2017年09月06日

「子規庵」雑考

 一昨年の夏に上京した際、思い立って「子規庵」にでかけた。
 「子規庵」は正岡子規(1867〜1902)とその母八重、妹律が明治27年から住んだ東京・根岸の家を昭和25年に復元したものである。当時の地名は「上根岸鶯横町」で、鬱蒼と木々が生い茂り、通りも薄暗く家々もまばらで森閑としていたという。まさにうぐいすの鳴き声が聴こえる長閑(のどか)な場所だったのだ。
 現在はというと、最寄り駅はその名もJR鶯谷駅。せっかくの雅名を受け継ぎながら、都内でも指折りの下卑た猥雑な一帯になっている。電車を降りて地図をたよりに歩くと、すぐにラヴホテル街に入ってしまった。間違えたかと地図を何度も確認するが、そうなっているのだから仕方がない。
 怪しげで金ぴかな異空間である真昼間のホテル街を抜けると、忽然としてふるい平屋のちいさな民家が現れる。家のブロック塀に「東京都指定史跡 子規庵」とある。地図は間違いではなかったのだ。
 それにしても根岸という江戸の風情をのこす地名と駅周辺のとびきり下品で無秩序な珍開発の落差にはあきれるが、考えようによっては、この姿こそがエネルギッシュに自己増殖し続けるモンスター都市・東京ならではの一相貌といえなくもない。善し悪しはさておき、この無頓着さ、無神経さこそがまさに、“ずばり東京”なのである。
 土曜の昼下がりだったが、「子規庵」のお客さんはわたしのほか3人。子規の故郷である伊予松山からはるばる来たという中年の夫婦と、文学座の女性ひとり。文学座で子規を主人公に芝居をやる計画があり、取材にきていたのだ(2017年2月に文学座創立80周年記念『食いしん坊万歳!〜正岡子規青春狂詩曲〜』が上演された)。
 説明係のボランティアの男性がひとり居て、子規の病床のあった6畳間の前にわれわれを坐らせて子規と「子規庵」のことを説明してくれる。説明はとても分かりやすくありがたいのだが、反面、じっと独りで子規の病床のあった部屋を眺めていたいという気持ちもあった。あの、半身を少しだけあげてこちらを向いた本人お気に入りの写真。身動きできぬまま激痛に耐えていた子規だが、ふとその写真の子規の方に向かい、話しかけてみたい思いにかられる。
 もし子規の病床に向かい、具合はどうですか、と問えば、こちらをちらりと見て、「どうもこうもない、見てのとおりぞな」と伊予弁でニコリとしそうだが、結核菌が脊椎を腐らせる怖ろしい脊椎カリエスの病魔に魅入られた子規は、想像を絶する地獄のなかにあった。腰などあちこちに空けられた大きな穴から膿がでて苦しむその姿に接したら、実際は気軽に声もかけられないだろう。妹の律が毎朝、膿止めのガーゼを取り替えるのだが、そのときの激痛はすさまじく、あたりかまわず子規は泣き叫ぶ。その声は閑(しずか)な鶯横町に響きわたり、近所の子どもたちは気味悪がってこの家を避けて通ったという。
 「子規庵」の座敷にじっといると、かれの号泣、叫び声、膿の臭いまでしてきそうだ。
 松山市教育委員会が青少年向けに著した好著『伝記 正岡子規』(昭和54年刊)に子規の病床を見舞った古島一雄の残した一文が掲載されている。古島は日本新聞社の記者で子規とともに日清戦争に従軍した同僚である。
 「彼の病床を訪ねたものは、彼が生きているのかと疑うであろう。八年間も日光を受けたことのない青白い顔と痩せにやせた細く長い手とは、まず人をギョッとさせる。生きた木乃伊(ミイラ)があるとすると彼はそれである。ほんとうのミイラはそれほどにも感じないが、このミイラの腰の辺は七か所の大きな穴があいて腐った骨は膿となって常に流れ出ているのである。腰の骨盤は減って、ほとんど無くなっている。脊髄はぐちゃぐちゃにこわれている。そして片一っぽうの肺がなくなり片っ方は七分通り腐っている。頭の毛は抜けている。三十六枚の歯はことごとく黒くなって欠けている。どうしてこれで生きておれるのであろう。ああ、天はなぜにどこまで彼をいじめるのであるか。」
 ジャーナリストの冷徹な筆致は、子規の絶望的な病状を容赦なく描出する。
 だがこんな極限状態にありながら、子規は異常な意志力で俳句、短歌、随筆、評論などを書きまくったのである。横臥したまま書き綴った子規晩年―といっても三十代半ばだが―の『仰臥漫録』『病床六尺』『墨汁一滴』などはその鮮やかな精華で、生きながら腐ってゆく自らの姿をもモチーフにするというリアリズム文学の極致であり、極度の悲惨の中にも巧まざる滑稽とユーモアがあり、読む者はいつのまにか粛然とさせられ、「子規は偉いなぁ」とつぶやくのだ。これらの著作は、近代日本が世界に誇れる文学的偉業といっても言い過ぎではないだろう。
 口語と文語のはげしい乖離や文体の不統一などで未だ国民言語となっていなかった日本語の革新を自らの使命として命を燃やした子規―。現代日本語のまさに黎明期、正岡子規(とその畏友夏目漱石)は、われわれがいま不自由なく使っている日本語の建設者であり、生みの親でもあったのだ。
 鼻をつく異臭と死臭たちこめる座敷の万年床に横臥するのは、肉体をもったひとりの人間というよりは、一個の強靭な意思が生きながら腐ってゆく肉体を纏(まと)った怖ろしくも崇高な姿であった。そして不思議なことに、この救いようのない重病人の家には大勢の人が集まり、その多くが文芸や学問の世界に名を残すことになる俊英たちだった。虚飾をなによりきらい、本質を見抜く明晰と一途さの裏側におおきな温かさを宿していた子規をひとびとは敬愛し、子規もまた生涯の恩人陸羯(くがかつ)南(なん)や夏目漱石、秋山真之などの友人、同郷の後輩や門下生らをこころから愛した。正岡子規とは、そういう人だった。
 この一点だけでも子規の偉さがわかるが、下の忘れがたい逸話を識(し)ったとき、わたしは子規という人の不思議な魅力と稀有な人間力の本源をしっかりとこの目で見たような気がしたものだ。
 伊予松山の後輩、寒川鼠骨が新聞社への就職のことで子規に相談に行った。子規のいる日本新聞社は朝日新聞社にくらべて給料がかなり安い。両社に内定していた鼠骨は迷っていた。すると子規は鼠骨の心情を見透かしたように、「それやア日本サ」と、やや急き込んだ調子で言い放った。
 「人間は最も少ない報酬で最も多く働くほどエライ人ぞな。一の報酬で十の働きをする人は百の報酬で百の働きをする人よりエライのぞな。収入の多寡は人の尊卑でない事くらゐ分つとろがな。
人は友を撰ばんといかん。『日本』には正しくて學門の出来た人が多い、他の新聞社には碌な人間は居ないぞな。アシでも他へ行けば七十や八十圓は呉れるのだが三十圓で『日本』に居る方がいゝと思つてな。
 まあ辛抱おしや。今の内に本をお讀みや。繁華畢竟読書難といふぢやないか。本を讀むのに左程金はいらんものぞな」(寒川鼠骨『子規居士との座談』)
 「子規庵」の前庭にはたくさんの草花が無造作に植えられており、写真で見る実際の子規旧宅をよく再現している。訪れたのがさいわい夏だったため軒先にはへちまもぶら下がっていた。子規の命日を「糸瓜忌(へちまき)」というのはよく知られおり、へちまはいわば子規と「子規庵」のシンボルなのである。
 明治35年9月18日の朝、衰弱しきった子規は痰が詰まり、ごほごほと咳をしながら、律に持たせた画板を無言のまま引き寄せた。律が子規の使い慣れた細長い筆に墨をたっぷり含ませて渡すと、子規は鶴のように痩せた手で受けとって画板の上の紙にやっとのことで辞世の3句を書き、そして力尽きて筆を投げすてた。

 糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
 痰一斗糸瓜の水も間に合はず
 おととひのへちまの水も取らざりき

 翌19日の午前1時、子規正岡常則(つねのり)(通称升(のぼる))はこの家でこときれた。35歳になったばかりだった。
 長いながい看病の果て、母八重は「のぼ(升)さん、サアもう一ぺん痛いというておみ」と、ぽたぽたと涙を落としたという。
 
  Text by Shuhei Matsuoka
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2017年05月15日

