2015年03月15日

3つの遺書

 高知のような辺境の県に住んでいると、大都市生活では見えにくい日本の構造的欠陥を目の当たりにして、うんざりすることがすくなくない。地域社会がシンプルだからこそでもあるのだが、擦(す)れっからしのわたしでも驚嘆のあまり言葉をうしなうほどである。
 たとえば、檮原町出身の友人が言うには、檮原にはいま小中学校が1校あるきりだが、かれが子どものころ、なんと小学校だけで9校もあったらしい。ちょっと信じがたい数字なので檮原町役場に確認してみたところ、41年前の昭和49年3月まではたしかに9校ありました、という。町の人口はこの間、およそ半分に減っている。この国の異常なほど急激な経済成長と工業化が農山漁村の若者を吸いあげ、土石流さながら都会へ押し流していった様子がはっきりと見てとれる。
 かつて土佐のチベットと揶揄された檮原だが、いまや立派な道路が整備されて便利になった、しかしふるさとは休耕田や耕作放棄地が広がる一方で、商店も学校もなくなり、うしなったものはおおきいとかれは嘆息する。司馬遼太郎が絶賛した見事な千枚田や雲の上のホテル、温泉、プール、龍馬脱藩の道なども整備され、環境分野でもけっこう頑張っている優等生の檮原町にしてそうなのだ。
 さて、ここで話はすこし外(そ)れる。
 過日、戦後の世相を調べる必要があり大手新聞社発行の浩瀚(こうかん)なムック本『戦後50年』をなにげなく開いたところ、たまたま出てきたのが1968年(昭和43年)のページだった。47年前といえばわたしは小学6年生、当時の新聞記事やニュース写真を懐かしい思いで眺めていると、隅っこに奇妙なタイトルが目にとまった。
 おわびの入水自殺−。
 この年の1月28日、奈良県大和郡山市の通称「下池」で、44歳の母親と73歳の祖母が腰ひもで体をしばり合って入水自殺したという記事だった。長男の工員(19)がこつこつ貯めた金で買ったばかりの小型乗用車を運転中、過ってバイクと衝突、バイクの2人が即死、後ろからきた被害者の弟が失明する事故を起こし、補償問題がこじれた挙句に工員の母と祖母が自殺したのである。そして、つぎのような遺書がのこされていた。
 「大切な息子さんの命を奪い、ほんとうに申し訳ございませんでした。なにひとつさせていただけず、ただ、口ですみません、すみませんといってばかりですからみなさまのお心もおさまらぬことと思います。鬼や畜生とも思われましたでしょう。でも私にはもうどうにもできません。卑きょうとは思いますが、死んでおわびをいたします。私ぐらいが死んでなにになるかとおしかりのことと思いますが、私のせめてもの気持ちです…」
 このちいさな事件の記憶はないが、わたしはこれを読んで感慨にふけっていた。明治や大正の世ではない、ほんの47年前、息子の罪を詫びるために母と祖母が極寒のなか腰ひもで結び合って入水自殺したのである。
 断言してもいいが、このような人たちはいまの日本には存在しない。この半世紀のあいだに、日本人に何がおこったのだろうか。
 ため息混じりに見開きページ全体を眺めていると、右下に見覚えのあるマラソンランナーの姿を見つけた。東京オリンピックの銅メダリスト、円谷幸吉だった。円谷が自殺したのも、この年の1月9日だったのだ。記事にはあの有名な遺書が掲載されていた。
 「父上様、母上様、3日とろろ美味しうございました。干し柿、もちも美味しうございました。敏雄兄、姉上様、おすし美味しうございました。勝美兄、姉上様、ブドウ酒、リンゴ美味しうございました。巌兄、姉上様、しそめし、南ばんづけ美味しうございました。喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。幸造兄、姉上様、往復車に便乗さして戴き有難うございました。モンゴいか美味しうございました。正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。…(中略)…父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れきってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が休まる事なく、御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。幸吉は父母様の側で暮らしとうございました」
 わたしは息をするのも忘れてこれを読み了(お)え、そして、はっとした。この遺書も、わずか47年前のものなのである。
 わたしは、なにかに背中を押されるように、あわててほかの記事を目で追った。昭和43年は東京・府中での3億円事件、東大安田講堂闘争など大事件が多発した戦後史を代表するような一年であったことに改めて驚いたが、ひとつ気になる事件の記事と写真が目に入った。この年の2月、金嬉老事件が起こっていたのである。
 在日朝鮮人の金嬉老は静岡で暴力団員2人をライフル銃で射殺し、寸又峡の旅館に13人の人質をとって立てこもり警察に自ら通報、そして在日朝鮮人に対する警察の暴言と殺害した暴力団員がいかに悪道非道を働いていたかを公表してほしい、その後はダイナマイトで自殺する、と要求した。けっきょく人質はすべて開放したが、4日後に金は記者に扮した警官に取り押さえられた。犯行は一見凶悪だが、金嬉老に世間の同情も寄せられた心にのこる事件で、子どもだったわたしにも微(かす)かな記憶はある。
 公判の最終陳述で、金はこう述べたという。
 「日本の戦争に協力し、それにかり出され、それに協力してその傷跡を背負って、いまなお日本の社会のなかで安定した職業もなく生活の保証もなく、日本のなかでギリギリに生きている、そういう同胞たちのことを深く深く考えてやっていただきたい」
 ムック本には金嬉老が立てこもった部屋の壁の写真も掲載されていた。ライフル銃が立てかけられたその壁に、金は大きな字で遺書を書いていたのだ。
 「罪もない此の家に 大変な迷惑を掛けた事を心から申訳なく思います 此の責任は自分の死によって詫びます お母さん 不幸を許してください」
 わたしは偶然にも47年前に書かれた3つの遺書にふれ、このころの世相に懐かしさを感じつつも、つよい喪失感をおぼえたのだった。そして、この年がちょうど明治百年にあたることにも気がついた。日本が西欧列強からの圧力を受け、維新革命がおこり、封建国家から近代国家へ一歩を踏み出したのが1868年。ちょうど百年を経たこのころの日本には、卑しさのない、真っ当な精神(こころ)をもった日本人(金も当然そのひとりだ)がまだおおぜい存在していたのである。
 ほんの数十年前、日本中の農山漁村には相当おおくの人びとが住み、小中学校もたくさんあった。どの村やまちにもなにがしかの商店街があり、八百屋や魚屋や雑貨屋があって人びとの暮らしを支え、地域コミュニティがしっかりと形成されていた。だからこそ、人様に迷惑をかけない、いわゆる恥の文化が存在していたし、貧しくはあったが人のこころに健康な精神が宿っていたのである。しかしこれらは、いつの間にか雲散霧消してしまった。
 どうやら、ここ数十年のあいだに日本全土を蹂躙した経済至上主義−俗な言葉でいえば拝金主義−というブルドーザーが、たいせつなものどもを根こそぎ持ち去ってしまったような気がする。われわれはまったく無自覚のうちにどこか驕慢になり、節度をうしない、もともと具(そな)わっていた質実さを著しく毀損してしまったようだ。むろん、グローバル経済という怪物が地球上をわがもの顔に跋扈(ばっこ)するいま、これは多かれ少なかれどの国にも見られる現象でもあろう。が、日本ほど矯激で、常軌を逸した例は稀有のはずだ。
 この国の津々浦々で、檮原のようなうつくしいまちや村が知らぬ間に痩せ細り、その多くが消えつつある。そのことと、この半世紀のあいだにおこったただならぬ日本人の変容は完全に軌を一にしているように思える。
 47年前の3つの遺書が、ことの重大さをしずかに語りかけている。
      Text by Shuhei Matsuoka
      単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html

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2014年09月14日

或る革命家の笑顔

 日本における最初の写真(銀板写真)は嘉永元年(1848)にオランダから長崎に渡来し、当地の御用商人・上野俊之丞が日本人としてはじめて写真術を導入した。息子の上野彦馬は日本初の写真店「上野撮影局」を長崎で開業したパイオニアとして知られ、このスタジオでブーツを履いた立ち姿の坂本龍馬(龍馬像のモデル)や散切り頭の高杉晋作、木戸孝允など多くの志士たちが撮影された。
 はげしく時代が動く慶応年間には長崎、大坂、京都、江戸、横浜、箱館といった大都市に写真屋が次々と開業し、明日の命の保証もない侍らが己の姿をこの世に遺そうとこぞって写場へ足を運ぶようになる。幕末は、まさに一大写真ブームの時代でもあった。
 その幕末写真のなかに、一度見たら忘れられない印象的な一枚がある。土佐脱藩浪士、中岡慎太郎の笑顔の写真である。
 さながら休憩中の時代劇俳優かと見紛う現代風なワンショットだが、撮影は京都の祇園に店を構えていた大坂屋与兵衛こと堀与兵衛の写場、撮影日は慶応2年11月24日であることもわかっている。龍馬とともに暗殺される1年ほど前のことだ。帯刀せず脇差だけの正座した秀麗の志士が、片手を顎から頬に当て、白い歯を見せてにっこり微笑んでいる。中岡の右手に坐る人物は何かで削られて判別できないが、これは写場専属モデル(お茶屋の芸妓や女中のアルバイト)で、慎太郎の恋人"おらん"ではない。慎太郎の膝には女性モデルの袖の一部が掛かっているので妙な艶っぽさも漂う。
 じつはこの写真の原版が、奇遇にもNHK『龍馬伝』が放映されていた2010年7月に富山市で見つかった。これを保管していた人物は龍馬の付き人だった峰吉の子孫で、峰吉の死後、妻キンは富山に移り住み、彼女の遺品として代々受け継がれてきたという。最初から右側の女性は削られていたらしいが、当時の湿板写真は薬品を塗ったガラス板(原版)の上に画像を焼き付けているので、その気になれば脇差などで簡単に削れる。
 峰吉は慎太郎と龍馬が暗殺された日にも一緒に近江屋に居たが、龍馬が「軍鶏(しゃも)を食いたい」と言いだし、峰吉が買いに出かけている間に事件は起こった。慎太郎は斬られる前にこの写真原版を峰吉に預けていたことになる。
 龍馬は恋人のお龍とふたりで平然と京の街なかを歩いたほどの“現代人”だが、一方で「われわれ脱藩の者は女性と一緒に写真を撮ってはならぬ」ということもいい、そのような写真が後世に残ることを嫌った。龍馬が磊落(らいらく)の反面に細心さを併せもっていたことがよくわかるが、慎太郎が写真の女性を削ったのは龍馬の忠告を受けたからではないかと、幕末史に詳しい作家宮地佐一郎は中岡慎太郎生誕150年記念講演で述べている。
 いずれにしろ、当時の写真技術では露出時間が数十秒から短くて十数秒といわれ、その間は微動だにできない。したがってどの写真も人物は不自然に緊張した仏頂面に写っており、笑顔の写真がないのはそのためである。なぜ中岡だけが仏頂面ではなく、こぼれるような自然な笑顔で写っているのか、そもそもなぜそれが可能だったのかは分からないが、これこそが日本初の笑顔写真だといわれるゆえんである。そして後世のわれわれが中岡慎太郎という非業に斃れた俊英の素顔を垣間見ることのできる、まことに貴重な一枚でもある。
 
