2020年03月26日

いまこそ、渋沢栄一

 わたしの知人に、澁澤倉庫という一部上場会社の役員を務めている人がいる。かれによると、倉庫準大手の同社は渋沢栄一(1840〜1931)が創業した企業で、三菱、三井、住友などの旧財閥が現在でも多くのグループ企業を有する巨大な存在であるのに比して、渋沢直系の企業は同社一社しか存在していないのだという。この話を聞き、生涯に500余りの会社を創業し、日本に資本主義を根付かせた巨人でありながら「財なき財閥」と云われた渋沢栄一らしいなと得心したことだった。
 ことほど左様に渋沢の名が残るものが少ないこともあってか、江戸から昭和まで生きた実業家・渋沢栄一とはどのような人物かを識る人もいまは少ないようだ。が、昨年唐突にお札変更が発表され、福沢諭吉のあとを襲って次の1万円札(2024年から流通)の肖像画に採用されることが発表されるやにわかに注目を集めはじめ、来年のNHK大河ドラマの主人公にも決まり、かれの生地、埼玉県深谷市は渋沢ブームをあて込んで早くも観光客誘致に躍起だという。
 それはさておき、経営学の第一人者で「マネジメントの父」「経営の神様」と称されたピーター・ドラッカーが渋沢をことのほか評価していたことはよく知られている。かれはその代表的な著書『マネジメント』(ダイヤモンド社)の序文でこう述べている。
 「率直にいって私は、経営の『社会的責任』について論じた歴史的人物の中で、かの偉大な明治を築いた偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出るものを知らない。彼は世界のだれよりも早く、経営の本質は『責任』にほかならないということを見抜いていたのである。」
 ドラッカーは日本美術も好きでよく来日したが、もうひとつの目的は日本経済、なかんずく渋沢栄一を調べるためだったと云われている。
 かれはまた『断絶の時代』(同)において、岩崎弥太郎と渋沢栄一は日本以外ではほとんど知られていないが、このふたりの業績はロスチャイルド、モルガン、クルップ、ロックフェラーの業績よりはるかにめざましいものだったとして、次のように述べている。
 「岩崎は三菱財閥をつくった。三菱は、現在にいたるまで日本最大の工業集団であり、世界的に見ても、最も大きく、最も成功した産業集団の一つなのである。渋沢は一九世紀から二〇世紀にかけて九〇年も生きていたが、その間に六〇〇をこえる産業会社をつくりあげた。この二人だけで、日本の工業、運輸関係企業のおよそ三分の二をつくりあげたのである。たった二人の人間が、一国の経済にこれほど大きな影響を与えた例はどこにも見あたらない。」
 そして日本は岩崎流で急速な資本蓄積を行い、渋沢流で史上に類のないほど急速な人的資本の形成と文盲率の低下を実現したとし、「岩崎は巨大で非常に収益力のある会社を残したが、渋沢の遺産は東京にある有名な一橋大学である」と結論している。ちなみに一橋大学の前身、東京高等商業学校とその前身である商法講習所(日本初のビジネススクール)の主導的な運営者は渋沢であった。
 ドラッカーはこのようにまったくタイプの違うふたりを共に評価しているが、渋沢と岩崎の確執は本コラムでも何度か触れたように、かれらはいわば宿命のライバルであった。岩崎の社長独裁の独占主義と、広く一般から株主を募って事業を行う渋沢の合本主義(株式会社)では水と油であったからだ。三菱は三代目の岩崎久弥(弥太郎の長男)が経営の近代化を図ったが、弥太郎の時代は会社とは名ばかりで岩崎家を富ませるための大なる装置に過ぎなかった。その点にドラッカーは若干、目をつぶっているようだ。
 ところで、「近代日本の創業者」と云える人物は誰かと問われれば、わたしは迷うことなく、日本人のエートスを根底から変えた福沢諭吉と日本の社会構造を根底から変えた渋沢栄一を挙げる。この「両沢」が1万円札の顔を引き継ぐとは実に奇遇ともいえるが、それにもまして、実業家として渋沢が初めてお札の顔になることの意義は小さくない。実業家をお札の顔にすると、その人物の創業した企業グループを贔屓することになりかねぬが、渋沢の場合はささやかに澁澤倉庫一社があるだけで、かれはいわば産業界全体の創業者、「日本資本主義の父」と云える存在であったことから選ばれたと考えられる。かてて加えて、明治維新直後の混乱期に大蔵省に仕官(明治元年〜6年)していた渋沢自身が「円」発行と通貨政策を軌道に乗せたのだから、これほど相応しい人物もいない。
 ところで6歳年長の福沢諭吉は渋沢をどう見ていたのだろうか。福沢は岩崎弥太郎と親しく慶應義塾は三菱への人材供給機関となっていたことから、岩崎の宿敵であった渋沢には好感を持ってなかっただろうと思われがちだが、さすがに福沢はそのような偏狭な人物ではない。
 明治26年6月11日付け『時事新報』の「一覚宿昔青雲夢」と題した社説で福沢は、官尊民卑の風潮の中、官職を辞して一心に実業の発展に取り組んだ渋沢を高く評価し、「飽くまでも其初志を貫て遂に今日の地位を占め、天下一人として日本の実業社会に渋沢栄一あるを知らざるものなきに至らしめたるこそ栄誉なれ」と絶賛している。
 幕臣の福沢は維新後あっさり平民になり、明治政府への出仕を拒んで果断に私立の道を進んだ。そして世に「福沢山脈」と云われるほどの多くの人材を明治社会に送り出した。「門閥制度は親の敵(かたき)でござる」(『福翁自伝』)とまで忌み嫌った封建制度から日本を脱却させ、封建精神から日本人を脱却させるべく「独立自尊」を説いてひとびとの蒙(もう)を啓(ひら)いた福沢と、公利公益のためには民間で産業を興すしかない、という渋沢の断固とした生き方は大いに通ずるところがあった。共に幕末、西洋に渡りつぶさに先進社会を実見してきたという共通点もあるが、何より、出世といえば官途を意味した時代に悠然とこれに逆らった「両沢」こそ、「公」のために「私」を貫いた稀代の二大傑物であったのだ。
 豊前中津藩の下級武士の出であった福沢は封建制度を憎み、深谷の農民(藍玉を手広く商う豪農だった)の出であった渋沢は若い頃から士農工商の身分制度と官尊民卑に腸(はらわた)が煮えくり返る思いをしてきた。つまり、封建社会への憤怒が「両沢」の社会変革へのエネルギーとなり、西洋以外で唯一、近代社会をアジアの一隅で誕生せしめる原動力になったのである。
 また福沢の信念が「独立自尊」なら、渋沢は「義利合一」である。「義」とは武士道的な倫理観、「利」は利益のことである。それをかれは「論語と算盤(そろばん)」と分かりやすく言い換えて、このふたつは相反する概念ではなく、合一して初めて欧米にも後れをとらぬ産業社会を建設できると考えた。この信念こそが、商業や商売人を見下す官尊民卑の根強い社会風潮を打ち崩す渋沢渾身の鉄槌であった。経営には利益追求のみならず厳しい倫理感が必要であるというこの渋沢の経営理念に、ドラッカーは「経営の社会的責任」という現代的イシューを見出し、その先駆性に驚きと尊崇の念を抱いたのだ。最近は日本でもCSR(企業の社会的責任)、コーポレートガバナンス、コンプライアンスなどとやたら喧(かまびす)しいが、そんなことは渋沢栄一が150年も前に当然のこととして実践していたのである。
 渋沢は巨万の富を築くチャンスがいくらでもありながら産業界のプロデューサー、オーガナイザーに徹した。戦後、財閥解体に着手したGHQが渋沢家を調べてその財産があまりに少ないのに驚いたといわれるが、明治維新後に銀行、鉄道、海運、保険、紡績、製紙などあらゆる分野に日本初の株式会社を次々と創業したものの、第一国立銀行(現みずほ銀行)など一部の例外を除き、事業が軌道に乗れば経営から身を引いた。その清廉さは、かれが設立した株式取引所に関する次の一文(口述自叙伝『青淵回顧録』)でも明瞭だ。
 「株式取引所の制度は重要な経済機関の一として其の必要を認めて居ったので、自ら率先して其の設立を主張し、その設立に尽力したのであるが、私は主義として投機事業を好まず、絶対に投機並びに之れに類似するものには一切手を染めぬ決心なので、設立後には全然関係を絶ち株主たる事さへも之れを避けたのである。」(鹿島茂『渋沢栄一』より引用)
 いま世界を覆う貧富差の異常な拡大や地球環境破壊などは、強欲なグローバル企業経営者や金融資本家たちがひたすら私利を貪る現代資本主義の悪弊にほかならず、かといってこれに代わる持続可能な経済システムも見出だせない情況である。そんな危機的ないまこそ、世界の経済人は渋沢栄一の経営理念と精神を“襟を正して”学ぶべきだろう。

Text by Shuhei Matsuoka
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2019年12月26日