天然の無常 〜寅彦と漱石〜

 仕事柄、そして趣味としても本はよく読むが、読書がいつのまにか惰性にながれて集中できないことがよくある。そんなとき、読みさしの本をほったらかして寺田寅彦(1878〜1935)の本を引っ張り出す。かれの随筆は、豊かな教養を背景にした科学的視座に上質の諧謔と洒脱を兼ねそなえており、いつ読んでも味わい深く知的快感に浸ることができるからだ。
 寺田寅彦といえば、やはり夏目漱石との関係があまりにも有名である。
 高知県立尋常中学を卒業後、熊本の第五高等学校に入学した寅彦は、五校の英語教授だった夏目金之助(漱石)と運命的な邂逅をする。漱石から英語と俳句を学ぶなかで漱石の深い教養と人間的魅力にふれ、漱石を心底畏敬し、人生の師として親密な関係をもち続けることになる。このことが寅彦をして、世界的物理学者でありながら文学者としての類まれな素質をも開花せしめるおおきなきっかけになったことは疑う余地がない。
 漱石は五校時代に文部省から英国留学を命ぜられ、3年後の明治36年1月に帰国。そのまま東京に居を構え、第一高等学校、東京帝大の英文科講師としての生活をはじめる。そして帰国からちょうど2年後の明治38年1月、正岡子規の弟子である高浜虚子のすすめで『ホトトギス』に『吾輩は猫である』を発表、この一作により漱石は一躍著名人となり、漱石を慕う大勢の弟子たちが夏目家(通称「漱石山房」)に集うようになる。文豪夏目漱石の誕生である。
 ただ、東京帝大の学生として東京住まいをはじめていた寅彦だけは、俄(にわ)か弟子たちとは明らかに一線を画していた。漱石が無名の英語教師だったころから、多いときは月に何度も家を訪れていたのはただひとり寅彦だけだったし、弟子たちが毎週木曜日に決めて(「木曜会」)漱石山房に集まるようになってからも、寅彦だけは別の日に漱石に会いに行っていた。ふたりの関係は、それほどに特別なものだったのだ。
 少壮の物理学者となった寅彦が『団(どん)栗(ぐり)』などの秀逸な文芸作品を『ホトトギス』に発表しはじめると、漱石はその才に驚愕し、「学問、芸術のいかなる方向に進んで行っても、寺田は将来必ず一流になるだろう」と評したというから、さすがに炯眼である。『猫』の水島寒月、『三四郎』の主人公三四郎や科学者・野々宮宗八も寅彦がモデル化されていることはつとに知られたところで、出不精の漱石は家にやってくる寅彦との会話から小説のヒントや重要なプロットを得ることも多かった。
 そして寅彦のほうは、漱石から俳句だけではなく、「自然の美しさを自分自身の目で発見すること、人間の心の中の真なるものと偽なるものを見分け、真なるものを愛し偽なるものを憎むべきことも教えられた」(『夏目漱石先生の追憶』)、つまり人生のすべてを教わったといっても過言ではないだろう。
 さて、物理学者・池内了氏ほか各界の寅彦ファンが現代に寺田寅彦の偉業を伝える重要な役割を果たしているが、とりわけ6年前の東日本大震災を機に寅彦にふたたび光が当たってきたことは、寅彦ファンのひとりとしてわが意を得たりの感がある。
 寅彦の著作から地震・津波などに材をとった随筆を集め再編集した『天災と日本人』(角川ソフィア文庫)と『天災と国防』(講談社学術文庫)が平成23年に立て続けに出版され、平成26年には寅彦の弟子の物理学者・中谷宇吉郎(「雪は天からの手紙」の言葉で知られる北大教授)の『寺田寅彦の追想』(昭和22年刊)が文庫化され『寺田寅彦−わが師の追想−』(講談社学術文庫)として出版された。出版界にいま、ちいさな寅彦ブームが起こっているのだ。
 寅彦の随筆は、岩波文庫版の『寺田寅彦随筆集』(第1巻〜第5巻)に主要なものは収録されているので皆さんも一読されればとおもうが、上に挙げた“天災”を冠した2冊は吉村冬彦などの筆名で書いた文芸作品ではなく、地球物理学者ならではの卓抜な科学評論集となっていて、阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震など未曽有の災害に見舞われた日本人にはまさに必読書である。
 たとえば『天災と日本人』にある『日本人の自然観』と題する随筆には次のような、はっとさせられる箇所が多い。
 「西欧科学を輸入した現代日本人は西洋と日本とで自然の環境に著しい相違のあることを無視し、したがって伝来の相地の学を蔑視して建てるべからざるところに人工を建設した。そうして克服しえたつもりの自然の厳父の揮(ふる)った鞭(むち)のひと打ちで、その建設物が実に意気地もなく潰滅(かいめつ)する、それを眼前に見ながら自己の錯誤を悟らないでいる、といったような場合が近ごろ頻繁に起こるように思われる」
 これは寅彦最晩年の昭和十年に『東洋思潮』に掲載された文章だが、まったく現代社会そのままであることに驚く。そしていっぽうで、「日本人を日本人にしたのはじつは学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よく続けられて来たこの災難教育であったかもしれない」(『災害雑考』)などと大真面目に云う。
 日本が世界にも稀な多様で美しい自然に恵まれている反面、自然災害の頻発地であるがために、自然の猛威にさからうのではなく、ある種の諦観を深奥に据えて自然を受容しつつ生きるという、いわば「天然の無常」が日本人をして賢い民族たらしめたと寅彦は考えるのだ。
 「思うに仏教の根底(こんてい)にある無常観が日本人のおのずからな自然観と相調和するところのあるのもその一つの因子ではないかと思うのである。鴨長明(かものちょうめい)の方丈記を引用するまでもなく地震や風水の災禍の頻繁でしかもまったく予測し難い国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓(ごぞう)六腑(ろっぷ)に浸(し)み渡っているからである」(『日本人の自然観』)「おそらく日本の自然は西洋流の分析的科学の生まれるためにはあまりに多彩であまりに無常であったかもしれないのである」(同)
 宗教学者の山折哲雄氏は『天災と日本人』の巻末解説で、哲学者・和辻哲郎(漱石門下のひとり)の著書『風土』と比較して「日本の風土を考察するとき、和辻哲郎がその台風的契機を重視して『慈悲の道徳』に着目したのにたいし、寺田寅彦がそこから地震的契機をとりだして『天然の無常』という認識に到達していたことの対照性に、私は無類の知的好奇心を覚えるのである」と結んでいるが、じつはこの寅彦の「天然の無常」観にこそ、わたしは漱石の影響をみるのである。
 たとえば画家・津田青楓にあてた漱石の手紙の一節。
 「世の中にすきな人は段々なくなります。そうして天と地と草と木とが美しく見えて来ます。私はそれをたよりに生きています」
 これが漱石晩年の境地「則天去私」(私を去り身を天然にゆだねる)のエッセンスであり、寅彦にもそのまま引き継がれたと考えていいだろう。寅彦には、長女を産んで間もなく、あっけなくも21歳で世を去った妻夏子への哀惜があり、漱石もまた無二の親友正岡子規の死に追い打ちをかけるように五女雛子を生後1年半で喪う。ふたりには死があまりにも身近にあり、自らの運命を受容せざるをえない無常観とふかい悲しみを共有していたのである。そして、漱石が寅彦に手ほどきした俳句こそは、まさに「天然の無常」を基底にした日本固有の芸術であったのだ。
 じつは寅彦は、漱石が知らぬ者なき文豪となってゆくことを、内心では喜んではいなかったようだ。漱石を客観視するには身近すぎ、思慕しすぎていたのである。
 「先生が俳句がうまかろうが、まずかろうが、英文学に通じていようがいまいが、そんなことはどうでもよかった。況(いわ)んや先生が大文豪になろうがなるまいが、そんなことは問題にも何もならなかった。むしろ先生がいつまでも名もないただの学校の先生であってくれたほうがよかったではないかというような気がするくらいである」(『夏目漱石先生の追憶』)
 土佐が生んだ広大無辺の知の巨人、寺田寅彦―。
 馬鹿のひとつ覚えのごとく「龍馬、龍馬」と騒ぐのではなく、われわれ土佐人は寺田寅彦をこそ誇るべきであり、その寅彦を見出し、寅彦の人間と才を愛し、寅彦を斯界最高峰の知性へと導いた夏目漱石にも、おおいに感謝すべきなのである。

 先生と話して居れば小春哉 (牛(ニュー)頓(トン))  ※牛頓は寅彦の筆名のひとつ
 
Text by Shuhei Matsuoka
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2017年02月03日

「選択の自由」の顛末

 昨年末だったか、テレビの報道番組で訳知り顔のコメンテーターが何気なく喋った内容があまりに衝撃的で、素っ頓狂な声をあげてしまった。
 かれはたしか、こう言ったのだ。
 「マイクロソフト創業者のビル・ゲイツ氏の総資産は、株や為替の動きで毎日1千億円ほど上下し、変動が大きいときはそれが5千億円に達する」
 この天文学的な数字が一個人の資産の、それもたった1日の変動額というのだから、世界一の金持ちというのはまことに気の毒としか云いようがない。よくそんな状態で精神に異常をきたさず日々暮らしていけるものだとおもうが、このテレビ番組から1ヵ月ほどして流れたさらなる驚愕ニュースは、もはや余人の想像をはるかに超えていた。
 フランス通信社AFPの報じたところによると、貧困撲滅に取り組む国際NGO「Oxfam」が次のような内容の報告書を出したという。
 「いま世界人口のうち所得の低い半分に相当する36億人の総資産と、世界でもっとも裕福な富豪8人の資産額は同額である」
 この8人とは、米誌「フォーブス」の世界長者番付上位のアメリカ人6人、スペイン人1人、メキシコ人1人で、この中にはマイクロソフト共同創業者のビル・ゲイツ、SNS最大手フェイスブック共同創業者のマーク・ザッカーバーグ、ネット通販最大手アマゾン・ドットコム創業者のジェフ・ベゾスが含まれているという。
 この国際NGOは、「格差が『社会を分断する脅威』となるレベルにまで拡大している」と警鐘を鳴らしているが、いま地球上の富の偏在は、「格差」なぞという呑気(のんき)な流行り言葉で表せるような、そんな生易しいレベルにはもうないと断じてよさそうだ。
 わたしはこのニュースを見て、シリアやイラクやウクライナなどの凄惨な紛争、難民問題、ISの隆盛と世界中で頻発するテロ、トランプ米大統領の登場、英国のEU離脱、欧米各国の右傾化、ヘイトスピーチの蔓延など地球上で人類が直面しているすべての深刻な社会問題や国際問題がこの異常なほどの富の偏在に起因し、その結果、社会の分断どころではなく、すでにわれわれ人類は第3次世界大戦に突入しているのではないかという暗い直感すら覚えたほどだ。
 そして同時に、わたしの脳裏にある人物の姿が浮かんだ。足尾銅山の鉱毒問題ですべてを擲(なげう)って住民とともに闘った政治家・田中正造を彷彿させるような、顔一面に白鬚をたくわえた老経済学者―。2014年9月に86歳で亡くなった、宇沢弘文氏である。
 氏は戦後日本を代表する経済学者で、アメリカや日本を中心に猖獗(しょうけつ)をきわめる市場原理主義という誤った経済システムが地球環境をおおきく破壊し、富の偏在をとめどなく拡散させることに警鐘を鳴らし続け、「社会的共通資本」を基軸概念とする、人間を中心に据えた新しい経済学の構築を目指し、またその必要性を世に問い続けた人物だ。
 社会的共通資本とは、大気・水・森林・河川・海洋・土壌などの「自然環境」、道路・交通機関・上下水道などの「社会的インフラストラクチャー」、教育・医療・福祉・行政などの「制度資本」という3要素からなる概念で、これらは貧富、人種、地域にかかわらずすべての人が公正・公平に享受できなければならない基本的な要件であるとした上で、優勝劣敗の市場原理をこれらの分野に野放図に導入してはならないとする。社会的共通資本は万人の共有物「コモンズ(Commons)」なのだという考えなのだ。
 わたしなどはきわめて健康的で常識的な理念だとおもうが、しかし1980年頃から世界を席巻してきた「新自由主義(Neoliberalism)」―その本質は徹底的な市場化と規制緩和により人間社会のすべてを儲け(売買)の対象とする “市場原理主義”なのだが―という巨大な妖怪の前で、この宇沢経済学は青息吐息である。
 1980年、アメリカの経済学者でノーベル経済学賞受賞者であるミルトン・フリードマンと妻ローズの共著『選択の自由(FREE TO CHOOSE)―自立社会への挑戦―』(邦訳は日本経済新聞社版)が出版された。経済成長を阻む環境保護運動や消費者運動を批判し、公共セクターの徹底した民営化、聖域なき規制緩和・自由市場化などを説くこの野心的な1冊は世界各国で翻訳され、フリードマンを教祖とする市場原理主義は世界中に輸出されてその信者を生み出してゆく。
 バブル崩壊後の不況に喘ぐ属国・日本はとりわけ格好のターゲットとなり、アメリカの強い意向に従って規制緩和や自由市場化が強力にすすめられることになるが、その最たる例が、ブッシュ政権からの意向を受けた小泉・竹中改革であった。このときから日本は郵政民営化、三位一体改革にとどまらず教育、福祉、医療など最重要な社会共通資本にまで容赦のない市場原理を導入し、いわば商品化してしまったのである。
 たとえば小泉政権時代、新自由主義を信奉する竹中平蔵氏の発案であろう、教育事業の一環として子どもたちに株で儲ける楽しみを教えようと小学校で株式投資の授業をはじめたことが大々的に報じられたが、日本における教育の商品化は、アメリカから直輸入されたこのようなおぞましい洗脳政策とともに進行していったのである。
 ついでに教育関連でいえば、宇沢氏はシカゴ大学経済学部の教授時代、同僚であったフリードマン教授の次のような発言を直接聞いたという。
 「黒人問題は経済的貧困の問題だ。黒人の子どもたちは、ティーンエイジャーのとき遊ぶか勉強するかという選択を迫られて、遊ぶことを自らの意思で合理的に選択した。だから上の学校に行けないし、技能も低い。報酬も少ないし、不況になれば最初にクビになる。それは黒人の子どもがちゃんと計算して遊ぶことを合理的に選択した結果なのだから、経済学者としてとやかく言うことはできない」
 そのとき、ある黒人の大学院生が立ち上がってこう言った。
 「フリードマン教授、私に両親を選ぶ自由などあったでしょうか?」
 これは宇沢氏と経済評論家・内橋克人氏の対談『始まっている未来―新しい経済学は可能か―』(岩波書店、2009年刊)に出てくる挿話だが、このフリードマンと学生のやりとりにこそ、すべてが象徴されていよう。
 もちろん教育ばかりではない。地球温暖化防止策と称してCO2排出権という奇怪な金融商品をつくり出し、市場で売買するという暴挙が世界中で平然と行われているのはご存知のとおり。人類すべての共有財産であるはずの地球環境すらも商品化し、投機の対象とする金融資本家らの抜け目なさと奸智にはあきれるばかりである。
 だがいっぽうで、資本主義社会においては優秀な人がそれだけ儲けるのは当たり前で、それが社会に活力を生み出すのだ、という声も聴こえてきそうだ。これは市場原理主義者たちが金科玉条とする理屈だが、しかしこの異常な富の偏在を見れば、そんな一般論で片付けられる話でないことは明らかだろう。宗主国が植民地を一方的に収奪する帝国主義の構造さながら、法的な歯止めを持たない弱者収奪の仕組みを制度的につくり出す理念こそが新自由主義であり、市場原理主義だということだ。人間の欲望を是とする資本主義社会において、もし社会制度に適正な規制や倫理的規範を設けなければどうなるか、その明瞭な結果が超富豪8人と36億人のニュースなのである。
 「選択の自由」という美名の下、いつのまにか身のまわりのすべてが市場化・商品化され、儲けの対象となり、ほんの一握りの強者による徹底した弱者収奪が合法的に、それもグローバルに行われる―。そんな非人間的で残酷な社会を、われわれは本当に望んだのか。
 余談だが、『始まっている未来』には若い研究者時代の竹中平蔵氏(現在は人材派遣会社パソナグループ取締役会長で安倍政権ブレーン)の驚くべきエピソードも出てくる。すでに著名な学者だった宇沢氏に読んでもらいたいと、竹中氏から自著が送られてきた。ところがその内容は竹中氏ともう一人の研究者とが共同研究を行っていたもので、それを竹中氏は自分だけの研究成果として勝手に本にして送ってきたことが分かったのだ。そのことを宇沢氏は本書で明かし、この剽窃(ひょうせつ)行為は研究者としてはもちろんのこと、人間としてもっとも恥ずべき行為であると切り捨てている。
 むべなるかな、である。
Text by Shuhei Matsuoka
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2016年12月13日