 さて、その中岡慎太郎という人物である。
 中岡の最大の功績は、なんといっても薩長双方から信望をあつめ、ついに両藩の連合を実現させ、一気に討幕への道筋をつけたことである。こう言うと、いやそれは坂本龍馬ではないかという声が聴こえそうだが、じつはそうではない。
 脱藩して長州で活動していた中岡が長州軍の隊長として戦った禁門の変(長州軍は会薩連合軍に破れ京都から敗走)の数ヵ月後の元治元年(1864)11月、薩長両藩が和解し手を結ばねば維新革命はできないという着想をすでに語っている文章が残っている。京での戦(いくさ)のあと石川清之助(当時の変名)こと中岡慎太郎は命からがら長州へ逃げ帰り、そこから仇敵同士である薩長の連合、そして長州派の三条実美と薩摩派の岩倉具視という両実力公家の提携に奔走するのである。そしてその仕上げの時期に薩摩に顔のきく先輩格の龍馬を押したて、肝心の薩長連合締結の場には中岡(このとき九州太宰府に居た)ではなく龍馬が立ち会って朱の裏書をすることになる。そのため後世、龍馬ひとりが薩長連合の立役者のようになり、小説や演劇の主人公としてもて囃され大英雄になってしまった。
 しかし、中岡同様に土佐藩を脱藩した長州派で、慎太郎と龍馬の双方を知悉する田中光顕(中岡亡きあとの陸援隊長)の伝記『伯爵田中青山』には、はっきりとこうある。
 「思ふに坂本と中岡とは車の両輪の如く、長短相補ふて終(つい)に能(よ)く薩長連合の大仕事を仕遂(と)げたが、若(も)し活動の実質より言へば中岡の功遥(はる)かに坂本の上にある事は史家の認むる處(ところ)であるけれども中岡は君子だけに其(そ)の表面の役者としては坂本を推(おし)立てたものである」
 名利をもとめぬ慎太郎が龍馬に功を譲ったために、のちの世に龍馬の影に隠れるようになってしまったのは歴史の皮肉である。
 そしてもうひとつ見逃せない点がある。武力討幕でしか維新回天はありえないことを確信していた中岡は、佐幕派の勢力が依然強く日和見姿勢を崩さない土佐藩を説くため、慶応元年暮れに「時勢論」という有名な論文を書いている。
 この中で中岡は世の傑物として薩藩の西郷隆盛、長藩の桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞を挙げ、薩英戦争と馬関戦争というふたつの攘夷戦争によって両藩は大勢を一新して強力な国づくりを成しており、天下を獲るのは必ず薩長であると述べている。
 「吾思ふに天下近日の内に二藩の命に従ふこと鏡に掛けて見るが如し。…今日の敵国外患、他日より見候へば天下の名灸(めいきゅう)と相成り候へば、実に天下の大功之に過ぎ申さずと存奉り候」(平尾道雄著『中岡慎太郎』白竜社版より)
 近いうちに薩長二藩の天下が来る、その姿が鏡に見えるようだといい、武力による西洋列強からの圧力も後の世から見れば最良のお灸だったとわかるだろう、というのだがらすごい。高杉や久坂との交流から時代の趨勢をこの時期すでに読みきり、後世の眼で見通している若干27歳、おそろしいほどの炯(けい)眼(がん)である。
 そしてこの中岡の卓説はついに板垣退助を動かし、土佐藩の舵を一気に討幕へと切らせる。板垣隊は鳥羽伏見の戦いの2日目になんとか間に合い、土佐はのちに薩長に次ぐ地位を築くことができたのである。慎太郎の才と功をよく識(し)る板垣が「もし慎太郎が生きておれば大久保利通や木戸孝允と肩を並べる明治新政府の指導者になっていたであろう」と最大級の評価を惜しまなかったのも頷けよう。
 一方、龍馬は後藤象二郎と結んで大政奉還を実現させたが、武力討幕には難色を示していた。その龍馬の甘さに、先の見える中岡は切歯扼腕していた。暗殺当夜もそのことで激論となり、迂闊にもしのび寄る刺客に気づかず、剣の達人ふたりがあっさり斬殺されたとみる歴史家もある。中岡絶命の報を受けた岩倉具視は、「自分は片腕をもがれた」と声をあげて哭(な)いたといわれる。
 
 さて、中岡慎太郎を語るうえで忘れてならぬのが、安芸郡北川郷という山間部の農民出身である点だ。中岡家は名望家の大庄屋として苗字帯刀をゆるされていた農民郷士で、慎太郎は北川郷柏木の生家から田野の郡校まで7、8キロの山道を毎日歩いて通い、このころ田野に剣術指南で出張していた武市瑞山に遇(あ)って感化された。そしてのちに武市を慕って高知城下へ出、文武両道の鮮やかな秀才に育ってゆく。高知城下の裕福な商人郷士の出で、学問はないが近代的合理性の萌芽が生まれながらに具(そな)わっていた龍馬とは対照的である。
 慎太郎は庄屋の跡取りでありながら故郷(くに)を棄て国事に奔走した。が、いつも北川郷の農作物の出来を気にかけ、そのような内容の手紙を家族にあて書いていた。柚(ゆず)を植えることを農民らに奨励し、北川郷を日本屈指の柚産地にしたのもかれの功績だと伝えられる。
 眼光するどく人を説いて時代を動かしていった剛毅の反面に、あのさわやかな笑顔に見られる質実さとやさしさを宿した稀有の革命家であった。
    Text by Shuhei Matsuoka
単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html

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2014年07月14日

”土佐の山翁”に訊け

 かつて本コラムに「木を植えるということ」という小論(拙著『風聞異説』にも収録)を書いたことがある。2007年のことである。
 木を植えるということの本質と価値を自分なりに考え、読者の皆さんに提示してみようとおもったのが動機であった。そしてこんな一文で結んだものだ。

 伊庭貞剛の森は愛媛だが、隣接する高知県は森林率が84%で全国一の森林県だというのが自慢である。それはそれで結構なことだが、峻険な四国山脈に分け入り人知れず黙々と木を植え育てていった土佐の先人たちの営為をこそ、誇るべきではないか。
 「志を継ぐ」こと、これこそが木を植えるという行為の本質なのかもしれない。

 わたしがこの小論を脱稿したのは2007年5月。まことに迂闊なことに、”土佐の山翁”福田健次郎氏(1920〜2007)の存在をしらずに書いたのだが、この福田翁こそ、われわれ土佐人が誇るべき”土佐の先人たち”を代表する人物だったことをのちに識ることになる。そして奇遇なことに、わたしが上の一文を書く直前に、翁は88歳で逝去されていたのである。
 福田健次郎―。
 建機レンタルなどを主業務とする四国建設センター(高知市葛島)という会社の創業者で、浦戸湾を守る会、物部川ダム反対運動、緑の党の運動と、高知パルプ生コン事件で知られる山崎圭次氏らと行動をともにし、環境問題にふかくコミットしてきた人物である。そして、知る人ぞ知る土佐の山林王でもあった。
 さいきん、ある本の存在を識り、私家版であるため発行者(健次郎氏のご子息)が経営する会社の方におねがいして一冊落手した。
 『希いは一つ』というタイトルで、「福田健次郎 遺稿集」と副題がついている。昭和40年代から亡くなる直前まで、やむにやまれぬ思いで書きつづけた評論や論文、雑誌への寄稿文などをあつめ、没後に遺族が編集・出版したものである。
 このなかに、木を植えることについての文章がいくつかある。
 福田氏は昭和21年、27歳のとき赤岡町に製氷会社を創業したが、昭和30年頃に建機レンタル会社を新たに興すことを決意し、その創業資金の一部にするため父親から贈与されたばかりの35年生の桧山を収入伐採、その後も80町歩の原生林を資金繰りのために売却した。そのことがずっと気になっていたのだろう、父にたいする罪滅ぼしの気持ちもあって昭和35年ごろから副業として山林を買い足しはじめ、植林をはじめたのである。
 早稲田の理工学部出で林業知識はゼロだったが、試行錯誤を経ながら、見事な山林をつぎつぎと育成していった。昭和40年代には猫も杓子も土地投機に奔(はし)りはじめたが、「土地をただ置いておけば儲かるようなことはしたくない」と浮利を卑しみ、山林投資のみの一点張り。本人にとってそれは、“比較的健全な道楽”でもあったのだ。
 リターンを得るまでに長い時間を要する山林経営がはたして会社経営にメリットとなるのかとも思うが、福田翁独特の理にかなった考えは耳を傾けるに値する。すこし長いが引用しよう。