緒方貞子の仕事

 現在、この地球上に難民と呼ばれるひとびとがどのくらいいるのかご存知だろうか。100万人?300万人?いやいや、正解はなんと7千万人超。実に人類の100人に1人は家や国を追われた難民であるという途方もない現実を、皆さんは実感できるだろうか。
 近年の主な難民発生地はシリア(内戦)、アフガニスタン(紛争)、ミャンマー(少数民族差別)、南スーダン(紛争)、ソマリア(紛争)、ベネズエラ(経済危機)などだが、極東の島国に呑気に暮らす極度にドメスティックなわれわれ日本人にとって紛争や難民問題はどこまでも対岸の火事なのだ。
 たしかにスポーツ、学問、芸術などの分野で国際的に活躍する日本人は近年少しずつ増えてきているが、『武士道』の著者で国際連盟事務次長だった新渡戸稲造や外務省の命令に背いて6千人のユダヤ人を救った外交官・杉原千畝などのほんのわずかな例外を除き、世界から尊敬される真の国際人となるとまったく心許ない限りで、それは浜の真砂に小さなダイヤモンドを探すようなものなのだ。
 そんな日本にあって、最高級の国際人として世界から惜しまぬ称賛と尊敬を受けた巨人、まさに光り輝くダイヤモンドともいえる人物が、奇しくも「天皇即位礼正殿の儀」(今年10月22日)の日に92歳で亡くなった。日本人として、そして女性として初めて国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のトップを長く務めた緒方貞子さん(以下敬称略)である。
 貞子の家系は、これ以上はないというほどのきらびやかさだ。
 曽祖父は5.15事件で暗殺された首相・犬養毅、祖父は外交官で犬養内閣外相だった吉澤健吉、父・中村豊一も外交官で元フィンランド特命全権公使、夫・緒方四十郎(元日銀理事)は朝日新聞社副社長や自由党総裁を務めた緒方竹虎の三男である。犬養毅の孫で作家・評論家として名をはせ先駆的に難民支援活動を行った犬養道子は、貞子の母恒子の従姉(いとこ)にあたる。さらに貞子は聖心女子大出身であったことから美智子上皇后の先輩にあたり、ふたりは親交があった。
 東京に生まれた貞子は父の転勤で幼少期をアメリカ、中国、香港などで過ごし、帰国後に聖心女子大学を卒業。その後、アメリカのジョージタウン大学およびカリフォルニア大学バークレー校大学院で政治学博士号を取得して研究者への途を歩み始め、国際基督教大学(ICU)准教授、上智大学教授を歴任することになる。このICU時代に市川房枝から国連総会日本代表団に入ってほしいと要請され参加したのが国連での仕事の嚆矢(こうし)となり、1975年には女性国連公使第一号に選ばれるのである。
 公使を退いたあと、日本政府カンボジア難民現地調査団長として最初の難民支援活動を始め、90年には国連人権委員会の特使としてミャンマーの調査を行うなど、大学で教鞭をとるかたわら国連の仕事も担っていた。そんな矢先の90年10月、当時の国連難民高等弁務官が本国ノルウェーの外相就任のためわずか1年足らずで辞任したのだ。国連の重要ポストに人材を送りたい日本政府はさっそく国際経験豊かで英語力も抜群の貞子に後任候補の話を持ちかけた。ただこのポストは歴代、欧州の男性政治家がほぼ占有してきたため、女性で政治家でもない貞子はあまり可能性を感じてなかったようだ。それに、すでに60歳を超えてもいた。
 国際的には無名だった貞子が16人の候補の中から見事選任されたのは、「狡猾さや政治的野心がなく、率直に意見を言う」ところが高く評価されたことと、当時のデクエヤル国連事務総長のつよい推挙があったからだといわれる。そして1991年2月、スイス・ジュネーブのUNHCRに第8代高等弁務官として赴任、貞子は63歳になっていた。当初は前任者の残りの任期3年間だけを務めるつもりだったが、結果的に3期10年の長きにわたることになり、その間に彼女は「5フィート(150センチ)の巨人」と呼ばれるほどの国際的な知名度と称賛を得るようになる。
 東西冷戦の終結により各地で地域紛争や民族対立が激化してきた時期の就任だったため、それまでの難民支援活動の方法や規定では解決できない状況が次々と起こり、貞子はそれらに直面し難しい判断を迫られる日々が続くようになる。その代表的な一例が、凄惨なボスニア紛争の真只中、1992年から行った前例のないサラエボ救援活動だった。
 1991年にユーゴスラビア連邦の解体が始まり、92年にボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴから独立。ボスニアはセルビア系、クロアチア系、イスラム系住民が混在して暮らしていたが、独立をきっかけに民族対立が激化し、「民族浄化」の名のもとに激しい殺戮を繰り返す内戦状態になっていた。セルビア人勢力は圧倒的な軍事力で首都サラエボを包囲し、飢えに苦しむイスラム系住民ら40万人が銃弾に怯えながら籠城状態で生活していたのだ。
 従来、戦闘状態の中に入って活動できるのは赤十字国際委員会(ICRC)で、UNHCRはできないことになっていた。そのため内戦中のボスニアではICRCが活動していたが、現地の代表が銃撃を受けて亡くなったことで撤退してしまったのだ。しかしサラエボで孤立する大勢の市民を見捨てることはできないと貞子は判断し、救援活動をUNHCRが担うことを決断、食料や医薬品の空輸を開始する。この空輸作戦が始まった5日後、サラエボ空港に防弾チョッキを着た小柄な日本人女性の姿があり、それをCNNなどが報じたことで世界は初めて緒方貞子を知ることとなる。その後、フランスやカナダなど各国軍が輸送機を提供し、大空輸作戦は3年間にわたって継続された。この活動は、「国際社会はサラエボを見捨てない」という人道支援の国際的なシンボルになったのである。
 貞子の著書『私の仕事』(草思社)に1993年から94年にかけての日記が掲載されているが、すさまじい行動力で世界中を飛び回り、各国要人と交渉し、難民キャンプを巡っていることがよく分かる。「現場主義」を貫く彼女とはいえ、「アフガニスタンのカブール日帰り」や「久々に飛行機に乗らない一日」などの記述にはあきれてしまう。
 また銃撃や爆撃による職員殉職の報せを受けることもあるし、貞子自身も現地で車を降りた10分後に運転手が銃撃され重傷を負うという危機一髪の経験をしている。貞子は同書で「UNHCRの五千人の職員たちは、いわば私の戦友だ」と述べているが、これはたんなる比喩ではない。
 そんな彼女にはささやかな自慢があった。それは、ルワンダの難民キャンプにもうひとりのオガタサダコがいることだ。貞子が現地を訪れた時に生まれた子どもに母親が名付けたのだが、UNHCRがキャンプを整備し学校を建てて支援してきたことを心から喜んでもらえている証しだ。貞子は日本の文化勲章ほか世界中から数えきれぬほどの賞をもらっているが、オガタサダコの存在は彼女の一番の誇りであり、勲章なのだ。
 ところで貞子は「日本のマザー・テレサ」と称賛されながら、なぜかノーベル平和賞は受賞していない。UNHCRが過去に2度受賞していることから、屋上屋を架すことになるとの判断だったかもしれないが、残念というほかない。また2001年4月、小泉首相から初の女性外相就任をつよく要望され決まりかけていた矢先、貞子にライバル心を燃やす田中真紀子が強引に首相にねじ込み外相ポストを奪ってしまったことがあった。しかし勲一等瑞宝章を「仕事を終えた人が浴する栄誉でしょ」とあっさり辞退し、首相候補に挙がったときも「冗談じゃありません。餅は餅屋です」とさらりとかわすほどの貞子にとっては大した問題ではなかったろう。
 貞子はその後、国連事務総長への立候補も断り、人間の安全保障委員会共同議長やJICA理事長などを歴任して生涯にわたり人道支援と国際協力の途を歩み続けることになる。
 緒方貞子死去の報せに世界中から悼む声が寄せられたが、アフガニスタンのカルザイ前大統領は「日本人の気高さや善良さ、寛大さを代表する素晴らしい人物だった。アフガン人は彼女の愛情を覚えている」と称え、日本語で「ありがとうございます」と述べたという。日本人と日本女性のイメージを大きく変えた彼女の卓越した仕事ぶりと見事な人生が、この短い言葉に凝縮されている。
 2001年の貞子退任時に職員数5千人だったUNHCRも、現在では1万2千人という巨大組織になっている。この組織がこれだけ繁盛するということは、とりもなおさず難民が爆発的に増えている証左にほかならず、第二第三の緒方貞子を世界は必要としているということなのだ。そのためにも、国連は「緒方貞子賞」を早期に創設すべきだろう。
 
Text by Shuhei Matsuoka
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2019年10月01日

ゼロサムの陥穽

 テレビでもお馴染みの日本語学者、金田一秀穂さんがある月刊誌に連載しているコラムを読んで一驚した。
 金田一さんが自宅近くの住宅街を車で移動中、白杖を突いた女性が通りかかった。そこでかれは車を止め、窓から「どうぞ」と言って道を譲った。すると女性はふっと振り返り、「金田一先生ですか?」。たまたまの通りすがりで、知人でもない。彼女はただの一言「どうぞ」でかれの声を正確に判別したのだ。金田一さんはラジオ番組にも出ているようで、それを聴いて声を知っていたのだろうとかれは推測する。
 もうひとつ、金田一さんが盲学校を見学したときの、ある先生の話が衝撃的だ。その人が2年ぶりに卒業生に会ったら、「先生、おんなじ服着てますね」と言われたというのだ。もちろん見えているわけではなく、洗濯してなかったからでもない。生地の持つそれぞれの匂いを覚えていたのだ。そして「それでなくちゃ生きていけませんよ」とかれは言ったという。
 五感の中でも、もっとも重要な視覚をうしなった彼らのなかにある、われわれには想像もつかぬ深く広い世界の存在に金田一さんは思いをはせる。
 この神秘的ともいえる彼らの能力に感動を覚えながら、わたしはひとりの知人のことを想い起こしていた。かれはわたしと同じ63歳、愛媛との県境近い急峻な山々に囲まれた吾川郡吾川村(現・仁淀川町)で生まれ育った人だ。
 ちょっと信じがたいことだが、かれが小学校3年のとき、はじめて家に電気が通ったという。明治や大正の世ではない、東京オリンピックの翌年である昭和40年のことだ。それまで家族5人はランプと蝋燭(ろうそく)で生活していたのである。電気が来てないのだから、家にはもちろんテレビも冷蔵庫も洗濯機もなかった。昭和40年ごろにはこれらの電化製品は日本のどの家にもあった、とわたしは勝手に思いこんでいたが、ちがったのだ。
 かれとの付き合いは20年近くになるが、最近、われわれとはどことなくちがうことに気づいた。肉体が強靭なだけでなく、五感の鋭さが並大抵ではないのだ。高知市内の会社役員でいまでも勤務しているが、嗅覚が鋭敏すぎてオフィスに入るなり花瓶にさされた花の匂いで気分が悪くなることすらあるというし、50才頃から老眼が進みはじめたわたしをあざ笑うかのようにスマホの芥子つぶのような文字も平然と読む。かれの奥さんは、普通の人は怖くて歩けないような闇夜の中を夫がどんどん歩いていくのに驚くという。
 「小さい頃から暗闇に慣れているので、風に揺れる木々の音やせせらぎの音、草や木や花の匂いで周囲の気配を感じて、わずかな月明かりでもあれば十分に歩けます。たぶん普通の人にはない感覚が染みついているんでしょう。そうでないと生きていけないですから」
 戦後の急激な都市化の中に生まれ育ったわれわれ現代人が、現代文明と引き換えに動物としての能力を急速に劣化させてしまったことは、かれの存在を見ていれば確信できる。かれはたまたま現代文明の恩恵をほとんど受けない山間部の僻村に生まれ育ったために、鋭い五感の残滓をわずかに残しており、そのことを通して人類の退化(進化ではない!)の来歴をわれわれに教えてくれているのだ。
 昔の漁師は海鳥、海流、風向きなどで魚の存在を感じ、嵐の危険を避けるすべを知っていたろうし、農民の中には風、気温、湿気、太陽や月の姿で雨や台風の接近を予知できる能力を備えた人がいたはずだ。生きてゆくために必要な能力を獲得していたはずだ。
 さて芋づる式で恐縮だが、これに類するちょっと忘れがたい話が中野孝次氏の『生き方の美学』(文春新書)に出てくるので紹介する。「名人」というタイトルがつけられた章にあるエピソードだ。ちなみに氏は『清貧の思想』『ブリューゲルへの旅』『ハラスのいた日々』など多くの著書や翻訳書で知られるドイツ文学者・作家で、15年前に亡くなっている。
 中野さんが14、5歳のころ、栃木県益子の親類の家に遊びにいったときのこと、9歳年上の従兄が「鯉つかみの名人を見せてやる」というので小貝川に早朝、連れていかれた。霜が降りていておそろしく寒い朝だったという。
 そこに、山の中で一人で樵(きこり)をしている30才ぐらいの大男がやってきた。口がきけないことをバカにされて人間嫌いになったという。かれが何を言っているのか中野少年にはわからなかったが、従兄とは話が通じているようで、ふたりで何かもごもごと話していたと思ったら、男はぱっと着物を脱いで褌一丁の素っ裸になった。中野さんはその贅肉のまったくない引き締まった筋肉に覆われた肉体の見事さに度肝を抜かれたという。その男は、二つ三つの準備運動のようなことをしたあと、薄氷が張る川に波一つたてずに静かに入っていった。そして中程まで出ると、すっと淵に沈み、それきり出てこない。不安になって従兄の方を見ると、かれは小声で「黙って見てろ」と言う。
 そして一文はこう続く。