「私立」とはなにか 〜諭吉と鴎外〜

 関西の名門私立大学を出、卒業後に同大学の職員となって学友会などの仕事を続けた知人がいる。かれの愛校心の旺盛さは並大抵ではなく、それはかれの個性であり微笑ましくもある反面、長いことその愛校心を奇異に感じていた。ところが最近、その理由がすこしわかってきた。どうもわたし自身が国立大学出であることと関係しているようなのだ。
 そもそも、私立大学にはすべからく創立者がおり、“建学の精神”が存在する。これは当たり前のことである。ある人が崇高な志をたて、資金をあつめ、勇を鼓して学校をつくる。創立者のつよい思いが独自の校風をつくり、学生や卒業生にもゆきわたる。愛校心を涵養する要素がもともと存在するわけだ。
 いっぽう国立大学に創立者はいないし、その学校ならではの“建学の精神”なぞない。国が国家予算をつかって計画的につくった大学なのだから、これまた当たり前のことである。授業料は優遇されるが、国立大学に「学問の自由」や「大学の自治」が本当に存在するのかすら疑わしいほどだ(安倍政権の強権的で愚かしい国立大学改革を見よ)。
 つまり、私立にくらべ国立(官立)にはそもそも学生や卒業生たちに愛校心の芽生える要素がきわめて希薄で、わたしに愛校心がうすいのは至極当然のことなのだ。そして、くだんの知人の愛校心がすこしうらやましく思えてきた次第。
 そこで、あらためて「私立」というものを考えてみたい。
 私立、とはつまり政府(お上)から独立したもの、ということである。象徴的な例として、ふたりの人物を想起しよう。慶應義塾を興し、維新後は一貫して「私立」を貫き、それを矜持(きょうじ)として生きた啓蒙思想家の福沢諭吉と、軍医で文学者だった森鴎外である。
 福沢諭吉は天保5年(1834年)に豊前国(現大分県)中津藩の下級士族・福沢百助の次男として大坂堂島の同藩蔵屋敷で生まれた。その28年後の文久2年(1862年)、石見国(現島根県)津和野に藩医・森静男の長男として森林太郎(鴎外)は生まれている。
 31歳で幕臣(外国奉行翻訳方)に召し抱えられた福沢は明治維新までに3度洋行して世界を識(し)り、35歳で世界史上まれにみる維新回天に直面する。そしてその衝撃をエネルギーとして慶應義塾でおおぜいの若者に文明のなんたるかを教え、膨大な書物や評論を書いて国民の蒙を啓(ひら)き、日本という国をあり得べき姿に導くことを使命として倦(う)むことなく邁進した、まさに「一身にして二生を経た」人生であった。
 福沢の口癖は、云わずと知れた「独立自尊」である。「一身の独立なくして一国の独立なし」との名言も遺したが、この「独立」こそが日本を一人前の国家たらしめる必須条件であり、福沢の考える「私立」のバックボーンでもあった。
 また福沢は、学問というものは本来、官許のものではなく「私立」であるべきと説き、学者のほとんどが新政府に入って禄を食(は)む姿を難じている。『学問のすゝめ』において福沢は、「今の世の学者、この国の独立を助け成さんとするに当たって、政府の範囲に入り官に在って事をなすと、その範囲を脱して私立するとの利害得失を述べ、本論は私立に左袒(さたん)したるものなり」とし、「無芸無能、僥倖(ぎょうこう)に由(よ)って官途に就き、慢(みだり)に給料を貪って奢侈の資(もと)となし、戯(たわむ)れに天下の事を談ずる者は我輩の友に非ず」とまで云う。
 『学問のすゝめ』とは、福沢が渾身の力で書いた「私立のすゝめ」でもあったのだ。
 福沢の死の翌年(明治35年)に生まれた小林秀雄は福沢の『痩(やせ)我慢(がまん)の説』を引き、「『私立』は『痩我慢』である」(『考えるヒント』文春文庫)と喝破している。これは幕府の重臣でありながら維新後に恬然として新政府の顕官となった勝海舟と榎本武揚の出処進退を福沢が激しく難じた有名な一文だが、「私立」するとは痩せ我慢を通すことにほかならぬことを小林は福沢から学んだともいえる。東京帝大出ながらその後は作家・評論家として「私立」を貫いた小林が福沢につよいシンパシーをもったのも頷けよう。
 では一方の森鴎外はどうか。
 鴎外は郷党の期待を一身にうけて明治10年、東京大学の創立と同時にわずか15歳で医学部に入学し、19歳で卒業した俊秀である。卒業後は軍医としてドイツに官費留学し、のち軍医の最高位である陸軍軍医総監にまで上り詰める。また、類まれな文才にも恵まれ、知らぬ者なき文豪ともなった。
 この鴎外の人生を俯瞰して際立つのは、長州閥との濃厚な関係である。
 津和野は長州に隣接する4万3千石の小藩で、長州のいわば属国であった。鴎外は長州閥が牛耳る陸軍に職をもとめ、敬慕した乃木希典(長州藩支藩の長府藩士)の明治天皇への殉死に衝撃を受けて切腹や殉死に材をとった歴史小説を書きはじめ、さらには歌会などを通じて長閥のトップ山縣有朋ときわめて親密な仲となる。小藩出身ながら出世できたのは山縣あってのことだともいわれる。このように長閥とのふかい関係を背景に国家権力の中枢に入り、軍医として栄達の途を歩みながら、いっぽうで文学者という「私」の部分を持ちつづけ、夥(おびただ)しい数の文学作品や翻訳作品を残したのである。
 高級官吏と文学者という「公」と「私」を一身のうちに抱えた人生は、「一身にして二生を経た」福沢とはまたちがった困難な途であった。山縣が主導したフレームアップとされる大逆事件(幸徳事件)とその後の言論弾圧に対し批判的な作品を書くなど、鴎外はふたつの立場に引き裂かれることにもなる。かれが次のように遺言したことは、それを象徴していよう。
 「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死ノ別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス森林太郎トシテ死セントス 墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラズ 書ハ中村不折ニ委託シ宮内省陸軍ノ栄典は絶対ニ取リヤメヲ請ウ」
 臨終に際し、官僚として栄達をもとめた自らの人生、さらには文学者・森鴎外からもきっぱりと決別し、ただの石見人森林太郎として死ぬことを選んだのだ。日本近代史にのこる、まことに痛切な遺書といわざるをえない。
 福沢諭吉と森鴎外は、親子ほども齢がちがうこともあり、直(じか)に接したことはないかもしれない。だが、福沢の弟子の細菌学者・北里柴三郎(のちに慶應義塾大学医学部を創設)が鴎外ら東京帝大グループと脚気の原因や伝染病研究所設立の件で暗闘を繰り広げてきたこと、北里が第1回ノーベル生理学・医学賞を受賞できなかった背景に鴎外ら東大閥の妨害があったとされることからも、生前の福沢は鴎外に好印象をもってなかったろう。
 しかし鴎外のほうはそうでもなかった。
 『福翁自伝』で福沢が、文章は勇気をもって自由自在に書くべきだが、論難した相手を前にして堂々と言えないようなことは書いてはならない、それは無責任の毒筆だと断じている箇所に鴎外が「感心した」と云ったことが、慶應塾長であった小泉信三のエッセイ(『ペンと剣』ダイヤモンド社)に出てくるし、福沢が亡くなってのち明治43年に鴎外は慶應義塾大学文学科顧問に迎えられ、「三田文学」創刊に携わって自ら編集委員になり、これにいくつかの作品を掲載している。鴎外は文学者として、福沢の「私立」を貫く生きざま、潔さにある種の憧憬の念を抱いていたと思われる。
 ところで、近代日本に名を成したこのふたりの生き方を考えるとき、明治維新を福沢が35歳で迎え、鴎外はわずか6歳だったことを見逃してはならないだろう。
 人生半ばの働き盛りで大転換期を迎えた福沢は自らの出処進退をはっきりとここで決める必要があり、幾度となく政府から請われながら決然として「私立」の途を選んだ。もちろん位階勲等も拒んだ。が、鴎外は日本がすでに近代国家の体を整えつつあったころに東京大学(慶應義塾に対抗して明治政府が設立)を卒業し、長閥のツテを頼りに官途に就いて出世を目指すコースに衒(てら)いもなく乗ったように見える。
 しかし文学者でもあった鴎外に、「私立」しなかったことへの負い目はなかったか。かれの遺言や福沢へのある種の憧憬は、それを暗示しているようにわたしには思える。
 「私立」とは畢竟(ひっきょう)、痩せ我慢することであり、その矜持であり、一身独立の方途である。これは現代の私立大学や企業の経営にも、もちろん通ずることであろう。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html