 化石エネルギーの枯渇と共に現代工業中心社会は終わり、太陽エネルギーに依存する一次産業中心社会へ の回帰は不可避であるとの信念に基づきます。例えば、鉱工業生産高は間違いで、鉱工業加工高と言うべきです。真に生産と言えるのは、太陽光線と葉緑素による光合成、つまり農林漁業だけです。少なくとも2、30年後には一次産業への回帰が始まると確信しています。
 又の理由は、今日は税金抜きに事業経営は語れません。一般に会社の利益は約60%が税金で持って行かれます。ところが社有林の場合、一定の条件付きで植付、撫育、作業道等の出費は単年度或いは数年度で損金処理が認められます。その代わり木材伐出利益には60%の法人課税です。つまり本業の利益のある時に山林投資をし、赤字の時には木材伐出で、会社の安泰を図ろうというわけです。
 又、心情的に林業に魅入られました。どんな建築や構造物も年毎に老朽化しますが、樹木は半永久的に成長を続け、遂には荘厳ともいえる林相に達するからです。明らかに人生は有限と解っているにかかわらず、林内に佇むと木と共に永遠に生きられるような誠に有り難い錯覚を与えてくれます。

 これは平成7年、福田翁76歳のころの雑誌寄稿文からの抜粋である。
 一個の人間のなかにゆたかな知性と感受性が高度に融和した、地方教養人のあるべき姿の一典型がここに見られるではないか。
 福田氏の文章は、明晰な理系人間の例にもれずどれもきわめて論理的で科学的、ふかい思索のあとがうかがえる点で特徴的だ。そしてかなり先駆的でもある。たとえば“「週休三日制」の提案”などはその好例だ。これは『人と自然』という雑誌への寄稿論文だが、掲載されたのは昭和54年(1979)、まだ世の中が週休2日にもなっていない35年も前であることに一驚させられる。そして提案者が会社社長というのだから、どこか飄逸でもある。
 「自然環境を破壊する自由経済の暴走を制御するために」と副題がそえられているので内容は察してもらえると思うが、ひとことでいえば、野放図な自然環境破壊と資源濫費に警鐘を鳴らし、それを食い止めるためには経済の縮小しかありえず、まずは週休3日にして働く時間を減らして生産量を減らすしかないというのが骨子だ。おもしろいのは、農業団体は過酷な「減反」を強いられているのだから、政財界に「工業の減反」を迫るよう求めるのが当然ではないかとしている条(くだり)で、わたしなど思わず膝を拍ったものだ。
 週休3日というと、日本政府だって国民の休日を増やすことに躍起だという人もいるかもしれない。その通りだが、目的が福田氏とは真逆である点に注意しよう。政府の方は、金を使うことを国民に奨励して消費を増大させ、景気浮揚と経済拡大を促したいという相変わらずの近視眼的バブル志向が背景になっているが、福田翁の唱える週休3日制は過剰生産、過剰消費に歯止めをかけ、ワークシェアを促し、経済を段階的に縮小させるという長期的視座を持っている点で対照的だ。はたしてどちらが健康的で先進的な経済の捉え方か、小さな地球というゼロサムのなかでやりくりするしかない現実を正視するか否かの差がそこにあらわれる。
 さてその福田翁、じつは稀代の節約家であったことでも知られている。
 断るまでもないが、節約家というのは、吝嗇(りんしょく)家ではない。節約・倹約は、その人のライフスタイルであり、大人の信念である。そして資源を濫費しない清々しい生き方である。が、吝(けち)は、ミーイズムから一歩も出ない幼児性の発露である。だから真逆の概念、とすらいえるかもしれない。福田翁も「節約とケチとは全く違います。自分に厳しく人にやさしく、その逆がケチです」と喝破しておられる。四国建設センター社長時代、燃費の良い軽自動車にしか乗らず、人は乗せないからと運転席以外の座席をすべて取り払っていたという話を仄聞(きい)たことがあるが、並の節約家とはケタがちがう。
 節約とは、言い換えれば、貪(むさぼ)らぬ生き方であろう。現代のようなゼロサム社会では、ひとりが貪れば、かならずだれかがその割を食う。貪ることは、卑しいことなのである。国家も企業も人も、それはおなじ。福田翁は、きっとそう云いたかったにちがいない。そして翁は、愛する山に入って黙々と木を植えつづけたのである。
 『希いは一つ』の表紙を開くと最初のページに福田翁のおだやかで聡明そうな顔写真と、そこにうつくしい詩がそえられている。最後にご一読を希いたい。

 今日も山行き
 希いは一つ
 無節三丈の万本桧

 せいたちいかんぜよ
 百年後には
 土佐の名物万本桧

 せめて遺したや
 万本桧
 魚梁瀬千本杉の
 後継ぎに
              Text by Shuhei Matsuoka
        単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
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2014年03月11日

吉田茂の「勘」

 昭和のワンマン宰相、とは手垢まみれの野暮な表現でいやだが、吉田茂(1878-1967)という政治家を語るうえの枕としては便利な言葉ではある。
 土佐・宿毛出の自由党土佐派のリーダー竹内綱は、東京の芸者(氏素性は不明)に産ませた五男を友人の実業家・吉田健三に養嗣子としてやった。これがのちの吉田茂だが、東京うまれの神奈川育ちであるかれは生涯にわたり、土佐という土地にほとんど興味をもたなかった。衆議院選挙に立候補するにあたり、神奈川か高知のいずれを選挙区にするが得策か考えていたとき、親戚筋にあたる林譲治から「神奈川だったら冠婚葬祭全部いかなくてはならないけれど、高知なら遠いからそんなことをしないですむ」と言われ、父綱と兄竹内明太郎の地盤だった高知全県区から立候補したに過ぎない。
 もともと外交官で政治家になる気なぞなかった茂にとって選挙は嫌でしかたがない。演説も苦手、自己宣伝は大嫌いという男なのだ。三女和子(現副総理兼財務大臣・麻生太郎の母親)の手記『父 吉田茂』(光文社)には、「東京は神田の生まれでほんとうの江戸っ子だと威張っていたのが突然高知から立つことになり『滑稽だよね、にわか高知県人になっちゃうんだから』と自分で笑っていた」とある。選挙のため不承不承で高知に来たときも、壇上でただ「吉田茂です」とだけしか言わないような珍種の政治家でもあった。高知に立派な銅像まで建っていることを、天国の本人ははたしてどう思っていることか。
 ところで吉田茂の一般的なイメージは、外交官出身、元老牧野伸顕(大久保利通の次男)の女婿、敗戦直後の占領下日本の総理大臣、サンフランシスコ講和条約締結、バカヤロー解散、ワンマン、葉巻と白足袋、傲岸不遜…。和製チャーチルとも称されたが、講和条約締結以降は大衆からもマスコミからも受けがよくなく、7年間にわたった首相在任最後の支持率は20%程度に下がり、あっさり引退して大磯に隠棲した。
 しかし吉田は引退してのちに評価が上がりはじめ、そして不思議なことに、亡くなってからさらに大衆人気が高まった。有史以来はじめて他国に占領された敗戦国日本の舵取りを担うという仕事の過酷さと困難さがひとびとに理解されはじめ、同時に、大衆に媚びず、絶対権力者として君臨したマッカーサーと堂々と対峙し、強靭な精神力で祖国を復興させた功績、先見性、そして深い教養にひとびとが気づいたからだ。
 たとえば吉田が引退後に著した回顧録『回想十年』(全4巻、新潮社)や最晩年の著書『激動の百年史』(白川書院)などを読めば、かれの教養が並みの政治家では及びもつかぬレベルにあることがわかる。とりわけわたしは『激動の百年史』を評価したいが、この名著の序文にちょっとおもしろい一文が記されている。
 「…また、日本は太平洋戦争という大失敗も犯したが、全体としては激しい国際政治の荒波のなかを巧みに舵をとってきた。しかし、それは日本人のすぐれた『勘』のたまものなのである。とくに明治の指導者たちはすぐれた『勘』をもっていた。だから私は事あるごとに『勘』の必要性を説いてきたのである」
 わたしはかつてこの一文を読み、不思議な感覚にとらわれた。「勘」という意外な言葉−。「勘に頼る」「ヤマ勘」という言い方があるように、ふつうは根拠のない当てずっぽうという意味に使われるからだが、どうやらかれのいう「勘」はすこし趣が異なる。経験、知識、歴史観などに裏打ちされたするどい感性、英語のsenseという意味のようである。つまり、すぐれた「勘」とは、good senseということになる。
 あらためて吉田茂関連の本を調べると、かれがいかに「勘」を大事にしたかが窺える。吉田の随筆集『大磯随想』には「外交と勘」という一章をもうけているし、前出の『父 吉田茂』には「『マッカーサーというのはたいへんにカンのいい男だ。頭もいいし、カンもいい』というのは、いつも父がいっていたことです。昔から、「カンのわるいやつだ」というのは、父の最大級のけなし言葉でした」とある。白洲次郎を通して知り合い、吉田に可愛がられた作家・今日出海の『吉田茂』(講談社)には「強い個性と勘で押しまくって来た吉田を…」「私は吉田を勘の鋭い人だと屡々言った」「元帥は吉田の明治人的骨っぽさと直情と勘を信頼したのであろう」等々、きりがないほど出てくる。そういえば同書に、大磯で吉田と会った小林秀雄が “吉田は天才”と言った話が出てくるが、小林の卓越した批評眼が吉田の類まれな「勘」をしてそう評せしめたとすれば、なかなかおもしろい挿話である。
 さてここで、吉田のするどい「勘」が奏功した水際立った一例を引いてみよう。
 終戦後の東西冷戦激化のなか、日本の処遇をめぐって、ソ連など共産圏を含めた全面講和か連合国との単独講和かで国内外の世論が二分して前に進まぬ状況が続いていた。これを打開するため、昭和25年4月、吉田は子飼いの池田勇人蔵相を訪米させ、密かに単独講和への道を探った。GHQには「経済・財政事情の見学」と嘘の報告をしてワシントンとの直接交渉に打って出たのだ。苦痛と忍従を余儀なくされたオキュパイド・ジャパンから一日も早く脱し、独立国とならねば日本の生きていく道はない。これは吉田の信念だった。そして、天も吉田に味方した。池田訪米の2ヶ月半後、金日成率いる北朝鮮軍が韓国に突如として侵攻、朝鮮戦争が勃発したのだ。これにより反共の砦として日本をはやく独立させるべきとの機運がアメリカ(及び連合国)側にもうまれ、昭和26年9月7日、ついに敗戦国日本に比較的寛大なサンフランシスコ講和条約の締結にこぎつける。
 その後、この華やかな政治的成果をピークとして次第に大衆もマスコミも長期政権に飽きはじめ、造船疑獄などの汚職事件も起こり、さまざまな非難を一身に受けて吉田は退陣するが、日本人が飢えと貧困から脱して誇りを取り戻し、世界中が瞠目した奇跡的な経済復興を遂げることができたことをおもえば、吉田ドクトリンがまちがっていなかったことは明白だろう。国を想う明治人の気概と、大衆から理解されずとも頑固一徹に邁進する勇気なくして、廃墟と化した祖国を復興に導くことは不可能だった。そして、史上前例のない国難のなかで吉田が頼りにしたのは、外交官として培った国際感覚と歴史観、そして自らの「勘」だったのである。
 吉田茂は、実父竹内綱の出身地・土佐には、残念ながら縁遠かった。しかし、そんなことは当たり前のことだし、どうでもよいことである。吉田の筋をまげぬ一徹さや世評に左右されぬ凛然たる姿に、本人が意識せずとも、実父から受け継いだイゴッソーの血をわれわれはみることができるからだ。
 そして養父母の存在も忘れてはならない。養父吉田健三は越前福井藩士の出で、幕末にイギリスの軍艦で同国に密航して2年間にわたり彼の地で西洋の知識を得、維新後はジャーディン・マセソン商会の横浜支店長として辣腕をふるい、のちに独立して数々の事業を成功させ財をなした俊才である。40歳で早世したが、いまの金額で数十億円に相当するともいわれる遺産を受け継いだのが、わずか10歳の茂だった。いったい何に使ったのか壮年期までに遺産のほとんどを蕩尽したらしいが、さいわい茂が養父から受け継いだものはカネだけではなかった。また、養母の士(こと)子は『言志四録』で知られる幕末の儒学者佐藤一斎の孫娘で、この聡明な養母からもおおくのことを学んだ。
 吉田茂は、いまとまれば、不世出の政治家であったことがわかる。戦後の政治家で、かれに並ぶ者は皆無である。昭和53年に日本橋三越本店で「生誕百年記念 吉田茂展」が開催され全国から大勢の客を集めたが、そのような政治家が昭和の時代に存在したことすら不思議な気がするほどだ。
 では、吉田茂は凡百の政治家とどこがちがうのか?
 そりゃ君、「勘」だよ。天国で吉田はニヤリとして、そううそぶくにちがいない。ただ惜しむらくは、吉田の美質を見事なほど受け継がなかった孫麻生太郎の「勘」がわるいこと。これはまあ、お祖父ちゃんのせいでもあるまいが。
        Text by Shuhei Matsuoka
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2013年12月03日

