「子規庵」は正岡子規(1867〜1902)とその母八重、妹律が明治27年から住んだ東京・根岸の家を昭和25年に復元したものである。当時の地名は「上根岸鶯横町」で、鬱蒼と木々が生い茂り、通りも薄暗く家々もまばらで森閑としていたという。まさにうぐいすの鳴き声が聴こえる長閑(のどか)な場所だったのだ。
現在はというと、最寄り駅はその名もJR鶯谷駅。せっかくの雅名を受け継ぎながら、都内でも指折りの下卑た猥雑な一帯になっている。電車を降りて地図をたよりに歩くと、すぐにラヴホテル街に入ってしまった。間違えたかと地図を何度も確認するが、そうなっているのだから仕方がない。
怪しげで金ぴかな異空間である真昼間のホテル街を抜けると、忽然としてふるい平屋のちいさな民家が現れる。家のブロック塀に「東京都指定史跡 子規庵」とある。地図は間違いではなかったのだ。
それにしても根岸という江戸の風情をのこす地名と駅周辺のとびきり下品で無秩序な珍開発の落差にはあきれるが、考えようによっては、この姿こそがエネルギッシュに自己増殖し続けるモンスター都市・東京ならではの一相貌といえなくもない。善し悪しはさておき、この無頓着さ、無神経さこそがまさに、“ずばり東京”なのである。
土曜の昼下がりだったが、「子規庵」のお客さんはわたしのほか3人。子規の故郷である伊予松山からはるばる来たという中年の夫婦と、文学座の女性ひとり。文学座で子規を主人公に芝居をやる計画があり、取材にきていたのだ(2017年2月に文学座創立80周年記念『食いしん坊万歳!〜正岡子規青春狂詩曲〜』が上演された)。
説明係のボランティアの男性がひとり居て、子規の病床のあった6畳間の前にわれわれを坐らせて子規と「子規庵」のことを説明してくれる。説明はとても分かりやすくありがたいのだが、反面、じっと独りで子規の病床のあった部屋を眺めていたいという気持ちもあった。あの、半身を少しだけあげてこちらを向いた本人お気に入りの写真。身動きできぬまま激痛に耐えていた子規だが、ふとその写真の子規の方に向かい、話しかけてみたい思いにかられる。
もし子規の病床に向かい、具合はどうですか、と問えば、こちらをちらりと見て、「どうもこうもない、見てのとおりぞな」と伊予弁でニコリとしそうだが、結核菌が脊椎を腐らせる怖ろしい脊椎カリエスの病魔に魅入られた子規は、想像を絶する地獄のなかにあった。腰などあちこちに空けられた大きな穴から膿がでて苦しむその姿に接したら、実際は気軽に声もかけられないだろう。妹の律が毎朝、膿止めのガーゼを取り替えるのだが、そのときの激痛はすさまじく、あたりかまわず子規は泣き叫ぶ。その声は閑(しずか)な鶯横町に響きわたり、近所の子どもたちは気味悪がってこの家を避けて通ったという。
「子規庵」の座敷にじっといると、かれの号泣、叫び声、膿の臭いまでしてきそうだ。
松山市教育委員会が青少年向けに著した好著『伝記 正岡子規』(昭和54年刊)に子規の病床を見舞った古島一雄の残した一文が掲載されている。古島は日本新聞社の記者で子規とともに日清戦争に従軍した同僚である。
「彼の病床を訪ねたものは、彼が生きているのかと疑うであろう。八年間も日光を受けたことのない青白い顔と痩せにやせた細く長い手とは、まず人をギョッとさせる。生きた木乃伊(ミイラ)があるとすると彼はそれである。ほんとうのミイラはそれほどにも感じないが、このミイラの腰の辺は七か所の大きな穴があいて腐った骨は膿となって常に流れ出ているのである。腰の骨盤は減って、ほとんど無くなっている。脊髄はぐちゃぐちゃにこわれている。そして片一っぽうの肺がなくなり片っ方は七分通り腐っている。頭の毛は抜けている。三十六枚の歯はことごとく黒くなって欠けている。どうしてこれで生きておれるのであろう。ああ、天はなぜにどこまで彼をいじめるのであるか。」
ジャーナリストの冷徹な筆致は、子規の絶望的な病状を容赦なく描出する。
だがこんな極限状態にありながら、子規は異常な意志力で俳句、短歌、随筆、評論などを書きまくったのである。横臥したまま書き綴った子規晩年―といっても三十代半ばだが―の『仰臥漫録』『病床六尺』『墨汁一滴』などはその鮮やかな精華で、生きながら腐ってゆく自らの姿をもモチーフにするというリアリズム文学の極致であり、極度の悲惨の中にも巧まざる滑稽とユーモアがあり、読む者はいつのまにか粛然とさせられ、「子規は偉いなぁ」とつぶやくのだ。これらの著作は、近代日本が世界に誇れる文学的偉業といっても言い過ぎではないだろう。
口語と文語のはげしい乖離や文体の不統一などで未だ国民言語となっていなかった日本語の革新を自らの使命として命を燃やした子規―。現代日本語のまさに黎明期、正岡子規(とその畏友夏目漱石)は、われわれがいま不自由なく使っている日本語の建設者であり、生みの親でもあったのだ。
鼻をつく異臭と死臭たちこめる座敷の万年床に横臥するのは、肉体をもったひとりの人間というよりは、一個の強靭な意思が生きながら腐ってゆく肉体を纏(まと)った怖ろしくも崇高な姿であった。そして不思議なことに、この救いようのない重病人の家には大勢の人が集まり、その多くが文芸や学問の世界に名を残すことになる俊英たちだった。虚飾をなによりきらい、本質を見抜く明晰と一途さの裏側におおきな温かさを宿していた子規をひとびとは敬愛し、子規もまた生涯の恩人陸羯(くがかつ)南(なん)や夏目漱石、秋山真之などの友人、同郷の後輩や門下生らをこころから愛した。正岡子規とは、そういう人だった。
この一点だけでも子規の偉さがわかるが、下の忘れがたい逸話を識(し)ったとき、わたしは子規という人の不思議な魅力と稀有な人間力の本源をしっかりとこの目で見たような気がしたものだ。
伊予松山の後輩、寒川鼠骨が新聞社への就職のことで子規に相談に行った。子規のいる日本新聞社は朝日新聞社にくらべて給料がかなり安い。両社に内定していた鼠骨は迷っていた。すると子規は鼠骨の心情を見透かしたように、「それやア日本サ」と、やや急き込んだ調子で言い放った。
「人間は最も少ない報酬で最も多く働くほどエライ人ぞな。一の報酬で十の働きをする人は百の報酬で百の働きをする人よりエライのぞな。収入の多寡は人の尊卑でない事くらゐ分つとろがな。
人は友を撰ばんといかん。『日本』には正しくて學門の出来た人が多い、他の新聞社には碌な人間は居ないぞな。アシでも他へ行けば七十や八十圓は呉れるのだが三十圓で『日本』に居る方がいゝと思つてな。
まあ辛抱おしや。今の内に本をお讀みや。繁華畢竟読書難といふぢやないか。本を讀むのに左程金はいらんものぞな」(寒川鼠骨『子規居士との座談』)
「子規庵」の前庭にはたくさんの草花が無造作に植えられており、写真で見る実際の子規旧宅をよく再現している。訪れたのがさいわい夏だったため軒先にはへちまもぶら下がっていた。子規の命日を「糸瓜忌(へちまき)」というのはよく知られおり、へちまはいわば子規と「子規庵」のシンボルなのである。
明治35年9月18日の朝、衰弱しきった子規は痰が詰まり、ごほごほと咳をしながら、律に持たせた画板を無言のまま引き寄せた。律が子規の使い慣れた細長い筆に墨をたっぷり含ませて渡すと、子規は鶴のように痩せた手で受けとって画板の上の紙にやっとのことで辞世の3句を書き、そして力尽きて筆を投げすてた。
糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
痰一斗糸瓜の水も間に合はず
おととひのへちまの水も取らざりき
翌19日の午前1時、子規正岡常則(つねのり)(通称升(のぼる))はこの家でこときれた。35歳になったばかりだった。
長いながい看病の果て、母八重は「のぼ(升)さん、サアもう一ぺん痛いというておみ」と、ぽたぽたと涙を落としたという。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
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