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2016年06月27日

ムヒカの箴言

 アメリカ大統領選もいよいよ大詰めだが、本稿ではすこし視点を変えて、現職のオバマ大統領に注目したい。
 任期満了が近づき政治的影響力が落ちた首相や大統領を、“レームダック(lame duck)”と称することがある。足のわるい鴨、つまり「死に体」という意味だ。欧米政界の俗語で、2期目もいよいよ終章に入ったオバマ大統領は昨年あたりからそう揶揄されている。
 だが、レームダックは、じつは悪いことばかりではない。次の選挙がないので、もともとやりたかったことをかなり自由に、そして大胆にやることができるからだ。
 アメリカ人にとって、1年半前には想像もできなかった2つの出来事が立て続けに起こった。昨年7月20日、バラク・オバマはアメリカの現職大統領としては88年ぶりにキューバの首都ハバナに降り立ち、54年ぶりに両国は国交を回復した。そして今年5月27日には、現職大統領としてはじめて被爆地・広島を訪問したのである。
 キューバは、米ソ核戦争寸前までいったキューバ危機以来のいわくつきの国、アメリカの喉もとに突きつけられた匕首(あいくち)に譬(たと)えられる社会主義国だ。そして広島はアメリカが人類史上はじめて実戦で原爆を投下し、20万人もの無辜(むこ)の民を殺戮して壊滅させた都市。ともに歴代の大統領が目をそむけつづけてきた場所である。永きにわたり喉の奥に刺さったこのふたつの厄介なトゲを、オバマは任期中に取り去ったのである。これは、初のアフリカ系でなおかつ左派系大統領であるオバマにしかできなかった快挙だろう。
 さて、話は北米から南米にとぶ。
 日本のほぼ真裏にウルグアイという人口300万人の国がある。ブラジル、アルゼンチンという大国に挟まれた、牧畜を主産業とする小国である。サッカーの古豪としても知られ、FCバルセロナのウルグアイ人選手スアレスはメッシ、ネイマールに並ぶスーパースターだ。
 じつはこの南米の小国に、もうひとりのスーパースターがいるのをご存じだろうか。昨年まで同国大統領だった、ホセ・ムヒカ(81歳)である。
 2012年のリオデジャネイロでの国連会議で、過剰消費社会とグローバリズムへ警鐘を鳴らす名演説を行って「世界でもっとも貧しい大統領」として世界中で有名になり、今年4月には夫婦で初来日して日本でも話題になった。
 首都モンテビデオ郊外の貧しい家庭に生まれたムヒカは10代から政治活動をはじめ、1960年代初期に当時の独裁政権に反抗する極左武装組織トゥパマロスに加わる。ゲリラ活動による投獄は都合4回、2度は脱獄したもののリーダー格として活動中に6発の銃弾を浴びて再投獄され、奇跡的に命は取りとめたが最後の投獄は13年間に及んだ。激しい拷問にくわえ、換気口もトイレもない蛸壺のような狭い独房に10年間にもわたり投獄され生死の境をさまよったのである。そして、ウルグアイにもついに民主化の流れが及び、1985年に釈放となってのち1994年に下院議員に当選、2010年にはなんと第40代大統領(〜2015年)に就任するのである。
 まことに過酷で数奇な人生だが、かれが世界中で有名になった理由はそれだけでない。
 大統領公邸ではなく郊外の古い平屋に上院議員の奥さん、事故で前足一本を失った小型犬、猫、ニワトリと一緒に暮らし、月給の9割を慈善事業に寄付してわずか月千ドルでの生活。資産といえばトラクター1台と1987年製のフォルクスワーゲン1台だけで、いつもはワーゲンを自分で運転するが、やむをえず公用車に乗る時もけっして運転手にドアを開け閉めさせない。そして後部座席ではなくかならず助手席に乗るのは、襲撃されたとき運転手だけを犠牲にしたくないためだ。外遊しても一切その費用を請求せず、飛行機だって大統領専用機ではなく一般機のエコノミークラスに乗る。そしていかなる公式の場でもノーネクタイにジャケット、ローマ教皇の前であれ国連での演説であれそうだ。
 しかし、ムヒカをたんなる質素な変わり者の爺さんと見誤ってはいけない。
 かれのすごさ、すばらしさは、東西の歴史や哲学から学んだふかい教養と実行力、卓越した人間力にある。ホセ・ムヒカは決して聖人ではない。腹を立てれば毒づくし、したたかさももっている。国民の貧富の差をなくすことを最大の目標とするが、いっぽうでプラグマティズムを貫く筋金入りの老練な政治家なのである。2013年にはミハエル・ゴルバチョフの推薦で、2014年にはさらに多くの政治家や学者が推薦してノーベル平和賞にノミネートされたことでも、かれの人物レベルが分かろう(「受賞した場合には辞退する」と発言していたため受賞しなかった)。
 そのムヒカが初来日した重要な目的のひとつは、被爆地・広島を訪問することだった。人類が犯したもっとも愚劣な罪とその歴史に直接ふれたかったのだ。そして、かれが広島を訪れた翌月、現職のアメリカ大統領がはじめて被爆地・広島の地を踏んだのである。
 一見、まったくの偶然に見える。が、これはじつに示唆的な出来事なのである。
 2012年の初め、この二人は南米コロンビアで開かれたサミットではじめて顔を合わせ、晩さん会でたまたま隣同士になり長時間話す機会を得た。このとき、二人は互いにとても好い印象を持った。ムヒカはのちにこう述べている。
 「オバマは、アメリカの他の政治家と比べると急進左派だ。だから、言ってやったよ。『アフガニスタンから撤退しなさい』とね。オバマは笑っていた。…(中略)…現在のアメリカの置かれた状況を考えると、オバマは最高の大統領だ」(『悪役―世界でいちばん貧しい大統領の本音』汐文社)
 このあと、オバマが「自分の任期中にアフガニスタンから完全撤退する」と宣言したことは周知のとおりだ(残念ながら現地事情の悪化から昨年10月に任期中の撤退断念を発表)。
 2014年5月にムヒカはホワイトハウスの大統領執務室にも足を踏み入れている。元極左ゲリラで米政府のブラックリストにも載る南米の指導者がこの部屋に入るのは前代未聞のことだったが、このとき二人の間で語られたことはさらに前代未聞だった。アメリカとキューバの国交回復の可能性を模索する内容だったのだ。
 ムヒカは若いころキューバを訪れてチェ・ゲバラやフィデル・カストロに会い、キューバ革命の輝かしい成功をお手本にウルグアイでも社会主義革命を起こそうとしたのだ。そんなムヒカにオバマは、「あなたのご友人に、和解を模索するチャンスだとお伝えください」と、キューバとの仲介役を頼んだのである。まさに歴史が動いた瞬間だった。
 その後の二人は、しばしば直通電話で話をするほどの仲よしである。オバマはムヒカを人生の先輩として、そして艱難(かんなん)を乗り越える強靭な精神力と人類の未来に警鐘を鳴らす叡智にふかい尊崇の念を抱き、いっぽうのムヒカは、アメリカ史上初めてのアフリカ系大統領で人権派でもあるオバマにつよいシンパシーと期待を抱きつづけてきたのだ。
 ムヒカの広島訪問は今年の4月10日、東京外国語大学での講演やテレビ出演などのための初来日で実現した。「絶対に行かねばならない」と言いつづけた広島は、かれにとって特別な場所だったのだ。一方このころ、伊勢志摩サミットで来日するオバマの広島訪問が取り沙汰されていたが、国内世論への配慮から実現が危ぶまれていた。ところがムヒカが広島を訪れたちょうど1か月後の5月10日、ホワイトハウスはオバマの広島訪問を正式発表する。そして5月27日、オバマは現職のアメリカ大統領としてはじめて広島の地に立ち、あの歴史的な演説を行うのである。
 わたしが何を言いたいかわかっていただけるだろうか。ムヒカが心を揺さぶられた広島、その広島にアメリカ大統領が行かないという判断をムヒカが是とするはずはない。それも、信頼している友人のオバマである。
 「アメリカ大統領として広島へ行ける最後のチャンスなんだよ!」
 ムヒカが、そう進言しないほうが不自然だろう。
 ウルグアイには日本からの移民も多かった。日本人の勤勉さや質実さを子どものころから知るムヒカは、もともと大の親日家である。しかしかれは、明治維新や戦後の輝かしい技術立国ぶりに敬意を表しつつも、「日本人は魂をうしなった」と手厳しい。
 「西洋に勝るほどの発展を遂げたが、西洋の悪いところを真似しすぎてしまった。経済成長に躍起になり、かつての良さを見失っているように見える。いくらモノがあっても、モノは幸せにはしてくれない。日本人はいま幸せなんだろうか?」
 この言を虚心に聴く耳すら、日本人はうしなっていないだろうか。
Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
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2016年06月22日