地名改竄の愚

 今年(2013年)8月、日本を代表する民俗学者の谷川健一氏が92歳で亡くなった。
 文献や史料の丹念な渉猟だけでなく、離島をふくめ全国をくまなく歩き、そこから紡ぎ出された大胆かつ緻密な推理と研究は圧倒的で、共著をふくめ研究書・著作は膨大であり、毎日出版文化賞、南方熊楠賞、芸術選奨文部大臣賞、そして2007年には文化功労者に選出された。独自の視点で日本の歴史・文化を読み解く手法は「谷川民俗学」とも呼ばれ、在野にあってあれだけの仕事を遺した功績は宮本常一にも比肩される。また、日本民俗学の創始者柳田国男を師としながらもその批判眼はするどく、柳田の学問上の未達域や弱点をみごとに補い、発展させていったことでも知られる碩学であった。
 その谷川氏が死ぬまで憂えつづけたのが、戦後日本の野放図な地名改竄だった。
 自治省がすすめる市町村合併により全国津々浦々で繰り広げられる地名改竄によって、地域の宝ともいえる過去の記憶がプッツリと途絶え、この国の歴史や文化のながれを読み解く手がかりをうしなってしまうことを恐れたのだ。昔からの地名を守るために、氏は自ら神奈川県川崎市に「日本地名研究所」を設立したほどだった。 
 地名から日本の歴史を読み解いた名著『日本の地名』(岩波新書)の結語で谷川氏は、「地名の改竄は歴史の改竄につながる。それは地名を通じて長年培われた日本人の共同感情抹殺であり、日本の伝統に対する挑戦である」と怒りをあらわにしている。
 地名の改竄は、今後の歴史学や民俗学などの学問上のみならず、ひろく日本人のアイデンティティーにおおきな悪影響をあたえることはまちがいあるまい。いわば、日本人自身による日本文化の抹殺行為にほかならぬことを、はたして日本人自身が気づいているのだろうか。
 たとえば、身近な例でいえば、2004年に四国中央市という途方もなく愚劣な名称の市が愛媛県にうまれたことは記憶にあたらしい。この土地のひとびとには申し訳ないが、民度のひくさを図らずも露呈してしまったとしか云いようがない。市が四国のほぼ中央部にあり高速道路の結束点ともなっていることから、将来の道州制を睨み四国の交通拠点にとのおもいを込めたというが、なんという短絡と幼稚さだろうか。
 市町村合併であたらしい市ができることは時代のながれとして仕方がないにしても、もともとこの地には宇摩(うま)という古代より続く由緒ある名称があったのだから、なにも新たに名前を考える必要なぞなく、宇摩市とすればよかったのだ。それを、なにを血迷ったのか宇摩四市町村(川ノ江市、伊予三島市、土居町、新宮村)でつくる宇摩合併協議会は、「馬」を連想させて格好が悪いという理由で切り捨てたという(じっさいに「宇摩」は「馬」から転訛した言葉かもしれない)。そして公募した名称の第4位だった「四国中央市」を強引に採用したのだから、まるで小学生並みの発想である。さいたま市、南アルプス市にならぶ三大珍市名といわれるらしいが、珍などといって嗤(わら)っている場合ではないのだ。
 さて、愛媛県の四国中央市を対岸の火事のごとく傍観、揶揄している場合ではないのが、わが高知県である。その惨状をみれば、とても胸を張れたものではない。
 いわゆる「平成の大合併」で2005年に中村市と幡多郡西土佐村が合併して四万十市となった。四万十川が全国に知られているからそれにあやかってのことだが、中村という旧藩の名でもある由緒ある市名を勝手に改竄してしまったのだ。さらには2006年には幡多郡大正町、十和村と高岡郡窪川町というふるい歴史と由緒ある名を持つ町村が合併して、これまた四万十川にあやかって四万十町にしてしまった。旧中村市にはもともと四万十町があるので、県西部はいたるところ四万十だらけなのだ。もはや怒りをとおり越して、わが県民の民度のひくさにあきれてものが云えぬほどだが、問題はこういった改竄がたんなる愚行では済まされないことだ。
 そう思ってみてみると、昭和30年ごろからの地名改竄はじつにはなはだしい。たとえば高知市中心地でも、藩政時代からつたわる町名がいつの間にか次々と消え去っていることに気づく。町名の由来を知れば、まともな神経の人なら先人の思いや文化の香りを残す名称を簡単に改竄しようなぞとは思わないはずだが。
 帯屋町は帯屋勘助という大商人がいたことからその名がついた。与力町は与力(庶務補佐役)の住まいが多かった地域、鷹匠町はもちろん鷹匠が住んだ一角だった。唐人町は長宗我部元親が秀吉の命で朝鮮の役に参戦したとき、連れ帰った捕虜の武将朴好仁と部下を住まわせたことからきている(かれらは豆腐をつくって販売していたらしい)。築城奉行百々越前の住まいがあった越前町、幡多の藩主だった山内大膳(だいぜん)亮(のすけ)が住んだ大膳町(戦前まで大膳様町と呼ばれたらしい)など、高知城にちかいいわゆる高知郭中(かちゅう)(山内家家臣団の住宅地)の一帯は割合にふるい町名が残っている。
 しかし高知市中心地でも、すっかり名前が変えられた地域がある。北から廿代町、西蓮池町、細工町、西紺屋町、京町、堺町、八百屋町、掛川町などが並ぶ一帯は商人や職人の町だったが、細工町、西紺屋町、八百屋町、掛川町がいつのまにか消滅している。ちなみに、京都の商人が住んだ京町、泉州堺の商人が住んだ堺町、山内一豊と共に遠州掛川からやってきた大工職人らが住んだのが掛川町、鏡川から水を引いて帯や着物を染める職人が多かったのが紺屋町だ。そして今やこの一帯から東側はすべてはりまや町と南はりまや町になってしまい、材木町や紺屋町などは消えてしまった。ちなみに、材木町は二代藩主忠義から材木の専売権を与えられた材木商自らが堀川を通してこのあたりに店と住まいを構えたという。全国的に有名な播磨屋橋にあやかり、旧名を捨て地域一帯をはりまや町と南はりまや町にしてしまった惨状は、県西部が四万十の名で溢れかえる姿に酷似する。
 そういえば、地名改竄を心底憂えた民俗学者谷川健一氏は『日本の地名』で高知県のことにもすこしふれている。
 「地名は私ども日本人の感覚や感情をゆさぶる力をもっている。
その一方で地名を改悪して恬然としている同胞のあることも指摘しない訳にはいかない。さきの沖縄市の例(コザという地名を消滅させ沖縄市にしたこと)がそうであるが、その無神経ぶりは本土の行政地名にもあらわれている。高知県に南国市があるのは苦笑を誘う」
 ペギー葉山の「南国土佐を後にして」が大ヒットしたのは1959年(昭和34年)である。まさにこの年、長岡郡と香美郡の5町村が合併して南国市がうまれた。われわれは半世紀以上にわたり当たり前のようにこの市名を使っているわけだが、あらためて谷川氏に指摘されると、県民のひとりとしてわたしは赤面を禁じえない。
 市町村合併で行政効率を上げるという趣旨はわからぬでもない。しかし、だからといって、わたしたちは無神経であってはならないだろう。勝手気ままに地名を改悪する権利は、わたしたちにはない。わたしたち現代人は、滔々(とうとう)とながれる歴史のほんの一瞬、この世に生をうけたリレー走者であり、先人から受け継いだバトンを後進にわたす責務が与えられていることを忘れてはならない。過去の歴史や文化をわれわれの世代で断絶させる権利は、断じてないのだ。
 ところで、谷川健一氏は熊本県水俣市のうまれ、弟は吉本隆明らと共に60年安保を思想的に牽引した伝説的詩人の谷川雁(1995年没)である。ともに東大出の俊才だが、弟はするどく現代性にこだわり、兄は古代に仕事領域をもとめた点で対照的であった。しかし谷川雁のはげしく先鋭的な言葉の裏側に土着性と民族性が濃厚に胚胎していたこと、そして兄健一が古代から現代の天皇制を照射する鮮やかな光源をもっていたことは偶然ではないだろう。そして言うまでもなく、かれら兄弟がうまれ育った「水俣」という土地を抜きに、かれらを語ることはできない。
 地名はたんなる名称ではなく、歴史と文化の記憶であり、神々の足跡でもある。地名を聴くだけで、わたしは全身にかるい電流が奔(はし)り心が揺さぶられる感覚が生じることすらある。たとえばこの「水俣」がそれだ。苦海浄土の神がその足跡をのこしてしまった、この忘れがたき地名を…。