 おそろしく長い時間―と私には感じられた―がたってから、ふいに青味を帯びた水の中に白いものが浮んできて、このときも波一つ立てずにAが姿を現わした。彼は両手で抱くように大きな鯉をとらえていた。
―おお。
 わたしはふるえるような感動を覚え、思わず叫んだ。まったくそれは神業というしかないようなみごとさで、男がふだん愚鈍だなどといわれていることなどどこかへすっとび、その天才に空恐ろしささえ感じたほどだった。なんという業か、Aは素手で大鯉をとらえてきたのだ。

 この強烈な経験が中野氏に与えた影響は計り知れなかった。人間には、どんな人にも必ず、他の人にはできぬ天賦の才があるということを、かれは頭ではなく肌で知ったのだ。 
 そして一文をこう結ぶ。
 「(こういう名人の業を見ることの方が)学校の成績のいい秀才の話をきくより、はるかに大きな感激と感動をわたしに与えたのである。(中略)人間を学校の成績などでランクづけする制度がいかにバカげたものかを痛感するのである。」
 ちなみに中野氏は、腕のいい大工の棟梁であった父の期待に反して東大に進学し、学問の途に進んだことに疚(やま)しい感情がずっとあったという。そんな氏ならでは、この鯉つかみ名人の姿は生涯忘れえぬものとなったのだろう。
 われわれはいつの時代も目新しい技術と利便性に心奪われ、昔の人間や社会を遅れたものとしてバカにし、自らの輝かしい進歩と進化を疑わない。だがその自惚れの先にはおおきな陥穽がきっと待ち受けている。科学技術はたしかに日進月歩で進化しているが、それを生み出し使う人間自体は、退化こそすれ断じて進化なぞしていないのだ。
 考えてもみてほしい。
 われわれ人類は、宇宙空間にぽっかりと浮かぶこのちいさな青い地球の上でしか生きられない。ということは、この限定された場所で行われるすべての事柄はゼロサムということになる。増えたり減ったりしないのだ。日本で車を1台生産したら、オーストラリアの鉱山の鉄鋼石が1台分減るだけで、地球レベルでの総量は何も変化しない。
 言い換えれば、人類がその輝かしい科学技術で社会を進歩・発展させるということは同時に別の何かをうしなうことであり、奸智(かんち)に長けた誰かが取りすぎれば地球上の別の誰かが割を食うということに他ならないのだ。それがセロサムということだ。生物としての人間レベルでいえば、文明社会の発展の代償の一つが五感などの基礎能力の劣化ということになるだろうが、逆にいえば、人間は動物的退化の代償として現代文明を手に入れたということになるのかもしれない。
 冒頭の視覚障害者は視力をうしなうというおおきな不幸と引き換えに、健常者にはありえない鋭い嗅覚や聴覚を身につけたのだし、鯉つかみ名人もうまく喋れないことをバカにされて人嫌いになったことと引き換えにその技を身につけたのだ。これと同様に、何かを獲得することは一方で何かをうしなうことなのだという真理を、自惚れのつよいヒトの脳はたぶん理解しようとしないのだろう。
 虫けら一匹、石ころ一つ創り出すことのできぬ人間が、退化というハンディを負ってまで獲得した科学技術とその精華である現代文明をもって、不遜にも神の領域ともいえる地球と自然界をわがものと錯誤した結果が人口爆発と貧富格差の異常な拡大であり、地球環境の絶望的な劣化であることを識(し)ったとき、いかな呑気者でもその代償の巨(おおき)さに戦慄することになる。

 Text by Shuhei Matsuoka
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2019年06月25日

巨人・湛山が叱る

 安倍晋三首相はモリ・カケ問題などかずかずの重大なスキャンダルに加え、何人もの閣僚、副大臣、事務次官級が次々と辞任する失態を続けてもなお平然と政権の座にある。それも自民党の総裁任期を自ら引き延ばしてまで権力に恋々とし、その陰で着々と改憲への地歩を固めつつあるようにみえる。
 かれに政治的信念らしきものがあるとすれば、その出処(でどころ)が祖父岸信介にあるのは自他ともに認めるところだろう。岸は、東京帝大を出て商工省に入省後、満州に派遣されて社会主義的な統制経済の推進を目論む「革新官僚」として頭角を現しはじめ、1939年に帰国してのち商工次官に昇進、米英相手の戦争に向け国家総動員体制を敷く中心人物となってゆく。そして41年には商工大臣として東条英機内閣に入閣し、アメリカへ宣戦布告するのである。太平洋戦争を仕掛けた張本人の一人で、東条同様に死刑に処されてしかるべきA級戦犯の岸がなぜ巣鴨プリズンから釈放されてのち総理大臣にまで栄進できたのかは、以前に本稿でもふれた通り、児玉誉士夫らと共にCIAのエージェントとなり、アメリカの意向に沿った国政運営の見返りにCIAから政治資金などの支援を得ていたことによる。
 この岸とのちに総理の座をかけて闘うことになるのが、石橋湛山(たんざん)(1884〜1973)である。
 湛山は大正時代から敗戦直前まで『東洋経済新報社』の主幹兼代表取締役として健筆をふるい、軍部に睨まれながらも一貫して自由主義と非武装・非侵略を訴え続けた硬骨のエコノミスト・ジャーナリストであった。海外に領土をひろげ最後発の帝国主義国家を目指しつつあった日本政府と軍部に対し、かれは「小日本主義」という見事な理論で対抗し続けたのだ。
 湛山は大正十年に発表した社説「大日本主義の幻想」で、日清・日露および第1次世界大戦で得た台湾・朝鮮・樺太の領土と満州における権益のすべてを捨て去るべきと主張する。経済的にメリットがないばかりか、その領土・権益のために戦争の危険が増すという持論を丁寧かつ論理的に述べて、さらにこう云う。
 「米国にせよ、他の国にせよ、もし我が国を侵略するとせば、どこを取ろうとするのかと。思うにこれに対して何人も、彼らが我が日本の本土を奪いに来ると答えはしまい。日本の本土の如きは、ただ遣るというても、誰も貰(もら)い手はないであろう。さればもし米国なり、あるいはその他の国なりが、我が国を侵略する虞(おそ)れがあるとすれば、それはけだし我が海外領土に対してであろう。否、これらの土地さえも、実は、余り問題にはならぬのであって、戦争勃発の危険の最も多いのは、むしろ支那またはシベリヤである。(中略)論者は、これらの土地を我が領土とし、もしくは我が勢力範囲として置くことが、国防上必要だというが、実はこれらの土地をかくして置き、もしくはかくせんとすればこそ、国防の必要が起るのである。それらは軍備を必要とする原因であって、軍備の必要から起った結果ではない。
 しかるに世人は、この原因と結果とを取り違えておる。謂(おも)えらく、台湾・支那・朝鮮・シベリヤ・樺太は、我が国防の垣であると。安(いずくん)ぞ知らん、その垣こそ最も危険な燃え草であるのである。」(『石橋湛山評論集』岩波文庫)
 アジアの領土・権益を放棄し、かれらをむしろ友として通商立国を目指せとの湛山の主張は、敗戦とその後の日本を見れば非の打ちどころない卓論であったことがわかる。だが当時のかれはまさに孤軍奮闘、政府や軍部は云うに及ばず、知識人も国民もこの「小日本主義」を軽んじた。朝日・毎日などの大手新聞が軍に迎合し国民を煽動してゆく怒涛のような流れの中で、湛山はしかしこれに独り抗(あらが)い堂々と立ち向かったのだ。
 その意味で、岸と湛山の生き様はまさに好対照であった。一方は領土拡大の大日本主義を先導して日本を破綻に導いた官僚出身の政治家、一方は在野のエコノミスト出身で筋金入りの平和主義、小日本主義の政治家。このふたりは昭和31年12月に本邦初の公選による政権与党総裁選を争うことになり、決選投票によってわずか7票差で湛山が本命の岸を大逆転して自民党第2代総裁に選ばれ、72歳にして第55代内閣総理大臣となる。これは時代が生んだ一種の奇跡のような出来事だった。
 この直後、ジャーナリストの大宅壮一は「自民党の総裁公選で石橋湛山が選ばれたことは、日本の民主政治史上、画期的な出来事である。これで、日本の民主政治はやっと軌道にのったともいえる」とし、「それにしても、官僚的、あるいは政党的、ご都合主義、権力主義ではなく、ハッキリとした政策をもった総裁を迎えることができたことは喜ばしい。これだけの見識と実行力を持った者は、そうざらにいるものではない」(『昭和怪物伝』角川文庫)と手放しで歓迎。経済評論家の小汀(おばま)利得(としえ)にいたっては、石橋総理が実現したことの意義は大きいとして「岸君みたいな人間が出ますと、日本全体が堕落して、これは救うべからざることになる。大体、彼が東条内閣の閣僚として、愚かにも宣戦布告などという馬鹿なことに署名して、実際は一度亡国に導いたのですから、もう一度本物の亡国にするおそれがある」(『名峰湛山』)一二三書房)と痛烈である。
 ところが総裁選の遺恨から組閣は難航し、その中で湛山はひとつのミスを犯す。多数派を牛耳る政敵の岸を副総理格の外務大臣として入閣させてしまったのだ。国会運営上やむなしとの判断からだが、閣僚名簿を見た昭和天皇は岸の名を指差し、「自分はこの名簿に対して只一つ尋ねたいことかある。かれは先般の戦争において責任がある。その重大さは東条以上であると自分は思う」と述べたといわれる。湛山は冷や汗をかきつつ百方辞を尽くして了解をもとめたというが、昭和天皇がいかに岸を嫌っていたかが分かるエピソードだ。
 それはさておき、石橋内閣への期待は燎原の火のごとく広がり、朝野に“野人宰相”湛山ブームが沸き起こった。
 しかし、好事魔多しとはよく云ったもの。首相になってわずか1か月後、湛山は過労による急性肺炎に軽い脳梗塞を併発し、自宅の風呂場で倒れたのだ。関係者も国民も回復後の復帰を望んだが、昭和5年11月に東京駅で凶弾に倒れ、その後に復帰したものの回復せず総辞職した浜口雄幸首相に対し「遭難後にいさぎよく辞表を奉呈すべきだった」と厳しく難じたいきさつもあり、「私は新内閣の首相としてもっとも重要なる予算審議に一日も出席できないことがあきらかになりました以上は、首相として進退を決すべきだと考えました。私の政治的良心に従います」との文書を公表して辞任する。在任わずか65日、まさに言行一致の権化のような湛山らしい身の処し方だった。
 そして何より惜しまれるのは、石橋内閣総辞職の結果、湛山とは思想信条が正反対の岸を首相にせざるを得なかったことだ。湛山にとってはむろん本意ではなかったが、多数派を握る岸を序列第2位で入閣させたツケが回ってきたのである。
 この首相交代劇が、その後の官主導政治と日米軍事同盟強化への途を決定する大きな転換点となってしまった。
 現在のスキャンダルまみれの安倍政権が強硬に目指す憲法改正(岸の宿願であった)などの諸政策、言論統制、なりふり構わぬ対米追従の姿などを見るにつけ、危険な先祖返りの臭いを感じるのはわたしだけではあるまい。厚顔にもアベノミクスなぞと自らの名を冠した経済政策にしてもそうだ。たとえば民間企業に対し社員の給与を引き上げるよう要請するなど統制経済そのものだが、まさにかれの敬慕する祖父岸信介の亡霊が跋扈(ばっこ)している態(てい)である。
 経済学者の野口悠紀雄氏は『戦後経済史』(東洋経済新報社)で、岸が目指したのは日本型社会主義経済の建設であったとし、阪急電鉄創始者の小林一三商工大臣が商工次官だった岸を「アカ」と呼んで批判したことを挙げ、こう述べている。
 「自由主義者小林一三が、革新官僚であった岸を『アカ』と批判したことを思い出してください。1940年体制(米英との戦争に向け確立した国家総動員体制)そのものの評価は別として、岸を『アカ』と評したこと自体は、まっとうなものです。もし小林がいま生きていたとしたら、安倍を『アカ』と批判したことでしょう。」
 政府介入型の経済政策を進める安倍政権は1940年体制の復活そのものであると批判する野口氏に倣(なら)うまでもなく、もしいま小林一三以上の自由主義者で稀代の硬骨漢・石橋湛山あれば、岸の孫安倍晋三に火のような叱責を容赦なく浴びせることだろう。
 