奇しき縁にて候

 昭和33年、大阪市西区西長堀に11階建の高層アパートが建った。通称 “西長堀のマンモスアパート”。日本住宅公団が建てた都市型高層住宅の第1号で、当時としては珍しかった洋風便器やタイル張りのバスルームを完備、297戸というその規模も家賃も破格なら、入居者も有名女優やプロ野球のスター選手もいるという華やかさだった。
 昭和34年12月、このマンモスアパートにはやや不似合いなわかい夫婦が10階に引っ越してきた。産経新聞社出版局勤務の福田定一と妻みどりである。再婚の福田は36歳で妻のみどりは30歳、ふたりはこの年の1月に結婚したばかりの新婚カップルだった。
 一介の若い新聞記者が住めるような家賃ではないが、妻も産経新聞記者でダブル・インカムでもあり、くわえて福田には特殊な事情もあった。この3年前にペンネームを持ち、二足のわらじを履いた作家として頭角を現しつつあったのだ。
 ―司馬遼太郎である。
 ことのき司馬はすでに『ペルシャの幻術師』で第8回講談倶楽部賞を受賞し、中外日報で『梟のいる都城』(のち『梟の城』に改題)の連載を了(お)えたばかりだった。そしてマンモスアパートに入居した翌年の昭和35年に『梟の城』で第42回直木賞を受賞、翌36年3月には産経新聞社を退社するのである。ときに司馬遼太郎、38歳。
 ちょうどそのころのことである。産経新聞の後輩で渡辺司郎という高知生まれの男がマンモスアパートに司馬を訪ねてくる。司馬はこのときのことを、高知市での講演(昭和60年8月8日)ですこしユーモラスに語っている。
 「血液型はO型でした。こまごましたことが表現できない、しかしそれでいて神経こまやかな、典型的な土佐人でした。彼が遊びに来て言いました。
 『これは仕事で言っているのではなくて、自分の国の土佐には坂本竜馬という男がいる。竜馬を書いてくれ』
 べつにそのときにはその気がなかったのです。すぐほかの話に移り、その話は消えました。ところが翌日から一週間ほどですが、おかしなことが続きました。ほかの小説を書くために本を読んだり、資料を読んでいると、必ず坂本竜馬が出てくるのです」(週刊朝日増刊『司馬遼太郎が語る日本』)
 司馬がいう“ほかの小説”とは、ほどなくして連載をはじめる『新選組血風録』と『燃えよ剣』のことで、幕末関連の史料を読み漁って新選組に集中していた時期である。渡辺が帰ったあと、坂本竜馬とやらにはあまり興味がわかないと司馬が何気なく妻にいったところ、意外にもみどり夫人は「わたしは竜馬、ええとおもうわ」と応えたという。司馬の才に惚れ、司馬作品の第一の読者でもあった夫人のこの一言もあり、司馬は次第に知られざる坂本竜馬に引きこまれてゆく。
 竜馬を調べるうちに、「この男はひょっとしたら最高の素材ではないか」と司馬をして大興奮せしめたのは、姉乙女にあてた手紙の数々に垣間見える無類のチャーミングさ、型破りな発想と人間力、そして維新回天の大立役者の一人、勝海舟がことのほか評価していたことであったろう。
 勝が晩年に口述筆記させた『氷川清話』は第一級史料で司馬もむさぼり読んだはずだが、とりわけ次のようなくだりにはするどく感応したにちがいない(講談社学術文庫版より)。
 「坂本が薩摩からかへつて来て言ふには、成程西郷という奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だらうといつたが、坂本もなかゝ鑑識のある奴だヨ」
 「土州では、坂本と岩崎弥太郎、熊本では横井(小楠)と元田(永孚)だろう。
坂本龍馬。彼(あ)れは、おれを殺しに来た奴だが、なかゝ人物さ。その時おれは笑つて受けたが、沈着(オチツ)いてな、なんとなく冒(おか)しがたい威権があつて、よい男だつたよ」
 その結果、作家・半藤一利がいう「竜馬をみつけたのは司馬さんの大スクープ」ということになる。
 39歳の司馬は昭和37年6月21日、まさに満を持して産経新聞夕刊に『竜馬がゆく』(〜昭和41年5月19日)の連載をはじめる。司馬はすでに同年5月から「小説中央公論」で『新選組血風録』(〜昭和38年12月)を、11月19日からは「週刊文春」で新選組副長の土方歳三を主人公にした『燃えよ剣』(〜昭和39年3月9日)の連載を開始するので、1年半ほどの間、竜馬と新選組という真逆の立場から、幕末を舞台にした長編小説3本を同時連載していたことになる。
 司馬遼太郎は一本の青春小説−とあえて云おう―の傑作によって、それまで無名に近かった「坂本龍馬」という、土佐藩を脱藩した一介の無位無官の浪人、おまけに33歳のわかさで死んだ男を日本最大のヒーロー「坂本竜馬」に仕立てあげた。もし司馬がこの男に興味をもたなかったならば、土佐藩郷士・坂本家の次男坊は桂浜の銅像でのみ知られる幕末の志士のひとりに過ぎず、よしんば誰かがその後にかれを見つけて小説などにしたとしても、いまわれわれが知る坂本竜馬には到底なりえてなかったろう。
 ところで、マンモスアパートのことである。
 司馬の後輩の土佐人、渡辺司郎がこのアパートに司馬を訪ねてからほどなくして、司馬は不思議なことに気づく。このマンモスアパートが、偶然にも土佐藩大坂藩邸の跡地に建てられていたことである。作家・司馬遼太郎になったばかりの福田定一は、「おそらく竜馬も来たことがある土佐藩大坂藩邸の上に乗っかって住んでいる」ことに気づいたとき、ただならぬ奇縁を感じたはずだ。
 幕末、この土佐藩大坂藩邸のトップ(小参事)に上り詰めたのが、勝が竜馬と並び称した傑物、岩崎弥太郎である。弥太郎は廃藩置県で土佐藩が消滅するや、大坂藩邸の藩船を譲り受け、この藩邸敷地内で海運会社を興す。これがのちの三菱である。
 弥太郎は竜馬とはソリが合わなかったが、「世界の海援隊をやる」という言葉に刺激を受け、竜馬亡きあと、自らがこの地で海運会社を興すわけである。その場所に歴史作家になったばかりの司馬は偶然にも住んでいて、その竜馬を書きはじめるのだから奇縁というほかあるまい。
 司馬がマンモスアパートに住んだころは長堀川もまだ埋めたてられておらず、玄関前には鰹座(かつおざ)橋があり、近くにはかつて白髪(しらが)橋という橋も架かっていた。この二橋の奇妙な名は、土佐藩が名産の鰹節と白髪山で産する杉・檜を藩船ではるばる土佐から運び込み、藩営の土佐商会を介して大量に売りさばいていた名残りで、川が埋め立てられて長堀通りとなったいまでもそのまま交差点名として残っている。
 また、この旧土佐藩邸跡の一角に、土佐藩の社(やしろ)だった土佐稲荷神社も現存している。古色蒼然としてすこし寂れた風情だが、三菱創業の地であることからいまは三菱グループの守護神となっており、境内は岩崎家や三菱系企業からの寄進物で溢れている。司馬は当時、この神社に保管されていた弥太郎の日記の存在を知り、貸してほしいと訪れたこともあったという。
 『竜馬がゆく』の連載をはじめた翌月、司馬は短いエッセー「上方(かみがた)住まい」にこう述べている。
 「私はいま、かつて土佐藩の大坂屋敷のあった場所に住んでいる。すでにその敷地には十一階だての鉄筋アパートが建っており、その十階にすんでいるのだが、いまなお、アパートの前の橋は、鰹座(かつおざ)橋(ばし)であり、横には、藩邸の守護神であった土佐(とさ)ノ稲荷(いなり)という神社が現存している。
 竜馬の取材のために高知から大阪のすまいへもどってくるときなど、ふと、私の主人公もまた、高知とこの大阪鰹座橋を往復したであろうことをおもって、こどもっぽい感慨をもつことがある」(『司馬遼太郎が考えたこと(2)』新潮文庫) 
 大阪に行く機会があれば土佐稲荷神社を訪れ、目の前のマンモスアパート(現・UR西長堀団地)を眺めつつ、『竜馬がゆく』誕生の奇縁に身をひたすのも一興ですぞ。
   Text by Shuhei Matsuoka
   単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
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2016年03月18日