 
     Text by Shuhei Matsuoka
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2013年10月09日

中内功と金子直吉

 土佐国矢井賀村(現中土佐町)の郷士の倅で、明治の世になってのち、青雲の志を立て商都大阪に渡ったひとりの男がいた。
 名を中内栄といった。
 栄は大阪医学校を出て家庭をもち、その後、一家をあげて新興都市の神戸に出、眼科医として働くようになる。当時はトラホームが流行していて、眼科医はひっぱりだこだった。
 栄の息子秀雄も父親の影響からか医療の世界に興味をもち、大阪薬学専門学校を卒業して薬剤師となる。そして大正5年、神戸を拠点に三井・三菱と肩を並べるほどの大企業グループに躍進していた鈴木商店に就職し、グループ会社の石鹸工場に勤務するようになった。薬学の知識が活かせる仕事だったからだが、鈴木商店の経営トップ・金子直吉が土佐の出で、社員に土佐人が多かったことも理由のひとつだったろう。だがその後、石鹸工場が業績不振となり退社、秀雄は大阪にもどり西成区で小さな薬局を開く。
 この頃、大正11年8月2日、両親の猛反対を押し切って結婚した秀雄に、待望の長男が生まれた。異郷の地で辛苦のすえ一家を興した祖父の栄が、「功(いさお)」と名付けた。「力」という字の上に突き出た部分を下に押し込め「刀」として、力が抜けないようにしたという。のちに日本最大の巨大流通企業グループとなるダイエーの創業者、中内功の誕生である。
 大正15年、功が4歳のとき一家はふたたび神戸に出、父秀雄は「サカエ薬局」を開いた。屋号は祖父の名からとった。功のあとに男の子3人が次々と生まれて家族も6人に増え、1階に店舗と台所、2階に3畳と5畳の和室だけという三角地に建つ小さな家で、貧しさに耐えながら一家は肩を寄せ合うようにして暮らしはじめた。
 功は幼少期、青少年期を神戸のこの家で過ごし、昭和18年に20歳で徴兵される。満州からフィリピンへ転戦、凄絶な飢餓戦線を生き抜いて復員した功は戦後、神戸三宮で薬の闇商売をはじめ、大阪に出て薬問屋「サカエ薬品」を出店。そして昭和32年、小売こそ天職と定め、薬品を中心に化粧品や日用雑貨も売る「主婦の店ダイエー」を千林に出店する。大阪の「大」と祖父の「栄」からその名をとったというこの30坪の店から、ダイエーの奇跡的な快進撃がはじまることになる。
 その後、功はスーパーマーケットを日本で初めてチェーン展開し、数十年で売上高3兆円超、社員数6万人を擁する日本最大の流通グループに成長させ、まさに立志伝中の人物となってゆく。しかしバブル崩壊後、1990年代に入ると無理な拡大路線と多角化がたたり経営不振が顕在化、2001年には実質的破綻が明らかとなり、300社を超える巨大企業グループを一代で築き上げた中内功はついにダイエーグループから追われることになる。
 その中内が、ダイエー破綻が現実味を帯びはじめた2000年1月に日経新聞「私の履歴書」に連載をはじめ、世間を驚かせたことがあった。カリスマといわれ、かれに関する幾多の本や記事が書かれ、しかし自ら筆を執ることのなかった伝説的経営者の渾身の自伝はおおくの読者を獲得し、日経新聞を裏から読む人が増えたといわれたほどだ。同年12月には連載は『流通革命は終わらない−私の履歴書』(日本経済新聞社)として出版された。
 著書の冒頭で中内はこう述べている。
 「生まれは大阪、育ちは神戸だ。祖父の代までは土佐に住んでいたので、土佐の血が流れているのかもしれない。戌(いぬ)年生まれで土佐とくれば、闘争心おう盛な『闘犬=中内』と連想されそうだが、それより海から受けた影響の方がずっと大きい。…(中略)…祖父から受け継いだ土佐特有の海洋性の明るさに、自由で開放的な港町神戸で一層磨きがかかり、元気の源となっている」
 じつはわたしは、連載をはじめたこの時期の中内の脳裏には、5歳の時(昭和2年)に倒産した地元神戸の鈴木商店と金子直吉が存在したのではないかと思っている。
 土佐の吾川郡吾川村(現仁淀川町)に生まれた金子直吉は、新興都市神戸の一介の砂糖商だった鈴木商店を大番頭として日本最大規模の巨大企業グループ(総合商社)へと発展させた。同社は明治末期から大正期、「スエズ運河を通る船の一割はスズキの船」といわれるほどの隆盛をきわめたが、金子ワンマン体制と急激な拡大路線などがあだとなり、昭和恐慌で倒産。のちの神戸製鋼所、日商岩井、石川島播磨重工業、帝人、サッポロビールなど錚々たる企業群の母体となった鈴木商店はあっけなく消滅してしまう。土佐の血が流れる中内の父も一時鈴木商店に雇われていた。そしてその息子、功がつくり上げた巨大流通企業ダイエーは中内が日経新聞に自伝を連載しはじめたころ2兆数千億円という天文学的な負債をかかえ、すでに破綻の危機に瀕していたのである。
 じつは中内自身は阪急グループの創始者小林一三を畏敬しており、そう公言して憚らなかった。阪急電鉄、阪急百貨店、宝塚歌劇団、東宝をつくり上げた大物実業家・小林一三の事業理念を中内は学び、踏襲しようともした。しかしこのふたりは、経営者としてはまるでタイプが違った。山梨の豪商の家に生まれた慶応出のスマートな合理主義者に、中内にある異常なほどの野心や闘争心、果てもない飢餓感はなかった。むしろ中内には、三井・三菱なにするものぞと、大いなる野望と闘争心で日本制覇を目論んだ土佐出身の金子に相通ずるところがあった。
 その中内が、自伝の最後に、慟哭のごとき悲痛な一言を書き遺している。
 「四十年間、楽しいことは何もなかった。これからもそう感じることはない。私の戦争はまだ終わっていない。野火が、心の中で燃え続け、心を焦がす」
 戦友のほとんどを失った地獄のフィリピン戦線から幽鬼のごとく蘇った男は、まるで別人となって戦後の産業界に突如として現れた。存在感のうすい地味で目立たぬ生真面目な青年を、戦争が一匹の鬼に変貌させたのだった。その鬼は、餓鬼道の修羅のなかを脇目もふらず疾駆していった。そして敗軍の老将となっても、戦いをやめようとはしなかった。
 『カリスマ−中内功とダイエーの「戦後」』(佐野眞一著、日経BP社)の中に、中内のうちにある信じがたいほどの“餓鬼”の実相を、あるダイエー幹部が語る場面がある。
 「あれほど、物欲が強い人はいません。ホテルに泊まると、備品のタオルや洗面用具をあらいざらいもち帰る。飛行機に乗るとコーヒーをかきまわす小さなマドラーまで忘れずもっていく。一度“あなたも今や日本を代表する企業の大社長なんですから、そんなみっともないことはやめたらどうですか”と、やんわりたしなめたことがありました。けれど、“いや、このクセだけはなおらないんだ”といって、とりあってくれませんでした」
 身中に巣食うおぞましいほどの強欲と得体の知れぬ狂気に、中内自身も手を焼いていたのかもしれない。
 中内功は、『流通革命は終わらない−私の履歴書』を出して5年後、平成17年(2005年)に83歳で死去した。私財を投じて創設した神戸の流通科学大学に行った帰りに立ち寄った病院で倒れ、意識は戻らぬままだった。田園調布の自宅も芦屋の別宅も差押えとなっていたため、亡骸(なきがら)は大阪市此花区の中内家一族が眠る正蓮寺にそのまま移送され、近親者だけで密葬を済ませた。産業再生機構入りし再建中だったダイエーは、ファウンダー(創業者)中内功の社葬を行わなかった。
 金子と中内には、あまりにも共通点がおおい。土佐人の金子も、自身に流れる土佐の血を誇りにした中内も、ともに新開地神戸で事業を興し、憑かれたように事業拡大に狂奔し、日本制覇どころか世界制覇を目指した。そしてともに天才的事業家で超ワンマン、強烈なカリスマ性があった。死ぬ思いで育て上げた巨大企業グループはしかし最後に破綻し、ともに孤独で惨めな最期をむかえた。
 金子直吉の死去から60年後、中内功はカリスマでも鬼でもない一介の老翁となり、しずかにこの世を去った。
     Text by Shuhei Matsuoka
    単行本『風聞異説』http://www.k-cricket.com/new_publication.html
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2013年08月21日