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2019年03月25日

病翁(へいおう)の精神

 2001年5月に行った小泉純一郎首相の最初の所信表明演説が当時話題になったことを記憶している方も多いとおもう。首相は演説を次のように締めくくったものだ。
 「明治初期、きびしい窮乏の中にあった長岡藩に救援のための米百俵が届けられました。当座をしのぐ為に使ったのでは数日でなくなってしまいます。しかし、当時の指導者は、百俵を将来の千俵、万俵として生かすため、明日の人づくりのための学校設立資金に使いました。その結果、設立された国漢学校は、後に多くの人材を育て上げることとなったのです。今の痛みに耐えて、明日を良くしようという『米百俵の精神』こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか」
 故事を都合よく引用して我田引水するあたりはどこかいまの安倍氏に通ずる気もするが、それはさておき、米百俵とは作家の山本有三が明治維新直後の越後長岡での故事を掘り起こし、それを戯曲『米百俵』として太平洋戦争最中の昭和17年に執筆、翌年に発表したものである。長岡藩は戊辰の役に巻き込まれて朝敵となり、熾烈な長岡戦争に敗北して長岡城は落城、藩士とその家族は辛酸を嘗めることになる。このいきさつは長岡藩のリーダー、河井継之助を主人公に据えた『峠』(司馬遼太郎著)などで世に知られるが、山本有三は『米百俵』の「はしがき」で次のように述べている。
 「長岡といへば、すぐ河井継之(つぐの)助(すけ)を聯(れん)想(そう)するくらゐ、継之助の名は、広く天下に響いてをります。長岡の町を焼け野が原としてしまった人は、これほど世にもてはやされてをるのに、焼け野が原の上に立って、『人物をつくれ。』と説いた人の名は、ほとんど全く伝へられてをりません。目立たない事に力をつくした人といふものは、とかく世間から顧みられないものです。」
 山本のいう、目立たないことに力をつくした人こそ、敗戦後の惨憺たる長岡藩にあって、戦病死した河井亡きあとの藩建て直しを任された一人、河井の終生のライバルでもあった小林虎三郎(1828〜1877、のち病翁と改名)である。
 ここで少々余談だが、長岡戦争に幕末史上もっとも評判のわるい土佐人が登場する。北越平定の命をうけ、一軍を率いて長岡に向かった軍監は土佐藩士・岩村精一郎(のち高俊、岩村三兄弟の三男)で、まだ数え24歳の若造だった。いかに新政府軍が急造の軍隊で人材払底していたかがわかるが、このことが悲劇を生む。長岡藩家老の河井継之助が戦争回避の「中立」嘆願書(虎三郎起草の説あり)を携えて小千谷の新政府軍本陣に近い慈眼寺で岩村との会談に臨んだが、岩村はこれを頭ごなしに斥け、嘆願書を受け取ることもせずわずか半時間ほどで追い返してしまったのだ。世に云う「小千谷談判」である。この決裂により戦争の口火が切られ、両軍多くの血が流れ町は焦土と化すことになる。のちに長州の品川弥次郎は「会談に岩村のような小僧を出さずに、黒田清隆か山県有朋を河井と会わせたら戦争せずに済んだかもしれぬ」とほぞを噛んだが時すでに遅しである。
 余談はさておき、長岡の小林虎三郎は長州の吉田寅次郎(松陰)と同時期に佐久間象山門下に入り、親しく交友をもった。両藩がのちに敵同士となるとはこのころ思いもしなかったろうが、同じ20代前半のふたりは互いを畏敬し、共にその才を認められ「象門の二虎」と称されるほどになっていた。ちなみに江戸木挽町の象山塾には二虎のほか河井継之助、勝海舟、坂本龍馬、津田真道、橋本左内、加藤弘之などがまさに綺羅(きら)星のごとく名を連ねており、当時の佐久間象山の声望の高さがうかがえる。
 松陰はのちに密航(下田踏海)を企てペリー艦隊に乗りこもうとした罪で幽閉中、象山宛てに書いた文章の冒頭で虎三郎のことに触れている。
 「わたし(松陰)が象山先生に初めて見(まみ)えたとき、虎三郎が紹介の労をとってくれた。虎三郎はかお一面に天然痘の痕のアバタがあり、わたしと同類。年齢もまた同じくらいで、その名もたまたま虎三郎(通称虎(とら))と寅次郎(通称寅(とら))で同じだった。ただ違いがあるとするなら、虎三郎は才能があふれるようにあり、わたしはまことに才乏しいことだったろう。その結果、虎三郎は象山先生との関わりで罪をこうむり、わたしのほうはその罪(下田踏海)によって先生を累わせたのだった」(現代語訳は松本健一著『われに万古の心あり』による)
 ふたりの仲の良さと松陰の無類の優しさが伝わる文章だが、ふたりとも当時猖獗(しょうけつ)をきわめていた天然痘の後遺症により顔中アバタで、虎三郎はさらに幼時の事故で左眼が失明し白濁していたというから、稀にみる哀れな異相の青年であったろう。しかしかれは若くしてすでに輝くような才覚を現していたのだ。
 象山が遺した有名な言葉がある。
 「虎三郎の学識、寅次郎の胆略というものは、当今、得がたい材である。ただし、事を天下になすものは吉田子なるべく、わが子の教育を頼むべきは小林子だけである」
 虎三郎は象山同様に謹慎の身となるが、のちに河井と共に長岡藩で重要な位置を占めることとなる。実務家で辣腕政治家の河井と、若いころから病弱で学者肌の虎三郎はしばしば意見が食い違い、戊辰戦争でも主戦派、非戦派として対立する。が、けっきょく戦争に敗れて河井は戦病死、長岡藩は7万4千石から2万4千石まで削られ、藩士とその家族はまさに食うや食わずの凄惨な戦後を迎えることとなった。
 この戦後の長岡再建を任されたのが虎三郎だった。虎三郎は病をおして文武総督に就き、つづいて大参事という重職を担うことになる。そんな中、明治3年の5月初め、長岡の窮状を見かねた三根山藩(長岡支藩)から百俵の米が見舞いとして贈られてきたのだ。まさに干天の慈雨である。ところが、虎三郎がこの米を藩士らには配給せず、売って学校をつくると言い出したことで藩内は紛糾する。
 山本有三の『米百俵』は、いきり立ったわかい藩士らが「小林を出せ!」と虎三郎の寓居(虎三郎の家は戦火で焼失)に押しかけ、いまにも斬りかかろうとするかれらを虎三郎が端然として説き伏せる姿が主題となっている。そして、虎三郎にこう言わせている。
 「もとより、食うことは大事なことだ。食わなければ、人間、生きてはゆけない。けれども、自分の食うことばかりを考えていたのでは、長岡はいつになっても立ちなおらない。貴公らが本当に食えるようにはならないのだ。だからおれは、この百俵の米をもとにして、学校を立てたいのだ」
 この米を皆で食ったところで一人わずか4、5合にしかならない。それを食い終わって何が残るか。それよりこれを売って長岡の将来のために人材を育てようではないかというのが虎三郎の決意だった。虎三郎の思想は「富強の本(もと)ただ人民の知識を開く外なし」で、まずは小学校の創設からはじめるべきと考えていた。そして「小学は貴賤賢愚の別なく皆入るべき所」として、平民の子の入学も許可することにした。
 米百俵はこうして国漢学校(小学校)、兵学校、医学校、洋学校の建設と書籍購入費などに充てられ、国漢学校はのちに明治政府の学制に組み入れられて阪之上小学校、長岡中学などに分岐してゆく。ちなみに日本初の小学校は明治2年5月、天皇が東京に移ったことによる危機感から京都に開校しているが、焦土と化し貧窮のどん底にあった長岡に明治3年6月、早くも小学校ができたという事実は特筆に値しよう。
 小林虎三郎は当代群を抜く英才でありながら、病のために数冊の著書を残しただけで越後長岡に埋もれた。しかしかれの崇高な精神は引き継がれ国漢学校や長岡中学からは大勢の人物を輩出する。長岡藩士の家に生まれた連合艦隊司令長官・海軍大将の山本五十六もその一人で、かれは揮毫を頼まれるとかならず「常在戦場」と書いたそうだが、これは長岡藩の藩風をあらわす一言で、もちろん虎三郎の座右の銘でもあった。現在でも選挙の近い国会議員などがこの言葉をよく口にするが、たいていその面相が軽薄であるのはなぜであろうか。
 さて最後に小林虎三郎と土佐の関係をすこし。
 明治4年7月、数え44歳の虎三郎は名を「病(へい)翁(おう)」と改名する。わかいころから胸疾患やリューマチ、肝臓疾患もあったらしく終生病苦にさいなまれて納得のいく仕事ができなかったことを自嘲しての改名であったが、この直後、弟の雄七郎が高知の海南学校の教授として招聘されたのを機に、妻子のない気軽さもあって療養を兼ね同行している。わずか1年ほどの滞在ではあったが、かつての仇敵土佐の地はかれの隻眼(せきがん)にはたしてどう映ったであろうか。