「岩崎邸」物語

 森鴎外の小説『雁』に、「岩崎の邸」として三菱の創業者、岩崎弥太郎の邸宅が出てくる。舞台は、明治13年の東京である。語り手の“僕”は東京大学の医学生らしいので、鴎外自身のことであろう。こんなくだりがある。
 「その頃から無縁坂の南側は岩崎(いわさき)の邸(やしき)であったが、まだ今のような巍巍(ぎぎ)たる土塀(どべい)で囲ってはなかった。きたない石垣(いしがき)が築いてあって、苔蒸(こけむ)した石と石との間から歯朶(しだ)や杉菜(すぎな)が覗(のぞ)いていた。あの石垣の上あたりは平地だか、それとも小山のようにでもなっているか、岩崎の邸の中に這入って見たことのない僕は、今でも知らないが、兎(と)に角(かく)当時は石垣の上の所に、雑木(ぞうき)が生(は)えたい程生えて、育ちたい程育っているのが、往来から根まで見えていて、その根に茂っている草もめったに苅(か)られることがなかった。」
 明治13年といえば、西南戦争で莫大な財を成し、飛ぶ鳥を落とす勢いの岩崎弥太郎が旧舞鶴藩主牧野家から不忍の池に程近い広大な屋敷を買い取って2年後のことである。
 本郷台地の東端に位置し、房総半島や富士山をも遠望できるこの邸宅はもともと越後高田藩主榊原(さかきばら)家の江戸屋敷であったが、明治維新のどさくさのなか明治4年に西郷隆盛の側近、桐野利秋の邸となった。桐野は幕末までは中村半次郎を名乗り、示現流(じげんりゅう)の達人で“人斬り半次郎”と恐れられた薩摩の壮漢である。桐野のような無学(文字が読めなかったといわれる)で小身の男がこのような豪壮な藩邸をわがものにしていたことでも明治維新がいかにどんでん返しの革命であったかがわかるが、明治6年の政変で薩摩に帰国した西郷と行動を共にするため桐野はこれを牧野弼(すけ)成(しげ)に売りはらった。しかし舞鶴知事となった牧野は東京に住むことなくこの屋敷はそのまま放置され、広大な庭園を有する邸宅を探していた岩崎弥太郎がこれを買い取ったのである。
 この小説のころは、弥太郎が大坂西長堀の土佐藩大坂藩邸で九十九(つくも)商会(三菱商会の前身)を創業してわずか9年、東京日本橋に本拠を移して6年しか経っていないが、三菱(当時の社名は三菱蒸気船会社)はすでに社員数2千人を超える日本最大規模の会社となっていた。日々忙しく飛び回って社員らに檄を飛ばし、毎夜のように政府高官らを料亭で接待して「大臣・参議が三菱の岩崎か」といわれるほどに権勢を誇った弥太郎のこと、多忙を極めていたのかこの屋敷には転居せず一家はまだ駿河台の旧邸に住んでいた。
 つまり、医学生“僕”こと18歳の森林太郎(鴎外)は無人の邸の鬱蒼とした雑木林と、あたり一帯を睥睨(へいげい)するごとき苔むした高い石垣を横に見遣りながら無縁坂を上り下りしていたことになる。わたしははじめて『雁』を読んだとき、「きたない石垣」などのやや下卑た言葉は成り上がった豪商に対する鴎外の心象を表していると感じたが、邸宅は桐野が住んだあとながく放置されたままだったのだからごく自然な描写でもあったのだ。
 弥太郎一家は邸宅を購入して4年後の明治15年8月、母屋を改築してやっとこの地に転居する。多忙の合間を縫っての念願の新居への引っ越し、弥太郎も家族もさぞ嬉しかったろう。だが、残念なことにこのわずか2年半後の明治18年2月、弥太郎は胃がんのため50歳で急死するのである。
 日本の海運の覇を争い、三井と渋沢栄一が手を組んだ共同運輸会社を敵に回してのまさに死闘の真最中のできごとだった。この弥太郎の死去をきっかけに、井上馨、西郷従道などが仲裁に入り、両社は翌年ついに合併に合意。新たに日本郵船会社が設立され、明治のビジネス界を騒然とさせた大激闘はやっとここに終焉を迎えることになる。
 さて、一代の巨商・岩崎弥太郎の葬儀とはどのようなものであったか。
 当時の新聞報道などによれば、2月13日の午後1時過ぎに下谷(したや)茅(かや)町(ちょう)(現在の地名は台東区池之端)の本邸を出棺、長蛇の葬列は湯島切通しの坂を上り、本郷通りを経て午後3時20分に駒込の染井墓地に至った。騎馬兵、警視庁の巡査数十名、東京鎮台の一中隊が先頭に立ち、さらに騎馬に先導された馬車で祭官らが続き、岩崎家親戚一同、三菱幹部、佐々木高行、福岡孝(たか)弟(ちか)、谷干城、土方久元らの土佐出身者を含めた政府顕官数百名、銀行などの会社重役、朝廷からの使者、英米公使などの西洋人、愛顧を受けた芸人や力士などを含め5千人余が列した。喪主の長男岩崎久弥は一般の会葬者を5万人と想定し、広大な岩崎邸だけでは手狭とみて隣接する湯島天神境内や近隣一帯の割烹店などを借りて休憩所に充て、6万人分の西洋料理、日本料理、各種菓子などを用意、葬儀のあと立食形式で貴賤を問わず全会葬者に饗応されたというから、一民間人の葬儀としてはまさに空前絶後だった。
 この東京中の語り草になるほどの大葬儀のあと、三菱は弥太郎の弟弥之助が引き継ぎ、その9年後の明治27年に弥太郎の長男久弥が三代目を襲った。
 岩崎久弥は慶応元年生まれ、慶応義塾を卒業後に渡米し、明治24年にペンシルベニア大学を卒業して帰国した俊秀である。29歳の若さで三菱総帥のポストを譲り受け、三菱グループの近代化と事業再編のため三菱合資会社を新たに設立して社長となった。
 久弥はまず、本社の丸の内移転を決行する。日本に招聘された最初の建築家で鹿鳴館やニコライ堂の設計で知られる英国人ジョサイア・コンドルを建築顧問に迎え、丸の内に日本初のオフィスビル「三菱1号館」(現在は復元されて美術館になっている)を建設して本社とした。さらに2号館、3号館とつぎとぎに建て、荒地だった丸の内を一大オフィス街(「一丁倫(ロン)敦(ドン)」と呼ばれた)へと変貌させてゆく。
 そして次に久弥は父弥太郎がわずか2年半しか暮らせなかった邸宅の大改築に着手する。まず近隣の土地を買い足して敷地を倍ほどに広げ、明治29年にはコンドルに白亜の木造洋館と撞球(ビリヤード)場を設計させて日本の選りすぐりの職人により建築、さらに20棟もの書院造りの豪壮な和館(総建坪550坪)を名工・大河喜十郎に依頼して増築し、岩崎家と50人におよぶ使用人たちの生活の場とした。敷地内には屋敷群と庭園のほか茶室、テニス場、馬場と厩舎、使用人住宅、表門には巡査の詰所まであり、総敷地面積は1万5千坪にのぼったというから、これはひとつの“町”といえる巨(おお)大(き)さであったろう。
 その久弥も大正5年、51歳で三菱総帥の座を岩崎小弥太(弥太郎の弟弥之助の長男)に譲り、小岩井牧場などの農牧事業や文化事業のみに専念してこの邸で悠々自適の晩年を迎えようとしていた。大正12年の関東大震災の際に邸宅全体を開放して5千人のひとびとを災禍から救ったことなどは、このころの岩崎家と久弥の人物をよく伝える挿話である。
 ところが、昭和20年の敗戦が岩崎家を、そしてこの豪壮な岩崎邸をも奈落に突き落とすことになる。軍需産業の中核を担った三菱は戦犯扱いとなり岩崎家は財産のほとんどをGHQに没収されたばかりか、米国陸軍情報部のキャノン機関が稀少な洋館を持つ岩崎邸を本部として接収、10人の若い将校たちが邸全体を占拠したのである。岩崎一家は“折半住居者”として和館の一角に住まうことを命じられた。
 「夜中に庭をかけまわる女の嬌声―私どもはそのたびに耳をおおいました。兵隊たちはピストルの練習に空いた罐詰の罐をならべて、一日中、パンパンと打ちつづけます。それ弾丸(だま)が『折半住居者』のわれわれの方まで飛んできて、窓ガラスの割れることもあり、ピストル音がきこえだすとビクビクしていました」「『七十年も住んだこの家、不義者一人出さなかったこの家を、女郎屋にしてしまった』と、ただひとこと、父がくやし涙を出したことがありました」
 これは、久弥の長女としてこの豪邸に生まれ、外交官沢田兼三に嫁し、敗戦後にエリザベス・サンダース・ホームを創設して多くの混血孤児を育てた沢田美喜の自伝『黒い肌と白い心‐サンダース・ホームへの道』にあるくだりだが、土佐の気風と岩崎家代々の家風を誇りとした齢(よわい)八十を数える当主久弥の鬱勃(うつぼつ)たる憤怒が胸を搏(う)つ。
 この邸宅はその後、昭和27年に財産税で物納され、現在は東京都所有となり「旧岩崎邸庭園」として一般公開されている。敷地は当時の3分の1、和館もほとんどが取り壊されて3棟を残すのみとなっているが、重文指定の壮麗な洋館、和館、巨木に囲まれた広遠な芝園は往時をしのばせるに足る存在感である。
 土佐の微禄の下級武士から一代で大三菱を興した岩崎弥太郎、その長男久弥の一族の栄華と落魄の歴史が、ここにはたしかに息づいている。
Text by Shuhei Matsuoka
  単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html

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2015年12月25日

町並み考

 昔日の佇まいをしっかりと残した町並みを見かけることは、日本では本当に稀である。
 かつて暮らした場所を訪ねて、ほんの数十年でまるで別の町かと見紛うほどに変貌していて愕然とした経験をもつ人もすくなくないだろう。なぜ日本人はこれほど変化を好み、すぐにリセットしたがるのだろうか。
 この国の美術品や工芸品のレベルはきわめて高く、技の伝統を重んじる点でも世界屈指だろうが、歴史を刻んだ町並みや建物にはなぜかあまり頓着しない。すぐに壊して新しくすることになんの痛痒も感じぬどころか、そのほうが活気があるとでも思い込んでいる風である。
 最近の例でいえば、やっと歴史らしきものができつつあった東京の国立競技場やホテル・オークラをあっさりと、それも大金をかけて建て替える神経は、わたしにはどうも解(げ)せぬ。機能や耐震性で時代に適(あ)わなくなったなら、その部分に知恵をしぼって改修すべきで、そのノウハウこそが持続可能な社会へ転換するための新たな技術力やデザイン力となる。百年を経たものを壊すのは一瞬だが、百年を経た歴史的、文化的価値をもう一度つくり直そうとすれば、やはりまた百年かかるという単純な事実に日本人はなぜ恐怖しないのか。もし京都の木造建築群の多くがありふれた現代建築に建て替えられたら、京都は世界中から激しい非難と痛罵を浴びることになろう。それが正常な神経というものだ。
 だがいっぽうで、次々と壊して新たにつくればその分だけ経済活動は旺盛になり景気がよくなると歓迎するひとびとがいるのも事実だ。が、これほど短絡的でバカげた発想はない。それで得るものと喪うものの比較をしてみるがいい。無駄な開発が一時的に経済指標を押し上げても、すこし長い目で見れば、限りある資源を濫費するばかりか歴史・文化を毀損し、自然環境をも破壊する行為であることは論を俟(ま)たないし、そういった愚挙の果てが足下の日本のありさまではないか。
 残念ながらこの点において、日本人はヨーロッパのひとびとの足元にも及ばぬと断じていいだろう。
 とはいえ、そんな日本にもほんのわずかだが、いい風情の町は残っている。たとえば岡山県の倉敷はそのひとつだ。
 いい、といっても天領として栄えた江戸時代の蔵屋敷がのこる美観地区(「重要伝統的建造物群保存地区」指定)のことだが、戦前に国際連盟からリットン調査団が来日して偶々(たまたま)おとずれた大原美術館とその収蔵品に驚嘆し、水島工業地帯に隣接する格好の爆撃対象ながらこれを灰燼に帰すのは惜しいと爆撃しなかったために残った町並みとされる。
 まだ日本に美術館なぞなかった昭和のはじめ、私財を投じて国内外の一級の美術品を買い集め、日本人に本物を観せたいと壮麗な大原美術館を建築した倉敷の実業家・大原孫三郎の着想と執念、そしてその意志を継いでこれを発展させた息子總一郎の教養と見識に負うことはいうまでもないが、もしリットン卿が本当に大原美術館の価値を正確に報告し、そのためにこの町が爆撃を免れたのだとすれば、かれの炯(けい)眼(がん)にも謝すべきだろう。
 この倉敷ほどではないが、ささやかながらわが高知にもいい町並みが残っている。
 室戸市吉良川町と安芸市の土居廓中である。前者は平成9年10月、後者は平成24年7月に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。安芸市の土居廓中は山内家家老の五藤家が治めた武家の町、室戸市の吉良川町は明治期から昭和中期まで土佐備長炭の産地として栄え、これで財を成した古い商家が並ぶ町である。
 安芸市の土居廓中は、山口県の萩市を思い起こさせる風情がある。
 萩は、いうまでもなく明治維新を先導した長州藩の本拠地であった。吉田松陰、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋らはすべてこの小さな城下町とその近郊に生まれ、松門(しょうもん)(松下村塾派)はのちに天下を獲る。だが、土塀と夏みかんの樹々が印象的な鄙びた武家屋敷群と藩政時代の町並み(武家屋敷群は全国初の「重要伝統的建造物群保存地区」、今年は世界産業遺産にも選定された)のほぼそのままをわれわれが見ることができるのは、維新前に藩庁が瀬戸内側の山口に移り、明治以降も日本海側の萩は捨ておかれ、開発から取り残されたからなのだ。
 土居廓中もまた同様である。安芸市は県都高知市から東へ約40kmと離れており、産業らしきものもない。藩政時代、山内家家老であった五藤氏の小さな城(土居)があり、そのまわりに家臣団の家々が並んでいたのだが、ここも不便な田舎町だったことがさいわいして開発から取り残された。萩ほどではないが、およそ40棟のふるい武家屋敷がまとまって残っており、狭い街路とその両側に自然石の縁石をつかった側溝、土用竹の生垣、安芸川の河原石や古瓦を赤土で固めた練り塀などが往時をしのばせる。
 いっぽうの吉良川町は土居廓中とはまるでちがう町並みである。
 もともと室戸一帯は良材のウバメガシが豊富に自生する土地柄で、明治期に紀州から来た遍路が備長炭の技術を吉良川のひとびとに伝えたとされる。大正年間に入ると土佐備長炭は上方で大評判をとり、これを扱う商家や廻船問屋が軒を連ねるほどにこの町は栄えたのだ。家々は財を成した商家らしく白い土佐漆喰壁に水切り瓦という贅を尽くしたつくりで、倉敷同様に立派な蔵も多い。
 吉良川の町並み(保存指定建造物は160棟)がいまに残った理由も、辺境の地であるため先の戦争で爆撃も受けず、さいわい大火にも見舞われず、戦後も開発から取り残されたからである。燃料が炭から石油やガスへと代わったため戦後はすっかり寂れたが、どしっとした漆喰壁の建築群が辛うじて残ったのだ。
 このうちの一軒に、とりわけ広い敷地に何棟かの屋敷と蔵、そしてよく手入れされた中庭をもつ「蔵空間茶館」という名の瀟洒なカフェ兼遍路宿がある。これを営む感じのよいご夫婦は、父祖から受け継いだこの建築と町並みを愛し、改修して次代に引き継ぐことを自らに課してさまざまなアイデアでこれを実現しつつある。蔵屋敷の落ちついた風情とご夫婦のセンスに惚れこみ、一度宿泊した県外客が二度、三度と訪ねてくるというから驚く。また最近はこの地で土佐備長炭製造を業とする若者がふたたび増え、生産量で紀州備長炭を抜いて日本一になったと聞く。かつての隆盛は望むべくもないが、高級炭として東京の料亭などへのネット販売が好調のようで、あかるい兆しも出てきている。
 さて、京都にふれたついでにいうと、京都が京都たりえている理由について、京都に生まれ育った日本を代表する“知の巨人”梅棹忠夫(1920〜2010)がかつておもしろいことを述べている(『京都の精神』角川文庫)。
 京都は保守的な都市であると思われがちだが、永年、革新政権が君臨していた。革新のシンボルだった蜷川虎三の府知事時代は7期28年も続いたのだ。これは、京都市民が、開発を推し進める政権与党(自民党)に異を唱える革新に行政権力をゆだねることで、京都のミニ東京化を拒んだ結果だという。戦火から免れたこともあるが、日本全国がミニ東京化していくなかで、京都が固有の町並みを残し得た理由はそこにあるというのだ。そして梅棹はこう結論づけている。
 「ことばの通常の意味での革新と保守は、京都においては逆転していたのである」
 千年の都を守ってきた京都市民の端倪(たんげい)すべからざる知性としかいいようがないが、反面で、あの京都ですら市民がつよい意志をもたねば、世界中のひとびとを魅了してやまない町並みもあっけなく消失する危険にさらされていることを暗示している。京都も萩も倉敷も、開発好きでリセット好きの日本人が住むまちであることにちがいはないからだ。
 そう考えると、けっきょくのところ昔日の佇まいを残す町並みや歴史を刻んだ建築をまもれるのは、そこに住まうひとびとや建物オーナー、自治体行政マンらの勁(つよ)い意思と知性であるという、シンプルなところに行きつく。
 土佐人も、負けてはいられない。
    Text by Shuhei Matsuoka
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2015年09月19日

遍路考

 数年前から四国八十八ヶ所巡拝をはじめた大阪の知人(土佐市生まれ)が、来年6月の65歳の誕生日に結願するという。病をえたことが巡拝のきっかけだったようだが、一度に歩き通すわけではないにしろなかなかの健脚だ。先だって高知市内の札所巡拝のおりに再会したが、本人はいたって元気、病も毒気をぬかれて退散したにちがいない。
 四国八十八ヵ所巡りはいまでこそ観光資源として脚光を浴び、かれのようなごくふつうの人びとが国内だけなく海外からもやってきて巡拝を行うようになったが、お遍路には一昔前まではかなり暗いイメージがつきまとっていた。わたしの世代だと、子ども心に暗くおそろしい記憶とともにある。
 ある日の昼下がり、家の門前で突然、鈴の音と念仏を唱える声が聴こえはじめる。もうそれだけで子どもは戦慄するが、家の誰かが気づき、「あら、お遍路さんじゃ」と言いながらそそくさと小銭やら米を包み、それを手渡す役を子どもにさせたりする。早く渡さなければ念仏は永遠に終わりそうにない気配なので大人たちは小走りでことを済ませようとするが、子どもは大人たちのそのような非日常の立ち振る舞いや表情、どこか呪術的な異界の気配にそこはかとない恐怖をおぼえるのだ。
 お遍路さんは菅笠の奥でかるく会釈してお布施を受けとると、念仏もほどほどに次の家のほうに向かい、家の者たちも、なにごともなかったようにやりかけの家事に戻る。「死」の使いがなんの前ぶれもなく突如やってきて、頼みもしないのに玄関先で唱える念仏の気味わるさ、そして汗や埃で薄汚れた白装束のうえにのった菅笠の奥の顔が見えない怖さ。平穏な日常が一瞬静止し、彼岸と此岸の境目に白装束がふいに立ちあらわれ、ほんの数分ののち鈴の音とともに何処(いずこ)かへ去ってゆく一幕の白日夢だった。
 今年で四国霊場開創1200年というからその歴史はふるいが、「御百度を踏む」などの言葉もあるように、ひたすら無心に歩く行為そのものが祈りに通ずると信じられたことから、開祖である弘法大師空海を慕う仏徒らの修行道となった。そして江戸期になると一般民衆の間にも流行(ひろが)り、お伊勢参り、金比羅参り、善光寺参り、西国三十三ヵ所巡礼などとならぶ有名な巡拝ルートのひとつになっていた。
 むろん、ふつうの庶民が全行程360余里(約1,450km)もある巡礼の旅に出るには、それぞれに云うにいわれぬ事情があったろう。不治の病に冒された者、不具の身に生まれた者、心の苦しみをかかえた者、故郷を追われた者、そして罪人も紛れ込んでいた。霊場巡りを生涯の生業(なりわい)とした乞食遍路も少なくなかったようだ。江戸初期には「『へんろ』『かんじん』『せぎょう(施行)』『へんど(辺土)』『ぜんもん(禅門)』など、仏徒とは名ばかりの、おびただしい零落者のむれとなり、あてどなく山野をさまようようになっていったのである」と『日本残酷物語 第一部−貧しき人々のむれ−』(平凡社)にある。これは全国的な乞食遍路の流行を指しているのだが、辺土(辺境)の地、四国の霊場巡りは、江戸期を経て明治期の廃仏毀釈という愚挙をかいくぐって生き延びた八十八寺(札所)の歴代住職ら関係者の努力によってそっくり現在にまで遺った貴重な姿なのである。
 四国霊場巡りという長途の旅程はつまるところ、仏徒の托鉢修行の場であり祈りと信仰のみちであると同時に、零落の世捨人が物乞いしつつかろうじて生きてゆける救済システムであり、あるいはどこかで行き倒れて死ぬための黄泉(よみ)のみちでもあった。いつ野垂れ死んでもお大師さま(弘法大師)のもとに行けるよう死装束を纏(まと)うのはその証しである。そういえば、松本清張の『砂の器』には子連れのハンセン病患者が遍路となって流浪する姿が描かれていたし、失明を苦にして紀州から四国巡礼の旅に出、長浜・雪渓寺門前で行き倒れたわかいころの山本玄峰老師の話を本コラムに書いたこともある。
 しかし一方で、遍路と地元民との交流がさまざまな文物を流通させ地域に根づかせた歴史があったことを忘れてはならない。四国霊場巡拝にはもともと呪術的、宗教的で「死」を想起させる暗いイメージがある反面、四国固有のゆたかな「遍路文化」とも呼べるものがあったのだ。これらのことは史料としてはほとんど存在していないが、地域にはさまざまな言い伝えとして遺っている。
 高知平野の村々では近年までヘンドマイ(遍路米)、ヘンドボウズ(遍路坊主)、ヘンドシンリキ(遍路神力)と呼ばれる稲が栽培されていた。遍路に出た土佐人が、他国の路傍にある実りのよい稲穂を見つけるとそっと二三本を抜き取って頭陀袋にいれて持ち帰ったものが種もみとして広がったものだという。逆に、土佐に来た他国の遍路が田植えの方法などの農業技術を伝えたという話も数多い。漁業技術を遍路が伝えたという例もあり、たとえば紀州からやってきた岡田八太という遍路が安芸の浜でカモメが群れ飛ぶ姿を見てよい漁場だとみてここに住み着き、八太網漁としていまにその名を残している。幡多地方に残る三角式大敷網漁法も江戸期に長門(現山口県)からきた遍路が伝えた漁法だといわれる。
 そのほか、医療技術ではお遍路灸、お大師灸、お遍路鍼などの名が残っており、行き倒れた他国の遍路がお礼にそれらの技術を残してくれたという言い伝えが県内いたるところに残っている。また産業分野では稲生の石灰がよく知られる。江戸後期に下田村稲生(現南国市稲生)で行き倒れた阿波の徳右衛門という遍路が、介抱してくれたお礼に築窯法と製造法を地元に伝え、この技術のおかげで石灰生産は明治以降、土佐の主要産業となってゆく。徳右衛門はその後いったん阿波に帰国したが、石灰製法を他国に漏らした罪に問われるのを恐れてふたたび土佐へ舞い戻り、羽根浦(現室戸市羽根)に住み着いたようだ。
 これらは高知の民俗学者・坂本正夫氏(元高知県立歴史民俗資料館長)が『土佐と南海道』(吉川弘文館)のなかに採録している興味深い例だが、伊野に伝わる手漉き和紙の伝承は、悲劇的な遍路の物語として伝説化している。江戸初期、伊予国宇和郡(現愛媛県宇和島市)生まれの新之丞(しんのじょう)は四国巡礼の途上、土佐郡成山村(現伊野町)で行き倒れた。これを助けたのが、伊野成山に落ちのびていた長宗我部元親の妹、養(よう)甫(ほ)尼(に)である。新之丞は恩返しにと手漉き製紙法をおしえ、養甫尼と安芸三郎左衛門家友(安芸国虎の次男)らはその秘法をもとに土佐七色紙の製造に成功、伊野がのちに一大製紙産地となる礎を築いた。ところが、新之丞が郷里へ旅立つ日、製紙法が他国へ漏れることを恐れた家友は成山村仏ヶ峠でかれを待ち伏せて斬殺するのである。
 これらの言い伝えは遍路文化のほんの一部を垣間見せるだけだが、それでもこのいくつかの例から察するに、他国からやってくる遍路たちは決して厄介者なぞではなく、しばしば知識や技能の伝達者となり、地元民にとって貴重な情報源であったこともうかがえる。そして氏素性もしらぬ流浪者と地元民はいわばゆるやかに共存し、お互いが助け合ってすらいたことがわかる。行き倒れて亡くなった遍路は手あつく葬られ、さいわいに生き残り恩をうけた遍路は身につけた技能や知恵を返礼としてその土地に残し、あるいはそのまま居着いた遍路も少なくなかった。そういったことどもすべてを包含したものが遍路文化なのであり、表舞台にあらわれることのない口伝の民衆史でもある。
 現代に生きるわたしたち四国人のことばや習俗には、はるか千年むかしから行き交った遍路たちの所産が否応なしに染み込んでいるのだろう。
 四国霊場巡りは今年4月に日本文化遺産に認定されたこともあり、ますます人気が出そうだ。季節のよい時期に四国の山や海、木々や草花を眺めながら歩く巡礼の旅は心身をリフレッシュしてくれようし、悲壮感のない現代風の気軽なお遍路さんも、おおいに結構だとおもう(観光バスでやってくる団体遍路は醜悪だが…)。しかし、望郷のおもいを胸に野垂れ死んだ数知れぬ遍路たちの無念、一椀のめしに命をすくわれた乞食遍路の頬をつたう涙、不具の子を連れての巡礼途上ついに路傍に果てた親子遍路の虚(うつ)ろな瞳にもすこしぐらいは想いをはせてみよう。いまでは舗装されてしまった遍路みちの下には、社会からもれ落ちたおおぜいの棄民たちの声なき声、人生が累々として横たわっているのだから。
        Text by Shuhei Matsuoka
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2015年06月19日

田中角栄の亡霊

 前回は47年前に書かれた3つの遺書を題材に、ここ半世紀のあいだに起こった日本人のただならぬ変容と淪落ぶりについて述べたが、今回はその原因について考えてみたい。
 さきごろ北陸新幹線が金沢まで延伸開通して話題となった。東京から金沢や富山に早く行けるようになっても高知に住むわれわれにはあまり関係ないが、それはさておき開通フィーバーが冷めたころ、ちょっとおもしろい新聞記事が目にとまった。
 田中角栄元首相が手書きした北陸新幹線の路線構想図が新潟県内で発見されたという内容で、昭和47年4月に新潟県新井市(現妙高市)の陳情団が目白の田中邸を訪れたとき、当時通産大臣だった角栄自ら北陸新幹線として想定される4ルートを手書きし、「このルートがいいと思っている」と、高崎から六日町を経て直江津を結ぶルートを指し示したという。これは新潟県中部を横断して角栄の地盤である旧新潟3区を通過するルートだが、このころすでに新潟県を縦断する上越新幹線(東京〜新潟間)の工事は着工されていたので、角栄は地元新潟に2本の新幹線を通すことを決め、すでに実行段階に入っていたことになる。
 あからさまな利益誘導が権力者によっていとも簡単に決められてゆく姿が印象的だが、じつはこの構想図が書かれた2ヵ月後の昭和47年6月、自民党総裁選を間近に控えていた田中角栄は満を持して『日本列島改造論』(日刊工業新聞社)を発表する。北陸新幹線の路線構想図を角栄が手ずから書いたとき、同書の原稿はすでに出来上がっていたわけだ。
 さて、本題はここからである。
 周知のように、この『日本列島改造論』は発売とともに一大ブームを巻き起こすことになるが、どうやらこの43年前に世に出たベストセラーこそが、日本人の変容と無残な淪落を決定づける直接的原因になったとみてよさそうなのだ。
 本書の「序にかえて」にはこうある。
 「明治百年をひとつのフシ目にして、都市集中のメリットは、いま明らかにデメリットに変わった。国民がいまなにより求めているのは、(都市の)過密と(地方の)過疎の弊害の同時解消であり、美しく、住みよい国土で将来に不安なく、豊かに暮らしていけることである。そのためには都市集中の奔流を大胆に転換して、民族の活力と日本経済のたくましい余力を日本列島の全域に向けて展開することである。工業の全国的な再配置と知識集約化、全国新幹線と高速自動車道の建設、情報通信網のネットワークの形成などをテーマにして、都市と農村、表日本と裏日本の格差は必ずなくすことができる」
 ひとびとはこの本の一点の曇りもない明快性に魅せられ、そして総理大臣になった田中角栄の力に自らの人生とあかるい未来を仮託し、かれを“今太閤”ともて囃して受け容れたのである。
 本書を改めて読んでみると、ありふれた政治家の政策論とは一味ちがい、その内容の精緻さにおどろかされる。全国を網羅する新幹線網(高知にも四国新幹線が伸びる計画となっている)、高速自動車道路網、3本の本四架橋などにより日本を「一日交通圏、一日経済圏に再編成する」(同書)というのが眼目で、データと数字にあふれ、きわめて具体的なのだ。
 田中角栄をコンピュータ付きブルドーザーとは誰が云ったか知らないが、いうまでもなくそのCPU役を担ったのは霞ヶ関の官僚たちだった。総理大臣になった角栄はその官僚たちを手足のごとく使い、日本列島改造をパワフルなブルドーザーよろしく一気に実現させてゆく。
 序文に書かれた角栄のことばに嘘はなく、かれの目指すところは大都市の過密と地方の過疎の解消、そして住みよい日本の創出であったのだろう。しかし、角栄の肚(はら)にはあきらかにもうひとつの目論見があった。かれは建設会社をはじめたわかいころから、「土地」は巨大なカネをつくるもっとも効率的な手段になるということを熟知していた。カネは、いうまでもなく、権力である。
 結果、このちいさな島国になにが起こったか。道路、新幹線、駅施設などが予定される周辺の土地を先行取得しようと目論む連中が雲霞(うんか)のごとく群れ出て、角栄の読みどおり激しい地価高騰が全国規模で起きはじめる。たしかに昭和30年代からの高度成長期に地価は騰(あ)がりはじめてはいたが、一億万民を土地投機熱に投じたのは、まちがいなく『日本列島改造論』の発刊とその実行がきっかけだった。
 かくして昭和50年代から未曾有の公共投資ブームが訪れ、日本国中に土建業者があふれ、ちいさな国土にひたすらコンクリートが流しこまれてゆく。一方で、株価上昇と地価高騰が日本経済を実体以上に膨張させ、社会の隅々にまで“カネがすべて”の拝金主義がはびこり、ひとびとの精神が腐食しはじめる。当の田中角栄はほどなくして立花隆レポートで土地転がしによる金脈を暴かれ、ロッキード事件で逮捕されるのだが、皮肉なことに日本列島改造によって地方はますます過疎化して疲弊し、首都圏などの都市部がますます巨大化、過密化していったのは周知のとおりだ。つまり、かれと取り巻きの官僚たちは政策的過ちのみならず、人道的過ちをも犯してしまったということになるだろう。
 それでも、バブル経済崩壊を奇貨としてそれまでとは逆方向に大きく舵を切ればまだよかった。だが日本はどこまでもツイてなかった。バブル経済絶頂期の1989年、つまりバブル経済崩壊の前年にはじまった日米構造協議が火に油を注いだのだ。
 アメリカからの強い要求により、10年間で430兆円という公共投資が日本経済の生産性を高めないような土木事業に向けられ、1994年にはさらに200兆円追加させられて最終的には630兆円の公共投資が実行される。バブル崩壊後の深刻な不況下、景気対策の名目で巨額の公共投資はつづき、その多くは地方に押しつけられたため国・地方自治体ともに莫大な借金を抱え沈んでいったのである。金持ちになりすぎ調子にのりすぎた属国日本へ宗主国アメリカがすえたお灸は、それほど強烈だったのだ。
 ところで、さいきん「増田レポート」(日本創生会議・人口減少問題検討分科会の報告)とその新書版『地方消滅』(中公新書)が世間の耳目をあつめているのをご存知だろうか。
 建設官僚から岩手県知事を3期、総務大臣も務めた地方行政のプロが「896の市町村が消える」というのだから穏やかではない。日本創生会議座長である著者の増田寛也氏は、人口減少を国家的大損失とみなし−わたしなどドイツやフランス並みに人口が減ればずっと住みやすい国になれるとおもうが−東京一極集中を是正するために人口20万人以上の地方中核都市に重点的に投資し、それ以外の弱小自治体は財政的に支えるのは無理なので消滅やむなしとする「選択と集中」で日本を創生せよと説く。
 予想数字やデータを多用してセンセーショナルな論理を組み立てている点、トップダウン方式の東京一極集中是正と地方中核都市構想などはまさに「日本列島改造論」と瓜二つ。増田氏は「日本列島改造論」について「…一時的に東京への人口流入を抑える効果はあったものの、いずれの政策も中央政府の財政支出によってハードの整備を進めるという側面が大きかったため、地方の自律的な雇用拡大と人口維持にはつながらなかった」と簡単にふれているだけだが、わたしには田中角栄の亡霊が40数年のときを経て蘇えろうとしているとしか思えない。人の精神(こころ)や生活の質、歴史や文化や自然といった数字では表せないきわめて重要なファクターに価値を見いださず、国際競争力や“大国幻想”に凝り固まった視野狭窄の霞ヶ関的発想こそ、両者に通底する本質だからだ。
 田中角栄と官僚たちが推し進めた日本列島改造がトリガーとなって日本全体をまるごと拝金社会に貶(おとし)め、われわれ日本人から健康な精神と質実さを奪い去ってしまったことは、いくら悔やんでも悔やみきれるものではない。が、だからといって、過去の為政者や役人らの過ちをいまさら嘆いても、これは詮ないことだ。
 明治維新からちょうど150年、東京の机上で構想される空論に振りまわされるのではなく、地域住民自らがリスクを負って政策や制度を選びとる時代が来たのかもしれない。
   Text by Shuhei Matsuoka
 単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html


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