”法王”と呼ばれた男

 三菱財閥を興した土佐人・岩崎弥太郎の名はだれもが知っているが、岩崎の右腕として三菱の基礎を築き、のちに第3代日銀総裁として辣腕をふるい“日銀の法王”と呼ばれた川田小一郎(1836〜1896)を知るひとは案外にすくないようだ。
 明治末期に北海道にわたって新種のジャガイモ「男爵イモ」(川田男爵から名づけられた)を広めた息子の川田龍吉の方がむしろ知られているのかもしれないが、父小一郎の人物は息子とは比べものにならぬ巨(おお)きさである。
 川田小一郎は、坂本龍馬がうまれた翌年、天保7年(1836年)8月に土佐郡旭村(現高知市旭町)に郷士川田恆之丞(つねのじょう)の二男として生を享けた。藩政時代の小一郎についてはあまり記録も残っておらず無名だったが、明治維新の動乱がかれの名を世に出すことになる。
 慶應4年1月、小笠原唯八を隊長とする土佐藩兵が官軍として伊予松山征伐に赴き、川田小一郎率いる一隊が別子銅山を接収した。このとき住友の大番頭だった広瀬宰平が川田の下を訪れ、「銅山は住友の私有財産であり、生産銅を幕府に献上してきただけです。住友家は勤皇の志篤く、わたくしに従来通り銅山をお任せくだされば、生産量を大幅に増やして国家にお尽くしいたします」と必死に懇願するのである。川田は広瀬の熱意に感じ入り、ふたりで大阪へ赴いて太政官に家行継続を申し入れ、住友へこれを返す許可を得ることができたのだった。
 住友財閥のその後の隆盛はひとえに川田のこの決断にあったといって過言ではなく、住友家と広瀬はその後もながく川田を大恩人として敬い、別子産銅で寿像を建立して顕彰した。また川田がのちに三菱で鉱山経営に才を発揮する素地は、この広瀬との邂逅によってうまれたといってよい。
 そしてこの2年後、明治3年暮れに川田小一郎はある男と運命的に出遭う。岩崎弥太郎である。
 小一郎より2歳年長の弥太郎はこの年の10月に小参事にまで出世し、土佐藩大坂藩邸の代表者となっていた。そして小一郎が藩命により大坂藩邸勤めになったことではじめて弥太郎と出遭ったのだ。
 才にとみ豪放磊落(らいらく)を絵にかいたような二人はまたたくまにうち解け、明治4年の廃藩置県で土佐藩が消滅するや弥太郎は「俺は海運会社をやる、一緒にやらないか」と川田を誘う。そして土佐藩時代から引き継いだ海運商社「九十九(つくも)商会」を「三川(みつかわ)商会」(川田小一郎、石川七財、中川亀之助の三川を合わせて命名)という名の私企業として明治5年にあらたに発足させ、明治6年に正式に弥太郎が代表となって三菱商会と改名する。このときが、現三菱グループの創業といえるだろう。
 川田の三菱での活躍ぶりは凄まじく、石川七財とともに弥太郎の右腕として事業の拡大に奔走する。海運業にくわえ、紀州炭鉱、吉岡銅山、高島炭鉱といった鉱山の経営を成功に導いたことで大財閥への道をひらき、最大の懸案だった三菱汽船と共同運輸との合併(日本郵船会社となる)にも心血を注いだ。総帥の岩崎弥太郎が臨終の際、「事業のことは委細川田氏に聴け」と言い遺したことでも、川田の存在がいかにおおきかったかが分ろう。
 明治18年、岩崎弥太郎は胃がんを患い、52歳で死去。弟の弥之助が三菱の総帥となるや、小一郎は50歳で自らの地位を荘田平五郎にゆずり、金十万円をもらってあっさりと三菱から身を退く。その後は楽隠居の身となり、土佐に帰って遊んだりしていたが、明治22年に初代大蔵大臣の松方正義から請われて第3代日本銀行総裁に就任する。金融にあかるいわけではなかったが、三菱時代の辣腕と盛名を買われての抜擢だった。そして29年11月に死去するまで7年間にわたり君臨し、“日銀の法王”と呼ばれ畏れられた。
 川田小一郎の日銀時代のエピソードは枚挙にいとまがない。
 総裁でありながら株主総会以外には日銀に出勤せず、重役や局長を毎日私邸に呼びつけて指示を出していたという逸話は有名だが、部下のみならず大蔵大臣すら呼びつけたというからそのワンマンぶりは凄まじい。
 福沢諭吉の婿養子で電力界で名を馳せた福沢桃介はこんな逸話を紹介している。
 明治20年、初代首相の伊藤博文は憲法草案をつくるため、子分の伊東巳代(みよ)治(じ)、金子堅太郎、井上毅(こわし)を連れて夏島(神奈川県)の料亭「東屋」にこもって準備作業をしていた。そこに一日、川田が伊藤を訪ねてきた。このとき川田は興にのって、伊東巳代治の体重が16貫あるかないかで伊藤と賭けをやった。実際に計ってみたところ、はたして川田の勝ちとなり、伊藤は平身低頭で謝ったという。ほんの遊びだろうが、一財界人の川田が総理大臣(それも初代!)と五分のつき合いをしていたことを物語るエピソードである。福沢桃介は「渋沢(栄一)、大倉(喜八郎)などでも伊藤、山県に対しては米搗(こめつき)バッタも同様で、全く頭が上がらなかった。然るに独り川田に至っては、幇間然たる挙動など微塵も無く、伊藤、山県と同格のつき合いをやり…」「明治二十九十一月、六十一歳を一期として死ぬるまで、威張って威張って、威張り通した傑物」(『財界人物我観』)と評している。
 しかし川田小一郎は、ただ威張るだけの漢(おとこ)ではなかった。
 かれの真骨頂は、藩閥や門閥などには目もくれずに人物を見抜き登用する点にあった。川田は芸者遊びも人後におちなかったが、自らを“男道楽”と称したほどで、朝野を問わず英才を探しだしては要職に就けて日銀の基盤を強固にしていったのだ。
 その好例が、ペルー銀山事件で尾羽打ち枯らしていた高橋是清(当時39歳)を拾い上げたことだろう。
 日本政府がペルーの廃坑銀山を掴まされた詐欺事件で、特許局長を辞してペルーに渡った高橋は私財を投げ打って文無しになったばかりか、世間からペテン師扱いされ落魄していた。当時、大蔵次官だった田尻稲次郎が「高橋のようなヤマ師を日銀に入れたのはけしからん」と放言したことを聞きつけた川田が怒り、夜中の1時に田尻の家に乗り込んで「拙者、見るところがあって高橋を採用した。監督官たる貴公がこれに異議あるとなれば、拙者も総裁を辞める」とねじ込み、陳謝させて一札を入れさせたエピソードは有名だ。
 高橋是清―。のちに日銀総裁、大蔵大臣、総理大臣にまで栄達する逸材は、名伯楽・川田小一郎あってのものだった。炯眼で剛腹な川田は、初対面の高橋にいきなり山陽鉄道の社長のポストを薦めてかれをあわてさせた。中上川(なかみがわ)彦次郎が三井へ移ったのでその後釜にすえようとしたのだが、当時の山陽鉄道といえばいまのJR西日本にも匹敵する大会社だ。高橋はしかしこれを分不相応として断り、ペルー銀山事件で名を落とした身、丁稚奉公からやらせてほしいと頼むのである。
 川田はますます高橋にほれこみ、当時建築中だった日銀本店ビルの建築所事務主任(日銀正社員でなく嘱託)で雇う。月給百円の安サラリーマンである。川田小一郎総裁の下には、安田財閥総帥の安田善次郎が建築担当重役として座り、技術部長(設計者)が建築家の辰野金吾、その下に高橋是清が配属されたわけだから、のちの世からみればなんとも贅沢な布陣である。
 余談だが、“日本近代建築の父”とも称され、東京駅などの設計でも知られる建築家辰野金吾は、生地の佐賀唐津で高橋の英語の教え子だった。先生が、教え子の下に就いたのだから辰野はさぞやりにくかったろうが、高橋はまるで意に介さず辰野を上司として立て、工事を無事完成に導いた。高橋是清の、非凡さをうかがわせる挿話のひとつだ。
 さて川田小一郎だが、日銀総裁として日清戦争時代の財政処理、戦費調達に貢献し、その功により男爵に叙せられる。これはかつての主家・岩崎家の授爵よりも早い。また明治23年には帝国議会開設と同時に貴族院議員に勅選され、明治29年11月7日、一代の傑物川田小一郎は日銀総裁現職のまま61歳でこの世を去る。
 近代日本に資本主義を根づかせた、“日本の創業者(ファウンダー)”のひとりだった。
       Text by Shuhei Matsuoka
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2013年07月13日

土佐人として

 正直にいうと、わたしは高知という土地があまり好きではない。 
 いや、これは正確ではないかもしれない。高知にうまれ育ったわたしにとって、両親を好きか嫌いかで表せないのと同様に、この地はいわば体の一部のようなものであり、そうであるがゆえに、人がだれしも自己愛と自己嫌悪を併せもつように高知にもそのような感情をもっているという意味においてである。
 わたしは、高校卒業と同時にこの地を離れ、京都、大阪、東京、そして海外にも暮らし、40代に帰郷した。いわゆるUターンだが、ふるさとに帰ったものの、わたしには高知県人に戻ったという感覚はなく、十数年経ったいまでもエトランゼの気分でいる。つまり、生まれ育った高知に完全に同化してはいないということだ。
 ところが、ある言葉の前では、わたしの感情はすこし昂ぶる。自分自身が溶解し、この地に同化してしまうような感覚を味わうことになるのだ。
 それは、「土佐」という一言である。
 この旧(ふる)い呼称はいうまでもなく明治維新をもって正式(行政的)には消え、「高知県」に変更されたわけだが、あらゆる分野で現実には存在し、使われている。藩政時代の呼称をこれほど頻繁かつ堂々と使っている県は他にはないだろう。
 そこで劈頭(へきとう)の一文だが、これを「わたしは土佐という土地が好きである」と言い換えてみることはできる。これならばしっくりくるし、わたしもエトランゼではなくなるのだ。峻険な四国山脈と太平洋に挟まれ、くわえて一国一藩による均質性がつくりあげた独特な気質と風土性が「土佐」という言葉に濃厚にのこっているためだろうか。
 さてこのたび、わたしは『風聞異説』というタイトルの本を上梓した。本誌『季刊高知』に長年連載している同名のエッセーを中心に、わたし自身のブログに書いた評論などをくわえてまとめたもので、42編の物語が収録されている。
 もともと連載を頼まれたとき、季刊誌なのであまり時事的な内容は入れられないとおもい、幕末から明治、大正期ごろまでの「近代」に材を取ることにした。土佐人がおおいに活躍した時期であり、知られざる傑物や立派な人物を多く輩出しているのでなんとか続けられると判断したからだ。そして、見開き2ページという紙幅ではあるが、たんなる身辺瑣事ではなく、リーダブルな(読むに値する)ひとつの物語に仕上げることを自らに課した。それが果たして成功しているかどうかは読者の判断に委ねるしかないが、それなりに時間と労力を費やし、力を入れて書いてきたつもりでいる。
 そう、もうひとつ付け加えておかねばならない。この連載をはじめたとき、考えたことがあった。それは、少々不遜かもしれぬが、土佐人である読者の皆さんに、海のような凛呼たる誇りと真夏の雲のようなあかるい希望を持ってもらいたいということだった。
 明治新政府が東京を首都に決めて統一国家建設を目指したとき、西洋列強から容易に侵されぬ強固な国家像を漠然とだが描き、その実現のために選択した方法が東京を核とした「中央集権システム」だった。これは近代国家建設の初期には効率的で効果的な手法であったが、それが戦後日本にまでそのまま引き継がれ、さらに極端な姿となって現在の社会、文化、さらにはひとびとの精神にまで幣をおよぼす結果をまねいた。なんでもかでも東京から発信され、地方は価値観まで押しつけられ、いわれなき劣等感にさいなまれる。そんなバカなことがあってなるものか。そう、わたしは考えたのだ。
 そして、ふたたび劈頭の一文に戻ろう。
 わたしは、高知が本当に好きなのか?そう自らに問うた。そして「東京」に対応する「高知」は、べつに好きではない。東京に対していない、そのくびきからフリーな「土佐」を好きなのだ、そう感じたのだ。そしてその土佐に、誇りを持とうではないかとおもったのだ。そのひとつの手段、きっかけとして、わたしはこの連載「風聞異説」をはじめた。拙著『風聞異説』をお読みいただければ、土佐と土佐人にたいする既成の概念が揺らぎ、心の中で何かが変化するものと、多少なりの自負はしている。(「季刊高知49号」<単行本『風聞異説』発売記念エッセー>)
      Text by Shuhei Matsuoka
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2013年05月16日

