ことほど左様に渋沢の名が残るものが少ないこともあってか、江戸から昭和まで生きた実業家・渋沢栄一とはどのような人物かを識る人もいまは少ないようだ。が、昨年唐突にお札変更が発表され、福沢諭吉のあとを襲って次の1万円札(2024年から流通)の肖像画に採用されることが発表されるやにわかに注目を集めはじめ、来年のNHK大河ドラマの主人公にも決まり、かれの生地、埼玉県深谷市は渋沢ブームをあて込んで早くも観光客誘致に躍起だという。
それはさておき、経営学の第一人者で「マネジメントの父」「経営の神様」と称されたピーター・ドラッカーが渋沢をことのほか評価していたことはよく知られている。かれはその代表的な著書『マネジメント』(ダイヤモンド社)の序文でこう述べている。
「率直にいって私は、経営の『社会的責任』について論じた歴史的人物の中で、かの偉大な明治を築いた偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出るものを知らない。彼は世界のだれよりも早く、経営の本質は『責任』にほかならないということを見抜いていたのである。」
ドラッカーは日本美術も好きでよく来日したが、もうひとつの目的は日本経済、なかんずく渋沢栄一を調べるためだったと云われている。
かれはまた『断絶の時代』(同)において、岩崎弥太郎と渋沢栄一は日本以外ではほとんど知られていないが、このふたりの業績はロスチャイルド、モルガン、クルップ、ロックフェラーの業績よりはるかにめざましいものだったとして、次のように述べている。
「岩崎は三菱財閥をつくった。三菱は、現在にいたるまで日本最大の工業集団であり、世界的に見ても、最も大きく、最も成功した産業集団の一つなのである。渋沢は一九世紀から二〇世紀にかけて九〇年も生きていたが、その間に六〇〇をこえる産業会社をつくりあげた。この二人だけで、日本の工業、運輸関係企業のおよそ三分の二をつくりあげたのである。たった二人の人間が、一国の経済にこれほど大きな影響を与えた例はどこにも見あたらない。」
そして日本は岩崎流で急速な資本蓄積を行い、渋沢流で史上に類のないほど急速な人的資本の形成と文盲率の低下を実現したとし、「岩崎は巨大で非常に収益力のある会社を残したが、渋沢の遺産は東京にある有名な一橋大学である」と結論している。ちなみに一橋大学の前身、東京高等商業学校とその前身である商法講習所(日本初のビジネススクール)の主導的な運営者は渋沢であった。
ドラッカーはこのようにまったくタイプの違うふたりを共に評価しているが、渋沢と岩崎の確執は本コラムでも何度か触れたように、かれらはいわば宿命のライバルであった。岩崎の社長独裁の独占主義と、広く一般から株主を募って事業を行う渋沢の合本主義(株式会社)では水と油であったからだ。三菱は三代目の岩崎久弥(弥太郎の長男)が経営の近代化を図ったが、弥太郎の時代は会社とは名ばかりで岩崎家を富ませるための大なる装置に過ぎなかった。その点にドラッカーは若干、目をつぶっているようだ。
ところで、「近代日本の創業者」と云える人物は誰かと問われれば、わたしは迷うことなく、日本人のエートスを根底から変えた福沢諭吉と日本の社会構造を根底から変えた渋沢栄一を挙げる。この「両沢」が1万円札の顔を引き継ぐとは実に奇遇ともいえるが、それにもまして、実業家として渋沢が初めてお札の顔になることの意義は小さくない。実業家をお札の顔にすると、その人物の創業した企業グループを贔屓することになりかねぬが、渋沢の場合はささやかに澁澤倉庫一社があるだけで、かれはいわば産業界全体の創業者、「日本資本主義の父」と云える存在であったことから選ばれたと考えられる。かてて加えて、明治維新直後の混乱期に大蔵省に仕官(明治元年〜6年)していた渋沢自身が「円」発行と通貨政策を軌道に乗せたのだから、これほど相応しい人物もいない。
ところで6歳年長の福沢諭吉は渋沢をどう見ていたのだろうか。福沢は岩崎弥太郎と親しく慶應義塾は三菱への人材供給機関となっていたことから、岩崎の宿敵であった渋沢には好感を持ってなかっただろうと思われがちだが、さすがに福沢はそのような偏狭な人物ではない。