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2018年12月21日

「裸のサル」とがん

 ほぼ半世紀前の1967年に世界中でベストセラーとなった『裸のサル』の著者で知られる動物学者のデズモンド・モリス博士は、これに続く著書『人間動物園』(新潮選書1970年刊)で非常にショッキングなことを述べている。
 自然環境にある野生動物には、わが身やわが子を傷つける行為、自慰行為、胃潰瘍、太りすぎ、同性愛、自殺などは見られないという。いうまでもなくこれらの行為はわれわれ人間のあいだではすべてが見られるものだが、驚くことに、檻に入れられた野生動物、つまり動物園の檻の中の野生動物たちも、まったく人間同様にこれらの行為のすべてを演じて見せるというのだ。
 わが子を虐待死させるといった信じがたい事件が日常化し、同性愛や自殺が蔓延する社会に暮らすわれわれにとって、なにか幽霊の正体を見たような気分になる指摘だ。
 モリス博士はいう。
 「現代の人間という動物は、今では種に自然な条件のもとで生きているのではない。人間という動物は、動物捕獲人によってではなく、自らの輝かしい大脳の働きによって罠に掛り、自らを巨大で不安定な動物園のなかに閉じ込め、その圧力のもとで挫折する不断の危機にさらされている。その重圧も大変なものだが、しかし受ける便宜も大きい。動物園の世界は、巨大な親のようにその住人を守ってくれる。食物、飲物、住い、衛生および医学的配慮があたえられ、生存の基本的な問題は可能な限り解決されている」
 現代人は、「利便性」「合理性」「経済性」などを求めておそろしく病的な環境をつくりだしてその檻の中に自ら入り、日々さまざまな異常行動をとっているということになる。われわれは自分が一匹の哀れな哺乳動物「裸のサル」であることに気づかぬまま、万物の霊長なぞとおごり高ぶり、デジタル技術、IT、AIといった先端科学などにうつつをぬかして悦に入っているのである。動物行動学の世界的碩学は半世紀前にそれに気づき、警鐘を鳴らしていたのだ。
 さて、ここで話はすこし外(そ)れる。
 数十年前まではその名を口にすることすら憚(はばから)れた病に、がんがある。なぜか近年はやたら身近な存在になり、「2人に1人ががんになる時代」なぞと“明るく”喧伝されてさまざまながん保険が発売され、がん治療薬「オプジーボ」でノーベル医学生理学賞受賞の本庶佑博士が世界の注目を浴びたことも記憶に新しいところだ。
 がん細胞は、人間に37兆個あるとされる細胞のごく一部に突然変異が起きて生まれる。すべての人間の体内で毎日およそ5000個のがん細胞が生まれ、それを免疫細胞が撃退しているためにいわゆるがん化しないで生きていられるのだという。ということはつまり、人は常にがん細胞とともにあるということである。「腹も身のうち」という言葉があるが、同様に「がんも身のうち」といっていいのである。もし人が150年も生きれば全員ががんになっているといわれるし、大往生した高齢者を解剖すると、あちこちにがんが見つかるらしいが、これはいわば当然のことなのだ。
 がん(本稿では小児がん、若年性がんを除く)になるというのは、80歳以上まで平均寿命が伸びてしまった人間の宿命であり、この複雑怪奇な生成メカニズムをもつ病を撲滅することなぞできるとは到底思えないし、そう断言する専門家もすくなくない。人は年をとれば誰でも老化して体のあちこちの機能や免疫力が衰え、その結果さまざまな種類の病に罹(かか)り、そして死ぬ。その病のひとつががんであり、ただそれだけのことなのだ。
 つまりこの病はなにも特殊なものではなく、いわば自然の摂理といっていいものだろう。がんが見つかれば当たり前のように患部をごっそり切除し、抗がん剤という強烈な薬物を投与するのががん治療の主流だが、それがいかに愚かな行為であることか。
 人を死に至らしめる本物のがんは、検査で発見可能な1センチ程度になるずっと以前にがん細胞の一部が血液やリンパ液に乗ってしずかに体内を移動し、すでに転移(一部の例外を除き、非転移性のがんは人を死に至らしめることはないとされる)している。そしていずれあちこちで大きく成長する。それを次々に切ったりすれば患者はますます体力や抵抗力をうしない弱ってゆくだけで、これはがんを増殖させるために体をエサとして与えているようなものなのだ。
 「手術は成功しました、しかし患者はほどなくして感染症で亡くなりました」という事態が日々繰りかえされていることはご存知の通りだが、手術の成功で外科医は責任を問われずに済み、患者の家族からは感謝すらされる。しかし当の患者は切り刻まれてやせ細り、抗がん剤の副作用で苦しみぬいた挙句、一足飛びに死に追いやられる。医師はこれを“治療”と呼ぶのだが、その実情は誰がどう見ても“拷問”である。
 日本のがん治療の問題を追及し続け、その勇気ある啓蒙活動で菊池寛賞を受賞している近藤誠医師はいう。
 「がんが恐ろしいのではない。『がん治療』が恐ろしいのです。世間には『がんは放っておくとみるみる大きくなり、全身に転移して、ひどい痛みにうめきながら死に至る』という強い思い込みがあります。だから『がん』と言われると『早く切らねば』とあせり、余命宣告に震え上がって、『命が延びるなら、なんでもやります!』と、医者に命を預けてしまう。医者の思うツボです」(『「余命3カ月」のウソ』ベスト新書)
 手術が仕事の外科医にとってがん手術件数が減るのは困るし、手術をどしどしやらないと若い外科医のトレーニングもできない。それに何よりも外科手術、抗がん剤投与、放射線照射などのがん治療は医療機関や製薬会社といった医療業界全体を支える巨大ビジネスでまさにドル箱でもある。これは想像だが、医師の本音は「わかっちゃいるけどやめられない」ではないだろうか。しかし、がん宣告で恐怖のどん底に突き落とされ、藁(わら)にもすがる思いで高額の治療費を払い、挙句にそのカネで拷問を受けてがんと一緒にあの世に送られる患者はたまったものではない。
 そう考えれば、これを医師個人の倫理観や人間性、知識や経験の問題だけに帰するのはどうも無理がありそうだ。むしろ現代医療の構造そのものにメスを入れないと、根本的解決にはなりそうにない。人の物を盗むことを「犯罪」と定義して罰する法律を整備しないかぎり、泥棒も犯罪者ではないのだ。
 がんは、細菌やウィルスなどによる普通の病気ではない。いや病気どころか、ある年齢に達し、死が近づいた人を、木が枯れるように自然死させてくれる、神が与えてくれた大切な宝なのかもしれない。一般的ながんは、末期がんの場合でも死までの猶予期間がある。手術や抗がん剤投与などをしなければ意識もしっかりとしてほぼ普通の生活をすることができるので、その間に行きたいところに行き、会っておきたい人に会い、家族と最期の時を過ごすことができる。これは3大死因のうち、心臓病や脳卒中にはないメリットだ。
 この大切ながんを現代医療は撲滅すると躍起になっているが、冗談ではない。もし何かの間違いでがんが治るようになれば、人がなかなか死ねなくなって老人はさらに増え続け、平均寿命は伸び続け、どの国も財政破綻をきたして社会は崩壊するだろう。世界中が死ねないヨボヨボの老人だらけになる姿を想像してほしい。それこそ地獄絵図だ。
 ところでモリス博士は半世紀前にヒトを「裸のサル」と喝破したが、その後の研究でもチンパンジーとヒトのDNAはわずか1%しか違わないことが判っている。ところが不思議なことに、チンパンジーはがんにならないらしいのだ。普通のサルが「裸のサル」に進化する過程で、がんを「身のうち」に棲まわせるようになったのだろうが、神はいったいそこに何を企図したのだろうか。
 さて、今日も全国あちこちで外科医という名の「裸のサル」が、がん患者という別の「裸のサル」にメスを入れ、ほどなくして彼らは死体となって病院の裏口から運び出されてゆく。そしてまことに皮肉なことだが、大脳が異常に発達した「裸のサル」が嬉々として夢中になる先端科学とやらを駆使した現代医療の姿がこれなのだ。
 われわれ人間動物園に棲む「裸のサル」の異常行動は、この檻(現代社会)の中にいるかぎり異常とは認識されにくい。たまたまその異常性に気づき、檻はいやだと逃げ出したいと思っても、もう昔の自然な環境にもどることはできないのだ。だとしたら、とどのつまり、いくところまで往くしかないということだろうか。

Text by Shuhei Matsuoka
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2018年09月09日