タカクラ・テルの仕事

 先日、高知市内の書店で『日本の名著』(中公新書)という本を購入した。
 1962年に初版が発行され、このちょうど50年後に当たる2012年10月に出た改版である。本としては旧(ふる)いので昔買って自宅のどこかにある可能性もなくはないが、パラパラとめくってみてあまりにおもしろそうだったのだ。
 そして帰宅して読んでみれば案に違(たが)わず、枕頭においては毎夜の愉しみとなったのだが、哲学者・梅原猛氏の簡にして要をえた解説が帯に添えられているのでこれを引けば中身は察してもらえるだろう。
 「この著書は京都学派のリーダーの桑原武夫氏が、明冶以来現代までの日本の名著五十冊を選び、私を含めて氏の最も信頼する学者十五人に論評させたものである。そこには全盛期の京都学派の広く深い知識と批判精神がキラキラ光っている。名著を論じた名著というべきであろうか」
 福沢諭吉『学問のすゝめ』から丸山眞男『日本政治思想史研究』まで、日本の近現代を代表する名著(小説を除く)50冊がならぶ。執筆陣の豪華さ、そして選択眼と諭評の鋭さではちょっと類がないほどで、多少なりとも知的好奇心をお持ちの方はぜひ手元においてほしい一冊だが、そのことはさておき、この本に紹介されている50冊の著者の中に、3人の土佐人がえらばれている。中江兆民『三酔人経綸問答』、幸徳秋水『廿世紀之怪物帝国主義』、そしてタカクラ・テル『新文学入門』である。
 前記ふたりとその名高い論文についてはだれしもが納得するであろう。が、タカクラ・テルとはいったい何者なのか。この『日本の名著』で多田道太郎が論じるタカクラの『新文学入門』を読んでわたしは少なからずショックをうけ、タカクラ・テルなる人物におおいに惹かれるようになった。次の一文は『新文学入門』(1952年、理論社)からの引用である。
 
 文学の作品わ、書くのわ、作家だが、けっきょくは、全読者大衆・全民族が作るものだ。だから、大衆  化ということが、文学のこんぽんのもんだいで、これおはなれて、文学のもんだいお取りあげれば、かな  らず、本質から、それてしまう。
 これまで、文学のもんだいわ、おもに、作品と作家お中心にして、取りあげられた。これわ、さか立ち  した文学論で、文学論わ、すべて読者のもんだいから、出発しなければならないものだと、わたしわ、二  十年ほど前から考えるよーになった。

 断るまでもないが、これはわたしの写し間違いでも変換ミスでもない。こんな不思議な文章にわたしはついぞお目にかかったことはなく、読者諸氏もそれは同感ではないか。さらにタカクラは、日露戦争後にプチブル層が大きくふくれあがり、かれらが夏目漱石という「文壇外」の作家を呼び寄せたとしてこう述べる。
 「ソーセキの人物が、教師であるか、学生であるか、あるいわ、卒業生であるか」ということは「彼の作品が、おもに、そーいう新興プチブル層のあいだで、読まれたという事実お、何より雄弁に、語っている」
 まったくするどい指摘というほかないが、なによりも、この一冊を近代の名著50冊にいれた碩学・桑原武夫の慧眼にはいまさらながら感服である。

 タカクラ・テルは本名を高倉輝豊という。1891年(明治24年)に高知県高岡郡口(くち)神川(ごうのかわ)にうまれ、その後、幡多郡七郷村(ななさとむら)浮(うき)鞭(ぶち)(現大方町)に一家は移り住んだ。中学は愛媛の宇和島中学へ、そして京都の第三高等学校、京都帝国大学文学部へとすすみロシア文学、言語学などをまなんだ。その後も国語国字問題を研究し、独自の日本語文体をも開発した。カタカナの筆名や先にあげた一風変わった文章にその特徴はみてとれるだろう。
 テルは卒業後学究の途をえらび、京大で嘱託職員として勤務していたが、やがて文筆の才に目覚め、劇作家・小説家になる決意をする。そしてロシア革命や河上肇の影響もあり、次第に社会の下層で抑圧されつづける無産階級の農民や労働者とともに闘う文学者・活動家となってゆく。インテリ文学青年が社会運動に投じる姿は明治末期から昭和にかけての日本のひとつの風景でもあったが、テルは凡百のインテリ青年には及びもつかぬ過酷な道を自らえらんで歩みはじめるのだ。
 大正10年、哲学者の土田杏村が、労働をしながら学べる民衆のための学校「信濃自由大学」を創設するやこれに共感し、長野県沓掛星野温泉に移り住み土田と活動をともにするようになる。そしてこの信州時代に、精力的に小説を書きはじめる。テル自身の言葉を借りよう。
 
 わたしは、三つの系統的な長編の創作計画を立てていた。『高瀬川』、『百姓の唄』、『狼』がそれ   で、『高瀬川』では、わたしが京都で実際に見た、勤労(生産)から完全に浮きあがった階層(いわゆる  「上流階級」)のくさりはてた生活を、『百姓の唄』では、農村にはいって初めて知った、当時の農民の  じつにひどい生活と、その出身の女工の、たたかう方法を知らない所からくる、この上なくみじめな悲劇  を、『狼』では、実際に階級闘争をやっている労働者・農民の新しいひどい苦しさと、しかし、そこに初  めてさしている新しい希望を、それぞれ具体的に描こうと企てた。(『狼』あとがきより)
 
 わたしが百万語を弄するより、これを読めばテルの志したものがわかろう。
 しかし長野での充実した日々はながくは続かなかった。『狼』を書いた翌年の1932年(昭和8年)に、「2・4事件」(教員赤化事件)と呼ばれる思想弾圧事件が起こり、テルは検挙され、家族は東京に移送される。そしてはげしい拷問をうけながらも1年半におよぶ獄中生活を耐えぬき、保釈後に自身の代表作ともいえる『大原幽学』『ハコネ用水の話』(のち『箱根用水』と改題)を書き上げるのだ。
 しかしその後も当局の弾圧ははげしさを増し、テルは思想犯として生涯4度も投獄されることになるが、かれにとって忘れようにも忘れえぬできごとが敗戦の前年に起こる。昭和19年に八王子での農業指導を赤化運動だと疑われ投獄されたテルは警視庁正門から脱走し、哲学者三木清宅にかくまわれたことで三木は検挙され獄死するのである。テルはこのことを生涯悔やみ、心にふかい傷を負ったといわれる。
 敗戦後、テルは正式に共産党に入党し、長野県から立候補して衆議院議員、ついで昭和25年に参議院議員に当選するが、翌日にマッカーサー書簡によるレッドパージで議員追放となる。そして翌年、かれはついに日本を捨て中国・ソ連へ亡命、8年間の亡命生活をおくることになるのだ。ちなみに亡命の年に名作『箱根用水』と冒頭で紹介した独創的な『新文学入門』が理論社から発行されたが、保守的な文壇からは当然のように黙殺された。
 昭和34年(1959年)4月、68歳のテルは長い亡命生活にやっとピリオドを打ち、プラハから帰国。その後はさいわいにして長命し、昭和61年に94歳でその壮絶な生涯をとじた。大方町浮鞭には横書きで「タカクラ」とだけ書かれた墓があり、その下にテルはやすらかに眠っている。かれは生前、色紙をたのまれると、好んでこう書いたという。
 <あらしは つよい木を つくる>
 まことにタカクラ・テルらしい、凛呼たる一言だ。

