まぎれもなくこの「むかしの農家をささえていたモラル」である。>
 多くのプロ作家や評論家からも高い評価を得る藤沢周平だが、その作品群を評したものの中でも、東京生まれの川本ならではともいえるこの視点は出色である。
 ちなみにペンネームの由来だが、「藤沢」は結婚のわずか4年後にがんで早世した最初の妻の故郷(山形の一地名)であり、「周」はかれが可愛がっていた妻の甥っ子の名である。生後8ヵ月の娘を残して28歳の若さで世を去らざるを得なかった妻の無念が、かれのその後の人生に大きな暗い影となって残ったことがそのペンネームからも窺い知れる。
 藤沢周平こと小菅留治は、21歳で山形師範学校を卒業して念願だった地元中学校の先生になる。しかしその2年後に肺結核が発見され、地元の病院に入院。そして主治医の勧めで東京・東村山のサナトリウムに移り、死の淵を覗きながら30歳までそこで過ごした。その間に片肺と肋骨5本を切除し、命はとりとめたが教師への復職はかなわず、東京で業界紙記者の職を得て、藤沢出身の女性を妻に迎える。その妻が早世したことは先に述べた通りだ。
 かれが小説を書くようになったのは、文章を書くことが好きだったことはあるが、こういった暗い過去や負い目から逃れるただひとつの手段だったからだ。直木賞を獲ってプロ作家となってからも、永いあいだ深い鬱屈の中にいたことをのちに吐露している。
 さて、小菅留治が山形県東田川郡黄金(こがね)村(現鶴岡市)に生まれてから21年後の昭和23年、留治が山形師範学校に通っていたころだが、直線距離でわずか70キロほど北にある秋田県雄勝郡秋ノ宮村(現湯沢市)に菅義偉(よしひで)が生まれた。戦後のベビーブーマー、いわゆる団塊世代だ。
 小菅(こすげ)と菅(すが)―。似た苗字だが、もちろんふたりはまったくの無関係である。ただ最近、自宅にあった『藤沢周平のすべて』を読みかえしていたとき、「むかしの農家をささえていたモラル」という言葉に感慨をおぼえながら、いっぽうで何かいやなものが頭にひっかかる感じがしたのだ。そのとき脳裏に浮かんだのが、菅義偉だった。
 数々のスキャンダルや新型ウイルス対策の失敗でほとんど死に体だった安倍晋三が持病を理由に首相の座を投げだし、本来はその座に就くはずのない人物が形だけの自民党総裁選を経て禅譲された。“棚ぼた”で首相の座を射止めたその人物、菅義偉が総裁選後の挨拶そして総理就任記者会見で、「秋田の農家の長男として生まれた」という決めゼリフを吐いたときにわたしが感じた違和感と不快感を思い出したのだ。
 菅にとって「秋田の農家の生まれ」はいわば最大の“売り”で、ことあるごとにそのセリフを吐いてきた。内なる権力欲をこの決めゼリフと貧弱な言語能力で覆いかくし、嘘のない質実な人柄だと思わせる効果を狙っているわけだが、じつは菅の父は「秋ノ宮いちご」のブランド化を成功させ町会議員を4期務めた地元では知られた人物で、ふたりの姉は大学に行ったが長男の義偉は高校卒業後、農家を継ぎたくないのと父との確執から田舎を飛び出した、あまり出来のよくない凡庸な青年だった。一時、東京・板橋の段ボール箱製造会社で働いていたが、けっきょくは大学進学を目指し、国立に落ちて法政大学に入学する。アルバイトをしながらではあるが、いわゆる苦学はしていない。
 臆面もなく自己アピールするのが政治家のつねとはいえ、世襲議員や高学歴の官僚出身ではなく東北の農家出身で苦学して大学を卒業した苦労人、という世間受けする人物像を演出し、それを“売り”にするあざとさと抜け目なさ。あまつさえ日本学術会議の推薦した学者6人を政権に楯突く徒として−とは口が裂けても言わないだろうが−恬然として拒否する異常なほどの専横ぶりは、いったいどこから来るのかと思っていたときに読んだのが川本三郎の一文だったのだ。
 菅は官房長官として安倍前首相の影となって隠然と権力を揮(ふる)ってきた。政策に異を唱える官僚は左遷させて忖度官僚ばかりを重用し、かれらを使ってモリ・カケ・サクラという3点セットのスキャンダルを公文書の隠蔽や改ざんまでさせて逃げ切りを図り、NHKなどのメディア、さらには学術界にまでも圧力をかけ忖度させようとする強権ぶり。こんな専横を許せば、保身と栄達にのみひた奔(はし)る卑劣漢が社会の中枢を占めるようになり不正や腐敗が常態化するのは理の当然だが、もっと恐ろしいのは、いつしか国民がそのことを大して悪いこととも思わなくなることだ。
 戦後、機械化により農家の労働は楽になった。しかしそれと軌を一にするように農民の心(精神)も農村も大きく変貌し、「むかしの農家をささえていたモラル」は急速に消え失せていった。図らずもその来歴を白日の下にしたのが、東北の農家出身を“売り”にするベビーブーマー首相・菅義偉の登場である。そして「農家をささえていたモラル」とはつまるところ「日本人をささえていたモラル」そのものだと思い至ったとき、わたしはいまの日本社会の情けない淪落ぶりも納得できたのだった。
 しかしあまり悲観しすぎないでおこう。藤沢周平の作品を読めばいつでも懐かしい日本の美しい原風景や凛としたひとびとに出逢えるという事実に変わりはない。その悦びを奪いさることは、いかな権力者でもできないのだから。(文中敬称略)

Text by Shuhei Matsuoka
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2020年09月29日

災害と微笑

 毎年毎年、よくもまあこれほどの自然災害が起こるものだとあきれる。
 大規模な豪雨災害だけみても九州南部の球磨川流域を中心に全国各地が被災した今年の7月豪雨、昨年の台風19号による東日本豪雨、一昨年の西日本豪雨と続けざまに甚大な被害を出し、被災地域もいまや日本全土に広がりつつある。
 情報過剰社会にどっぷり浸かっているためか、わたしたちの脳は次の情報(刺激)を求めるのに忙しく、繰り返される災害の記憶どころかほんの数週間前のこともすっかり忘れてしまうほどだが、いまやこの国のどこに住もうと、明日はわが身であることを常に自覚して生活しなければいけないことだけは忘れてならないだろう。
 それにしても、気象庁がこのような災害時に「異常気象」「想定を超える大雨」などという言葉をいまだに使っているのは、どうにも解せぬ。かつての異常気象はとっくに常態化し、雨量も大幅に増えているのは誰の目にも明らかなのにいっこうに改める気配もない。この呑気さは事なかれ主義と前例主義のくびきから逃れられない日本の役所に胚胎する非科学性からくるものだろうが、情けないやら腹立たしいやら。
 地球温暖化による気候変動がすでに日本国土の大半を温帯から亜熱帯に不可逆的に移行させていることは、気温上昇や雨量増加、台風の大型化のみならず動植物の分布変化からも明らかで、そのスピードは今後さらに激化する可能性が高い。そのことを国民に科学的エビデンスを示してきちんと警告すべきではないかと、わたしなどは切実におもう。桜の開花予想や天気の予報・警報を出すだけの組織に5千人もの職員は不要である。
 ところで、もともと日本は世界にも類を見ない「災害大国」である。温暖多雨の東アジアモンスーン地帯にあるため南北に長い日本列島がそのまま台風の通り道になっており、4つのプレートが交差する最悪の位置にあるため大地震が頻発する。さらには列島中を無数の活断層が走り、活火山もいたるところに存在する。またいずれの川も短く急流で、上流に大雨が降るとたちまち増水して暴れ川に変貌し、中・下流域を洪水が襲ってくる。このような世界にも冠たる悪条件の上に、地球温暖化による自然の狂暴化がさらに追い打ちをかけているのがいまの日本の姿なのだ。
 そして古(いにしえ)より頻繁に災害に見舞われてきたため、日本人の中には、地球上の他の国や地域にはほとんど見られない独特のエートス(精神)が存在するようになったと考えられる。
 たとえば突然の災害に見舞われたとき、われわれ日本人がじつに特異な表情を見せることに皆さんはお気づきだろうか。これは外国人がよく指摘することでもあるが、地震や洪水のような不幸な災害に遭ったとき、テレビなどで被災者が見せる表情に注意してほしい。苦悩と絶望の中にありながらも、わずかながら微笑を浮かべる場合があることに気づくだろう。諦めや自嘲の表情とともに、ごく自然に表出する微笑。これはいったい何なのか。
 海外においてはまず例外なく、被災者は怒りと絶望の表情で、激しい怨嗟の言葉が口をついて出るか泣き叫ぶだろうし、食料などを求めて市民が暴徒化する場合も少なくない。そんな外国人にとって、日本人の物静かな挙動や表情は理解できないものだろう。それにこんな悲惨な状況下で、こともあろうに微笑を見せるなんて−。
 『逝きし世の面影』(平凡社、第12回和辻哲郎文化賞受賞)という浩瀚(こうかん)な一冊がある。九州・熊本に住む在野の歴史家・渡辺京二氏の代表作で、幕末から明治初期に来日した外国人によって書かれた膨大な日記や手紙、エッセーなどをくまなく渉猟し、異邦人が見た当時の日本の姿から、現代の日本人が喪ったものの意味と価値を再評価する労作だが、そこに、災難に見舞われたときの日本人の不思議な態度に驚いたという記述がいくつも出てくる。一例を引いてみよう。
 明治9年、東京医学校(東大医学部前身)で教鞭をとっていたドイツ人医師のベルツが大火事(約1万戸焼失)に遭遇したときの記録だ。
 「日本人とは驚嘆すべき国民である!今日午後、火災があってから三十六時間たつかたたぬかに、はや現場では、せいぜい板小屋と称すべき程度のものではあるが、千戸以上の家屋が、まるで地から生えたように立ち並んでいる。…女や男や子供たちが三々五々小さい火を囲んですわり、タバコをふかしたりしゃべったりしている。かれらの顔には悲しみの跡形もない。まるで何事もなかったかのように、冗談をいったり笑ったりしている幾多の人々をみた。かき口説く女、寝床をほしがる子供、はっきりと災難に打ちひしがれている男などは、どこにも見当たらない。」
 まったく信じられない、というふうである。
 渡辺は、「この時代の日本人は死や災難を、今日のわれわれからすれば怪しからぬと見えるほど平然と受けとめ、それを茶化すことさえできる人びとだった」と結論し、その後の急速な西洋化によってこの固有の特質は相当に変化してしまったとみる。わたしもその意見に大いに賛同するが、その特質の残滓がいまの日本人の中に残っていなくもないとわたしには思えるのだ。それが、被災時に見せる不思議な表情と微笑である。
 微笑というものは、うれしさの表出だけではない。慈愛と寛容のそれでもある。「モナ・リザ」や赤子に乳を与える母親の表情を想い浮かべればよい。さらには、古より天災に苦しめられてきた日本人ならではの、人智のおよばぬ自然の猛威や運命に抗わぬ諦念と再生・再建への静かな覚悟の表出でもあるに違いない。
 ところで、災害はたしかに悲劇ではあるが、被災期間は一般にごく短いのが普通だ。地震や火事、洪水も台風もそう長く続くことはない。だからこそ、われらが先祖のごとく何事もなかったかのように平然と、笑顔すら見せながらあっという間に再建することが可能だったのだ。
 しかし、いつまで続くか見当もつかぬ災害、それもこのたびのコロナウイルス禍のような姿の見えない災厄に対しては日本人でもそう簡単ではない。無症状者が感染源にもなり、感染した人とそうでない人の区別がつきにくいという厄介さが恐怖と猜疑を煽り、ひとびとの心を次第に蝕んでいく。歪んだ正義感を振りかざして他人を攻撃する“自粛警察”などはその象徴だ。
 このことは、大正12年の関東大震災の直後に起こった陰惨な事件を想起させる。朝鮮人が放火したり井戸に毒を投げ入れているといったデマが流れ、恐怖のあまり罪もない大勢の朝鮮人を無差別に虐殺したのは東京、神奈川、千葉、埼玉などの一般住民によって組織された自警団だった。これは中世ヨーロッパの魔女狩りを彷彿させる、狂気と暗黒の史実である。
 と同時に、わたしの脳裏にはもうひとつの風景が浮かぶ。結核菌が肺や脊髄を腐らせ、体のあちこちに空いた穴から膿となって出る恐ろしい脊椎カリエスに冒されていた正岡子規とかれの友人や後輩たちの姿だ。子規は明治29年から35年に死去するまで東京・根岸で病床にあったが、当時の結核は特効薬がなくひとたび罹れば高い確率で死亡する「死の病」で、空気感染することも知られていた。だが、子規の家にはかれを慕う多くのひとびとが平然と集まり、談笑したり句会を開いていたのである。
 わたしが云いたいのは、明治から大正にかけて急速に近代化、軍事大国化する中で、そしてとりわけ日露戦争(明治37〜38年)を境に、日本社会と日本人がおおきく変貌していったのではないかということだ。「日露戦争以降、日本人は民族的に痴呆化した」(『坂の上の雲』第二巻のあとがき)と断じたのは司馬遼太郎だが、西洋列強と肩を並べる一等国へと朝野を挙げて駆け上がろうとする狂騒の陰で、日本人は民族として誇るべき固有の何ものかを急速に喪っていったのだろう。
 最後に『逝きし世の面影』をもう一度引いてみよう。同じ明治9年の東京大火の翌朝、銀座で焼け出された住民たちを見たアメリカ人女性の記録だ。
 「この人たちが快活なのを見ると救われる思いだった。笑ったり、しゃべったり、冗談を言ったり、タバコを吸ったり、食べたり飲んだり、お互いに助け合ったりして、大きな一つの家族のようだった。家や家庭から追い出されながら、それを茶化そうと努め、助け合っているのだ。涙に暮れている者は一人も見なかった。」
 現下のウイルス禍が人類にとって深刻な災害であることは間違いない。しかしわたしたち日本人は紛れもなく−まことに不肖ではあるが−西洋人が心底驚嘆したかつての日本人の子孫なのだ。焦らず騒がず、微笑すら浮かべて、立派に乗り切ってやろうではないか。

Text by Shuhei Matsuoka
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2020年06月25日

コロナとグレタ

 過日、わが家の庭に咲き誇るハナミズキを眺めながら、突如降ってわいた稀にみる奇妙な現象の意味を考えていた。
 あまりに微小で単純な構造ゆえに生物の仲間にすら入れてもらえず、自分で移動することすらもできない、まったく取るに足らぬモノ(非生物)に恐れ慄(おのの)く地球上の覇者のなんとか弱く哀れなことか。この世のすべてのものは、わが家のハナミズキのようにまるで日常とかわらず美しく平然としているのに、人間だけが突如として狂ったようにあわてふためく姿は、当の人間にとっては悲劇であっても、どこか滑稽で寓話的である。それも、何者かに唆(そそのか)されたわけでも、脅されたわけでもなく、善良な市民自らがこのウイルスを知らぬ間に身の内に棲まわせ、せっせとそれを運び、わずか数ヵ月で地球全体に拡散させたのだから驚異的といえばこれほど驚異的なこともない。
 フランスの哲学者パスカルの有名な言葉を思い出す。
 「人間は一茎の葦にすぎない。自然のうちでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である。かれをおしつぶすには、全宇宙が武装するにおよばない。ひと吹きの蒸気、ひとしずくの水が、かれを殺すのに十分である。」(『パンセ』)
 人間は、自然のうちでもっとも弱い存在であることを、科学の発達と自らの傲慢さが忘れさせたのかもしれない。さすればあるいは、近年の異常な気候変動や激甚化する自然災害同様、繁栄をきわめ増長した人類に対する母なる地球からの警告、いや天の怒りなのであろうか。あるいは、地球環境を回復不能なまでに破壊し続ける邪悪きわまりない人類に対して天が差し向けた災厄なのだろうか。
 そしてこの原稿を書きながらも、わたしをあざ笑うかのように楽しげに樹々をわたる小鳥たちの啼(な)き声が、「少しは身に染みたか!」という天の声に聴こえてくるのだ。
 ところで、4月放送のETV特集「緊急対談 パンデミックが変える世界〜海外の知性が語る展望〜」で経済学者・思想家のジャック・アタリ氏は、協力は競争よりも価値があり、利他主義こそがコロナ後の世界に必要だとして、こう述べている。
 「利他主義は合理的利己主義にほかなりません。自らが感染の脅威にさらされないためには他人の感染を確実に防ぐ必要があります。利他的であることは、ひいては自分の利益となるのです。また、他の国々か感染していないことも自国の利益になります。たとえば日本の場合も世界の国々が栄えていれば、市場が拡大し、長期的にみると国益につながりますよね。…今回の危機は乗り越えられると思います。ただし、長期的にみるとこのままでは勝利は望めません。経済を全く新しい方向に設定しなおす必要があるのです。戦時中の経済では自動車から、爆弾や戦闘機へ企業は生産を切り替えなければなりません。今回も同じように移行すべきです。ただし、爆弾や武器を生産するのではありません。医療機器、病院、住宅、健康、水、良質な食糧などの生産を長期的に行うのです。多くの産業で大規模な転換が求められます」
 アタリ氏は、いまのコロナ禍を市場崩壊と民主主義崩壊の危機としながらも、ひとびとの連帯による「利他主義」と長期的視点に立った「ポジティブ・エコノミー」、そして「共感のサービス」により次世代のことを考える社会に転換できるとし、のちにコロナ禍がきっかけとなって人類が進化したと云えるようにしなければならないという。
 もちろん、世界はまだまだ大恐慌の不安を抱えているし、ハンガリーやイスラエルのように、緊急事態を利用して『1984』(ジョージ・オーウェル著)さながらの監視独裁化に向かおうとする国家が次々と現れる可能性も否定できない。また多くの発展途上国ではこれから深刻な経済的・社会的問題が噴出して、かなりの期間、手に負えない情況が続くに違いない。こういった重大な問題が本当に解決されるのかは誰もわからない。連帯どころか、国も人もますますミーイズムと疑心暗鬼に陥り、世界はバラバラになるという最悪のシナリオすら考えられる。アタリ氏はやや楽観的すぎるのかもしれない。
 もし人類がこのパンデミックを契機に進化できなければ、地球温暖化による絶望の日を待つまでもなく、わが世の春を謳歌してきた現代文明は確実に危機、いや終焉を迎えることになるだろう。いまこの瞬間にも抗生物質への耐性を獲得した細菌類や未知のウイリスはわたしたちのすぐそばで生まれており、そのことを前提とした社会構造に転換していかねば、今後次々と襲来する見えざる恐怖に人類は到底耐えられないからだ。
 そもそも中国・武漢とその周辺だけの地域的な疫病で終息せず未曾有のパンデミックに至ったのも、突然変異で人間を宿主とすることに成功した切れ者のウイルスが宿主とともに移動したことが原因であって、ひとえにヒト・モノ・カネが激しく動くグローバル社会を創りだしたわれわれ自身のせいなのだ。どころか、もともと自然界の奥深くでさまざまな野生動物と共生してきたウイルス群−コロナ(新型、SARS、MARS)、エイズ、エボラ、インフルエンザなどはみなそうだ−を、経済活動と乱開発により自然を蹂躙して引っ張り出してきてしまったのだから、二重の意味で自業自得なのである。
 そう考えれば、武漢ウイルス研究所から漏れ出たものか否かはさておき、このたびのコロナ禍は、比喩でもなんでもなく、人間に対する天(地球)の怒りであり自然界からの挑戦状と考えるのが妥当だろう。
 ところで、2019年暮れに初めてWHOにより新たな感染症として確認されたことから正式にCOVID-19と命名されたこのたびのコロナ禍と、同年9月に行われた国連における気候行動サミットでの出来事は無関係ではないとわたしには思えてならない。
 「大絶滅を前にしているのに、あなたたちが話しているのは、お金と経済発展がいつまでも続くというお伽噺ばかり。よくもそんなことを!」と怒りに肩を震わせながら各国代表に言い放った当時16歳のスウェーデンの少女グレタ・トゥーンベリさんの姿に衝撃を受けなかった人はいないと思うが、人類を救うために天が差し向けたとしか思えない、少女の姿をした非凡者の出現と、このたびのコロナ禍が同じ2019年に起こったことは単なる偶然ではないのではないか。
 つまり、天(地球あるいは自然)は「善」と「悪」の象徴としてグレタと新型ウイルスを同時にこの世に送り込み、人類を試しているのではないかということだ。果たしてわれわれはそのことに気づき経済・社会システムを大転換できるのか。SDGs(持続可能な開発目標)という高邁な行動指針がすでに国連で発動され一部の覚醒した企業や市民は動きはじめており、「環境」「社会」「ガバナンス」の3要素を企業選別の条件として中長期的視点で投資するESG投資が急激に伸びている(世界の運用資産の4分の1以上を占める)のは一縷の光明だが、影響力の大きいアメリカ、ロシア、中国といった大国や多くの発展途上国政府は環境問題にまるで後ろ向きで、環境破壊と温暖化は深刻度を増すばかりなのだ。
 新型コロナとグレタが同時にわれわれの前に出現した意味を解せず、相も変わらず持続不可能な経済・社会システムを信奉して自滅へとひた走るのか、あるいは未来に向け大きく舵を切れるのか、その瀬戸際にわれわれ人類は立っているのかもしれない。
 物理学者・寺田寅彦は昭和7年の随筆『からすうりの花と蛾』で述べている。
 「われわれが存在の光栄を有する二十世紀の前半は、事によると、あらゆる時代のうちで人間がいちばん思い上がってわれわれの主人であり父母であるところの天然というものをばかにしているつもりで、ほんとうは最も多く天然にばかにされている時代かもしれないと思われる。…天然の玄関をちらとのぞいただけで、もうことごとく天然を征服した気持ちになっているようである。」
 この碩学の一言は21世紀の現在でもまったく色褪せておらず、それどころかますます人間にその傾きが強くなっているのは間違いないだろう。その何よりの証拠が、この百年の激しい環境破壊と急激な地球温暖化、そしてこのたびの未曾有のパンデミックなのだ。
 奇跡の少女グレタの言葉を通して傷ついた地球の声をしっかりと聴き、コロナショックによって競争と経済発展一辺倒の人類の内なる狂気を一日も早く鎮め、アタリ氏の云うごとく利他の精神によるまったく新しい社会・経済・政治体制を本気でつくり上げるしか人類に選択肢は残されていないのだろう。そしてそれを可能ならしめるのは、環境破壊に加担してこなかったグレタのような世界中の若者世代だ。彼らに期待しようではないか。

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