適塾青春グラフィティ

 おおきな時代の転換期には、次々に湧きあがる真夏の雲のようにすぐれた人物がいっせいに出てくるものらしい。これは洋の東西を問わぬ不文律でもあろうが、わが国では幕末から明治にかけての動乱期がやはりその代表例だろうか。
 わたし自身この時代が好きで本連載でもしばしばふれてきたが、それにひき比べ、とつい口をつく長嘆息を禁じ得ない。わずか150年ほどのちの現代日本の体たらくは、いったいなんであろうか。毎日のように報じられる政財官学界のとりわけ要路にある者どもの、悪事をはたらきながら恬として恥じることなくシラを切り通すあまりに卑なる姿。そしてそれを見て見ぬふりで容認してしまう社会。魚は頭から腐るというが、腐臭はすでに日本社会全体に拡散(ひろ)がりつつあり、情況は相当に深刻というほかない。
 と、ただ彼我の差を嘆いてばかりも詮ないので、せめてすこし時代をさがのぼって、われらが先達のあざやかな人生にふれて気分を晴らそう。冒頭の話にもどる。
 日本近代の黎明期にあって巨(おお)きな足跡をのこした人物に、幕末を代表する蘭方医で適塾の創始者である緒方(おがた)洪(こう)庵(あん)(1810〜1863)がいる。適塾は洪庵の号である適々斎から命名された大坂の蘭学塾で、当時猖獗(しょうけつ)をきわめていた天然痘やコレラの治療に先駆的な業績を上げたことで知られる。そして何より、この一私塾から福沢諭吉、大村益次郎、橋本左内、大鳥圭介、長与(ながよ)専斎(せんさい)、箕作(みつくり)秋(しゅう)坪(へい)、佐野常民(つねたみ)ら近代日本の建設者となる俊秀を綺羅(きら)星のごとく輩出した奇跡はまさに驚嘆の一言である。
 また珍しいことに当時の蘭学塾としては唯一、その遺構が修復されて中央区北浜に現存しており、福沢諭吉の『福翁自伝』などに活写された当時の洪庵と塾生らの姿を彷彿させてくれる。うなぎの寝床のような、間口が狭く奥行きのある比較的大きな2階建て町家で、1階に洪庵一家の住まいと教室、2階に塾生が寝起きする大部屋や女中部屋、そして「ヅーフ部屋」と呼ばれる3畳ほどの小部屋があった。ヅーフとは、長崎・出島のオランダ商館長だったヘンドリック・ドゥーフが編纂した蘭和辞典『ヅーフ・ハルマ』の略称で、約3000ページに5万語を収録していた非常に貴重な大部の書物(7〜10巻で1セット)のこと。この写本1セットが端然と3畳間に鎮座してあり、このため塾生らは競ってこの小部屋を訪れ、いつも順番待ちで夜通し灯りが点いていたという。
 さて、自伝文学の傑作『福翁自伝』(岩波文庫)は適塾時代のエピソード満載で、悪戯(いたずら)好きの諭吉らしいこんな逸話も紹介している。いわく「遊女の贋手紙」―。
 「江戸から来ている手塚という書生があって、この男はある徳川家の藩医の子であるから、親の拝領した葵の紋付を着て、頭は塾中流行の半髪で太刀作(たちづくり)の刀を挟してるという風だから、如何(いか)にも見栄(みえ)があって立派な男であるが、如何(どう)も身持ちが善(よ)くない。ソコデ私がある日、手塚に向かって『君が本当に勉強すれば僕は毎日でも講釈をして聞かせるから、何はさておき北の新地に行くことは止しなさい』と言ったら…」と続くのだが、手塚は諭吉の言に従い、廓通いをやめる約束をし、これをやぶったら坊主頭にされても文句なしという証文を書く。すると手塚が真面目になり本当に勉強しだしたから諭吉は面白くない。そこで仲間と謀り、巧妙な遊女からの贋手紙を手塚に渡すのだ。これにまんまと引っかかり廓に行ってしまった手塚は諭吉に捕まって髪を切られそうになるが、けっきょく坊主は勘弁してやる代わり鶏肉と酒を奢(おご)らせたという笑い話。じつはこの手塚こそ、漫画家・手塚治虫の曽祖父、手塚良庵なのである。
 可笑(おか)しいのは、当の手塚治虫自身、このエピソードの人物が自分の曽祖父であることを晩年になるまで知らなかったことだ。川崎市の深瀬泰旦という小児科医が医学史を調べるうち、江戸末期に創設された神田お玉ヶ池種痘所(東大医学部発祥地)の設立拠金者名簿の中に手塚良斎(良庵の義弟)、良庵(のち良仙に改名)の名を見出し、また適塾の門人姓名録に手塚良庵の名をみとめ、そのほかさまざまな史料から良斎、良庵の関する論文を『日本医史学雑誌』に発表した。これを手塚治虫が偶然に見て、はじめて自身のファミリーヒストリーを知ったという次第。深瀬氏も、この手塚良庵があの高名な漫画家、手塚治虫の曽祖父であることなぞつゆ知らず論文を発表したのだった。
 昭和56年3月、52歳の手塚は深瀬氏を訪ね、互いにその奇縁にひたりつつ、論文をもとに手塚良庵を主人公にした長編作品を『ビッグコミック』に連載する旨を伝えた。これが晩年の最高傑作となる『陽だまりの樹』である。作中には、上の話もふくめ『福翁自伝』の中の有名なエピソードがふんだんに登場し、作品にリアリティを与えている。
 ところで適塾といえば、地元大阪住まいだった司馬遼太郎が大村益次郎(村田蔵六)を主人公にした小説『花神』の冒頭でエッセイ風にかなりくわしく書いている。サービス精神旺盛な司馬のことだから手塚治虫のエピソードを知っていたらきっとそれにふれたろうが、この作品は昭和44年から46年にかけ新聞連載されたもので、手塚自身がまだ知らぬ話を司馬が書ける由もなかった。
 適塾は幕末随一の蘭学塾として世に知られ、その盛名に惹かれて全国から若者が集まった。寄宿する塾生にはわずかに畳一枚のスペースが与えられ、そこに机・夜具などのすべてを収めての窮屈な生活。勉強の競争は激しく、成績が最上の者は洪庵から塾頭の地位を与えられた(大村益次郎、福沢諭吉、長与専斎らは塾頭)。また成績が良ければ日当たりのよい畳に行けるが、悪いと日当たりわるく人の往来はげしい一隅へ移動させられ、こうなると夜中に踏み起こされてろくに眠れない。福沢は、「この上に為(し)ようはないというほど」勉強したと回想しているが、寝る間も惜しむ異常なほどの知識欲の一方で若さゆえの悪ふざけや飲酒、喧嘩も日常茶飯事、出自や身分を問わぬ自由主義とバンカラが塾風となっていた。大部屋の大黒柱にいまも残る無数の刀痕はその証しだ。
 こうした粗暴ながら前途有為な若者らを洪庵は愛し、学問を授けるだけでなく人の道をおしえ、また自ら範をもって示した。たとえば適塾では、「扶(ふ)氏(し)医戒之(いかいの)略(りゃく)」という医師としての戒め十二ヵ条が明文化され塾則のようになっていた。これはベルリン大学教授フーフェランドの著書『医学必携』(蘭語版)にある「医師の義務」を洪庵自らが見事な日本語に抄訳したもので、医の道を志す者ならずとも、読めば誰しもが感動するはずである。紙幅が許さぬので最初の二ヵ条だけ紹介しよう。

一、医の世に生活するは人の為のみ、をのれがためにあらずといふことを其業の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧みず、唯おのれをすてゝ人を救はんことを希ふべし。人の生命を保全し、人の疾病を復治し、人の患苦を寛解するの外他事あるものにあらず。
一、病者に対しては唯病者を視るべし。貴賤貧富を顧みることなかれ。長者一握の黄金を以て貧士双眼の感涙に比するに、其心に得るところ如何ぞや。深く之を思ふべし。

 洪庵は巣立ってゆく塾生に「扶氏医戒之略」を手ずからしたためて授け、さらには「事に臨んで賎丈夫となるなかれ」という寸言も贈ったという。賎丈夫とは、“卑しい男”という意味である。洪庵がなにを大事にし、いかなる人生を生きたかがこのことでわかろう。
 ちなみに適塾の門人姓名録には、わが土佐からも14名が記録されている。萩原三圭(慮庵)は戊辰戦争の只中に青木周蔵とドイツのベルリン大学医学部に留学した最初の日本人で森鴎外らの先輩にあたり、のち東大教授、京都府立医大の初代校長、宮中侍医となった。立田春江はのちの小野義真で、岩崎弥太郎の右腕(相談役)として三菱の中枢で活躍、三菱二代目の岩崎弥之助、日本の鉄道の父・井上勝と共に小岩井農場を創設したことでも知られる(「小」は小野のこと)。また、入塾したものの幕末動乱のなかで奔走家となり天誅組の変、禁門の変に参戦、海援隊士となり戊辰戦争にも転戦して奇跡的に生き残り、維新後に政府要職や各県知事などを務めた石田英吉(伊吹敬良)などもいる。
 近代日本の礎となった緒方洪庵とこれら若者たちの青春を想うとき、わたしはいつも心に一条の光が射すようなあかるい気分になる。そして、われ先に己が名利を貪(むさぼ)って恥じることのない現代の賎丈夫どもや現代社会の醜状を、ほんのいっときだけ忘れることができるのである。  
 
 Text by Shuhei Matsuoka
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2018年06月05日

クールジャパン考

 NHKBSの『cool japan〜発掘!かっこいいニッポン〜』をたまに観る。
 日本の工芸品、デザイン、ライフスタイル、工業製品などさまざまな分野のアイテムを取り上げてその魅力を日本在住の若い外国人たちが英語でディスカッションする番組で、われわれ日本人には当たり前で特に気にも留めていないようなものに外国人が驚きとかっこよさ(cool)を感じるというカルチャーギャップが番組の魅力となっている。2006年4月の放送開始からすでに12年以上続き、いまでは世界150ヵ国の国と地域で放送されているというから堂々たる人気番組である。
  “クールジャパン”という言葉が流行語になって久しいが、これは19世紀中葉から末期にかけて欧州を席巻した“ジャポニズム”(浮世絵や陶磁器などの美術工芸品を中心にした一大日本ブーム)の再来ともいえ、開国した極東の小国・日本が世界に発見されたと同様に、インターネットの急速な拡がりによって世界が現代日本の真の姿を発見しつつある現象といえるだろう。
 考えてもみてほしい。戦後の日本といえばフジヤマ、ゲイシャで、高度成長期以降はテレビや車の一大輸出国となってエコノミックアニマルなどと称されたが、日本は長いあいだその程度の理解しかされていなかった。その後、SONYのウォークマンやアニメ、漫画などのポップカルチャーで知られるようになったものの、ごく最近まで世界は、たとえば本当の「和食」がどのようなものかすら知らなかったのだ。
 しかしその一方で、こういったステレオタイプ化された日本観をうち崩して、あたらしい日本の姿をこつこつと世界に浸透させている例も少なくない。
 そのひとつが「無印良品」だ。
 「無印良品(MUJI)」は、西武百貨店を中核とするセゾングループの総帥・堤清二(作家・辻井喬)とデザイナーの田中一光の発案から1980年に西友のプライベートブランドとして誕生、“no brand goods”の直訳で命名された。最初はわずか40品目で出発したが、バブル崩壊の年となった1990年には(株)良品計画として独立させ、現在では衣料品、家具、家庭用品、家電、食品など約7000品目もの商品を製造販売、店舗数は国内が454店舗で、海外は26ヵ国に474店舗とすでに国内を上回っているのである。いまやMUJIは、SONYやTOYOTAのような日本を代表するブランドとして海外で知られる存在になっているのだ。
 そもそもなぜMUJIは世界のひとびとに受け容れられたのか。
 開発コンセプトについて堤は、「消費者が主人公で、自分の好きなように生活空間を整えるというのが大前提にあった」として、こう述べている。
 「あの商品群のデザインの仕方も、江戸の長屋の暮らし方が発想のなかにあります。昔、人々は自然と一緒に呼吸することで主人公になっていた。蒸してくれば障子を開けて、そよ風を入れた。…(中略)…ところがいまの都市生活では、高層ビルの住まいに風鈴をかけても、ビル風に煽(あお)られたりクーラーで閉め切ったり。そよ風が吹いてきてチリチリンと鳴る情緒を得られませんから。都市生活者は自分の生活空間をなるべく淡彩、彩りをなくして、そこで自分の心のなかに彩りをもって生活空間を賑(にぎ)やかにする。そういうふうにしないと、生活のなかの主人公になった満足感を味わえない。かつて自然と一緒に呼吸していた日本人の感覚が時代とともに変化して、生まれ変わったという感じが『無印良品』にはあると、僕は思っているのです」(『うるわしき戦後日本』PHP新書)
 江戸期から現代に至る日本文化の淵源は室町時代の東山文化にもとめられる。MUJIはまさに自然なかたちでその東山文化の流れをくむ製品群として発案され、それゆえ日本人にとっては内なる琴線に触れるような快適感があり、外国人には京都東山の銀閣寺に代表される、華美を排した控えめな意匠の日本美をオーガニックで淡彩でシンプルな製品群が具備していると感ずるのだろう。
 ついでにいえば、「無印良品」が1980年に生まれたことはじつに示唆的だ。
 この年、日本の車生産台数が1千万台を突破し、アメリカを抜いて世界一になった。海外への輸出台数が国内販売台数を初めて上回ったのもこの年だ。洪水のごとき日本製品の輸出ラッシュがまさにピークに達しつつあったころで、当然の如く日本脅威論が澎湃(ほうはい)としておこり、85年には対日貿易赤字に苦しむアメリカの発意で急激な「円高ドル安」誘導が行われる(プラザ合意)。このころ堤たちは、受け容れられる確証もないままノンブランドの生活雑貨を開発して細々と売りはじめていたわけだ。
 じつは堤はエルメス、アルマーニ、イブ・サンローランといった欧州の高級ブランドを最初に日本に輸入し成功を収めたパイオニアとして知られる。だがかれの中で次第に、どこか満足しきれない気分が横溢しはじめ、消費者自らが主人公になれる日本的な製品とあたらしいライフスタイルを開発・提案してみたいと思うようになる。
 そしてついにバブルが崩壊。エコロジーが世の関心事になりはじめたことも相まって、長い不況期のはじまりと軌を一にするようにMUJIは成長してゆくのである。過剰で放埓(ほうらつ)で浪費の日本が崩壊し、熱狂から醒(さ)めて少しは落ち着きを取り戻しつつあった日本人と柔らかに並走してきた結果でもあろう。そしてもともとは日本の都市生活者をターゲットとしたデザインと商品群が、背後に日本文化を感じさせるクールな(かっこいい)存在として次第に世界にも受け容れられるようになったのだ。
 このMUJIの成功がおしえるのは、一過性に陥りがちなブームに頼るのではなく、地道にビジネスコンセプトを練りあげてひとびとの賛同を得てゆく手法の真っ当さである。そして“クールジャパン”とは、そのような試行錯誤の結果として生まれる日本らしい商品やデザインを外国人が評価してくれる現象を指すもので、日本人自身が図々しくも「かっこいい日本」などと看板に掲げるべきでないのは云うまでもないことだ。
 ところがあろうことか、これを日本政府が大々的に看板に掲げて「日本を世界に売り込め!」とやりだしたから話がややこしくなった。
 “クールジャパン”という言葉が世に拡がりはじめる発端は、2003年にダグラス・マッグレイというアメリカ人ジャーナリストが『中央公論』に発表した「Japan’s Gross National Cool」という論文とされる。ジャパン・ソサエティーの助成を受けて3ヵ月間東京に滞在して書いたもので、ポケモンやハローキティーを挙げ、「今の日本は、経済大国だった1980年代よりも、はるかに大きい文化的勢力を持っている」と褒(ほ)めちぎったことで、「失われた20年」の只中にあり自信を喪いかけていた日本政府が飛びついたのだ。
 2010年に経済産業省内に「クールジャパン室」が開設されたのを嚆矢(こうし)とし、その後は安倍首相の肝入りで各省庁が競って予算組み(という“ばら撒き”)をはじめる。ところが予想通りというべきか、いずれのプロジェクトもほとんど成果は出ていない。その代表例が2013年に鳴り物入りで設立された(株)海外需要開拓支援機構(通称「クールジャパン機構」)という官民ファンド(出資金約700億円の8割超は財政投融資)で、昨年11月6日の日経新聞は「クールジャパン過半未達」「戦略なき膨張、規律欠く官民」と野放図な実態を明らかにし、投資先である「トーキョーオタクモード(ポップカルチャー発信)」「アニメコンソーシアムジャパン(アニメ海外配信)」「ワクワク・ジャパン(日本のテレビ番組輸出)」などのほとんどが赤字続きと報じた。今年に入ってからも“官製クールジャパン”批判はあとを絶たない状況だ。
 さらに危惧されるのは、これらがたんなる税金の無駄使いで済まぬこと。政府が頭を突っ込んでかき回したことで、宮崎アニメやMUJIに代表されるような、また日本酒、日本茶、工芸品、和食といった世界に類をみない日本らしい優れた商品をこつこつと拡げ、海外で評価を得てきたひとびとや企業の努力をも無に帰してしまいかねないことだ。堤は「無印良品」について「これはメーカーやブランドを取り去った、体制批判商品なんだ」と言っていたようだが、体制そのものが頭を突っ込む姿に天国のかれも呆れかえっていることだろう。
 政官によってボロ雑巾のように使い尽くされてしまった“クールジャパン”。おかげでこの言葉もまもなく死語になろうが、せめてNHKの番組は長く続けてもらいたいと希うばかりである。

Text by Shuhei Matsuoka
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2018年02月28日

明治150年の危うさ

 今年は元号が明治になって150周年とのことで、政府のお偉いさん方はすこしはしゃいでいる。特に安倍首相はそうで、年頭の記者会見では本人の生地、山口県(長州)が生んだ先覚者・吉田松陰の「草莽崛起(そうもうくっき)」などの言葉を持ち出して、やたら自慢気に明治維新を称揚したことだった。
 尊王攘夷を旗印に徳川政権を倒して明治維新を成し遂げたのは薩長土肥を中心とした西国連合軍だが、大いに権勢を誇った薩閥が明治10年の西南戦争(西郷隆盛らの死)と翌年の大久保利通暗殺で勢力半減され、弱小の土佐と佐賀(肥前)も廟堂を追われて明治14年の政変を境に明治政府はほぼ完全な長閥政権となる。だからその末裔を自任する安倍氏が明治150周年ではしゃぐのはわからぬではない。
 しかし、長閥が壟断(ろうだん)した明治政府は日清戦争、日露戦争、そしてかれらの後輩らが日中戦争、ついには太平洋戦争を起こして国内外に膨大な犠牲者を生み、この国をカタストロフィーへと導いたことを忘れてはならない。そして何より、安倍首相の祖父岸信介がその太平洋戦争開戦時、東条英機内閣の商工大臣という重要閣僚であった事実はまことに示唆的で重要な意味をもつ。
 岸信介はA級戦犯として巣鴨拘置所に3年間拘留されたが、サンフランシスコ講和条約発効とともに無罪放免となり、その後、総理大臣にまで栄進する。かれがなぜ死刑にもならず戦後ものうのうと、それも国家のトップにまでなれたのかにはさまざまな憶測がされたが、児玉誉士夫らと共にCIAのエージェントになることと引き換えであったことがアメリカ側証言から最近明らかになっている(ティム・ワイナー著『CIA秘録』に詳しい)。岸は自らの無罪放免とその後の政界復帰、さらにはCIAの工作資金で自民党総裁、総理大臣への道筋をつけてもらう代わりに、アメリカの意向に沿った国家運営と情報提供を行い、いわば日本を売っていたのである。そのいかがわしさを敏感に感じとった当時の若者たちの怒りが60年安保闘争の本質であり、その岸を尊敬し、岸の意思を継いで任期中に改憲を行い、日米安保をさらに強化して自衛隊をアメリカ軍と共に戦争のできる軍隊にしようというのが、外孫の安倍晋三首相というわけだ。
 さて、その安倍首相は1月22日の施政方針演説の冒頭でも、明治150年をネタに次のように意気揚々と述べている。
 「150年前、明治という時代が始まったその瞬間を、山川健次郎は、政府軍と戦う白虎隊の一員として迎えました。しかし明治政府は、国の未来のために、彼の能力を生かし、活躍のチャンスを開きました」
 これは戊辰戦争で朝敵とされて永きにわたり塗炭の苦しみをなめ、挙句に未曾有の原発事故に遭った福島(会津)への見え透いた同情を装い、長州が主導した明治政府の偉大さを印象づける巧みな言い回しとなっている。確かに山川健次郎は後に東京帝国大学総長などを歴任することになるが、これはかれが会津藩家老職の若き軍事総督、山川大蔵(のち浩)の弟で抜きんでた秀才であったことによる例外中の例外にすぎず、ほとんどの会津人は活躍のチャンスどころか屈辱の生涯を送らざるをえなかったのである。
 薩長土を中心とした西軍による会津への想像を超える陰惨な仕打ちとその後の会津人らの悲劇は、ほぼ百年の間、歴史の闇に葬られたままだった。これが世に出るきっかけとなったのは、1971年に『ある明治人の記録−会津人柴五郎の遺書−』(石光真人編著、中公新書)という本が出版されたことによる。この小さな一冊をはじめて読んだときの衝撃はいまだわたしの脳裏に残っているが、“偉大なる明治”の驚愕の裏面史を知れば、明治150周年とはしゃぐ安倍首相の顔がさらに愚かしく腹立たしく見えてくるだろう。
 これは、会津藩の上級武士の五男として安政6年(1859)に会津若松に生まれた柴五郎(のち陸軍大将、明治33年の北清事変でその沈着な行動により世界から賞賛を得た)が、死を間近にして自らの青少年期の記憶を克明につづった貴重な記録である。冒頭に「血涙の辞」とし、「いくたびか筆とれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過して齢(よわい)すでに八十(やそ)路(じ)を越えたり」としたためているが、かれの悲痛な思いはこの「血涙」という一語に凝縮されていよう。
 五郎10歳のときに会津若松城が落城、直前にかれは親類に預けられて難を逃れたが、祖母、母、姉妹の女性たちはすべて自邸で自害し、生き残った者らは俘虜として東京の収容所に移送される。12歳となった五郎はほどなくして土佐藩士・毛利恭助の学僕として預けられることになり、毛利の屋敷に出向くため身支度を整えていたとき、兄太一郎が五郎に袴を着せながら、「土佐藩は会津にとりて旧敵なり、若松城攻囲軍の参謀に土佐の板垣退助ありと聞けり。断じて恥ずかしきことなすべからず」と、帯に小刀を忍ばせたという。
 だが行ってみると、実際は学僕どころか下僕に過ぎず、惨めな扱いを受けることとなる。ある日、五郎は宴席に呼ばれ、芸妓が多数はべる満座の席で、酔って床柱にもたれた毛利から「この小僧は会津武士の子でな、母も姉妹も戦争のため自害して果てたるよ」と言われたことを生涯忘れなかった。「こみ上ぐる涙を呑んで引きさがりたること忘れず。肉親の犠牲を宴会の座興にせること、胸中煮えたぎる思いなりき」と五郎は記している。
 そんな東京での生活も束の間、明治3年5月に柴家ら会津人家族2800戸は下北半島北端の火山灰に覆われた不毛の地、斗(と)南(なみ)藩(現在は原発施設の密集地であるむつ市)に移封され、極寒の地で乞食同然の辛酸をなめることとなる。当地での生活がいかに悲惨だったか、次の一例を挙げれば事足りよう。食べ物が無くなり、家族で犬の死肉を食らう場面がある。五郎少年が口に含んだまま吐き気をもよおすと、父はこう語気荒く怒ったという。
 「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪(そそ)ぐまでは戦場なるぞ」
 五郎はその後、山川大蔵や野田豁通(ひろみち)(青森県大参事、熊本藩士)の世話になる幸運に恵まれ、賊軍の出でも出世の可能性が残されていた職業軍人への道を歩むこととなるが、この遺書は明治11年ごろの陸軍士官学校時代で終わっている。どうあっても明治10年の西郷の死と翌年の大久保暗殺にふれてから記述を了(お)えたかったのだろう。
 「この両雄維新のさいに相謀りて武装蜂起を主張し『天下の耳目を惹(ひ)かざれば大事成らず』として会津を血祭りにあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すこと能わず、結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり」
 洋の東西を問わず「歴史」とは勝者の記録であるとはいえ、これらの出来事が会津人の家々で薩長へのルサンチマン(怨恨)として断片的に語り継がれてはきても、この一書を俟(ま)つまで百年ものあいだ社会的に封殺されてきたという事実は何を意味するのか。“坂の上の雲”を仰ぎ見て近代国家建設に邁進した“偉大なる明治”の裏側におぞましい差別構造が横たわっていたことが、この一事で容易に察しがつくだろう。
 わが土佐も薩長に次ぐ勢力として戊辰戦争に参戦、土佐藩兵は会津戦や二本松戦で大いに戦果を上げ、その功により明治維新以降、板垣退助を筆頭に柴五郎少年の主人となった毛利恭助ら多くの顕官を輩出する。いまでもある年齢以上の福島県人にとって、山口、鹿児島に次いで「高知」は不快な県名のようだが、これは当然のことだろう。
 150年も経っているのにそんな昔のことを、という声も聴こえそうだが、柴五郎が亡くなってわずか11年後にわたし(62歳)が生まれていることを思えば、昔話と一蹴することはできない。いまでも高齢の福島県人が「あの戦争」というとき、それは太平洋戦争ではなく戊辰戦争だというが、これはけっして笑い話なぞではないのだ。
 さても、祖父岸信介を無邪気に敬慕する戦争を知らない長州出のお坊ちゃん総理は、明治150年を機に“偉大なる明治”に倣(なら)って志士気取りで「強い日本を取り戻す」という。ああ、なんとおそろしいことよ。

   Text by Shuhei Matsuoka
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2017年12月25日

土光さんが哭いている

 横浜に本コラムのファンだという女性読者がいて、しばしば温かくも鋭い感想をメールで寄せてくれる。こういう熱心な読者は、迂遠で手ぬるい駄文を戒めるウォッチドッグの役割を果たしてくれるし、思わぬ指摘にインスパイアされることもあって筆者にはとてもありがたい存在だ。
 いつの号だったか、“世界でいちばん貧しい大統領”として有名になった元ウルグアイ大統領のホセ・ムヒカのことを書いたおり、彼女からの一文に「経団連の土光氏を思い出す質素な暮しぶり」とあり、思いがけず懐かしい名に虚をつかれたことだった。土光敏夫(1896〜1988)の存在を、わたし自身がすっかり忘れていたことに気づかされたのだ。
 家でメザシを食べる姿をNHKが放送してから世間では“メザシの土光さん”で有名になったが、この人がたんなる質素倹約家でないのはいまさら云うまでもないだろう。岡山県の農家に生まれ、東京高等工業学校(現東京工業大学)卒業後、東京石川島造船所(のち石川島播磨重工業、現IHI)に入社、一貫してタービン技術者の道をあゆむ。のちに同社社長を経て、経営危機にあった東芝を再建、その後経団連会長など財界トップの座を長く務め、なんと84歳で鈴木善幸首相から請われ第二次臨時行政調査会、臨時行政改革推進審議会の会長として「増税なき財政再建」に命を懸けた高名な人物が、玄関戸を開けるにもコツがいるという築半世紀を超える木造平屋の陋屋に住み、よれよれの浴衣姿でメザシを食っている姿が世間を驚かせないわけがない。
 いや、その程度で驚いてはいけない。「暮らしは低く、思いは高く」「個人は質素に、社会は豊かに」を信条とする土光は石川島社長時代、背広は着古しの一着しかなく革靴も底を何度も張り直して履いていた。ところが東芝社長となって無理やり背広4着を新調させられ、「こんな出費は生まれてはじめてだ」と憮然としていたという。また大会社の社長でありながら一家の生活費が月わずか10万円程度だったのは、母登美がたったひとりで横浜市に創設した私立学校・橘学苑の運営に給料のほとんどを充てていたから。大統領報酬のほとんどを寄付して月千ドルで生活していたホセ・ムヒカとまるで示し合わせたような粗衣粗食のシンプルライフなのだ。
 土光はいまから30年近くも前に91歳で亡くなったが、わたしのかつての印象は質素倹約の“メザシの土光さん”、武骨な経団連会長、“ミスター行革”と通り一遍のもので、世代も離れているせいか特段の興味もなかった。が、その後、かれの名をいろんな本で目にするようになり、10年ほど前に亡父の蔵書にあった『私の履歴書』(日本経済新聞社)を読んだことから本格的に心酔するようになった。
 そしてあろうことか、土光さんのように立派になりたいと氏の座右の銘「日日新、又日新」(日日に新たなり、また日に新たなり)を小さな紙きれに書いて自宅洗面所の前にセロテープで貼ったものである。ところが、その後だんだんと老眼がすすんでちいさな文字は見えなくなり、いつのまにかその紙きれの存在すら完全に忘れてしまっていたことに、冒頭の女性読者の一文で気づいた次第。まさに凡夫の浅はかさ、歳を重ねても一向に立派になれない理由が図らずも判明したのである。
 ちなみにこの言葉、中国古典『大学』にある中国・商時代の湯王のもので、正確には「苟(まことに)日新、日日新、又日新」である。『私の履歴書』の劈頭に土光はこの言葉をあげ、「『今日なら今日という日は、天地開闢(かいびゃく)以来はじめて訪れた日である。それも貧乏人にも王様にも、みな平等にやってくる。そんな大事な一日だから、もっとも有意義に過ごさなければならない。そのためには、今日の行いは昨日より新しくよくなり、明日の行いは今日よりもさらに新しくよくなるよう修養に心がけるべきである』という意味。湯王は、これを顔を洗う盤に彫り付け、毎朝、自誡(じかい)したという。私もこれを銘として毎朝、『きょうを精一杯生きよう』と誓うのだが、凡人の浅ましさ、結果としてはうまくいかない日の方が多い」と謙遜している。
 著名人の自伝はあまた存在するが、わたしはこの『私の履歴書』は近年の白眉ではないかとおもう。まず、「はじめに」からしてふるっている。本を出すことになったいきさつを簡単に述べたあと、こう結んでいるのだ。
 「ただ、読者のみなさまに一つお願いがある。本書の中にある、行革の部分については読んでいただきたいが、私の個人的な経歴については、時間のムダであるから、なるべく読み飛ばしていただければ幸甚である。」
 過去を語るなぞまったく意味はないと自叙伝を頑なに拒んできた土光だから多少の照れがあるにしろ、これは著名人の韜晦(とうかい)趣味ではなく質朴で武骨な明治人らしさと見るべきだろう。
 さて、実業家・土光敏夫の名が最初に世に知れたのは、やはり東芝社長時代だろうか。東京オリンピックの年(昭和39年)に石川島播磨重工業社長の座を退いた69歳の土光は、経営危機にあった東芝の再建を石坂泰三(東芝会長)から頼まれる。石川島時代に関係の深かったブラジルに農地を買って余生を送ることを本気で考えていたかれには青天の霹靂だったが、尊敬する石坂から「オレより10歳も若いやつが隠居とは何事だ」と説得され、断り切れなかったのだ。
 石川島播磨重工業の3倍もある大企業の東芝は次世代エレクトロニクス化の波に乗れず新分野への取り組みが遅れて苦境に喘いでいた。社長に就任した土光はいきなり、「一般社員は、これまでより三倍頭を使え、重役は十倍働く、私はそれ以上に働く」と発破をかけ社内に衝撃を与える。初出社の日、石川島時代と同じく朝7時ごろ出社したら、守衛が「どなたでしょうか」と訊く。「今度ここの社長をやることになった土光という者です」と挨拶したものだから守衛は飛び上がったという、いかにも土光らしい逸話もある。
 まずは、深刻な大企業病を治すため機構の簡素化、冗費の削減、責任体制の明確化を徹底的に行うことにした。重役と一般社員の間の風通しがわるいと見た土光は、「社長が雲の上の人であってはいかん」と、朝7時半から1時間、話をしに来る社員のために社長室を開けた。最初はみな遠慮していたが、半年もたつと1時間では足りなくなったという。さらには全国に30以上もある支社・営業所・工場をすべて見てまわった。本社での仕事の合間をぬって夜行で出かけ、夜行で帰るトンボ返り。今まで一度も社長が来たことはなかったという工場もあり、皆から「オヤジ、オヤジ」と歓迎された。
 「会社の組織図は社長をいちばん上に、次に役員、部長、課長と下に書いてあるが、これはいけない。会社は本来、太陽系みたいなもので、太陽を中心にいろんな惑星が自転しながら軌道を描いて回っているべきだ。仕事上では社長も社員も同格である」が持論で、これらすべての指針を率先垂範で示した。
 また公私の峻別ぶりも見事だった。三女立子さんの結婚式が会社の勤務時間中に行われることになり、土光はやむなくそっと会社を抜け出して30分だけ式場にいてすぐに会社に戻ってきたという。たとえ社長であれ、仕事中に私事―といっても花嫁の父だが―での外出はうしろめたいことだった。
 作家・城山三郎が「一瞬一瞬にすべてを賭ける、という生き方の迫力。それが80年も積り積ると、極上の特別天然記念物でも見る思いがする」と評したのは有名だが、わたしには、早朝ひとり「日日新、又日新」と修行僧のごとく自らに言いきかせるかれの姿が目にうかぶ。
 しかし悲しいかな、かつて日本人の中に奇跡のように存在したこの清冽な精神も、世代が替わるうちにすっかり風化してしまったようだ。
 土光はあるときリーダーの条件を問われ、「総理・総裁にしろ、社長にしろ、リーダーに要求されるのは“無私の人”であること」としたうえで、「トップに立つ人物は、自分からトップになるべきではなく、最もトップになりたくないと思っている人がなるべき」と応じているが、まるで正反対のわが国首相ら政界リーダーたち、そして不正会計で信用を失墜させた後輩の東芝トップらの姿を見たら、はたしてどんな顔をするだろうか。
 わたしには、天国の土光さんの慟哭が聴こえてくるのだが…。
  
Text by Shuhei Matsuoka
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