明治26年6月11日付け『時事新報』の「一覚宿昔青雲夢」と題した社説で福沢は、官尊民卑の風潮の中、官職を辞して一心に実業の発展に取り組んだ渋沢を高く評価し、「飽くまでも其初志を貫て遂に今日の地位を占め、天下一人として日本の実業社会に渋沢栄一あるを知らざるものなきに至らしめたるこそ栄誉なれ」と絶賛している。
幕臣の福沢は維新後あっさり平民になり、明治政府への出仕を拒んで果断に私立の道を進んだ。そして世に「福沢山脈」と云われるほどの多くの人材を明治社会に送り出した。「門閥制度は親の敵(かたき)でござる」(『福翁自伝』)とまで忌み嫌った封建制度から日本を脱却させ、封建精神から日本人を脱却させるべく「独立自尊」を説いてひとびとの蒙(もう)を啓(ひら)いた福沢と、公利公益のためには民間で産業を興すしかない、という渋沢の断固とした生き方は大いに通ずるところがあった。共に幕末、西洋に渡りつぶさに先進社会を実見してきたという共通点もあるが、何より、出世といえば官途を意味した時代に悠然とこれに逆らった「両沢」こそ、「公」のために「私」を貫いた稀代の二大傑物であったのだ。
豊前中津藩の下級武士の出であった福沢は封建制度を憎み、深谷の農民(藍玉を手広く商う豪農だった)の出であった渋沢は若い頃から士農工商の身分制度と官尊民卑に腸(はらわた)が煮えくり返る思いをしてきた。つまり、封建社会への憤怒が「両沢」の社会変革へのエネルギーとなり、西洋以外で唯一、近代社会をアジアの一隅で誕生せしめる原動力になったのである。
また福沢の信念が「独立自尊」なら、渋沢は「義利合一」である。「義」とは武士道的な倫理観、「利」は利益のことである。それをかれは「論語と算盤(そろばん)」と分かりやすく言い換えて、このふたつは相反する概念ではなく、合一して初めて欧米にも後れをとらぬ産業社会を建設できると考えた。この信念こそが、商業や商売人を見下す官尊民卑の根強い社会風潮を打ち崩す渋沢渾身の鉄槌であった。経営には利益追求のみならず厳しい倫理感が必要であるというこの渋沢の経営理念に、ドラッカーは「経営の社会的責任」という現代的イシューを見出し、その先駆性に驚きと尊崇の念を抱いたのだ。最近は日本でもCSR(企業の社会的責任)、コーポレートガバナンス、コンプライアンスなどとやたら喧(かまびす)しいが、そんなことは渋沢栄一が150年も前に当然のこととして実践していたのである。
渋沢は巨万の富を築くチャンスがいくらでもありながら産業界のプロデューサー、オーガナイザーに徹した。戦後、財閥解体に着手したGHQが渋沢家を調べてその財産があまりに少ないのに驚いたといわれるが、明治維新後に銀行、鉄道、海運、保険、紡績、製紙などあらゆる分野に日本初の株式会社を次々と創業したものの、第一国立銀行(現みずほ銀行)など一部の例外を除き、事業が軌道に乗れば経営から身を引いた。その清廉さは、かれが設立した株式取引所に関する次の一文(口述自叙伝『青淵回顧録』)でも明瞭だ。
「株式取引所の制度は重要な経済機関の一として其の必要を認めて居ったので、自ら率先して其の設立を主張し、その設立に尽力したのであるが、私は主義として投機事業を好まず、絶対に投機並びに之れに類似するものには一切手を染めぬ決心なので、設立後には全然関係を絶ち株主たる事さへも之れを避けたのである。」(鹿島茂『渋沢栄一』より引用)
いま世界を覆う貧富差の異常な拡大や地球環境破壊などは、強欲なグローバル企業経営者や金融資本家たちがひたすら私利を貪る現代資本主義の悪弊にほかならず、かといってこれに代わる持続可能な経済システムも見出だせない情況である。そんな危機的ないまこそ、世界の経済人は渋沢栄一の経営理念と精神を“襟を正して”学ぶべきだろう。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
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