 それにしても、土佐の辺境に生を享けた輝(テ)豊(ル)少年はなぜにタカクラ・テルとなりしか。
 テルの父輝房は僻村や離島をめぐる篤実な医師で、わかいころ自由民権運動の洗礼をうけ、貧乏人からは薬代をとらなかったという理想主義者だった。学費がつづかず高知医学校を中退し、正式な医師ではなかったため一家の生活は苦しく、テルの母も養蚕や馬車引きをして働いた。タカクラ・テルとは、近代化の影に捨ておかれ、あるいはその犠牲となっていった明治期の貧しい民衆社会がうみだした、一個の高貴で強靭なる魂だったのだ。
 選者に特別な意図があったわけではないだろうが、『日本の名著』にえらばれた土佐人3人の著者名をあらためてならべてみると、はっきりとした一筋の思想的潮流がみえてくる。
 自由民権運動の理論的指導者で日本に民主主義思想の種を蒔いた先覚者中江兆民、兆民の弟子として社会改革の緒についた矢先に「大逆事件」で刑死した社会主義者幸徳秋水、そして4度の投獄と非道な弾圧にも屈せず文学者・社会運動家として独創的な仕事を遺したタカクラ・テル。やはりここには、桑原武夫の巧緻な仕掛けが隠されているとみるべきなのか。
 『日本の名著』の初版発行から半世紀、いまやイデオロギーの時代は幕を閉じ、ひとびとは暖衣飽食をむさぼり、あたりまえのような顔で自由を謳歌する。しかし、身命を賭して真に民主的な社会の建設を志した郷土の先人らの血のにじむような営為を、すくなくともわれわれ土佐人は忘れるべきではないだろう。
       Text by Shuhei Matsuoka
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2012年11月30日

馬場辰猪の「気品」

 日本の近・現代を考えるうえで、明治10年と11年はひとつのおおきな転機、いわば分水嶺といってよい。
 明治10年はいうまでもなく西南戦争の勃発であり、維新最大の功労者・西郷隆盛は薩摩の城山に自刃し、鎌倉幕府開闢(かいびゃく)いらい700年の歴史をもつサムライがこの世から消え、事実上の維新革命は終焉する。そしてこの戦争の最中に木戸孝允が病没し、翌11年5月14日には石川県士族の島田一郎らによって、ときの最高権力者・大久保利通が暗殺される。こうして革命第1世代がわずか1年ちょっとのあいだにすべてこの世を去り、これを境に伊藤博文、井上馨、山県有朋、黒田清隆、大隈重信といった第2世代が実権を握っていく。この時期こそ、「“腕力の時代”から、“弁舌の時代”への転換点」(歴史家・萩原延壽)だったのである。
 このような時代のおおきな転換期に、土佐出身の民権家・馬場辰猪(1850〜1888)は2度目の英国留学から帰国した。明治11年5月11日のことである。
 馬場は、明治3年に土佐藩が最初に派遣した海外留学生(眞邉戒作、國澤新九郎、深尾貝作、松井正水、馬場辰猪の五名)のひとりとしてアメリカ経由でロンドンに渡り、明治7年暮れに一時帰国したが再渡英して都合7年間にも及ぶ英国生活を送った。そして、奇しくも、明治新政府の首領であった大久保が暗殺される3日前に帰国したのである。
 馬場辰猪は、群をぬく英語力と最先端の法学・政治学の知識を獲得した、近代国家建設を担う逸材のひとりと目されていた。くわえて紅顔の美青年であり、卓越した弁舌と俊才を兼ね備えていたのだから、天が二物も三物もを与えた類まれな人物だったといえよう。しかし帰国した馬場は、いっさい官職を得ようとはしなかった−立身出世とは「官途に就く」こととほぼ同義語だった時代であることを心にとめおかれたい−。どころか、自由民権運動が全国で沸騰した時期の理論派リーダーとなり、政府批判の先頭に立ったのだ。かれは『天賦人権論』ほかの著作や多くの論文をものし、その活躍のあざやかさは、まさに一頭地をぬくものとなった。
 ところが晩年(といっても30代後半だが)、自由民権運動の牙城であったはずの自由党、そしてその領袖・板垣退助の政治家としてのお粗末さに絶望し脱党、アメリカに活躍の場をもとめて政治亡命―日本人初の政治亡命者だろう―する。そして38歳のわかさで貧困と病のためやせ衰え、フィラデルフィアで客死するのである。ゆたかな才に恵まれながら、あまりに孤独な、文字どおり非業の死だった。
 
 馬場辰猪は、土佐藩士の家庭にうまれ、藩校・文武館を経て、慶應2年に17才で慶應義塾に入塾する。
 福沢諭吉の興した慶應義塾と土佐との関係は浅くない。わけても三菱を興した土佐人・岩崎弥太郎と福沢とは互いの才覚と志を認め合う仲で、のちに姻戚関係をむすんだほどだ。政商の親玉のような弥太郎と啓蒙思想家の諭吉という組み合わせは意外ともとれるが、徒手空拳で一時代を築いた強烈な個性と叛骨心に相通ずるものを互いが感じていたのである。そして三菱は慶應義塾の経営が厳しい時期に経済的援助を行い、慶應義塾は三菱への人材供給機関の役割を果たしていった。それゆえ、明治期はとくに慶應義塾には優秀な土佐人がおおく入塾した。そのひとりが、馬場辰猪だった。
 ちなみに、岩崎弥太郎は長女の春路を嫁がせようとしたほど馬場を買っていたし―春路はけっきょく加藤高明の妻となり、加藤は三菱財閥をバックに総理大臣まで上りつめる―、フィラデルフィアで馬場が病死したとき、ペンシルベニア大学病院に駆けつけた数人の日本人のうちひとりが同大学に留学中だった岩崎久弥(弥太郎の長男)であったことも因縁めいている。
 馬場は福沢の興した慶應義塾の、芝新銭座時代の最初期の秀才だった。福沢は馬場の8回忌(明治29年11月2日、谷中墓地)での追弔辞―犬養毅が代読―の中でこう回想している。
 
 今を去ること凡そ三十年、馬場辰猪君が土佐より出て我慶応義塾に入学せしときは年十七歳、眉目秀英の紅 顔の美少年なりしが、此少年唯顔色の美なるのみに非ず、其天賦の気品如何にも高潔にして心身洗うが如く 一点の曇りを留めず、加うるに文思の緻密なるものありて同窓の先輩に親愛敬重せられた。
           ・・・(中略)・・・
 君は天下の人才にして其期する所も亦大なりと雖も、吾々が特に君に重きを置て忘るゝこと能はざる所のも のは、其気風品格の高尚なるに在り。学者万巻の書を読み百物の理を講ずるも、平生一片の気品なき者は遂 に賤丈夫たるを免れず。君の如きは西洋文明の知識に兼て其精神の真面目を得たる者と云う可し。
 
 いかに福沢が馬場を愛惜したかは、追弔辞とはいえ、この手放しの賛辞でもよくわかる。福沢は馬場の英才のみならず、かれの高尚なる「気品」をことのほか評価していたのだ。
 じつは福沢はこのころ、講演などでしきりに「気品」という言葉を口にしていた。明治も半ばをすぎると慶應義塾も盛名をえて大所帯になったが、反面、学生たちの中に芽生えつつある精神のマンネリズムを福沢は感じはじめていた。そしてそのことへの戒めとして、「気品」という言葉を使うようになっていた。愛弟子であった馬場の「気品」が福沢の意識にはっきりとあったことは、疑う余地のないところだろう。
 たとえば明治29年11月1日、つまり馬場の8回忌の前日、63歳の福沢は芝の紅葉館で慶應出身者を前にこんな演説をおこなっている。

 我党の士に於て特に重んずる所は人生の気品に在り。抑(そもそ)も気品とは英語にあるカラクトルの意味に して、人の気品の如何は尋常一様の徳論の喋々する善悪邪正など云う簡単なる標準を以て律る可からず。況 (いわん)んや法律の如きに於ておや。固より其制裁の及ぶ可き限りに非ず。恰も孟子の云ひし浩然の気に等 しく、之を説明すること甚だ難しと雖も、人にして苟も其気風品格の高尚なるものあるに非ざれば、才智技 倆の如何に拘はらず、君子として世に立つ可らざるの事実は、社会一般の首肯する所なり。

 福沢はこの演説の1年後、大阪の慶応義塾同窓会でも「我が党の士に於て重んずるところは、人生の気品にあり」と述べ、翌31年に出版した『福翁自伝』も、「私の生涯の中(うち)に出来(でか)してみたいと思うところは、全国男女の気品を次第々々に高尚に導いて真実文明の名に恥ずかしくないようにすること」という一文で締めくくっているほどだ。
 ところで、福沢のいう「気品」とはそもそも何なのだろうか。
 福沢自身も「之を説明すること甚だ難し」と云っているが、「立国は私(わたくし)なり、公に非(あら)ざるなり」という有名な書き出しではじまる福沢の『瘠我慢の説』がひとつのヒントになるとわたしは思っている。福沢はこの論文を明治24年11月27日に脱稿したが、10年近くも篋中(きょうちゅう)に秘め、明治34年元旦の時事新報紙上ではじめて公表した。徳川幕府の重臣でありながら恬として恥じることなく明治新政府の顕官となった勝海舟と榎本武揚の出所進退をはげしく批判した一文で、しかるべき地位にある人物ならば、瘠我慢をしてでも筋を通さなければいけないという福沢の思想背景を明瞭にしめしたものだ。
 福沢がこの『瘠我慢の説』を脱稿した明治24年11月のちょうど3年前に、愛弟子の馬場辰猪はアメリカで客死している。馬場は、ある意味では福沢以上に福沢精神を体現した人物であり、生涯にわたり野(や)にあって、一貫した政府批判者としてそのみじかい生を閉じた。この馬場の思想信条をまげぬ狷介で凛乎(りんこ)たる生き方に、福沢は勝や榎本にない「ノブレス・オブリージュ(身分のある者の果たすべき重責)」をみたのではないか、つまり瘠我慢とはノブレス・オブリージュであり、それが福沢のいう「気品」というものだったのではないだろうか。

 さて、明治29年11月2日の谷中墓地―。
 フィラデルフィアの馬場の墓を模した西洋風の墓石の前にはおよそ140人が集まった。弟の馬場胡蝶(文学者・翻訳家)ら家族、そして福沢諭吉、小幡篤次郎、田口卯吉、中上川彦次郎、大石正巳、犬養毅ら慶應、三菱系の人士に交じって、同郷の盟友・中江兆民の姿もそこにあった。土佐藩留学生として馬場にすこし遅れて欧州にわたりフランスにまなんだ兆民中江篤介も、三歳年少の馬場を心から敬愛し、その才と「気品」を愛惜したひとりだった。
       Text by Shuhei Matsuoka
posted by ノブレスオブリージュ at 14:08| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする